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2018年11月 2日 (金)

病める時も、苦しめる時も…愛せますか

Img_1462 この道があなたとの出会うのぼり坂でありますように


あなたの背中は、いつも追い風に恵まれますように


あなたのほおには、いつも陽がさしますように


みどりの野は、穏やかに雨がふりますように


そして、わたしたちがふたたび逢うまで、主があなたの手に刻まれた詩篇をつうじて主があなたを抱きますように

(アイルランドの祝福の祈り、拙訳)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

誰しであれ、婚活し、恋愛し、結婚しよう、パートナーシップ関係を持とうと思う時、「健康で最低限必要な衣食住に不自由することなく、災害、事故、病気、戦災で傷つき、病み、苦しむことのない平穏無事な未来」を描くことでしょう。

もちろん、初めから弱さのある人が、みずからの弱さを受け入れ、弱さを受け入れられる人を求める場合もあるでしょう。

先天性、後天性の障害や、社会的に被差別待遇を受ける方は、初めからそれらの社会的な弱さを受け入れた上で愛せる人を探すことは、とても難しいでしょう。

しかし、ほとんどの方は、健康で「当たり前」の学生生活や社会人生活を平穏に送っているからこそ、婚活しよう、恋愛しよう、結婚やパートナーシップを持とう…と考えるのだと思います。

ここ数十年、晩婚化や中高年以降の結婚が増えています。

やはり、収入の激減により、若い子育て可能な世代には「結婚=お金がかかる」ことが、婚活や恋愛へのブレーキになっていることは否めません。

と同時に、「病める時、苦しめる時、老いた時…」を身近に経験したことがなく、「家庭の理想像=当たり前」が得られるか、得られないか以外の家庭生活への選択肢について考えられない人も増えていると思います。

家庭生活とは、ひとの数だけ多様なものであり、表面的には何ら問題がないように見える家族や家庭にも、それぞれの悩み、苦しみはあるものです。

若くして婚活し、恋愛をし、結婚や長期的なパートナーシップに至ったとしても、何も問題のない平穏無事な生活が送れる人など、誰一人としていません。

親、配偶者、子どもが病気、事故、障害や老化で介護が必要になる場合もあるでしょう。不意に失業したり、災害や事故で衣食住もままならない状態に陥ることもあるでしょう。

ひとと人との出会いは、人生ののぼり坂です。あまりにも急坂が続くあまりに辛くなり、愛があったのか、なかったのかを忘れてしまうこともあるでしょう。

追い風も頃合いに吹いている時には人生最高の時かも知れませんが、息もたえ絶えの時にこれでもかと追われたら、「苦しんでいるのは自分ひとりだけ」と思い込み、辛さのあまり愛する人だからこそ責め立てるようになるかも知れません。

ほおに日差しがさすにしても、うららかな春の日や、穏やかな秋の夕陽のように心地よい日ばかりではないでしょう。


無慈悲なほどの酷暑の真っ只中で、これでもかとカンカン照りの陽射しがほほにさし続けたら、イライラし、八つ当たりをした挙句、体調を崩し、最後には熱中症で倒れ、長い後遺症に苦しむ破目におちいるかも知れません。

みどりの野原にいつも穏やかに雨がしとしとと降りそそぐならいいのですが、近年の豪雨災害では数時間の間に一年分以上の豪雨が降り、穏やかな生活の場をすべて押し流してしまうこともあります。

よく、故あって離婚せざるを得なかった経験をしたのち、もう一度幸せを求めて婚活をしたいと話すと、長年連れ添った夫婦の片方に「結婚なんて、愛があるとか、ないとかってことじゃないの。」と言われます。

平穏無事な生活を維持することに必死であるあまり、お互いに愛しているのか、いないのか、あまり考えていない方が日本には多いのかも知れない、とも感じます。

これが国際結婚だと「アイラブユー」を言えない方が不自然だ、ということになりますが、「アイラブユー」を言えば心から相手を愛せるのか、はまた別問題でしょう。

「愛してるよ」なんて一生涯、一度も言ったことのない夫婦であっても、家族として互いに助け合い、認めあい、家事、介護、育児の分担をするために話し合え、思いやり合えるなら、そこにはある種の「愛」があると思います。

わたしが介護施設で働いていた時、「家族は誰も介護したくないし、出来ないから」という理由で施設に預けられた男性がいました。

要介護度の高い半身麻痺で車椅子生活になった彼、Aさんは、自分ひとりだけが痛み、苦しんでいると思っている方で、一時間に数十回もナースコールを鳴らし続けます。そのため、何カ所かの施設で「お断り」されたのち、「お金さえ払えば、入所させてくれる」ということで、以前わたしが働いていた、かなりブラックな施設に入所して来ました。

週に一度、ご家族またはご親族がお見舞いに来ないとまた「お断り」されるかも知れないという「お断り対策」なのか、奥さまや娘さんらしき方が週に一度、まるでハンコでも押すように、特定曜日の午後14:00に来るのです。

大抵のご家族は、お見舞いに来ると食堂で歓談をされたり、お庭を散歩したりします。どんなに問題行動の多い入居者さんであっても「ああ、ご家族とはああやって通じ合えるんだ」と職員が感じ入ることも多かったです。

しかし、Aさんとご家族は食堂で向き合ったまま、ひと言たりとも話しをしようとはしませんでした。

一時間、Aさんのご家族や奥さまはただじっと、Aさんと向き合ってほとんど何も言わずに対峙しておられるのです。

それは、はた目にも心の凍るような恐ろしい光景でした。

Aさんもご家族も、愛のかけらのないまま、Aさんの年金受給継続と、「Aさんは生きている」現状維持だけのためだけに苦行でも続けているように見えたからです。

ご家族はあくまでも、Aさんを介助したり、ご挨拶にあがった職員に対しては、ごく普通に話されます。が、Aさんと二人きりになると、その後はずっとほぼ無言で一時間近く、食堂の一角で向かい合っておられました。

まるで、それはAさんが施設を追い出されて、家に戻されることがないよう、ご家族もAさんも週に一度の針のむしろに耐えておられるようでした。

入居者の方の中には、姪御さんご夫妻であるにも関わらず「生きて親の介護が出来なかったから…独り身のおばさんを大切にしたい」と、50キロ以上離れた場所から来ては、ご本人と和やかに話していくだけでなく、部屋やタンスの整理整頓まで職員以上にだまって丁寧にしていくご親族もいました。

カトリック教会では婚姻の時、「病める時も、苦しめる時も…」と誓いを立てます。

誰かを愛したいと思う時、家族や親族が病み、苦しみ、金銭問題や介護などで家族全員が苦しむ日が来るかも知れないと想像してみる人はいるでしょうか?

誰かを心から愛すれば、自分の問題に相手を巻き込むことを必然的に意味します。誰かの愛を心から受け入れるなら必然的に自分の問題に相手を巻き込み、この世でいちばん愛する人を苦しめ、病いや死に追い込むこともあります。

19世紀の哲学者、セーレン・キェルケゴールは《愛について》の中で、『愛について、神が考えられることと、俗世界が考えることの間には矛盾があります』、『キリスト教の国にはあの「俗世間」というものが全然存在していない』と叫びました。

カトリック教会の勧める愛と、現実世界の人間同士の心からの愛の間に理想と現実以上の乖離があることは、21世紀の現代においても否めないと思います。

恋愛、家族、パートナーシップ、離婚、再婚などの「俗世間では当たり前の不幸や幸せ」について、カトリック教会の教えと信徒の現実にはへだたりがあります。

この問題に関し、「ここにイエズスがおられたら、どうされただろうか?」という視点に立ち、いつくしみを大切にすることが大切だと使徒的書簡を出されたのは、教皇フランシスコの時代になってからです。

私が知る限り、初婚で当たり前に幸せに愛に満ちたパートナーと出会い、何ら問題なく結婚し、当たり前に健康で祝福された子どもたちが何ら深刻な問題に直面することなくスクスクと育ち、世間一般が想像する以上の深刻な事態に直面することなく子どもたちが独立し、当たり前に祝福された夫婦でいられる確率は、激動するこの時代には1~2割以下しかないように思えます。

テレビドラマ、小説や映画などが「1~2割の確率しかいない『当たり前であってほしい理想的な現実』」を、これでもかと垂れ流し続けるいまの時代背景にも問題はあると思います。

この「当たり前」が、頻発する性犯罪被害や加害、パワーハラスメント被害や加害など多くの耐えがたい苦しみなどを超えてなお、本当に「当たり前」であり得るのか、カトリック教会でも真摯に考えるべきことだと思うのです。

人間的な愛を真摯に求めるわたしたちもまた「病める時も、苦しめる時も…」の意味合いを、互いに真剣に考える必要があると思うのです。

一緒に暮らし、子育てをしたいか…などのイメージを描く人は多いでしょう。

E6b8b2dbcef42d4aa9e8b05c908a4d4a でも、「同じお墓に入りたいですか?」と言われたら「いやちょっと…それは…」という話はあちらこちらで聴きました。

「病める時も、苦しめる時も…」と言われると抽象的なイメージを受けますが、「その相手と同じお墓に入りたいですか?」は、かなり即物的かつ描きやすいイメージだと思うのです。

いま婚活中の方、恋愛中の方、すでにプロポーズして婚約中の方も、いちど相手の方が醜く病み、苦しみ、あなたの愛や思いやりをすべて拒否するほどの孤独なパートナーをただじっと見守り続けるしかない辛い看病生活の日々を過ごし、場合によってはあなたが誰だかも分からない状態になって、いつか墓の下に入り、パートナーを見送る日のことをイメージしてみてください。

それでもその人を愛せますか。愛が消え失せないと言えますか。

生涯をともに過ごすということ、どのぐらいであれ一人のひとを心から愛するということは、そういうことなのです。


孤高の哲学的な命題に近い「愛」という問題に、地球上の多くの人が広がりすぎた世界の中で立ち向かう時、やはり「最後の日が来るまで、その人を愛せますか」に真剣に思いを馳せることが、わたしたちにも求められています。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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