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2018年5月 1日 (火)

多様性、同調圧とイエス・キリストの愛

(その日)サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。

また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスに出発させた。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
(使徒言行録9:26~31)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

復活第5主日の第一朗読が、冒頭の聖句でした。

サウロは、新約聖書の「…への手紙」と使徒言行録など、新約聖書の殆どの部分を書いたり、監修した、とても学のある方だったようです。

その点、イエズスが存命の頃からの弟子の多くは、良くも悪くも労働者、社会の下っ端出身の人でした。

考古学的な資料によれば、B.C.1世紀のユダヤ人は書いたメモでやり取りした痕跡があり、「掃除夫、兵卒から将軍まで」誰でもある程度の書字、識字はできたと言われています。

しかし、イエス・キリストの愛の教えを聖霊の導きによって聖書を書き記すには、それなりに学のある文章をまとめる語学力、文章力が必要です。

↓サウロの回心(システィナ礼拝堂)

Arazzo_di_raffaello_conversione_di_ 弟子たちは無学なのに、「何らかの奇跡で、聖書を書く時だけ聖霊の力が働いた」わけではありません。モーセ五書自体、「一章が図書館ひとつ」ぐらい膨大な資料、史料のかたまりなので、主なる神の智恵を備えてなお、主について物書きをするにはある程度の文章力と学問が必須です。

聖書を検証する人々は、弟子たち以上に学のある人々が無限にいるわけですから、「直感やお筆先のたぐい」では済まされません。

漁師だったペテロも、イエスの弟子になってから学のある他の弟子に学問を学んだ形跡が見られるようです。

サウロはその点、大祭司とも対等に話せる教養ある人だったようですし、その書簡集は文学的にも秀逸です。

イエズスの生前を知る弟子たちは、冒頭の聖句にあるようにバルナバが「サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した」と言われれば、「そりゃあそうだ。イエスさまだもん!」と無条件に感じたでしょう。。そうして、自分たちを追って弟子たちを迫害し、自分たちを殺そうとしていたサウロを受け入れました。

弟子たちに受け入れられたサウロも、「恐れることなく」主を伝えるようになった、とあります。

サウロがいかに信仰深くとも、エルサレムで正式に弟子たちに受け入れられるまでは「バルナバがたまたまイエズスの啓示を受けた人だったから、自分を個人的に受け入れてくれたのか?」という疑問が心の隅になかったとは思えません。

そこには、回心以前には弟子たちを迫害し、殺した罪の重さへの責任、償いの気持ちと共に、罪を犯した者独特の後ろめたさは心の片隅にあったのではないでしょうか。

弟子たちもバルナバを人間的に信用したのではなく、復活されたイエズスがサウロに話しかけられ、サウロはイエズスによって変えられたのだ、と信じたから受け入れたのでしょう。

では、なぜギリシャ語を話すユダヤ人は、サウロを受け入れられなかったのでしょうか?

その根底には、人間的な恨み、つらみ、憎しみ、文化的ギャプへの違和感などを、越えられない人間的な弱さがあったのだと思います。

当時から、ユダヤ人の第一言語は生まれ育った地域によりさまざまでした。ラテン語(ローマ語)、ギリシャ語のような当時の地中海沿岸の主要言語だけでなく、親や親族の生まれ地方の複数の方言・言語に精通していた者も大勢いたでしょう。

サウロは主にローマ事情に精通していたようなので、当時すでに文化的に違和感のあった、ギリシャ語を話すユダヤ人とは文化的ギャップがあったのかも知れません。

これが、ギリシャ語を話すギリシャ人やそれ以外の民族、部族など非ユダヤ人であったなら「ま、文化も言葉も違うから違和感もアリかな?心に染みて来ないのは、文化の違いかな?ちょっくら、考えてみよう」と思えたのかもしれません。

でも、ユダヤ人同士であるからこそ「お前、同じユダヤ人なのに何で違うんだ?」と反感を買ったのではないでしょうか。

何やら「同じ日本人なのに、何でアンタは違う言い方をするんだ?」という「日本社会での多様性を認める必要性と強すぎる社会的な同調圧の問題」にも似てる気がします。

サウロも努力し、弟子たちも努力したと思います。

でも、サウロ殺害計画を企てる側のギリシャ語を話すユダヤ人にも、彼らなりに言い分があったのでしょう。

サウロは、身内のキリスト者の暗殺計画の槍玉に上がった最初の聖なる人だったとも言えます。

聖ベネディクト、アシジの聖フランシスコなども、自身の修道院内で殺害されかけた、と記述にあるからです。

弟子たちは、キリストの愛の共同体を守るために悩みました。そして、サウロをカイサリアからタルソスへとのがす道を選んだのです。

それは、ギリシャ語を話す兄弟姉妹たちが主の愛の教えと十戒に背く行いをさせないための配慮でもあり、イエズスが聖霊によって選ばれたサウロの宣教の使命を全うさせるためでもありました。

中東地域からローマ帝国を通じて欧州全域へとキリスト教が広まった要因を日本人は、「支配層や貴族のキリスト教化→中間層に普及→庶民に伝わる」の順番で杓子定規に考えすぎる方が多いようです。

それは、日本の仏教がトップダウンで伝わったため、文化の伝承をトップダウン以外のアプローチで検証する考え方に馴染めないせいかもしれません。

現実には、労働者が主だった弟子たちがイエズスと行動を共にし、それが後日、中間層~のユダヤ人や非ユダヤ人に伝わり、その中から聖霊によって弟子たちが増え、宣教者となり、時に政治的逃亡者となっても宣教を続け、ついにはローマ帝国一円に広まったことで、キリスト教の教会の規模が大きくなりました。

その後、多神教を認めすぎると税収が分散すること、神秘主義的要素が強すぎると政争の原因となること、当時なりに政教一致を抜け出せないまま多民族国家の運営に苦慮していたローマ帝国が、文化も民族も言語も違う民を一つにまとめるための切り札としてキリスト教を選んだ、と言えましょう。

つまり、キリスト教の布教活動そのものが、底辺から支配層を動かすのであって、その本質においてトップダウンではありません。

それは、今も変わっていません。

エデンの園から追放されたアダムとイブ、主を信じて旅を生きたアブラハム、エジプトからイスラエルの民を率いたモーセがそうであったように、サウロもまたイエズスの聖霊の働きだけを信じて、終わりなき宣教の旅に出たのです。

サウロは、聖霊によってキリスト者となった同胞である一部のユダヤ人にエルサレムを追われ、宣教の旅へと出ました。

彼が宣教の旅に出ることで、エフェソ、コリント、ユダなど広い地域に、イエズスの聖霊の働きが広まりました。

どの旅も、それぞれの多様な日々で、ただ一刻として同じ日はありませんでした。それは同じ言語、同じ文化を同じ空間、同じ時間に共有していても、決して共有し尽くせない「自分だけの何か」を全ての人が持っているからです。

それでも、みなが同じ主に導かれていました。

いま、私たちには多様性と同調圧を超えて、イエズス・キリストの愛につながりたいと願っています。

「私はぶどうの木。あなたがたはその枝である」と仰せになったイエズスに今日もまた、あなたと共につながっていたいと心から願います。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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