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2018年8月28日 (火)

光の奥義第三:神の国を告げ知らせる

(自らの死と復活について語るな、というペテロをイエスは諌め、)それから、弟子たちに言われた。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価が支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るか、そのとき、それぞれの行いに応じて報いを得るのである。はっきり言っておく。人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

(マタイによる福音書16:24~28)

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

ロザリオの祈り、光の奥義の第3は「神の国を告げ知らせる」です。

福音書の2/3ほどを占める「イエズス・キリストが神の国を告げ知らせる」お話の、どの部分でイエズスが神の国を告げ知らせたのかと問われると、正直、困ります。

66c19942ab4ba346fdb64ccc04cde373e14 イエズスは、山上での説教では直接的に語られ、また弟子たちや律法学者、ファリサイ派など多くの人と対話され、たとえ話で神の国について語られました。

また、悪霊を祓い、病いを癒し、死者を蘇らせ、罪をゆるすなど、不可視のたましいや心を救う行動もなさいました。

そして「人の子は十字架につけられ、死に、葬られ、三日めによみがえり、神の国の栄光を受ける」というイエズスご自身の在り方についても、お話しになられました。

イエズスは、苦しみの奥義の第一~第五にあるご受難と十字架を通じて、特別な預言者や選ばれた人々だけが神の国に入れるのではない、ということを示されました。

神性と人性の両方を持つ神の独り子であるイエズスが、自ら十字架を担う証しをすることで、全人類がその生まれ育ちではなく、罪のゆるしと神の国での救いを「それぞれの行いに応じて報いを得る」のだと言われました。

どうも、日本人の多くはご受難と十字架のイエズスが苦手な方が多いようです。鞭打たれて血だらけになり、重い十字架を担う罪人となり、十字架上で処刑される…という「苦しそうな、血みどろの」イメージが苦手なようです。

ペテロも「十字架だの死だの縁起でもない」みたいなことを冒頭のみ言葉の直前に言っているので、別に日本人が特別なのではないと思います。

イエズスが「神の国は、あなたが自分の命を捨て、自らの十字架を担う、あなたのその日々の生き方の報いとして訪れる」と言いたかったのです。

「自分の命を捨て」とは、「命を粗末にしろ」ということではなく、「自分の命への執着を捨てないさい。生まれたものは、いつか死ぬ。生まれることも、死ぬことも自分や家族の思い通りにはならないことを、少しずつでいいから自覚するように努めなさい」の意味だと、しぇるりんは思います。

そして、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われます。

誰しも、その時代で社会的に理想とされる生活を送れる境遇に生まれ、育ち、満足し、日々何ら過不足なく安らかに過ごし、社会の皆に認められる、満ち足りた日々を送るだけで、やすらかな死を迎えられることを願うのでしょう。

しかし、現実に十字架のない人生は存在しません。誰もが何らかの十字架を担っていながら、あたかも「何ら苦しみのない生活を謳歌しています」と思っていたいのが人間の真の罪深さなのかも知れません。

苦しいことを、ただ苦しいと諦めると私たちの心から希望が薄れ、絶望の深淵がわたし達の心をゆっくりと「死」に追い込みます。

「こころの死」「たましいの死」は、物理的、生理的な「心肺停止状態」や「死亡」とはだいぶ違うようです。

わたしはまだ、「心肺停止状態」や「脳死」による「死亡」に至ったことがないので、何がどれぐらい違うかを明言できません。が、「心の死」や「たましいの死」とは、自分や他者との信頼関係が希薄になり、コミュニケーション力が低下し、他者の死に無関心になり、自分の延命と欲望が満たされることだけを飽きることなく求め続ける状態をもたらします。

死んだ心、死んだたましいは、日用の糧に満ち足り、人々に畏れ敬われてもなお、満ち足りることを知りません。ただただ、漠然とした不安と不満、憤りと怒りの吹き出し口を探し続ける状態が常態化し、誰かを苦しめたい、貶めたい、辱めたいという悪への衝動に誘われ、負けてしまうのです。

「心やたましいが死んだ状態」にいる人は、「(死んだ)自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエズスは言われます。

主がくださった十字架がわたしのいまの重荷なら、それを背負ったまま、イエズスを信じ、天のみ国を目指して今日一日を歩くことで、わたしたちは「自分の行いに応じて、その報いを受けます」とあります。

主なる神とわたし、二者の密なる対話の中にある「わたしの十字架を自ら背負う姿」は、他の方が見ればきっとこっけいで、みすぼらしく、バカらしいものに見えるでしょう。


人によっては、十字架を背負うその姿が、「お金持ちの家に生まれると、何不自由なくていいね」と見えたり、「美貌も才能もあって素晴らしいね」と思われたりもするでしょう。

他人にどう思われようが、イエズスはただ神の国はすべての信じるひとに来る、と告げ知らされます。

当時もいまも、一部のユダヤ人にとってイエズスの教えが到底受け入れがたい最も卑俗な理由は、「ユダヤ人が父なる神に選ばれた選民だという選民意識を貶めた」ことのようです。


もちろん、多くの敬虔なユダヤ人やイスラエル国民は現代のユダヤ教の教義を受け入れ、「メシアはこれから来る」「ユダヤ教徒は追放の地にいるが、神は必ず救いに来られる」と信じていることでしょう。

しかし、当時も今も「自分たちは選ばれた民で、他の人々は『民族洗浄』で排除し、絶滅させてもいい」と考える人が、別にユダヤ人でなくても世界中のどの国、どの民族にもいるのです。

イエズスが神の国を告げ知らせたのは、33年ほどの人生の、ほんの数年の間でした。

心からイエズスのご受難と十字架上での死ののちまで従順であった弟子たちは「聖母マリアや女性たちも含めて百人足らず」だった割には、イスカリオテのユダという稀代の裏切り者まで輩出しました。

イエズスご自身も、神のみ国を告げ知らせるまでは、聖ヨセフのもとで修行したナザレの大工でした。

イエズスの生前の弟子や十二使徒らは、主に漁師や農夫出身の無学な人でした。洗礼者聖ヨハネの弟子だった人々や、当時「罪人の仕事」と呼ばれた徴税人出身者などが、わずかに「多少、学のある弟子」だったようです。

この世で誰にも顧みられることのなさそうな人々の中で、難民の子として育ち、ナザレの大工の家で聖母マリアと聖ヨセフに従順の生活を過ごされたイエズスが、「神の国を宣べ伝えた」ことは、確かに人間の業ではありません。

ロザリオの光の奥義第三で思い浮かべる場面は、山上の説教でもいいし、「あなたの信仰があなたを癒した」と病める人に語りかけたイエズスでもいいでしょう。

イエズスが神の国を告げ知らせた福音書の多くの場面の中で、あなたがいちばん好きなところを思い浮かべればいいと思います。

わたしは個人的に、見せしめの石打ちにあって殺されるだろうと覚悟して地に身を伏せているマグダラの聖マリアに「あなたの罪はゆるされた。もう、罪を犯してはならない」と言われたシーンの、イエズスさまの眼差しが好きです。

身を震わせて恐怖に耐えるマグダラの聖マリア、その横にしゃがんで地面に何やら文字を書き続けるイエズス。イエズスを覗き込んだ人は、一人、またひとりと帰っていきます。イエズスは覗き込んだ人の犯した罪を書き記していたと伝えられています。

イエズスは、たとえどれほどの罪人であっても決して罪を他者に告発して罪のゆるしへの道を閉ざすことなく、ただ「あなたが確かに罪のない人なら、この女を石で打ちなさい」と言われました。

当時の律法学者や政治的ファリサイ派の人々は、今の悪徳カルトに傾倒した政治家より人間味があったから、自分の罪をみずから認められた…とわたしには思えません。

きっとイエズスは「あなたも、この女と同じく罪人です。この女を石打ちにすれば、この女は息絶える前にあなたの○○の罪を明かすでしょう」という「その人にしかわからないメッセージ」を地面に書き続けたのではないでしょうか。

もし、自分が石を投げたら周囲の人間に自分の罪が知られてしまうかも…と思うと自分かわいさのあまり、「石を投げるなら、次のヤツがやればいい」と思ったのではないでしょうか。

みんなでやれば石打ちだって、もっと残酷なことだって出来ると思っていたのに、いつのまにか「みんな」がいなくなってしまったのです。

当然、最後の数人は覗き込んで「みんな帰っちゃったから、オレもやめとく」と思ったのでしょう。当初の計画では、マグダラの聖マリアをイエズスがかばうなら、二人とも「みんなで」石打ちにしてしまえばいい、だったかも知れません。

こうして、罪をゆるされた女と罪をゆるした神の独り子が、土ぼこりたつ街角にポツンと立っていた、あの光景です。

そんな非力で小さなイエズスが、全世界に神の国の訪れを宣べ知らせました。

わたしたちは、神の国を告げ知らせるために大きなことはできません。でも、小さなこと、いますぐ出来ることもあります。

神の国を告げ知らせること、それ自体が「福音宣教」の本質でもあります。

通りすがりの疲れた表情の子どもに笑顔を見せる、学校や仕事場でちょっとした思いやりの声かけが必要な人がいるかどうかを見回す…などキリストの愛といつくしみを小さな言葉や行動で今日、はじめられるようロザリオを一連、ともに祈りましょう。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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