栄光の奥義第二:天にあげれらたイエス・キリスト
さて、使徒たちは集まって「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らからは見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。
すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ、天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
(使徒言行録1:6~11)
お元気ですか。しぇるりんです。
イエズスさまは、ご復活ののち「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないだろう(ヨハネによる福音書21:25)」とあるように、色々なことがあったようです。
でも、福音記者たちは「イエズスのご復活とは何だったのか」を単刀直入にあらわすエピソードを、聖霊の導きに従って厳選し、しるしました。
↓レンブラント「被昇天のキリスト」
ご復活になり、使徒や弟子たち、聖母マリアさまやイエズスを慕う大勢の女性たちと地上で過ごされたのち、皆の目の前で「天にあげられました」。
旧約聖書にあらわれる預言者らとの決定的な違いは、「神の独り子であられるキリストは、御父であるみ神によって天にあげられた」ことにあります。
それまでの預言者はみな、後継者が示されると、その人に神の預言者という役割を引き継いで来た「人間」でした。
それに対し、イエズスは自ら主なる神に「天にあげられ」ました。それは、イエズスが神のゆるしといつくしみに信頼する全ての民がゆるされ、天にあげられる日の約束をおん自らあらわされるためです。
主なる神の右の座にお着きになられたイエズスなのですから、自ら神のみ国にお帰りになることもできたでしょう。しかし、イエズスは敢えて、「被昇天=主なる神によって天にあげられる」こととなりました。
父なる神が、ご自身とその本質を同じくする罪なき独り子のイエズスが、敢えて人間として生き、十字架を追い、死者の国に下り、地上に復活され、主なる神によって天にあげられたのです。
これは、使徒や弟子たち、キリストを信じる当時の全ての神の民に対し、聖霊を送るために、主なる神みずからが全人類のために開かれたゆるしといつくしみの道なのです。
しかもイエズスは「選ばれた預言者」という学識ある人ではなく、「貧しく、学もなく、何も持たない弱い人々」に、聖霊を直接つかわすと約束され、皆の見ている目の前で天に登られました。
使徒や弟子たち、聖母マリアや女性たちが主なる神を、イエズスが神の独り子であることを疑っていると思ったからではありません。
その場にいた人々の担った役割は、たいへんな重責でした。世の終わりまで、福音をのべ伝えるための教会を礎をエルサレムから世界へとひろげる使命を帯びていたからこそ、イエズスは彼らに心から納得できる信仰の礎をみせてくださったのでしょう。
わたしたちは、今、この目でイエズスが天にあげられるのを見ることはできません。
しかし、わたしたちが人をゆるし、いつくしみ、祈りと希望に生きようと努力することで、聖霊がわたしたちそれぞれにお与えくださった使命を求め、その道をみずからの意志で探し求める時、主イエズスが天にあげられるその道へと向かっているのを感じます。
主イエズスが天に上げられたように、いつかわたしも死を迎えたのち、時が来れば神の国に向かえるのかも知れません。
いま、大切なのは「天国に行けるのか、行けないのか?」ではなく、「わたしは神の国に相応しい人間になりたいのか」に想いを巡らし、祈ることです。
キリスト者にとって天国は、神の義、愛、いつくしみと親しい分かち合いに満ち溢れ、敵意と死のない「何か」です。
しぇるりんは、煉獄や地獄に堕ちるか否かに、罪の軽重を人間的に判断できるとは思っていません。
しかし、永遠の義、愛、いつくしみと聖人聖女の清らかな親しさに相応しくない魂にとって、天国はその人の魂が生前に積み重ねた人間的なねたみ、うらみ、つらみなどを拒む、恐ろしいところにしか思えないかも知れません。
天にあげれらたキリストは、平凡な漁民や下級官吏でしかなかった使徒や弟子たちを、神の国の民となるよう招かれました。
使徒や弟子たちは、この地上での世俗的な「新たなるエルサレム王国の到来」をこの日まで思い描いていたようです。
イエズスは、使徒や弟子たち、イエズスを慕う人々の誤解を解こうと努力はされたものの、それぞれが自らの行く道は、それぞれが一日一日を過ごしながら見出していくよう、導びかれました。
今日一日を誠を込めて生き、明日に希望を持つために。
お金があっても、チャンス到来でも、明日をあがなえる人間はいません。今日、一日を真心込めて生きること、自分にいま出来る最善を尽くすよう、努力することだと思うのです。
この記事をお読みの方の中には、ここ数年の私のように療養生活を余儀なくされ、家族の重荷になっているのでは…と思っておられる方もいらっしゃるでしょう。
多くのことが出来ず、多くの時間を睡眠や休養に割かねばならない病者は、祈りに時間を取れない人々のためにより多く祈ることができるのです。
ロザリオの祈り、栄光の奥義第二のキリストの被昇天を思い起こし、多くの救いを求める魂と自分自身や家族が、神のみ国に相応しい者となれるよう、祈りましょう。
霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。
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