フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • ブログランキング


    人気ブログランキングへ
  • 日本ブログ村

キリスト教エッセー

2017年9月19日 (火)

ケセン語訳聖書を読む:求めなさい、そうすれば与えられる

願って、願って、願ァ続げろ。そうすれば、貰うに良い。

探(た)ねで、探ねで、探ね続げろ。そうしろば、見付かる。

戸ォばだ(叩)ァで、叩ァで、叩き続けろ。そうすれば、開けでもらィる。

誰でまァり、ねげ(願)ァ続ける者ァ貰うべし。探ね続げる者ァ見付けんべし、戸ォ叩ぎ続げる者ァ開げてもらィる。(ケセン訳マタイ7:7~8)

求めなさい。そうすれば与えられる。

探しなさい。そうすれば見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば開かれる。

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、

門を叩く者には開かれる。(新共同訳)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

求めて、与えられないものはこの世に数限りなくあります。

求めて、求め続けて、なお与えられず、悩む方は私も含めて大勢いることでしょう。

それでも人は、自分の欲求に合う何かを求めずにはいられません。

平穏で穏やかな日々が乱されないこと、衣食住に困らないこと、家内安全、無病息災など、「ほんのささいな願いなのだから、求めたら当然のこととして叶えて欲しい」と多くの人が願っています。

「求めよう。さすれば与えられん」を当然ことであるかのようにイエスさまに要求することは、キリスト者として妥当なことなのでしょうか。

「願って、たねで(探して)」とケセン語の祈りに想いを馳せてみたいと思います。

富裕層の人はフルコースのディナーを「最低限の衣食住」の食だと考えているのかも知れませんし、貧しい人は「せめてパンと水に野菜だけでも欲しい」と考えているのかもしれません。

ことわざに「人は自分の足の大きさで世間をはかる」と言います。

自分の行動範囲、周囲に与えられた価値観への影響、置かれた環境や状況における肯定的な見方、否定的な見方など「自分の足の及ぶ範囲内でものを判断しやすい」という意味でしょう。

フルコースのディナーを日々食べている人には、日々パスタやチャーハンなど「炭水化物オンリー」を食べる会社員や労働者が「なぜ、そうなのか」を考えられないでしょう。

同じように、日々パスタやラーメンを食べている人には「富裕層はなぜフルコースのディナーを必要とするのか」がわからないでしょう。

それぞれ、置かれた状況で、今いる場所で必要なモノを求めた結果なのかも知れません。

自分の置かれた環境や状況、自分の個性や生き方により、求めるモノは日々違います。

イエスさまは、それぞれが時と場合により欲しいモノを「求めれば、与えられる」とホントに言われたでしょうか。

「欲しいモノを願いなさい」は宗教ではなく、欲求の充足への願望の表明に過ぎないと私は思います。

願望を表明するだけでは、人は自分の真の願いを悟ることもなく、明日への願いに想いを馳せることも出来ないでしょう。

今日の願いは、今日のものです。

あなたがサッカー選手で、今日の試合でシュートを決めたい、イレブンの誰かがシュートを決められるようディフェンスしたいと願っているとしましょう。

練習の時に夢のようなナイスシュートが決まったら本人や周囲の喜びにはなるでしょう。しかし公式戦の日なら、まさに一戦の最中にシュートを決めて得点し、ファンの喜びとなる試合をし勝つことこそ、その日の願いでしょう。


明日の願いは、きっと違うでしょう。オフなら休養や身体作りかも知れませんし、心の安らぎを得て次の試合に備えることかも知れません。

その日、その時、その場、その状況でわたしの願いとはどんどん変わって行くものだと、私たちはつねに心しておかねばなりません。


イエスさまは「わたしの水をのむ者は、もはや渇くことがない」と言われました。

イエスさまが下さるのは単なる「熱中症防止のための水分」ではなく、「いのちの水」です。しかも、「いのちの水」をくださるからと言って、「脱水症を予防するための水分」が必要な人の願いを拒むわけではありません。

人間的な不可抗力、相手を思いやる心の足りなさや、他者への無関心など、さまざまな理由で結果として犠牲者はどの時代にも生じるでしょう。

それでも、イエスの名において求めたことが全く無駄になることはないと信じる人はさいわいです。

山浦氏がギリシャ語の原語の意味を「継続命令形」と名付けたように、信仰において、あきらめず、絶望せず、イエスの愛といつくしみを信じて求め続けること、願い続けることそのものを生涯続けることが大切だからです。

↓イエスさまは、いつもわたしやあなたの心のとびらを叩いておられます。

209b3744

ミヒャエル・エンデの《ネバーエンディングストーリー》の原作本の中に、扉のたくさんある通路でどの扉が開くのかがわからない、というシーンがあったのを思い出します。

どの扉を自分が開けたいのか、自分と関かわりのある扉がどれかを見極めなければ、自分なりに正しい道を選べない。そんな、シーンだったと記憶しています。

自分の開けたい扉が必ず開くわけではなく、間違った扉を開けたら、自分自身が迷路を抜けられなくなるかも知れなません。でも、後戻りはゆるされません。

ひとの一生は生から死へと、後戻りすることなく前に向かい続けるしかないのです。

自分なりにとっていちばん相応しい扉を選ぶため、まずは自分の欠点や短所など「見たくない自分」、「見たくない他者のウラの顔」とも向き合わねばなりません。

うんざりするほど嫌な思いをし続けながら「求めなさい、そうすれば与えられる」と信じ続けることこそ、「信じる」という単純な行いのまことのあり方だと思うのです。

正直に言えば、うんざりするほど周囲の人のウラオモテある態度を知り、日本社会独特の「タテマエとホンネの使い分け」が両極化した冷笑的な無関心の蔓延した場所にいて、馬鹿正直に「信じ続ける、求め続ける」ことにはわたしも十分に疲れ切ったし、うんざりしています。

主はわたしに多くの報いを下さいますが、やはり人との関わりの中で分かち合ってこそ、み恵みはより大きく深く感じられるものなのに、主のいつくしみを分かち合える相手があまりにも少ないのです。

21世紀の日本では、信仰とか宗教とは「個人が内面的に求める、内面の自由」であって、社会的に表現し、行う行動とははなはだしく乖離していてもおかしいと感じられなくなっています。

私がまだ幼かったころ出会った明治や大正生まれの方々は、思想信条は違えど、内面の想いと言葉、行動が「タテマエとホンネ」に完全乖離したような人々ではなかったことを、ここに言い添えておきたいと思います。

それだけに、この社会、この時代に生きる無聊さ、寂しさはひとしおです。

「教会の中だけでも、キリスト者としてイエスの愛といつくしみを分かち合える共同体として生き、行いましょう」と説教のたびに主任司祭は言われます。

祭壇のただ中にはキリストがおられ、ご聖体とおん血の中には確かに聖三位一体の神秘が宿っておられますが、わたしたちの心は罪と世間へのおもんぱかりに気を取られすぎています。

そんな時代に生まれあわせたからこそ、「願って、願って、願ァ続げろ。そうすれば、貰うに良い」のでしょう。

私が貰って「良い(bene=ラテン語で無条件に良い)」と思える障害が、他の誰かにとっては苦痛や試練以外の何物でもないかも知れません。

お金さえあれば…と思っていても、お金だけで幸せになれることもきっとないのでしょう。

私の想いと心の底からの願い、魂の叫びはまた、それぞれ違うのかも知れません。そして、イエスさまがわたしたちそれぞれに与えたいと思っているものは、私の願いと違うのでしょう。

アウシュヴィッツの司祭殉教者、聖マリア・コルベは聖性へのいちばんの近道は聖三位一体とひとつになることだと解きました。

「(大文字の)Α(アルファ)が聖三位一体であり、キリストの愛であるとしましょう。(小文字の)αがあなたの願いであるとしましょう。その場合、「Α(聖三位一体)=α(ひとの信仰)」になるなら、自ずと聖性への道を歩めるのです」といったことを仰ったそうです。

いかにも数学が得意科目だった哲学教師らしい物言いだと感心します。

私たちの気持ちは、なかなか「Α=α」にはなりません。やはり「Α≠α」「Α≦α」になりがちです。

それでも、一抹の淡い希望を心のどこかで保てるよう、ともに祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月15日 (金)

ケセン語訳聖書を読む:心の清い人は幸い

こづらね(心根)のうづグ(美)しい人ぁ幸せだ

その人達ァ神さまさのお目通りァ叶う。

(ケセン語訳マタイ5:8)

心の清い人々は幸いである。その人は神を見る。(新共同訳)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

心の清い人、と言われると「品行方正、清廉潔白、悟りを開いた人」のようなイメージをもってしまいがちです。

まず「品行方正」とは、それぞれの時代の社会的な基準から外れない行動をしている、という意味です。品行方正な人が、必ず心根が美しいとは私にはとうてい思えません。会社員として、公務員として業務規範にかなう行動をしている人の心根なんて、中身は人それぞれでしょう。

「清廉潔白」は、「私欲がない。後ろ暗いことがない。けじめがついている。やましいことがない」の意味です。これも、日本的な曖昧語としては、「心が清い」と解釈されますが、特別に強欲ではなく、ウラオモテがなく、社会的、倫理的、法的に無分別だと判断される行動をしていない、と定義されるべき言葉です。

「品行方正」「清廉潔白」は、ユダヤ教的な意味合いでの「心が清い」にある意味似た基準での「心の清い」と言えましょう。

新約聖書には、手足も洗わずに食卓について食事するイエスさまが登場します。当時は今のユダヤ教より戒律がずっと厳しく、家に入る時にはほぼ全身を洗うか、せめて足を洗わないと家の中に入れないなど、清潔に関する厳しい決まりごとがありました。

現代のユダヤ教にも「コーシェル、カシュート、コーシャ(清浄)」などと呼ばれる厳しい食事の決まりがあります。旧約聖書の<レビ記>の記載に基づき、屠殺方法、種類、加工方法を詳細に調べた後、コーシェルに該当するものだけで調理した食事習慣を、今もユダヤ人は守っているのです。

その中に、「魚は食べてもいいけど、タコ、イカ、ホタテ、ナマコなどの軟体動物はNG」という規律があります。

もしも現代のイスラエルにあるレストランに、日本人観光客がお手持ちのイカの塩辛を持ち込んだとすると、そのレストランはその厨房の全ての調理器具と全ての食器を全て洗浄しなければならない、と言った具合です。

実際のところ、<レビ記>が定める全ての戒律を文字通り全て守るには、かなりの経済力が必要でしょう。


コーシェルの規範に合わないものは、食べられるものでも食べず、神殿税をきっちりと収入の十分の1納め、きちんとした家に住み、水を水売りから買うか、遠方の井戸まで何度も汲みに行かねばならなかった時代でも、1日に何回でも市場と家を往復するたびに手足だけでなく、身体を洗わねばならない生活です。

イエスさまは「私は、わたしの民のために遣わされた」と言われ、正しくダビデの子孫として、ユダヤ教徒としてお生まれになったと、マタイによる福音書にあります。

ですが、イエスさまの時代には、既にユダヤ教の教えは貧しい生活に喘ぐ人々にはかなり負担になっていました。

貧しさ、病い、孤独、職業、不運などを理由に「穢れた人、罪人」と呼ばれた人々は、素朴な疑問を感じるようになっていました。

天地の創造主であり、全ての生命の源である主は、その時代、その状況の中での貧しさ、病い、孤独、職業や身分などで「罪人、穢れた人」を決めたのでしょうか、という疑問です。

「宗教的なけがれ、罪のある、なし」と、「心根の美しいことと醜いこと。心が清らかなことと濁って汚れたこと」は別の問題ではないのか、と漠然と感じるようになっていたのです。

そんな中で、イエスさまを食事に招いておきながら、まるで意地悪でもするかのように足を洗う水すら出そうとしない律法学者を批判し、自分の足を洗って香油を塗る「穢れた女」に「あなたの罪はゆるされた」と罪のゆるしを与えます。

また、イエスは一切の労働をしてはならないとされる安息日に麦の穂を摘み、病める人を癒されました。

山浦氏は《イエスの言葉》の中で、こう言います。

↓山上の説教(バチカン、システィーナ聖堂)

Sanjyou 「イエスがもっとも大事だと考えている、神さまをお喜ばせする道は、人に対して親切を尽くすということにつきます。雑念などあってもいいのです。本当はこんなことやりたくないと腹の中では思いながら、他人に親切にするのは不純な心でしょう。それでもいいのです。どうせ人間というものは不純で、よからぬ雑念のかたまりです。そんなことはどうでもいいのです。大切なことは人に親切にすること、これだけです。」

医師として生命と誠実に向き合って来た人だからこそ、言えるキリスト者としての率直な言葉だと思います。

キリスト者が心の内側だけの清さを求め続けるなら、祈りと修練にのみ心をとらわれ過ぎて、誰かにやさしさを表すことを忘れがちになります。

やさしさを示そうと必死になりすぎると、自分を大切にする、自分にやさしくすることが難しくなります。

そうでなくとも、世の中チャリティーだ、寄付募集だ、ボランティア募集など「無償労働の提供、寄付の提供」を、「タダ働きしてくれるご奉公、お務め」と勘違いしやすい人ばかりが多いのが日本人です。

やさしさを示す人に対し、社会的な尊敬を具体的な行動で示し、やさしさを示す人の強さと弱さを積極的に社会や個人が「今、そこで出来る何かを具体的にする」ことで支えなければ、やさしい人でいることが辛くなります。

結果として、日本ではやさしさも相手と場所を選び、信用できる人間か、本当にやさしさだけを必ず必要としている相手なのかを選んでこっそり分かち合わないと、やさしさのある人はどんどん社会的弱者として追い詰められ、追い込まれていく可能性があります。

感謝の気持ちも、具体的にやさしさに報いる行動、金銭的な補償、やさしさのある人自身を守るための社会的配慮など、目に見える形で感謝を表そうとせず、やさしさだけを期待するならそれは大きなあやまちと言えましょう。

そんな日本社会の状況は、何に対しても「済みません。(仕方のないことをした)」「ご免なさい。(これ以上、感謝の心を行動で表せない非礼を免じて下さい)」を連発する風潮にも表れています。

心やさしい人が、どんどん追い詰められ、病み、疲れ、自死に追い込まれている今の日本社会ほど荒れた時代は、今までになかったでしょう。

山浦氏の「やさしさ、感謝」への讃歌と、私の読むケセン語訳聖書の霊的読書のあり方は全く逆方向かも知れません。


もちろん、私の中でも日々の生活の中で感謝に満ち溢れる出会いはたくさんあります。

ある夏の暑い日、駅の改札口の前で知的障害があると思われる青年が、何やら一生懸命にリュックとぬいぐるみと交通系ICカード入のケースと携帯電話が絡まったヒモと格闘していました。何か、彼がいつもしているようなことが出来ないため、改札口を通れなくなったのです。

自閉症者によくある「こだわり行動」のひとつだと、私はすぐに気づきました。そして、しばらく、彼の行動をじっと見ていました。

3分ほど過ぎて、彼が問題を解決できそうにない「何らかの問題」があるらしいことが分かり、声をかけて見ました。


「どうしたの?」。

彼は、携帯とぬいぐるみをリュックの右のポケットに収めた状態で、交通系ICカードを右手に持ちいつものようにタッチしたいのだが、いつものように上手く行かない、と状況を説明してくれました。

そこで、絡まったヒモをほどくのを手伝わせてもらい、携帯とぬいぐるみを後ろからしまうのを手伝いました。そうしたら、彼は無事に彼にできるやり方で交通系ICカードをタッチし、「ありがとう」と言いながら、自閉症者らしく私に振り向くことなくホームに向かって行きました。

彼の「ありがとう」のひと言が、私の中で主への感謝として湧き上がって来ました。

私が彼を助けたんじゃなく、彼が私に助けられたのでもなく、「ありがとう」とお互いに思える出会いがそこにあったのが大切なのだと、心から感じました。

「神に感謝」の心、やさしさを分かち合えること自体のありがたさを肌身に感じるとは、そういうことだと思います。


やさしさには時間も必要だし、経済的にも、人間的にもゆとりが必要です。何よりも、やさしさを行動する自由、やさしさを強制されてはならないのです。

やさしさは、私たちの自由な心から湧き出る想い、言葉、行いです。

1970年代に「小さな親切運動」なるものがあり、親切な行動をするようポスターや作文を学校で書かされたり、小さな親切行為の一覧を覚えさせられた記憶があります。

「小さな親切運動」は、上っ面だけの「親切っぽい行動の強要」であって、心からのやさしさではない欺瞞だと、子供心にも感じました。

自由なやさしさは、心根の美しさを共に分かち合う「主との出会い」だと私は思います。

「心の清い人は幸い」ということは、自由なやさしさを分かち合うほんの数分の出来事の積み重ねなのかも知れません。

自由なやさしさを心から分かち合えるようになるには、自分の心の中の痛みを経験すること、自分の抱える痛みを主の十字架に奉献することが求められます。

そうして、自らの十字架を探し、自らの十字架を担って、主に従うことがキリスト者が生きるべき真の道だと思うのです。

主よ、若い人、低賃金や長時間労働に悩む人々が、人々の出会いの中でキリストを見出し、自らの中に光を見いだせるよう導いてください、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月12日 (火)

ケセン語訳聖書を読む:心の貧しい人

頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。

神さまの懐に抱がさんのァその人達だ。

(ケセン語訳/マタイ5:3)

(心の貧しい人々は、幸いである、天国にはその人たちのものである。<新共同訳>)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

皆さん、ケセン語訳聖書をご存知でしょうか。

医師であり、大船渡で医院を営みつつ、岩手県の気仙地方の方言の研究家でもある山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)氏が、四大福音書などをケセン語に訳し、イエス・キリストのみことばの真髄を伝えんとした名著です。

「ふるさとの仲間にふるさとのことばで、わたしの大好きなイエスのことばを伝えたい」と著者は語りかけます。

↓被災直後のカトリック大船渡教会(カトリック大船渡教会FBページからお借りしました。)

416761_258780164204316_140996205_o

2011年3月11日、誰もが忘れられない東北大震災の大津波が大船渡を襲いました。

沿岸から2キロも離れた山浦病院も大津波で床上浸水し、「変わり果てた瓦礫の野に立ち、外界との連絡も全くとだえて、涙を流すことさえも忘れて呆然と立ちすくんだ」山浦氏の《イエスの言葉》(2011年文藝春秋社)には、氏ならではのイエスのみことばと思いが綴られています。

その中で、「なるほどな」と思ったのが「松下幸之助さんが聖書には『心の貧しいひとは幸い』とあるが『心の豊かなほうが幸いなのではないか』と首をひねっていた(「松下幸之助とPHP運動」坂本慎一『宗教と現代がわかる本2011』渡邊直樹責任編集・平凡社)」という引用です。

日本語で「心の貧しい人」と言えば、「ロクでなし、相手の気持ちを思いやる想像力に欠ける人、自己中心的な人、身勝手な人」などが思い浮かびます。

実は「心の貧しい人は幸い」という訳語は、厳密に日本語の意味で考えると明らかな誤訳です。

欧州から16世紀に東洋の果てに来た宣教師らは、東洋諸国では漢文で公文書をやり取りするしきたりを見聞しました。それで、聖フランシスコ・ザビエルもまた中国宣教へと向かい、その途上で殉教されたのです。

「漢文は中国の言葉に由来するものである。膨大な漢字を持つアジア言語でイエスの教えを布教するには、欧州のラテン語体系に匹敵する漢文、漢字の知識をラテン語などで正確に理解する必要がある」と宣教師らは考えました。

実は漢字の意味は、その漢字が定着した地域や時代により意味がかなり異なります。

その具体的な地域や時代の解釈の誤差の範疇を「中国の漢文」を基準に理解して当てはめようとしたことが、「心の貧しい人」のような難解な日本の翻訳語を産みだした原因となりました。

山浦氏が指摘されるように「心の貧しい人」は、ギリシャ語で「プネウマ(息吹、呼吸、生命、心、霊魂)の弱々しい人」が本来の意味です。

中国語の「貧=足りない、乏しい」と「貧弱=衰えた、弱々しい」を表し、「富強」の反対語である言葉を日本語で探したら、「貧しい(日本語では愚かさゆえに困窮する、身分の卑しい、高貴さが乏しい、品性に欠けるなどの意味合いを含む)」という翻訳語を間違えて選んだ、が初期聖書の誤訳の発端だったと言えましょう。

「愛≠性愛」は、本来の字の成り立ちからして日本人側の誤解であることは認識されて来たと思います。「愛」は「頭をめぐらせ、神さまとお互いを振り向き見る心臓と足」を表す漢字だからです。

その点、「心の貧しい人」という表現は、明らかな誤訳です。

その点、「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ」というケセン語訳は、実にギリシャ語本来の「プネウマの弱々しい人は神さまのありがたさを悟る」を的確に表していると言えましょう。

テレビで連日、まるで他人事のように「北朝鮮は独裁国家で、人民は困窮していて、共産主義者のはずなのに人民が革命を起こさない」不思議を論じています。

戦前、戦中の日本人の殆どが、支配者であれ被支配者であれ今の北朝鮮の人々のようでしたし、本質的に今の日本人が戦前の日本人と根本的に変わったとは到底思えません。

現代の北朝鮮の人も多くの日本人も、「もし自分の中にある息吹、命、生命、魂の弱さを認めてしまったら、今与えられた環境を生きられるという思い上がりに近い自信を喪失するのが怖い」という恐怖心の壁、外の世界と自らを隔てるために築いた物理的な生活の影の崩壊が自らの存在の否定につながる」と考えるため、自らの弱さ、乏しさ、短所を認められないという共通点があるからです。

自らの生命の弱さを知るものは「幸い」だと、《新約聖書》は語ります。単に衣食住に満ち足りた生活が続けられてラッキーなのではなく、魂のそこから「幸い=幸福」なのです。


自らの生命や魂の弱さを知れば知るほど、なぜ人は何らかの信仰により頼むのかを思い知ります。

そして、弱さをただがむしゃらに克服したり、他者の弱さを自分の都合に合わせて征服するのではなく、弱さがあっても生きられることへの感謝の気持ちを素直に心から感じ、生命のありがたさを生きることこそ「幸い」なのです。

誰であれ、いつ、どこでも自らの弱さを知り、弱さを生きる闇を悟り、なお生命の源である主キリストへの感謝を生きることは、心からの祈りなしにはかないません。

コツコツと稼ぎながら貯金をするのはとても大変なことですが、お金を浪費するのは一瞬です。同じように、自らが本当に弱っている時でも「ちょっとしたことへの感謝の気持ち」を日々の生活のなかで自分の魂に貯めることは至難の技ですが、「それでも自分だけは大丈夫」という安らぎにも似た高慢さに溺れるのは一瞬です。


フランクル氏の《夜と霧》にあるように、アウシュビッツ収容所の悲惨さの中でも、多くの人々はクリスマスに何らかの幸運が訪れると思い込たがり、自分だけはきっと大丈夫だという気持ちを捨てられなかったのです。

2017年の今、東北の被災地の多くは未だ復興から程遠い状態にあります。人間的に考えれば、被災直後よりさらに悪化した状況を生きる人々も多いでしょう。


被災した頃に多くの支援を受けたことへの心からの素直な感謝の気持ちから、今は遠のいてしまった方もいらっしゃるかも知れません。

その後の就労、住居などのいろいろな困難や被災者への差別、進まない補償交渉、健康被害など多くのことがあったからです。

それは3.11の被災者に限らず、生老病死すべての個人的な危機に直面したことのある全てのひとに言えることです。

私たちは、頼りなく、望みなく、心細い時には神頼みに縋りつきますが、喉元過ぎれば熱さを忘れます。

日本のキリスト者は、頼りなく、望みなく、心細い時にこそ十字架のキリストとの出会いがあり、新しい人生、新しい幸いが訪れると信じ、困難ななかでも希望の灯火を灯し続ける灯台守のようなものだと私は思います。

希望の灯火は机の下に隠すものではなく、どんな漆黒の闇の中でもあかりをかざすためにあります。

漆黒の闇の中で、たかだか一つの灯火をかざし続けても、希望のあかりが他の誰かに見えるものではないのかも知れません。

それでもたった一つの希望の灯火を失ったら、この世界は多くの灯火を失います。どうか、このブログをお読みくださった方で、お志のある方はキリスト者として小さな希望の灯火を誰かに届けてください。

ちょっとした声かけ、小さな気遣いや思いやりがあるだけで、私たちは世界を変えられるのです。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月 8日 (金)

祈り:感謝の祈りーキアラ・ルービック

愛します、あなたを。

そう言いなさいと、誰かが教えてくれたからではありません。

心の中に、そのことばが浮かんできた

そのためでもありません。

あなたは愛であると、信仰によって確かめたからでもありません。

わたしのためにあなたは死んだ

いいえ、それだけのためではありません。

愛します、あなたを。

胸の中に吸い込まれる空気のように、

身体を流れる血潮のように、

あなたはわたしの中に入って来たから。

誰も入って来られなかったところに、

誰も助けられなかった時に、

誰も慰め得なかったその日に、

あなたはやって来られたのです。

毎日あなたに語り

毎日あなたを見つめ

わたしは知ったのです。

あなたの顔には答えがあり、

あなたのことばには教えがあり、

あなたの愛には解決がある。

愛します、あなたを。

何年も、何年も、あなたはわたしとともに生き

わたしはあなたに養われていたのに、

気がついてさえいませんでした

あなたのおきてにうるおされていたことを。

それがわたしを育て、強いものにし、

元気にしてくれたのです。

でもわたしは知りませんでした、

母に抱かれる赤児のように、このうえなく優しい、あの名前を。

受けてください

ーほんの少しではあってもー

わたしの感謝の気持ちを。

注いでくれたこの愛に対して、

この愛ゆえに、わたしに残された生命のあるかぎり、

わたしは言いたい

あなたを愛します、と。

(《祈りの友》より引用)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

↓フォコラーレ運動の創始者、キアラ・ルービック女史(平信徒)

C0c53a_f6b7709dc92540f5906d1080c4cb

カルメル会の《祈りの友》に収録されたこの祈りを残されたのは、1920年にイタリア北部のトレント市で生まれた、フォコラーレ運動、のちのエキュメニカル(教会一致)運動へと繋がる活動を始めたキアラ・ルービック女史です。

『1943年、「神は愛である」という自らの深い体験に基づき、キアラと最初の仲間達は福音を自分のものとしていきる生活に強く心を惹きつけられました。そして、彼女達が目標としたのは、イエスがご受難の前に御父に向かって祈られた「一致」で、その実現のために力を尽くすことでした。』(《見捨てられたイエス…一致への道》より引用)

一般信徒としてフォコラーレ運動に自らを奉献されらキアラ・ルービック女史は、1981年、1985年に来日されました。そして、「見捨てられたイエスへの愛がもたらす実り」こそ、「すべてのキリスト者の一致」の霊性であると、語られています。

日本語に訳されたキアラ・ルービックの著書としては、しぇるりんの手元にある《見捨てられたイエス…一致への道》の他、《皆が一つになるように(所在未確認)》、《生命の言葉(所在未確認)》、《黙想集(所在未確認)》があるとのことです。

『胸の中に吸い込まれる空気のように、

 身体を流れる血潮のように、

 あなたはわたしの中に入って来たから。

 誰も入って来られなかったところに、

 誰も助けられなかった時に、

 誰も慰め得なかったその日に、

 あなたはやって来られたのです。』

聖三位一体を通じたキリストの愛との深い霊的な出会いを語るのに、これほど的を得た祈りは他にありません。

『一致は時のしるしです。

 現代世界にはさまざまな対立や困難が存在しています。

しかし一方では個々の人間関係においても、国家レベルにおいても、相互の理解と連帯感は一層深まりを見せ、私たちの障害に光を投げかけてくれます。』

20世紀最大の世界戦争の真っ只中で始められたフォコラーレ運動は、第二バチカン公会議以降のカトリック教会がエキュメニカル運動へと、舵取りの方向を大きく方向転換するための、必要不可欠な小さな歯車だったと言えましょう。

21世紀の日本では、当たり前のように各地域ごとにカトリック司祭、正教会司祭とプロテスタント牧師が、定期的に祈りの集いや、福音宣教に関する諸問題を話し合っています。


キリストの愛によって、わたしたちは違いを尊び、ともにキリストの愛を讃美できるようになるとしぇるりんは信じます。

現在のフォコラーレー運動は、2008年にキアラから会長職を引き継いだマリア・ヴォーチェを中心に、カトリック教会内での対話、正教会や他のキリスト教会との対話、そしてヒンズー教、仏教やイスラム教指導者らとの諸宗教との対話活動も行なっているようです。

活動のキーワードは「『自分にしてもらいたいことを人にもしなさい。自分にしてもらいたくないことを人にもするな』という『黄金律』を生きる」ことにあります。

わたしたちはつい「自分がこれを相手に言うのは、当たり前のことだし、多数派の言い分だし、善意で言ってあげているの。でも、相手の言い分は、私の考えとは合わないし、違和感を感じるから、真面目に聴かなくていい」と思いがちです。

これは、誰もがそうなのです。本質的に、自分のことは自分にしかできないからです。相手の代わりに生きることなど、誰にもできないのです。

しぇるりんのリハビリの先生が障害と疾病でどうにもバランスの悪い動きを見て、「あなたのフォームや姿勢を直すのは、あなた自身しかいない。私にはあなたのフォームを直せない」と言われます。これは、霊性や心、気持ちの持ちようにも言えることです。

自分の身を全く守ろうとせず、神の愛に全く理解を示す気がない相手に愛の業を実際に行おうとしたら、神の愛に生きる人は無駄死に、犬死にを選ばざるを得ない可能性があります。

そんな無理難題の連続だけでは、キリスト者は生きて行けません。自分の身を守りつつ、キリストの愛を祈り、「自分がしてほしいことを、相手に行いなさい」を続けることが大切なのです。

イエスが誰も助けられない時にくださる愛を信じて相手のために祈ること、対話の努力をすることは隣人と親しくなるきっかけをもたらします。

フォコラーレ運動もそうですが、新たな共同体、仲間たちは「何となく私はその時、主がそう語りかけておられると思った」という動機で集まります。

主の語りかけは、まず感謝の祈り、心の安らぎから始まります。その人の回心以前からある素質や素行、周辺の状況に関係なく、主の赦しのたまものに導かれ、わたしたちはそれぞれ主に導かれ、生かされているのです。

実質的に宣戦布告のない第三次世界大戦の中にあると言える今、一致のしるしは、キリスト者だけではなく、諸宗教の対話の中で更に深まり、世界に広がりつつあります。

今や、どの共同体で活動しているから、どんな霊性のうちに生きているから…という動機づけではなく、すべてのキリスト者がキリスト教一致の流れに招かれ、多くの人々が参加しています。


主よ、キリストの愛において一致の神秘を求めて祈ります。あなたの愛に勇気づけられ、導かれるわたしたちが、あなたへの感謝を人々に示すことが出来るよう導いてください、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月 5日 (火)

祈り:平和を願う祈り

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤ちのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、喜びを

闇のあるところに、光をもたらすことができますよう

助け、導いてください。

神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを望ませてください。

自分を捨てて初めて、自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ、永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。
(アッシジの聖フランシスコ、《祈りの友》より引用)

お元気ですか。しぇるりんです。^_^

アッシジの聖フランシスコは、若い頃、とてつもなくホラ吹きで、貧しい人に乞われると何でもあげてしまい、故郷に身を捧げたいと従軍するなどして、大商人であった父親と町ぐるみで大揉めした「とんでも半生」を過ごした聖人です。

「壊れた教会を立て直せ」という主のみ声を聞いた彼は、祈り、償い、物乞いの生活を送りつつ、町外れの壊れた聖堂を直し始めます。

結果的には、主がアッシジの聖フランシスコに求めたのは「腐敗したローマ教会の立て直し」でした。


そんな彼の「平和の祈り」はあまりにも有名です。

彼の時代には、憎しみ、分裂、迷い、誤ち、絶望、悲しみ、闇が実生活の中に深く感じられていました。聖人の時代の絵画には、苦しむ中世人の表情が克明に描かれています。

↓中世の旅人(ナルキッソスの黄昏さんから借用しました。)

4e9bf88c 過酷な労働と飢餓に苦しむ大勢の人々、深いシワの刻まれた表情には、救いを求めてなお、救われない絶望的な哀愁帯びた眼差しがあります。

21世紀の今、多くの先進国では表面上は飢餓に苦しむ人はさほどいないように見えます。困窮した人々は、糖分や油分を多く含む売れ残りの菓子パンのようなものを食べているので、むしろ肥満に悩んでいそうです。しかし、一日に菓子パン一個しか食べられないのに、スマホの月額料金は払い続けなければ日雇いの仕事すらままならない現実があります

21世紀の先進国では、一人の人間の理解力をはるかに越える地球上の「人類」と、実際に接触することが増えました。


都市化と同時に多様性の時代となり、自分と同じような文化や環境で育った人がこの世に何人もいない、または一人もいないと感じる「文化社会的なおひとりさま時代」の孤独を生きています。

血縁の家族や恋愛、友情の持てる限られた人々とのつながりの中で生きて行く「多様性という名の孤立時代」を生きているのです。

あからさまに心を閉ざし他者を排除する「極右化」絶望的なまでの「オレさま化」傾向が強まる一方で、「同じヒトでいたい」という「人類としての同一性」を求める真摯な求心力も強まっているとしぇるりんは感じています。


異なる環境で、異なる文化を数万年の間築き、どこからどう見ても「同じに見えない、思えない」ヒトになっても、ヒトはヒト以外の別の種になることを目指そうとはしませんでした。神の摂理が働いているのだと思います。

キリスト者にとって「自然人」とは、すべてのヒトが神の被造物である、ということです。


↓アッシジの聖フランシスコ

T02000339_0200033912436411246 アッシジの聖フランシスコが天国で21世紀の私たちを見たら、きっと涙して断食し、悲しみに暮れるでしょう。

今の私たちが神の愛の熱い思いを悟るには、あまりにも深い孤独と無関心の中に捨て置かれているからです。

私たちもまた、テレビに気を取られ、お互いへの違和感をうっすらと感じているからこそ、家族の眼差しや人柄と向き合おうともしていないことを、無意識のうちに自覚したくないと思っているのです。

そこには、憎しみや分裂以前に、相手と自分という人格への無関心、生命の尊厳への軽蔑、一人の人間の力ではどうにもならないという絶望感が秘められています。

アッシジの聖フランシスコの兄弟おおかみや、兄弟姉妹なる小鳥たちに説教された主への愛をいまの言葉であらわすとどうなるか、しぇるりんなりに考えて、ひと言足してみました。

「神よ、今の世に平和をもたらすために
 無関心のあるところに、関心を

 孤独のあるところに、心開けるきっかけを

 生命を軽んずるところに、いのちの尊厳を

 人間扱いされない人、ひとを人間扱いできない人の心に

 人間らしい心を取り戻させてください。

 すさみのうちに絶望する人に、希望を

 孤独のうちに、神の深い愛と慈しみを見出せるよう

 いつも導いてください。


 自分のうちに死に、神のうちに生きられるよう

 いつも望ませてください

 私たちの望み、愛、慈しみの源である主よ

 私たちが世の終わりまで

 いのち尽きるまで

 いつもあなたをほめ讃えることができますよう 

 導いてください」

スマホや動画、デジカメなどが普及したことで、私たちは目に見えるもの、ビジュアル系で見えるものに取り憑かれています。

そんな時代の中で「目に見えないもの」について語ることじたい、何か違和感を感じる人が増えたのかもしれません。


「平和」は単に戦闘状態にない、銃撃戦をしないというだけではありません。

もちろん、「見るもの全てを撃ち殺し合う」ぶっ飛んだ状態にある地域では「戦闘状態の収束、銃撃戦を止める」ことは絶対に必要です。

しかし、人と人が分断統治の中で互いを監視し合い、不信感を抱き、いじめ合い、いがみ合い、お互いを自分と同じ人間として受け入れられず、互いを差別し合うなら、そこには「目に見えない戦争」があり、「真の平和」がないと言えましょう。

アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」は、単純な戦闘状態の収束を求める祈りではないとしぇるりんは思います。

私たちがほんとうに主のみ前で平和のうちに内的にも安らぎを得て、それぞれに与えられた主のみ旨を果たそうと心から願うなら、主は必ずや平和のみ恵みを与えてくださるでしょう。


アッシジの聖フランシスコの執り成しを求めて祈ります。一部の好戦的な人々、「われ亡きあとに洪水来たれ」という絶望の中で扇動する勢力に、多くの人々が知らぬ間に踊らされている今の時代に、真の平和をもたらしてくださるよう祈ります。また、あなたの名を教皇名に頂いた教皇フランシスコをお守りください、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月 1日 (金)

祈り:幼きイエズスの聖テレジアの「今日の歌」

私のいのちは一瞬、過ぎゆくひと時

私のいのちはわたしからのがれ去り

つかの間に消え去るひと時。

御身は知っておられます。

ああ私の神よ、この地上で御身を愛するために

私には今日だけしかないことを!

私は御身を愛します

イエズスよ!御身に向かって私の魂は憧れる…

一日のためにだけ、私のやさしい支えとなってください

私の心に来て、おさめ(治め)

私に御身のほほえみをお与えください

ただ、今日のためにだけ!

もし、あす(将来)が暗くても

主よ、それは私に何でもありません

明日のために祈る

ああ、私にはそんなことは出来ません

私の心を清く保ち、私を御身の陰でおおってください

ただ今日のためにだけ!

明日を想うと、私は自分の変わりやすさを恐れます

私の心の中の悲しみと、倦怠が生じるのを感じます

けれども主よ、私は試練も苦しみも欲します

ただ今日のためにだけ!

やがて永遠の岸辺で、私はあなたに目見えます

導きの聖なる水先案内よ

あら波の上に、私の小舟をやすらかに導いてください

ただ今日のためにだけ!

私は、わたしのイエズスを見たい

覆いなしにかげりもなしに

けれどこの地上でも、私は主のお側にいるのです…

主はその愛すべきみ顔をお隠しにはならないでしょう

ただ今日のためにだけ!


(カルメロ神父編《祈りの友》「今日の歌の抜粋」より。当時の日本語との違いを鑑み、句読点の位置、非常用漢字はひらがな表記とし、訳語「彼」を「主」に変更しました。)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

↓幼きイエズスの聖テレジア

T01970291_0197029110775969059 幼きイエズスの聖テレジアは、小さな祈りと修道院での小さな仕事に、決して丈夫とは言えないお体で精一杯つとめ、誰よりも深い祈りに生き、若くして亡くなった宣教者の守護の聖人です。

『ああ私の神よ、この地上で御身を愛するために、私には今日だけしかないことを!』

この一節は、私たちが常に「明日の生命は分からない」ということを心から受け入れるよう、常に問いかけます。

「明日があるさ」と「明日は明日だ」は、意味が全く逆です。

「明日があるさ」は「今日出来なかったこと、しなかったこと、したくなかったことは、いつか誰かがどうにかするだろう」という私たちの果たせなかった責任を、自分に来るかどうかも分からない「明日」や「将来」に押し付けることです。


英語の「After me, the deluge(われ亡き後に洪水よ来たれ)」という無責任論に通じてしまいます。

その点、「Tomorrow is the another day.(明日は明日である。)」は、「明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書6:34)」の「自分の命のことで思い悩むな」をイエズスさまが語る25節~の続きです。

突然ですが、野球談義をひとつ。DeNAベイスターズ2015~のラミレス監督が、試合後の監督インタビューで最後にまるで判を押したように「Tomorrow is the another day. So, we’ll do our best.(明日は明日です。私たちの最善を尽くします)」と2017年の梅雨ごろまで言い添えていましたことが多かったです。

ところが、どうもラミレス監督は「日本人は『明日は明日だ』と『明日は野となれ山となれ』をごちゃごちゃにして受け止めるようだ」ということに、気づいたらしいのです。

最近になり、明日の試合への抱負を細かくコトバで噛み砕いて説明するようになりました。実に鋭い感性の司令塔だと改めて感心しました、ラミレス監督。

誤解の原因として考えられるのは、日本人が聖書に触れるきっかけは、聖句のある一部分を切り取って英文学の理解、異文化理解、英語学習、サスペンスの謎解きなどのために覚える人など、世俗的なニーズを動機としている場合が多いことです。

そのため、当たり前にマタイによる福音書6:25~で宣教活動に弟子たちを送り出す心得を言い渡す時、「何を着ようか、何を食べようか、命のことを思いわずらってはならない。」と「主なる神のみ恵みを祈ることの大切さ。」を語っている前後の文脈を読まず、キリスト者の信仰の文脈、説教の文脈を全く「分かってないことが分からない」方が多いのです。

「明日のことは明日自らが思い悩む」とは、明日置かれる状況の中で、明日生きるべきことを、今日のうちからくよくよと悩むことはストレスになり、神さまに心を閉ざす要因となりますの意味です。また、不必要な執着への執着を生む負の連鎖に弟子たちがはまらないよう、イエズスさまが諭しておられるのです。

なので、ラミレス監督が言いたかったのは「試合が終わったばかりの今、今日の試合でのミスなどへの反省が度を過ぎ、明日の試合への期待が大きくなり過ぎ、緊張した状態で気持ちが休めず、選手はくよくよ悩むかもしれない。それでは却ってストレスになり、あるはずの実力が発揮出来なくなる可能性もある。明日の試合結果への無用な執着がチームが負の連鎖に陥るワナにならないよう、勝ち試合にせよ、負け試合にせよ、私はもう気分を切り替えましたよ。」という意味だと思われます。

キリスト教圏では、「単なる冠婚葬祭のために洗礼を受けた人で、特に信仰のない人」にでも通じる有名な文脈ですが、日本人にはこれが通じないのです。

そこを、幼きイエズスの聖テレジアは更に一歩進んで「ただ、今日だけ、主を愛するためにだけ」生きることを祈ります。

今日だけを主とともに生きること、今日だけ主を愛することを心から求める幼きイエズスの聖テレジアの祈りは、更なる深まりを追い求めます。

明日への準備をすることを怠ってよいと言う意味では、もちろんありません。明日、提出する適量の宿題は「今日の務め」であり、今日の学びです。

しかし「今日に全てを詰め込んで、睡眠時間を削ってでも無理やり今日のうちに終わらせる」というブラック企業的な発想はあやまちです。

幼きイエズスの聖テレジアが下働きの修道女であった時、「全世界に行って福音を宣べ伝える」カトリック教会の世の終わりまでの全責任を、お一人で担えたわけではありません。

ただ、「神の国と神の義を求め」「福音宣教のため」に祈り、与えられた下働きの仕事と長上の意向に従順であられたのです。

無理なことを無理やり押し付ける、自分も無理と知りながらずるずると今日に全てを詰め込もうとすることは、「命は食べ物より大切であり、体は衣服より大切ではないか(マタイによる福音書6:25b)」という「生命の尊厳」への冒涜です。

生きること、世の終わりまでいのちのリレーをつなぐこと、そのために必要な文化的生活、学習などの継承は、人間のいのちが命として存在するために必須です。

生命の尊厳は、思想信条の違いを超えてどんな場合であっても心に留め、いのちを大切に思う心を失くしてはならいのです。

それほどまでに大切な生命の尊厳が、モノより軽んじられ、数バイトの電子データとして扱われるようになりました。

生命の世俗的な格差は、地球上で驚くほど広がっています。


一方には当たり前のように餓死し、銃殺され、テロで殺害される生命がいます。

一方には飽食が原因でいのちを落とし、老衰に永く苦しんだのちに亡くなる人がいます。

どちらもモノ扱いを受け、データーの数文字に置き換えられ、人間として、生命ある者としてお互いを見られなくなっている、地球史上稀に見る不幸の中で生きているのです。

地球上でいま起きている、すべての不幸や苦しみをともに負うことは、誰であれ人間には出来ません。

日本に生まれ育ったわたしは、飽食の国に生まれ、国民皆保険制度時代の恩恵を受け、どうにか生き延びました。

苦しみがなかったとは言えません。たぶん、さまざまな事情で相対的に多く苦しんだ方だとは思います。それでも、地球上には私より多くの苦しみを負う方々が大勢いると感じます。

いつ亡くなってもおかしくないはずの私の生命を、主がみ恵み深く今まで活かして下さったことには、何か主ご自身の理由がおありなのでしょう。

だからと言って、私にきょう出来ることは大海の一しずくにも満たないことです。

今は病者の務めとして、誰か苦しんでいる方を思い浮かべ、その方のために祈ること、こうしてブログを書くこと、自分がこれからキリストのために何が出来るのか、共に働く共同体を求め、主の導きを祈り求めること…。

どれも大きなことではありません。でも、きょう、今できることを今しなかったら、主は「わたしの今の時」を永遠に失ってしまうのです。

日々が同じことの繰り返しでしかないようでも、「たった今」の連続の中にわたしたち一人ひとりの生命が生きています。

皆さんの「今日」「いま」もまた、誰か他の人の「今日」「いま」と同じ尊厳をもつ、神さまにとって何よりも大切な永遠の一瞬なのです。

 

このブログをお読みになる皆さんの、今日、まさにいまのこの瞬間に主の祝福がありますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ




Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年8月29日 (火)

祈り: 私の願い ーある兵士の祈りー

成功するために神に力を願いましたが

与えられたのは謙虚さでした

従うことを学ぶために

善行をするために健康を願いましたが

与えられたのは病気でした

より善い行いをするために

幸せになるために富を願いましたが

与えられたのは貧しさでした

賢くなるために

人から尊敬されるために能力を願いましたが

与えられたのは弱さでした

神を必要とするために

人生を楽しむために

すべてのものを願いましたが

与えられたのは命でした

すべてのものに感謝して生きるために

私が欲したものは

何も与えられませんでしたが

声に出さなかった祈りは聞き届けられ

私はだれよりも豊かで祝福された人間となれたのです

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

この祈りは、南北戦争の時代にアメリカのある兵士が病院の壁に書きつけたと伝えられています。

南軍の兵士だったのか、北軍の兵士だったのかは分かりません。南北戦争では南北両軍の将兵ともに負傷、戦場での食糧難、そして衛生状態の悪化により当時に流行ったチフス、そして「戦友」と呼ばれたシラミに悩まされたと伝えられています。

なぜ南北戦争が始まり、どうして巻き込まれ、どうして将兵として動員されたのか分からないまま、大勢のアメリカ人同士が南部と北部に分かれ、殺し合いました。

北軍の兵士には「一稼ぎに来た」移民一世が大勢いました。戦場に出て命永らえて、何らかの戦功を立てれば褒賞や利権にありつこうとした者も大勢いたでしょう。

南軍の兵士らもまた、農業王国を守り抜くために必死でした。「アンクル・トムの小屋」に描かれた「北部側から見たイメージは、当時の南部の現実とはだいぶ違うようです。

どちら側の兵士にとっても、戦場はただ悲惨で苦しみに満ちた場所でした。

Church750251_640 この祈りにある、「謙虚」という日本語には静かに一歩下がるイメージがあります。英語では「humble=屈辱や惨めさを甘んじて受ける」という意味で、日本語の「謙虚」とは少し意味合いが違う可能性があります。

神に力を求めたら、与えられたのは屈辱を甘んじて受ける惨めさに秘められた、神への従順の神秘でした、という深みのある一節から始まります。

戦勝を願うのは善なる行いだと信じていたが、与えられたのは病と負傷でした。

富を得れば幸せになれると信じていたけど、与えられたのは貧しさであり、貧しさをよりよく生きる賢さでした。

強ければ尊敬されると思っていたのに、与えられたのは弱さでした。神さまをいつも必要とするわたしでいるために。


人生をエンジョイしたいと願っていたのに、与えられたのはいのちでした。感謝の心で日々をすごすために。

兵士の想いと信仰の深まりをしぇるりんなりにあらわすと、こんな感じでしょうか。

成功にあこがれ、お金さえあれば幸せになれると思い描き、何らかの強さや権力のようなものがあれば尊敬されると、私たちは若い日に思い込みがちです。

この兵士は最初に神を求め、次に成功、富、強さを求めました。この詩が「祈り」であるゆえんです。

この祈りに、自分のこれまでの生きざま、想い、行いを重ねてみましょう。

あなたの声に出さなかった祈りが、きっと見えて来るはずです。深い心のなかで求めていたものは、神さまが私たちにくださりたいとおもうものだったでしょうか。

声に出さなかった祈りこそ、神さまは聴いておられます。

心の静けさの中で、声にならなかった祈りは香のように天に立ち上ります。

静謐に心におけば、静けさもまた自ずとやって来ます。祈りは、静けさの中で限りなく咲き続ける美しい花のように野辺を彩ります。

ただ単に生に追われる逃れ場として死を求めるなら、そそくさと騒がしさに追われるままいのちを失うかも知れません。

生から逃れるためだけに死を強く求めるなら、いちどでもいいので静かなどこかに逃げ出しましょう。

逃げることも、時には勇気が必要なのです。

神は静けさの中に、素直に命に感謝する想いの中に、愛と慈しみ、望みとみ恵みを限りなく注がれます。

そこにいのちある自分が、見えましたか。

いのちがあることへの感謝こそ、主なる神へと向かう回心への入り口です。

 

今日一日、あなたもわたしも生きていて本当に良かったと思えるよう、共に祈りましょう、アーメン。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年8月25日 (金)

カトリック教会での聖書の読み方:時のしるしとともにみことばの『場』にいる

『神は言われる。

 終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。

 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、

 若者は幻を見、老人は夢を見る。

 わたしの僕やはしためにも、

 その時にはわたしの霊を注ぐ。

 すると、彼らは預言する。

 上では、天に不思議な業を、下では地に徴を示そう。

 血と火と立ち込める煙がそれだ。

 主の偉大な輝かしい日が来る前に。

 太陽は暗くなり、月は地のように赤くなる。

 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(使徒言行録2:17~21)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

人の人生とは不思議なものです。

退屈になりそうなほど変化の少ない、平凡な日々が続く時があるかと思うと、目まぐるしいほど忙しいばかりの時があります。「自分の人生なんて変わりっこないさ」としか思えない時がずっと続くかと思えば、ある時を境に急に目まぐるしい変化がバタバタと続くこともあります。

私たちそれぞれの人生の中にも、時のしるしというものがあります。

例えば、しぇるりんがふいに「これから一ヶ月後に会社を辞めなくちゃ」と決断したのは、2011年2月7日、あと数日でルルドの聖母の御出現の日を迎えるという時でした。

それまで一年以上、会社を辞めたいと思っていたのですが、いつ辞めるという決断がつかなかったのです。

あの日、私はある種の時のしるしを感じて、私は退職を決意しました。

それから約一ヶ月後、父が午前中に病院を退院して帰宅した3月11日の午後に東北大震災がありました。

私のようなメンタルの弱いものが、直接の被災地ではないにせよ関東地方在住で、かなり地盤の脆弱な場所にあった会社にあれ以上勤めていたら、きっと心神耗弱状態に陥ったと思います。

「預言」と「予言や予知、予感のようなもの」は意味が違います。

「予言、予知、予感」は未来に起こることを、直感、霊感、科学的根拠や社会的動向を読んで当てることです。

「予言、予感」は単に直感の鋭い人、理論的に突き詰めて鍛えた後天性の直感力で未来を言い当てる人もいますが、悪霊に取り憑かれて引き起こされる「悪夢のような予言」に悩まされる人もいます。

その点、聖書で言う「預言」とは主のみことばを主から直接預かり、人々に伝えることを指します。故に聖書の時代に「預言」は終わったと考えます。

信仰ある人が祈りの中で得た「何らかの啓示」は、その内容がより神学的な内容を示しているか、何らかの奇跡的な結果を残したか、私たちの日常生活の中に溶け込んだ何かであるかの違いがあるにせよ、個人的にみことばと聖霊の導き、聖人聖女の祈りの執り成しの中で得た「主の導き」だと考えられます。

その中で、特に神学的な意味合いの深いもの、教会の教えの根幹に関わる「けがれなき聖母の御心」を語られた「ルルドの聖母の御出現」でような場合には、「公的にカトリック教会が崇敬を認める御出現」と教皇庁で認定することがあります。

また、「無原罪の聖母の大祝日」を定めて、「聖母は人間でありながら、原罪を免れてお生まれになった」という教えを公的に「教会の教え」として認めることもあります。

日本で私的な示しであって有名なのは、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者が、長崎市に背を向けた山の陰になる地を「聖母の騎士修道院」の土地として「けがれなき聖母が望んでおられます」と言われたことなどでしょう。

後年、聖コルベの死後に長崎で原爆投下があった時、切立った山かげにあった聖母の騎士修道院は、ガラスが何枚か破れただけで、ルルドのお水も聖母像も無事でした。

私たちの小さな日々の生活のなかにも、聖母のみ手が働いています。

けがれなき聖母も、主なるイエスも、私たちが何らかの幸運に恵まれたり、世俗的な栄華を得たりすることを望んでわたしたちを導き、災いから救ってくださるわけではないとしぇるりんは思います。

私たち一人ひとりが、それぞれの人生の中で主なる神とのつながりを、原罪の厚い壁を乗り越えて、またはくぐり抜けて見出せるよう、主が私たちの越えるべきハードル、登るべき階段を、越えやすいように低くし、階段に踊り場をもうけて下さっているのだと思います。

主のみ教えを世の終わりまで継承するために、私たちそれぞれの日々の生計が成り立つこと、旅する人には必要なモノや手段、何よりも人とひととのつながりが入り用です。

また、心から神のみ国と義を待ち望む宣教者は、自分が招かれている共同体、召命を知ること、聖霊の導かれるまま、観想生活と長上への従順の中で、自らが磨かれ、主の愛に満たされることを願います。

わたしたちは、それぞれ主が与えてくださった時と場のしるしを生き抜かねばなりません。

↓1945年11月に行われた浦上天主堂での合同慰霊祭

Kamitabi44 先日、NHKのEテレで「原爆と沈黙ー長崎浦上の受難」という番組が放送されました。

その中に、永井隆先生の「浦上は世界平和のための償いのために選ばれた」という言葉に、若いころ反感を感じた男性が登場します。ヒバクシャと呼ばれた彼の怒り、憎しみ、悲しみをあらわせない苦しみから荒んだ気持ちになり、彼は教会を離れたそうです。

しかし、1981年に訪日された教皇ヨハネパウロ二世の「戦争は人間が始めるものです…戦争は死です。」のお言葉に感銘を受けて信仰へと立ち戻り、今は被爆のマリア像を彫って諸外国の聖堂で奉納し、長崎の被爆と差別の証言者として活躍しておられるそうです。

敗戦記念日の特番ものの常で、真の加害者である差別に加担し、揶揄し、蔑んだ側の多くの普通の日本人の姿は映像にはありません。

ただ、浦上のキリシタンたちと江戸時代から確執のあった隣接の被差別部落「浦上町」の部落解放同盟運動が1970年代に起こり、長崎県に被差別部落の存在を認めさせたこと、長崎県が同和政策に転じたことだけが語られました。

番組を見て、それぞれの人が、「自分に与えられた時のしるし」を語り、後世に何かを語り継ごうと努力する真摯な姿は、カトリック信徒にせよ、浦上町出身者にせよ変わらないと思いました。

いま、あなたにも、わたしにも、主は時のしるしを示しておられます。

「幸運には後ろ髪がない」と言うことわざがありますが、主は時のしるしは、幸運のように瞬間のチャンスのようなものではありません。

生きている間に回心して主に向き直る気持ちになるまで、わたしたちが主を心のどこかで強く求めていれば、必ず忍耐強く見守ってくださいます。

「主はわたしを青草の原に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い

 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく

  わたしを正しい道に導かれる」(詩編23:2~3)

わたしはある人から、このみことばを遺言として受け継ぎました。それ以来、わたしの中には主なる神と出会いたいという気持ちが宿りました。

その後、ワルを気取ってみたり、色々な災難にも巻き込まれましたが、いまは「主は確かに、主ご自身がわたしを、あなたを導いておられる」という実感があるということです。

なぜ、どうしてこの道なのか…?、は主の道を歩くうちに徐々に分かるもののようです。

主の道は、運命論的な「決まったもの」ではありません。歩んでいるうちに、「ああ、わたしの十字架を主がともに担ってくださるのは、わたしがこれをするためだったんだ」と思えるように結果的になる、という感じです。

時に避けられない苦しみや絶望的なまでの孤独の時あり、幸せだと思える時もある中で、いつも主のみことばは私の足の支え、道のしるしでした。

自分にとって「今の時は、どんな意味があるのだろう?」と悩める方も多いと思います。何らの意味ある人生を歩んでいるとも思えず、ただ苦しむだけの人生なんて真っ平御免だと思っている方もあるかと思います。

主は時のしるしを示されますが、とても小さなお声で、はるか彼方から呼びかけられるので、耳を傾け、耳を澄まして聴き続けなければなりません。そして、主が時のしるしを示されたなら、迷わず主に向かって回心する決断をすることは必要です。

主がソドムとゴモラを滅ぼされた時「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山に逃げなさい。さもないと、滅びることになる」とロトに言われました。

が、それまでも主のみことばのままに逃げることにためらいを示し続けてきたロトは、最後に逃げる途中で後ろを振り返ったため、塩の柱になってしまいました。

この話を「見るなの禁」を破ったからだという、神話学的な解釈で読む人も多いです。

しかし、「後ろを振り返る」以前の経緯を読むと、ロトはほんとうに何回も「主がこの町を滅ぼさなければ、自分たちは今まで通りの暮らしが続けられるはずだ」と、主の御使をご馳走でもてなし、街を滅ぼさないよう乞うて叶えられないと知り、まず身内の命乞いを願ってから、徐々に街全体へと…とユダヤ教徒の論理で主のみ心を変えようと対話を試みます。

ロトに忍耐強く主のみことばを伝える御使は、ロトの身内の命乞いの願いを聞き入れますが、「ソドムとゴモラの滅びは主の御心である。逃げなさい」という御使のことばは翻りませんでした。

それでもロトは「後ろを振り返るな=主のみことばを心から従順に受け入れなさい」が「どうしてもできない」と感じていたらしいことが、創世記14〜19章の文中から読み取れます。

主がしめされる時のしるしは、「自分の思い描いた未来は、こんな感じだったのに…」への執着が捨てきれなければ、ロトの時のように残酷な結果をもたらしたように思えることもあります。

何となくでも「主の導かれる道なら、それでいい」と心から受け入れてなお、必要なみ恵みと自分自身の回心と周囲の人々の回心を心から願うなら、主は不思議なぐらい多くのみ恵みをお与えくださいます。

あなた自身に与えられた、いま生きている時のしるしと共に、どのみことばを心に刻んでいるでしょうか。

良い時、ただ穏やかに日々を過ごせる時、良い人でいることですら、自分の欲望や無関心で難しいこともあります。

しかし、わたしたちが本当に試されるのは十字架の日々の中で、どうにもならないでいる時に主の愛と慈しみの前で何ができるか、なのです。

そんな時に、小さないまの時のしるしの中で、あなただけの「みことば、聖句」を見出せればうれしいと思うのです

第三次世界大戦が始まったのではないかと思えるいまの時代にあって、日本のほんのわずかなキリスト者が背負える十字架もまた、限られています。ほんの一粒の麦でしかないわたしたちが、聖母マリアさまの執り成しに支えられ、最善の働きができるように祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年8月22日 (火)

カトリック教会での聖書の読み方:みことばの「場」にいる

主は(預言者エリヤに)「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。

見よ、そのとき主が通り過ぎていかれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。

風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。

火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。(列王記上19:11~13a)

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

冒頭の聖句は、映画「サン・オブ・ゴッド」の中で何度か唱えられた箇所で、年間第19主日の第一朗読です。

預言者エリヤに主のみことばが臨み、干ばつを預言したため、たびに各地を彷徨い、疲れ果て「わたしの命をとってください」と懇願するほどの苦難の旅の末、ホレブの山でみことばを通じて主と「顔と顔を合わせて向き合う」、感動のシーンです。

主のみことばは、知識として覚えようとすると、却って「右の耳から入って、左の耳に抜けていく」傾向があるように思われます。

↓映画「サン・オブ・ゴッド」(公式ツイッターよりお借りしました)

B7svtqvcuaei1nf

映画「サン・オブ・ゴッド」では、ヘブライ語の歌とユダヤ教のものと思われる、古典的な旋律が多く歌われました。

みことばを歌い、詩として唱えることで、主の愛、いつくしみ、真理、希望が心に染み入るのは昔も今も変わらないのでしょう。

もしかしたら、ヒトの最初の言語はことばにならない呻きから、詩と歌がどこかから湧き上がって来たのが起源ではないかと、しぇるりんは何となく思っているのです。

神父さま方は、ミサの説教で「聖書で読まれた場にそれぞれ自分がいると感じられる」よう、祈りのうちに工夫を凝らしておられます。

そのため、説教を考える際には「司祭個人の霊的読書の祈りそのものを、説教にしない方が望ましい」という考え方もあるようです。

それは、司祭がひとりのカトリック者として霊的読書の祈りと向き合うことと、「その日、その時のミサに与るすべての人々が、それぞれの想いを抱いたまま『みことばで読まれた、まさにその場にいると感じられる』ための説教」は本質的に違う、という意味合いらしいです。

例えば、福音書の「二匹の魚と五つのパンの奇跡を男だけで5000人の群衆に分け与えられた奇跡」が読まれたとしましょう。「自分がこの『場』の誰の立場いたら、どうしただろう?何を感じただろう」と思い描いてみるのです。

まず、イエスさまの周りには増えていく群衆の期待を誇らしく思うみ弟子もいれば、「こんなに大勢の群衆が集まってしまった。厄介ごとが起きたらどうしよう?」と心配するみ弟子もいたでしょう。

増え行く群衆に追い回されて、イエスさまが父なる神との祈りと静けさを切望する、多少疲れたような眼差しに気づいて、「どうしたら、イエスさまのお気持ちを和らげられるだろうか」気遣いしたみ弟子もいたでしょう。

群衆の中にも「メシア=世俗的な苦しみから救済する預言者」を期待する人、洗礼者ヨハネの後継者ではないかと思う「洗礼者ヨハネの追っかけ」、「何だか分からないけど、預言者とも律法学者とも違う何かが魅力的で…」取るものも取り敢えずついて来た人、病気の癒し、悪霊払いを求める人、障害者、病者など、さまざまな人がいたでしょう。

中には、ファリサイ派や神殿祭司らのスパイもいたでしょうし、当然のことながらローマ帝国側の諜報関係者、非ユダヤ教徒の「イエス派」の人々もいたでしょう。

いろいろな立場や思惑のある人々がいる中で、自分の「今日の眼差し」を、ある一点に置いて、主との出会いを観想して見ます。

例えば今回は、二匹の魚と五つのパンを持った少年の眼差しから、このみことばの場面に身を置きましょう。

しぇるりんの描く少年は、「まるでサーカス団の後をついて行く好奇心いっぱいの子どものように」、熱に浮かされたように両親に何も言わず、台所のパンの入った袋を引っ掴んで勝手に家出し、イエスさま一行について遠くまで来てしまった、やんちゃ君です。

「主の人なんだ。すごい方なんだ」と叫びつつも、映画のスーパーマンと救い主の区別もつかない大きな子どもです。

群衆について高い山の見えるはるか彼方まで来てから、彼はきっと、ふと正気に返ったのです。「困ったな」と。育ち盛りなので、お腹が減って現実に立ち戻ったのかも知れません。

「どうしよう。今、自分がどこにいるのか分からない。どうしたらいいのだろう?」。

大人の助けが必要ですが、世間知らずの子どもを助けてくれるほど甘い時代でないことは、少年自身が身に沁みてよく分かっています。

その時、少年の目にイエスさまの慈しみ深い眼差しとふと目と目が合ったのです。

この人ならきっと、自分を助けてくれる。でも、どうやって近づいて、助けを求めたらいいのだろう。

やんちゃ坊主は手土産を持って行けばきっとイエスさまは喜んでくれると、素朴に考えました。彼が魚を漁り、家に帰れば、家族一同とても喜んでくれるからです。

そこで、イエスさまのみことばに耳を傾ける大人を尻目に、せっせと魚捕りをしました。

やっと取れた魚は二匹。そして、持っていた袋に入った全てのパンと魚二匹をイエスさまに渡そうと、近づいたのです。

み弟子らは、少年の好意に深く感謝とねぎらいのことばをかけたでしょう。でも、少年の好意が「男だけで5000人」の群衆とイエスさまと弟子たち一行の空腹を満たせるとは誰も思わなかったのです。イエスさま以外は。

イエスさまは、少年のすべてを観ておられました。


そんな少年の行いに対して、難しいことばで語るのではなく「二匹の魚と五つのパンを父なる神に捧げ、感謝の祈りをした後、5000人に分け与えてなお、七つの籠に残りのパンがある」奇跡を通じて、少年に直接「主なる神」を示されたのです。

少年は、自分の捧げた食べ物が「奇跡のように増えた」のを観ただけではありません。彼の子どもらしい真心は、とてつもない奇跡を通じて主の愛の分かち合いの中で報われたのです。

イエスはおそらく、この少年が帰宅するために大人の助けが必要なのもよくご存知で、後刻、信頼できる人に少年を託したことでしょう。

家からパンを袋ごと盗み出し、勝手に飛び出したことを両親から責められるのではないかとビクビク怯えていた少年は、イエスの行われた主の慈しみと奇跡の中にいた経験を通じて、新しい人に生まれ変わるきっかけを得て、少年から男への第一歩を踏み出したのではないでしょうか。

聖書には「少年は二匹の魚と五つのパンを差し出した」とだけあります。

しぇるりんは、自分自身の想いを少年の場に自分を置いて、しぇるりんなりの「みことばの『場』」を自由に思い描いて見ました。

《聖書》はあまり多くを語りません。

淡々と事実を語るドキュメンタリータッチではありませんが、主との出会い、神の子であるイエス・キリストと人とが出会ったまさにその時の「眼差し」を、世の終わりまで簡潔なみことばで語り継ぎます。

このブログをお読みになる皆さんも、それぞれの日々の生活のなかで、その時々の想いの中で、親近感の湧く登場人物を探して見てください。

必ずしも《聖書》の記述にある誰かでなくてもいいとしぇるりんは思います。大勢の群衆の中に「こんな人、いるいる!」と思える誰でもいいのです。

イメージが思い浮かばなければ、映画「サン・オブ・ゴッド」、「復活」、「パッション」、「十戒」、「ベンハー」などを参考にしてもいいでしょう。

今は古いキリスト教関連の映画もデジタル・リマスター版になり、画質のいいDVDがレンタルで安く借りられます。

多分レンタルなら見られそうで、しぇるりんの心に残る映画は、イタリア映画の「マルセリーノ・パネヴィーノ」という作品です。托鉢に出た修道士二人が、捨て子の男の子の赤ん坊を拾うところから、ストーリーが始まります。とても、魅力的で純粋な信仰が描かれていて、大好きです。

どうぞ、お時間のある折には、書物としての《聖書》や<聖人伝>だけでなく、キリスト教関連の映画もご参照ください。

みなさんの心がイエス・キリストと出会えますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ




Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年8月18日 (金)

カトリック教会での聖書の読み方:イエスが生きた場の感覚で聖書を読む

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書1:1~5)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんが7歳ぐらいの時に、イエスさまの時代、聖書の時代は日本では想像もつかないほど、厳しく、果てしなく広がる砂漠と岩山で、飲みたい時にお水も自由に飲めない、ものすごく違和感を感じる場所だ、と何となく感じた時期があります。

森林があり、海あり、山あり…の景色に比べ、おそろしく殺風景なかわりに、ものすごく遠くまでよく見える光景を思い描きました。

日本では、北海道のような広々とした場所以外で、地平線のかなたまで見渡せる場所はほぼありません。水辺で水平線の彼方が見渡せる場所ならたくさんあります。

こういった景色の違いは、口碑伝承や昔話にも表れています。

日本では、オニがいる「鬼ヶ島」も、乙姫が住む竜宮城も「水平線の彼方」としてイメージされています。これは、沖縄の「ニライカナイ」、奄美諸島の「トウトウガナシ」という島の神は「ある種の水平線の彼方にいる」と概念されていることを思い出させます。

砂漠では、私たち人間が立つ大地と陸続きの地平線が、主なる神がいるかもしれないはるかかなたの海や湖の水平線へと直接つながっているのです。砂漠に生きる人に見える原風景は、《聖書》の発祥地を理解する上で重要です。

《聖書》の舞台は、人類発祥の地からの「アウト・オブ・アフリカ(アフリカ大陸から、人類が他の亜種に進化せずアフリカ大陸の外に移動、遊牧したことを指す)」を遂げた人類が、最初に到着した地域の記憶をたどっています。

「雄牛が群がってわたしを囲み

 バシャンの猛牛がわたしに迫る。

 餌食を前にした獅子のようにうなり

 牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。」

(詩篇22:13~14)

人類発祥の地で発見された、アウストラロピテクス・アフリカヌスの発見地は「最初の人類の住処」ではなく、「猛獣のお食事処」だったという学説があります。

最初の人類が猛禽類やヘビ、虫などに対して弱く、まったく無力に近い存在であったことは、《聖書》で語られる「人間観」の根底にあります。

日本を含むアジア諸国は、家族や家族集団などの文化を形成した後の人類が、幾度かの氷河期を経て大移動を繰り返す間に初期人類の記憶との接点を失ったあと、ある時点で「その地の文化を始めた」ためでしょうか。

遺伝子情報としてはアフリカ起源の情報を持っていても、初期人類の徹底した弱さの記憶に違和感をおぼえやすいのかも知れません。

日本人が家族集団への共依存性を脱却しづらいのは、「人間は孤独な存在だ=絶望的に孤立している」気持ちを超えることが家族集団を否定する、と感じる傾向があるかもかも知れません。

そのため、初期の人類の記憶を直接たどる《聖書》の人間観はとても不人情に感じるかも知れません。また、「自分や他者の死」と向き合うことばが直截的すぎる点に、ショックを受けやすいのでしょう。

日本人が陥りやすい「孤独=何でも一人で勝手にしろ」は、敵意に満ちた考えだと《聖書》は解きます。

アフリカ大陸でまだひ弱だったヒトの小さな家族集団で、病み、老いたヒトの祖先の一人が再び歩くことも叶わなくなった光景を思い浮かべてください。地平線の彼方のあちらこちらで「ヒトというご馳走の死」を、舌舐めずりして見守る猛禽類に囲まれたとしましょう。集団の全滅を避けようと、致し方なく家族集団が彼から離れざるを得なくなった時、何の苦しみも悲しみもなく彼から離れたでしょうか。


当時の家族集団とて、死にゆく家族との別れははらわたが散り散りに引き裂かれるほど辛かったでしょう。

《聖書》は離れた所にいる家族や集団が、死を迎えようとするヒトの祖先を最後まで見守ったと伝えています。

彼を最後まで間近に看取るためには、猛禽類を追い払える投槍のような武器の発明や洞窟のような隠れ家を探す技術的な知恵、知識が必要でした。

その時まで「死にゆくヒトを見つめる」ことに、生きているヒトも、死にゆくヒトも耐え続けました。

しかし、ヒトを死の恐怖から救うはずだった投槍などの武具や戦術の発見は、ヒトとヒトの争いを引き起こしました。

ヒトの祖先がアフリカ大陸にいた痕跡は、猛禽類らの「食後のお残り」だと考えられています。一方、中東、欧州、ロシアなどで発見された古代人類の遺骨の多くにはヒトとヒトの戦闘による負傷の痕跡が見受けられます。

知恵が戦いではなく、平和をもたらすには真理と愛の源である神の介入が必要だと考えたヒトのある者は、神に祈り、断食しました。

自分が死にゆく時、神と共にいることこそが真の幸いだと《聖書》は語ります。

冒頭の聖句は、神は言(ことば)で神ご自身とその真理を、わたしたち人間に示されたことを示しています。


ヒトは、未開の民族であっても複雑なコトバを駆使し、うたい、詩を詠むことで、何らかの真理やいのちとのつながりをコトバであらわします。

↓戦前戦後に読まれた《大正改訳新約聖書》明治学院大学図書館データベースより引用

Taishokaiyaku_photo02 キリスト者にとって、神の言は揺るぎない真理をあらわすもので、ヒトの言葉(ことのは、巧妙な言い回し)とは決定的に違うとヨハネ福音書の冒頭の聖句は語ります。

なぜなら、どんなに孤独な時であっても「言は神と共にあり」「主なる神はわたしと共におられる」から、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。(詩篇23:4)」のが、キリスト者の信仰だからです。

どんな孤独な苦しみのうちにあっても、大勢の生者と死者と共にいるという実感を教会共同体の中で感じ希望は、いつもわたし達のたましいのどこかにあります。

人の肌の温もり、共同体の温かさみたいなものへの恋しさはすべてのヒトにあります。

私は恋しいほど温かい共同体のぬくもりを感じた経験が今までの人生で全くありませんが、福島県の帰還困難区域の方が「以前の共同体のぬくもりを喪失した」喪失感に耐えかねて自殺されたりしたのを見聞すると、家族の温もり以上に恋しく思えるほどのあたたかさが、その方の日々の生活の中にあったのだろう、と想像してみます。

同様に「神の言がもたらす愛といつくしみ」への慕わしさも、人のたましいにとっては切なる想いです。主なる神は、歴史的、地理的、文化的な思い入れの違いをすべてを超えて、わたしたちのたましいに愛を直接注いで下さるからです。

とても哀しいことに、人間的な全ての関わり合いは人間自身が破壊してしまうこともできます。人間は、自らを破滅に追い込む知恵の負の連鎖、憎しみ、ねたみ、自らの死への恐怖や好奇心を抑えられない「原罪」を、知恵のパンドラの箱を開けた時に得たのです。

ヒトは生まれる時、母の胎から生まれ、良くも悪くも多くのヒトに出会うことで、生命をいただき、成長します。

死の時、「自分はたった一人で苦しみ、死んでいく」と「自分と他者のいのちの重さ」について感じ入りながら死を迎えるのもヒトです。

ヒト以外の個体も死ぬ時には苦しんでいると思われますが、彼らはおもに「生命ある間、生きていること」が大切なようです。

キリスト教における普遍性(Catolica)とは、特定の文化、地理、慣習や民族、部族集団、見た目上の違いを超えて「主なる神と『いま、生きている人、自分』をつなぐ聖三位一体の臨在」にあるとしぇるりんは思います。

そう考えると、イエスさまが生きた時代の特殊性、当時の混乱した社会情勢と現代との違いが浮き出るとともに、いつの時代にも「こんな人、いるいる!」と思える人が《聖書》には大勢出てきます。

わたしたちキリスト者は、たんに神の知恵を盗めればいいという思いで《聖書》、「主のみ言」と向き合ってはならないと思います。

主なる神から得た知恵は、神の民である教会共同体への奉仕や主が愛する貧しい人々への愛や祈りを通じて、主に近づくことこそ、真のキリスト者のなすべきことだからです。

どんなに絶望的な孤独の中にいても、キリスト者はキリストの愛と慈しみの共同体と共にいます。今は、リア充な教会共同体と距離のある方でも、真にキリスト者であれば「たった一人の信仰者」になることは決してありません。

日本ではキリスト者とその信仰を「それは個人的な問題だ」と見たがる傾向があります。

しかし、キリスト教徒は教会共同体に結ばれていてこそ「キリストとつながりのある人=クリスチャン」となのです。

教会共同体と神の愛の交わりに関わることを拒む人が、仮に好奇心や学術目的で《聖書》を読むだけなら、単に《聖書》の知恵を自分に都合よくひょう窃しているだけです。

《聖書》に知恵や、サスペンスを紐解くヒントを求めること自体が悪いとは申しません。

しかし《聖書》のみ言を通じて、イエス・キリストと出会えないなら、読んだ人のいのちにとって意味ある思い、ことば、行いへとつながらないのではないか、と憂慮します。

 

どうか、みなさんが主イエス・キリストと日々の生活の中で出会えますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ




Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





より以前の記事一覧