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2018年5月 4日 (金)

憲法記念日に「平和」を想う

主イエズス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」

わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばのとおり、教会に平和と一致をお与えください。

(聖餐式「教会に平和を願う祈り」より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

聖霊によってイエズス・キリストの使徒に選ばれる前、サウロはイエズスの弟子たちを狙う迫害者であり、殺人者でした。

そんなサウロが、聖霊によってイエズスに出会い、心から回心し、人々に好かれようが、殺されそうになろうが、イエズスへの愛を伝える使徒に変わったシーンは、まさに奇跡です。

サウロの心に、主の平和と愛がとつぜん訪れたのです。その後、聖霊の示された通り、サウロは使徒バルナバから洗礼を受け、イエズスを伝え続けます。

最初の使徒座の礎となったサウロ、使徒パウロは宣教の旅の中で、教会の一致と平和のために多くの書簡を送りました。

使徒パウロの書簡には、イエズス・キリスト以外に何か人間的な派閥があるかのように考えて、「パウロの教えを信じるべきなのか、ペテロの教えを信じるべきなのか」などと論争を繰り広げていた各地方の教会に、イエズス・キリストへの愛、平和と教会の一致を語り続けます。

サウロの言葉を要約すると、「イエズス・キリストこそ、唯一の愛、希望、平和のみなもとであり、一致のみなもと、ただ一つの真理である」に凝縮できると思います。

使徒言行録~の新訳聖書の中には、使徒たちの中にも論争で亀裂が入り、使徒の数人は別の道をたどったなど、さまざまな人間模様と時代の様相に翻弄され続けたことが綿々と書き記されています。

↓私たちの十字架。沖縄戦の最前線に立たされ、苦難、死傷、自決を強いられた「ひめゆり部隊」の女学生たち。まだ、少女だった。

P0153

奇しくもこの原稿を書いている今日は、5月3日の憲法記念日。憲法9条に、是非を問う声も上がっています。

憲法9条には、「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」とあります。

つまり、国際紛争の解決手段として、宣戦布告をし、または何ら事前通告をすることなく戦争を始めたり、「撃たれたから、撃ち返せ」で自衛隊などが武力行使する権利を、国民が政府および自衛隊を含む行政府と司法に対して認めない、という意味です。

憲法とは、行政、議会、司法の暴走を防止するため、国民が行政、議会、司法などの統治機構を監視するための法的基本理念です。憲法の番人は国民全体です。

そのため、政府の中枢組織、行政機関、司法や多数派を取れば有無を言わさせないことも可能は議会が暴走し始めたらそれを止めることも、民主主義国家における国民の義務であり権利です。

このような政治的平和を求めるには、場合によっては泥沼の対話に積極的に飛び込み、中華事変、第二次世界大戦などでの一部の軍部、将兵らによる蛮行に関しては、自らの罪を罪と認め、つぐない、悪しき過去への血の責任を果たすことが求められます。

「わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み…」とミサ奉献文にあるように、教会ですら、どうか神さま、人間同士が集えば何かと罪深いことも多々あるにせよ、信徒一人一人が積み上げた信仰の功徳を顧みてください、と願ってなお、完全な平和が訪れたとは思えない人間模様の修羅場なのです。

平和憲法も基本は同じだと思います。植民地主義の時代の流れにのり、日清、日露戦争を起こし、台湾、朝鮮、満州などを植民地化し、日華事変を起こし、対米戦争へと突入する過程で、将兵同士の戦闘行為の範疇を超えた蛮行に対する国内外への過去の罪は消えません。

それでも、国民一人一人が平和を願うことは大切です。

なぜか、「日々の安逸な生活の維持」を「平和」と勘違いしている国民が多いのは哀しい現実です。平和は、自らの歴史的十字架を担い、今も圧力の下で苦しむ人々に想いを寄せ、武力衝突を最大限回避できるよう、自分たちにできる最善の努力と犠牲を払うことです。

国際平和とは、他の国の人々と誠実に話し合い、時に泥沼の論争となってもひるむことなく武力行使や経済制裁に頼らない対話の道を開き、対話の道のりを保ち、未来にあり得る可能性を予測し、時に必要な犠牲をはらい、どの国ともつながりを保つため、最善の努力をすることから生まれます。

そのためには、日本的なトップダウンのタテ社会を、ボトムアップの自主性と個性を重んずる「タテヨコ社会」へと転換せねばなりません。

統治者にとっては安易で都合のいい「分断統治」は、ヨコのつながりをブツブツと断ち切ってしまうばかりでなく、被支配者である国民の自主的に生きる意欲を喪失させます。

日本社会を、織物に例えて考えてみましょう。縦糸を機織り工場のあるじがいくら上手に張ったところで、横糸を通して生地を織らなくては布地になりません。

その上、縦糸を張るあるじである政権が変わるたびに、縦糸の張り方を変えなければならないので、タテ糸を張る職人である官僚らも、ヨコ糸のことまで手が回りません。

結果として、タテ糸とヨコ糸は模様や絵柄として全く関連のない、連続性も関連性もない柄が織り出されます。

日本社会は、いわば縦糸だけを織り機に張って「さあ、どうだ。これだけ立派に縦糸を張れば、立派な生地が織れるはずだ。横糸である国民を思い通りに操れば、生地は織れる」と一方的に考えている機織り工場のあるじのようなものです。

実際には、横糸を一つ一つ丁寧に織り込む織り手が、自らの意志で丹精こめて美しい反物を織り上げたいと心から願い、機織り作業を日々続けてくれなくては、機織り工場のあるじがいくら圧力をかけても、たとえ一反の生地とて本当に美しく織り上がることはないでしょう。

その上、あるじが変わるたびタテ糸の張り方が変わるため、織り手である国民は自主的な意欲を喪失してしまいます。結果として、ただ「何だかよくわからないけど、指示通りに平織りでも、あや織でも言われた通りにすればいいらしい」という「何がなんだかよくわからない織」の生地が量産されるのです。

憲法9条において、横糸は国内外のヨコの国際協力であり、国際平和への、時に激しい論争、政争でもあるでしょう。その中で、国際平和という生地を織り上げる織り手は、わたしたち一人ひとりの国民なのです。

サウロは、ただそれぞれの共同体に「イエズス・キリストの平和があるように」と心から祈り、願い、教会内の紛争解決と仲裁に尽力しました。

サウロの心には、自らの罪の重さへの責任感、つぐないへの意志とともに、人間的な弱さの十字架もありました。

それら多くの十字架をイエズス・キリストの名によって背負い、生き抜き、宣教活動を続けたサウロだからこそ、日本人には想像もつかないほど論争好きなユダヤ人に、繰り返し、何回も「主の平和がみなさんにありますように」と呼びかけ続けられたのでしょう。

使徒サウロの言葉は、平和の本質的な困難さを知る人の言葉でもあります。

教会に平和を願う祈りの後、カトリック教会のミサでは平和の挨拶を交わします。「主の平和」と互いに挨拶をするのです。

平和の挨拶を交わすだけで、教会が平和と一致に溢れるわけではないのかも知れません。

それでも、「現代に平和をお与えください」という奉献文の一節にある、「いま、わたしたちにできる最善の平和」を求めるため、「いつも来ているのは知っているけど、直接、話したことのない誰か」と目を合わせ、挨拶することから教会の真の平和を始めることはできます。

日本で考える国際平和も、まず隣人や日本国内外で出会う一人ひとりとの出会いの中で、臆せず、怯えずに対話をすることから始まるのでしょう。

対話、論争で互いに傷つきあっても平和を目指すヨコのつながりを持つことに怯えを感じ、「上から目線でいたい」というプライドにこだわり易い人が、日本人には多い気がします。日本人ほど平和好きだけど、多様性を尊重し、違いを重んずる対話に全く不向きで、多様であることに忍耐力の乏しい人々も、他に類例を見ない気がします。

日本人にとって、このような日本文化の特性こそ、何よりも重く、愛すべき十字架なのかもしれません。

イエズス・キリストが十字架を心からの御父である主への愛とともに担われたように、わたしたちも日本文化の特性という十字架を、世界のどこで、どのような立場にあっても、日本文化という文化的背景もまた、好むにせよ、好まざるにせよ、自らの十字架として喜んで担わなくてはならないのだと肝に銘じ続けなくてはならないでしょう。

国内外の平和のために!家族や隣人との平和のために!そして、自分自身のたましいの平和と教会の平和と一致のため、平和を祈り続けましょう。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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