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« 天に上げられた祈りのみ母 | トップページ | 「ことば」の力、みことばの愛 »

2019年8月16日 (金)

メンタルヘルスと「祈り、信心業」の功罪

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。

 

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らの真似をしてはいけない。

 

あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存知なのだ。

(マタイによる福音書6:5~8)

 

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

 

「祈り」や「信心」というと、「運が良ければ叶うこともあるだろうし、不運や不幸で叶えられないこともある」と考えがちです。

父なる神、人となられた神のひとり子、イエス・キリストと、天から遣わされる聖霊の働きは、わたしたちそれぞれの「まことの姿、タテマエとホンネで分けられない、本当のあり方」に働きかけられます。

 

「祈りや信心業」というと、メンタルヘルスには良いイメージがあります。しかし、実際のところ心理学、深層心理学、脳生理学と「祈りや信心業の関係性」については、さほど深く研究されたわけではありません。

冒頭のみことばには、祈りについてとても耳痛い要点が簡潔に記されています。

まず、「人の見ているところで祈るものは、すでに報われている」という点です。

 

これは、何も「目立つところで、麗々しく祈るのでなければ良い」と解釈しがちです。21世紀の日本では、そういうことではないでしょう。なにせ、この国ではいくら目立つ大聖堂に行ってイエス・キリストに祈っても、未信者さんに認められることはほぼないのですから。

 

よく見かけるのは、「ある小教区のカトリック信徒であることが権力やステータスの一種だと考える方」、「主任司祭の考える『理想的な信者らしく』振るまえば、認められ、教会共同体内に居場所ができると思う方」、そして「近隣や関わりのあるミッションスクールへの主任司祭からの推薦入学枠希望のご父兄」などです。

この部類の方々は教区への寄付金の額も多く、どの主任司祭にも認められやすい傾向があります。

 

一見すると、熱心に奉仕される方も多く、経済的にも社会的にも安定しているご夫婦、ご家族が多いのがこの部類の方に見受けられます。

 

現実のところ、日本の多くの小教区はこれらの「何となく熱心に見える信者さん」の奉仕なしには運営が困難なようです。

 

しかし、これらの奉仕を行うことで本当にご本人の信仰が育てられ、弱く、小さいひとを受け入れる教会共同体を目指せるのか…は疑問に思えることもあります。

 

弱く、ちいさいひと、司祭や修道女に相談しても分かってもらえそうにない悩みを抱えた人は、聖堂のかたすみにいる、という構図は日本にもあります。

 

カトリック教会は「聖ペテロの使徒座」を通じて一つの「普遍的な」教会としてまとまっています。しかし、現実には小教区の主任司祭の裁量や判断で、教区運営の方針はときどきに変わります。

 

信徒は「信仰の上では、『主任司祭』の全人格が師イエス・キリストの写し絵ではない」と、理解しているでしょう。

でも、現実として説教やミサ聖祭への思い入れなどから「いまの神父さんは…なぁ…。」と思ってしまうこともあるかと思います。

 

現実に司祭館にいるのが「いまの」主任司祭である以上、何と言われても「いま、ここにいる司祭」に合わせられるだけ、何とか合わせ「いま、目の前にある教会運営」に参画する必要はあります。

 

もちろん、反動的宗教革命の時代のように「師イエス・キリストの教えに、このひとは叶うと思えるのか」という疑問は、常に持ち続けなくてはなりません。司祭、修道者、修道女も完全な人ではないのです。

信徒もみずから聖福音書の基本に立ち返り、「自分の信仰のあり方」をよく保ち、主任司祭や他の信徒の意見にやたら左右されてはならないと思います。

 

時に「おやっ?」と思うのが、「心理学などを一通り学んだと自負している司祭が、素人カウンセラー気取りで精神障害者相手に自身の見解で判断(裁き)を始める」ことです。

多くの信徒が、「ゆるしの秘跡(告解)」には何を言うべきなのか、よく分かっていません。

と同時に司祭も、「信徒の人生相談を聴かされているのか?」という疑問にさいなまれることが多いのかも知れません。

なにせ、そうそう十戒に背く大罪を年に何回も犯す人が日本のカトリック教会にやたらいるわけではありません。

「会社の仕事でリストラ業務をさせられた結果、部下の家族が自殺したと聴いた。わたしは、結果として人を死に追いやった」なんて話は、そう年がら年中起こることではないからです。

結果として、告解室は往々に人生相談の場になりがちです。

「その人が、キリストの愛といつくしみ、ゆるしに応える回心への招きへと歩んでいるのか、霊的な意味合いで悪への誘いと試練にいるのか」への霊的なゆるしを通じ、その人が回心への招きへと歩めるよう、道を整えるのが司祭の役目だと、わたしは思います。

わたし自身が精神障害者であって思うのが、司祭は心理学、深層心理学、教育心理学の専門家でもなく、脳生理学の最新刊を読んだ人はほぼいない、という印象を受けます。

「それって、何十年前の講義で聴いたの?」ぐらいの貧弱な知識で、司祭が素人カウンセラーをやりだすのは危険だとすら思う状況です。

 

過去50年間で、抗精神剤などの非麻薬系薬剤の発達、電磁波、電波を用いた各種撮影、検査機器の発達、電子顕微鏡を用いた遺伝子工学などの発展により、心臓と脳の機能は、かつてないほど「生理学的に」解明されつつあります。

 

発達障害、てんかん、各種依存症、統合失調症やうつ症状など、50年前には「天罰や優生学的な意味での劣性遺伝?この人、変人?」であるかのように言われて来た事柄が、急速に「ひとの心や気持ち」と「脳、自律神経系と五臓六腑の脳内物質との関係性」の中で徐々に紐解かれつつあります。

 

同時に科学的なアプローチにも、限界が見えて来ました。脳の個体差は「ひとの数だけ多様」である可能性が見えて来たからです。

 

それら最新の学説は日本の精神科医・心療内科医にもできていないのですから、もともとカウンセラーではない司祭には手に負えないと思います。

 

信徒の個人的な悩みごとが、罪の代わりに告解室で語られても、「イエスはこの人に何を求められているのか」を祈りのうちに耳を傾けるなら、信徒の状態に関わりなく「イエス・キリストが教えてくださる善き勧め」を指し示せることでしょう。

 

どうもこの点、「カトリック教会の教えに合致しているか、していないか。この人は心の病ではないのかの判別」に心をとらわれがちな司祭が増えているように感じます。

かといって、数十年前のように「ゆるしの秘跡は罪の告白をするのだから」と、なかったことまででっち上げて告解するのもイマ風ではありません。

信徒も「祈りや信心業は心の健康に良いのでは?」と思い、何時間も続ける方がいます。

 

災害や自死によりご家族を失った方などの場合、やはり専門医の診断を受け、運動療法、作業療法など、PTSD(Post Traumatic Syndrome、トラウマ後症候群)の治療も受けた上で祈りと信仰を求めた方が良いな、と感じる方を時に見かけます。


PTSD特有の強い自責の念の反芻現象、ご家族を自死で失ったとは「どうも教会では外聞が悪くて言えない」など、日本社会特有の問題もあります。

 

日本では、毎年東京都下のひとつの市の人口ぐらいの人数の自殺者がいます。実質的には、およそ年18万人ぐらいです。

 

これも脳生理学的な遺伝的要素と、現在の社会状況が密接に絡まって起きる現象であり、自死された当事者やご家族に責任が問える問題ではないです。まして「カトリック教会の教え」で人間が人間を裁いてはならないと思います。

見逃された精神疾患の悪化、同調圧がものすごく強い社会に生きて来た結果、「葛藤や軋轢が起きることがゆるせなかった」など、小さな原因の積み重ねと共依存で起こることが多いのです。

 

複雑な社会問題への対応は、一人の司祭の理解能力を超えることの方が多いでしょう。

 

いつの時代もそうであったように、「祈りの学び舎」で学べることと、講義室で机上学習できることは違うのです。

 

メンタルヘルスの悪化で、教会とミサに助けを求めに来る人はそこそこいます。

そして、その人たちは「ちょうど、ポケモンGOのレア・ポケモンスポットだから」教会に遊びに来た人々よりは、真摯に主イエスの助けを求めているのだと思います。

 

司祭が「真にそこに来た人は誰であれ、キリストの現し身である」ということを、片時も忘れてはならないと思います。

 

同時に、信徒も司祭も、祈りに専心しているつもりであったのが、「実は自分の中にある自分の問題という小部屋への閉ざされた扉を開かない口実」になってしまう、微妙な心のあやもあります。

 

メンタルヘルスに関する諸問題と、カトリックの信仰や祈りの問題は、分けて考える必要があります。

 

ただし、司教団や司祭がすべてを仕切るのではなく、専門家の仕事は専門家に任せる、または助言を受けられるようにしておくべきでしょう。

 

人口の多くがカトリック教徒の国であれば、各教区に協力を求められる医師らもいるでしょう。しかし、日本ではごく限られた人的資源ですべてを行わねばなりません。

 

信徒の側でも、「心の病や、PTSDなどへの医学的な対策とキリストの招きは別なもの」である自覚が日本では必要なようです。

 

209b3744 家に引きこもっているよりは、教会に来た方が良いのかもしれません。しかし、「教会に引きこもっているよりは、教会ではない、外の世界に飛び出した方が心の成長と新たなキリストとの出会いのためには良い」場合もあると思うのです。

教会という建物にいても、いなくても、わたしたちの魂はつねにナザレの村人として人生の大半を過ごされたイエス・キリストへの観想の中に生きられます。

 

逆に、教会に来る時間も体力もないからといって、イエスから遠ざかるとも限りません。「教会に行けなければ、イエスから遠ざかる」と私たちが思い込んだ時、初めて、教会との距離は心の中のイエスとの距離になるのでしょう。

こころの状態、身体の状態にあわせて、自分に合った祈りと信心業を無理しない程度に行いつつ、いつもイエスを忘れないことこそ、ほんとうに大切なことだと思います。

 

主イエス・キリストがいつもわたしたちと共に歩んでおられることを、私たちが忘れませんように、アーメン。

 

 

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

 

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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