フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • ブログランキング


    人気ブログランキングへ
  • 日本ブログ村

キリスト教エッセー

2017年11月17日 (金)

カトリック信徒と「日本教」

gn9s8v

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

先日、とある教派神道のかなり有識者と思われる方と、ネットを通じてお話しする機会がありました。

その時、しぇるりんは「日本教的な…」というしぇるりん固有の表現を使いました。

宗教人類学的な学術概念としてしぇるりんが創作したコトバで、日本的な意味合いでの「無神論」に通じる、日本でのみ通じる「和」を重んずる倫理観、各種の宗教観が混濁した価値観を表します。

日本では、大正時代の初め頃までは「神仏習合」という東アジア地域で一般的な多神教概念が庶民の心に根付いていたと考えられます。

仏教のさまざまなほとけさん、阿修羅さん、「○○天満宮」さんのように、何らかの理由で特定の人間が多神教の伝統的な地域神として崇められる多神教の神さま、神話、伝承などに基づく神さまなど、地域や「お堂そのもの」のニーズ、夢のお告げなどに応じて祀るような多神教信仰です。

また、地域や共同体ごとに多様な多神教信仰を超える、ひとつの真理がある、という信仰も存在しました。

中国の天道、朝鮮半島の「ハヌニム(天のお方)、ハナニム(ただ一人のお方)」、日本の本州地域で一般的な「おてんとさん」、沖縄、奄美諸島地域の伝統的な「トウトウガナシ」など、捉え方は少しずつ違いますが、違いを超えて「文化や信仰の違いはあっても、人間として共通の何かを感じているだろう」という抽象的な信仰も存在しました。


そのような神仏習合の伝統的信仰が崩れたきっかけは、明治維新政府による神仏分離令です。例えば、同じお堂の中に、仏教の毘沙門天さんとお稲荷さんを祀ってはダメ!と言うわけで、「廃仏毀釈」が行われました。

また、神祇令により多くの神社が建てられ、「政権が徳川幕府から明治維新政府になったから」という、国民には心情的に全く納得の行かない理由で、お寺の檀家だった人々が、「氏子調令」により神社の氏子として扱われるようになりました。

これと同じことがもしも欧米で起こったのなら、大規模な宗教革命を引き起こしたかも知れません。実際に「庶民、農民、農奴など下からの宗教改革」は、カトリック教会の教えとその時のローマ教会の現実の違いに対する、平信徒側のリアクションから引き起こされたからです。

これが、日本では「自分の信じたいものを、それぞれ信じればいい。名目上は、別に掛け持ちでもいいじゃない」という中途半端な帰結に、「なんとなく」たどり着いてしまいました。

亀を助けた浦島太郎が竜宮城に行き、竜宮城で乙姫さんと楽しく遊び、ふと里心がついて帰郷し、ふるさとの浜辺で宝箱を開けたら、「なんとなく歳月が過ぎ、老いて孤立し、居場所がなくなっただけ」という、かなり成り行き任せな昔話を思い起こさせます。

結果として、「名目上は神仏、掛け持ちでいい。個人は信じたいものを信じればいい。」を実際化しようという動きが起きてきます。これが、しぇるりんの言う「日本教」の始まりです。

「日本教」の問題点は、人間なら誰もが感じる人間としての共感力を高めるには、「自分自身の信仰を生きること」を望み、自分自身の信仰を重んずるように、他者がその人の信仰をその人なりに生きることを妨げない、論理的な表現や矛盾律への配慮、そして互いの自由や失態を認め合うためにゆる~い関係性の余地を残しておく、良い意味での「いい加減さ」に欠けていることです。

別な言い方をすれば、「信仰や価値観は、掛け持ちして当たり前。掛け持ちを断っちゃダメ。」という無言の社会的圧力がいまも存在するということです。

↓長崎の26殉教聖人の碑

Unknown キリスト者やイスラム教徒のような一神教の信徒は、「他の神々を信じてはならない」という教えがあるので、「価値観の掛け持ち圧」は、圧力、弾圧と感じられます。

その点について、誠意を持って教派神道の方と話し合いましたが、話はひとまずすれ違いに終わりました。

「自分自身の信仰を生きる」ということと、「たとえ違う信仰の持ち主でも、信仰心のない人でも、それぞれの生きざまの違いであって、人間として本質的に求めるものは結局、似ているのではないか」という気持ちは、国籍、性別、宗教、文化、地域、環境などに関わりなく漠然と、誰もが感じることだと思います。


「日本教」では、宗教の掛け持ち、価値観の掛け持ち、イイトコ取りを奨励します。

現実には、価値観の掛け持ちは信仰心を深め、他者への共感力を深めるための「その人なりの道」を閉ざす可能性が高いとしぇるりんは感じます。

もし、手先の器用な人が一つの工芸に生涯を捧げて道を極めるなら、いつか天下の名工になれるかも知れません。が、手先が器用だからと、織物、編み物、洋裁、和裁、粘土工芸などいろいろな事に手を出したら、どれ一つとして大成する領域に達することはない、器用貧乏で終わってしまう可能性の方が高いでしょう。

価値観や信仰、思想も同じことです。一つの道を真摯に求め続けてこそ、他の道にも通じる何かを会得する道が開けるのだと思うのです。

カトリックの教えは、一つであり、三位一体である主なる神を信じますが、同時に聖母マリアさまや聖ヨセフさまなどが私たちの祈りをとりつぎ、日々支えてくださると信じています。

また、洗礼、堅信の秘跡に際しては「悪の業を捨てますか」「その(悪の業)の栄華を捨てますか」という、エクソシズム(悪魔払い)の祈りに「はい、捨てます」と答えます。


これは、間接的にですが「キリストの名によらない生活を捨てます。信仰宣言にある通りの生活を目指します。他の宗教や価値観を自分の生活の一部としません」という意思表現でもあります。

どんな人間であれ、いのちは一つ、人生は一回です。

一つの価値観や信仰を求めても、なお道は果てしないのに、掛け持ちまでして、あちらこちらに浮気をしていたら、本気で前に進める道理がありません。

だいたい、「日本教」で言いたいことは究極的には、世界中の心ある人間なら、口に出す必要もなく誰もが共有している「互いに違っても感じられる、人間らしさへの共感」に近い何か以上のものではないように感じられます。

日本人同士ですら、日々の生活の中では分かり合えない「日本教的な何か」を、やたら難しいコトバで説き伏せようとするより、まず、違う価値観や信条の人がこの日本の国の中に大勢いて、お互いに相容れない部分がたくさんある、ということを認め合うことが優先事項だと思うのです。

先日の対話で、相手はキリスト教の神は「ゴッド」と呼ぶのだと思っていたと言い、私は「神をどのような名で呼ぶか、キリスト教徒には数千年の論争を経てなお、論議の余地のある大問題である」と主張し、話の決着がつきませんでした。

キリスト教ではカトリック、プロテスタントに共通して「~の名によってアーメン」と祈るほど、神を「どの名で呼ぶか」にこだわります。

「名もなきゴッド扱い」は、キリスト教徒の信仰を蔑む失礼な表現だとその方に申し上げ、その方は失礼を詫びてくださいました。

価値観の違いを尊重せずに「多神教も一神教も大差ないさ。みな、最終的には何となくおなじこと」と主張するのは、まるで飛行機に乗った人と新幹線に乗った人と、自動車を運転する人と、歩いている人に、「移動という動作をしてる点で、大した違いはないさ」と言うのと同じです。

飛行機に乗る人には、飛行機に乗るなりの在り方が、新幹線に乗る人にはそれなりの感じ方が、自動車を運転する人には運転者の責任が、歩く人には足の痛みと日々の歩みの面白さが、それぞれの出会いが、それぞれに違って、互いに素晴らしい人生を歩んでいるのです。

互いの違いを認めない「和」の中では、違う人生を生きる人同士のコトバと意味のやり取りをする、というコミュニケーションが成り立ちません。

同時に「日本教的な立場の方々」も、日本という彼らの価値観の外にいる人々を、日本教的な秩序体系に無理やり押し込もうと説き伏せるのでもなく、一人一人の個人のやり方だと投げ出すのでもなく、文化社会の根本的な違いも含めてどう受け容れたら良いのか、手探りしているのだなと感じました。

こんな時代だからこそ、カトリック信徒側も明確に、キリスト者として社会にカミングアウトする時だと思います。

日本教的な立場の人々に、「個人的な信条は、公的な日本教とは別でしょ」と言われて言い込められてしまうのではなく、しっかりと日本のカトリック信徒として、教会共同体の一員として、キリスト教の信仰を伝承できるカトリック者として生きることが求められています。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年11月 7日 (火)

《聖人たちの養い手》ローマ教会の父、ヨーロッパの父

…聖ベネディクトがわたしの前任者パウロ六世によって、ヨーロッパの父と宣言されたことを思い出したいものです。そのヨーロッパとは、ローマ帝国滅亡後、聖ベネディクトとその「戒律」を守っていた修道士たちの献身的な努力によって生まれたのでした。

これらの修道士たちが黙々とまた賢明に堅忍不抜の精神をもって果たしていったこの業が、古代の文化的遺産を管理し、ヨーロッパ諸民族と人類にさえもそれ(キリストの教え、ローマ教会の教え)を譲渡することを可能にしたのです。

《あらゆる破壊的な計画に真っ向から反対する》のがベネディクト精神であると、わたし(聖ヨハネパウロ二世)が今年の一月一日に指摘いたしましたのは、このようなわけでした。
(《聖人たちの養い手、聖ベネディクト》41頁抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今年は、宗教改革500年を記念する行事が各地で行われています。

カトとプロ、すごく違うように感じられやすいのですが、基本的に、プロテスタント教会の教えとカトリック教会の教えが「すごく違う」わけではありません。

聖ベネディクトの戒律に馴染んだ未信者の女性が、プロテスタント教会に日曜日に通い、カトリック教会のミサに平日に通った結果、「一番の違いは、聖餐式に使うのがご聖体用のパンか、店屋の食パンをカットしたってことなのかなぁ?」と主婦らしい感想を述べられたことがあります。

しぇるりんも「言われてみりゃ、そうかもね」と思わず納得しかけました。

しぇるりんは、洗礼をゆるされる直前までプロテスタントの日曜学校に5歳から13歳までほぼ休まず通い、20代はじめに韓国のカトリック教会で洗礼を受けました。

聖霊のみ働きか、まだ中学生だったしぇるりんに突然「結婚なら、離婚して再婚も場合によってはアリだけど、洗礼は一生に一回しか受けられないんだ」という考えがどこからともなく浮かんだため、7年続けた教会通いを、その翌週からやめたのです。

そんなしぇるりんの経験から言うと違いは、プロテスタント教会はともかく賛美歌と聖書が大好きで、聖餐式は「牧師さんのお考えにより時々やるらしい」のに対し、カトリック教会は、「ミサ、み言葉の祭儀と聖餐式」こそがカトリック教会の教えのかなめである、ということです。

にもかかわらず、聖ベネディクトの戒律を読んで「えっ?」と思うのは、いつ、どのような時にミサやゆるしの秘跡にあずかるとよい、などの七つの秘跡の勧めについては何も書いていないことです。

七つの秘跡に関しては、司祭は秘跡を行うあいだ司祭としての権限を持つが、それ以外では修道士たちと「同じ兄弟として祈り、働きなさい」という感じの言及がある随所にあるだけです。

それは、ヨーロッパという「堅牢な石やレンガ造りの教会」を築くべき地域に、中東地域生まれのキリスト教が「ローマ教会」として根付いたことと大いに関わりがあります。

実際、世界にはエジプトのコプト正教会、シリア正教会、東方教会など、宗教改革以前からさまざまなキリスト教がそれぞれの地域に根付き、今も継承され続けています。

それらの教会は、それぞれの地域の特性に応じて発展し、今も多くの困難に直面しながら、使徒伝承の教会を地域の伝統として継承しようと最善を尽くしています。

その点、ローマ教会は違います。

ローマ帝国という世俗帝国の崩壊後に、「ヨーロッパ」という多様な文化的価値観、ローマ帝国が政治力で成し遂げられなかった、「ヨーロッパという文化世界の要」になったことが、他の「キリストの建てられた使徒伝承の教会」とは違うのです。

そのヨーロッパ文化の価値観を支えるかなめとなったのが聖ベネディクトの戒律です。


「修道士たちが黙々とまた賢明に堅忍不抜の精神をもって果たして」いなければ、キリストの教えは古代遺産になっていたかも知れません。

父と子と聖霊の働きを常に新たにし、世の終わりまでキリストの教えを継承するためのカタチある「教会法」、カトリックの教えの中軸である七つの秘跡に敢えてこだわるのが「ローマ教会」なのです。

それは、主キリストが「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われた使徒的使命を果たす「キリストの共同体」としてのローマ教会が、七つの秘跡を「隅の親石」として、ヨーロッパという価値体系の中に布石したからです。

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での有名な講演の中に「人生は日々、君たちの努力、積み重ね、学び、行いで点を打つようなものだ。点があちらこちらに打たれても、最初はどのような絵になるのか分からない。日々、点を打ち続けて、ある日、後ろを振り返るとそこにあなただけの絵が描かれているのを見るだろう」という言葉があります。

宗教改革の時代、カトリック教会の聖職者、修道者や平信徒らが歴史上に打った「点」が描いた絵を、その時代に生きた人々が「振り返って見る」ことはかないませんでした。

大航海時代の到来で、「地球」という大きな世界を生きて駆け巡るだけで、ただただ精一杯だったのです。

福音宣教活動がヨーロッパから、他の世界に広がったきっかけが宗教改革でした。

↓ヨーロッパでよく知られている聖フランシスコ・ザビエル像(実はかなりイケメン!)

E8352ea40b8e77f8b28d31c048d494ee

日本にローマ教会の教えを最初に伝えたのは、聖フランシスコ・ザビエルです。

聖ザビエルは、聖イグナチオ・ロヨラにイエズス会士になるよう口説かれる前は、出世欲に燃えるエリート神学生だったようです。もちろん、イエズス会司祭として東洋の果てに行くことなど、若き日の聖ザビエルは想うことすらなかったでしょう。

そんな聖ザビエルは聖霊に導かれるまま、インド、マカオ、日本、そして中国に小さな福音宣教という点を打ち、いくつかの書簡を書き記したのち、過労と病いに倒れ、中国の上川島で亡くなりました。

「東洋宣教の父」と呼ばれる聖ザビエルは、聖ベネディクトが打ったいくつかの点が修道士、司祭、平信徒らの打った無数の点で描かれたヨーロッパ世界、ローマ教会というフレスコ画の申し子でした。

聖ザビエルもまた、彼が「全世界に福音を宣べ伝える」という使命に燃えて刻んだいくつかの点が、どれだけ壮大な絵を描くのか、生きて省みることは出来ませんでした。

私たちはいま、主キリストの選ばれた使徒と宣教者、教父と全ての司祭、修道士、数知れぬ平信徒らが残した無数の点が2000年のあいだに描いた「ローマ教会」という絵の真っ只中にいます。

ローマ教会という今の絵の中で、少しずつですが宗教改革で離れてしまったプロテスタントの兄弟姉妹たちとの対話、そしてそれよりずっと以前に離れた正教会派の方々との対話も進んでいます。

いまの対話のいしずえに、いつも聖ベネディクトの戒律が伝えようとした「神の愛に生きる生命の業、祈り、労働」があるのです。そして、私たちの明日の和解、対話と平和への道もまた、私たちにとってはローマ教会の教えへの従順のうちに自ずと開ける道なのです。

 

みなさんがいつも、日々の生活の中にキリストのみ顔を見い出しますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書





カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!


ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年11月 3日 (金)

《聖人たちの養い手》労働と人間の価値

人間とは、聖ベネディクトに言わせれば、無名の機械ではありません。効率よく使って最大限の収益を引き出しさえすれば、その人の道義的価値など省みられないばかりか、正当な給与さえ支払われなくともかまわないとされる、そんな機械ではありません。

注目すべきは、彼の時代には、人間以下とみなされていた奴隷たちによって労働が行われていたということです。

聖ベネディクトは、それに反して、どんな労働であろうと、労働が生活の本質的部分であり、また、あらゆる修道士が義務感をもって互いに労働に従事しなければならないと考えています。

…なぜなら本当の実りをもたらす労働は、苦しみと汗なしには行われないからです。この労苦は人間を罪から清めるあがないの力をもっており、また労働が行われる環境と対象となる事物を気高いものにしています。

(《聖人たちの養い手、聖ベネディクト》31~32頁抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

11月、死者の月が始まる頃になると、日本では企業の期末決算情報が少しずつで始めるとともに、来年の春闘のはなしが出てきます。


世界的に見ても労働賃金が低く抑えられており、最低限の生活に必要な給与を得られる人の方が少数派の日本では「春闘なんてどうせ自分とは関係ない」という方も増えたことでしょう。

人間が人間らしく生きるために日々を送るためには、最低限必要な衣食住を賄えるお金や手段、食事、睡眠、入浴、趣味など最低限の自分だけの時間が絶対に必要です。

この最低限の基準が満たされている生活を送れる人は、今の日本では少数派でしょう。

「わたしの労働環境は、この全てを満たすほどに理想的です!」と言える方が何人いるでしょうか。

毎日のように都会のどこかで人身事故があり、自死が頻発し、いじめや「いじり」を自らの保身のためなら罪悪感を感じる必要がないと当たり前に思い込んでいる人が、同じ空の下に大勢います。

今の日本の状態は、エジプト、中東や欧州の古代奴隷制度よりずっとタチが悪いのかも知れません。

聖ベネディクトの時代、奴隷たちによって労働が行われていました。現代の「使い捨ての奴隷制度」と違うのは、奴隷の主人には奴隷の衣食住のすべてを整え、死まで看取る義務が主人にあったことです。

しかし、聖ベネディクトの時代、荒廃したローマ帝国の都市では奴隷も悲惨でみじめな状態に置かれていました。だからこそ「労働するもの=みじめな奴隷」を脱却し、すべての人が同じ人間として扱われる時代を、使徒と教父たちの時代から心から願い、祈り続けて来ました。

《聖ベネディクトの戒律》の中で、修友は互いを「兄弟」と呼び合うこと、世俗での身分、親親族の経済力、出自に関係なく一日でも先に修道院に志願者として入った者を「先輩」として敬うこと、先輩は後輩をキリストの愛において肉親の兄弟のように慈しみ、互いのために働くよう、勧めています。

現代の時給制、日給制、月給制で縛られ、明日をも知れぬ身でありながら最低限の衣食住が保証されない、「流れ者の奴隷」になっている日本の労働者のを、天国の聖ベネディクトはどうご覧になっているのでしょうか。

労働そのものが時に過酷で辛いと思えるのは、どの時代、どこでも同じかも知れません。

「労働は精神を鈍らせる怠慢をふせぐばかりでなく、とりわけ人間の深みにまだ埋もれているかもしれない賜物を見出させ、鋭い義務感のうちに生きる人の人格を向上させます。その時にこそ、《あらゆる事柄において神に栄光が着せられるように》(一ペトロ4:11)共通善のために役立つものとなることができます。」(上掲書32~33頁)

↓聖家族も神の愛に満たされた労働の日々を生きた。

330pxmillais__christus_im_hause_sei 労働とは、それぞれの個性の中に主の賜物を見出させ、人格の向上に益するものであってこそ、人類の共通善に役立つ、と聖ベネディクトは言われます。

それゆえ、誰に対しても画一化した対応は「キリストの愛に反する」と考えていました。

幼い者には幼い者に必要な対応を、病み、老いた人には労働の軽減や一部免除などを「それぞれの状況に沿って行い」「必要なものは人によって違うから、必要なものが少ない人はその状態に満足し、弱い人への配慮を怠らないこと」を修道院長と修友全員に求めています。

また、それぞれの状態と働きに応じて、断食をする、しないを調節し、重労働に従事する者の食事量は多めにした方がいいなどとも《聖ベネディクトの戒律》に書かれています。

また、労働時間が長くなりがちな季節には祈りの時間を少し短めにするなど、労働する者の個々の状態が「その労苦が堪えがたいものにならないほどに、怠惰に陥らないよう」、修道院長が兄弟たちの父として「神が兄弟たちを愛するように、配慮する」ことを求めています。

わたしたちは、何のために働くのでしょうか。

答えはそれぞれでしょう。家族を養うために働く、奨学金や家のローンを返済するために働く、老後の蓄えをためたいから働く、学校を卒業した後の進路選択が就職だったから働くなど…。

人間の数だけ、「なぜ、働くのか」「なぜ、この仕事なのか」の答えはあるでしょう。

一人の人の生涯の中で「自分の好きを仕事にできる時期がほんの少しでもある人」は、少数派かも知れません。

その上、今の日本社会は学生だった人を、企業や社会が充分に社会人として育てる余裕がなくなってしまいました。

数十年前なら、新卒が就職すれば一年ぐらいは「新米」としてしっかりと研修を受け、社内外で必要な資格を取得させ、先輩についてみっちり教えられた上で、二年目ぐらいから徐々に正規業務に入ったものです。

今では「即戦力」という耳ざわりのよい言葉で「数週間~数ヶ月の研修で何でも出来るようになれ」「就職前に自己責任、交通費なども自己負担で研修」など、ブラック就活、就労が当たり前になりかけています。

また、以前と違い転職機会も多いのに、会社は終身雇用制度の時代と体質が変わっていません。

結果として、経営者、管理職、正社員、契約社員、派遣社員、バイト・パート及び、外注業者の日雇い派遣労働者が一種の身分制社会を形成しているのです。

あなたがどの「階級」にいるにせよ、「わたしは、なぜ労働するのか」を自分に問いかけてみる必要があります。

主キリストは、あなたの会社が給与評価や人事評定しない「何か」を、あなたの魂の内奥で見ておられます。

人格的な成長、些細な言動への内省、自らの欠点を直そうと努力したのか、他者の弱さを受け入れようと努力したか…などキリストの名においてどんな愛を行おうと努力したかを、主は確かに見ておられます。

いつだったか、家の近くの交差点で人身事故を起こしたのを目撃しました。交差点に信号が変わるギリギリで突っ込んだつもりが、実は信号は赤に変わった直後に横断歩道に突っ込むカタチとなり、ちょうど横断歩道を渡り始めた人を轢いてしまったのです。

その車はかなり古い型でしたが、2500ccぐらいの大きなワゴン型乗用車でした。すぐさま四方の車が全く動けなくなり、誰かが警察に通報しました。

運転者の男性は車の外に飛び出し、いきなり轢かれた人の近くで「なんでこんな所を歩いているんだ。なんで、よりにもよってオレなんだ。」と横断歩道に倒れたままの轢かれた人を見下ろして、罵倒し始めました。

横断歩道の近くにいた人々は、驚いた表情で唖然として凍りついてしまいました。加害者が、自らの罪をさらに暴露する現場を見てしまったからです。

その人はきっと、大型ワゴン車の自家用車を買えるほど、稼ぎのいい仕事をして来た男性なのでしょう。わたしなどよりよっぽど高い地位につき、多くの時間を労働に費やしたでしょう。

しかし、それまでの人生で、常に自分が嫌なことは、誰かや何かのせいにして生きてきたのでしょう。

交番は、歩いて数分の場所にある交差点です。警官がすぐに到着し、加害者はすぐに現行犯逮捕されました。

その人の人格は、何らかの「偉い」労働を生涯行って来てなお、「何でも都合の悪いことは他人のせいにする」人であったことを、その場にいたすべての人が目撃しました。

キリスト者にとって労働が人を育てるとは、それがどんな仕事であれ、ライフワークバランスが整った上で、祈りのうちに「労働そのものを豊かなものにする尊厳さを獲得すること」です。

見えない成長や人格的な成熟度、深まりが、たとえ社会的評価を受けない今のような時代であっても、努力と忍耐のうちに精いっぱい自分自身の弱さと正面から向き合った人の人格的な努力の価値は、主キリストの前では明らかなのです。

労働のうちに全く違う者同士が、互いへの学び、理解、尊敬を深めることは、ひとと人の出会いの経験としてだけでも価値あることです。

その上で、労働のうちに祈りを見出し、労働の場で出会う人々のうちに主キリストのみ姿を見出すなら、私たちは現実の日々の生活のなかでキリストの面影を常に感じ続けられるでしょう。

聖ベネディクトは、奴隷的な隷属だけを求める労働は、働く人、働かせる人の双方をキリストの愛から遠ざけ、社会全体をも荒んだ道へと導く要因だと考えました。

ルネサンスや宗教改革の時に唱えられた「平等、博愛、基本的人権」のさきがけとなるヒューマニズムの考え方をまず修道院の中で実践し、世俗社会の手本になり、福音宣教の模範になろうという説を唱えた初期の教父の一人が、聖ベネディクトだとも言えるのです。

あなたは、何のために働いていますか。

誰のためですか。

あなた自身の欲のためですか。

それとも、自己実現のためですか。

労働の中に、何を探していますか。

一度、自分自身に問いかけてみてください。

漠然と「お金がないと生きていけないと思うから働いている」だけで馬車馬のように働き続けられるほど、人間は強くもなく、愚かでもありません。

もちろん、自分がいったい何のために働くのかを省みるだけで、すぐに何かが変わるわけではないでしょう。

でも、自分の中に「働き甲斐、生きがい」のような何かがあり、そこに深まりがあるのとないのでは、確かに今日の一日への思い入れが違うと思うのです。

「お金を稼ぐこと」だけが労働ではなく、家事、育児、介護、学び、日常生活や病者の療養もまた「いのちのはたらき」です。

資本主義社会では、お金にならない労働はあたかも「働きではない」と見做され、お金に換算できない労働は全く価値のないものであるかのごとく錯覚しがちです。

でも、主なる神の前では、お金になる、ならないが「働いている・働いていない」の基準にならないことを、キリスト者であるわたし達は常に心に留めておかねばなりません。

みなさんの日々の働きに神の祝福がありますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月27日 (金)

《聖人たちの養い手》キリスト者と情報化社会

人間も事物もキリストへの一致の度合いに応じて、力と価値をもつようになります。この真理の光に照らして、それら事物を考え評価しなければなりません。

隠棲修道院にいるすべての人、すなわちその指導者から見知らぬ貧しい客まで、また病人から小さい兄弟にいたるまで、すべてがキリストの生きた現存を指し示しています。

↓聖ベネディクト

Imagesca7v9c2r 物品そのものも被造物に対する神の愛のしるしであり、また人を神に昇らせていく愛のしるしでもあります。そればかりか《器具や仕事の道具さえも、あたかも祭壇の聖具であるかのように取り扱わなければなりません。(聖ベネディクトの戒律31:10)》

(聖ヨハネパウロ二世の使徒的書簡「聖人たちの養い手、聖ベネディクト」22頁)




お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

私たち平信徒が生きる日々の生活は息をつく暇もないほど、忙しい毎日です。

分刻み、秒刻みで道を渡り、踏切を越え、電車やバスに乗り、または信号待ちにイライラしながら自家用車を走らせ、渋滞への憤りを抑えつつ、分刻みのスケジュールで仕事場や学校に向かいます。分刻みで時給が支払われるパートやバイトで働く方も多いでしょう。

秒刻み、分刻みの社会は大勢の人々の心身に痛みを与え、ストレスを引き起こし、多くの人を自死に追いやっています。

ある日のことです。私の駅近くの踏切が、開いてから数十秒でまた、キンコンカンと鳴り始めたことがありました。コンピューターの自動制御システムで管理されているため、踏切棒が上がってからまた下がり始めるまでの間隔がたった三十秒でも、開いて、また閉じるのです。

わたしたちが重い荷物を台車で運んでいる最中、ちょうど踏切の真ん中辺りで鳴り出しました。私たちは鳴り出したタイミングから時間を逆算し、どうにか抜け出せました。

その時、お年寄りの男女の方が踏切内で立ち往生する寸前になっていました。

私たち若いモノより、ちょっとだけ鳴り出しのタイミングが認知されるまで時間がかかるぐらいのご年配の方でした。男性の方はどうにか小走りで抜けましたが、女性の方は走れず、二車線道路の真ん中まで逃げた挙句、踏切の遮断棒に頭をぶつけてしまいました。

幸い、お怪我はされなかったようですが、とても痛い思いをされたこととお察します。でも、私たちも自分たちの生命、荷物、そして荷物が線路上に転倒した場合に起こり得る脱線など最悪の鉄道事故の惨事が起こる可能性を鑑みると、おばあさんを助けに行くことは物理的にできなかったのです。

鉄道自動制御システムには、必死で走ったおじいさんの焦り、遮断棒に頭をぶつけたおばあさんの痛み、私たちがご年配の方々の慌てた様子を見て感じた心の痛みと焦りを理解する能力がありません。

鉄道自動制御室で働く人々もまた、いまこの瞬間に遮断棒に頭をぶつける人、踏切の警鐘が急に鳴り出して慌てた挙句、ランドセルを背負ったまま線路につまづいて転んだ児童がどこかにいるかも知れない、ことなどを深く考える時間もないまま、秒刻みの仕事にただ追われているのです。

システム制御能力を向上させ、業務効率を向上させればさせるほど、「モノ」は人の想い、神とひととのつながりを断ち切り、ひとの生命の営みから神を見いだす糸口をもつれさせて行くように見えます。

近代以降の技術の多くは、人の生命を活かしたいという一念で開発されたものが多いです。

ダイナマイトは、石切場での命がけの重労働を楽にするため、「発破作業」を行う目的で発明されました。が、ダイナマイトは「敵を自分と同じヒトと思わないで済む遠距離から攻撃する」武器に転用され、今日に至っています。

どんなに感情的な怒り、憤りやストレスの中にあっても、相手を同じ神の愛を受ける人間だと思えれば、対話への糸口が開けます。私たちは、人種、髪、肌、目の色、話す言葉や信じることや生き方が違っていても、私もあなたも同じ人間であり、主の大切な被造物であることに変わりはありません。

そう言うと「でも、差別があるでしょ!」とお叱りを受けそうです。

いのちとは、どれほど多くの自然や集団の営みに囲まれ、支えられていても、それぞれが独立した孤独な営みです。

自分の思い通りにほぼ近く、自ら動かせるのは自分自身だけであり、他の人を「自分の思うままに将棋のコマのように動かす」ことなど誰にも出来ません。

だから、「わたし」と他者を区別せざるを得ないのです。

たとえ棋聖のような稀代の名人が将棋のコマという「モノ」を動かすとしても、対戦相手がいる(ある)以上、すべてを思い通りに動かせるものではないのです。

だからと言って「差別して当たり前。自分の感じ方、考え、生き方はすべて正しい」と、他者のいのちの痛みや苦しみを「あたかも相手がそこに存在しないかのごとく振舞って当たり前」の言い訳にはなりません。

わたしたちは被造物の一員として、シャベルやコンピューターなども「祭壇のご聖杯などの聖具のように大切にしなさい」と聖ベネディクトは言われます。

すべてのモノを神の被造物として聖具のように大切にすることは、結果として、「わたし」や「あなた」という人間のいのちを重んずることに通じます。

21世紀のとてつもなく非人間的な社会において、聖ベネディクトが言われる「すべての被造物を、神がわたしたちを愛するように愛する」ことを、隠棲修道院以外の場で実践することはたいへんな困難を伴うでしょう。

だからと言って、人工知能がもたらした恩恵をすぐに手放せるものではありません。炊飯器、洗濯機など生活必需品から、電車、バス、自動車などの交通機関まで、人工知能なしで運営できるものは少ないからです。

人工知能、IT化技術、AI知能の集積やIoT化技術をどれだけ高度に発達させても、「知識の集積による技術的学習」には必ず限界点がやって来ます。

人工知能は、過去30年ほどで驚くべき進歩を遂げました。

一つの箱をロボットが自らの判断能力で部屋の片隅から、別の角に動かす作業をするだけで、30年前には24時間以上かかりました。

この30年ほどの進歩で単に「箱を動かす」作業をするだけでなく、簡単な会話や感情表現の理解と人間のニーズに応える動作を、限られた範囲内では行えるようになりました。

それでも、知識の集積回路と機械が自らの意志で「モノ」以上の怪物に進歩することはないでしょう。ヒトは電力供給を停止することで、機械の動きを停められます。

もし、「ロボットの反乱」が起こるとしたら、それは神の被造物である人間が怪物を作り出すこと、悪魔に魂を売り渡すことに同意した結果だと言わざるを得ません。

技術の進歩により、全地球の人類が同じ情報を共有をできるようになりました。私たちは、サハラ砂漠の真ん中にいても、東京の高層ビル街でも、言葉がわかり、互いへの信頼へ心を開こうとするなら「お互いを理解する」恩恵とチャンスが与えられました。

大富豪から戦禍から逃げ惑う避難民まで、スマートフォンやiphone、PCなどのスマートデバイスを通じて情報共有することで、情報難民化し、デマや噂話、誤解や誤認かどうかの確認が全く出来ないまま惨劇に遭う確率は減りました。

今や、白虎隊が白煙と炎に巻かれた会津若松城を見て落城したと誤解し、若い生命が無残に自決するような惨劇が起きる確率は多いに減ったのです。

だからこそ、私たち自身が「神の被造物」であること、また私たちが用いる道具もまたわたしたちの生命の営みが作り出した神の被造物であることを、「わたし」という「存在の中で、神の愛、キリストの名と聖霊の交わりにおいてより深める」必要があります。

インターネット社会は、噂、デマ、フェイクニュースが真実とないまぜになって伝えられる点、テレビやラジオより「真実を判別し、自分なりの判断をする能力」、「自分なりの判断に従い行動する意欲、能力」が求められます。

テレビやラジオの時代なら、放送された内容を鵜呑みにしたため「実は誤解だった」「現実とはかけ離れた内容だった」と人とひととの出会いの中で気づく可能性がありました。

一方、これからも「放送された通りに思い込んでいる」だけで終わっても「仕方がない」と諦める選択肢しかない人もいます。

スマートデバイスは、使い方が複雑で、誰でもスイッチを入れれば使えるわけではないからです。

「わたしなりの判断」を下すに際し、神の愛を受けるわたしたちキリスト者は、「わたしにとって神のみ旨はどこにあるのか」を常に追い求め続けなければなりません。

神はいつも、私たちを愛しておられます。愛する我が子に行く道を示してくださる神に信頼して、今日の一日を自分なりに大切に過ごせるよう、ともに祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月24日 (火)

《聖人たちの養い手》観想と祈り

キリスト者は、はかり知れない救いの神秘を含む神のみことばを毎日愛をこめて観想し、心を尽くしてその中にいっそう深く分入ります。それは生活全体にわたる努力はもちろんのこと、人間的知識ではなく、そのうちに神的な何物かを含む知恵によって行われます。

すなわち、それ以上知ろうと努めるのではなく、こう表現することが許されるとするなら「存在の密度を濃くすること」に努めることによって行われるのです。

つまり神とともに語ること、神のことばを使いながら神に語りかけること、神ご自身がお考えになることを考えること、一言で言うなら神の命そのものを生きることによってです。


(聖ヨハネパウロ二世の使徒的書簡《聖人たちの養い手 聖ベネディクト》26頁;2007;教友社)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

日本では五世紀以上にわたり、布教効果の上がらない宣教地、キリストのために自らを捧げた殉教者の血で築かれた小さな教会のともし火を灯し続けるだけで精一杯の地域であり続けました。

社会的な圧力、キリスト教への反感も根強く、カトリックの教えを子々孫々に秘跡を通じて継承することも困難なことも多いかと思います。

それだけに、一世代目の受洗者、他の宗教からの転向者の比率が高く、「カトリックの教え、キリストの教え、聖書の教えの知識を頭に入れたい」という方も多いようです。

もちろん、聖三位一体の真理をご受難の十字架を見つめ、静けさの中でみことばに耳を傾け、心を開こうとする努力は大切です。主日のミサにも、出来るだけ毎週参加したいものです。

ただ、「頭に聖書の知識、お説教の内容が入ってこない」ことにこだわってしまうと、祈りの本質である「人間的知識ではなく…神的な何物かを含む知恵によって行われる」何かを見失いがちになってしまうのです。

受験や試験の勉強をした時のことを、思い出してみてください。

試験の時には「どうにかこうにか解けた」難問でも、翌日には「きれいさっぱり、頭から抜けてしまった」ことはありませんでしたか。卒業から5年以上経ったのち、苦手科目の中学や高校の問題が解けますか、と問われて「大丈夫。あの時と同じ点数が取れます」という方は、現役の塾講師か受験勉強の達人以外ではごく少数派でしょう。

「知識を得る」ということは、「知識を応用できる=知恵を得る」こととは違うのです。

特に、日々の生活を生きる上で必要な判断力の源となる知恵を得ることは、知識を得ることは全く異質です。

突然ですが、ユーミン(松任谷由美、旧姓荒井由実)の「やさしさに包まれたなら」という歌をご存知ですか。

こんな歌詞のうたです。

https://www.youtube.com/watch?v=N-uCT3jGEMs

「小さい頃は神さまがいて

 不思議に夢をかなえてくれた。 

 やさしい気持ちで目覚めた朝は

 おとなになっても奇蹟は起こるよ

 カーテンを開いて

 静かな木漏れ陽のやさしさに包まれたならきっと

 目にうつる全てのものはメッセージ」

カトリック者、キリスト者が神さまに心を開くとは、知識を得ようとすることだけではなく、ユーミンの歌にあるように、幼な子のような気持ちで愛の源である神さまと向き合うこと、「幼な子のようにやさしい気持ちを取り戻し、主と愛の語らいをただ望むこと」にあるのかも知れません。


祈りと観想。それは、受験競争のような「競争原理に基づいた知識獲得」とは正反対の何かです。争わず、排除せず、やさしさに溢れた気持ちで「いのちの源からわたしは来た」という人間の原点に立ち帰ることです。

わたしたちキリスト者がいのちの源に立ち帰ろうとするなら、神さまは全ての心から祈る人に聖霊を通じて何かメッセージを下さいます。

でも、そのメッセージとは、木漏れ日のやさしさに包まれるようなやさしさに包まれた時、突然やってくる直感のような何か、魂を根底から揺り動かし、主に心を向けさせる何か「ことばにならない、うめきのようなもの」だと思うのです。

メッセージのひとつ一つは、本人と神さま以外には意味不明な何かかも知れません。それを、客観的に誰かに説明しろと言われても、言葉に尽くし得ない何かなのかも知れません。

そのメッセージがどれほど荒唐無稽で、ある意味子どもっぽいものだと思われても、「真摯に受け取る」ことが、わたしたちの祈りと観想を前に進ませ、『「存在の密度を濃くすること」に努めること』への道を切り開く原動力になるのだと私は思います。

聖人聖女もまた、幼いころにはとんでもない荒唐無稽な夢を描きました。

カルメル観想修道会のアヴィラの聖テレジアは、イスラム教徒の国で宣教活動を行い、殉教者になりたいと願い、子どもの頃に家出してした挙句、親に連れ戻されました。

また、アッシジの聖フランシスコは「すでにいいオトナ」と言えるトシになってから「教会を立て直せ」と主のメッセージを受けて、郊外の廃墟となった教会を一人で建て直すという「???」な行動をとりました。

欧州には、廃墟になった教会があちらこちらにあります。廃墟化した教会(いわゆる「死んだ教会」)は立地条件により、墓地、劇場、店舗などに転用されることもあり、わざわざ「廃墟になった教会を敢えて『生きている』教会に建て直す」ことはむしろ珍しいのです。

主は聖フランシスコに「ローマ教会を使徒伝承の教会、清貧、貞潔、従順の教会として立て直す」ことを望み、フランシスコ修道会の成立と活躍を望まれたと結果的には考えられます。が、最初に聖霊に突き動かされた聖フランシスコには、主のメッセージの全ては理解できませんでした。

アッシジの聖人は、主のメッセージに応える人間側に多少の理解のずれがあっても、『神とともに語る、神のことばを使いながら神に語りかける、神ご自身がお考えになることを考える…神の命そのものを生き』ようと努力することの大切さを語りかけます。

平信徒のわたしたちに語りかけて下さる主のメッセージも、最初は「???」なものでしょう。主のメッセージのひとつ一つは、完成図を見たことのないジグゾーパズルのピースを、日々の生活の中で少しずつ下さるようなものだからです。

ある程度ピースが貯まれば、少しずつ「わたし」という生命の中でパズルが埋まっていくでしょう。少しだけ絵が出来れば「ああ、こんな風な絵かな?」というイメージが湧くようになるかも知れません。

でも、ある日見直してみたら、間違ったピースを強引に押し込んだ自分に気づき、大幅に修正するハメになるかも知れません。人生の大きな転機のようなものです。

「わたし」といういのちのジグゾーパズルの全体図がほぼ埋まってくる頃には、私たちは主の元に立ち還る「死」を見つめる時が来るのかも知れません。

だからこそ、祈りと観想の中で、やさしい気持ちで木漏れ日に包まれた窓辺で感じた主のメッセージを、「わたし」という存在の中で深めていくことが大切でしょう。

「わたし」という未完成のジグゾーパズルの絵から主を感じ、「あなた」「誰か」という未完成のジグゾーパズルの絵からおぼろげに御みずからを現される主を見出すために。


1610_kansai_1_028670x443 紅葉の葉は、寒暖の差が大きくなり、秋が深まるにつれ色濃い朱に染まります。

紅葉のように、主のメッセージも、主が「わたし」という生命の中で「主のみことば」を通じて深めて下さるのを感じます。

そのいのちの営みとプロセスを、魂のうちで短い祈りや念祷のうちにじっと見守ることこそ、観想の祈りの真髄だと私などは思うのです。

時はいま、秋の紅葉が朱に染まる晩秋です。このブログを読むみなさんは、人生のどの季節を迎えられたのでしょうか。

 

紅葉も早春の淡い緑の芽生えの時があり、5月に緑深まり、厳しい夏の日差しの中で他の木々の間で目立たぬ日々を送ります。そして寒暖の差が激しくなり、何度も台風や大風に揉まれたのち、秋の紅葉を迎え、やがて散り去ります。

あなたの人生の季節がどの季節であるにせよ、主とともに日々の密なる語らいの中で、前に進めますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月20日 (金)

《聖人たちの養い手》聖ベネディクトと平信徒

「どのようなこともキリストの愛には優先させないこと」

《聖ベネディクトの戒律4:21》

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

20世紀以降の多くの平信徒宣教活動が、聖ベネディクトの戒律を基礎とする修道会と何らかのかかわりがあるのは、とても興味深いことです。

↓ヌルシアの聖ベネディクト

Benedictus_de_nursia おそらく《聖ベネディクトの戒律》には、カトリック教会の教え、祈り、信徒共同体を形成するのに必要な規範の根本が書かれているというだけではなく、常に教会を刷新する力を秘めた戒律だからでしょう。

使徒ペテロの時代から、キリスト者の教会共同体は日々、与えられた環境、場所、時代、状況の中で常に自らを新たにすることで、福音宣教の使命を果たして来ました。

福音宣教の使命のかなめは、「何ものもキリストの愛に優先させてはならない」と聖ベネディクトは強調します。

キリストの教えの中で、いちばん簡単に分かち合えるのは愛です。

希望を誰とでも、いつでも分かち合えれば素晴らしいことです。しかし現実問題、たとえば今いじめ被害に遭っている人、いじめやハラスメント、そのトラウマに悩む人に、希望を持つことの価値を説いても意味はないでしょう。

絶望のどん底にある人に、言葉で希望を説くのはキリストの愛の教えに背くことが多々あります。絶望のどん底にいる人の深い孤独に寄り添えきれない自分を見つめる時、「ついつい」希望を抱く人は、全くの無力感に襲われます。

真理もまた、何らかの話が通じた上で、分かち合える人がいればたぐい稀な恵み深い出会いとなるでしょう。

しかし、真理を分かち合うためにはそれ以前に何らかの深い信頼関係を築ける土台が必要です。真理を分かち合うための土台は、キリストの愛です。

であれば、キリストの愛を何らかのカタチにして分かち合うことが、人間にできる最善のわざと言えましょう。

どんな愛を、誰と、どのように分かち合えるのか、私たちにはすべてを計画することができません。キリストの愛のたまもの、聖霊の導きが示す道が「なぜ、その道なのか」を、道を歩みだした時、歩いている最中に明確に知ることは出来ないかも知れません。

ある善業に励む母の一人息子が、「アフリカで宣教師になりたい」と修道院に入った話を聴きました。なぜ、彼は司祭が絶対的に不足している日本ではなく、アフリカを目指し、その道が開けたのか、主キリスト以外は誰もわかりません。

2013年に聖座につかれた教皇フランシスコがイエズス会に入会した動機は、日本の殉教者に関する霊的読書に心酔し、「日本に宣教師として行きたい。日本の殉教者の後に続きたい」でした。

が、映画「ローマ法王になる日まで」で紹介されたように、青年ベルゴリオは幼少時に手術を受けたため「日本の高温多湿の気候には合わない」と判定され、故国アルゼンチンに留まりました。

入会志願面接を行なった長上たちのキリストの霊に導かれ、ベルゴリオ志願者は故国でイエズス会士、イエズス会司祭となりました。そして、解放の神学、独裁政権下のアルゼンチンで過酷な試練と激動の司祭生活を送り、補佐司教から枢機卿への道を歩みました。

南北アメリカ大陸初の教皇は、「素晴らしい青年だが、日本は多湿な気候で結核の発症率が高く厳しい」と、長上らが「キリストの愛を優先して」判断したことが発端で生まれたとも言えましょう。

わたしたち平信徒もまた心から主に信頼し、祈り続けるなら、それぞれ与えられた場で、今いる環境と状況、自分自身の想い、願い、祈り、行動の中で確かに主の導きの中に生きているのです。

聖ベネディクト戒律などを基礎とする観想修道院は、教会共同体や主の愛という「目に見えない何か」を、「目に見える修道院生活」として現しているのだと言えましょう。

ベネディクト会の修道院の多くでは、一部の施設を宿泊施設として人々に開放し、修道者と同じ聖堂で「教会の祈り」やミサにあずかることができるようになっています。

いわば、平信徒が誰でもローマカトリック教会の根幹を気軽に体験できるのが、聖ベネディクトの修道院なのです。(長野県にあった聖三位一体ベネディクト修道院は閉院になりました。)

カトリック教会の本質を体験しつつ、平信徒である私たちが主の導きに自らを委ねきるなら、私たちはそれぞれの小道へと導かれます。

どのような小道に、どう導かれるにせよ、主キリストだけが「なぜ、その道なのか」をご存知であり、人間的な思いでは誰にせよ、理解できないものだと思います。

どのような場にあってでも「何ものであってもキリストの愛に優先させてはならない」という戒律を守ろうと最善を尽くすなら、私たちは主の愛の食卓により多くの人を招くことができるでしょう。

日本人はやたら「人に迷惑をかけない」「みんな同じ」を重んじたがり、国の定める道徳を「普遍的なモラル」と思い込む傾向があります。が、特定の国家や人間が定めた「道徳」であれば、一見すると普遍的に見える価値観でも、キリストの愛に優先させてはならないと思います。

また、キリストの愛に何らかの不純物、愛社精神や愛国精神をエセ宗教化した何か、と取り違えてはならないとも思います。

《聖ベネディクトの戒律》は、これからも新しいカトリック・アクションを世の終わりまで産み出す母なる戒律として、世に愛読され続けるでしょう。

時代考証をしないと理解しづらい部分も多々ありますが、《聖ベネディクトの戒律》は単なる安らぎや癒しの教えではありません。霊的生活と労働をいかにバランスよく、主の祝福に満ちた生活を送れるか、が解かれていると思うのです。

数々の新しく生まれたカトリック・アクションもまた、《聖ベネディクトの戒律》に、平信徒の労働生活をいかにバランス良く霊的生活と両立できるのか、という課題の最初の手がかりを求めたと言えましょう。

結果が出ていないと、何をどう努力しても誰もその努力を評価してくれないかも知れません。

誰も評価してくれなくても、それが主の聖霊が導かれる道だと信じるなら、何を言われても前に進みましょう。

今日、何も上手くいかなくて、失うものばかりだったとしても、今日の苦労はきょう一日で十分です。

今日の最善を尽くしたら、明日の日は主の愛の導きに委ねましょう。

後戻りができないのが、人生です。前に進むしかないのに、気持ちが立ち止まったままでは、前に進めないままぐるぐると同じ場所を堂々巡りすることでしょう。

「何ものもキリストの愛に優先させることなく」きょう一日を精一杯生きましょう。

みなさんの上に主のみ恵みが豊かにありますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月17日 (火)

《聖人たちの養い手》聖ベネディクトの生涯と修道院

『紀元480年頃…神の恵みによって祝福されていたベネディクトは、幼少の時から老熟した心をもち、ただ神のみを喜ばせることしか望まず…少年時代にありがちな魂の動揺にも打ち勝って、《厳しくけわしい道》をすすみました。

…数か所で孤独な生活を送り、誘惑の試練によって心が清められるうちに、その心は神に向かって完全に開かれるようになりました。そして、神の愛に迫られて、他の人びととともに住み、その人たちの父となり、彼らとともに《主に奉仕する学校》を開きました。

…わたしの先任者パウロ六世教皇が言っている通り《愛・従順・清さ・事物に対する精神の離脱・物を正しく使うための技術・精神の優位性・平和・一言で言えば福音が支配している場所》です。』


《聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡「聖人たちの養い手」聖ベネディクト;トラピスト修道院訳;2007;教友社12~13頁》

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

《聖ベネディクトの戒律》は、西方教会(ローマ教会)の修道制度と隠修修道会(東方教会)をつなぐかけ橋とも言える「修道会則」の主な原典のひとつです。

活動修道会や教育修道会のシスター方に、「きっとすごく難しい本なのでしょ?」と言われることがあり、わたしの方が驚くことがあります。

確かに、外に出るのが大好きな多数派の欧米人には「一人ぼっちで山の中におこもりして修行なんて、ナイだろう!」という厳しさが感じられるかも知れません。

しかし、もともと内向的で内心の自由を重んじる日本人には、とても親しみの湧きやすい教父だと思います。

↓人々の心の扉をたたくキリスト

209b3744 大聖グレゴリオの《対話》によると、聖ベネディクトは都会に出てすぐに学業に失望します。そして、実家から付き添って来た彼を敬愛する女中を連れ、荒れ野に行こうとします。途中、ローマ近郊のエンフィデという町の聖堂で引き留められ、そこの教会の近くで主の道を求道します。

ある日その女中は、近所の人に借りたふるいを誤って壊してしまいました。他所者である手前、どうしたらいいか分からず困っている女中のため、聖ベネディクトは奇跡でそのふるいを元どおりにしたのだそうです。

が、この事件は街中の賞賛を集めました。その時、人々の賞賛が、聖性と求道の妨げになると聖人は気づきました。そして、女中を実家に帰し、ローマから更に離れたスコピアという山奥で「ただ一人、キリストとともにいる」生活を続けたそうです。

何かと内心に引きこもりがちな人の多い日本人には、とっても内向的な聖ベネディクトの生き方は、かえって共感を覚えやすいとしぇるりんは思います。

若い日にありがちな誘惑である、内気、放蕩、性欲など多くの試練を主キリストの助けによって乗り越え、聖ベネディクトはただひたすら、奥深い信仰の道、孤独な道へと邁進して行ったのです。

が、何せ求道を始めた途端に奇跡を起こせるほどの隠修士です。奥深すぎる、スゴすぎるで、誰もが聖ベネディクトを生ける聖人のようにしか思えないほどの深みに達してしまいました。

こうなると、人並みに「キリストに生涯を捧げます」という決意の人であっても「ちょっと厳しすぎて、付き合いきれないよ」となってしまいます。

そのため、聖ベネディクトが最初に熱心に乞われて、仕方なく修道院長となった最初の修道院では、聖ベネディクトの厳しすぎた指導が反感を呼び、ついには聖ベネディクトの食事に毒を盛る者が現れました。

毒を盛ったワイングラスは、聖人の十字架の祝福の瞬間に破れ、聖人は毒を盛られた事を知りました。

それまでの聖ベネディクトは、いわば主キリストの聖霊に純粋培養された、無敵の天才ホームランバッターのようでした。

並外れた天才バッターが、選手として誰かにバッティングを教えるとしましょう。「ピッチャーの足元を見る。で、ココでバット振って」という、「人並みに一軍スタメンのプロ野球選手にはとうてい理解しがたい」深すぎる教えになり、「何がなんやら、さっぱり分からない」になりがちなのです。

聖ベネディクトも修道士たちとの軋轢の中で、キリスト者として天才バッターにも共通する、同じような問題に気づいたのでしょう。

野球選手なら、天才バッターがバッティングを教えるコーチ、チームの采配を振る監督になれなくても引退後に転職できます。

しかし一人のキリスト者として、聖ベネディクトにはキリストの道を生涯歩む以外の道はありません。

その上、神の子でありながらキリストは弟子たちや貧しい人、罪人に寄り添う愛を示されました。

キリストに倣う一人のひととして、「ひとり、キリストとともにある」聖ベネディクトは、自ら修道士たちの父となり、修道士たちの父となる人々を養成し、その助けとなる「初心者のための手引書」として、《聖ベネディクトの戒律》を実践し、執筆しました。

その基本は主の受肉の神秘を受け入れた上で、超自然的な神の助けを受けて「祈り、働く」ことにあります。

「神を信じる者には人間的なことを忘れることは許されませんし、また人間に対しても忠実を尽くさなければなりません。」(上掲書23頁)

祈りがキリスト者の生涯を貫く神との語らいの縦糸であるなら、働き、奉仕のわざ、人々とのつながりやコミュニケーション、福音宣教活動は、生きる主と愛を分かち合う横糸に例えられるでしょう。

私たちキリスト者は、主との内面の語らいと言う縦糸と、生きる主の愛を人々と分かち合う横糸で、「わたしのいのち」という一枚の布を織り続ける織り子のようなものです。

縦糸をしっかりと張ろうとせず、横糸を織り込もうと日々努力しないなら、主が与えて下さった「いのち」という糸、「わたし」というはた織りは、糸の束を抱えたまま途方に暮れるだけで生涯が終わってしまうでしょう。

聖ベネディクトは、教会が「世の終わりまで、主の教えを伝え」られるよう、修道制度の基礎となる戒律(生活法典)を確立しました。

彼の時代には、修道者が信徒に敬愛される行いを実践することが宣教活動のかなめだと考えられていました。だからこそ、聖ベネディクトは修道者が模範的な修道生活を送るのに必要な「初心者(Novice)」がキリストとともに生きる人となり、聖性への道をならす使命を果たしたのです。

21世紀を生きる私たちは、壊れたふるいが元どおりになっても奇跡を信じないでしょう。CG画像か、特殊修復技術を用いたのだとしか思えないのです。

そんな私たちでも、ひとりの人の生きざまが変わること、ひとりの人の気持ちが「何となく動いた」ことで、歴史が変わる時、確かに奇跡を実感します。

21世紀の奇跡は、何がどう神秘的なのか、じっくり腰を据えて考えないと分からないことも多いかも知れません。

だからこそ、聖ベネディクトが「ひとり、主とともにいた」時のように孤独の日々を、主の愛に包まれて生き、主の愛を誰かに伝えることを求めるために捧げたいものです。

 

みなさんの祈りと働きが、それぞれの与えられた生活、環境、状況の中で素晴らしい主のぶどうのみのりとなりますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月13日 (金)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:イグナチオ・ロヨラとマルチン・ルターへの考察から

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんの見解として、ブログの末尾に『モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。』の警告文を出しています。

これは、公安当局も含めて日本人の殆どが「伝統的なキリスト教とカルト化するキリスト教の基準」を全く理解できていないためです。

カルト団体を伝統的なキリスト教と同じようなものだと思い込み、洗脳や搾取被害などに遭う方々が今も大勢いることに私の心が痛むからです。

キリスト教の根本的な教えの全ては、「二ケア・コンスタンチノープル信条」「使徒信条」及び「主の祈り」の三つにしるされています。

この二つの信条と主の祈りの根底に貫く理論が「三位一体論」です。

神学的に解くと、三位一体論ほど難しい教えは他にないようで、学問的に考えると神学生の苦手科目ベスト10に入れそうです。

↓シャムロック

Irish_clover アイルランドの守護の聖人、聖パトリックはシャムロック(三つ葉のシロツメクサなどの総称。アイルランド政府の商標登録のあるカタチに近いものの総称)の葉になぞらえ、「父なる神、父の子である主イエス・キリスト、人となられた主のご降誕、福音宣教、ご受難、十字架上での死とご復活により使わされた主の聖霊は、シャムロックの葉が一つの茎につらなるように、一つの神のペルソナである」と解きました。

日本の政治家がよく言う「三位一体改革」は、別々の三項目の行為(「国庫補助負担金の廃止・縮減」「税財源の移譲」「地方交付税の一体的な見直し」)という別々の役所や役人による業務行為が、結果として「一つの地方再生、一つの国庫財源の立て直し」という目的のために結果として機能する、という根拠も方法論も曖昧な「目的論」を一本化して見せるコトバ遊びに過ぎません。

その点、キリスト教の「三位一体論」とは、天地創造から世の終わりまで、すべての被造物の根源を支えるみなもとが「父と子と聖霊」だという意味です。

三位一体のそれぞれのペルソナ(主が人間にみことばを通じてお伝えになったご自身の属性)である「父と子と聖霊」は、旧約聖書、新約聖書のみ言葉、祈り、主からの語りかけ、導きなどと違う様相を示しているように、時と状況に応じて感じられます。

しかし、天地創造から世の終わりまで、すべての被造物をつかさどる根底にあるのはひとつの愛(Caritas)、真理(Veritas)、キリスト(Christos)の源である「主なる神」なのです。

このような「三位一体神学」を否定する「キリスト教系団体」は、不思議なぐらい急速にカルト化する傾向があります。

また、カトリック教会の教皇座、正教会の主教などの「一つの教会」としてのまとまりを否定するプロテスタント諸会派は、地域文化との融合、宣教地での変化に対応してその宗派の数が増加する傾向が見られます。

宗教改革五百周年を迎える2017年、プロテスタント教会の成立を主導したと言われるマルチン・ルターについて多くが語られています。

1483年生まれのマルチン・ルターはアウグスチノ修道会の修道司祭であり、優秀、かつ不器用なほどに真面目で理想主義的な聖書学者だったと言われています。

日本の「世界史」の本には「免罪符(免償符:罪の償いを軽減する護符の一種)の乱発で新旧教会が揉め、宗教改革が16世紀に起こった」と書かれているようです。

が、実際には既に12世紀ごろから、教会改革運動への動きが水面下で何回も起きていました。ドミニコ会、アッシジの聖フランシスコが極貧生活から始めた「フランシスコ会」などを通じ、カトリック教会が使徒ペテロの時代から継承する、あるべき教会」を取り戻そうと動いていたのです。

長い数百年来の葛藤の土壌があってのち、16世紀初頭に免償符事件がドイツで起こりました。

ドイツのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルグ大司教、アウスブルグで大銀行を経営するフッガー家などが手を組み「ゆるしの秘跡の際に、信徒に申し渡される償いを軽減するための『善行』としての寄付」に対し『免償符(免罪符は誤訳)』を発行し、高額の御寄進を集めたのです。

14世紀ごろまでのゆるしの秘跡の償いとは、例えば故意に殺人を犯したら、場合によっては「四年間、パンと水だけで過ごし、祈りに明け暮れなさい」など、考えるだけでも震えが来るほど厳しいものでした。

カトリック信徒でいることには違和感がなくとも、ここまで深い回心と「償いの実行」を全ての信徒に求められると、相当なストレスになったでしょう。また、「あの人は罪人なんだ。パンと水だけで過ごしているよ」などと後ろ指を指す人もいたかも知れません。

そのため寄付が多少高額でも、免償符は当時飛ぶように売れたようです。日本の江戸時代の税制にあった過酷な「賦役」という労働税を逃れるため、高い日当を払ってでも貧しい労務者に「賦役」の代行を依頼したのに似ています。

どのような理由があったにせよ、11世紀ぐらいから、ゆるしの秘跡と償いの関係性をキリストの愛、信仰、希望の教えから根本的に見直す必要性を訴える人々がいたことは確かなようです。


主の名によってゆるしを得て、主に償い、たましいを解き放たれるのはキリスト者の内面における権利であり、義務であるとルターは考えました。そして、「ゆるしの秘跡」の「償い」を、あたかもお金で売り買いできるかのごとく喧伝したのはあやまちだと主張したのです。

聖書学者だったルターの主張は、主に次の4点にまとめられます。

① ラテン語だった聖書の国語訳により、一般信徒が誰でも聖書を読めるようにすること。

② 聖書にしるされた聖三位一体への信仰に基づいた漸次的かつ内心における回心を、人間生活の現実に基づいて実践できる司牧と善き勧めに従いつつ行うこと。

③ 聖書の教えは、人間生活の中で実践されなければならないと主張し、当時は、農民の賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止などを主張。

④ ①~③を実践するためには、免償符発行などによる不透明な金銭の流れを断ち切る、根本的な教会改革が必要である。

趣旨だけを見る限り、③以外は反動的宗教改革のうねりを起こし、トリエント公会議の立役者となったイエズス会の創始者、イグナチオ・ロヨラの主張と大きく異なるようには見えません。

問題が起きたのは、③の「人間生活の中で、それぞれの内心において聖書の教えが実践される場こそ教会である」というルターの考えは、「地域文化に根付いた教会の創設」へと誘導する政治的勢力が、ルターという融通のきかない聖書学者を、教皇座との宗教対立のお神輿として担ぎ上げる口実になったことです。

また、「普遍の教会」である「カトリック教会」との分裂が地域問題で引き起こされる危険ありと考えた当時の教皇レオ十世は、「地域の問題は、大司教が解決しなさい」とし、カトリック教会全体の問題として取り上げようとしなかったことが、さらに政治的波紋を広げてしまったのです。


これらの要因が、政治的にかなり不器用だったルターが、生涯、理想と現実に挟まれたまま、苦悩と不安に翻弄される原因を作り出したようです。

宗教改革の立役者、マルチン・ルターとイグナチオ・ロヨラの決定的な違いは、それぞれの生い立ちと性格に由来するのかも知れません。

愚直なまでに理想主義者であり、どこまでも優秀、真面目な聖書学者であり、模範的すぎるほど模範的なアウグスチノ会士だったマルチン・ルター。

その真面目さゆえに、政治的な思惑などで近づいてくる貴族や商人らのさまざまな思惑に翻弄され、悩み、不安に怯え、苦しみ、徐々に孤立を深めたルター。

一方、宮廷文化の中で生い立ち、一途なまでに中世の騎士であり、武人であり、戦術と政治の深い薫陶を受け、ロヨラ城に育ち、生粋の武闘派だったイグナチオ。

一軍の将として戦場で重傷を受け、敗退、撤退を余儀なくされたのを機にキリストに回心し、「霊操」というビジュアル時代を先駆ける観想手法と、新しい祈りの世界でキリストに出会ったイグナチオ・ロヨラは、ルターとその社会性において全く対照的な人物と言えましょう。

反面、武人だったロヨラはキリストを深く悟り、観想に耽ける日々の中で信仰は深まったものの、回心当初は当時の元騎士らしく、さほど学のない人でした。

回心後に司祭を志したロヨラは、子どもたちと机を並べてラテン語を基礎から習いました。そして、当時の中年と言える年齢で、やっとこさ司祭叙階までこぎつけた上に、イエズス会の創始者となった点でもルターとは対照的です。

16世紀半ばのトリエント公会議で④の「免償符」は完全廃止になり、ゆるしの秘跡の償いが「一般の信徒の実情に寄り添う内容とする」ことまでは解消しました。また、②の「内心の信仰生活の充実」に関しては、初めて信徒向けの「カトリック教会の教え(カテキズム)」を信徒自ら読めるよう定められました。

しかし、①の信徒が自らの判断で聖書を読んでいいのか、③の「社会福祉活動や政治活動など世俗活動に聖書の教えを信徒が実践していいのか」という点などへの改革はほぼ先送りされました。

特に①の「聖書はたとえ自国語訳となっていても、信徒は聖書を個人で解釈してはならない。」という部分は、1962年~1965年に開催された第二バチカン公会議まで、根本的に見直されず、そのため、③も「教会が主導し、信徒は補助する」状態に留まりました。

この温度差が、カトリック教会と「離れた兄弟姉妹たち」であるプロテスタント教会諸宗派との距離感に、4世紀にわたり「傷口に塩を塗る」こととなったのです。

第二バチカン公会議により、エキュメニカル運動(キリスト教一致運動)が起こりました。「離れた兄弟姉妹たち」との直接交流は、宣教地である日本ではキリスト教が育った欧米より今はずっと盛んです。

日本では現在、カトリック、プロテスタントの伝統的なキリスト教宗派では、日本聖書協会版の《新共同訳 旧約聖書・新約聖書(カトリック教会では続編付)》をミサ、礼拝の朗読に用いています。

また、現在も文語体の《日本正教会訳 文語聖書》を用いるハリストス正教会でも、文語体が口語に慣れ親しんだ今の日本人には馴染みが薄いことを鑑み、聖書の勉強会などには《新共同訳 聖書》などの口語体聖書を用いるよう勧めているようです。

カトリック教会で公けの勉強会で用いられる聖書は、日本聖書協会版の他、フェデリコ・バルバロ神父訳《聖書》、フランシスコ会員らが長年、不断の研鑽で結実した《フランシスコ会版 聖書》(どちらも旧約・新約聖書)の二種類があります。

現在、日本聖書協会では新たに「日本聖書協会共同訳版 聖書」の翻訳事業が進行中であり、カトリック教会を含む主なプロテスタント宗派がこの事業に合流していますが、事業は未だ道半ばにあります。

そのため、日本聖書協会版聖書、及びカトリック教会、ハリストス正教会が認めた聖書以外の聖書を主に用いるキリスト教団体は、基本的にカルト集団であると言えましょう。


マスコミ、警察、公安、学校教育では、キリスト教についてきわめて「あいまい、感情的かつ否定的な情報」が錯綜しているのが日本の現状です。

一例として、マスコミが過熱報道した挙句「一種の独立教会系っぽい」実態が判明したのが、1978年ごろに事件扱いされた「イエスの方舟」でしょう。

イエスの方舟事件は、独立教会系の信仰に傾きつつあった故千石剛賢氏が、当時、DVや親らのハラスメントなどで行き場を失い困窮する女性らが共同生活するシェルターを運営するのを、マスコミが面白おかしく書き立てて「事件化」させた典型事例です。

その実態は、聖書の勉強会、共同生活、昨今はやりの「坊主バー」のキリスト教版ナイトクラブへの参加、運営、および共同体の自立採算でした。お客さんの悩みを聞き、人生相談にのる独立教会系のキリスト者としての社会活動のつもりで運営したのがナイトクラブで、当時はオウム真理教並みの危険度があるかのごとく書き立てられました。

日本では、キリスト教関連の伝統宗派とカルト宗教の区別については、マスコミ、警察、公安や教育関係者からの情報が全くアテにならないのが実情です。

マスコミが騒ぎ立てても、「三位一体への是認」「聖書の教えへの従順」があるかなど、キリスト教本来のあり方から見ると危険度の低い団体である可能性もあります。

一方、マスコミが全く取り上げなくても極めて危険性の高い「自称キリスト教系のカルト宗教団体」があり得るということを、「イエスの方舟事件」は私たちに教えてくれました。

キリスト教系の「伝統宗派」と「カルト宗教」の区別の基準は、次の七項目です。

① 伝統宗派が認める聖書を用いているか。


② 三位一体である「父と子と聖霊」を認めているか。


③ 「二ケア・コンスタンチノープル信条」「使徒信条」

  及び「主の祈り」の内容の主旨を認めるか。


④ 徹夜祈祷会、聖霊刷新など手をかざして牧師や司祭が

  「癒し」を与えるような集会を頻繁に行い、見返り

  として著しく多額の献金を要求していないか。


⑤ 「カトリック教会」を自称するのに、司祭は妻帯者。

  聖堂にご聖櫃がなく、赤いランプがなければ

  それは「カトリック使徒教会」。


⑥ 配りきれないほど多くの聖書、冊子の購入、訪問や

  街頭での宣教活動、高額な費用のかかる勉強会への

  参加を強要するなら「カルト宗教」。


⑦ 「世の終わりが近づいた」「再臨のキリストが

  まもなくおいでになる」などと唱えて、貯金の全てを

  出すように求めるなら「カルト宗教」。

①~③に関しては、素人判断の難しい内容も含まれていますが、④~⑦に関しては誰にでも分かりやすいと思います。


やたら宗教関連の冊子を配ったり、売り歩く人は伝統宗派のキリスト教徒にはほぼ皆無です。また、洗礼、祈り、秘跡、祝福などへの対価は頂かないのが、伝統的なキリスト教のあり方です。

献金とは、聖堂や礼拝堂、教会共同体の維持、管理、運営経費及び司祭や牧師の人件費を賄うための「実費」を教会共同体のメンバーや訪問者が出し合う行為であり、「ご利益を買うため」の行為ではありません。

福音宣教活動もまた、それぞれの司祭、修道者、宣教者や信者が、聖霊のみ働きを通していただいた賜物を用いて、日常生活やその延長線上で行うものです。

「少数派なんだから、黙れ」扱いを受け、何かと肩身の狭い思いをしがちなのが日本のキリスト教徒ですが、やはり、理解されるべきは理解を求めたいと思う次第です。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月 6日 (金)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:カルト宗教の定義

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

今まで4回にわたり、「宗教」と「カルト宗教」の違いに関して、論考してまいりました。

Unknown 実際問題、カルト宗教により何らかの被害に遭った方は、交通事故の被害者ぐらい多いというのが、しぇるりんの印象です。

しかし、カルト宗教に洗脳されお金を取られましたと言っても、「それはお気の毒に」以上の補償は何もありません。


以前は、イエスの方舟問題、「家出の統一教、我が子を返せ訴訟」など、さまざまな個別の民事集団訴訟などが行われましたが、被害者への賠償が十分になされたとは言えません。

もちろん、オウム真理教事件のように他者に危害を与え、社会に大きな損失を与えた刑事事件であれば、捜査の対象ともなり、公安警察も動きました。

しかし、オウム真理教がいくら大勢の無辜の信徒被害者を出していても、1995年3月30日に起きた「警視庁長官狙撃事件(未解決事件)」さえなければ、あれほど根こそぎ徹底捜査されることもなかったかも知れません。

つまり、洗脳被害に遭った人はその被害の甚大さを悟ることもなく、救済を受けることもできず、日本ではカルト宗教を政治的な意図で故意に野放しにしている危険な状態です。

日本以外の国では、カルト宗教活動は「社会的な破壊行為」として、伝統宗教諸宗教諸会派の宗教家の協力のもと、政権、警察と公安関係部署で監視、取り締まりを行なっています。

国際的なカルト宗教の取締り基準は、下記の4項目です。

① その集団は、社会の安寧秩序を乱す行為を行なっていますか。

どの国や地域にも「社会の安寧秩序」の基準があります。カルト宗教に関しては、その基準を時代に沿って見直し、比較的穏健な宗派の複数の宗教家の慎重な判断を経て、「明らかに安寧秩序を乱す」事態が発生した場合、その宗派への適切な勧告を公安部署を通じて行います。

例えば、私が調査した韓国の場合、仏教であれば本山からの勧告、場合によっては僧侶の破門、キリスト教であれば「教会そのものの破門、信徒への帰正の呼びかけ」などが実際に報道機関などを通じて行われたことがあります。

② その集団は、不当な金銭搾取行為を行なっていますか。


カルト宗教で金銭搾取行為と言えるほどになると、全財産を失くして自殺者が続出、社会問題が起きるほどの規模で、やっと「不当な金銭搾取」と認められるようなものだと思ってください。

実際のところ、英国のヘンリー八世は国を挙げてキリスト教に熱中しすぎた挙句、「英国国教会(現聖公会)」を創ってしまいました。また、アイルランドのクライストチャーチ大聖堂を18世紀に再建しようとしたウィスキー醸造会社のオーナー、ヘンリー・ローは、七年間も聖堂再建に入れ上げた挙句、会社は破産。結果として、ライバルだったギネスビールに会社を売却する憂き目に遭いました。

歴史上このような事例があるため、金銭被害だけでカルト宗教被害が認められる事例は多くない印象を受けます。

③ それは「秘密結社」ですか。

「秘密結社(Secret Society)」とは、「その存在すら知られていない組織」の意味ではありません。

実際、秘密結社として有名な「フリーメーソン(Free Masonery)」や「イルミナティ(Illuminati)」にも公式ホームページが存在します。また、内部組織について真摯に考証した著書も存在します。

あの、ケンタッキーフライドチキンの前にいる「カーネルおじさん」が、生前みずからフリーメーソンであると公に名乗ったのをご記憶の方も、いらっしゃるかと思います。

秘密結社にはいくつかの定義があります。

⑴ 一定の条件を満たす人が招待制で入会を許可、

  不許可を結社側が決められること=誰もが自由に加入

  できない宗教団体。

⑵ 活動場所、定期的な集会の日時、集会の活動内容が

  一般に公開されておらず、個人情報以外の問題である

  儀式の作法、式次第なども非公開であること。

⑶ 金銭のやり取り、秘密結社の中で秘密裏に話される

  内容が社会、経済、政治、外交などに及ぼす影響が

  甚大だと考えられること。

⑷ 秘密結社の教義やその成員が共有する価値観が

  「秘密」であり、その時代、その場、その時の社会に

  通用する価値観や人類普遍と考えられている

  「平等、友愛、基本的人権」などの原則を敵視する

  内容なのかどうかが明らかでないこと。

④ その宗教団体は、その国、地域で社会通念として明らかに危険視されている教義を信奉していますか。

④に該当する日本国内の事件では「集団自殺を教団の核心教義とした」戦前の「死なう団事件」などが挙げられます。


また社会通念に照らし合わせて考える場合、日本では合法な創価学会は、フランスでは「危険な秘密結社であり、カルト宗教」として監視対象となっており、布教活動を禁じられています。

また、100ヶ国以上の西欧諸国や日本ではあまり危険視されていないセブンスデーアドベンチスト教会が、ロシアでは「世紀末論を定期的に流布する危険なカルト」認定されています。

深刻な集団虐殺、集団強姦などを行なったことで④に該当するのは、シリアなどのISや、ミャンマーの「仏教のビン・ラディン」と呼ばれるアシン・ウィトラ僧正の影響を受けた民族浄化運動によるロヒャンギャ虐殺とイスラム教徒迫害運動などでしょう。

日本では、「穏健な宗教」と「カルト宗教」の区分が時の政権のご都合主義に左右される傾向があります。

つまり、国際的に一般化された基準に準拠しているわけではなく、日本的なタテ社会意識の中で宗教団体を階層化しようという権力者の圧力の方が、「穏健な宗教か、カルト宗教か」という区分よりも重要視されていることが、日本という国の問題点なのです。

現実にカルト宗教の洗脳被害に遭ったことで苦しみの日々を送り、金銭搾取により甚大な被害を被り、一家離散の憂き目にあい、人生が狂ってしまった方々のお気持ちを考えると、何ともやるせない気持ちになります。

カルト宗教に「騙された自分が悪いんだ」と自分を責める以外に方法がない方、脱会したくとも脱会できないで苦しんでいる方々が日本には大勢います。

同じ洗脳搾取被害でも、ネズミ講の詐欺被害であれば、場合によっては警察に訴えることが出来るのに、カルト宗教相手では訴えすら聴いてもらえません。


だからこそ、このブログを読む皆さんにカルト宗教と宗教の違いをご理解いただきたいと切に願うわけです。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月 3日 (火)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:「教え」、「個人崇拝」と「世紀末」

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

前回は、洗脳術の手法について、お話しました。

さすがに「薬物洗脳とかは、どこか違う世界のお話でしょ?」と思われた方が多いと思います。

以前、インド哲学を学びに留学した女性に「インドでは、見知らぬ他人に出された飲食物は口にしないのが原則」と諭されました。飲食物に脱法ハーブや違法な麻薬性薬物を入れ込んで、ヨガなどに中途半端に興味をもった外国人を洗脳して教団の広告塔にする、強姦して売り飛ばすなどは日常茶飯事だからだそうです。

日本でも、誰もが入れるバーなどで、脱法ハーブが当たり前に流通するヤミ市場が存在すると聞き及びます。やはり、付き合う相手、出入りする場所には注意が必要でしょう。

日本人は、手先も考え方も繊細で細かい部分へのこだわりが強いわりに、大ざっぱな考えを生きることが苦手な人が多いようです。

別な言葉で言うと、細部をすべて埋め尽くさないと、大枠の体系的な哲学や宗教の教えを理解した気になれない人がとても多いのです。

どこの国や地域の人でもそうですが、宗教的なセンス、霊感、直感があり、宗教や信仰心への理解を一定以上深められる人は総人口の5%~10%以下だと思います。

もともと、宗教の教えやその原典を翻訳であってもすらすらと読み解き、宗教的な感性を、論理的、哲学的に自分の中で深められる素質のある人は、それほど多くないのです。


日本以外の国で多数派の「さほど宗教的でない人」は、宗教や信仰への理解の深い人に「なぜ、どうしてコレをするのか、しないのか」をざっくり教えてもらうこと、教えや価値観をひとと人との関わり合いに応用し、社会生活で必要な人間関係を円満にすることにより力点を置いています。


だから、海外だと、より宗教的に理解の深い一人の家族の勧めで一家揃って改宗ということも多いのです。

ざっくりと教えの体系を身につけて日常生活で活かすことと、教えの細部までじっくり探求することは、ハイキングや山歩きをすることと、専門的な冬山登山やロッククライミングをすることぐらい違います。

前者は「習うより慣れろ」という日常生活レベルの問題ですが、後者は専門的な指導や鍛錬、素質や本人の意志の強さに好き、嫌いだけでなく、罷り間違うと命を落としかねない問題だからです。

ざっくりと教えの体系を生活に活かせるようになるだけでも、日本人にとってキリスト教は難攻不落に感じます。

これは無意識のうちに持っている「気高いキリスト教徒」というイメージのせいだけではないでしょう。

日本人は「ざっくりと教えを日常生活で何となく自分なりに、矛盾があっても実践」でき、日曜日に自主的にミサ、礼拝に個人や家族単位で行きたいなぁ、と思えるようになれればまあ平均点以上かな、で満足感を得られないと感じるように思えます。

Moon_autumn01 日本の庶民信仰の歴史を、紐解いてみましょう。

安土桃山時代までの日本では琵琶法師、修験者、歩き巫女、法師など、遊芸の民、無名の霊感ある語り部らが一定地域を練り歩き、各地のニュースを伝えるとともに、神社仏閣の信仰、由来などを解き聞かせては日銭を稼ぎ、また神社仏閣への寄付集めを行なっていました。

そのため、富士山の見えない地域にも富士講が根付いた地域などがあったし、戦国時代には全国各地に一向宗が広まったりもしたのです。

そこには教えを広めた人との人間的な信頼関係、教えを受け取った人と村人らの強い気持ちのつながりがありました。

そのような「ひとと人とのつながりを重視する小規模な宗教活動グループ」に自分の居場所を求める傾向は、いまの日本人の心の中にも何となく残っています。

そのため、洗礼などの入信儀式を受け、大規模な礼拝やミサなどにいくら通っても、何となく「自分の居場所があるように感じられない」日本人がいまもいるようです。

司祭や修道者が小規模な宣教活動グループを発足させると、必ず「○○神父さんファンクラブ」「△△修道会の集いファンクラブ」みたいな小グループに居場所を求める人が引きも切らずに集まります。

日本ではカルト宗教でも、30人規模以下の小グループに信徒をまとめ、小グループをまとめる中間カリスマを置き「タテ社会」の階層社会を築こうとする傾向が見られます。

海外でキリスト教から派生した「???な集団」や、一部のイスラム教や仏教の過激右派なら、はじめからサクラを使ってでも大集会を開き、大勢の人を一ヶ所に集めて人々の信頼と名声を高める、という手法を用いるでしょう。

しかし、日本では「対面で互いに顔見知りになれるぐらいの小グループでの居場所」の方が、大規模集会に参加するより信頼をおけると感じます。

これはもともと、日本人の庶民信仰が個人から個人への口伝であったことと関係があるようです。

また、日本人は哲学やら神学と、霊感的なもの、直感的なものとのつながりや理解があいまいです。

六道輪廻(前世から転生するという仏教的な考え方)を、本人の思い、行い、怠りと全く関連づけずに運命論的な「転生がある」という、どちらかというとラノベ的な発想を本来のお釈迦さんの教えに関係なく、「何となく」思い込んでいる日本人は高齢者にも大勢います。

本来の六道輪廻説は、現世での行いが善ければ、よりよいものに生まれ変わり、悪行を尽くすなら畜生道に堕ちる、という意味です。だから「生きている間にお釈迦さんが説いた善い行いをしなさい。功徳を積みなさい。」という意味合いで解かれたものです。

このような直感的、かつ霊感的なもの、パワースポットなど、現代の遊芸の徒である芸能人がまことしやかにこれでもかと、テレビで語ります。あれこそ、「芸は身を助ける」の芸のうちなのです。

しかし、彼らが自らの芸に真摯であるがゆえに、語られていると、何となくその気になる方もいらっしゃるでしょう。


そうなると、哲学的かつ神学的なものへの理解と、直感的に自分が感じる何かの間に隔たりがあっても、全く自覚していない自分に気づかない、という奇妙な現象が起こります。

世の中にはいろいろな考えがあり、いろいろな見方があります。

それを否定はしませんが、論理的な思考を直感的なものや、遊びとしての占いやまじないにごちゃ混ぜにして、自らの人生やいのちを決定づけるのは、如何なものでしょうか。

生まれることに関しては仏教倫理に関係なく輪廻転生を信じ、生きるためには「いいとこ取りの日本式」を受け入れ、死んだら「安らかに天国に行ける(天国はキリスト教用語)」から、お坊さんにお経を読んでもらいましょう(アレ?)、で何ら疑念を持たない人が日本には大勢います。

これでは、日本人はみな、自分らしい確たる考えを持てない、根なし草人間ばかりになってしまいます。

一種類の教え、哲学、神学を理解し、実践するのは堅苦しく見えるかも知れません。

ですが、一神教は他の多神教の神さまを認めないから、排他的だと考えるのは大きな間違いです。

信じる神は一つでも、実際には「崇敬の対象」である聖母マリア、聖人、聖女、聖人ではなくとも事実上の崇敬の対象でもあり、反ナチス運動の旗印となったマルティン・ニーメラー牧師など、一つの神の教えを生き抜いた方々の模範などが、一つの神の世界に人間性の息吹きを常に新たにもたらしているのです。

教えそのものを直感的にごたまぜにしてしまうと、一見、人間性に柔軟に対応できるような「いいとこ取り、融通がきく」という肯定的な側面だけを評価しがちです。

実際のところ、教祖さんや利権利得のあるカルト教団の幹部にとって「いいとこ取りで融通がきく教え」は、幹部のふところ具合で搾取の都合にも合わせられるのです。

例えば、カルト宗教集団がよく使う手法に「世紀末論」があります。

《聖書》の<ヨハネによる黙示録>の内容は、ある特定の民族や地域の世紀末を描いた内容ではないと言われています。

「イエス・キリストへの信仰を失わずにいれば、神の時、ゆるしの時は必ず訪れるから、世の終わりまで希望を持ち続けなさい」という意味合いで「世の終わり」を描いたのだとしぇるりんは理解しています。

その点、カルト宗教集団は直裁的に「さあ、世の終わりが来るから、あなたの財産を全て教団に寄付して献身しなさい」とやるわけです。

具体的に何年何月何日、とキャンペーンを繰り広げる集団もあるし、数年前まで流行った「マヤ暦による世紀末」のように始めから落としどころを作っておいて展開する「世紀末」もあります。

オカルト雑誌<ムー>などでワイワイ騒いでいるぶんには、さほど危害のなさそうな「世紀末」も、カネ、コネ、権力、暴力などが絡むと途端に凶暴度がアップします。

時に民族紛争や大虐殺すら引き起こすこともある「世紀末論」の悪用は、21世紀には世界戦争の引き金になりかねない脅威と言えましょう。

この手の物騒な「世紀末論」をこっそり共有できる、心安らぐ30人ぐらいの小グループの中で、確かにあなたには居場所があると実感できるとしましょう。

今の苦しみ、悩みも生活不安も「世紀末が来れば全て終わる」、「このグループのメンバーでいれば、世紀末に安らぎが得られるんだ」と信じ込めば、ついつい有り金をカルト教団に自主的に寄付して「楽になろう」、という誘惑に乗ってしまいがちなのが人間の弱さというものです。

世紀末に楽チンして世の終わり、自らの終わりを迎えられるほど、生命と死はお気楽ではありません。

世紀末論で騙される多くの事例が「特定のカリスマ個人への極端な傾倒」です。

宗教的な意味合いで逸脱した個人は、どの宗教グループにも現れるでしょう。個人的な宗教観による逸脱行為を未然に防止するためにも、教義、哲学、神学など体系的で柔軟な基幹は必要不可欠だと多くの世界宗教で考えられています。


いいとこ取りで、都合がいいだけの価値観はありません。

 

どれほど不器用でも、みなさんがそれぞれご自分なりの考えや価値観を見出せますよう、お祈りいたします。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





より以前の記事一覧