フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • ブログランキング


    人気ブログランキングへ
  • 日本ブログ村

« 「キリスト教は押しつけがましい」という誤解 | トップページ | 「奇跡の香り」はバラの香り? »

2018年5月11日 (金)

イエス・キリストの「愛」に抱かれて

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出る者で、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。


(使徒ヨハネの手紙4:7~10)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

「愛」というと、何やらロマンチックなもの、人によってはエロティックなものを思い浮かべるのかも知れません。

哲学的には、パピーラブ(子どもが子犬を愛するように自他の区別ない愛情)、自己愛(自分に対する撞着を自覚する愛情)、利他愛(ギブアンドテイクの中で相手への関心を示す愛情)、性的な愛情(エロース)、そして神が独り子を世に遣わされた無償の愛(アガペー)など、さまざまに分類できる愛が、私たちの中で日々の生活を送る中で常に渦巻いています。

愛は段階を経て、他の人間や動物、自然や環境との関わりの中で徐々に見出すものですが、さまざまな愛が置かれた状況の中で、日々、その時の花を咲かせるもののようです。


イエズス・キリストが言われる「愛」を、世俗の言葉で言うと「自分の意に叶うか、自分の意に反するかに関わりなく、相手に対して真摯に関心を持つ」気持ち、言動を含みます。

誰か自分以外の人間を、自分の意のままに操りたい人はこの世に大勢います。相手が自分の思い通りになる間だけ、相手に関心を持つなら、それはキリスト者であっても利己心に基づく無関心と言えましょう。

全ての事柄を思い通りにしようとするなら、人の心は身勝手と無関心に満ち、やがてその人のたましいが麻痺してしまうでしょう。

↓神の独り子は聖母マリアを通じ、愛そのものとしておいでになった。
C4ee3303898d2a237bb54163459be995

聖マザー・テレサの言われた通り「愛の反対は憎悪ではありません。無関心です。」

もちろん、一人の人が一日にできる、二つの手と日本の足のわざは微々たるものです。とても、地球や人類の未来を変える原動力になるとは思えません。

そうだとしても、私が神に愛されるために生まれたこと、神の愛を誰かと分かち合うため、自分なりに示された道を歩むことの大切さを常に心に留めることは、神の愛に生きることだと思います。

英語で同じ10節を読むと「神は、イエズス・キリストを私たちの罪を取り去るためにお遣わしになった」とあります。

私たちは、原罪を負った状態で生まれ、神に愛され、赦されるために日々を生き続けます。

神に愛され、赦されることがあるのだと知ったたましいは、誰かと神の愛を分かち合わずにはいられません。

神は愛だからです。

愛は、分かち合わないなら宝の持ち腐れです。神を愛するのも、人を愛するのも、わたしがいて、あなたや誰かがいて、分かち合うものです。

愛を分かち合うには、相手への敬意、思いやり、相手の必死さを理解したいという気持ちとともに、自分の言葉で自分を上手に表現できること、相手なりの表現を受け入れられる寛大さが必要になります。

愛は、愛することで報われ、愛ある人を惹きつけ、無関心な傍観者に愛を行う大切さを知らせます。

愛の対象が国や社会など抽象的で、カタチの定かでない相手だと、往々にして幻想ロマンの自己満足に陥りがちになってしまいます。

愛は、具体的に誰に、何を、どのように愛するか、神が聖書のみ言葉を通じて明らかにされたように、明らかな「誰か、何か」なのです。

愛は時に苦痛に満ち、ロマンチックで美しいばかりではないと思います。それでもなお、わたしたちは無関心の中で孤立したまま、闇の中を彷徨うように生き続けることは辛いのです。

暗闇の洞窟に一人っきりで閉じこもり、どれだけ長く生き延びられるか、を実験した人がいるとネットで読みました。6ヶ月近く暗闇の洞窟で耐えた人は、どちらも一つの共通点がありました。

その二人には、友となってくれるネズミが一匹いたのだそうです。そのうち一人は、ネズミを誤って器の蓋の下敷きにしてしまい、殺してしまったことがきっかけで、暗闇の洞窟生活を止めることに決めたそうです。

一匹のネズミですら、孤独を癒す力があります。わたしたちキリスト者は、キリストの愛を孤独と無関心の中で知らないうちにたましいが溺れ死んで行こうとしている人々に、笑顔や何気ないことばを通じて届けるべく、聖母マリアの祈りの執り成しを通じて召されているのです。

愛されたいと思うのではなく、愛したいと思うなら、少しずつですが愛に溢れた人々が闇のような世の中にぼんやりと浮かび上がって見えてくるでしょう。

今日の一日が、あなたにとって愛とあたたかさに満ちた日でありますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





« 「キリスト教は押しつけがましい」という誤解 | トップページ | 「奇跡の香り」はバラの香り? »

キリスト教エッセー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1671541/73460508

この記事へのトラックバック一覧です: イエス・キリストの「愛」に抱かれて:

« 「キリスト教は押しつけがましい」という誤解 | トップページ | 「奇跡の香り」はバラの香り? »