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« 戦前「教会秘話」:戦後レジームと21世紀のわたしたち | トップページ | 戦後レジームとカトリック:神さまはおっかないの? »

2017年6月27日 (火)

戦後レジームとカトリック:「ゆるし」と「いやし」

あなたは、兄弟の目の前にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』とどうして言えるのだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑も取り除くことができる。(ルカによる福音書6:41~42)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

南京大虐殺、従軍慰安婦問題、沖縄上陸戦など、「歴史修正主義か、そうじゃないか」で世論は二分しているように見えます。

ドイツではナチス統治時代、日本とは比較にならない規模の残虐な行為が行われました。ナチス支配崩壊後にあやまちを認め、自他ともにゆるしを乞うことは「ドイツのプライドを傷つける」と大っぴらに主張するドイツ人は少数派です。

↓前橋の空襲で先頭が破損した前橋カトリック教会(ツトムさん家の写真日記HPより拝借)

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何十年もの歳月をかけて、被害者の名誉回復と加害者の刑事罰に務めることが、ドイツ人にとっては誇らしい行為なのです。

先の大戦でよく似た戦時の経過を辿った両国の戦後に、なぜ、こんなにも違いがあるのでしょうか。

今日は日本人にとっての「ゆるし」と「いやし」の概念を、キリスト者はどう受け止め、どう考えるか、について考えて見たいとおもいます。

江戸時代まで実際に法制度として存在した「仇討ち、かたき討ち」の習慣にも見られるように、日本人は「相手の存在を許さないこと」が、被害者が救済を受けるための条件としていました。

つまり、何らかの事情で正当な理由や罪なくして非業の死を迎えざるを得なかった被害者やその家族の名誉回復には、その死の原因となった人を殺す「報復」が条件、とされていたのです。

歌舞伎「忠臣蔵」のストーリーなどはその典型と言えましょう。

このような既存の「ゆるし」の考え方を、歴史的観点から従軍慰安婦問題や南京大虐殺、沖縄戦などの甚大な民間人被害などに厳格に当てはめると、「当時の加害者やその子孫は、存在することがゆるされない」という「象徴的な殺人」が日本社会全体で未来永劫行われ続けなければならない、という極論に行き着いてしまいます。

結果として歴史修正主義の支持者らは、「永遠に謝罪し続けるわけにはいかない」と考え、「歴史の方を自分たちに都合よく修正すればいい」と考えているようです。

一方、キリスト者にとって「ゆるし」とは、もともと罪ある人(原罪のある人)が、極端なあやまちを犯したことへのゆるしを主イエス・キリストを通じて乞い願うことです。

加害者や被害者の心身の苦しみに寄り添うべく最善を尽くし、被害者の名誉回復に務めることが、加害者の「ゆるし」です。

キリストの十字架と共にあってなお忍耐強く生き延びた人々の労苦や忍耐、勇気を心から讃えると同時に、そのような被害が二度と発生しないよう、根本的に社会や政治、文化などの活動を具体的に改めんとする努力の行為そのものが罪のゆるしに至るプロセスであり、加害者へのゆるしそのものだと考えます。

また、被害者も自らの心身の苦しみを主イエス・キリストの愛といつくしみに委ねることで、主キリストの救いを信じ、困難の日には十字架を担われた主なる神の御子を想うことで、加害者へのゆるしと共に、少しずつ癒されていきます。

加害者と被害者のそれぞれの努力が、キリストの愛といつくしみにおける対話、相互理解と和解につながることこそが、キリスト者にとっての「ゆるし」と「いやし」の真骨頂であると言えましょう。

先の敗戦直後、1945年8月16日のおそらく朝ミサでに朝鮮半島で日鮮両国の信徒に向かい「日本の植民地支配と戦争はあやまちでした。一人の日本人としておわびします」と最初におっしゃられたのは、大邱(テグ)教区の早坂教区長だったと伝えられています。

この一言は、満州、中国から朝鮮半島へ南下避難した大勢の日本人避難民の李承晩(イスンマン)大統領統治下の朝鮮半島への入国、一時滞在許可へとつなり、大勢の日本人の命を助けた力ある「謝罪」だったと、韓国でさんざ聞かされました。

日本人は、「すみません」「ごめんなさい」と何もなくともやたらお詫びの言葉を口にします。また、社会的に不祥事などを起こせば専門の「謝罪指導員」を呼んで入念に練習した「謝罪会見」などを行う、世界的には奇異な行動が日本では見られます。

日本人がやたら口にする「すみません」「ごめんなさい」は、「済まないと言ったんだから、私にこれ以上関わらないでください」という意思表示のように聴こえます。実際、誰かが「すみません」「ごめんなさい」というと、それ以上の対話も相手への理解もストップしてしまう体験には、皆さんも思い当たると思います。

加害者にせよ、被害者にせよ、それぞれの心身の痛み、苦しみ、PTSDを抱えて生きるのは辛いことです。相手を責め、苛み、とがめたくなる気持ちはよく分かります。

それでも、生きる時間を与えられた人は、加害行為を行ったにせよ、被害を受けたにせよ、その両方の立場にあったにせよ、「相手の存在を認めるゆるし」を目指せないなら、終わりなき報復の応酬で互いに疲れ果て、加害者も被害者も共に自滅してしまうでしょう。

テレビドラマのサスペンスのストーリーに「被害者が加害者に報復殺人を行った結果、加害者も被害者も警察に逮捕され、または応分の社会的報復を受ける。法の裁きを求めるのが最善だ」というのが日本では多いようです。

これは未だに日本人は「被害者は仇討ちしないと名誉回復できない。加害者が社会的居場所を失う『象徴的、または社会的な死』が必須」と考える人が日本には多いからではないでしょうか。

被害者の名誉回復、弱者や少数派の基本的人権保護は日本社会全体の課題です。衣食住が必要なのはもちろんですが、社会に居場所があることは人間らしく生きるために必須です。

同時に、加害者もまた衣食住や社会における居場所が必要です。加害者の加害PTSDは、被害者のPTSDより深刻である場合もあるでしょう。

被害者は「自分は悪くない」と神と人の前で胸張って言えるでしょう。その上で心から相手をゆるすよう努力する。そのプロセスで怒りや憤りは言葉にして、外に発散してしまう必要があるでしょう。

その点、加害者は確かに悪を行い、多くの人の人生を狂わせ、死に追いやることすら辞さなかったのです。それに気づいてしまったら、その辛さ、心の痛みは計り知れないものがあると思います。心の痛みを負い、与えられたいのちを最後まで生き抜くことが、加害者の「ゆるし」でしょう。


冒頭の歴史問題を考えるにあたり、私たちが日本人として加害の事実を認め、謝罪することが、アジア地域での対話、理解、和解につながらず、お互いに自国の利益や権益の主張につなげていることが真の痛恨事です。

領土、領海問題など、複雑な政治外交課題について、一民間人である私には何とも申せませんが、「謝罪」が「ゆるし」につながり、対話、和解への具体的な明日を見据えた行動の動機となるよう最善を尽くすことが、長期的な視野で見れば、経済政治的にも最も効率的なリスク・マネージメントになるとしぇるりんは思うのです。

キリストの愛といつくしみへの幼子のような信頼から生まれる心からのゆるしは、どれほど深い心の痛手であっても癒す力があります。ただ単に、苦しみを取り除いてくれるだけではなく、誰かにキリストの愛といつくしみを伝える原動力すら溢れるほど豊かに与えてくださるのです。

いつゆるしますか。今でしょう。

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも罪人だときめられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺り入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカによる福音書6:37~38)

七の七倍までゆるしても、心の痛み、苦しみが完全に癒されることはありません。ゆるして、ゆるして、なお十字架を担って歩くとき、心からわたし達の救いのために十字架を担って歩かれたキリストがすぐとなりにおられることに気づくのかも知れません。

 

全ての日本人のこころに、愛とゆるしの聖霊の導きが豊かにありますよう、聖ヨセフの執り成しを求めて祈ります、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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