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2018年4月20日 (金)

キリストに回心する「その時」

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂への手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天から光が彼の周りを照らした。

サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、物も言えずに立っていた。サウロは地面から起き上がって目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
(使徒言行録9:1~9)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

大祭司からダマスコの諸会堂への紹介状をもらい、イエズスの弟子たちを脅迫し、殺害するために後を追ったサウロの姿は、現代の一部の過激な極右勢力など、極端な思想の持ち主を思い起こさせます。

律法とは、ほんらい人の魂を自由にさせ、神の愛への無上の信頼に至るため神が預言者らを通じて示された、方法論の一種であったのでしょう。

人のたましいを自由にするはずのものが、いつの間にやら政治的などが介入し、堅苦しい決まりごとの寄せ集めになっていったことが、当時の大祭司や律法学者たちの真の問題点だったのでしょう。

人類史を担う聖都エルサレムであるが故に、過激な行動に走ったサウロはある意味、愚直なほどに極右派的な律法崇拝主義者だったのかもしれません。

そんなサウロの愚直さに、イエズスは目を留められました。サウロにこれ以上罪を犯させてはならないという、イエズスの愛がサウロに届いたのが、冒頭の聖句のシーンだったのでしょう。

サウロは、大祭司らのイエズスの処刑はユダヤ人社会を守るために絶対必要だったと信じていたのでしょう。

もしかしたら、本当にイエズスが政治的なクーデターを企てて、ローマ帝国にユダヤ人の自治権を奪わせる原因を作るトンデモない輩だとサウロは信じていたのかも知れません。

ご復活ののち、天のみ国に行かれ、御父である神の元に行かれてなお、イエズスは自らユダヤ人の血の責任を取ろうとしておられたのだと私は思います。

「血の責任」という言葉は日本語にはあまり馴染みがないかも知れません。

わたしが考える「血の責任」とは、「誰かが、何かが、自分のために血を流したこと、命を失ったことへの責任感を失わず、先祖の罪、他者の罪をも自らの血の責任として神に赦しを願い、神に心を向けること」を指すのだと思います。


どこぞの政治家が言うように「過ぎたことは、水に流せばいいじゃない?」と考える日本人には、少々馴染みづらい感情です。


しかしながら、「再び同じ罪を犯さないためにはどうしたらいいのか?」という対応策の積み重ねが、人類の歴史であり、文化の発展への原動力である点で、日本文化だけ「水に流せる」せば成り立つというものではありません。

だからこそ、「誰かが、何かが流した血の責任を自覚する」ことは、自らへの赦しの始まりであり、真の愛の自覚のはじまりであり、人間らしさを主イエズスとともに生きる道でもあるのです。

その後サウロは、イエズスの弟子たちに責められたわけではありませんでした。ただ、自らの罪を告白し、洗礼を受け、イエズスの弟子たちから遠く離れたところでご復活になったイエズスの教えを説き続けました。

サウロははじめから、イエズスの弟子たちが自分を受け入れてくれるとは思っていなかったようです。

イエズスはご復活ののち、はじめてサウロに聖霊によって自らをお示しになりました。サウロ以前の弟子たちは、人となられたイエズスの生前を知る弟子たちでした。

↓ミケランジェロの「サウロの回心」

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サウロは迫害者だったのですから、生前のイエズスについてあやふやな情報しか持たない人だったでしょう。迫害者の多くは、相手に敬意を持つ前に敵意と警戒心を持って相手を見がちな人々だからです。

サウロはそんな自分を、生前からイエズスを知る弟子たちらが聖霊において受け入れられ、弟子たちと和解できるとは到底思えなかったでしょう。

ざっくり言えば《使徒言行録》は、生前のイエズスを知る弟子たちの宣教活動の記録であるとともに、聖霊において使徒座の「しもべの中のしもべ」である教会の基礎が築かれるまでの動きを描いています。

その中でいちばんのキーマンが、使徒サウロなのです。

イエズスのご復活後に聖霊が教会の礎となり、「集会、共同体」である教会が世の終わりまで人類を支え続けられるよう、天のみ国におられるイエズスはサウロをお選びになりました。

サウロは、イスカリオテのユダがイエズスを裏切り、負った罪を主イエズスへの回心によって償う存在ともなりました。

私は、イエズスはイスカリオテのユダを救われたと信じます。イエズスは、おそらく金勘定がちょっとばかりいい加減で、僅かな金銭のためにイエズスを裏切って、自ら命を絶ったイスカリオテのユダを心からいまも愛しておられるでしょう。

イスカリオテのユダの罪のつぐないと「血の責任」は、聖霊によって選ばれたサウロに託されました。

わたしたちはみな、誰かの血の責任を負い、神の愛に応えるために生きる旅人に過ぎません。

一見、定住し、安定した生活を送っているように見えても、日々の生活は自転車操業のようなものです。いのちははかなく、奪おうと思えば瞬間で誰でも奪えるものだけど、いのちを奪った血の責任は子々孫々と受け継がれねばならないのです。

わたしたちは誰であれ、誰かの血の責任を負い、この世を生きています。一人の人間にできることは、ごく限られたことだと思います。

それでも、それぞれの中にある血の責任を負いつつ、キリストとともに一日を大切にして生きようではありませんか。

もう二度と来ない、今日という日のために。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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