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2018年4月27日 (金)

「ボランティア」はタダ働きするな!

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

介護や保育などの場に「ボランティアの方」が関わることは多いでしょう。

音楽の演奏、工芸や手芸の指導などが折々に、施設などにボランティアに来られるのを見ると頭が下がります。

限られた職員やご家族以外の人と接することの少ない、要介護度の高い方々、乳幼児、障害児・者の方々にとって、ボランティアの方々は外の世界の空気を持ち込んで下さるからです。

しかし、日本国政府や行政の関係者の中には、なぜか「ボランティア」を「便利にただ働きしてくれるお人好し」と勘違いしている方々が多いようです。

その証拠に何と!2020東京五輪の通訳や案内などの会場スタッフを「ボランティア」と言う名の「ただ働きにやらせよう」という計画があるようなのです。

このままだと、明らかに生死に関わる介護や保育ですら「タダ働きのボランティアにしてもらおう」などと言い出しかねません。

介護や保育は「応分の対価を払うべき労働」です。対価がなければ、そもそも他人の命の責任など負えないし、対価のない労働はできません。それが資本主義というもの。

だいたい、「ボランティア」とは「自主的な活動」です。

学校教諭や会社の指示で「休日返上のタダ働きを強いられる」のは、「自主的な活動」ではなく「対価を払うべき労働に対価を払わず」行わせる「強制労働」です。

日本では教育課程での部活など、「特別にしたくないけど、内申書に影響するから部活で朝練」などが当たり前にあります。部活の顧問教師も明らかな時間外労働を「我が校の名誉のために!」強いられています。

そのせいか、「自分の意思で、自分のために、自主的な活動を誰かとともに行うことで、社会参加する」というボランティア本来の意義を理解できない日本人が多すぎるようです。

カトリック教会で考えるボランティアには、明確な定義があります。

  1. 神の無償の愛に応えることで、世の人々にキリストを伝える目的に叶う行為。
  1. 自らの生き方を奉献した奉献生活者(司祭、修道士、修道女、宣教師など)であっても自らの生活と生き方に支障をきたさない範囲内で、他者とキリストの愛を分かち合える行為(困窮者への衣食住支援、声かけ、友だちになることなど…。)
  1. 政治や経済界の利権など、時にキリストの愛に背く罪の行いに加担しないよう最善を尽くすこと。
  2. 当事者と支援者が同じ神の被造物として対話することで、ボランティアをする人もまた「支援する人も支援を受ける人も同じ神の被造物」であると感じ、互いの中にキリストを見出せること。

欧米のカトリック教会で③は、時に問題になります。

↓聖ヨハネパウロ二世教皇の葬儀。亡くなった当時から列福、列聖はほぼ確実視されていた。

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聖ヨハネ・パウロ二世教皇が逝去された際、日本以外の世界中から、政治的な指導者がバチカンに大集合しました。「空飛ぶ教皇」と言われ、平和や和解への対話に尽力した方の追悼に信教思想の違いを超えて駆けつけることで、自らの政治指導者としての人徳をこぞってアピールし、それぞれの政治的思惑がらみの「和平会談」の政治的チャンスを掴むためです。

その中に、明らかにアブナイ独裁国家で「紙の上ではカトリック信徒」の独裁者が葬儀ミサに参列し、政治家の間で「独裁者と比較されたくない!」などと物議を醸し出しました。

その点、日本のカトリック教会の奉献者や信徒がボランティアをする際、問題になるのは①と②です。

キリスト者のボランティアは、あくまでも「神の愛のため」に行うのであって、行政や政府の都合のためにタダ働きをするのではありません。

また、神の愛以外の、何か人間的な都合を優先させてはならない、という聖書の教えがあります。

そのため、行政がカトリック教会、または他のキリスト教の教えや理念に歩調を合わせようとしないなら、キリスト者は「タダ働き」で疲れ果て、神の愛を見失うようなボランティア」をしてはならないのです。

例えばアジア第二のキリスト教国である韓国などの場合、カトリック教会が抱える問題に心から共感を抱くほど信仰篤い方が、銀行や行政に影響力のある地位に大勢います。


そのため、「鉄道駅の敷地や国有地内などでホームレスの方々のための路上での日曜ミサや礼拝」などが黙認されることもあり得ます。また、キリスト教系のボランティアに対する寄付の金額も多いため、ボランティア活動が成り立つのです。


その点、日本で②が問題になるのは、ボランティアの活動内容が神の愛を伝え、なおかつ修道院、宣教会、小教区の活動目標に近いもので、教会共同体が無理なく続けられるものか、ということです。

何年も前のことですが、私のいる小教区で女性たち何人かが「ホームレスの方々に声かけ支援をしよう」と夜回りを企てたことがありました。

結果から言うと、大失敗でした。まず、教会付近で「悪ガキ時代に秘密の隠れ場的に遊んだ」経験とは程遠い真面目人間ばかりで、地元の地理に不案内な人が集まったため、ホームレスの方々が休んでいそうな場所を見つけるだけで手間取ってしまいました。

第二に女性ばかりなので、夜回りは三人以上で行動する必要があります。暗い場所も多いため、止むを得ない事情でホームレス化した男性を中年女性が声かけと称して取り囲むような感じになり、神の愛を伝えるにはほど遠い活動になり、数ヶ月で止めてしまいました。

教会共同体やそのメンバーが無理なく続けられる、ということはボランティア活動を行う上で大切なことです。また、ボランティアを行う人の安全も重要です。また、たとえば声かけをして、神の愛に応えて更に何らかの支援を求められた場合、連携するアテがあるのか、は重要です。

日本社会で求められるボランティアとは、①と②の条件が無視された「お上のご意向」が優先されがちです。そして、どんな立派な政府であれ、「お上、政府、行政の意向」とキリスト者の「神の愛を伝えるためのボランティア活動」が運良く重なり合わない限り、相容れないのです。

そのような状況をうやむやにしたまま、日本の行政や政府はタダ働きをするのが「ボランティア」だと勘違いしているのです。

刑務所を出所した元受刑者のよろず相談を引き受ける「保護司」さんが「無償ボランティア」で、経費、交通費や研修に参加する費用も全て保護司さんの持ち出し、などというのは行政が善意を悪用している典型でしょう。

本来なら、国家は保護司さんに報酬と経費を払い、元受刑者の更正に必要なヨコの支援にしっかりとつなげるよう、実際的に支援できる人数を確保しなければならないのです

必要な手間をかけたがらない日本に住んでいるからこそ、日本では「ボランティア」や「手伝い」は安易にタダ働きしてはなりません。

対価がアテにならない働きをすることほど、疲れることはありません。また、金銭面でも経費を全てボランティアが持ち出しで賄うなら、本人の生活維持と活動費用の両面で、経済的に活動が成り立ちません。

実際、NPOなどで「市区町村の依頼で行う活動は全て赤字」などという事例は多々あります。逆にNPOへの支援金を貰った年度だけ運営するフリをしてNPOがドロン、という事例も多いようです。

私は何も、ボランティア活動そのものに反対の意を唱えたいのではありません。

行政や個人の都合のため、誰かが誰かをタダ働きさせようと画策する人が日本社会にはあまりに多いから、お互いに気をつけましょう、と言いたいのです。

最後に繰り返します。ボランティアは「便利で、タダ働きしてくれて、自腹で政府や行政のなすべき仕事を代行する人」ではありません。

キリスト者は誰もが、イエス・キリストを通じて得た愛を誰かに伝えたいという願いを、日々の生活のかたわらで示すべく、招かれているから活動するのです。

無償の愛を直接行う人になれないなら、スポンサーになって活動の場に参加することも出来ます。

こういったボランティア本来の理念への共感が社会全体にないなら、政府、行政、経済団体や企業は、タダ働きを求めず、適切な対価を支払わねばなりません。

対価は単純にお金だけではなく、活動する当事者が望む活動の場を提供したり、社会的な便宜をはかることが必要な場合もあります。

ボランティア=タダ働きではありません。

人間的な善意は、政府や行政がいくら身勝手に悪用しても枯れることのない底なしではありません。

人間的な善意への敬意とともに、人間らしさを取り戻せる日が来ますように。昨今、日本社会から人間らしい優しさが急速に冷え込んでいるような気がしてならないのです。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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