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2018年11月 6日 (火)

死者の月に思う「死」の重み

…五旬祭の日…わたし(トビト)は、息子トビアに言った。「わが子よ、捕らわれの身となってニネベの町にいるわたしたちの同族のうちで、本当に神を心に止めている貧しい人を見つけて連れてきなさい。その人と一緒に食事をしよう。わたしはお前が戻って来るまで待っているつもりだ。

そこでトビアは、同族のうちでだれか貧しい人がいないかと探しに出かけた。しかし彼が戻って来て、「父よ」と言ったので「わが子よ、どうしたのだ」と尋ねると彼は答えていった。「わたしたちの部族の一人が殺されて広場に投げ捨てられておりました。たった今そこで首を絞められて殺されたのです。」そこでわたしは料理には全く手をつけずに家から飛び出し、その死体を広場から運び去り、日没を待って埋葬するため、一軒の小屋に安置しておいた。家に戻り、身を洗い清めてから食事をしたが、悲しい気持ちであった。

(トビト記2:1~5抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

冒頭の聖句は、旧約聖書の<トビト記>にあるお話しです。五旬祭を祝う日を、「本当に神を心に止めている貧しい人」、すなわち殺害された同族の埋葬のために捧げます。

新約聖書で「五旬祭の祭りの前に、イエズスのお身体を葬りたい」と弟子の一人が申し出て、エルサレムの祭司長らも許したぐらいですから、当然、預言者トビトは、「杓子定規なユダヤ教の律法の教えに反して、死者を埋葬した」ことになるのでしょう。

その後、トビトは失明し、数年間苦しみます。人々はまるでトビトが「五旬祭の決まりを破った祟りを受けているんだ」と言わんばかりに、トビトを責めます。

ついに、貞淑な妻ハンナもブチ切れてしまい、うらみごとを言い始めます。

本当に貧しい死者を弔い、神の憐れみを必要とする人のために悲しんだことで、トビトは多くの苦しみを背負うことになったのです。

あるカトリック信徒の軍人の方に「司祭なんて、大嫌いだ。あんなヤツらは信じられん!君もあんなヤツらを信じるんじゃないぞ!」と断言されたことがあります。

そのひとは、人柄は真面目で聖書にもよく親しむ、穏やかな性格の人なので、私の方がかえってびっくりしました。

彼は、大勢の戦死した戦友を、部下の死を、血みどろの戦地でともに戦い、記憶し、その死を心から悲しみつつ生きてきたのです。

彼が目の前で見送った誰一人として、尊くない生命はありませんでした。彼は長年、どんな状態にあっても、部下の兵士を幸せにするため、真面目に生きて来たのです。

それが命令であり、職業軍人のオシゴトなので、どうしても避けられない場合に敵を殺すことに躊躇はなかったのかも知れません。

それでも、味方の戦友や部下の死は我が身を切られるように辛かったし、「それでもオレは生きなければ…ここで死にたくない」という生存への欲求で人間を単純な生き物にする場所が戦場だ、と彼は言っていました。

職業軍人が生き延びて戻ると、判を押したように戦没者のご遺体の収容、保全、そして本国の家族に送還するための軍葬の準備など、諸般の手続きが待っています。

そうして、つい先日まで同じ食堂で当たり前のように挨拶をし、コーヒーを飲み、話し、共に働いていた誰ががいまはもうこの世にいない、という「死」に直面するのです。

時に何らかのきっかけで誰かの葬儀や追悼に参席することも多い職業柄、どうもありきたりの司祭の葬儀や追悼の説教にウンザリしてしまった、ということのは否めないと思いました。

もちろん、彼が出会った全てのカトリック司祭や牧師さんは、その時の最善を尽くして何を説教で語れば参列者にイエズスの想いを伝えられるのか、祈りのうちに思い巡らしたと信じたいです。

しかし、司祭の生活にも現実はあります。とある若い東京大教区の司祭がもっと若手でカテドラル付きの司祭だった時、土曜日に「結婚式、葬式、葬式、結婚式」と立て続けに4件、担当したことがあると説教の中で言っていました。

結婚式は2件とも、若いカップルが初婚で…というケースでした。原則から考えれば、人生でたった一度きりの「結婚式」なので、「どうやったらこれが今日で二度目の結婚式の司式だと思われずに心こもった説教ができるのか?」で頭の中が真っ白になったと告白していました。

実際のところ、結婚式なら再婚も再々婚も場合によっては「ない」とは断言できませんが、葬式は人生でたった一度です。

それだけに、心から悲しみに沈む人の心に響く説教がいつもできる司祭がいるなら、その人こそ主の特別な召し出しを受けた人であり、特別な聖性に呼ばれた方でしょう。

ただ、一般的に「洗礼と教育は教会で受けました」の信徒にとって、全ての司祭が聖人でないことに一種の憤りや、行き場のない悲しみへの冒涜を感じることは、確かにあるのだと思います。

老いて、病み、死を迎えるなら、家族も周囲の人々もある意味、覚悟をしているでしょう。

司祭の方も、やがて老い、病み、死を迎えると言うある種の共感で見送ることができるのかも知れません。

しかし、突然の自死、災害による死、事故死や戦死など、より深く辛い悲しみやたましいの痛みを伴う「死」が、この地球上にはたくさんあります。

「誰かが死を迎える」「誰かの死を見つめ、見送る」そして「いずれ自分も死んでいく」という現実があることと、「でも、自分だけは死にたくない。生きていたい。」という気持ちを、何らかの形で日々感じながら生きていくことが、すべての宗教生活の原点だと思うのです。

死者の月は「死」の重みを心深く味わうとともに、「それでも自分は死にたくない」「もう少し生きていたい」、という自分自身の中にある「死を怖れる気持ち」と向き合う季節です。

宗教とは元来、「死への不安、恐怖」と人間が向き合う時、たましいの痛み、苦しみに通じる何かがある、という自覚を促すために存在します。

たましいの痛み、苦しみは自分自身を殻の中に閉ざすためではなく、心の奥にたましいがあり、たましいの奥にある、無限の真理に向かって開かれた小道への入り口を探すための長い旅路の道のりなのです。

私たちのたましいは、母の胎内から生まれる時に初めて孤独を知ります。そうして、少しずつ「私らしいわたし」に成長し、試行錯誤しながら徐々に「閉ざされ、孤立した自分の殻にこもったままのわたし」から、「たましいのうちに向かってひらかれ、孤独であってもたましいは愛、真理、希望、慈しみに向かってひらかれたわたし」へと成熟すべく、招かれているのです。

孤独ではない人はこの世に誰もいないけど、孤立した殻に閉じこもらずに生きることなら求められます。

だからと言って、血みどろの戦場や凄惨な災害の真っ只中で「死」を体験した人に、どんな司祭であれ、修道者や平信徒が「コトバ」でイエズスがそこにおられると伝えることはとても難しいことだとも思います。

このブログをお読みの方々の中にも、災害や自死で近親者や友人を亡くした方もいらっしゃるでしょう。どんなに言葉を尽くしても、誰にも理解されない苦しみを生涯抱えて生きることの辛さは、他の誰にも理解できないと思うのが当たり前だと思います。

厚い壁の彼方から、外からは決して届くはずのない主の御心をを届けるのが、主のみことばであり、福音宣教の真髄です。

Photo 観想修道会でよく飾られているご絵に、「外から開くすべのない扉を叩くキリスト像」があります。

わたしたちの心はみな、司祭の説教やみことばの朗読のように「外から開くすべのない厚い扉で閉ざされた」中にあります。

キリストは、その扉を叩き続けてわたしたちの心がたましいの奥に迎えるよう、ノックし続けてくださるのです。

身近な人の死を体験したことの少ないわたしには、「死」の悲しみ、苦しみ、重みをことばで表現することなどできません。

神父さま方にお願いしたいのは、どれほど心折れるまで「死」と向き合ったとしても、実際に「死」の悲しみ、重みに苦しむ人にキリストの想いを届ける難しさを自覚していただきたいということです。

以前に書いた離婚、再婚、婚前交渉などカトリック教会の教えではそれについて論じること自体タブー視されている事柄についてもそうですが、「誓願を立てた独身者には決して理解できない苦しみや悩みが、平信徒にはある」という距離感への自覚と、俗世間のありとあらゆる善悪や運、不運、陵虐や暴力、悪意や偽りに振り回されて生きている平信徒との母なる教会としての交わりが必要だと思うからです。

聖なるカトリック教会と平信徒の現実の間にある乖離、へだたりが、イエズスと全ての神の民ひとり一人との出会いの妨げになることを、イエズスは望んでおられません。

この死者の月にわたしたちは、「死」の重みと「それでも自分は死にたくない」「死にたくとも死ねない」「それでも生きていたい」自分と向き合う時を過ごせたらいいと思います。

より希望に満ちた明日のために。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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