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2018年9月11日 (火)

苦しみの奥義第二:イエズス、鞭打たれる

さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか、言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言って、イエスをののしった。

(ルカによる福音書22:63~65)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

ロザリオの祈りで「苦しみの奥義、神秘」があらわすのは、イエス・キリストのご受難と死です。バッハやモーツァルトなどが手がけたマタイ受難曲、ヨハネ受難曲などで有名な箇所でもあります。

「イエスの十字架」というと日本で一般的よく知られているのは、「イスカリオテのユダの裏切り」、「神殿祭祀や律法学者たちの陰謀」や「ポンティオ・ピラトの裁き」の方ではないでしょうか。

ロザリオの奥義では、これらの人々の人間的な憎悪、妬み、悪意を全く語りません。ロザリオの祈りの真意には「主の愛、ゆるし、いつくしみ、平和」にあるからです。

多分それは、イエズスとおん父の親しい愛の交わりの中で、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした(ヨハネによる福音書18:9抜粋)」にある「あなたが与えてくださった人」の中には、イスカリオテのユダも、エルサレム神殿で政治的陰謀を企てた人々も、当時のローマ提督ポンティオ・ピラトとその妻も含まれていたからだと、わたしは思うのです。

もちろん、イエズスは「鶏が三度鳴く前に、あなたはわたしを知らないと言うだろう」と言われたシモン・ペテロへの、イエズスの愛と慈しみは格別なものだったでしょう。

ゲッセマネの園で自ら進み出て捕縛されたイエズスを見張っていた若者たちの暴行は、人間の原罪の根源を私たち自身が自らの罪として認め、人類の罪の償いを祈ることをイエズスが求めておられるのだと思います。

また、イエズスがまさにすべての人類の原罪をその源からあがなうために来られたことを、あらわしているのだと思うのです。

もしも、あなたが安月給で働く見張り役であり、時におしゃべりでもしながら、その夜も、いつも通りの気楽な勤務を夜明けまで、ただ何ごともなく続けられると無邪気に思い込んでいたとしましょう。


そんなある夜、痩せこけて、とても澄んだ瞳をもつ一人の男が、極悪人逮捕並みの兵員に囲まれ、連れて来られた、としましょう。

取り囲むお偉いさんへの気遣いやら、どう待遇すべきなのかも分からない囚人を置き去った連中への逆恨み、何よりも平安な夜勤の退屈を打ち破った存在への怒り…そういったもろもろの事柄が、若い兵士たちを単純な暴力装置へと変えてしまいました。

21世紀の現代では、世界各地で民族差別や民族洗浄、優生思想の復古など、極端な極右思想への傾倒などが苦しみの奥義第二にあらわされているとも言えましょう。

殴り、あざげり、罵倒するほど、自分がなぜ、どうしてその残虐行為を行なっているのか分からなくなって行くでしょう。陵虐や虐待を行えば行うほど、行う人は自分自身を見失って行きます。

ナチスのルドルフ・ヘスがナチスの強制収容所で、「バターン死の行進」で戦犯となった本間雅晴中将が、本人たち曰く「自分は本来、特別に残虐な人間ではない」と申し立てるほどに、人間は残虐な行為を行うことで、その行いに見合った人間に凋落してしまう可能性が誰にでもあるのです。

もしかしたら、ローマの兵士の中にも「確かに面倒ごとに巻き込まれたけど、だからと言って、この暴力は不当なことじゃないのか?隊長が許可したわけじゃないのに…?」と思っただれかがいたかも知れません。

見て見ぬふりをした兵士や、さりげなく暴行を止めようとしただれかがいたかも知れません。

↓カラヴァッジョの「鞭打ち」

7ea34339 イエズスは、ご受難の際、捕縛直後に一回、そしてポンティオ・ピラトの命令で一回、合計二回、鞭打たれています。

一回目のむち打ちは、エデンの園から追放される原因となった智恵の代償として得た、社会というわたしたち人類に潜む「暴力装置」の源である「原罪へのつぐない」をあらわしていると、わたしは考えます。

前掲の第二次世界大戦中、米兵に多くの死者を出した「バターン死の行進」では、フィリピン侵略中の日本軍が投降した米軍兵士らをバターンという場所からオードネルまでおよそ100キロ、五日間かけて一日20kmを歩かせた、という「惨劇」でした。

当時、武装解除して手ぶらの兵士が一日20km、と日本軍の「当たり前」で判断したことが「戦争犯罪」として裁かれました。米兵の殆どがぶっ倒れるまで徒歩で歩くことなど、考えてみたこともなかったため起きた悲劇でした。

《一下級将校の見た帝国陸軍(文春文庫)》の中で『収容所で「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は複雑であった…(当時の)日本的基準では温情をもって待遇したからである(98p.)』とあります。

つまり、当時の「日本帝国軍の下級兵士」はそのとき、「身内」であるはずの日本軍人から、「最低限の生命」以下の虫けらのような扱いしか受けられなかったのです。

イエズスは、全人類の原罪へのあがないの子羊として、若者たちのあざけりと暴力を受けられました。それは、わたしたちが、行なっている瞬間には自ら罪だと思えない行いが、実は父なる神の前では罪であることを認め、回心して、主の愛といつくしみにむかうためです。

どれほど深い原罪の発露で罪を犯そうとも、全人類は生きている限り回心して、自らの罪を認め、悔い改め、心の安らぎを得ることができます。

神はアブラハムが焼き尽くす捧げものとして捧げようとした一人息子のイサクの代りに肥えた羊を準備されたように、わたしたちの原罪のつぐないのため、おん独り子であるイエズスを焼き尽くすいけにえとして捧げられました。

神が自らの独り子を、自らいけにえとして捧げられた神秘を思い起こし、わたしたちも互いにゆるし合える平和を祈りましょう。

また日本には、極端な根性論と他者への無関心に起因する、陰湿な「いびり、いじめ、いじり」という、『三つの「い」問題』があります。

2018年の豪雨災害と猛暑の時にも、「日本的に極端な根性論、精神論」の長短が論じられました。豪雨と猛暑による死者、および後遺症に苦しむ方々の安らぎのためにも、ロザリオの苦しみの奥義第二を祈りましょう。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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