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2018年8月17日 (金)

喜びの奥義第五:神殿でイエズスを見出す

イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。

イエスが道連れの中にいると思い、1日分の道のりを行ってしまい、それから、親族や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、探しながらエルサレムに引き返した。


三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問をしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

するとイエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」…イエスの母はこれらのことをすべて心に納めていた。

(ルカによる福音書2:41~51抜粋)

お元気ですか?しぇるりんです。(^.^)

ロザリオの祈り、喜びの第五の奥義はユダヤ教の「バルミツバー」という成人式と「イエズスはまことに神の独り子である」という理解がその前提条件として知っておく必要があります。

現代のユダヤ人家庭では13歳の男女がカトリック教会で言う堅信の教理のようなものを受け、初めてユダヤ教寺院でトーラ(旧約五書)を朗読する資格を得る儀式です。イエズスの時代は男女平等ではなかったので、当然、バルミツバーを行うのは男子だけでした。

イエズスが成人となるための教育が「エルサレムの神殿で三日におよぶ学者らとの対話」という、本格的な「聖霊の導きによる教育」であったことは、驚くべきことです。

私たちには、心の奥に感じる時、感じたことをそっと心に納めておくべきだと思う時、言葉に現して自覚する気づきの時、現した言葉を噛み締め、反芻して思いを深めるべき時、そして、それらの思いが外に向かって現れて何らかの行動を取るべき時があります。

イエズスは、十二歳でエルサレムに登られた時、そっと心に納めておられたことを、言葉に現して自覚する気づきの時を迎えられたと悟られたのでしょう。

Giotto 少年イエスは初めて両親から離れ、一人、エルサレムの神殿に残ります。

聖母マリアを聖ヨセフが少年イエズスを捜し当てるまで、イエズスが何をしておられたのか、聖書は何も語りません。

ただ、イエズスはおよそ四日近い間、ご両親から離れ、一人「父の家」である神殿で過ごされます。

それはまるで、少年イエズスの成人式のようです。どこをどう歩き、何をされたのか、主なる神と少年イエズスご自身以外、誰も知りません。

ただ、「わたしが父の家にいるのは当たり前である」とイエズスはご両親に言われます。これは後年、荒れ野で過ごし、洗礼者聖ヨハネから水の洗礼を受け、福音宣教の旅路で自らの母を「婦人よ」と呼ぶ日が来ることを示唆しているようにも思えます。

聖母マリアは、イエズスが迷子になったこの時の一連の出来事を「すべて心に納めていた」のでした。

そう、まるでこれらの出来事を、『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』という母親らしい一言以上に感じた事柄を、すべて心の奥底にしまいこんでおくべき時だと感じたかのように、ただ心に秘めておかれました。

聖母マリアが心に秘めたことは、後日、「カナの婚礼」の時、言葉と行動として現されます。

それぞれの人生の中で、ただ感じることを感じているべき時、思いを心に納めておくべき時があります。

聖母マリアは神殿でイエズスを見出した時、初めて「この人は、神の独り子として聖霊によって宿ったのだ」と感じられたのかも知れません。

なぜなら、イエズスはこの時初めて「神殿はわたしの父の家」だと聖母マリアと聖ヨセフに言い表し、真の父である聖霊との交わりを公言されたからです。

もちろん、広義で言えば全ての人類の父なる神は主、でもあるので、この時にはお二人とも何のことやら判らなかったのかも知れません。

聖ヨセフがいくら《マタイによる福音書》第1章にある通りの「ダビデ王の子孫」であっても、当時は「大工」と言う職人であり、神殿祭祀になれる家柄でもなく、十分な教育を授けるにはほど遠い状態だったのでしょう。

イエズスはご両親と再会した後、聖母マリアと聖ヨセフへの従順のうちに過ごし、大工の修行をし、平凡な大工として30代近くまで労働と祈りと世俗生活をナザレの里で送られます。

それは、イエズスがわたしたちと全く同じ平凡な生活人として過ごされることで、父なる神の独り子が人間と全く同じものになられるためです。

私たちとまったく同じ生活人として人生の大半を過ごされたイエズスだからこそ、一人の人性を生き抜いた神の独り子として、全人類の罪のあがないの子羊として自ら御受難と十字架の道を歩むことができたのでしょう。

わたしたちはつい、何か主の聖霊が導いて下さると、すぐに答えが与えられると思い込み、気持ちばかりがあせってしまい、同じ場所をグルグルと回る愚を犯しがちです。

しかし、福音記者ルカはあえてこの出来事を「失ったと思っていた神の独り子を見出した喜び」に焦点を絞って書き記しました。

私たちもまた日々の忙しさや世俗的な思い、罪や悪への誘いに遭い、父なる神、神の独り子であられるイエズス・キリスト、聖霊の交わりとの直接的で親密なかかわり合いを見失いがちです。

しかしまた、ある日突然、まるで主イエズスと疎遠にしていたことなどケロッと忘れたかのように、イエズスに切に祈りたくなる日もあります。

私たちが「やっぱりイエズスが一番」と思えるようになった時、そこには守護の天使や天の全てのみ使いらの大いなる「偶有の喜び」があります。

私たちがつい罪や悪のいざないに負けそうになった時、愛や希望を見失いそうになった時、神殿でイエズスを見出された聖家族を思い起こし、ロザリオを祈りましょう。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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