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キリスト教エッセー

2018年5月18日 (金)

蟻の街のマリア、尊者エリザベト・マリア北原玲子

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

2018年は5月20日が、聖霊降臨祭(ペンテコステ)の日です。

主イエズス・キリストは福音を宣べ伝え、ご受難と十字架上での死ののち、三日目にご復活され、40日のあいだ福音を宣べ伝えたのち、ご昇天されました。

その後、使徒と弟子たちに聖霊が下り、弟子たちは異言を語った、と<使徒言行録>にあります。

弟子たちは、自身がどの言葉を話したと自覚していたかははっきりしませんが、弟子たちの主イエズスを讃えることばは、ギリシャ人にはギリシャ語で、ローマ人にはラテン語で、各地の方言を主に話す人々にはそれぞれのお国ことばに聴こえた、とあります。

聖霊降臨祭は、使徒たちがユダヤ人、異邦人に関わりなく父なる神、主イエズスと遣わされた聖霊の働きを、弟子たちを通じて天に昇られたイエズスご自身が現れされたことを記念する大祝日です。

聖霊の賜物とは、なんでしょうか。

前回のブログで取り上げた、蟻の町のマリア、尊者エリザベト・マリア北原玲子について、当時の蟻の町の方々との関わりをざっくりご紹介しつつ、聖霊のたまものについて考えてみたいと思います。

尊者エリザベト・マリア北原玲子は、大学教授の娘として生まれ、先の大戦の困難な時代にも何不自由なく育った「お嬢さん」でした。

妹が通っていた光塩女子学院の送迎の時、経営母体であるベリス・メルセス宣教修道女会の修道女に出会います。

これがきっかけで、北原玲子(きたはらさとこ)は、カトリックの洗礼を受け、翌々日には堅信の秘蹟も受けて、ベリス・メルセス宣教修道女会の修道女を目指します。

が、修練院入りの数日前に喀血し、肺結核であることが判明。修道女への夢は儚く消えてしまいました。

その後、父の死により、姉の嫁ぎ先である浅草橋界隈でいちばん大きな履物屋に移り住みます。

その店先に、コンヴェンツァル・フランシスコ会の名物修道士、「ゼノさん」が現れました。「ゼノさん」は、《ゼノ、死ぬひまない》という著書でも有名な聖母の騎士修道院の修道士で、戦災孤児を一人でも多く助けたいと、当時、全国を飛び回っていました。

北原怜子の帯に掛かったロザリオを見て、ゼノさんは彼女に、「貧しい人のためにお祈りください」と言って、そそくさと去ってしまいました。

北原怜子はこの出会いに何かみ恵みを感じて、ゼノさんを探します。そして、蟻の街と呼ばれた、墨田公園と言問橋の近くの集落でゼノさんと運命の再会を果たします。


↓尊者エリザベト・マリア北原怜子の「収集鑑札」(蟻の町教会、カトリック潮見教会のHPよりお借りしました。)

Shiomi3

その後数年間、小沢求、松井桃楼らがまとめ役となって結成された廃品回収業者集団「蟻の会」の居住地、蟻の町で子どもらの教師ともなり、共に廃品回収業を手伝うなど、奉献者としての生活を続けました。

が、持病の結核が悪化し、地方での静養を余儀なくされました。療養中も蟻の町が忘れられず、祈り続けたあまり、病んだ身体のまま蟻の町へと戻って来てしまいます。

戻った時には、蟻の町の教会運営に協力する信徒もおり、彼女が行なっていた子どもらへの教育活動などは、他の信徒が引き継いだ後でした。

蟻の町に、自分の居場所がなくなった。彼女はすごく、落胆したと思います。そこで「蟻の会」の役員らは、北原怜子に蟻の町での療養を勧めました。

そこで、北原怜子は一人の病人として蟻の町の住人になりました。

当時は不治の病と呼ばれた結核を患い、病んだ身を横たえているだけにも関わらず、北原怜子の笑顔は人々の心に回心をもたらしました。

彼女の影響を受けて、蟻の町のまとめ役だった人々の中から10人以上が洗礼を受けました。

北原怜子の最大の功績は、笑顔と祈りです。

蟻の町の人々は当時、2500万円を東京都に支払い、月島8号埋立地に集団転居するよう、求められていました。

まとめ役の人々とてそんな大金を調達するアテもなく、廃品回収業で細々と暮らす生活の明日を憂える以外に何もできない日々に追われていました。

北原怜子は病床にあって、「二千五百万円」と達筆な字で紙を貼り、蟻の町の人々の唯一の資産である「人と人とのつながりある生活」が続けられるよう、祈り続けました。また、明日を憂うる「蟻の会」の役員らの見舞いに、どんな日でも笑顔で接し続けました。

「蟻の会」の人々は、その笑顔に癒され、警察力による突然の追い出しに怯える人々と共に、日々、廃品回収業を続けたと伝えられているようです。

彼女の祈りはかないました。ある日、蟻の会のまとめ役らが役所に呼ばれました。役人の机の上には「蟻の町のマリア」の本がおかれていました。

そして、役人は「1500万円を無利子で貸与し、3年で分割払いして、月島8号埋立地への移転に同意」という条件を提示したのです。

蟻の町の存続という、自らのいのちを捧げた祈りがかなったことを知った北原怜子は、その数日後になくなりました。1959年、享年28歳の若さでした。

北原怜子の主イエズスへの一途な愛に支えられた笑顔と祈りが、キリスト教への嫌悪感が伝統的に根強い日本で花ひらいたことこそ奇跡、だと思います。

その後、日本の社会福祉制度が順次整備され、1988年に廃品回収業者の集まりであった「蟻の会」は解散しました。

戦後の混乱期、東京など空襲、原爆被災地には極貧の状態におかれた人々がいました。中でも、空襲や原爆被害などで両親を失い「浮浪児」と呼ばれた、ホームレス化した子どもらが大勢いました。

子どもたちの多くは、病い、寒さ、餓え、警察などによる「浮浪児狩り」や人身売買被害に遭い、生命を失ったと思われます。

どんな手段であれ運よく生き延びた人々、「孤児院」と呼ばれた養護施設に入所して大人になれたのは、ほんの一握りの幸運な子どもたちだったでしょう。

尊者エリザベト・マリア北原玲子は、自らの生命を当時、いちばん貧しく、誰からも蔑まれていた蟻の街の人々のために捧げました。病んだ身体ときよい魂以外の何も持たず、主イエズスに召された方でした。

わたし達はそれぞれ、主イエズスの召し出しを生きるよう、呼ばれています。それが、司祭、修道者、修道女など、カトリック教会そのものを体現する要職であれ、世の片すみで人知れず奉仕する人であれ、イエズスの前では同じ「造られたいのちの働き」なのでしょう。

だからこそ、あなたもわたしも、それぞれの召し出しの道を探すべく、こうして呼ばれているのです。

尊者エリザベト・マリア北原玲子と聖母マリアの取り次ぎを求めて、祈ります。どうか、このブログを読む方々、そして書いているわたし自身にも、主イエズスの道をお示しください。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年5月15日 (火)

「奇跡の香り」はバラの香り?

(そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、)言われた。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座につかれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
(マルコによる福音書16:15-20、<聖書と典礼>より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

主イエズスがご復活になり、40日間弟子たちの前に姿を現し、天のみ恵みについて弟子たちに語られたのち、天のみ国に弟子たちの前で昇られた、と《新約聖書》に書かれています。

天国に行かれる前に主イエズスは、冒頭の聖句にあるように、洗礼を受け、心から主イエズスを信じる者には「しるし」が伴うと言われました。

冒頭の聖句にある前半の内容は、現代では大司教の命で一定の研修を受けた司祭が行う「悪魔払いミサ(エキソシズム。」、神によって新たにされた心でみ言葉について語ることを意味するのでしょう。

後半の「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず…」は、明らかに悪意ある「自称」友人、知人、上司や教師らとの交流が避けられない現代にあっても、イエズス・キリストのみ恵みと愛に守られた生き方を踏み外さない意志を保てる、ということだと私は思います。

5月は聖母月でもあります。聖母のみ恵みといえば「バラのような香りがただよう」という奇跡が有名です。

日本のカトリック教会では、個人的な奇跡を体験した方、み恵みを頂いた信徒や宣教者の確率はとても高いように思われます。

先日、ある方のお葬式に立ち会ったシスターが「蘭麝香のような言葉では言い尽くしがたい香り」が不意にただよったのを感じた、とフェイスブックで言っておられました。

わたしもたった一度だけ「ばらに似た香り」のみ恵みをいただいたことがあります。

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父さまの物語にもありましたが、聖母のみ恵みが訪れた時の香りは、「農薬を一切使用していない状態で、野ばらのつぼみが花咲く、まさにその朝の瞬間にただよう強い香り」に似ている感じがするというだけで、何の花の香りに似ていると断言できるものではありません。

わたしは、そのみ恵みを頂いてから、そのとき働いていた会社を辞める決意をしました。聖母がいつもわたしの祈りをイエズスに執り成しておられるのなら、たとえ困難な日々が待ち受けていても恐れることはない、と明日を信じられると思えるようになり、不安症状が発達障害で強いにも関わらず、不必要な不安に駆られることが少なくなったのです。

いろいろなことがありましたが、これから新しい第二の人生を踏み出せそうな気がしています。

カトリック教会で、公的に崇敬を認める「奇跡」は、秋田の聖母像が涙をながされ、特定のシスターにメッセージを与えられたように、それぞれの教区がローマ教会の認可を得て「信徒がその奇跡的現象が「カトリック教会の教え」を豊かに宣べ伝え」「使徒伝承の福音宣教の一助となる」ものでなければなりません。

また、修道会、観想修道院の設立、宣教活動などに祈りで貢献したり、メッセージを受けた人が「聖人、聖女」とカトリック教会で認められるためには、その生きざまが明らかに「奇跡的」であり、キリストの祝福に満ちていると証言する証言者が大勢あり、なおその死後、少なくともその聖人・聖女候補に祈りの執り成しを願い、二度の奇跡を行ったと公的に証明されなければなりません。

現代では、聖人・聖女候補に関する徹底的な調査報告書が提出されている人の中から、誰かがその候補者に執り成しを願って祈った結果、医学的な「治癒」が不可能な病いが治癒することが列聖の条件となることが多いようです。

医学的な治癒の可否や、治癒状況に関しては、主にローマ教会で委託する医師団が最終決定を下します。

医学的な見地から奇跡が起きたため、列聖された最近の聖人、聖女で有名どころを例にあげてみましょう。

その死の直後に教皇の命で「尊者(奇跡の事例のない聖人の前々段階)」として列聖調査を始め、「神のしもべ(尊者または福者に該当)」として福者として申請されたのが、聖ヨハネパウロ二世です。その後、フランスの修道女のパーキンソン病の奇跡的な治癒が認められて「福者」として列福され、2013年にコスタリカの重病の女性の治癒が奇跡と認められ、聖人となりました。

「神のしもべ」は、その生きざまがイエズス・キリストの教えを伝えるために捧げられた、と広く認められている人であり、その国や地域でその方の生きざまに倣らうことは相応しい、とローマ教会の教理聖省という部署で認められた場合のようです。

その話をどこかでしたら、未信者の方に「じゃあ、カトリック教会って、聖人・聖女候補の方々がうじゃうじゃ大勢いるんですか?」と尋ねられました。

↓尊者エリザベト・マリア北原玲子

Sg_satoko_kitahara まさにその通りで、日本の尊者だけでも、サレジオ修道会日本管区の創設者、「尊者ヴィンセンシオ・チマッティ司祭」、バタ屋集落と呼ばれた蟻の町(墨田公園界隈)のマリア、「神のはしため(神のしもべが女性である場合の呼称)」「殉教者」である「尊者エリザベト・マリア北原玲子」などがいます。(国内の尊者、または列聖調査中などの方でご存知の方がいたら、ご一報ください。)

2017年に「神のしもべ」として、日本では殉教以外の理由づけでは初めて福者となった「ユスト高山右近」もいます。

もし難病、原因不明の病い、治療不可能な状況などで苦しむ方がおられましたら、ぜひ日本の尊者、福者の執り成しでお祈りください。

また、ご縁のある修道院、修道会の尊者候補の方々で、すでに列聖調査報告書を修道会などで提出した方で知っている方がいたら、ぜひ、祈りの執り成しを願ってください。

冒頭の聖句にあったように、信じて洗礼を受けた人には、誰にでも聖霊のみ恵みがあります。それが、個人的な人生を変えるだけの小さなちっちゃな奇跡であるとしても、奇跡に変わりありません。

カトリック教会で列福、列聖された聖人・聖女らは、誰でも父と子と聖霊のみ恵みにすべてをお任せして祈るなら、時に奇跡が起こる、という信仰における事実を時代ごとのニーズに合わせて証しする人々だと思います。

いわば、聖霊のみ恵み、聖母マリアさま、聖ヨセフさまの執り成しは具体的に「こんな風にあるのですよ」と、その生きざま、死にざま、そして死後の事績により分かりやすく証ししてくださるのです。

最後に、「尊者エリザベト・マリア北原玲子の列聖を求める祈り」をご紹介したいと思います。

主よ、あなたは尊者エリザベト・マリア北原玲子に多くの恵みをお与えになりました。

とりわけ東京で戦争の犠牲になり、顧みられなかった貧しい人々に喜びをもって自らを与え、輝く証しのうちに進行生活をおくる力を与えてくださいました。また、けがれなきみ母マリアのご保護のもとに、小さな人々の育成と援助に愛をもって生涯を捧げる恵みをもお与えくださいました。


わたしたちは彼女をとおして示されたあなたの業に心から感謝いたします。

主よ、エリザベト・マリア北原玲子の取り次ぎによって、あなたに真心をもって祈るわたしたちに、言葉と行いの一致のうちに信仰を証ししていく力を与え、あなたを求めるすべての人に信仰の光を与えてください。また、いま信頼をもって祈るわたしたちの願いを聞き入れてください。

わたしたちの主イエス・キリストによって、アーメン。

(主の祈り、アヴェ・マリアの祈り、栄唱を一回ずつ唱える。)

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2018年5月11日 (金)

イエス・キリストの「愛」に抱かれて

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出る者で、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。


(使徒ヨハネの手紙4:7~10)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

「愛」というと、何やらロマンチックなもの、人によってはエロティックなものを思い浮かべるのかも知れません。

哲学的には、パピーラブ(子どもが子犬を愛するように自他の区別ない愛情)、自己愛(自分に対する撞着を自覚する愛情)、利他愛(ギブアンドテイクの中で相手への関心を示す愛情)、性的な愛情(エロース)、そして神が独り子を世に遣わされた無償の愛(アガペー)など、さまざまに分類できる愛が、私たちの中で日々の生活を送る中で常に渦巻いています。

愛は段階を経て、他の人間や動物、自然や環境との関わりの中で徐々に見出すものですが、さまざまな愛が置かれた状況の中で、日々、その時の花を咲かせるもののようです。


イエズス・キリストが言われる「愛」を、世俗の言葉で言うと「自分の意に叶うか、自分の意に反するかに関わりなく、相手に対して真摯に関心を持つ」気持ち、言動を含みます。

誰か自分以外の人間を、自分の意のままに操りたい人はこの世に大勢います。相手が自分の思い通りになる間だけ、相手に関心を持つなら、それはキリスト者であっても利己心に基づく無関心と言えましょう。

全ての事柄を思い通りにしようとするなら、人の心は身勝手と無関心に満ち、やがてその人のたましいが麻痺してしまうでしょう。

↓神の独り子は聖母マリアを通じ、愛そのものとしておいでになった。
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聖マザー・テレサの言われた通り「愛の反対は憎悪ではありません。無関心です。」

もちろん、一人の人が一日にできる、二つの手と日本の足のわざは微々たるものです。とても、地球や人類の未来を変える原動力になるとは思えません。

そうだとしても、私が神に愛されるために生まれたこと、神の愛を誰かと分かち合うため、自分なりに示された道を歩むことの大切さを常に心に留めることは、神の愛に生きることだと思います。

英語で同じ10節を読むと「神は、イエズス・キリストを私たちの罪を取り去るためにお遣わしになった」とあります。

私たちは、原罪を負った状態で生まれ、神に愛され、赦されるために日々を生き続けます。

神に愛され、赦されることがあるのだと知ったたましいは、誰かと神の愛を分かち合わずにはいられません。

神は愛だからです。

愛は、分かち合わないなら宝の持ち腐れです。神を愛するのも、人を愛するのも、わたしがいて、あなたや誰かがいて、分かち合うものです。

愛を分かち合うには、相手への敬意、思いやり、相手の必死さを理解したいという気持ちとともに、自分の言葉で自分を上手に表現できること、相手なりの表現を受け入れられる寛大さが必要になります。

愛は、愛することで報われ、愛ある人を惹きつけ、無関心な傍観者に愛を行う大切さを知らせます。

愛の対象が国や社会など抽象的で、カタチの定かでない相手だと、往々にして幻想ロマンの自己満足に陥りがちになってしまいます。

愛は、具体的に誰に、何を、どのように愛するか、神が聖書のみ言葉を通じて明らかにされたように、明らかな「誰か、何か」なのです。

愛は時に苦痛に満ち、ロマンチックで美しいばかりではないと思います。それでもなお、わたしたちは無関心の中で孤立したまま、闇の中を彷徨うように生き続けることは辛いのです。

暗闇の洞窟に一人っきりで閉じこもり、どれだけ長く生き延びられるか、を実験した人がいるとネットで読みました。6ヶ月近く暗闇の洞窟で耐えた人は、どちらも一つの共通点がありました。

その二人には、友となってくれるネズミが一匹いたのだそうです。そのうち一人は、ネズミを誤って器の蓋の下敷きにしてしまい、殺してしまったことがきっかけで、暗闇の洞窟生活を止めることに決めたそうです。

一匹のネズミですら、孤独を癒す力があります。わたしたちキリスト者は、キリストの愛を孤独と無関心の中で知らないうちにたましいが溺れ死んで行こうとしている人々に、笑顔や何気ないことばを通じて届けるべく、聖母マリアの祈りの執り成しを通じて召されているのです。

愛されたいと思うのではなく、愛したいと思うなら、少しずつですが愛に溢れた人々が闇のような世の中にぼんやりと浮かび上がって見えてくるでしょう。

今日の一日が、あなたにとって愛とあたたかさに満ちた日でありますように。

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2018年5月 8日 (火)

「キリスト教は押しつけがましい」という誤解

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

どういう理論的な根拠、個人的体験があってのことか、訊ねても答えない方が殆どなので、私にはよくわかりませんが、「キリスト教は押しつけがましい」と信じ込んでいる日本人が未だに大勢いるようです。

私がミサに向かう時、通る道には二つのキリスト教の教会があります。

一つは大きな長老会派のプロテスタント教会、もう一つは私の通う小教区のカトリック教会。どちらの教会にも何らかの聖句を張り出したショーウィンドウ型の看板があり、夕暮れになると蛍光灯をつけ、明るくしています。

この看板はみことばのともしびを伝えると同時に、暗い交差点の一隅を照らす照明の役割をも担っています。教会は、時に日没後にも人と車両の出入りが激しく、暗い交差点側に照明がないと交通事故が増えるため、事故防止用の照明としても機能しているのです。

時々、その看板の前で立ち尽くし、「どうしようかな?教会に入ってみようかな?でも、入っていいのかなぁ?」といった風情で悩んでいる方を見かけます。


時に、ミサ時間を調べてからなお、聖句の前で立ち尽くしている方も見かけます。誰かが「どうされました?教会に来たんですか?」などと声をかけてくれるのかぁな?、とでも思っているのかも知れません。

現実に、駅の前でエホバの証人派やモルモン教の宣教師がこれみよがしに宣教活動を行なっているので、伝統会派のキリスト教でも同じようなことをすると考えているのかも知れません。

ある方に「キリスト教は押しつけがましい」というとても古典的なキリスト教差別を言われて、ふと気づきました。

キリスト教に大いに関心のある方も、誰かが「キリスト教、いいですよ。教会にいらっしゃい。」と背中を押してくれるのをボンヤリ待っている方が、この日本には多いのではないか、ということです。

残念ながら、伝統会派のキリスト教はどこの国であれ「キリスト教を押しつける」という現象は存在しません。

自ら「わたしはカトリック教会で洗礼を受けて、信徒になりたいです」と教会に申し出て、司祭に受け入れられれば、一定の教育を経て信徒になるのです。

カトリック教会の幼児洗礼は、主に親の意志で「我が子をキリスト教徒に育てるつもりです。万一の時、葬式は教会でお願いします」という一種の「入会儀式」にすぎません。


日本のお宮参りに似た行事だと思ってください。


幼児洗礼を受けただけの人は、カトリック教会で葬式をしてもらえるし、先祖代々の教会墓地に入る権利を得ますが、それだけです。

欧米と違うのは、日本人信徒で教会に墓地を持つ方は殆どいないことです。

強いて言えば、日本では葬式代が仏教よりずっと安い!、という、とてもキャッシュな評価は信徒でないご家族からも聴きました。

欧米の多くの方々は、今だに家族墓地が教会敷地内にあることも多いし、教会で葬式が出せないのは「何か教会で葬式をしてもらえないような悪事をしたのか?」と勘ぐられるため、洗礼だけ受けた「紙の上では何らかのキリスト教徒」は、未だ多数派でしょう。

南米諸国、南欧、アイルランドなど、カトリックに「紙の上では特に熱心な」社会では、堅信の秘蹟まで受けて「結婚式もカトリック教会で!」という人々も素朴に多いです。

いわゆる「冠婚葬祭&常識的にキリスト教徒」です。

実際に個人の信仰として訊ねると、欧米の方の8~9割が「特に信仰があるわけではない。ビジネスや仕事に有利なら教会に通ってもいいと思っている。クリスマス、イースター、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大祝日&ホリデーシーズンに帰省したら、家族と教会に行くのが習慣だと思っている、家族に信心深い人誰かがいればお付き合いで…」ぐらいです。

かと言って、葬式も無神論で、カフェを貸し切りで「人前式」と言い切れるほど徹底した無神論者にもなれないから洗礼を受けている、という点、葬式仏教の日本人とさほど違いはないのかも知れません。

じゃあ、青年(目安として15歳以上ぐらい)や成人で「日本的な意味合いで無神論、無宗教の方」が、キリスト教に強い関心を持ったらどうしたらいいのでしょうか。

まずは、お近くのキリスト教の教会の雰囲気など、直感で気にいるかどうか考えてから、看板に書かれている宗派、所属をWikipedia、グーグルなどでググってキッチリ調べましょう。


自分がこれから生き、死ぬまでの道として、「この道を歩む」かどうかを決める一大事です。キッチリと調べるべきです。

↓カトリック厚木教会。プレハブっぽい外観とは違い、中に入るとステキで大きなお聖堂です。
Images

雰囲気や建物は良さげで立派だけど、入ってみると新宗教だったということもあり得ます。カトリック教会や修道院という看板はあるけど、どうにも教会らしくないプレハブ建築や木造平屋に小さな十字架がポツンということもあります。

修道院や宣教会ですと、表札に「○○修道院」と小さく書かれているだけのごく普通の民家であることも多いです。

まずは電話するなり、昼間(9:00-11:00、13:00-17:00ぐらい)に直接訪問し、何時にどんな集いがあるのかなど、気になることを訊ねてみましょう。

そして、まずは「行って見る」ことです。「行ってみる」だけなら、殆どの伝統会派の教会が「来るもの拒まず、去る者追わず」です。

私の住む自治体のように、「教会なんていくつあるんだか、寺よりずっと多くて全く分からない」とタクシードライバーが嘆く地域では、ドクターショッピングならぬ「教会ショッピング」状態の方も大勢います。

「どこにしようかな?」と「ただいま、お悩み中」の方が、ある日は長老会派の礼拝に、別の日曜日にはカトリック教会のミサに出席するのだと近隣では聴きます。

これは、欧米などではとても考えられない現象です。

「この週の説教はプロテスタントの牧師さんの方が迫力があった😃」、「クリスマスはミサの方が荘厳でカッコいい💕」など、「どっちにしようか決められない理由づけ、動機づけ」はさまざまです。

どちらにせよ、まずは行ってみてください。洗礼を受けるか受けないかは、本人の意志で自ら司祭、または牧師に申し出るものです。

特に成人の場合、何年通っても本人の申し出がなければ洗礼を勧める人がいない場合もあるでしょう。

カトリック教会のミサで祝福を受ける方の中に、「信徒だけど、聖体拝領が出来ない状態の人」も一定の条件下でいるため、信徒にも、洗礼を受けたカトリックの信徒さんか、未信者さんかの区別がつかない場合があります。

未信者の誰かが自分から「洗礼を受けたいです」と言えば、健康な青年男女~であれば、一年ほど洗礼講座に通ったのち、洗礼が受けられます。男性、女性、性転換の有無などは、受洗において関係ありません。

また、臨終、または死がほぼ確定した病状で洗礼を希望する場合、洗礼講座の受講有無に関係なく「臨終洗礼」を受けることができます。洗礼は、特別な場合(離島まで司祭が臨終洗礼だけのために船をチャーターして行く、特別な遠隔地で多額の交通費が発生する場合の交通費実費)を除き、カトリック教会では洗礼にお金は頂きません。

ただし「洗礼」は、伝統会派の新旧キリスト教で「福音派の中でもその教えに異端の疑いがある。または異端である。」と知られた宗派や他の宗教からの転向でない限り、生涯で一回しか受けられません。

カトリック教会の信徒でも、一定条件下で認められれば結婚(婚姻の秘蹟)なら「再婚」もアリなことを鑑みるに、オトナにとって洗礼は、結婚より厳粛に生死を超えて受け止めるべき事柄なのかもしれません。

実際、長老会派のお隣の教会からカトリックに転向した事例がありました。この時は、長老会派の牧師さんから洗礼証明書を頂いて、伝統会派での洗礼であることを書面で確認したのち、「転向式」と「初聖体式」を行います。

どうするにせよ、キリスト教に興味がある、関心がある、悩みのある時に聖書を読んでいる…方に信徒や司祭、宣教師、牧師など、誰かがキリスト教を強要する、ということは伝統会派では起こり得ません。

戦国時代に聖フランシスコ・ザビエルが伝えたカトリック教会の教えは、江戸時代に徹底的に弾圧されました。2018年6月に世界遺産登録になる「潜伏キリシタン遺跡群」が伝えるように、270年の間、司祭なしにイエス・キリストの教えを守り続けた潜伏キリシタンがいました。

その時代に反キリシタン思想の根幹として徳川幕府が唱えたのが「南蛮のキリシタンの教えを押しつけられるのは迷惑千万なり」という考え方です。

戦国時代は応仁の乱の後、武家やサムライだけの闘争にとどまらず、大規模寺社の武力と経済闘争が複雑に入り組んで起こりました。寺社の「お助け」の恩恵を受ける人がいる一方で、寺社同士の紛争に巻き込まれて命を失い、心身不自由になる人も大勢いました。

欧米でも似た状況にありましたが、それはやがて政治革命と宗教革命、二つの革命へとそれぞれ別の道をたどることで、歳月を経て後、政教分離へと進む原動力になりました。


日本では、宗教勢力と民衆の呼応、武装勢力と地域勢力の呼応で世が乱れ、混乱期の常としてまじないやら占いなどに頼る人が増え、さらに混迷と対立を深めた当時の状況の根本的な立て直し、または新しい考えを求めていました。

そこに、トリエント公会議の開催を求めたイエズス会士らが、「キリストの良い教えを伝える本来の宣教活動をしたい」と言う純粋な信仰を持ち、日本にやってきました。

戦国時代の終わりまで、真面目な仏僧ほどキリスト教に対して好意的だったようです。当時のローマ教会がめざしていた反動的宗教改革の意図を理解した上で、キリスト教が日本に根づけば、仏教寺院もまた宗教改革の技法を学べるのではないか、という考えも当時はあったようです。

そのような仏教寺院側の内部改革の意図もまた、徳川幕府には厄介ごとに思えたのでしょう。

駿河の国の領主だった頃、領内の一向一揆に悩まされた松平家(のちの徳川家)の藩士にしてみれば、「仏教寺院の改革運動?一向一揆の悪夢が蘇るのか?」と思ったのかも知れません。

それゆえ徳川幕府は寺社統制とキリシタン弾圧に特に力を入れ、少数派の一部仏教や神道、幕末には非定住者(被差別階級の人々など)や、領地の枠を超えて連帯する一部の修験道の人々まで、タテ割り行政の邪魔をすると見なされた集団は何であれ徹底弾圧する政治方針を打ち立てました。

「キリシタンは押しつけがましい南蛮、西欧の教え」という考え方の根底には、「お上=政府より、神を大切なものだと考えること自体、不遜である」という、極めて中世的で世俗的な政教一致政策に恋々とする明治維新政府の姿勢が、今も日本社会に随所に残っていることの現れだと思います。

結果として、キリシタン禁教時代が終わって一世紀以上経ったいまも、キリスト教に関心のある方が「教会に一度でも好奇心で訪問して、キリスト教を押し売りされたらどうしよう?」という、現実感も根拠もない恐怖感を持ってしまうのだろうな…と思います。

実際には、訪れた教会が新宗教でなければ、また来いなどとしつこく勧めたり、モノをくれてまで歓心を買おうとすることは滅多にないと思います。

友人のそのまた友人の誘いで大韓長老会系の教会の礼拝に一度だけ行ったうちの息子は、なぜか韓国製の美顔パックを二袋、もらって帰って来たことがあります。今だになぜ聖句のカードなど、キリスト教の教会でくれそうな月並みなプレゼントではなく、成人男子に美顔パックだったのかは謎です。

ちなみに大韓長老会派は、アメリカの長老会派が韓国に定着した韓国最大のプロテスタント会派であり、異端やその疑いのある福音派ではありません。

もし、あなたが聖書を読んでみた、キリスト教に関心があると言うなら、教会に行ってみることをお勧めします。

自分一人で一方的に本を読んだだけでは分からないことも、誰かと直接ことばのやり取りをする、聴いてみる、体験してみることで、自分がどう感じるかがわかるからです。

百聞は一見に如かず、とも言います。ぜひ、伝統会派の教会へ、できればカトリック教会へおいでください。

イエスさまが、あなたを待っておられます。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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2018年5月 4日 (金)

憲法記念日に「平和」を想う

主イエズス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」

わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばのとおり、教会に平和と一致をお与えください。

(聖餐式「教会に平和を願う祈り」より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

聖霊によってイエズス・キリストの使徒に選ばれる前、サウロはイエズスの弟子たちを狙う迫害者であり、殺人者でした。

そんなサウロが、聖霊によってイエズスに出会い、心から回心し、人々に好かれようが、殺されそうになろうが、イエズスへの愛を伝える使徒に変わったシーンは、まさに奇跡です。

サウロの心に、主の平和と愛がとつぜん訪れたのです。その後、聖霊の示された通り、サウロは使徒バルナバから洗礼を受け、イエズスを伝え続けます。

最初の使徒座の礎となったサウロ、使徒パウロは宣教の旅の中で、教会の一致と平和のために多くの書簡を送りました。

使徒パウロの書簡には、イエズス・キリスト以外に何か人間的な派閥があるかのように考えて、「パウロの教えを信じるべきなのか、ペテロの教えを信じるべきなのか」などと論争を繰り広げていた各地方の教会に、イエズス・キリストへの愛、平和と教会の一致を語り続けます。

サウロの言葉を要約すると、「イエズス・キリストこそ、唯一の愛、希望、平和のみなもとであり、一致のみなもと、ただ一つの真理である」に凝縮できると思います。

使徒言行録~の新訳聖書の中には、使徒たちの中にも論争で亀裂が入り、使徒の数人は別の道をたどったなど、さまざまな人間模様と時代の様相に翻弄され続けたことが綿々と書き記されています。

↓私たちの十字架。沖縄戦の最前線に立たされ、苦難、死傷、自決を強いられた「ひめゆり部隊」の女学生たち。まだ、少女だった。

P0153

奇しくもこの原稿を書いている今日は、5月3日の憲法記念日。憲法9条に、是非を問う声も上がっています。

憲法9条には、「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」とあります。

つまり、国際紛争の解決手段として、宣戦布告をし、または何ら事前通告をすることなく戦争を始めたり、「撃たれたから、撃ち返せ」で自衛隊などが武力行使する権利を、国民が政府および自衛隊を含む行政府と司法に対して認めない、という意味です。

憲法とは、行政、議会、司法の暴走を防止するため、国民が行政、議会、司法などの統治機構を監視するための法的基本理念です。憲法の番人は国民全体です。

そのため、政府の中枢組織、行政機関、司法や多数派を取れば有無を言わさせないことも可能は議会が暴走し始めたらそれを止めることも、民主主義国家における国民の義務であり権利です。

このような政治的平和を求めるには、場合によっては泥沼の対話に積極的に飛び込み、中華事変、第二次世界大戦などでの一部の軍部、将兵らによる蛮行に関しては、自らの罪を罪と認め、つぐない、悪しき過去への血の責任を果たすことが求められます。

「わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み…」とミサ奉献文にあるように、教会ですら、どうか神さま、人間同士が集えば何かと罪深いことも多々あるにせよ、信徒一人一人が積み上げた信仰の功徳を顧みてください、と願ってなお、完全な平和が訪れたとは思えない人間模様の修羅場なのです。

平和憲法も基本は同じだと思います。植民地主義の時代の流れにのり、日清、日露戦争を起こし、台湾、朝鮮、満州などを植民地化し、日華事変を起こし、対米戦争へと突入する過程で、将兵同士の戦闘行為の範疇を超えた蛮行に対する国内外への過去の罪は消えません。

それでも、国民一人一人が平和を願うことは大切です。

なぜか、「日々の安逸な生活の維持」を「平和」と勘違いしている国民が多いのは哀しい現実です。平和は、自らの歴史的十字架を担い、今も圧力の下で苦しむ人々に想いを寄せ、武力衝突を最大限回避できるよう、自分たちにできる最善の努力と犠牲を払うことです。

国際平和とは、他の国の人々と誠実に話し合い、時に泥沼の論争となってもひるむことなく武力行使や経済制裁に頼らない対話の道を開き、対話の道のりを保ち、未来にあり得る可能性を予測し、時に必要な犠牲をはらい、どの国ともつながりを保つため、最善の努力をすることから生まれます。

そのためには、日本的なトップダウンのタテ社会を、ボトムアップの自主性と個性を重んずる「タテヨコ社会」へと転換せねばなりません。

統治者にとっては安易で都合のいい「分断統治」は、ヨコのつながりをブツブツと断ち切ってしまうばかりでなく、被支配者である国民の自主的に生きる意欲を喪失させます。

日本社会を、織物に例えて考えてみましょう。縦糸を機織り工場のあるじがいくら上手に張ったところで、横糸を通して生地を織らなくては布地になりません。

その上、縦糸を張るあるじである政権が変わるたびに、縦糸の張り方を変えなければならないので、タテ糸を張る職人である官僚らも、ヨコ糸のことまで手が回りません。

結果として、タテ糸とヨコ糸は模様や絵柄として全く関連のない、連続性も関連性もない柄が織り出されます。

日本社会は、いわば縦糸だけを織り機に張って「さあ、どうだ。これだけ立派に縦糸を張れば、立派な生地が織れるはずだ。横糸である国民を思い通りに操れば、生地は織れる」と一方的に考えている機織り工場のあるじのようなものです。

実際には、横糸を一つ一つ丁寧に織り込む織り手が、自らの意志で丹精こめて美しい反物を織り上げたいと心から願い、機織り作業を日々続けてくれなくては、機織り工場のあるじがいくら圧力をかけても、たとえ一反の生地とて本当に美しく織り上がることはないでしょう。

その上、あるじが変わるたびタテ糸の張り方が変わるため、織り手である国民は自主的な意欲を喪失してしまいます。結果として、ただ「何だかよくわからないけど、指示通りに平織りでも、あや織でも言われた通りにすればいいらしい」という「何がなんだかよくわからない織」の生地が量産されるのです。

憲法9条において、横糸は国内外のヨコの国際協力であり、国際平和への、時に激しい論争、政争でもあるでしょう。その中で、国際平和という生地を織り上げる織り手は、わたしたち一人ひとりの国民なのです。

サウロは、ただそれぞれの共同体に「イエズス・キリストの平和があるように」と心から祈り、願い、教会内の紛争解決と仲裁に尽力しました。

サウロの心には、自らの罪の重さへの責任感、つぐないへの意志とともに、人間的な弱さの十字架もありました。

それら多くの十字架をイエズス・キリストの名によって背負い、生き抜き、宣教活動を続けたサウロだからこそ、日本人には想像もつかないほど論争好きなユダヤ人に、繰り返し、何回も「主の平和がみなさんにありますように」と呼びかけ続けられたのでしょう。

使徒サウロの言葉は、平和の本質的な困難さを知る人の言葉でもあります。

教会に平和を願う祈りの後、カトリック教会のミサでは平和の挨拶を交わします。「主の平和」と互いに挨拶をするのです。

平和の挨拶を交わすだけで、教会が平和と一致に溢れるわけではないのかも知れません。

それでも、「現代に平和をお与えください」という奉献文の一節にある、「いま、わたしたちにできる最善の平和」を求めるため、「いつも来ているのは知っているけど、直接、話したことのない誰か」と目を合わせ、挨拶することから教会の真の平和を始めることはできます。

日本で考える国際平和も、まず隣人や日本国内外で出会う一人ひとりとの出会いの中で、臆せず、怯えずに対話をすることから始まるのでしょう。

対話、論争で互いに傷つきあっても平和を目指すヨコのつながりを持つことに怯えを感じ、「上から目線でいたい」というプライドにこだわり易い人が、日本人には多い気がします。日本人ほど平和好きだけど、多様性を尊重し、違いを重んずる対話に全く不向きで、多様であることに忍耐力の乏しい人々も、他に類例を見ない気がします。

日本人にとって、このような日本文化の特性こそ、何よりも重く、愛すべき十字架なのかもしれません。

イエズス・キリストが十字架を心からの御父である主への愛とともに担われたように、わたしたちも日本文化の特性という十字架を、世界のどこで、どのような立場にあっても、日本文化という文化的背景もまた、好むにせよ、好まざるにせよ、自らの十字架として喜んで担わなくてはならないのだと肝に銘じ続けなくてはならないでしょう。

国内外の平和のために!家族や隣人との平和のために!そして、自分自身のたましいの平和と教会の平和と一致のため、平和を祈り続けましょう。


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2018年5月 1日 (火)

多様性、同調圧とイエス・キリストの愛

(その日)サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。

また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスに出発させた。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
(使徒言行録9:26~31)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

復活第5主日の第一朗読が、冒頭の聖句でした。

サウロは、新約聖書の「…への手紙」と使徒言行録など、新約聖書の殆どの部分を書いたり、監修した、とても学のある方だったようです。

その点、イエズスが存命の頃からの弟子の多くは、良くも悪くも労働者、社会の下っ端出身の人でした。

考古学的な資料によれば、B.C.1世紀のユダヤ人は書いたメモでやり取りした痕跡があり、「掃除夫、兵卒から将軍まで」誰でもある程度の書字、識字はできたと言われています。

しかし、イエス・キリストの愛の教えを聖霊の導きによって聖書を書き記すには、それなりに学のある文章をまとめる語学力、文章力が必要です。

↓サウロの回心(システィナ礼拝堂)

Arazzo_di_raffaello_conversione_di_ 弟子たちは無学なのに、「何らかの奇跡で、聖書を書く時だけ聖霊の力が働いた」わけではありません。モーセ五書自体、「一章が図書館ひとつ」ぐらい膨大な資料、史料のかたまりなので、主なる神の智恵を備えてなお、主について物書きをするにはある程度の文章力と学問が必須です。

聖書を検証する人々は、弟子たち以上に学のある人々が無限にいるわけですから、「直感やお筆先のたぐい」では済まされません。

漁師だったペテロも、イエスの弟子になってから学のある他の弟子に学問を学んだ形跡が見られるようです。

サウロはその点、大祭司とも対等に話せる教養ある人だったようですし、その書簡集は文学的にも秀逸です。

イエズスの生前を知る弟子たちは、冒頭の聖句にあるようにバルナバが「サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した」と言われれば、「そりゃあそうだ。イエスさまだもん!」と無条件に感じたでしょう。。そうして、自分たちを追って弟子たちを迫害し、自分たちを殺そうとしていたサウロを受け入れました。

弟子たちに受け入れられたサウロも、「恐れることなく」主を伝えるようになった、とあります。

サウロがいかに信仰深くとも、エルサレムで正式に弟子たちに受け入れられるまでは「バルナバがたまたまイエズスの啓示を受けた人だったから、自分を個人的に受け入れてくれたのか?」という疑問が心の隅になかったとは思えません。

そこには、回心以前には弟子たちを迫害し、殺した罪の重さへの責任、償いの気持ちと共に、罪を犯した者独特の後ろめたさは心の片隅にあったのではないでしょうか。

弟子たちもバルナバを人間的に信用したのではなく、復活されたイエズスがサウロに話しかけられ、サウロはイエズスによって変えられたのだ、と信じたから受け入れたのでしょう。

では、なぜギリシャ語を話すユダヤ人は、サウロを受け入れられなかったのでしょうか?

その根底には、人間的な恨み、つらみ、憎しみ、文化的ギャプへの違和感などを、越えられない人間的な弱さがあったのだと思います。

当時から、ユダヤ人の第一言語は生まれ育った地域によりさまざまでした。ラテン語(ローマ語)、ギリシャ語のような当時の地中海沿岸の主要言語だけでなく、親や親族の生まれ地方の複数の方言・言語に精通していた者も大勢いたでしょう。

サウロは主にローマ事情に精通していたようなので、当時すでに文化的に違和感のあった、ギリシャ語を話すユダヤ人とは文化的ギャップがあったのかも知れません。

これが、ギリシャ語を話すギリシャ人やそれ以外の民族、部族など非ユダヤ人であったなら「ま、文化も言葉も違うから違和感もアリかな?心に染みて来ないのは、文化の違いかな?ちょっくら、考えてみよう」と思えたのかもしれません。

でも、ユダヤ人同士であるからこそ「お前、同じユダヤ人なのに何で違うんだ?」と反感を買ったのではないでしょうか。

何やら「同じ日本人なのに、何でアンタは違う言い方をするんだ?」という「日本社会での多様性を認める必要性と強すぎる社会的な同調圧の問題」にも似てる気がします。

サウロも努力し、弟子たちも努力したと思います。

でも、サウロ殺害計画を企てる側のギリシャ語を話すユダヤ人にも、彼らなりに言い分があったのでしょう。

サウロは、身内のキリスト者の暗殺計画の槍玉に上がった最初の聖なる人だったとも言えます。

聖ベネディクト、アシジの聖フランシスコなども、自身の修道院内で殺害されかけた、と記述にあるからです。

弟子たちは、キリストの愛の共同体を守るために悩みました。そして、サウロをカイサリアからタルソスへとのがす道を選んだのです。

それは、ギリシャ語を話す兄弟姉妹たちが主の愛の教えと十戒に背く行いをさせないための配慮でもあり、イエズスが聖霊によって選ばれたサウロの宣教の使命を全うさせるためでもありました。

中東地域からローマ帝国を通じて欧州全域へとキリスト教が広まった要因を日本人は、「支配層や貴族のキリスト教化→中間層に普及→庶民に伝わる」の順番で杓子定規に考えすぎる方が多いようです。

それは、日本の仏教がトップダウンで伝わったため、文化の伝承をトップダウン以外のアプローチで検証する考え方に馴染めないせいかもしれません。

現実には、労働者が主だった弟子たちがイエズスと行動を共にし、それが後日、中間層~のユダヤ人や非ユダヤ人に伝わり、その中から聖霊によって弟子たちが増え、宣教者となり、時に政治的逃亡者となっても宣教を続け、ついにはローマ帝国一円に広まったことで、キリスト教の教会の規模が大きくなりました。

その後、多神教を認めすぎると税収が分散すること、神秘主義的要素が強すぎると政争の原因となること、当時なりに政教一致を抜け出せないまま多民族国家の運営に苦慮していたローマ帝国が、文化も民族も言語も違う民を一つにまとめるための切り札としてキリスト教を選んだ、と言えましょう。

つまり、キリスト教の布教活動そのものが、底辺から支配層を動かすのであって、その本質においてトップダウンではありません。

それは、今も変わっていません。

エデンの園から追放されたアダムとイブ、主を信じて旅を生きたアブラハム、エジプトからイスラエルの民を率いたモーセがそうであったように、サウロもまたイエズスの聖霊の働きだけを信じて、終わりなき宣教の旅に出たのです。

サウロは、聖霊によってキリスト者となった同胞である一部のユダヤ人にエルサレムを追われ、宣教の旅へと出ました。

彼が宣教の旅に出ることで、エフェソ、コリント、ユダなど広い地域に、イエズスの聖霊の働きが広まりました。

どの旅も、それぞれの多様な日々で、ただ一刻として同じ日はありませんでした。それは同じ言語、同じ文化を同じ空間、同じ時間に共有していても、決して共有し尽くせない「自分だけの何か」を全ての人が持っているからです。

それでも、みなが同じ主に導かれていました。

いま、私たちには多様性と同調圧を超えて、イエズス・キリストの愛につながりたいと願っています。

「私はぶどうの木。あなたがたはその枝である」と仰せになったイエズスに今日もまた、あなたと共につながっていたいと心から願います。


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2018年4月27日 (金)

「ボランティア」はタダ働きするな!

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

介護や保育などの場に「ボランティアの方」が関わることは多いでしょう。

音楽の演奏、工芸や手芸の指導などが折々に、施設などにボランティアに来られるのを見ると頭が下がります。

限られた職員やご家族以外の人と接することの少ない、要介護度の高い方々、乳幼児、障害児・者の方々にとって、ボランティアの方々は外の世界の空気を持ち込んで下さるからです。

しかし、日本国政府や行政の関係者の中には、なぜか「ボランティア」を「便利にただ働きしてくれるお人好し」と勘違いしている方々が多いようです。

その証拠に何と!2020東京五輪の通訳や案内などの会場スタッフを「ボランティア」と言う名の「ただ働きにやらせよう」という計画があるようなのです。

このままだと、明らかに生死に関わる介護や保育ですら「タダ働きのボランティアにしてもらおう」などと言い出しかねません。

介護や保育は「応分の対価を払うべき労働」です。対価がなければ、そもそも他人の命の責任など負えないし、対価のない労働はできません。それが資本主義というもの。

だいたい、「ボランティア」とは「自主的な活動」です。

学校教諭や会社の指示で「休日返上のタダ働きを強いられる」のは、「自主的な活動」ではなく「対価を払うべき労働に対価を払わず」行わせる「強制労働」です。

日本では教育課程での部活など、「特別にしたくないけど、内申書に影響するから部活で朝練」などが当たり前にあります。部活の顧問教師も明らかな時間外労働を「我が校の名誉のために!」強いられています。

そのせいか、「自分の意思で、自分のために、自主的な活動を誰かとともに行うことで、社会参加する」というボランティア本来の意義を理解できない日本人が多すぎるようです。

カトリック教会で考えるボランティアには、明確な定義があります。

  1. 神の無償の愛に応えることで、世の人々にキリストを伝える目的に叶う行為。
  1. 自らの生き方を奉献した奉献生活者(司祭、修道士、修道女、宣教師など)であっても自らの生活と生き方に支障をきたさない範囲内で、他者とキリストの愛を分かち合える行為(困窮者への衣食住支援、声かけ、友だちになることなど…。)
  1. 政治や経済界の利権など、時にキリストの愛に背く罪の行いに加担しないよう最善を尽くすこと。
  2. 当事者と支援者が同じ神の被造物として対話することで、ボランティアをする人もまた「支援する人も支援を受ける人も同じ神の被造物」であると感じ、互いの中にキリストを見出せること。

欧米のカトリック教会で③は、時に問題になります。

↓聖ヨハネパウロ二世教皇の葬儀。亡くなった当時から列福、列聖はほぼ確実視されていた。

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聖ヨハネ・パウロ二世教皇が逝去された際、日本以外の世界中から、政治的な指導者がバチカンに大集合しました。「空飛ぶ教皇」と言われ、平和や和解への対話に尽力した方の追悼に信教思想の違いを超えて駆けつけることで、自らの政治指導者としての人徳をこぞってアピールし、それぞれの政治的思惑がらみの「和平会談」の政治的チャンスを掴むためです。

その中に、明らかにアブナイ独裁国家で「紙の上ではカトリック信徒」の独裁者が葬儀ミサに参列し、政治家の間で「独裁者と比較されたくない!」などと物議を醸し出しました。

その点、日本のカトリック教会の奉献者や信徒がボランティアをする際、問題になるのは①と②です。

キリスト者のボランティアは、あくまでも「神の愛のため」に行うのであって、行政や政府の都合のためにタダ働きをするのではありません。

また、神の愛以外の、何か人間的な都合を優先させてはならない、という聖書の教えがあります。

そのため、行政がカトリック教会、または他のキリスト教の教えや理念に歩調を合わせようとしないなら、キリスト者は「タダ働き」で疲れ果て、神の愛を見失うようなボランティア」をしてはならないのです。

例えばアジア第二のキリスト教国である韓国などの場合、カトリック教会が抱える問題に心から共感を抱くほど信仰篤い方が、銀行や行政に影響力のある地位に大勢います。


そのため、「鉄道駅の敷地や国有地内などでホームレスの方々のための路上での日曜ミサや礼拝」などが黙認されることもあり得ます。また、キリスト教系のボランティアに対する寄付の金額も多いため、ボランティア活動が成り立つのです。


その点、日本で②が問題になるのは、ボランティアの活動内容が神の愛を伝え、なおかつ修道院、宣教会、小教区の活動目標に近いもので、教会共同体が無理なく続けられるものか、ということです。

何年も前のことですが、私のいる小教区で女性たち何人かが「ホームレスの方々に声かけ支援をしよう」と夜回りを企てたことがありました。

結果から言うと、大失敗でした。まず、教会付近で「悪ガキ時代に秘密の隠れ場的に遊んだ」経験とは程遠い真面目人間ばかりで、地元の地理に不案内な人が集まったため、ホームレスの方々が休んでいそうな場所を見つけるだけで手間取ってしまいました。

第二に女性ばかりなので、夜回りは三人以上で行動する必要があります。暗い場所も多いため、止むを得ない事情でホームレス化した男性を中年女性が声かけと称して取り囲むような感じになり、神の愛を伝えるにはほど遠い活動になり、数ヶ月で止めてしまいました。

教会共同体やそのメンバーが無理なく続けられる、ということはボランティア活動を行う上で大切なことです。また、ボランティアを行う人の安全も重要です。また、たとえば声かけをして、神の愛に応えて更に何らかの支援を求められた場合、連携するアテがあるのか、は重要です。

日本社会で求められるボランティアとは、①と②の条件が無視された「お上のご意向」が優先されがちです。そして、どんな立派な政府であれ、「お上、政府、行政の意向」とキリスト者の「神の愛を伝えるためのボランティア活動」が運良く重なり合わない限り、相容れないのです。

そのような状況をうやむやにしたまま、日本の行政や政府はタダ働きをするのが「ボランティア」だと勘違いしているのです。

刑務所を出所した元受刑者のよろず相談を引き受ける「保護司」さんが「無償ボランティア」で、経費、交通費や研修に参加する費用も全て保護司さんの持ち出し、などというのは行政が善意を悪用している典型でしょう。

本来なら、国家は保護司さんに報酬と経費を払い、元受刑者の更正に必要なヨコの支援にしっかりとつなげるよう、実際的に支援できる人数を確保しなければならないのです

必要な手間をかけたがらない日本に住んでいるからこそ、日本では「ボランティア」や「手伝い」は安易にタダ働きしてはなりません。

対価がアテにならない働きをすることほど、疲れることはありません。また、金銭面でも経費を全てボランティアが持ち出しで賄うなら、本人の生活維持と活動費用の両面で、経済的に活動が成り立ちません。

実際、NPOなどで「市区町村の依頼で行う活動は全て赤字」などという事例は多々あります。逆にNPOへの支援金を貰った年度だけ運営するフリをしてNPOがドロン、という事例も多いようです。

私は何も、ボランティア活動そのものに反対の意を唱えたいのではありません。

行政や個人の都合のため、誰かが誰かをタダ働きさせようと画策する人が日本社会にはあまりに多いから、お互いに気をつけましょう、と言いたいのです。

最後に繰り返します。ボランティアは「便利で、タダ働きしてくれて、自腹で政府や行政のなすべき仕事を代行する人」ではありません。

キリスト者は誰もが、イエス・キリストを通じて得た愛を誰かに伝えたいという願いを、日々の生活のかたわらで示すべく、招かれているから活動するのです。

無償の愛を直接行う人になれないなら、スポンサーになって活動の場に参加することも出来ます。

こういったボランティア本来の理念への共感が社会全体にないなら、政府、行政、経済団体や企業は、タダ働きを求めず、適切な対価を支払わねばなりません。

対価は単純にお金だけではなく、活動する当事者が望む活動の場を提供したり、社会的な便宜をはかることが必要な場合もあります。

ボランティア=タダ働きではありません。

人間的な善意は、政府や行政がいくら身勝手に悪用しても枯れることのない底なしではありません。

人間的な善意への敬意とともに、人間らしさを取り戻せる日が来ますように。昨今、日本社会から人間らしい優しさが急速に冷え込んでいるような気がしてならないのです。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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2018年4月24日 (火)

牧者である主キリストの道

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

(ヨハネによる福音書10:14~18)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

復活節第3週目は、「羊飼いの主日」とも呼ばれています。

「主はわたしの牧者。わたしには恐れることがない。」という有名な詩編23編の言葉の通り、わたしたちは「主イエズスが迷える羊のようなわたしたちを愛で牧してくださるんだ」という受け身の信仰に満足しがちです。

↓「善良なる羊飼いであるキリスト」

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とあるヨーロッパの国で、羊を飼う牧場を見かけました。その時、その場から見えるかぎり羊は1匹もいませんでしたが、羊たちの足跡を辿り、牧場に危険物やプラごみなどがないかをチェックし、フェンスなどの修理をする、本物の「羊飼い」に出会いました。

どこか別な場所で牧草をのんびりと食べながら過ごす羊たちは、羊飼いが羊たちが間違ってプラごみを食べたり、フェンスの穴から迷い出ないよう常に牧場を見廻っている羊飼いの「人間的な事情」を知らないでしょう。

それでも、彼の羊たちは羊飼いに信頼を置き、彼の口笛に応えて集まろうとすることでしょう。羊飼いが心をこめて羊の世話をしている気持ちは、きっと羊にも通じていると思うのです。

その点、わたしたちはどうでしょうか。

わたしたちは、洗礼によって主イエズスに結ばれ、その霊的な牧場にいこい、命のパンと救いの盃をいただき、必要に応じて道を示していただいきます。

主イエズスは罪深いわたしたちのため、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。」と、私たちに永遠のいのちへの道を開かれました。

主イエズスがご受難、十字架、ご復活、ご昇天と聖霊をわたしたちに送られることで、わたしたちにも「誰も奪い取ることはできない永遠のいのちの道」を開いてくださいました。

永遠のいのちに至る道、それは感謝の道だと思います。

ある人が、まさに幸先よく見えたビジネスを始めた矢先に、ビジネスパートナーが病気で倒れたことがありました。ちょうどその時、ビジネスパートナーの穴埋めを、一定期間ならできる人が手伝いを申し出てくれたことがありました。

さて、この人が「ビジネスパートナーの病気は不幸だったけど、手伝いをしてくれる人が現れて助かった。ありがたい。」と心から思えたなら、自然とその人に同情する人も集まったかも知れません。

ですが、その人は「パートナーが働けず、手伝いを頼んだ分、人件費もかかり、仕入れ値も高騰した。せっかく投資したのに、手伝いの人は期間限定でしか来れないから、利益が少ない。もっと儲けるはずだったのにただ疲れ切り、投資した金額に対して見返りが少ない」と思ってしまったようです。

パートナーの分もカバーせねばならない上、疲れも溜まっているせいか、善意で手伝いを申し出た人に暴言を吐き、仕事中に酒をあおるほど、生活態度が荒んで行きました。

するとまず、それまで彼の笑顔に癒されていた「常連さん」、「友達みたいなお客さん」が数週間にしてほとんど来なくなりました。

どんなに疲れ切り、辛い状態でも心から感謝の心が持てることは、まさに「わたしたちは主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(コリントの信徒への手紙15:37)」にある、「死に打ち勝ち、主キリストのご復活をともにすること」だと気づきました。

人間的な意味合いからすれば、セクハラやパワハラなどの加害者のように、法的に許さず、人間的な裁きと賠償を訴え、より良い未来の糧とすべき事柄があります。

昨今、ある財務省官僚のセクハラ加害が論議になっていますが、いじめ、ハラスメント加害者が裁きを受け、相応の法的、社会的、道義的制裁とつぐないをさせること、被害者の心身や社会的地位の回復に必要な配慮は、明日のためにいますぐ行わねばならないことです。

と同時に、わたしたちは自身がどんなに疲れ、辛い状況に置かれても、心から主キリストの愛を通じて感謝の心、ゆるしの心が持てるよう、霊的に祈り、願い、ゆるしを求め続けねばなりません。

それは、自分が惨めな境遇に陥った時、心の片隅にいつも、きょう一日への感謝の気持ちを忘れないでいるためだと思います。

きょう一日への心からの感謝の気持ち。与えられた境遇をあるがままに受け入れ、なお主キリストの愛に応えるために感謝の心で、いまは人間的には許してはならない人々がいつか自らのあやまちを自覚し、赦しを乞える、回心のみ恵みを与えられるよう祈ることは、まことにとうといキリスト者の宣教の使命だと思います。

祈りは、祈る人の在り方を根底から変えてしまいます。いつしか、祈る人の周囲の人々の人々も、徐々に変わって行きます。

自分が周囲の望み通りの人生を歩めるかどうか、誰かに自分の望む人生を無理やり歩かせるのではなく、自分らしい人生の道へ、主キリストが導いて下さるままに歩めるようになるかがいちばん大切なことだと思うのです。


主キリストがご復活により全人類の良き羊飼いとなられたように、私たちも迷える羊として主の憐れみを乞い願うことに自己満足することなく、羊飼いと同じ気持ちで友である羊とともに、私たちの小さな生活の中の小さな牧場の羊飼いを目指せますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2018年4月20日 (金)

キリストに回心する「その時」

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂への手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天から光が彼の周りを照らした。

サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、物も言えずに立っていた。サウロは地面から起き上がって目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
(使徒言行録9:1~9)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

大祭司からダマスコの諸会堂への紹介状をもらい、イエズスの弟子たちを脅迫し、殺害するために後を追ったサウロの姿は、現代の一部の過激な極右勢力など、極端な思想の持ち主を思い起こさせます。

律法とは、ほんらい人の魂を自由にさせ、神の愛への無上の信頼に至るため神が預言者らを通じて示された、方法論の一種であったのでしょう。

人のたましいを自由にするはずのものが、いつの間にやら政治的などが介入し、堅苦しい決まりごとの寄せ集めになっていったことが、当時の大祭司や律法学者たちの真の問題点だったのでしょう。

人類史を担う聖都エルサレムであるが故に、過激な行動に走ったサウロはある意味、愚直なほどに極右派的な律法崇拝主義者だったのかもしれません。

そんなサウロの愚直さに、イエズスは目を留められました。サウロにこれ以上罪を犯させてはならないという、イエズスの愛がサウロに届いたのが、冒頭の聖句のシーンだったのでしょう。

サウロは、大祭司らのイエズスの処刑はユダヤ人社会を守るために絶対必要だったと信じていたのでしょう。

もしかしたら、本当にイエズスが政治的なクーデターを企てて、ローマ帝国にユダヤ人の自治権を奪わせる原因を作るトンデモない輩だとサウロは信じていたのかも知れません。

ご復活ののち、天のみ国に行かれ、御父である神の元に行かれてなお、イエズスは自らユダヤ人の血の責任を取ろうとしておられたのだと私は思います。

「血の責任」という言葉は日本語にはあまり馴染みがないかも知れません。

わたしが考える「血の責任」とは、「誰かが、何かが、自分のために血を流したこと、命を失ったことへの責任感を失わず、先祖の罪、他者の罪をも自らの血の責任として神に赦しを願い、神に心を向けること」を指すのだと思います。


どこぞの政治家が言うように「過ぎたことは、水に流せばいいじゃない?」と考える日本人には、少々馴染みづらい感情です。


しかしながら、「再び同じ罪を犯さないためにはどうしたらいいのか?」という対応策の積み重ねが、人類の歴史であり、文化の発展への原動力である点で、日本文化だけ「水に流せる」せば成り立つというものではありません。

だからこそ、「誰かが、何かが流した血の責任を自覚する」ことは、自らへの赦しの始まりであり、真の愛の自覚のはじまりであり、人間らしさを主イエズスとともに生きる道でもあるのです。

その後サウロは、イエズスの弟子たちに責められたわけではありませんでした。ただ、自らの罪を告白し、洗礼を受け、イエズスの弟子たちから遠く離れたところでご復活になったイエズスの教えを説き続けました。

サウロははじめから、イエズスの弟子たちが自分を受け入れてくれるとは思っていなかったようです。

イエズスはご復活ののち、はじめてサウロに聖霊によって自らをお示しになりました。サウロ以前の弟子たちは、人となられたイエズスの生前を知る弟子たちでした。

↓ミケランジェロの「サウロの回心」

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サウロは迫害者だったのですから、生前のイエズスについてあやふやな情報しか持たない人だったでしょう。迫害者の多くは、相手に敬意を持つ前に敵意と警戒心を持って相手を見がちな人々だからです。

サウロはそんな自分を、生前からイエズスを知る弟子たちらが聖霊において受け入れられ、弟子たちと和解できるとは到底思えなかったでしょう。

ざっくり言えば《使徒言行録》は、生前のイエズスを知る弟子たちの宣教活動の記録であるとともに、聖霊において使徒座の「しもべの中のしもべ」である教会の基礎が築かれるまでの動きを描いています。

その中でいちばんのキーマンが、使徒サウロなのです。

イエズスのご復活後に聖霊が教会の礎となり、「集会、共同体」である教会が世の終わりまで人類を支え続けられるよう、天のみ国におられるイエズスはサウロをお選びになりました。

サウロは、イスカリオテのユダがイエズスを裏切り、負った罪を主イエズスへの回心によって償う存在ともなりました。

私は、イエズスはイスカリオテのユダを救われたと信じます。イエズスは、おそらく金勘定がちょっとばかりいい加減で、僅かな金銭のためにイエズスを裏切って、自ら命を絶ったイスカリオテのユダを心からいまも愛しておられるでしょう。

イスカリオテのユダの罪のつぐないと「血の責任」は、聖霊によって選ばれたサウロに託されました。

わたしたちはみな、誰かの血の責任を負い、神の愛に応えるために生きる旅人に過ぎません。

一見、定住し、安定した生活を送っているように見えても、日々の生活は自転車操業のようなものです。いのちははかなく、奪おうと思えば瞬間で誰でも奪えるものだけど、いのちを奪った血の責任は子々孫々と受け継がれねばならないのです。

わたしたちは誰であれ、誰かの血の責任を負い、この世を生きています。一人の人間にできることは、ごく限られたことだと思います。

それでも、それぞれの中にある血の責任を負いつつ、キリストとともに一日を大切にして生きようではありませんか。

もう二度と来ない、今日という日のために。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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2018年4月17日 (火)

キリストの道を一筋に

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われた。

彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

そこで、イエスは言われた。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触って見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見える通り、わたしにはそれがある。」

こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたといっしょにいたころ、言っておいたことである。(ルカによる福音書24:36~44)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

欧米や南米では当たり前の「紙の上で洗礼を受ける」ことだけでも、日本では一大事です。

幼児洗礼でも、両親がカトリックとは限らないので「ご主人にバレる前にこっそり幼児洗礼を受けさせて、事後報告」などの「半ば隠れキリシタン」状態にある人はとても多いのです。

↓ピエロ・ラ・フランチェスカの「正面から見据えるご復活のキリスト」

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ましてや、成人がカトリックに転向しようと考える場合、家族の誤解や反感で葛藤が起きることもあります。

それでも、おぼろげながらでもキリストのみ姿を追い続けたい。日本でカトリック信徒となるには、それだけの覚悟を必要とします。

イエズスがご復活され、弟子たちの前にあらわれた時、わたしはてっきりご復活で手足が釘で打ち抜かれた痛みも、おん脇腹から血を流された傷跡も、ご復活とともに痛みが「治っちゃったのかな?」ぐらいに思い込んでいました。

でも、聖書のどこにもご復活後のイエズスの十字架の苦しみと痛みが、ご復活後に癒されたとは書いてありません。

ということは、イエズスは十字架上での苦しみと痛みを担われたままご復活になったと観想してみましょう。

死の痛みとなったおん釘痕は痛むまま、医学的に言えば死亡後に受けた脇腹の刺し傷もご復活ののちに痛みを得たまま、イエズスがご復活になられたとしましょう。

死の恐怖に打ち勝ち、黄泉に下られ、死後の苦しみに打ち勝ち、おん父の愛そのものになられたイエズスにとって、愛は痛みに打ち勝つものだったのではないでしょうか。

私たちの人間的な想いからすれば、死どころか頭痛や腹痛だって痛いものは痛いとしか言いようがありません。別にキリストに心から祈れば頭痛が治るわけではなく、どこぞの司祭が言ったように「叔母さん、頭痛ならいつもの鎮痛剤の方が利くよ」、と誰もが言うでしょう。

それでも、私たちには「この痛みを迷惑で嫌なもの、不運なことだと嘆くのか、これも神からいただいたものと受け取るのか」という選択肢は残されています。

私は子どもの頃からの偏頭痛もちです。ホルモンバランスの変化で年経れば軽減するとも言いますが、最近は偏頭痛も主が私の手に刻んでくださった詩篇の一部だと思えるようになりました。

もしも偏頭痛もちでなかったら、痛みを感じている誰かの気持ちを深く思いやれるようになりたいと、思わなかったかも知れません。自分がちょっと痛みを感じただけで大騒ぎをして、周囲を困らせる人間になっていたかも知れません。

また、痛いという感覚を知らずに生きていたかもしれません。世の中には、触ってみるとものすごく肩こりがひどいのに本人には全く自覚がない、という方がいます。生理学的に言えば、痛みとは自分自身の心身から「用心しなさい。休みなさい」という警告です。

21世紀をご覧になるイエズスにとってご復活の痛みは、私たち人類と世の終わりまで戦禍、自殺、経済戦争、奴隷的な酷使、病いや整体環境の変化による苦しみをともにする証しの苦しみです。


英米仏がシリア爆撃が開始し、収まりかけた戦禍がまた広がろうとしています。信教思想に関係なく、幼い子らが痛みと戦争の不当を訴えて泣き叫ぶ声が、イエズスのご復活の痛みをいや増しているでしょう。我が子を守りたくとも守りきれない父母の叫びに、イエズスの魂は張り裂けていることでしょう。

それでも、私たちには祈る以外、何もできない事がこの世にはたくさんあるのです。それでも、私たちはイエズスのご復活の痛みの慰めとなるよう、平和を祈り続けなければならないのです。


キリストの道を一筋に歩むということは、イエズスのご復活の痛みを天的な愛とともに前に進むということでもあります。

キリスト者にとって、道はキリスト以外にはありません。キリストに呼ばれ、キリストを選んだなら、キリストの道をただ一筋にともに歩みましょう。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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