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2017年7月 7日 (金)

戦後レジームとカトリック:キリスト教バッシングと「天の富」

そこへ律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は貫通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

…これを聞いた者は年長者から始まって、一人、また一人と立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

イエスは身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪をおかしてはならない。」(ヨハネによる福音書8:3~11)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今朝、家族と口論してしまいました。家族に「なぜ、与党政治家の○○はカトリック信徒なのに、あんなに悪いことばかりするのか。カトリック教会はそれでいいのか。」と言われたのです。

私は「カトリック信徒も、仏教徒や神道、イスラム教徒と同じく、善人も悪人もいる。あなたが一人の信徒の非道な行いについて、カトリック教会全体や、キリスト教全体に責任を問うのは、お門違いもはなはだしい。一人の悪行によって全体に責任を問うあなたの考え方の根底にあるのは、あなたの中に潜むキリスト教への差別感情である。個別に言えば、仏教徒にも神道にも悪人はいくらでもいる。なぜ、それらの宗教団体や組織、教え全体の責任は問わず、キリスト教にだけ問うのか。」と言い返したわけです。

我が家ではこの論争を数十年間、数限りなく繰り返しているため、家族間で対立するところまでは行きません。

現実問題として、家族や近隣、知人友人の間でこのようなキリスト教差別に悩まされている方は、平信徒にも多いと思います。

↓乙女峠のマリア聖堂にある聖母像。聖母と向き合うのは浦上四番崩れで捕らえられ、三尺牢に閉じ込められた安太郎。(島根県津和野町観光協会HPよりお借りしました。)

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ネット世界を見れば、未だに何ら根拠もない「イエズス会の陰謀説」を延々と書き綴る人がいます。真面目な仏教徒で未だ真面目なキリスト者に日常生活の中で出会ったことのない人が、それを「ああ、そうだったんだ。自分のキリスト教への違和感には、こんな根拠があったのだ」と勝手に思い込んで書き込みをしてあるのも見かけます。

日本のキリスト者の総数は、総人口の0.7%。150人に一人ぐらいの割合です。その中で毎週ミサに通う平信徒の割合を10%とすれば、真摯なキリスト者は、1500人に一人ぐらいです。

1500人に一人の誰かと出会い、その人柄に触れ合うのは、宝くじで10万円以上当たる確率より低いかもしれません。そのため、いつまで経っても一般的な日本人のキリスト教に対する誤解が解けない状態が、今も続いています。

一方で、キリスト者というと真面目で誠実ということで、医療、会計などの分野では評価が高いことも多いようです。都市部では医療、経理などのお仕事の方が、カトリック信徒に多い傾向が昭和時代からありました。

一方で社会的な偏見の強さから、自らカトリック信徒であること、キリスト者であることをカミングアウトできない信徒も大勢いるかと思います。

日本は同調圧の強い社会であり、同調圧を強化する政策を「粛々と」すすめる勢力も確実に存在するからです。

私が思うに、自称「無神論(実は宗教について知らない、特定の宗教への帰属意識が希薄)」な人々は、あなたや誰かに自分は無知だと思われるのがイヤなのだと思います。

「何らかの宗教の信者であること=日本式の無神論者でない人」と関わりがあると思われると、自分まで「何らかの誤解」を受けそうな気が「何となくする」のかも知れません。

また、現実に日本ではこちらの新宗教、あちらの新宗教と「宗教のはしご」、および「家の宗教との掛け持ち」を主に政治・経済的な背景から奨励しています。

一方で、日本では法的に優遇されていながらも宗教法人としての財源確保に苦慮している主に中小の神社仏閣などが「信仰としての宗教」として十分に機能しておらず、遷宮、修理に土地などの資産の切り売りを余儀なくされている現実があります。世俗の世渡り術である駐車場、貸地、マンション経営などの余剰収益から宗教法人の経営費用を捻出できるのは、限られた一部の寺社さんだけです。

そのため、キリスト教への転向であれ、他のどのような理由であれ、離檀や離宗の現実を受け入れたくない気持ちが頑なな言動に通じてしまい、「信仰心のないのは転向者だけではないと何となく知っているけど、神仏と掛け持ちNGの宗教は受け入れられない」と言う、一種の無力感に近い絶望にも似た空気感が神仏側にもあるようです。

結果として「宗教の掛け持ちは、経済的負担、祭りなどの活動参加への心身への負担がさらに大きくなるだけで、心の安らぎや癒し、対人関係の改善には役に立たない」などの理由で、バブル以降の景気停滞の中で平成時代に入り、神社仏閣の檀信徒さんが近隣の神社仏閣を煙たがったり、何らかの理由で内部批判する傾向も顕著になって来ました。

そんな中でさらに「宗教=お金がかかって、面倒臭い」という、「宗教」に対するマイナスイメージだけが社会に広まりました。

そのため、日本の多くの人は宗教が何のためにあるか自分も考えない、他人にも考えさせないよう、努めているかのようです。

そのせいでしょうか。たとえその場限りであれ、キリスト教への信仰を持つ人への敬意を示さなければ、相手がいつかキリスト教から離れたり、信仰が変わったりするだろう…という実に根拠なき思い込みにすがっているわけです。

これが、一人の人間の長所、短所の話だったとしましょう。


例えば、しぇるりんはちょっとせっかちな短所があります。これを「他人が望む時にだけ落ち着いて、できればおっとりしていて欲しいが、他人に都合のいい時だけ急げる人に治したい」と言われたら、あなたなら、何と言いますか。

私なら「そんな身勝手なことは言わないください!あなたはわたしの人生の支配者ですか?」と言い返すでしょう。

せっかちなくせに忘れ物をした時には、しぇるりんだって十分に自分のせっかちを悔いています。それでも、自分以外の他者の要求に合わせたフリは出来ても、しぇるりんの長所でもある決断力の速さ、鋭さにもつながる特性なので、一概に「せっかちだけ治して!」と言われても困ります。

どのような思い、行いであれ、主キリストへの従順に反することでないのに、誰か人間の要求に従って無理やり自分を捻じ曲げようとするなら、ストレスが溜まるだけでしょう。無理をすれば自分が苦しむだけで、相手の要求は更に増える負の連鎖に陥るでしょう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出しもする。富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイによる福音書6:19~21)


主キリストが招いてくださる信仰、希望、愛、いつくしみへの内なる信頼を、一人の人の心から盗み出すことはこの世の誰にも出来ません。

わたしたちキリスト者の心がキリストのもとにあり、自分の十字架を担ってなお天のみ国にあれば、わたしたちもほんのわずかづつでも天の富を積むことが出来るでしょう。

子どもの頃しぇるりんは、聖書にある「天の富」は死んでイエスさまのおられる天国に行かないと受け取れない定期預金のようなものだと、思っていました。当時は「子ども貯金運動」が盛んだったのです。

そのため、「小学校低学年の今からイエスさまに祈って天の富を積んでおけば、死んだ後で、もっと大人になってからイエスさまに出会った人よりずっと元金も増えるし、利子がたくさんつくだろう」などと、子どもらしい?空想をしていました。当時は、永年の低金利・マイナス金利時代の今と違い、銀行の預貯金利率も高かったのです。

いま考えると、我が事ながらプッと吹き出しそうです。

天の富とは、冒頭の聖句にあるように「人を裁かない。人を罪に定めない。自分自身もまた裁かない。主キリストのゆるしのうちに、悔い改め、回心する」生活の真っ只中で、日々いただいているこの信仰の糧だと、このトシになってやっと実感できるようになりました。ありがたいことです。


周囲の人々と葛藤があるのは、避けようのない現実です。そして、カトリック教会も一人ひとりのカトリック信徒もまた、避けようのない日々の生活の中に置かれています。

わたしたちもまた、主日のミサや礼拝に訪れた時だけのパートタイム・クリスチャンではなく、仕事や生活の中で極端な摩擦を起こさないよう周囲に配慮しつつも、24時間、365日いつもキリスト者であると自他ともにあらわせるよう、日々、努めましょう。


あやまちも、罪もない人など、誰もいません。弱さがない人もいません。それでも、カトリック信徒として、天の富を日々受け、日々回心し、天に富を積みながら過ごせるよう、すべての民の御母である聖マリアの取り次ぎを求めて祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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