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2017年6月30日 (金)

戦後レジームとカトリック:神さまはおっかないの?

主よ、怒ってわたしを責めないでください。

憤って、懲らしめないでください。

あなたの矢はわたしを射抜き、

御手はわたしを押さえつけています。

わたしの肉にはまともなところもありません。

 あなたが激しく憤られたからです。

骨にも安らぎがありません。

 わたしが過ちを犯したからです。

わたしの罪悪は頭を超えるほどになり、

 耐え難い重荷になっています。

(詩篇38:2~5)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんは発達障害者なのですが、幼少時にはいわゆる「疳の虫」が強い子だったと親には思われていたようです。


両親がしぇるりんに「日本の神さまはともかくおっかないものだ」と教えるために、「おっかないぞ、おっかないぞ」と言うのを文字通りに理解して「そんな怖い神さまなんか嫌いだ。」とパニックを起こして何回も泣いたことがありました。

また、父親に「お前は本当は橋の下から拾ってきた子なんだぞ」と言われて、私の両親への愛着を拒絶されたと信じ、泣きまくったこともあります。父親にしてみれば仏教的な意味合いで、「縁あって家族になったことに感謝して生きよう」を遠回し、かつ伝統的な言い回しで伝えようとしただけだったらしいと、三十路を過ぎてから気づきました。

おかげで「ともかくおっかない、怖~い神さま」みたいな脅し口調で神さまを語る人は、未だに苦手です。

先日、テレビ番組で東京都の孤島、青ヶ島が紹介されていました。島の神社前で取材クルーに「(ご祭神は)どんな神さまなんですか」と尋ねられた島民が「ともかくおっかねえ、怖~い神さまなんだ。すごいおっかねえんだよ」と言っていたのは、日本の神社神道における祟り神信仰の民間の裾野の広さをよく表していると感じました。

その点、キリスト教の神さまは、愛、のぞみ、平和に満ちた神さまです。するとつい、「じゃあ、恐ろしい神さまより、優しそうでいいじゃない!」と誤解する人が必ず現れます。

でも、人類のために十字架を担われ、福音宣教と殉教の旅路へと弟子たちを招いたイエズスさまと共に歩む道が、ラクチン街道なわけはないのです。

冒頭のかなり重苦しい詩篇は、「讃歌、ダビデの詩、記念」と題されています。この讃歌は、「旧約聖書時代、イエス・キリストが来られる前の恐ろしい神」を淡々と言葉で描写し、ひとと自分の罪深さへの嘆きから、一転して神への信頼と賛美のうたへと昇華していくのです。

↓神のいつくしみのご絵を囲む聖ヨハネパウロ二世と聖ファウスチナ

20160919_tobe

やはり、イエスさまが来られ、父なる神と人類との和解のいけにえとして自らを捧げられるまでは、語り方の違い、コトバによる描写が丁寧か、ジェスチャーや顔つきで伝えようとするのかの違いはあっても、「怒りの神」と「おっかない神さま」には何らかの共通点がありそうです。

違いがあるとすれば、神さまをはるか彼方におられて、「いま、ここにいるわたし」とある種の距離感を感じたままいるのか、「愛といつくしみにおいて、いつもわたしの心の扉を叩いておられる神」だと信じられるのか、でしょう。

恐怖、畏怖、敬意が敬愛の念と入り混じった未熟な感情のまま、情緒的にのみ個性が成熟し、限られた狭い環境で生きるなら「おっかない神さま」でも深刻な問題は引き起こさないかも知れません。

しかし、コトバで自らを知り、分析し、表現する理性を知り、コトバのキャッチボールを国内外的に行うようになった21世紀の日本では、「おっかないだけの神さま」をどうしたらいいか分からなくなっているようです。

かといって、ご利益信仰だけを求められても困るのは、神道、仏教だけではなく、キリスト教も同じこと。

冒頭の詩篇は、ダビデの父なる神への切なる祈りの最後に「主よ、わたしを見捨てないでください。

 わたしの神よ、遠く離れないでください。

 わたしの救い、わたしの主よ、

 すぐにわたしを助けてください。」(詩篇38:22~23)

という主への信頼に委ねる祈りへと昇華します。

ダビデ王自身も、時に主の言葉を取り次ぐ預言者であり、国家の王でもあり、人妻を得るためにその夫を殺してしまった罪人でもありました。また、主にあやまちを告白し、赦しを乞い願い、赦しを得た人でもありました。

決して聖なるだけの預言者とは言いがたいダビデに、旧約聖書で最も美しい詩篇の讃歌が捧げられたのは、ダビデが恐ろしい神、あわれみと慈しみにあふれる神、世俗と神のみ言葉、自分の罪深い弱さと神の怒りとゆるしのあいだにあったという自覚があったからこそ、主なる神への信頼と讃美の歌をたましいに刻み続けようと真摯であったからではないでしょうか。

日本の明治維新政府は、各地の名もなく、由来も不明な神社に様々な祭神の名前をつけ、地域に根付いた信仰を無理やり序列化することで、「日本」という国を作り上げようとしました。

その過程で、その地域の人々が「自分たちは本当はどんな神さまを求めてきたんだろう?」と地域文化を見直す歳月が与えられないまま、祭りなどの形式だけが画一化していきました。

結果として、「どうして、神さまはおっかないと感じていたのか?」と言う疑問に対する動機や理由づけを見失うことで、地域文化を自分たちの手で次の時代に継承する能力を失ってしまったようにも見えます。

戦後レジームの傷跡は、わたしたちの魂の奥にも潜んでいます。少なくとも戦前までは「漠然と先人」だと考えられていた「御先祖さま」が、「祖父母など面識のある亡くなった死者」のうち「愛着や憎悪など、何らかの感情的なつながりのある人間」に限定されるようになりました。

おっかない神さま、御先祖さま、山の神も海の神も何となく「ゲームキャラっぽい」イメージで見てしまいがちな人々の中から、真理であり、「おてんとさま」的なものへの畏敬心が完全に失われようとしています。

真理への素朴な畏敬心、畏怖心の喪失は、生けとし活けるもののいのちの大切さへの信頼を著しく損なうという点から鑑みると、日本の戦後レジーム最大の無形文化の喪失と言えましょう。

「おてんとさんはみんな見ている」という感覚がなくなり、まるで科学や技術が宗教に変わる「打ち出の小槌」であるかのように喧伝されている21世紀の日本において、私たちは何を求めたらいいのでしょうか。

伝説や物語の中の「打ち出の小槌」は、心清らかな人が賢く、人々の幸せと善き行ないのために使わないと、使う人にバチが当たるというストーリーも多いようです。

人間が科学や技術だけを頼りに、ある種の万能感に溺れるのではなく、原発事故などから得た現実に科学、医学や技術の限界を教訓として受け入れ、先人の教えに立ち返り、真理の知恵をそれぞれに可能な方法で求めるべき時が来たのではないでしょうか。

わたしたちカトリック者は、「カトリックの教え」という骨組みに日本的な霊性、そして第二バチカン公会議以降の改革と刷新の時代に生きています。

人間的な恐怖心から神さまを敬遠するなら、父なる神さまも乾いた砂漠の砂のように無情で、恐ろしい側面しか見えないのかも知れません。

しかし、愛する子がパンを乞い願う時、石を与えられることは決してないという強い信仰で祈り、願うなら、愛と慈しみのパンを豊かに揺り入れてくださるでしょう。


主の愛といつくしみに全てを委ねきることで、わたしたちはそれぞれに、主に向かって回心する道を見出すのです。

日曜日には、どうぞお近くのカトリック教会のミサにおいでください。イエスさまがあなたを待っておられます。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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