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2018年11月13日 (火)

「天国行きの切符」臨終洗礼は必要ですか?

わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。世を去る時が近づきました。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」
(テモテへの第二の手紙4:6~7)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

日本ではカトリック教会だけでなく、伝統宗派のキリスト教の教会では「女性、奥さん、娘さんだけが信徒」というご家庭が多いです。

男性だけ、ご主人だけが信徒…というご家庭は逆に少ない気がします。

日本では、カトリック信徒、キリスト教徒であることが社会生活において不利に働くことが多いこともあり、社会的に「江戸時代に禁教弾圧されてた宗教に参加するなんて…」というこだわりもあって、「配偶者の一方がカトリック信徒だから、婚姻時にカトリック教会で受洗」という例は潜伏キリシタン時代からの信徒さん以外では、少ない気がします。

むしろ、一世代目の成人受洗を「家族揃って受ける」事例は微増しているように思えます。「夫婦、親子間に愛があれば、価値観を共有するのが当たり前」という「愛の在り方」が、日本社会の根底にも普及して来た所以かも知れません。

↓カトリック教会には幼児洗礼がある

856e17a59bc4671371709817e80df0b5 「配偶者がカトリック信徒だから」「学生時代に尊敬した方がたまたま神父さんだったから」などの理由で、亡くなる直前にカトリック教会の司祭から臨終洗礼を受ける方は多いようです。

私の家族に「教会が遠いのでいつか『時が来れば…』と思っていたが、気づいたら教会に通えない体調や年齢になっていた」者がホントに居ます。

そこで思うのが、日本の成人受洗までの期間の長さと、基準の厳しさは他国とは比較にならないということです。

例えば、アジア第二のキリスト教徒多数派の国である韓国などだと、都市部では遠すぎて通えないほど「遠い」こともなく、送迎ボランティア、訪問ボランティアも大勢いるため、「成人受洗まで半年」という期間、ただ通うだけなら80代になってからでもできるでしょう。

その点、日本のカトリック教会の信徒数は、総人口の0.3%以下という小規模です。その中から有志の奉仕者で、なおかつ時間的、経済的な余裕もあり、教会が近くて…となるとかなり数が限られます。

結果として、「主日のミサに通うだけで精一杯な信徒」が、小教区共同体の中でいくつもの役割をこなす、という状況が生じます。また、特定の平信徒に極端に負担が偏る現象も起こりがちです。

弱り、病み、疲れ、教会に通うすべを失った人は、洗礼の秘跡にあずかるチャンスが得られない可能性が高いのです

たとえ先は短いと知っていても、家族や配偶者らも、本人、または「いまにも亡くなりそうな方」がご臨終近くなるまで、それが最後だとは思いたくないものです。

死を思えないから、洗礼も後回し…は日本人によくあるパターンなのです。

むしろ「ご臨終間近まで待っていれば、臨終洗礼の天国行きの切符がもらえる」という、「天国行きの切符の方が気楽」という逆転の発想になってしまいます。

臨終洗礼を授ける司祭により、臨終洗礼を勧めるか、どうかの判断もまた分かれると思います。

神父さまによっては「ご臨終の間際でも、洗礼を授かりたいという意思があるならいいじゃない」と快く授けてくださる方もいるでしょう。

辛口な神父さまだと「看取るあなたが信者だからといって、ご主人やご家族に無理やり臨終洗礼を勧めなくとも、葬儀は教会で出せますよ」などと露骨におっしゃるかも知れません。

臨終洗礼の問題を考える時、ちょっと疑問に思うのが「日本では受洗の基準が、画一的かつ弱者には厳しすぎるのではないか?」ということです。

確かに、日本で日々の生活の中でカトリック信徒として生きることは、とても厳しいことかも知れません。

世間にも、家族にも理解されないにも関わらず日曜日やクリスマス、イースターに教会に足を運ぶため、世間や勤め先、学校や部活などの誤解を顧みず、有給休暇や休みを取る必要のある方もいらっしゃるでしょう。

だからと言って、日本のカトリック教会が洗礼への招きへのハードルを「洗礼のみ恵みを求める人への要求を一律に高め設定にする」ことは問題だと思うのです。

「洗礼は、受けてみればみ恵みだと分かります」と言われた神父さまもおられました。秘跡には確かに、「受けてみなければ、そのみ恵みも分からない」部分があると思うのです。

「幼児洗礼ではないから…」という理由で、成人洗礼のハードルを高くすればするほど、「弱って、老齢になり、病み、貧しくなったから洗礼を受けたくなった」人びとへの配慮がなくなって行く気がします。

現実的に、「仏教で葬式したら、どえらいローンを組む羽目になっちゃった。カトリックっていくら?」と訊ねられたことはあります。ハードルを下げたら「じゃあ、冠婚葬祭はお金のかからないカトリックで!」という安直な発想で洗礼だけ受けに来られても困る、と思われるかも知れません。

ただし、韓国では「冠婚葬祭信徒が増えたからと言う理由で、熱心な信徒がカトリック教会から離れたり、減ったりする」という現象は起こりませんでした。

ちなみに韓国で「さして信仰はないけど冠婚葬祭カトリック信徒になりたい三大理由」は、「北朝鮮出身者だけど、共産主義者だと思われたくない」、「儒教祭祀を行う負担が減り、嫁さんに来てもらいやすくなる」、「主に韓国独立後の民主化や労働運動への理解があったため、社会的な評価が高い」でした。

「冠婚葬祭カトリック信徒」でも、本人が何となく「やっぱり元気だったころに洗礼を受けておけば良かった」と後悔しているのなら、社会的評価を受けたいという人びとより、よっぽど深く「イエズスと出会っている」のだと思います。

本人が洗礼を望んだ時には、もうたとえ月に一度でもミサに通い始められるような年齢や体調ではなかった、いちばん近いカトリック教会が「往復二時間以上」などの理由があるなら、本人の洗礼への意思を尊重した扱いをできる日本のカトリック教会になってほしいと切に願います。

日本で「天国行きの切符」がいちばんお手軽な理由は、社会的なしがらみがご臨終寸前だとなくなっている場合が多いことと、もともとの洗礼講座の期間や内容などのハードルがめちゃくちゃ高いことにあります。

実際、大学生時代、持病の不眠症に悩みつつ主日のミサと受洗講座に週2回通うのは、若くて、韓国のカトリック教会が定める半年でも辛かったです。

子どもの頃から、素朴に「日曜日は教会に通うものだ」と身体に染みつくような環境で育っても、そんなものです。

「カトリック教会なんて、行ったことがない」人にとって、日本のカトリック教会の受洗のハードルの高さが、臨終洗礼の増加させている気がします。

体調を崩していても、多忙でも、車や電車に乗って、遠路はるばる往復一時間以上かけてミサに通えるほど熱心でなければカトリック信徒になることはできないのが、いまの日本のカトリック教会の現状です。

その上で、受洗講座に週一日、およそ一年間も通わなければ成人洗礼を授けたくない日本のカトリック教会の方針は、ミサに通うのも辛いほど弱り、信仰ある家族に支えられて初めてイエズスを知った家族や隣人の期待に応えるすべを持っているのでしょうか。

イエズスは、わたしたちの心の扉を叩き、たましいを内から開いておいでになる方であり、ミサ聖祭に参加するのは「イエズスがわたしたちにおいでになるよう、わたしたちが心ひらくため」です。

教会に通うから、ミサに参加するから、受洗講座に欠かさずに通うから、若くて元気のある時にイエズスを知るみ恵みを得たから…はイエズスのいつくしみを知るための条件ではないと、私はひとりの平信徒として考えます。

一人でミサに行く気にはなれないし、何やらよそよそしい雰囲気の漂う空間に座っているのもなぁ…と考える人は多いと思います。聖書を通じてイエズスの愛を知りたい人、イエズスの愛といつくしみに既に触れたひとは、教会に来るひとの数よりずっと多いと思うのです。

日本のカトリック教会が、すでにイエズスがその心の内奥で触れられた人が、イエズスを望んでいるのに「洗礼へのハードルを高くしたがる」のは、イエズスの望まれることだと私は思いません。

もちろん誰もが、「初聖体講座」ぐらいの内容を理解している必要はあると思います。

同時に相手がイエズスであっても「愛することは、理屈じゃないんだ」「理屈抜きで愛せるんだ」という、「イエズスへの愛の気づき」に対する司牧的、母なる教会としての配慮が、カトリック教会の秘跡においても求められている時代だとも思うのです。

教皇フランシスコは「いつくしみとゆるしが必要な時代」であることを強調されておられます。

内気で内向的な日本人が、カトリック教会の独特の雰囲気の中に入るだけでも「勇気がいる」という現実に、日本の司教団と神父さま方が「いつくしみと愛をもって」接するよう努力してくださることを願ってやみません。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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