フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • ブログランキング


    人気ブログランキングへ
  • 日本ブログ村

« 戦後レジームとカトリック:信教の自由を得た日本の教会 | トップページ | カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:クリスチャンにも恋もあやまちもある »

2017年7月14日 (金)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:愛、性愛、恋愛

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

2017年6月発行《神学ダイジェスト122号》の「特集 結婚・離婚・再婚」に関する論文集をもとに、平信徒の立場から、恋愛と性愛への平信徒目線での現実問題も含め、シリーズで書き綴りたいと思います。

今日のテーマは、「愛、性愛、恋愛」の違いについてです。

戦国時代に「どちりいな・きりしたん(トリエント公会議当時のカトリックの教え)」を和訳する際、困ったのが「神は愛である」というフレーズの訳語です。

当時、すでに「愛=性愛、恋愛」という、大陸の漢文、漢字の意味と少しズレた概念が日本語に定着していました。


「愛」という漢字は「amore(愛、スペイン語、ポルトガル語)」の意味ではなく「エロース」の否定的な意味を表す可能性ありとのことで、苦心惨憺の結果「デウスのご大切」という訳語が当時、案出されたのです。

その後、「ヨーロッパ世界におけるラテン語に準ずる東アジア言語の共通語である漢字、漢文文化圏の本拠地は中国である。東アジア地域宣教のためには、中国に宣教拠点を置き、漢字・漢文をその成り立ちから詳細に解明しよう」と遠大な計画を数世紀の間、積み重ねました。中国、朝鮮半島、日本での宣教は、漢字、漢文への正確な理解なしには成り立たないと考えたのです。

日本では鎖国、禁教下にあった江戸時代に、カトリック宣教師らはラテン語、ギリシャ語の漢字・漢文翻訳への研究を中国大陸で続けていました。

その結果、「愛」の本来の意味が「かけがいのない大切なものへの愛」という意味を含むことが言語学的に確認されたため、「神の愛」という訳語が明治以降に近代日本語に登場したのです。

日本人が今でも誤解しているのは、「性愛」と人間的な意味での「崇高な愛」「純愛」がイコールでなくてはならない、という「曾根崎心中」「セカ中」的な思い込みです。

「愛」という情緒を通じ、あるがままの他者と真っ正面から向き合う前に、「何でも水に流そう」という衝動が先立ちやすい人が日本には多いせいかも知れません。

聖書の原典言語であり、キリスト教用語でもあるギリシャ語で「愛」を表現する単語には何と!四つあります。

⑴アガペー
άγάπη): 無私の愛、犠牲的な愛、無条件の愛を表す、神の愛は「アガペー」。キリスト者は無条件に人類を愛し、慈しんでくださる神の「アガペー」に日々の生活の中で応えるよう、招かれています。

⑵フィリア
(φιλία)友情、友愛、家族間などの親密さを表す「愛」です。人間的なつながりの中での無私の愛情、深く持続的な人情などもフィリアの範疇に入るでしょう。

⑶エロースέρως)ギリシャ的思想において、社会的な賞賛に値するもの(勝者、勇者、知恵ある者、賢い者、地位ある者、裕福な者)への「愛着」です。物質的、外貌、美貌などへの愛着も含むことから、性愛感情をも指します。


⑷ストルゲー(στοργή)親子の自然な愛情、愛着を意味します。時に親子間の憎悪や葛藤につながることがあっても、ギリシャ時代人にとって親子の愛情は「自然に湧き出るもの」だと考えられていました。
(ギリシャ語の「愛」については、HP「牧師の書斎」を参照いたしました。)

日本で特に誤解されやすいのか、「オレ(私)よりキリストさんが大切なのか‼︎」です。

アガペーの対象は、仏教で言えば真理や悟りへの探求、仏さまを求道する真摯さにも通じる「愛」なので、誰にせよ人間にだけ向けられる「何らかの感情」ではありません。

キリスト教は存在の哲学に基づくため、神に対するアガペーは決して抽象的なものではなく、ミサや祈りに初めは象徴的な行為として参加することから始まり、より実存としての神へ、そして今まさに私と共に臨在される神と共に生きる日々へと向かう傾向が見られるようです。

誰にせよ、自分以上に他の誰かを自分以上に大切にはできないし、自分自身以上に他の誰かを完全に管理支配出来るものではありません。

キリスト者にはその人なりの生から死に向う人生の中で「神の愛に応えるアガペー」へのその人なりの思い入れがあるのだな、と納得していただくことは重要だと思います。

昨今は、社会的な同調圧が強すぎるあまり、「人とひととの距離感」が計れない男女が増えていることが、性愛、恋愛、愛におけるギャップ問題の本質ではないでしょうか。

私たちは、オギャーと産まれた時、考えられる最善の環境で育てば、それなりに最善の「ストルゲー(親子間の愛情)」を肌身に感じながら育ちます。

成長過程で、父親や母親がそれぞれ「一人の人間であり、子どもたちの知らない人格や生活史がある」こと、父母であっても「我が子であっても、自分の所有物ではない」という個性への尊重がないと、ストルゲーは親子間の共依存状態で宙ぶらりんな幼い感情に留まる可能性があります。

また地域共同体の中での友人、知人、家族などとの親しい人間関係から「フィリア(友愛)」を体験して成長できれば、素晴らしいことでしょう。実際のところ、友愛よりも近隣憎悪の痛みに傷つくことも多いかと思います。

また、ヒーローやアイドルへの礼賛などから性愛感情の芽生え、「エロース(物理的、生理的、社会的賞賛と愛着」を空想(妄想?)、体験する人生が、近代社会では「ステレオタイプの人生」だと考えられています。

実在の身近な人への憧れとはまた違い、生活のウラの面を知ることなく、性愛感情だけが先行する傾向に拍車をかけがちなのです。アイドルがたまたまオナラしちゃった場面にファンは出くわすことなどあり得ないのが、アイドルのビジネスモデルだからです。

ただでも夢見がちな日本人の男性の多くは、女性に「性愛の対象」と「お母さん代り」を求めがちな傾向があります。


戦前のように「親や親族の決めた縁組に従い、『嫁ももらえない男』を卒業し、子孫を残すため」に結婚するという考えは、戦後、急速に廃れました。

その結果、「当時は周囲の人に急き立てられて、否応もなく嫁に行った母たち」が、「娘も女性として、一人の人間として生きて欲しい」と、昭和時代後半ぐらいから強く望むようになりました。

結果として、自らの人生を生きたい女性が増えました。

しぇるりんが何回かお見合いパーティーなどに参加して話した男性たちは「女性は本質的には『三歩下がって従って、自分に逆らわないで』欲しいけど、家事、育児、『大きな子ども』としてのパートナーの『子守』は精力的に出来る『お母さん』でいてね」という「ワガママ」を最初に条件として「突きつける」人が実に多いです。

正直、相手がクリスチャンであれ、そうでない人であれ、そこまで身勝手ばかり言う男性の話を、お金を貰って話相手になってくれる水商売などの女性ではない一般女性が聴かされたら「ドン引き」します。水商売でもなく、カウンセラーでもない女性は、何の見返りもなくタダで男性の身勝手をチヤホヤしたいと思わないからです。

もし恋愛を始めたければ、あなたが何歳のどんな境遇にある人であれ、「その時、まさにその瞬間」に出会うまでの人生について全く知らない赤の他人と親密になろうとする、という前提条件を受け入れねばなりません。

Photo そのため、恋愛は「フィリア(友愛)」のアプローチから入る大人の分別は必要だと思います。

一緒にお茶を飲んだり、お互いのことを話し、聴き、相手の気持ちを心に留め合う経験を「二人なりに」積みかさね、お互いに「もっと近しくなりたい」という合意に徐々に至れるなら、どれほど平凡に見えてもそれは「奇跡的な出会い」なのです。

「妄想的な性欲=性愛欲」だと勘違いしている男性が、昨今は増えました。


男性は好き嫌いに関係なく「性欲を食欲のように満たしたい」生理的欲求が女性より強いようです。しかし、「性欲の対象でも、その気になる、ならない」という気分に左右されやすい傾向も否めないと聴きます。

その点、女性は妊娠可能な時期には、妊娠、出産のリスクもあるため、たとえ「性欲=性愛欲」だと錯覚していても「食欲のように性欲を満たしたい」好き者は少数派です。

エロース(生理的、物理的、社会的な愛)の観点から考えると、「妊娠、出産、育児を支えられる男性、社会的弱者である女性への特別な愛情、相手の愛情からにじみ出る人間的な理解力」を求めるのは、女性にとってはごく自然な感情なのです。

男女間のエロースへの一般的な欲求の違いのほかに、相手が一人の人間として、個人として生きて来た道のりがあります。

「あっ、この人気に入った」と第六感で感じられるようになるには、愛、性愛、恋愛の入り混じった自分が異性とどのように、どのぐらい関わっていけるのか、への目処が自分の中である程度ついている必要があると思います。

「こっちは気に入って、せいぜい取り入っているのに、クリスチャン女性は恋愛感情を否定する」と考える男性が日本にはかなりいるようです。

実際のところ、お茶飲みして、一緒に食事をして、呑みに行っても一定の距離を置いて話すなど…相手が気楽に付き合える配慮をしているのかイマイチ疑問な男性も多いと感じます。

例えば、日曜日にクリスチャンの彼氏や彼女が朝から教会に行くというなら、呑みに誘うのは金曜の夜にするとか、土曜日なら少し早目に切り上げ、相手の生活を尊重する配慮をする思いやりを見せれば、相手にもその気持ちは通じるでしょう。

また、男女間の価値観の違いは大きな課題です。昭和時代には周囲に決められたお見合い結婚した男女が、率直にお互いの価値観の違いについて話し合える人が今より多かった印象を受けます。

むしろ21世紀になってから、「お茶飲みませんか」と言い出す前に「あの人はクリスチャンだから、自分への恋愛感情を否定しているのではないか」と相手に尋ねもせず、妙に妄想を巡らす人が増えた気がします。

その上、女性の立場から言うと、男性が自分の話に無条件に合わせてもらえないこと、女性にフラれるのを極端に恐れる「男性の幼稚化傾向」が昨今は加速化しているように見えます。

少なくとも10年以上、多くは数十年もの間、全く違う場所で、違う人生を送って来た人と親しくなろうとすれば、当然のことながら、仲良しこよしで波風立たず…は無理です。


しぇるりんが個人的にクリスチャンとして「この男、無理だし…」と思う典型例は、信仰心もなく、具体的に何も知らず、下手すると「何宗何派」かすら具体的に把握してもいない「自分のイエの宗教、男の思想信条を無条件に受け入れるのは、女として当たり前だ」を押し付けられるかどうかを試すひとです。

その場合、男性のイエの宗教の是非は問題ではありません。その男性の押し付けがましさ、相手の意見を聞き、対話をする度量のなさ、狭量さをハラスメントだと感じることが問題なのです。

その背景にはどうも、昨今の男性が孤立していて、幼い時から姉妹、親族女性、叔母、伯母、近所のオバちゃんたちとの付き合い経験が少ないことが影響しているようです。

21世紀には愛、性愛、恋愛はその全てにおいて、お互いに平等な人間であり、異性である誰かとの関係の中に私たちの日々の生活があります。

「一人じゃないって、ほんとにいいね」と自分も相手も思えるようになれる努力を二人で生涯し続けようねって思えるようになること。それは、思想信条を超えて大切なことだとしぇるりんは思うのです。

時は夏から秋へと向うこの時期。恋も愛も出会いも増える時期でしょう。


どうか、このブログをお読みになる皆さんに素晴らしい出会いがありますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





« 戦後レジームとカトリック:信教の自由を得た日本の教会 | トップページ | カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:クリスチャンにも恋もあやまちもある »

キリスト教エッセー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1671541/71118849

この記事へのトラックバック一覧です: カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:愛、性愛、恋愛:

« 戦後レジームとカトリック:信教の自由を得た日本の教会 | トップページ | カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:クリスチャンにも恋もあやまちもある »