フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • ブログランキング


    人気ブログランキングへ
  • 日本ブログ村

« 聖母マリアの「ご出現」考 | トップページ | 「不思議のメダイ」と聖カタリナ・ラブレ »

2018年7月10日 (火)

「キリスト教の神さま」は「絶対神」ではない!

神はこれらすべての言葉を告げられた。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。…わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。…わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

(出エジプト記20:1~6抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

かなり頻繁に「キリスト教では絶対神を信じている!」とSNSで言われ、当惑することがあります。

キリスト者はカトリックであれ、プロテスタントであれ、「唯一の主、全能の神、すべての見えるもの、見えないものの創り主である神」を信じています。「ひとつの神、主」であっても、その存在が「絶対」だとは全く思っていないので、「絶対神?」と言われると、鳩が豆鉄砲を喰らったように困惑します。

だいたい「絶対にやってね?いい?」と言われたら、「疑問、否定、議論、対話や譲歩の余地なく、状況がどのようになっても何かをしてくれ!」という意味合いに聴こえます。

また、「絶対やるよ!」と言ったら、「必ずします」を力強く答えたと取るか、決してこちらの意図通りにはやらないのだろう…と思えるわけです。

つまり、日本語の「絶対」には、譲歩も対話も、ゆるしも平和も愛も慈しみも存在しえない冷淡非情なニュアンスがあるように感じられます。

ちなみに、英語で絶対を表す「absolute」をオックスフォード英英辞典で調べると、「総合的だが詳細や内容が明確でない」「主張を強調して表現する」「状況、限界を設けることのできない力や正義」「独裁的な」「最終的な」という意味が出てきます。

どうも、日本人はキリスト教が一神教であること、聖霊のみ恵みと殉教者の尊い犠牲と祈りにより二世紀以上の間、潜伏キリシタンによるカトリック教会共同体が存続し、江戸末期に大きな外交問題に発展したことを、徳川幕府も明治維新政府も、「潜伏キリシタンは、不可能な何かを信じて、神社仏閣(への支払いや行事参加などの労働力提供)をないがしろにしようとしているんだ!」と受け取ったようです。

人間が、他の人間の心や内面的な自由を束縛しようとすることは、愚かなことです。どれほど強大な権力を握っても、本人の意に反して「人間を根本から造りかえる」なんて、どこまで技術力を駆使してもある一定の限界があるのです。

試しに「アイツはバカだ!」または「困ったヤツだ」とあなたが思う誰かを、心の中に思い浮かべて見てください。そして、その人に何かを教え、導ける権威ある立場にいたら、あなたはその人に何をどうしたら、どれぐらい変えられるか、を想像してみてください。もちろん、権力や権威の乱用はキリストの愛と慈しみに背く行いなので、実際にこれを行ってはなりません。

その人がもし世にありがちな暴君的な存在なら、権力の行使で残虐行為を行えないよう監禁などはできても、その心のうちに煩悶する権力や権威への執着を変えることは出来ないでしょう。

冒頭の出エジプト記の「十戒」の第一の戒めにあるように、キリスト教の神さまは、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。…わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言う愛と慈しみの源であられます。

わたしたちキリスト者の神さまは、「疑問、否定、議論、対話や譲歩の余地なく、状況がどのようになっても…」など、人間的な苦しみや悩み、痛みに無関心な神さまではありません。

潜伏キリシタンらもまた、浦上四番崩れなどの過酷な捕縛、監禁、拷問を受けてなお、祈りにより多くのみ恵みが与えられ、慈しみを体験しました。

考えても見てください。拷問された人が、拷問者の言いなりに「ハイそうですね。わたし、ニンゲン辞めます」とは言えるものではありません。また、拷問することに快楽を感じる残虐さに目覚めた人が、誰にも制止されることなく、自分の意思で拷問を止められものでもないのでしょう。

あなただって、「あなたがあなたでいるのがダメなの!あなた以外の何かになりなさい!」でも「何になるかは、空気読んで決めなさい」と拷問を受けて、言われ続けても、心が頑なになるだけではありませんか?

拷問は身体の傷跡よりずっと深い、心の傷を残す残忍な行為であり、拷問や言葉の暴力に脅かされれば、心は内向きになります。そこにもし、まことの信仰があるなら、かえって信仰と祈りは深まり、神秘主義的様相を呈しやすくなる、ということでしょう。

むしろ、日本でどのような状況にあっても、生死を超えて?絶対に否定してはならない、と洗脳されたのは「国家、国体に対する忠孝」です。

どのような思想であれ、「過去の世代と次の世代をつなぐ」ものでありたい、という信念がなければ思想は現実から乖離してしまいます。

日本の戦前の国体思想は「神社仏閣を否定するものは絶対に許さず、国体のために生き、国体のために死ね」という国民総隷属、場合によっては「国民総火の玉、玉砕」を極端に強要する思想でした。

そのような国体思想の在り方が「絶対の真理として心情的に世界に通じる」などと、当時のほとんどの国民の状況や現実から乖離した考えを、明治維新政府は教育活動を通じて「現実的だ」と広めたのです。

国体思想がキリスト教を「絶対神を信仰し、神社仏閣を否定する」と決めつけたのあり、キリスト者は国体思想を共産主義や民主主義、民族自決主義のような政治イデオロギー以上のものだとは考えなかっただけです。

当時であっても、実際にその手の思想家や当時の極右派、極右の愛国少年、少女は決して多数派ではなかったと思います。多くの人はイヤイヤ「やらされていた」だけでしょう。

国体思想を構築した人々は、キリスト教の教えを詳しく知ることもなく、キリスト者を自分と対等の人間だと心から納得することもなく、互いを尊重するために酒を酌み交わすこともなく、対話もせず、「彼ら目線」で「彼ら目線のキリスト教」を決めつけただけでした。

それを、戦後にも「何となく残そうとしている」「一群の人々」がいるのは、確かなようです。

戦前、「絶対に神社仏閣を否定するな」と修身という科目で教えた結果、戦後になり「民主主義の世になったから、強制された神社仏閣はもうイヤ」という考えが大多数の国民に根付いたようです。

伝統的で素朴な街角巡礼的な祈りは、時の流れとご利益一辺倒になって行きました。最近は「パワースポット」とか呼ばれていますが、流行り廃れ以上には深まらないようです。

↓ジョヴァンニ・バティッサ・サルヴィーの「聖母子」

Publicdomainq0011340hqo

ともあれ、わたしたちキリスト者は、いまも潜伏キリシタンの時代と同じく、世の初めから終わりまで、すべてをご存知の主に問いかけ、時に議論し、願い、祈り、頂いた試練が過酷すぎると思えば、少し和らげていただけるように願います。

有名なお説教に、ある司祭が「イエスさま、わたしの十字架はとても重くて担うのが大変なので、別の十字架に変えてください」と祈りつづけた、というお話があります。

司祭の祈りは聴き届けられ、イエスさまは言われました。

「いいだろう。じゃあ、あなたの十字架をそこにおきなさい。ここに十字架はいくらでもたくさんあるから、試しに背負ってみて、あなたがいちばんラクだと思えるのを背負って行きなさい」と寛大に答えてくださいました。

そこで司祭は、こっちかな?、あっちかな?、と色々と試した結果、ひとつの十字架がピッタリフィットだったので「イエスさま、わたしはこれからはこの十字架を担いたいと思います。いいですか?」と尋ねました。

すると、イエスさまは満面の笑みを浮かべて答えられました。「そうですか。それは、あなたがここに背負ってきた十字架ですが、ほんとうにそれでいいのですか?」と。

キリスト教には、絶対なんて概念はありません。愛と慈しみとゆるし、希望となぐさめの源である主がおられるだけです。

みなさんの今日の一日が、実り豊かなものでありますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





« 聖母マリアの「ご出現」考 | トップページ | 「不思議のメダイ」と聖カタリナ・ラブレ »

キリスト教エッセー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1671541/73688079

この記事へのトラックバック一覧です: 「キリスト教の神さま」は「絶対神」ではない!:

« 聖母マリアの「ご出現」考 | トップページ | 「不思議のメダイ」と聖カタリナ・ラブレ »