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2018年9月14日 (金)

苦しみの奥義第三:いばらの冠をかぶせられ…

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に…イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。

ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると「それはあなたが言っていることです。」と答えられた。ピラトが再び尋問したが…イエスはもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

祭司長たちは群衆を扇動した…ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き…イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。
(マルコによる福音書15:1~20抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

イエスのご受難について記した部分の中では、いちばんストーリー性がわかりやすいのが、マルコによる福音書でしょう。

苦しみの奥義第二でもチラッと書きましたが、イエスさまは、祭司長や律法学者、扇動されたユダヤの民衆も、「たまたま」ユダヤ地方の提督だったポンティオ・ピラトも、ヘロデ王も、ローマ兵らも、父なる神にゆるされる可能性のある人々であるという希望を持っておられたと思います。


71khdhwknl_sl1247_ なのになぜ、「茨の冠をかぶせられ…」という部分を敢えてロザリオの祈りで取り上げるのか、は大きなテーマです。


イエスは「お前はユダヤ人の王なのか」とのピラトの問いに、「それはあなたの言っていることです」と答えます。


ピラトはローマ帝国の官僚だったので、彼にとって王とは当たり前に、「ローマ帝国の皇帝の冊封を受ける者」だと考えたことでしょう。そのため、行政上の混乱や政治的な危機は、避けたかったことでしょう。

強いて言えば、神殿祭司らの言い分に対し、「ナザレのイエスという男は、ユダヤ人の宗教的な意味合いでの王位やら預言者やらの仲間で、第四ヘロデ神殿の祭司長らと揉め事でも起こしたのか」ぐらいの推察はしたでしょう。


ピラトとていちおう軍人かつ行政官僚なのですから、みすぼらしい身なりの、着替えすらろくにもたない弟子を引き連れた、やつれ果てた様子のイエスが、ローマ帝国の皇帝の冊封を受けようとしているとは思わなかったでしょう。

政治的な意図から考えれば、軍事力とカネに縁のなさそうな男が王、と言うユダヤ人祭司長や律法学者たちの言い分も何かおかしい、と思ったでしょう。

そんなピラトでも、ユダヤ人が過越祭に神殿詣でに集中する時期にエルサレムで騒ぎが起きるのは望ましくない、という結論に達しました。

使徒信条、信仰宣言、二ケア・コンスタンチノープル信仰宣言などで「ポンティオ・ピラトによって十字架につけられ…」とあるのは、ピラトに何らかの責任を問うためではありません。

わたしが思うに、ピラトこそ「穏健に、穏便に、平安無事、社会に混乱なく、家内安全で困窮することなく…」の事なかれ主義におちいり、ついつい日々の生活に追われることで精一杯になってしまう、わたしたち人類の代表者なのだと思います。


それは、ユダヤ人の祭司長や律法学者とて同じことでしょう。イエスが預言者エリヤ以来、待望されて来た救い主であると民衆が大騒ぎしたことに強い危惧を抱いた結果、ローマ帝国との摩擦を防ぎ、無事にその年の過越祭を終わらせたいだけだったのかも知れません。

それは、わたしたちの「自分だけはイヤな思いをしたくない。不幸な目に遭いたくない。自分の欠点は見たくないし、自分がした後ろめたいことを他人に知られたくない…」と言った気持ちにも通じるのではないでしょうか。

他人の行いの悪さをあげつらうのは大好きでも、自分の行った後ろめたい何か、不幸で惨めな姿は見られたくない、という気持ちが自分の中で「怯え」「不安」として顕在化しやすいのが、原罪あるわたしたち人間なのです。

そんなわたし達の原罪を負った罪なきキリストの戴冠式は、「茨の冠」を乱暴な兵士らになぶられながら被せられることでした。

茨の冠による戴冠式で苦難の冠をいただいたキリストは、その十字架に記された罪名として「INRI」、ラテン語で「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)として、その王位を十字架上の死の苦しみにあえぐ時、まさに公けにされます。

イエスは神の独り子であるからこそ与えられる「ご受難の王位」に、茨の冠による戴冠式を経て登られたのです。

キリストがご受難の王位に登られ、十字架上での死をあえて受けられたのは、わたしたち人類のゆるしと救いの道、死に打ち勝ち、ご復活の栄光への道をひらくためです。

わたしたちキリスト者は、洗礼によってご受難と十字架の王位につかれたキリストと共に「自らの十字架を進んで担うこと」を志ざすよう、招かれているのです。

キリストと共に歩みたいと志すわたしたちの茨の冠は、自らの欠点、後ろめたい行い、惨めさを感じた時、障害、貧しさ、負わねばならない責任など、さまざまな「自分の苦しみ」を自分にできる範囲で自ら担いたいという「決意の冠」でもあると、しぇるりんは思うのです。

ロザリオの苦しみの奥義第三を観想し、わたしたちに主が与えてくださった苦しみの冠をイエズスがあざけりと暴力の中で受けられたように、わたしたちも日々の生活の中にある苦しみを、キリストが苦しみの冠として受けたように受け容れられるよう、祈りましょう。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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