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2018年9月18日 (火)

苦しみの奥義第四:十字架をになうキリスト

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所へ向かわれた。

そこで彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人(聖デュスマスとゲスタス)をも、イエスを真ん中にして両側に十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架につけた。それには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

…祭司長たちがピラトに…「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてください」と言った。しかし、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

(ヨハネによる福音書19:17~22抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

みずから処刑される十字架を背負うキリスト、は考えるだけで身が震えるほど恐ろしい光景です。

十字架の道行き15留からすると、もっと細かい場面描写がこの場面に集中しているのですが、ロザリオの祈りでは十字架の道行きのどの場面であれ、自由に観想できるよう、配慮されています。

イエスが担われた十字架は、すべての人類の苦しみの日々のすべてです。そして、みずからの十字架を背負われたことで、ゆるしと神のみ国への道をも約束されたのです。

よく、イエス・キリストの十字架の磔刑図といえば「三人の真ん中に十字架にはりつけになったキリストの絵画が描かれます。

外典(アポクリファ、正典だと認められなかったが、聖書学の研究資料として読まれる文書を指す。)の《ニコデモ福音書》によれば、二人の名はデュスマスとゲスタスという罪人です。イエス・キリストの右側で磔刑を受けたのがデュスマス、キリストの左側がゲスタスだといわれています。

イエスの十字架は、人類の回心への招きそのものであったことを、ルカによる福音書23章39~43節を通じて味わってみましょう。

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Mantegna_andrea__crucifixion__louvr 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いをうけているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

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この時、回心した方の罪人が聖デュスマス、イエスをあざけった方の罪人がゲスタスという名だったと外典は伝えています。

この二人の犯罪者こそ、なぜ罪のないキリストが、誰のために十字架を背負われたのかを端的にあらわしていると、しぇるりんは思うのです。

死のまぎわになって、「何で自分が死ななくちゃならないんだ!」と死の恐怖への叫びで自らを失う人になるのか。

死のまぎわになってやっと「自分は罪を犯したから、十字架を背負って死んでも、罪を償いきれないだろう。だから主よ、御国でわたしを思い起こしてください。」と言えるようになるのか、です。

この世のすべての宗教が、「ひとが生まれ、生き、死んでいくことへの霊的な準備」という文化的な役割を担っています。

キリスト教では、まさに十字架上で自らの死に臨む救い主が、犯罪者として処刑される者であっても心からゆるしを乞い、回心すれば天の国に迎えられる考えます。

「罪のゆるし、主なる神への心からの回心」は、キリスト者が得られる最高のたまものであり、み恵みであることを、苦しみの奥義第四は示しています。

しぇるりんはまだ死んでないので、自分がほんとうに死に臨んだ時、イエスさまが約束された救いに心から信頼を置けるのか、はわかりません。

なにせ、死んでからこの世に帰って来たひとは誰もいません。そのため、亡くなった方が救われたのか、救われないのか…は宗旨宗派に関係なく「神のみぞ知る」ことがらなのです。

聖人聖女が「天国の約束を受けた」と言うのは、「自らが死に臨んだ時、主への心からの回心のうちに死を迎えられる」という意味だと推察されます。

もちろんカトリック信徒なら、自らの死に臨んだとき、最後のゆるしの秘跡を受け、ミサでご聖体拝領にあずかり、病者の秘跡を受けて死を迎える、が理想です。

ですが、ナチスのアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の殉教者であり、日本に「コンベンツァル聖フランシスコ会、聖母の騎士修道院」を創立した聖マキシミリアノ・マリア・コルベ殉教司祭のように、妻子のいる信徒の身代わりとなり、牧者として、恐怖に満ちた餓死房でキリストと共に天国の約束にあずかる方もいます。

阿鼻叫喚と恐怖に叫ぶ人々の声を聴くだけで身が震えると言われた餓死房を、聖歌と祈りの静けさに満ちた場に変えた人こそ、聖コルベでした。

十字架を背負うひとの楽園とは、「他人が苦しんでいる時に、自分たちだけは苦しみを免れる」楽園ではありません。


むしろ、「ほかの人が苦しまないように、自らの苦しみを背負って生き、背負って死ぬことを積極的に望むこと」で近づける楽園だと思います。

もちろん、自分の意思や能力を超える我慢をやたら自分に強いてはなりません。自分らしさを生きること、人間らしく生きることを求めることをやめてはなりません。

また、他者に苦しみに追いつめられることを、敢えて望む必要はありません。

ただ、思いやりをなくし、他者の苦しみに無関心になることで、自分の心を頑なにしてはならない、と思います。

幼い心は、突然の暴力やショックを受けることで、急に心が頑なになったかのように「かたまってしまう」ものです。


いちど、自分の中に思いやり、たましいの故郷のような温もりを見失ってしまうと、「他人や自分を傷つければ、死に臨んだ時のように失った楽園の安らぎを見いだせるのではないか」と思い込み、他者を傷つけたり、自傷行為に走ったりすることもあるようです。

中世の修道院などで行われていた「鞭打ち修行」などにも、このような「自傷行為で失楽園を抜け出したい」という気持ちがあったのかも知れません。

わたしたちは、科学技術が進めば進むほど、人間社会が混迷に陥る悪循環の中から、救いのない21世紀を生きています。

そんな中で、心の深みを求めれば求めるほどなお深まるか、深みに溺れることを恐れて見た目だけで全てを判断するのか…という二択を迫られやすい21世紀をキリスト者も生きています。

そんな現代にあっては、罪の自覚を持つこと、それが原罪であるのか、加害によるものなのか、被害に起因するのかに思いを巡らしつつ、心を頑なにすることが回心への道を閉ざしていることをゆる~く、少しずつ自覚することが大切なのかも知れません。

十字架を背負うキリストは、まさに自らが十字架で磔刑になる時、ゆるしを乞う罪人に楽園を約束されました。

自らの苦しみの受容が、楽園への入り口になるとキリストは約束されました。

21世紀の地球が、ますます世紀末的な様相を示すまさにこの時、自分には全く苦しみがないという人はいないでしょう。

だからこそ、ロザリオの祈り、苦しみの奥義第四を一連唱える時、自らの十字架を積極的に、無理せず、ゆる~く背負える人となれるよう、祈りましょう。

同時に、いま自分よりもっと苦しんでいるひと、自分が背負いきれない十字架に苦しむ人に、必要なみ恵みがあるように祈りましょう。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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