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2018年11月 9日 (金)

キリスト者として孤立しないために

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

紅葉の季節ともなり、華やかな中にも、侘しさが感じられる季節ともなりました。

近ごろは、何かあった時「ねえ、誰かに訊いてみれば?」というと、「いや、別に訊かなくていい」と答える方が増えたように思えます。

キリスト者が孤立しやすい理由の一つとして「家族がキリスト教への理解を持とうとしない」「なぜ、教会に行きたがるのか分かりたくない」「キリスト教徒なんて、今もなっちゃダメなもんじゃないのか?」と思われていることを、誰にも相談できない、事例は多いと思います。

逆に言えば、「ゲームや趣味ならOKなのに、カトリック教会に通うのは何がいけないの?」と、キリスト者の方も家族に言い返せないようです。

もちろん、明治初期に維新政府が「キリシタン禁教の高札の撤廃」という、極めて中途半端な施策でキリスト教への改宗を「事実上処罰しない」としました。

その後は、日本社会ぜんたいがキリスト教徒への「社会的圧力」「口実をつけたイジメ」をしていても、時代に応じてですがあまり表立った形にならないよう、「かげ口」「陰謀論」などでネチネチとイビる手法を取ってきたため、キリスト教徒でも平信徒で慣れてない方ほど「どうしよう…誰にも話せない」という悩みを抱えがちになる傾向が強まるわけです。

現実問題、キリスト教徒、カトリック信徒になったためイジメやらカルト・ストーカー被害に遭った人はこの日本には大勢いて、心ない「善意の押し付け」で苦しんだ人は年代が上がれば上がるほど、多いと思います。

かく言うしぇるりんも、創○学会員のストーカー被害に数十年間悩まされた経験もありますし、家族にカトリック教会を積極的に非難する福音派の影響を受けた人がいて、「なぜ、カトリックなんだ?なぜ、福音派の○Xじゃないんだ?」と十数年間、論争した経験があります。

逆に言えば、日本のカトリック教会には「実は家族に信仰が受け入れられていない信徒をサポートするためのカトリック・アクション」はなぜ存在しないのか、が不思議に思えることもあります。

昨今の日本では、道に迷ったり、何かの手続きの仕方が分からない時でも、「他人に訊ねたら、自己責任を放棄したと言われそうだから…」と何も訊かない傾向があります。

また、「良い事、ラッキーな事はある程度話してもいいけど、悪い事は話したくない」という傾向もあるようです。

「いい時、良い人でいる」なら、誰でもできることです。また、「商売でお金をもらって、自分の利益になる時」にも、国籍や宗教に関わりなく「えびす顔」でいられることでしょう。

うちの息子が中学生で堅信の秘跡を受けた時、パーティーの席で司教さまに「なんか、聖霊を受けた気がする?」と尋ねられたことがあります。

正直、私よりずっと現実的な性格の彼が「聖霊を受けた?」なんて、理解できたとは思えませんでした。

わたしも、韓国で洗礼を受ける際に「結婚しても、信徒を辞めてはいけませんよ」と司祭に念押しされて洗礼を受けました。

その後、カトリック教会の教えが、世俗の現実とあるていど齟齬(そご)があっても心から受け入れられるのようになったのは、受洗から数十年経ってからのことです。

日本社会では、カトリック教会の影響力が極めて限定的であるため、どうも霊的な深みに入り込みすぎやすいこと、俗世間の現実とカトリック教会の教えの原則や理念が必ずしも合致しないことへの配慮まで目が行き届かない点は否めないようです。

森一弘元司教さんの《心の闇を乗り越えて》という本の中で「日本人に理屈っぽい要理(カトリック教会の教え)は必要ない」という一言があります。

日本では、洗礼を受けるまで一年間、ほぼ欠かさずカトリック要理講座とミサに通わないと洗礼が受けられないことが多いようです。しかも、かなり個人的な数名単位の分かち合いっぽい講座なので、カテキスタ(要理を教える司祭や修道者など)と個人的に気が合えばいいのですが、このやり方には後日問題が起こる余地があります。

個人的に気の合う方に要理を教わると、「信じるべきは教えた人ではなく、イエズス・キリストの教えなのに、司祭や修道者、修道会の守護の聖人などへの個人崇拝に偏りすぎる可能性」が発生します。

逆に、実は気の合わない方に要理を教わると「あなたは、なぜ洗礼を受けたの?」などと言われてしまうこともあります。

ちなみにしぇるりんは韓国で、ある女子修道会の私とは全く気の合わない日本人の修道女の方に、3ヶ月カトリック要理を古い本で教わりました。

韓国語は堪能なので、初めの3ヶ月は大講義室での受講でどうにかなっていました。それが「新約聖書について」になった途端、神父さまの話される韓国語が全く自分の中に入って来なくなってしまいました。

そこで手を上げてそのことを申し上げ、日本のプロテスタント教会の日曜学校で<ヨハネによる黙示録>を除く新約聖書と、旧約聖書の「天地創造」「出エジプト」などのお話は教わったのに、どうも分からなくなった、と言いました。

そしたら「私はあなたが日本の日曜学校で教わった以上に難しい内容は話していません。しかし、渡米した時「英語はわかるのに、英語で聖書はどうもピンと来ない」経験が私にもあるので、あなたは聖書の部分は免除でいいです」と言われ、カトリック教会固有の教えだけを日本人の修道女の方に教わるよう勧めてくださったのです。

しかしその日本人の修道女の方は、なぜ韓国では半年間、大学の講義室のようなところで週一の「要理講座」を受講すれば誰でもカトリック教会の洗礼を受けられるのかに納得が行かないと、「私に対して」言われました。

この頃は、私が所属していた水原(スーウォン)教区全体で、成人受洗までの要理講座の期間は半年が目安と決まっていたので、「半年は気に食わない」と私に言われても、「何とも言い返しようがない」状況でした。

1980年代末の韓国では、プロテスタント諸宗派が3ヶ月の聖書講座で洗礼を授けるのは短すぎるが、一年間にカトリック教会での受洗を希望する人が600名を超える教会が、都市部にはそんじょそこらに、どこにでもあった時代だったからです。

その修道女の方が理想とするような「じっくりと理屈も理解し、納得が行くまで一年以上…」は、当時の現地の事情に全く合わないものでした。洗礼式も、受洗者200名近くに代父、代母、親族、家族だけで教会が一杯になる「洗礼式のための洗礼式」を2回以上行う教会の夜の部で、私は洗礼を受けたのです。

日本国内でなら、あの時ほど会うたびにシスターにネチネチと嫌味を言われたら、受洗にこぎつける前に「やっぱカトリック教会は合わないみたい」と考えてしまうかも知れません。

でも、韓国のその教会や、所属大学にはカトリック信徒の若い友人がいて、支えてくれました。

どうも「なぜ、自分はカトリック信徒になったのか?」の経緯を誰かが全て理解して、受けとめてくれなければ自分は理解されない、と思い込む方も日本では多いようです。

「いやあ、何となくカトリック教会で神さまに呼ばれたのさ!」ぐらいのノリのよい気持ちのままで、ただ素朴に「主日のミサを欠かさないことが目標」ぐらいの方がむしろ日本人には合っているんだろうなと言う点で、私は森元司教さまのご意見に賛成です。

毎週、同じ教会に欠かさず通っていれば、いくら存在感を示せない状態でもさすがに誰かが見ているし、気づきを与えてくれます。

それがわたしの成長や成熟の支えにもなり、さまざまな先天性、後天性障害を乗り越え、くぐり抜け、英語でなら何とか感情や自分らしさをあらわせるようになりました。

私には、乖離性離人障害という寛解困難な障害があったため、今でも心からの感情表現は英語でしかできない「部分寛解状態」です。たまたま、強い怒りや悲しみを最初に表現できた言葉が英語だったからです。

この障害を持つ人のたましいは、「神さまにしか分からないような」孤立した状態のまま孤独です。

私はたまたまおしゃべりで人好きな一面もあり、希死念慮に病み、根本的な孤立の中にあっても、哲学的な指向性もあったことで、何とか孤立から自立へと歩み出せるようになりました。

私の周囲にも、「苦しく、悩んでいるのはあなた一人じゃないよ」と声を掛けたいような方が大勢います。

Solitude 特に自殺者家族の方、家族に障害者がいる方など、「頑張っているけど、これ以上どうしたらいいのだろう?」とカトリック教会に救いを求めてミサにあずかってなお、「どうにもならない」と感じる傾向はあるようです。

その上に、「あの神父さまとはどうにも気が合わない」「ほんとに心を掛けてくれるあの人以外とは、話したくない」「自分の出身校、もともとあるグループのメンバー以外と付き合う気持ちのない人は表面的な付き合い以上はしたがらない」など、「カトリック教会あるある」な問題が折にふれ周囲に起こります。

それでもキリスト者として孤立しないためにも、ミサに出て、カトリック教会の共同体の集いに参加することを忘れないことは大切だと思います。

ミサを通じて、わたしたちはそれぞれキリストの愛の聖餐にあずかることの大切さとともに、人との交わりの大切さ、主のみ恵みによる「縁」のようなものとの出会いの大切さへの気づきを得ます。

日本という「お一人さま」を助長する相互不信の社会にあって、キリスト者という「ごく少数派」の人が孤立しないために出来ることは限られているでしょう。

司祭、修道者、修道女も苦悩の中にいます。司牧者である彼らもまた、世俗離れした従順、貞潔、清貧の三誓願の世界の中でキリストを生きる以外に、どんな選択肢を世俗の真っ只中に生きる平信徒に示せるのか、分からないようなのです。

イエズスの教えられた愛といつくしみの教えは変わらないのに、カトリック教会は激動する時代の要求に即応できずに苦悩しています。それが、日本のカトリック教会のようにごく規模の小さな共同体の場合、なおさら「世界が見えない」まま、小さな小教区共同体での現実的な人間的対立の中で、より苦悩が深まっていくのかも知れません。

「復活なしの四旬節を生きているような信徒もいます」という教皇フランシスコの《福音の喜び》の中のひと言が、私の心を突き刺します。

いま、「復活なしの四旬節」を生きる人に、「わたしはいまは喜びのうちにありますが、以前は四旬節だけを生きていましたよ」と言っても理解してはもらうのは難しいです。

やはり、人間には運・不運というのもあるし、どうしてこの人には孤立と孤独がつきまとうのだろう?、と不思議に思える人もこの世には実際にいるからです。

孤立、孤独な人がその境遇から脱しようともがけばもがくほど、悪循環にハマることも多いです。

わたしは若い頃、孤立に悩む自分自身を乗り越えられないと感じたとき、マザーテレサの「乗り越えられなければ、頭を下げてくぐり抜けなさい」と言う言葉に支えられ、「孤立」をくぐり抜けました。

孤立することからくる、痛み、苦しみ、やり場のない怒り、その上に「私はここに存在する」という存在感を理解してもらえない苦しみの中で、「それでも今日は生きている」という気持ちを手掛かりに生き延びました。

そんな強さは持てない…と思われる方も多いと思います。

それでも「自分から孤立を求めない」「自分の中に自分を見る第二、第三の自分がいる」ことに思いを馳せることで、少しずつでも「孤立しているから、どうにもならない」という状況は変えられるかも知れません。

いま、孤立に悩むあなたの気持ちを癒せるものなど、この世に何もないのかも知れません。しかし、この世にあなた以外にも孤立した人が大勢いて、誰かと何かを分かち合いたいと思っていることだけを、心の隅においてください。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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