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2018年7月24日 (火)

「信じる者は救われる」のか?

主の手が短くて救えないのではない。

主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。

むしろお前たちの悪が

神とお前たちの間を隔て

お前たちの罪が神の御顔を隠させ、

お前たちに耳を傾けてくるのを妨げているのだ。

(イザヤ書59:1~2)

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

緩和医療医の大津秀一氏の著書に《死ぬときに後悔すること25》というのがあります。

健康を大事にしなかった、タバコをやめなかった、自分なりの意思表示をしなかった、夢をかなえられなかった、自分の感情に振り回され、他人に優しくしなかったことなどが先ず、挙げられています。

次に、美味しいものを食べなかった、仕事一途でしたいことをしなかった、結婚しなかった(または出来なかった)、子どもを育てなかった、子どもを結婚させなかった、遺産について考えなかったなど、自分が元気だったとき「いつかやればいい」と先延ばしにしていたことを死に臨んで初めて後悔した、という話も紹介されています。

上掲書の五章に「宗教・哲学編」というのがあります。

その24で死に望む際に起こる「スピリチュアルケアの村田理論」というのが紹介されています。

スピリチュアルペイン、いわゆる「たましいの痛み」は「生きている意味を見出し得ないこと」、「「信頼できる家族、友人、医療者などとの関係性が不在であること」そして、自己決定できる自由を保ち、死に至るまで自律存在で居続けること、の一つが欠けると起こる、と言う説です。

日本人は「基本的に無宗教」と答える人が多い分、現代では「世界で一番死を恐れる」と著者は言われます。

ちなみに、著者自身は地方出身者でもあり何となく「宗教も信仰もないけど、ご先祖さんのいる来世みたいなものを感じる。それは、父がご先祖さんを大切にしていたからだ。」と語ります。

マイ哲学を持つ、ご先祖さんや来世みたいなものを何となく感じられればいいのですが、こればかりは個人の資質や生育歴などによります。

マイ哲学を持てるほど「ロックな人生」を送れるとか、「来世、あるじゃん」と死の間際になって思えればいいのですが、死の間際まで宗教を持つか、持たないか、を先延ばしにしてしまうと「既にある答えにともかくすがりつく」という比較的誰にでもやさしい選択肢を、宗教を持たないことでバッサリ切り捨ててしまうことになりかねません。

だから、「健康なうちに宗教について考えておきましょう」と著者は勧めています。

これには、いくつかの経済的、社会的な理由づけがあります。

私の周囲でもよく見かけるのが「ご家族の大病がきっかけで怪しい新宗教に帰依した結果、医療費以外に、ご祈祷やらお祓いに多額のお金を使った挙句、持ち家を売り払う」という事例です。

新宗教の全てが怪しい金儲け主義とは言いませんが、ルイス・フロイスの《日本史》にもあるように、瀕死の人が居る家に祈祷師、陰陽師、道士や修験者を自称する人々が寄ってたかってご祈祷代やらお志を巻き上げ、ご臨終まぎわと見定めるや、尻に帆かけて逃げ出す、は歴史に残るほど「あるある」なのです。

家族が新宗教に入れ揚げた結果、経済的に破綻し、家庭崩壊…という事例も見られるようです。

やはり、新宗教の多くは「教祖」という「生きている人間」を崇めることが多いので、トラブルが発生しやすいだろう、という理由を大津医師は示しています。

戦前からの新宗教ですと「教祖」さんは既に亡くなっているのでトラブルが少なくなるか、と言えばそうでもないのが現実です。

逆に初代の「教祖」である方が亡くなったあとで、その方の「聖なる教典」などへの解釈が異なる中堅幹部以上の連中が揉め、新宗教は初代教祖の死後数年で分裂する傾向があります。

これは、一部の福音派を自称するプロテスタント会派にも起こりがちな問題です。

上掲書に最後まで宗教について知ろうとしていた八十代の方は「自分の目で考えることが一番大事である」と大津医師に遺言を残されたそうです。

宗教を通し、真実を見通す目を養え、と言われても余命数ヶ月となってから始めるにはいささか荷が重いから健康なうちに考えた方がいいと、この章は結論づけます。

カトリック教会の心ない一部の方々は、臨終洗礼を望む家族や知人を「天国どろぼう」などと呼びもし、本人も「天国どろぼうだね」と自嘲気味に言う方もいらっしゃるようです。

私は、たとえ「天国どろぼう」であっても、主イエズスに信頼をおき、天国にいけると本人が信じることで、心が安らぎ、それまでの罪を償いたいと心から回心するなら良いことだと思います。

「ご臨終のまぎわでも洗礼を受ければ、天国に行けるでしょう(天国行きの確約ではないかも知れませんが、永遠の地獄の火に焼かれる確率がぐっと減ります!)」とその方のたましいが主イエズス・キリストに向かうなら、キリストの十字架の苦しみの慰めになる何かであることに変わりはないからです。

幼児洗礼、若い時からカトリック教会で洗礼を受け、真面目に教会生活をして来た多くの方々には、「タラントのたとえ話」のように、朝から晩まで働いてももらえるのは1日の食い扶持に当たる一タラントでしかない、を考えてみましょう。

しかもイエズスは「一日の最後に来た者から(給料の支払いを)始めて、最初に来た者に最後に支払いなさい」という謎のようなことを言われます。

そのたとえ話通りに世の終わりに天国に入るとすると、最後に天国に入るのは、十二使徒やイエズス生前のみ弟子ら…ということになります。

しぇるりんは、こんな風にイメージしています。イエズスの生前に天国を約束された弟子たちは、彼らの福音宣教により、2000年以上まで綿々と生き続けた人々がキリストの愛に結ばれ、何十兆人もの人々の天国への大行列になることなど想像もできなかったでしょう。

イエズスの生前にはよく分からないままつき従い、イエズスのご受難、十字架上の死とご復活、ご昇天ののち聖霊のみ恵みをいただいた弟子たちは、逃避行の旅を続けつつそれでもイエズスの愛といつくしみを伝えずにはいられなかったのです。

そんな最初の方々ほど、天国への大行列を最初から最後まで父なる神、御子であるイエズス・キリスト、聖霊、聖母マリアと聖ヨセフ、天の万軍である天使とともに、尽きせぬ天国への大行列を観る栄光を頂けるのだと、描いています。

私はきっと行列の最初の方でまごまごと数知れぬ人々の中で歩く一人になれれば幸い、ぐらいの人間でしょう。

それでも、使徒ペトロや使徒パウロなどは心から喜んでご覧になると思います。

「信じる者は救われる」とよく言いますが、この言葉をあたかも「何も考えず、何をされても、何をさせられても人間を疑おうとしない人間は、真実を知らない分、幸せだ」という意味に矮小させようとする傾向が日本にはあります。

↓神のしもべ、福者ユスト高山右近

As20170207003483_comm ほんとうに「信じる」とは、「宗教を通じて、真実を見通す目を養い、自分の目で考えること」です。

「自分の目線で考える」ことは、誰かと比べてより賢明な判断を下すことではなく、「賢明でも、おろかでも、自分の目線で考え」「自分以外の人の目線は、その目線なりに重んじる」ことです。

とかく、森羅万象に神が宿るとする汎神論なのか、唯一神なのか、多神教なのか、一神教なのか…など私たちは政治や社会の判断基準にまみれた「他人事もどきの」価値観の比べっこに走りがちです。

そんな弱い私たちですが、幼児洗礼の方にせよ、一世代目の受洗者にせよ「自分の目線でイエズスと向き合う」よう、日々、心がけたいものです。

今日の一日が、たとえこの世で最後の一日であっても悔いのない日となりますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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