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« 光の奥義第五:最後の晩餐とミサ聖祭 | トップページ | 苦しみの奥義第二:イエズス、鞭打たれる »

2018年9月 7日 (金)

苦しみの奥義第一:オリーブ山で祈る

イエスがそこ(最後の晩餐を食べた場所)を出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血が滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しにの果てに眠り込んでいた。

イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
(ルカによる福音書22:39~46)

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

ロザリオの祈りの中で、苦しみの奥義はイエズスのご受難と十字架、季節で言うと四旬節の観想をあらわします。

9月10日は日本205福者殉教者の記念日、翌11日は福者ディエゴ神父と同志殉教者の記念日です。そして9月14日には十字架称賛の祝日、翌15日は悲しみの聖母の記念日があります。

まさに、ロザリオで苦しみの奥義を観想し、祈るにふさわしい月と言えましょう。また、日本古来の習慣でもある、お彼岸の月でもあります。亡くなった身近な方々、2018年の夏、大阪北部地震、西日本豪雨、酷暑による熱中症などで亡くなった大勢の方々の追悼のためにも祈りましょう。

O1280096013813169410 イエズスは、最後の晩餐を終えたのち「オリーブ山のいつもの場所」で祈られます。

それは、「血の汗がしたたるほど、苦しい祈り」だったと言います。ご自身の死、それも十字架上での死の苦しみを思って苦しみ、祈られたのでしょうか。

わたしは、ご自身が死に向かうからイエズスが血の汗を流されたのではない、と思います。

イエズスを鞭打ち、処刑する人々は、イエズスの死に加担することで後日、現代でいうPTSD障害に苦しんだ人も多いでしょう。また、残される弟子たちと聖母の悲しみを思うと、胸が張り裂ける思いだったのでしょう。

イエズスさまはオリーブ山で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られました。

イエズスさまの言われる「この杯」とは、自ら何ら罪もないのに断罪され、十字架を担い、死に赴くことだったのでしょうか。

きっとそれだけではないと思います。イエズスさまが十字架上で死を遂げ、ご復活になってなお、人類から敵意とねたみ、そねみと殺意などがゆるし、癒し、愛に変えられない人々、聖霊による救いの杯を受け入れられない人々が大勢いることをご存知だったからこそ、「なぜ?」とおん父に改めて祈りのうちに問われたのではないでしょうか。

また、イエズスは「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」とマタイによる福音書15章24節でカナンの女に言われました。

アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神の独り子でありながら、イスラエルの失われた羊の群れの多くを失うであろうこと、ユダヤ教徒間で分裂を招く可能性があることがイエズスの痛みだったのかも知れません。

そう、イエズスは自ら「全世界に行って、福音を宣べ伝える」のは、貧しい漁師だったペテロや、当時、罪人と呼ばれた仕事をしていた徴税人などの使徒たちであることも知っていたのでしょう。

彼らをほんの数年しか教え導くことができず、牧者のいない羊の群れとして権力者らの前に置き去りにすることは、イエズスにとって耐え難い痛みとなったでしょう。

「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」とは、イエズスという牧者を失った弟子たちの行く末もまた、イエズスの願いではなく、おん父の御心のままに行われるようすべてを委ねたのだと思います。

そう考えると、イエズスがなぜ、弟子たちに「眠らずに祈りなさい」と諭されたのかも説明がつきます。

これからイエズスご自身に起こること、弟子たちがどのように怯え、戸惑い、聖母がどれほど悲しまれるかもすべてご存知でいながら、「だから、あなた自身とイエズスによって結ばれた兄弟姉妹たちのために祈りなさい」と言われたのだと思うのです。

わたしたちは、絶望的な状況に瀕すると奇妙に浮き足立ち、慌て、また時に妙な眠気に襲われます。睡眠が足りないのではなく、危機的状況や予想だにしなかった状況の前で一種の自己防衛反応のようなものが「眠気」として起こるのです。

イエズスは、弟子たちが眠気に負けたことを責めているいるわけではないと思います。むしろ、絶望的な状況で眠気の誘惑に負けたようにしか思えなくても、心のかたすみに「祈り」という名の希望のともしびを灯すことを忘れてはいけない、と諭しておられるのだと思います。

苦しみ、悲しみに打ちのめされそうな時、こころに「祈り」がある人は幸いです。そして、祈りだけではとうてい心の支えにならないほど押しつぶされそうな時、共にいてくれる誰かがいるなら、なお幸いでしょう。

喜びは二倍三倍になり、苦しみは半分にわかち合える誰かがそこにいるなら、人は本質的な孤独の中にあってなお、深い慰めを感じるものです。

いざという時に、都合よくコンビニで祈りが買えるわけではありません。祈りは日々、歩き続けてこそ足腰が丈夫でいられるように、日々、祈りを続けてなお本当に困難な時にこころにあるか、最後までわからないものだからです。

苦しみの奥義第一、オリーブ山で祈るイエズスを思い起こし、ロザリオを一連祈りましょう。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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