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2017年11月28日 (火)

カトリック信徒が「死にたい」と思った時、どうする?

自殺は、自らのいのちを守り維持しようとする人間の自然の傾きとは相反するものです。それは正しい自己愛とは正反対のものです。また、隣人愛にも背くものです。わたしたちは家族・国家・人類社会に対する義務を負っていますが、自殺はこの連帯のきずなを不当に破るものだからです。自殺は生ける神への愛とは正反対のものです。(2280)

自殺した人々の永遠の救いについて絶望してはなりません。神はご自分だけが知っておられる方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることがおできになるからです。教会は自殺した人々のためにも祈ります。(2283)

《カトリック教会のカテキズム》668頁

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

都市部に住む方々は、「人身事故により列車の運行が…」というアナウンスやお知らせに慣れっ子になってしまうほど、日本では自死が増加しています。

どれほど熱心なカトリック信徒、またはキリスト者であれ「ああ、もういいや。死にたい」と思うことは「あって当たり前」だと思います。

もちろん、幼いから、面倒くさいから「絶望してもいいでしょ?」ぐらいの気持ちで「死にたい」と言うのは、真面目に「自死を決行する」という意味ではないでしょう。

↓首吊りして死んだと言われるイスカリオテのユダ

Judas_hangs_himself_gelati_fresco 私は「二十歳の原点」という自死者の手記を当時のカレシに贈られるほど、生きるのが危うい人間でした。

30年以上もの間、希死念慮を患っていたのです。

だから、「死にたい」という一言にも色々な感情的が込められていることを少し知っています。

若い方の多くは、ウツ症状などの病理的な極度の過労状態にいるにも関わらず、過労やストレスを加速させる場所から逃れる術を知らず、唐突に自死されるようです。

また、ウツ症状から回復しだし、レジャーや旅行も楽しめるようになり、復職や就活でもしようかなぁ…ぐらいの時期に突然訪れる「急性の起立性自律神経失調症(以前通りに眠剤を服用しても、早朝に起きたら眠れなくなる症状で睡眠不足に陥る症状)」による過労を訴える術を知らずに、早朝や夕方に「疲れ果てて」自死されるケースもあります。


前者はもちろんのこと、後者はウツ症状の回復期に特有の睡眠不足で疲労が蓄積し、心神耗弱に陥って起こる病的な自死です。

カトリック教会の教えで、これらの病的状態におかれた方々が自死されても、永遠の救いの希望は神のみ手に委ねられている、と考えます。

神奈川県座間市で、SNSで「死にたい」と書き込んだ若者と書き込みを通じて親しくなり、「死にたい」と書き込んだ人の「自殺を助ける」と言って、殺人を犯したという事件がありました。

ホントに「死ぬ気」なら、他人の助けなんて必要ないはずです。実際、わたしが遺言を聞いた方は、たった一人で首吊って亡くなりました。覚悟の上の自死でした。

SNSで「死にたい」と書き込む気があるなら、「生きたいけど、生きづらい。生きるのが辛い」という風に、私は読み替えています。

どれほど自死、自殺はダメだよと言われても「死にたい」と思うことはあります。

「死にたい」と思っても、簡単に自己愛が捨てられるものではありません。そして、隣人愛に目覚めるには、自分自身の中にある「自己愛への捨てがたさ」の良さと醜さに、自分が心の奥で気づく必要があるのです。

「自己愛」というとついつい、「自己撞着=自分以外の他者が見えないまま、誰かを自分の都合の良い存在に仕立てたり、自分の欲望通りに行動させようとする欲求」と勘違いしがちです。

実際に、お母さん、お父さんは国籍、文化、人種を問わず、我が子をどうやったら「自分たちの教育観にあった子どもに育てるか」に日夜頭を悩ませています。

でも、子どもだってそれぞれの人生、出会い、悩み、喜び、苦しみがあり、親の思い通りにはなりません。

「子育ては親育て」というのは、それぞれに自分なりの「自己愛」の世界があり、それぞれの「自己愛」が「自分自身のいのちを大切に思うこと」であるということ、それぞれが違う「自己愛」を生きていることを互いに認め合うということだと思います。

誰もが「自己愛」を生きていることを深く悟るなら、隣人愛に目覚めることでしょう。隣人はどこにでもいます。道ゆく人すべてが隣人なのです。

本当の自己愛とは、「ともかく今は自分は生きていて、生命がある。だから、自分から生きることを放棄したり、生きる希望を失ったりしてはいけない」と心から納得することです。

自己愛は、「わたし、どんなに死にたいと思っても、やっぱり生きていたい」と思う自分に気づくことです。

わたしは生きたい、自分の生命を守りたい、と思うことは人間として、神の被造物として自然なことです。

ひとにはどうしてか、「どんなに死にたいと思っても、生きたい、死にたくないと言う切実な思いを深く実感したい」という欲求があります。

「どんなに死にたいと思う苦境にあっても、生きているって素晴らしい」と思えるようになるには、まず「死にたい」から始めて、「でもやっぱり死ねない。死にたくない」に至るまで「何となく自分なりに悩んで、前に進もうとすること」こそ、一種の「青春の門」なのでしょう。

「死にたくない」から「生きたい」にたどり着けば、ひとまず「自己愛」基礎編は卒業です。

ただ「死なない程度に生きていたい」から、「生きているって素晴らしい」に至るには、カトリック信徒の道しるべは主キリストへの教えてくださる信仰、愛、希望です。

主日のミサを通して、日々の祈りを通して、私たちは「二度と渇くことのないいのちの水をのみなさい」と言われた主の「いのちの水」を心のどこかで探しています。

そんな私たち一人一人のため、神ご自身と全く同じ存在であられる主イエスは、幼子の姿でお生まれになり、貧しい難民の子として苦難の道を歩み、大工の子として育ち、大工の徒弟となり、一人の職人としての平凡な生活を送るため、敢えて30歳近くまで長い歳月を「凡人」として過ごされました。

聖書では、イエスが「凡人」として過ごされた日々について、殆ど言及していません。でも、神は確かに私たちと同じ「凡人」として生きるために、ご降誕になったのです。


主イエスは、ご自分を裏切り、敵の手に売り渡し、首吊り自殺したイスカリオテのユダを弟子にするほどに、今もいつもずっとあるがままの私たちを愛しておられるのです。

私たちが「死にたい」でも「死ねない」「生きたい」でも「死なない程度に生きてりゃいいじゃん」から「生きる希望を持ちたい」、そして「生きているって素晴らしい」と思えるようになるまで、父なる神と聖ヨセフ、聖マリアに従順の人生を地上で送られた方こそ主イエスだと、私は思うのです。

「死にたい」が、実は「死にたくない」への入り口であることの方が多いでしょう。

病的な苦境の中で突発的に「もう死ぬしかない」と思うずっとずっと前に、自分の中にある「絶望的だ」「死にたい」という気持ちに気づくことは大切なことだと、私などは思います。

「絶望的だ」、でも「自分の生命は守らなくちゃ」「死にたくとも死ねないんだ」という自分の気持ちに早めに気づけば、自分を守るために「逃げるはセコいが役に立つ」ことへも気持ちが向けられるようになれるのです。

場合によっては、「引きこもる」、「不登校」、「フリースクール」、「自立支援施設の利用」、「休職」、「退職」、「転職」などの道も選べるのです。

別に、社会的責任を果たさないことを勧めているのではありません。自分自身を守れる範囲内で社会的責任を果たすことは、どのような状況に置かれていても大切です。

人が生きるために学校、社会、企業、政府などが存在するのであって、学校、社会、企業、政府などを保持するためにひとが存在するのではありません。

学校、社会などに隷属するために人が労働力として酷使されるために存在している現状は間違っているのです。

「死にたい」と安易にツイッターなどのSNSで書き込むことへの規制を日本政府が行おうとしています。

しかし、「死にたい」というコトバを封じ込めれば封じ込めるほど、「やっぱり死にたくない」という気持ちにたどり着くまでの紆余曲折は、より複雑なものになると思うのです。

安易な「コトバ狩り」をするより、「死にたい」と思う気持ちを汲んで、「死にたい」と書き込む人々に寄り添う社会になってほしいと願う次第です。

 

この国から一人でも自死者が減りますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。


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