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2017年7月 4日 (火)

戦後レジームとカトリック:終戦と敗戦

そこでピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦っただろう。しかし、実際、わたしの国はこの世に属していない。」(ヨハネによる福音書18:33~36)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

先の大戦で、1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れ、日本は連合軍に降伏しました。

対外戦争で「日本」が確実に敗戦したのは、初めてでした。


なにせ、他民族、他地域、異文化圏との紛争の回数なんて「数えろと言われても、数え切れない」陸続きの国や地域と違い、日本では数えるほどしか起こっていないのです。

先の大戦以前はと言うと、歴史的経緯がイマイチ不明な「元寇」は、単なる台風や熱帯性低気圧ではない「神風」という記述が必要な歴史の裏側があったと伝えられています。

16世紀の文禄・慶長の役では「日朝痛み分け」で外交決着に至りました。日本側の立場だけを言及しても、局面の戦闘の勝敗はあり、陸上戦では強かった日本の武将らも、朝鮮王朝中期の伝説の武官、李純信(イスンシン)将軍率いる亀甲船艦隊の圧勝で日本の補給路が絶たれたこと、豊臣秀吉の死などがあり、「名分を立て、勝敗どっちつかずのまま外交決着」させることが最善の選択でした。

「『乱はあった』が勝敗なし」という決着は、東アジアでのみ通用する儒教的な解決法を、双方が望んだから可能だったことでした。

ですが、近代スポーツ競技、博打、ギャンブルから、おぞましい集団殺戮を伴う戦争、紛争、経済紛争に至るまで、論理的にコトバで条約、協定を結ぶことで約束や決まり事を定め、決まり事通りに物事を行う現代世界においては、勝者も敗者も「それなりに」コトバで明記され、口頭、理念においても周知され、実行、検証し、基本的人権を侵害する行為がないよう、互いに守り合い、勧告しあいます。

日清戦争、日露戦争は、日本も植民地主義の覇道を選んだがゆえの勝利でした。第一次大戦時には、連合軍側についただけで、直接、戦鬪には参加していません。

そして、中華事変後から第二次世界大戦まで続いた永い大戦で、徹底した降伏以外の道のない敗戦を喫しました。

万年常勝チームだったスポーツチームが、自らの策に溺れて最下位になった以上のカルチャーショックに、日本人の多くが深く傷ついたと感じたのは無理のないことです。

負ければ、単に戦争が終わるだけではありません。戦勝者に都合に振り回され、「戦争が終わって良かった」だけではすまない長い歳月を。葛藤続きで時に屈辱を伴う外交上の交渉を、世の終わりまで続けねばならないのです。

「わたしたちの無形の文化的なつながりを守ろう」と言う内面的な信念を貫くことと、「現実の国家間の戦争、地域間の紛争で敗者となり、個々の人々がそれぞれに生き方を変えること」は全く次元の違う問題です。

前者は、冒頭の聖句にあるように「イエスさまの国はこの世に属してい」ません。わたしたちそれぞれの心や魂の中に本当に大切なものが宿っているなら、ひとの心の中を強引に変えることなど、この世の誰にも出来ないのです。

その大切なものが何らかの文化的なつながりの中にあるなら、互いへの信頼を裏切らないこと、裏切ったら対話を通じて和解の努力し続けることは、どこの誰であり、どのような思想信条の人であれ、必須です。

信頼を失うのは一瞬ですが、信頼を得るには残る生涯を捧げる必要がある重大事なのは、一人の人間であれ、一国の文化であれ、同じことです。

一部の昭和時代の人々のように「被害者の方は何となく忘れて下さい。加害行為は思い出したくないですから」などと加害者都合の身勝手を強要することは、相手の人間としての尊厳を貶め、相互の信頼を損なうことで、加害者自身が自らのアイデンティティーを見失わせる結果をもたらすからです。アイデンティティーとは、信頼関係の中で保つものなのです。

戦後レジーム問題の始まりは、戦前の日本、江戸時代までの極端な「人を細分化し、身分や出自により差別、抑圧する」ことで成り立つ世界観から派生しています。

緻密、繊細、文学的かつ詩的な世界観にありがちな情緒的な未熟さ、孤立した個人の徳ある文才や人徳などの美徳と言える側面だけを切り取って賞賛する、日本という世界観そのものが、ある意味世界から孤絶した「ガラパゴス文化」であることの負の側面が異文化と向き合った時、内向きに深く閉ざされた心の崩壊が凄惨な残虐行為につながったのだと思います。

江戸時代の村落同士の対話とは恐ろしいもので、対話が決裂すると、本当の事を言っているのかはどちらかを決めるため、「鉄火場」が設けられました。代表者が焼けた鉄の入った煮え湯に手を入れ、鉄を握って取り出しても手が焼けない奇跡が起きた側が正しい主張を行なっていると判定する、というとんでもないやり方でした。見せしめのため、公開処刑を頻繁に行う残酷さがあったのも江戸時代でした。性風俗はおおらか過ぎるほど、おおらかでした。


問題は、日本人特有の短絡思考や怒りっぽさなどの短所を、日本人自身が認めたがらない点にあります。

日本文化の負の側面を認められない真骨頂が、「終戦」という「言の葉(ことのは、言い回し)」でしょう。

南京大虐殺のような異民族に対する虐殺行為だけでなく、自国軍将兵の多くが戦闘能力すら保持できないまま餓死した「インパール死の行軍」、青年たちを絶望に追い込むことで人間兵器とした「特攻」、兵以上の残虐行為を老弱男女の民間人や幼な子にまで強いた沖縄戦での悲劇など、「もう終わった」の一言では決して取り返しのつかない多くの無辜のいのちを死に追いやったのが、先の大戦でした。


広島、長崎の原爆投下、焼夷弾による空襲、外地(植民地)からの引き揚げ時の悲劇や、シベリア抑留などの「被害」だけをことさらに強調する史観は、脱却すべきです。

日本人が「終戦」という言葉を受け入れたまさにその瞬間から、戦後レジームによる日本文化の腐敗も始まった、としぇるりんは思います。

↓江戸の大殉教の地に献堂されたカトリック浅草教会

Kn243_31300x270 国内外的に「敗戦」したのですから、「敗戦」だと国内外に広く周知し、一部の日本軍の行なった残虐行為と、その裏にあった隠ぺい工作についても、自らの判断で史実認識として後世に周知することが、これからの希望につながるとしぇるりんは思います。

戦前は現人神扱いだった昭和天皇の弟である秩父宮殿下が、日本軍の蛮行に呆れて陸軍幹部を強烈に批判した結果、敗戦まで居所に幽閉されていたなど、戦前の史実は、必ずしも保守派の方々のお気持ちを逆なでするものだけではありません。

反省を「すみません」「ご迷惑をおかけしました」で終わらせようとするなら、確かに「自虐的で空疎なお辞儀の繰り返し」にしかなりません。

自分の中にある日本文化の負の側面を深く自覚し、同じ愚を繰り返さないための真摯な誠意ある行動の実践に結びつけてこそ、明日への希望ある「お詫び」となるのです。

従軍慰安婦問題、南京大虐殺問題などにおいてもそうですが、21世紀を生きる多くの日本人には既に深くこだわりを持てない「敗戦のみじめさ」から来る、加害者独特の被害者意識から脱却し、同じ愚を繰り返さぬ明日を求めることが、戦後レジームから立ち上がるための真の道です。

先日、スーパーで小3~4の女の子の前をカートを押して通ったら、突然「すみません」と言われました。私と彼女がぶつかったわけでなく、私は30CM以上離れて彼女の前を通っただけです。

たまたま彼女は私と目が合ったと感じて、他に言うコトバが思いつかずに「すみません」と言ったようです。とっさに「あっ、すいません」と返答しながら、「何が『すみません』だったのだろう?」と考えてしまいました。お互いに「済まないこと」なんて、何も起きていなかったのです。


これは、とても深刻な戦後レジームの日本病です。「こんにちは」とか、「いいお天気ですね」の方が少なくとも声をかけられた方も何か受け答えができます。

ですが、「すみません」では「すみません」以上の受け答えができないのです。

これは、「相手の気持ちを逆なでするのが怖い。口論になるずっと前に、相手との対話の可能性を制限しておくか、対話不可能なほど距離を置かないと危険だ」という「不穏な空気感」が日本全体に漂っている傍証ではないかと、しぇるりんは思い悩みます。彼女が不穏な空気感に左右されるには、まだ幼すぎる少女だったからです。

挨拶、ちょっとした対話や声かけすらしづらい「不穏な空気感」があります。その一方で「困った方にやさしい声かけを」というポスターを駅構内などでよく見かけます。

そんな同調圧の中で作られる「ニッポン・マニュアル」通りの礼儀正しさばかりが求められる時、ひとと人との距離感はどんどん広がって行き、互いに孤立してしまい、行き過ぎた分断統治が人々を孤立崩壊させ、ひいては日本社会を消滅させてしまう恐れがあります。

昨今の憲法改正論議もそうですが、一部の人々には戦後レジームからの脱却には、終戦から「敗退、残虐、腐敗、隠ぺい」を概念上「除去する」ことが必要だという、幼児のような高慢さを復古したいという悪意が利権、利益追及の裏側に透かし見えます。

戦前の異文化に対する理由なき敵意の負の側面は、残虐な悪意となり、戦場での蛮行に結びつきました。

21世紀には、異文化や他者に対する国内での理由なき敵意の負の連鎖が精神疾患や自殺、いじめの急増に結びついています。

カタチある圧力や暴力なのか、無形の圧力や暴力なのかに関係なく、日本人が自分たちの仲間を差別し、追い込んで、自滅しようとしていることは同じです。

このような自暴自棄な態度を「有終の美学」と結びつけて考えるのは大いなるあやまちです。

「終戦」を脱却し「敗戦」を心から認め、加害行為が被害と同じく、こころと魂に深い痛みを伴うことを深くこの国の文化に刻んだ上でなお、平和を世界に発信できるなら、「ニッポン素晴らしい」とやたら自画自賛せずとも、自ずと世界が日本の発信する平和を認めるでしょう。

何やら、歴史と政治の話ばかりになってしまいました。私たちカトリック信徒の真の使命は、主キリストが教えてくださる平和を、主イエスと共に日々の生活の中で自分の十字架を担い、精一杯生き抜くことにあるのです。

 


私たちはキリスト者として、主キリストが教えてくださった平和をいつか全人類と分かち合えるよう、祈り続けましょう。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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