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2018年4月17日 (火)

キリストの道を一筋に

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われた。

彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

そこで、イエスは言われた。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触って見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見える通り、わたしにはそれがある。」

こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたといっしょにいたころ、言っておいたことである。(ルカによる福音書24:36~44)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

欧米や南米では当たり前の「紙の上で洗礼を受ける」ことだけでも、日本では一大事です。

幼児洗礼でも、両親がカトリックとは限らないので「ご主人にバレる前にこっそり幼児洗礼を受けさせて、事後報告」などの「半ば隠れキリシタン」状態にある人はとても多いのです。

↓ピエロ・ラ・フランチェスカの「正面から見据えるご復活のキリスト」

P7041181682x1024

ましてや、成人がカトリックに転向しようと考える場合、家族の誤解や反感で葛藤が起きることもあります。

それでも、おぼろげながらでもキリストのみ姿を追い続けたい。日本でカトリック信徒となるには、それだけの覚悟を必要とします。

イエズスがご復活され、弟子たちの前にあらわれた時、わたしはてっきりご復活で手足が釘で打ち抜かれた痛みも、おん脇腹から血を流された傷跡も、ご復活とともに痛みが「治っちゃったのかな?」ぐらいに思い込んでいました。

でも、聖書のどこにもご復活後のイエズスの十字架の苦しみと痛みが、ご復活後に癒されたとは書いてありません。

ということは、イエズスは十字架上での苦しみと痛みを担われたままご復活になったと観想してみましょう。

死の痛みとなったおん釘痕は痛むまま、医学的に言えば死亡後に受けた脇腹の刺し傷もご復活ののちに痛みを得たまま、イエズスがご復活になられたとしましょう。

死の恐怖に打ち勝ち、黄泉に下られ、死後の苦しみに打ち勝ち、おん父の愛そのものになられたイエズスにとって、愛は痛みに打ち勝つものだったのではないでしょうか。

私たちの人間的な想いからすれば、死どころか頭痛や腹痛だって痛いものは痛いとしか言いようがありません。別にキリストに心から祈れば頭痛が治るわけではなく、どこぞの司祭が言ったように「叔母さん、頭痛ならいつもの鎮痛剤の方が利くよ」、と誰もが言うでしょう。

それでも、私たちには「この痛みを迷惑で嫌なもの、不運なことだと嘆くのか、これも神からいただいたものと受け取るのか」という選択肢は残されています。

私は子どもの頃からの偏頭痛もちです。ホルモンバランスの変化で年経れば軽減するとも言いますが、最近は偏頭痛も主が私の手に刻んでくださった詩篇の一部だと思えるようになりました。

もしも偏頭痛もちでなかったら、痛みを感じている誰かの気持ちを深く思いやれるようになりたいと、思わなかったかも知れません。自分がちょっと痛みを感じただけで大騒ぎをして、周囲を困らせる人間になっていたかも知れません。

また、痛いという感覚を知らずに生きていたかもしれません。世の中には、触ってみるとものすごく肩こりがひどいのに本人には全く自覚がない、という方がいます。生理学的に言えば、痛みとは自分自身の心身から「用心しなさい。休みなさい」という警告です。

21世紀をご覧になるイエズスにとってご復活の痛みは、私たち人類と世の終わりまで戦禍、自殺、経済戦争、奴隷的な酷使、病いや整体環境の変化による苦しみをともにする証しの苦しみです。


英米仏がシリア爆撃が開始し、収まりかけた戦禍がまた広がろうとしています。信教思想に関係なく、幼い子らが痛みと戦争の不当を訴えて泣き叫ぶ声が、イエズスのご復活の痛みをいや増しているでしょう。我が子を守りたくとも守りきれない父母の叫びに、イエズスの魂は張り裂けていることでしょう。

それでも、私たちには祈る以外、何もできない事がこの世にはたくさんあるのです。それでも、私たちはイエズスのご復活の痛みの慰めとなるよう、平和を祈り続けなければならないのです。


キリストの道を一筋に歩むということは、イエズスのご復活の痛みを天的な愛とともに前に進むということでもあります。

キリスト者にとって、道はキリスト以外にはありません。キリストに呼ばれ、キリストを選んだなら、キリストの道をただ一筋にともに歩みましょう。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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