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2018年7月 3日 (火)

輪廻、転生とキリスト教の生死観の違い

どこに行けば、

あなたの霊から離れることができよう。

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、

陰府に身を横たえようとも

見よ、あなたはそこにいます。

曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも

あなたはそこにいまし

御手をもってわたしをとらえてくださる。

(詩篇139:7~10)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

小説、ゲームやドラマなどで取り上げると面白味があるせいか、輪廻や転生が「ドラマのプロットに便利なコンセプト」ではなく、本来的に仏教の概念であったことが忘れられているようです。

キリスト教の教えでは、天地創造の初めからすべての被造物をかたちづくられたのは主であり、世の終わりまでたった一度きりの生命を生きるよう、招いてくださるのも真理であり、いのちの源であるただひとつの神さまです。

生命が、再生したり、別の次元や次の生命に転生する、という考え方はキリスト教には存在しません。

では、若い人々や作家たちはどこからインスピレーションを得るのか、というと仏教やインド哲学の「聞きかじり、何となく得たコンセプト」のようです。

そこで今回は、ちょっと難しい仏教の輪廻やら転生のようなテーマと、キリスト者はどう向き合ったらいいのか考えてみたいと思います。

身近なところで仏教ですが、本来的には修行して「正覚=悟り」を得るまで、死んでも「生命がこの世に出戻りさせられる」という「業」がある、というかなり厳しい教えに基づいて「転生」を余儀なくされるのだ、が《チベットの死者の書》(1993;筑摩書房文庫参照)の教えるところです。

真面目なチベット仏教の思想を、多少ラノベ風に脚色して説明しますと、こうなります。

人は死後、49日の間に自らがそれまで生きた中で悟りに辿り着けたかどうかが試されるようです。「やっぱアンタは成仏していない!」という判定がどこかから下るのか、誰がその判定をするのかは上掲書には書いてません。

もしかしたら、死後「成仏した方々の世界に体験留学」した結果、「やっぱ、わたしにゃ無理!」と本人が自覚する感じなのかも知れません。日本の仏教で言うところの三途の川を渡ると死者のたましいを裁く、閻魔大王のような存在はチベットにはいないご様子です。

で、やっぱり成仏街道は無理と思った「その刹那(瞬間よりずっと短い!)」に子作りにせっせと励んで受胎の可能性のあった男女の子」として「ハイ、この世に戻って成仏するため、出直しておいで!」と、その男女の子として胎に宿ることを「転生」と呼ぶようです。

死後の霊は親を選べるのか?、ですが、本人の死後四十九日の間で「成仏界ってやっぱムリと死んだ当事者が悟ったその刹那!」しか選択肢がないので、よほどこの世の夫婦やカップルが日夜日々せっせと子作りに励んでいないと、選択肢もそれだけ狭まってしまう可能性が高いようです。

そして、めでたく成仏界に昇華したたましいは、二度と「娑婆」には戻らないのです。ちなみに現在は逆に意味で使われている「娑婆(シャバ)」は、本来、仏教用語の「サーハー」に由来する言葉で、「苦しみを耐え忍ぶ場所」を意味します。

この末期仏教の教えによれば、この世に生きることこそが苦行だ、という考えがその根底にある点、キリスト者のご受難の観想にも何やら似ています。


宗教思想というのはどの教えでもそうですが、入り口は荘厳な文化で飾ってあっても、中身を客観的かつ本質的に捉えると、かなり「身も蓋もない」ものだと思えば安全です。

妙にキラキラとバラ色の未来を語る宗教は、何かしらカルト的なもの、俗世のご利益にお金集めをする詐欺団体だと言う判断基準にはなるでしょう。

日本や韓国のドラマによくあるラブストーリーだと、前世に身分制度や社会制度上の支障がありロミオとジュリエット状態だった二人が、愛で結ばれ「業?の連鎖に変わり、めでたし、めでたし」となるみたいです。

どうも、それらのドラマのストーリーや占い師の幻想世界は、文学的に大いに脚色されていると見るべきでしょう。

Tozan2 その点、輪廻は本来サンスクリット語の「サンサーラ」に由来する言葉で、「成仏できないまま、何回も転生を続けて、流転し続ける状態」を意味するようです。

つまり、輪廻とは、一回の人生を生きては、成仏しきれずにまた「苦難を耐え忍ぶ場所」である「サーバー(娑婆)」に転生する流転の旅の苦しみを現す言葉のようです。

道理で、昔の人は老いも若きも「早く死にたい」と思ったわけですね。なにせ、人生百年時代となると、輪廻転生の苦しみは時間軸の中で言えば延々と長引くだけですから。

どうも、私のように「人生なんて、今回一回だけでもうおなかいっぱい!」と思う人間には、性分に合いません。

ちなみに、仏教修徳的な意味合いの輪廻思想に「六道輪廻」という考え方があります。

六道輪廻思想によれば、この世に生まれて善を行おうと努力し、よく修行し、悟りを得ようとするなら「人間道→天道方面」にたましいが向かえる道が開けるようです。

もし、本人があやまちを自覚しない、悔改めようとしないなら「人間道→修羅道、畜生道方面」に進む可能性が生じるかも知れません。

万一、「自覚して悪を行う」なら「人間道→餓鬼道、地獄道方面」などあまり楽しそうでない道に転落する可能性があるようです。

「餓鬼」も本来は仏教用語で、「憎々しげな子ども」を指す意味ではなく、「食べても、食べても満腹になることを知らず、食べ物を求め続けるオニ」のことを指します。

仏教の地獄絵図は…まさにこの世の阿鼻叫喚の地獄絵図の宗教美術バージョンと言った感じのものが多いので、推してしかるべし、です。

キリスト教徒は、このような時代の流行をどう捉えたらいいのでしょうか。

まず、仏教徒の方が輪廻転生などを真面目に信じ、心からの畏怖を覚えているなら、その信仰への敬意を忘れてはならないと思います。

ただし、キリスト教徒が安易に流行りのスピリチュアルに流されて「輪廻転生」などを自分や周囲の人に当てはめて考えることはあってはならないことです。


冒頭の詩篇にもあるように、主なる神はどの時代、どこで、どのような境遇にあっても、「わたし」のすべてを知っておられる神であられます。

だからこそ、参考程度にキリスト教でない他の宗教の方の意見を部分的に取り入れるからと言って、主イエズスの教えに背くほどではない文化的な範疇でならともかく、教えの根幹に関わることに関しては、はっきりとNO!と自ら自覚すべきでしょう。

カトリック教会の教えの根幹を揺るがすわけではないけど、主イエズスの教えの土着化(インカルチュアライゼーション)に必要なら、自分たちの先祖を大切にする「祖先崇拝」などはセーフ、と言えましょう。

私は韓国に十年ばかり住んでいた時、複数の仏教徒の友人や職業的なシャーマンから「あなたの額には高貴な仏さんが刻まれているから、イヌ肉を食べてはならない。」と言われました。

イヌ肉を食べてはいけない理由が「あなたみたいな人が犬肉のスープを間違って食べると、交通事故などの災害で大怪我をするかも知れないから」でした。

私は韓国人の仏教徒の友人を信頼していましたが、別に韓国の仏教を信じたいとは思いませんでした。が、交通事故で大怪我をするリスクのあるイヌ肉は絶対に避けよう、と思いました。衛生上の理由ではありませんが、敢えて韓国の仏さん?や、友人たちの信仰心を刺激したくなかったのです。

キリスト者にとって、いま生きているこの時こそ主に回心し、福音を宣べ伝える時です。

今日は今日の十全の働きをすべく最善の努力をし、明日は明日で主の導きに従順であり、自らの召し出しを生きることを祈り続けることが、最善のキリスト者の業です。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

(マタイによる福音書6:33~34)

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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