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2017年7月21日 (金)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:「オイコノミア」について

ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。

…しかし、信者でない相手が離れて行くなら、去るにまかせなさい。夫であろうと、妻であろうと、結婚に縛られてはいけません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。(コリントの信徒への第一の手紙7:12b~13、15)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今回は、前回のブログで予告した「オイコノミア」についてです。

よくギリシャ語の「家政、家庭経済」の意味で論じられるせいか、ネットで探すと金融学だのミクロ経済学だののジャンルがヒットするようですが、ここで問題になるのは神学用語としての「オイコノミア」です。

冒頭の聖句にある使徒パウロのコリントの信徒への手紙に書かれたみ言葉は、「使徒パウロの特権」と呼ばれる「カトリック教会の教え」で離婚に関して語った数少ない《新約聖書》の記述です。

これは、「オイコノミア」というギリシャ語の神学用語と関連する聖書の記述とされている部分でもあります。

《神学ダイジェストNo.122》の<結婚の不解消性の教えー真理と憐れみー>の著者、ヘスス・マルティネス・ゴルド師の論文注釈⑷によれば、「教父が三位一体を表現するために用いた言葉で、広くは御子(イエス・キリスト)の受肉と死と復活を通して実現された救いの営みを意味する。しかし古代教会ではそれ以外に『目的に合わせた巧妙な手段の利用』『特別な状況に応じた譲歩』という意味でも用いられた。東方教会では、『特例を考慮して教会法の規則を緩和して適用する措置』を指す言葉として、現在も使われている」とあります。

カトリック信徒にとって「カトリック教会の教え」や「ローマ教会法」に基づく信仰や価値観は、特定の文化や人間的状況、歴史的に移り変わる社会規範、社会道徳や世俗的な善悪などに拘束されるものではありません。

結婚に関してはゴルド師の論文にある通り、「結婚の不解消性の究極的な基盤は、神の受肉(三位一体の神秘の実現)である」です。

これを《聖書》のみことば通りに頑なに捉えてしまうと、独身者同士の自由恋愛は全て「姦淫」であり、離婚者や死別者と離婚者、死別者、独身者間の恋愛は「姦通」だと思い込みがちです。

しかし、《旧約聖書・新約聖書》のみ言葉とて書かれた時代の申し子ですから、時代的考証を忘れてはなりません。

新約聖書の時代に、男女平等なんてものは存在しませんでした。

男尊女卑も身分差別も奴隷制度も大いに「当たり前だった」時代に書かれた《聖書》を杓子定規に解釈してはいけませんよ、「三位一体の神の受肉の神秘がそれぞれの日々の生活の中で実現する」という「神のみ旨」を「現代の平和」の中で世の終わりまで求めつづけなさい、というのが「オイコノミア」という言葉の真意だとしぇるりんは思います。


司祭や修道者は「神さまと結婚」し、人間としては独身の誓願を立てた方々で、多くはその生涯で友達以上恋人未満の異性との交際体験もない方も多いのかも知れません。

そのせいか、理論的には男女の関わり合いについても色々と学んでおられるとは思いますが、実際のところ「離婚、死別したら、再婚しなけりゃいい」的な言い方をする方も未だいらっしゃいます。

すると、カトリック平信徒はずっと独身でいるか、一回以上はともかく結婚しちゃダメ、と思い込みで言い出す人がきっと現れるわけです。

冒頭の聖句にある「パウロの特権」に関しても、私に「カトリック教理」を教えてくださったシスターは「信徒でない男性が離婚を望んだ場合、離婚できる。しかし、再婚は信徒でない男性が洗礼と信仰を受け入れる場合のみ可能だ」と教えて下さったと記憶しています。

Matome_20141030011013_545111656e02 しかし、日本だけではなく、世界中で男女の実情はさまざまです。最初の配偶者と死別後に再婚する方がいるのはもちろんのこと、信徒同士で離婚後に再婚する事例もあります。

その全てにおいて大切なのは、その男女の結びつきが《創世記》にあるように、アダムとイブが神のみ旨と本人の意思により、神の愛、慈しみと憐れみによって結ばれたか、否か、だとしぇるりんは理解しています。

カトリック教会で昨今揉めているのは、「結婚の不解消性に関する教え」は、不可謬性がある(誤ちのない教えであり、誤謬があるとは考えられない要件を満たす)のか、「神の憐れみと慈しみにおいて個別の事例の中で個々に対応できる司牧指針を新たにもうけるべきなのか」です。

前者の立場だと、司祭の学識、信仰や教会法の知識の多い少ないで、異なる判定が出る恐れが減るような気がします。その分、それぞれの個人の置かれた状況はないがしろにされ、神の憐れみと慈しみの源である聖体拝領を再婚者に許すかどうかなどの、司牧的配慮の問題が置き去りになるでしょう。

後者の立場だと、司祭により判断のブレがより拡大する可能性が否めませんが、信徒のそれぞれの立場と状況に寄り添った対応は前者よりも期待できそうです。

「結婚の不解消性に関する教えに誤謬があるとは考えられない」と杓子定規に判断する保守的な一部の司祭と、「結婚の不解消性というコトバにこだわりすぎて、『神の愛に結ばれたつながり』とは到底呼べない冷えた関係となった末に離婚し、神と人への愛を新たに見出した再婚者らへの司牧的配慮に欠けているのは宜しくない」という教皇フランシスコの間には、ある種の違和感が存在するようです。

日本で問題になるのは、「何かあったら離縁すればいい」という日本の伝統的な結婚観と、キリスト教本来の結婚観との根本的で感覚的な違いです。

江戸時代の日本では、旅に出て商売をする人や遠隔地に出稼ぎに行く可能性のある職人、何らかの事情で生涯、添い遂げるには不安な相手に結婚を申し込まれたら、「祝言を挙げる前に、三行半(離縁状)を書いてくれ」と要求する女性が武家以下の身分では大勢いました。

江戸時代には、女性側から離縁を申し出るには原則として「指定の縁切り寺で離縁の条件を満たすと認められ、一年半~を縁切り寺で女性側の費用負担で過ごすこと」、というご法度(=現在の民法)があったのです。

つまり女性側から離縁を申し出るには、現代の貨幣価値に換算すると数年の海外留学費用ぐらいのお金が必要でした。


「縁切り寺の原則」は、現代のDVや家庭遺棄だけではなく、男性が事故や災害に遭い死亡したと思われるが遺体や死亡した証拠や証人が見つからない場合、何らかの事情で行方不明の場合、不倫逃亡、浮気先で別の所帯を持った場合でも適用されました。

つまり、実家がそこそこのお金持ちじゃないと、女性は浮気はバレなきゃいくらでもOKなルーズな時代であっても、法的に夫と離縁はできなかったわけです。

DV被害で女性やその子どもが半殺しの目に遭おうが、夫が津波などの災害で突然、旅先で若くして亡くなろうが、女性は三行半なしには離縁が認められず、「婚姻中」と見做されました。

そのため、良い再縁のチャンスがあっても、三行半なしに夫を失った女性には正式の再婚が原則ゆるされませんでした。

その点、結婚前に「三下り半」を夫となる人に書いてさえもらえば、女性が三下り半を役人に提示して、離縁してもらうことができました。つまり、「結婚=離縁する前提」が江戸時代には庶民の常識でした。

そんな江戸時代の法的不条理が、日本人の結婚とセックスの感覚をものすごくゆる~いものにしてしまいました。

そのため、日本人の結婚観は根底には今でも「付き合って、セックス楽しんで、上手くいかなきゃ別れりゃいい」という江戸時代の艶っぽい恋愛観を、明治時代以降に庶民に浸透した儒教的な「夫婦相和し」の原則に「キリスト教っぽい」デザインを施した包み紙につつんでいる感が否めません。

そんな自由恋愛への偏向した気分を更に自由奔放に解き放ってしまったのが、戦後の地域共同体の崩壊です。

戦前まではどんな恋愛のあやまちであれ、男女両方の親族共同体が、女性やその子に対してある種の責任を取るのが望ましいとされていました。

法的拘束と単婚小家族として家庭内での人間関係以外で、誰も他者からの干渉を受けない傾向が徐々に地方都市でも広まり、「社会的な体面を傷つけるか、傷つけないか」が当事者間の愛情、性愛への情熱、恋愛感情や相互理解より優先事項となってしまったのです。

今のところ、「カトリック教会での婚姻の不解消性の教え」が「宗教法上の離婚を認める」方へと方向転換することはないと思われます。その点は、カトリック信者でない方とカトリック信徒がお付き合いするに際して、心に留めていただきたいことです。

日本の皆さんにしぇるりんが言えることは、カトリック教会は独身の誓願を立てた司祭や修道者以外のカトリック平信徒や未信者の恋愛を認めていないということはない、ということです。

ただし、「カネがすべての世の中か」と疑いたくなるような時代だからこそ、パートナーとなる人の外貌や雰囲気ではなく、相手の人柄とじっくり付き合いたい、という気持ちが「ただ何となく」でも必要だと思います。

あとは、恋心です。カトリック信徒の立場でのキリスト教精神に基づく恋愛とは思想信条を問わず「結婚という苦労を負う行為をすることをいとわわないほどあなたの中で恋愛の情熱が強いなら、恋心を表現してもいいよね」って感じだとしぇるりんは思います。

「妻は夫が生きている間は夫と結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚して構いません」(コリントの信徒の第一の手紙7:39から抜粋)を現代風に読み直すと「何らかの事情で最初の結婚で努力の愛のたまものを見出すのに失敗した人でも、生きている間、日々の生活の中で誰かともに愛と尊敬の念を互いにいだいて苦楽を過ごす覚悟があるなら、恋を始めたいと願ってもいい」と読み換えられると思うのです。

ファーストラブであれ、セカンドラブであれ、恋愛から始めて結婚に至れば、経済的な責任、家族としての責任、子があれば両親としての責任、実父母、義父母や親族との関係や責任も伴います。一人から二人へと、二人から大勢へと生のフィールドが広がることが、孤立化、無縁化、お一人さま生活を脱却する糸ぐちになるでしょう。


次回は、カトリック教会法、民事の婚姻関連法の日本とキリスト教圏の違いと関わり合いについて書き下ろしたいと思います。

ルルドの聖母の執り成しを求めて祈ります。幸せな出会いを求める人々に、知恵と勇気と分別のたまものをお与えください、アーメン。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年7月18日 (火)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:クリスチャンにも恋もあやまちもある

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

クリスチャンだって人間だから、恋もあやまちもあります。


こと日本人のクリスチャンに恋やあやまちがあると言うと、「えっ、マジ?」と大げさに受け取られてしまいます。

例えば、恋愛、浮気、結婚、離婚、同棲などスキャンダルの大御所でもあるアメリカの歌手、マドンナも、本人が「他の宗教に転向した」とは言っていないので、今のところ、一応は洗礼を受けたカトリック信徒なのでしょう。

一般の信徒と彼女の違いは、マドンナには聖体拝領が出来る可能性が現状では限りなくゼロに近いことだけです。それでも、もし来たければ、彼女がミサにあずかり、聖書の朗読と説教を聞き、聖餐式で司祭の祝福を受けるのは彼女の自由なのです。

聖体拝領はカトリックの洗礼、初聖体を受けたカトリック信徒で、一年に1~2回のゆるしの秘跡を受けており、離婚、不倫中、場合によっては同棲中などの状態にない人、他の大罪(十戒に反する罪)にない人が受けられる、というカトリック教会の教会法があるからです。

日本社会で問題になるのは、カトリックのパートナー、または恋愛の相手がどれだけ信仰やカトリック教会という「居場所」に思い入れを持っているのかを、他の趣味活動、呑み会、女子会、職場での付き合いや職業上の守秘義務と同じようにパートナー(候補)の在り方として受け入れられるか、が問題のようです。

例えば、イタリア、スペイン、アイルランド、ポーランド、ラテンアメリカ諸国など、カトリック信徒が多数派の社会では、国民の殆どの方がカトリックの洗礼を受けている分、聖体拝領をしないのにミサに参加する方は大勢います。

↓正教会のイコン画
Detail_8975img10 日本の「お宮参り」感覚で、教会内の家族墓地に埋葬される権利を得るために「幼児洗礼」を受ける習慣の地域もあるので、初聖体(7~9歳ぐらいで一定のカトリックの教えを習った後に、初めてご聖体拝領する)すらしない家族もいます。

それでも、日本の初詣感覚でクリスマス、イースター、聖霊降臨などの「大祝日」にはカトリック教会を訪れる習慣の家族は未だ大勢います。

その分、聖体拝領への思い入れは個人によりさまざまです。


恋して何となく同棲した男女が、お互いの人間性を深く知るにつれ結婚を意識するようになり、結婚までの間、聖体拝領を受けるために同棲を一時解消することもあります。

何となく恋愛関係にあるというだけで、聖体拝領をしない方もいます。


不倫中、離婚係争中に別の相手と交際中であれば、聖体拝領はしません。例えば、明らかに離婚係争中でも、別の交際相手と一緒に教会のミサに与る人が実際にいるのが、カトリック信徒が多数派の国や地域の現状です。


また、聖体拝領をしない理由として、恋愛以外の理由もあります。

例えば、職場や悪友との付き合いの中で人に言えない不正などに関わった方、何か罪悪感を抱いた状態でいながら赦しの秘跡を受ける気になれない方、自分は聖体拝領を受けるに相応しくないと自分で考えている方など、色々な人がいます。

これらの国や地域では、ミサ参加者の1/2~1/3ぐらいしか聖体拝領しないので、聖体拝領をしても、しなくても目立ちません。

また、このような内面の問題について、守秘義務のある司祭が赦しの秘跡で告解を聴く以外で他人がやたらとやかく言い立てるのはむしろ、「クリスチャンらしからざる」問題行動と見なされます。

その点、日本だと毎週のように教会に来ているカトリック信徒がある時から急に聖体拝領をしないと、周囲の信徒や司祭に「あの人どうしたの?何かあったの?」という目で見られることもあるようです。

しぇるりんは、以前ある人と恋愛関係にあったので聖体拝領をしない方がいいのではないかと、主任司祭に相談したことがあります。

司祭の答えは「どこからどう見ても真面目な信徒さんが聖体拝領をしないと、却って妙な噂が立って教会に来づらくなる方が問題。独身者同士の恋愛であれば、特別な大罪と断定できるわけではないから、聖体拝領はした方がいい」と言われました。

日本のカトリック信徒はごく少数であり、聖体拝領の出来ない洗礼を受けた信徒は日本語ミサには殆どいません。

そのため、「キリスト教に全く理解してくれなさそうな未信者の異性と交際すると、結婚に至るかどうか分からないような恋愛がきっかけで聖体拝領が出来なくなり、ひいては長年通ったカトリック教会で居場所がなくなるのではないか」、と心配する男女のカトリック信徒もいるわけです。

これが、趣味の集いや同窓会、各種のファンクラブ活動だとしたら、どうでしょうか。「あなたが、アイドル○Xのファンクラブ活動を止めるなら付き合ってもいい」と言われたら、どうしますか。

アイドルやスポーツチームのファンクラブ活動、応援活動の場にだって、あなたなりにかけがいのない「居場所」があると思います。

カトリック信徒にとって、教会は一つの「居場所」でもあるのです。カトリック教会という「居場所」では「聖体拝領が出来る」という営みが「居やすさ、居づらさ」の判断基準になっているのです。

カトリック教会という「居場所」を失うことを、恋愛のために求める誰かが交際を求めるなら、一人の人間として真剣に考え込んでしまうのは仕方ないことだとしぇるりんは思います。

日本でだってクリスチャンに恋やあやまちがないわけでもなく、時に不倫沙汰に巻き込まれることもあれば、不倫沙汰を起こす人もいると思います。

ただ、日本のカトリック教会ではそのような方のほうが少数派なのも現実です。


ただでも日本国内ではごく少数派のカトリック信徒が、更に少数派の「あやまちあるクリスチャン」になれば、さらなる孤立に追い込まれる、ということを人間として思いやって欲しいなと思います。

思いやり、友愛の気持ちが持てない相手と、より個人的な付き合いである恋愛なんて始める気にはなれないのは、クリスチャンであるか、ノン・クリスチャンであるかとは別の次元の問題だと思います。

カトリック教会内で、男女の問題を論じる論壇の方々の多くが独身の神学者、司祭、修道者、宣教師などであり、平信徒の男女の在り方についての論議が抽象的、理論的なものになりがちなのは事実です。

そうであっても、平信徒は常にカトリック教会で「オイコノミア(寛容、神のあわれみの原則を家政に適用する考え方のこと)」と各自の信仰心に従って日々の営みを続けることで、聖なるカトリック教会全体の改革の礎となっています。

この次には、主に正教会で重視され、カトリック教会法でも必要に応じて求められている「オイコノミア(寛容、神のあわれみの原則を家政に適用する考え方のこと)」について、書き下ろしたいと思います。

みなさんに、よき出会いがありますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年7月14日 (金)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:愛、性愛、恋愛

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

2017年6月発行《神学ダイジェスト122号》の「特集 結婚・離婚・再婚」に関する論文集をもとに、平信徒の立場から、恋愛と性愛への平信徒目線での現実問題も含め、シリーズで書き綴りたいと思います。

今日のテーマは、「愛、性愛、恋愛」の違いについてです。

戦国時代に「どちりいな・きりしたん(トリエント公会議当時のカトリックの教え)」を和訳する際、困ったのが「神は愛である」というフレーズの訳語です。

当時、すでに「愛=性愛、恋愛」という、大陸の漢文、漢字の意味と少しズレた概念が日本語に定着していました。


「愛」という漢字は「amore(愛、スペイン語、ポルトガル語)」の意味ではなく「エロース」の否定的な意味を表す可能性ありとのことで、苦心惨憺の結果「デウスのご大切」という訳語が当時、案出されたのです。

その後、「ヨーロッパ世界におけるラテン語に準ずる東アジア言語の共通語である漢字、漢文文化圏の本拠地は中国である。東アジア地域宣教のためには、中国に宣教拠点を置き、漢字・漢文をその成り立ちから詳細に解明しよう」と遠大な計画を数世紀の間、積み重ねました。中国、朝鮮半島、日本での宣教は、漢字、漢文への正確な理解なしには成り立たないと考えたのです。

日本では鎖国、禁教下にあった江戸時代に、カトリック宣教師らはラテン語、ギリシャ語の漢字・漢文翻訳への研究を中国大陸で続けていました。

その結果、「愛」の本来の意味が「かけがいのない大切なものへの愛」という意味を含むことが言語学的に確認されたため、「神の愛」という訳語が明治以降に近代日本語に登場したのです。

日本人が今でも誤解しているのは、「性愛」と人間的な意味での「崇高な愛」「純愛」がイコールでなくてはならない、という「曾根崎心中」「セカ中」的な思い込みです。

「愛」という情緒を通じ、あるがままの他者と真っ正面から向き合う前に、「何でも水に流そう」という衝動が先立ちやすい人が日本には多いせいかも知れません。

聖書の原典言語であり、キリスト教用語でもあるギリシャ語で「愛」を表現する単語には何と!四つあります。

⑴アガペー
άγάπη): 無私の愛、犠牲的な愛、無条件の愛を表す、神の愛は「アガペー」。キリスト者は無条件に人類を愛し、慈しんでくださる神の「アガペー」に日々の生活の中で応えるよう、招かれています。

⑵フィリア
(φιλία)友情、友愛、家族間などの親密さを表す「愛」です。人間的なつながりの中での無私の愛情、深く持続的な人情などもフィリアの範疇に入るでしょう。

⑶エロースέρως)ギリシャ的思想において、社会的な賞賛に値するもの(勝者、勇者、知恵ある者、賢い者、地位ある者、裕福な者)への「愛着」です。物質的、外貌、美貌などへの愛着も含むことから、性愛感情をも指します。


⑷ストルゲー(στοργή)親子の自然な愛情、愛着を意味します。時に親子間の憎悪や葛藤につながることがあっても、ギリシャ時代人にとって親子の愛情は「自然に湧き出るもの」だと考えられていました。
(ギリシャ語の「愛」については、HP「牧師の書斎」を参照いたしました。)

日本で特に誤解されやすいのか、「オレ(私)よりキリストさんが大切なのか‼︎」です。

アガペーの対象は、仏教で言えば真理や悟りへの探求、仏さまを求道する真摯さにも通じる「愛」なので、誰にせよ人間にだけ向けられる「何らかの感情」ではありません。

キリスト教は存在の哲学に基づくため、神に対するアガペーは決して抽象的なものではなく、ミサや祈りに初めは象徴的な行為として参加することから始まり、より実存としての神へ、そして今まさに私と共に臨在される神と共に生きる日々へと向かう傾向が見られるようです。

誰にせよ、自分以上に他の誰かを自分以上に大切にはできないし、自分自身以上に他の誰かを完全に管理支配出来るものではありません。

キリスト者にはその人なりの生から死に向う人生の中で「神の愛に応えるアガペー」へのその人なりの思い入れがあるのだな、と納得していただくことは重要だと思います。

昨今は、社会的な同調圧が強すぎるあまり、「人とひととの距離感」が計れない男女が増えていることが、性愛、恋愛、愛におけるギャップ問題の本質ではないでしょうか。

私たちは、オギャーと産まれた時、考えられる最善の環境で育てば、それなりに最善の「ストルゲー(親子間の愛情)」を肌身に感じながら育ちます。

成長過程で、父親や母親がそれぞれ「一人の人間であり、子どもたちの知らない人格や生活史がある」こと、父母であっても「我が子であっても、自分の所有物ではない」という個性への尊重がないと、ストルゲーは親子間の共依存状態で宙ぶらりんな幼い感情に留まる可能性があります。

また地域共同体の中での友人、知人、家族などとの親しい人間関係から「フィリア(友愛)」を体験して成長できれば、素晴らしいことでしょう。実際のところ、友愛よりも近隣憎悪の痛みに傷つくことも多いかと思います。

また、ヒーローやアイドルへの礼賛などから性愛感情の芽生え、「エロース(物理的、生理的、社会的賞賛と愛着」を空想(妄想?)、体験する人生が、近代社会では「ステレオタイプの人生」だと考えられています。

実在の身近な人への憧れとはまた違い、生活のウラの面を知ることなく、性愛感情だけが先行する傾向に拍車をかけがちなのです。アイドルがたまたまオナラしちゃった場面にファンは出くわすことなどあり得ないのが、アイドルのビジネスモデルだからです。

ただでも夢見がちな日本人の男性の多くは、女性に「性愛の対象」と「お母さん代り」を求めがちな傾向があります。


戦前のように「親や親族の決めた縁組に従い、『嫁ももらえない男』を卒業し、子孫を残すため」に結婚するという考えは、戦後、急速に廃れました。

その結果、「当時は周囲の人に急き立てられて、否応もなく嫁に行った母たち」が、「娘も女性として、一人の人間として生きて欲しい」と、昭和時代後半ぐらいから強く望むようになりました。

結果として、自らの人生を生きたい女性が増えました。

しぇるりんが何回かお見合いパーティーなどに参加して話した男性たちは「女性は本質的には『三歩下がって従って、自分に逆らわないで』欲しいけど、家事、育児、『大きな子ども』としてのパートナーの『子守』は精力的に出来る『お母さん』でいてね」という「ワガママ」を最初に条件として「突きつける」人が実に多いです。

正直、相手がクリスチャンであれ、そうでない人であれ、そこまで身勝手ばかり言う男性の話を、お金を貰って話相手になってくれる水商売などの女性ではない一般女性が聴かされたら「ドン引き」します。水商売でもなく、カウンセラーでもない女性は、何の見返りもなくタダで男性の身勝手をチヤホヤしたいと思わないからです。

もし恋愛を始めたければ、あなたが何歳のどんな境遇にある人であれ、「その時、まさにその瞬間」に出会うまでの人生について全く知らない赤の他人と親密になろうとする、という前提条件を受け入れねばなりません。

Photo そのため、恋愛は「フィリア(友愛)」のアプローチから入る大人の分別は必要だと思います。

一緒にお茶を飲んだり、お互いのことを話し、聴き、相手の気持ちを心に留め合う経験を「二人なりに」積みかさね、お互いに「もっと近しくなりたい」という合意に徐々に至れるなら、どれほど平凡に見えてもそれは「奇跡的な出会い」なのです。

「妄想的な性欲=性愛欲」だと勘違いしている男性が、昨今は増えました。


男性は好き嫌いに関係なく「性欲を食欲のように満たしたい」生理的欲求が女性より強いようです。しかし、「性欲の対象でも、その気になる、ならない」という気分に左右されやすい傾向も否めないと聴きます。

その点、女性は妊娠可能な時期には、妊娠、出産のリスクもあるため、たとえ「性欲=性愛欲」だと錯覚していても「食欲のように性欲を満たしたい」好き者は少数派です。

エロース(生理的、物理的、社会的な愛)の観点から考えると、「妊娠、出産、育児を支えられる男性、社会的弱者である女性への特別な愛情、相手の愛情からにじみ出る人間的な理解力」を求めるのは、女性にとってはごく自然な感情なのです。

男女間のエロースへの一般的な欲求の違いのほかに、相手が一人の人間として、個人として生きて来た道のりがあります。

「あっ、この人気に入った」と第六感で感じられるようになるには、愛、性愛、恋愛の入り混じった自分が異性とどのように、どのぐらい関わっていけるのか、への目処が自分の中である程度ついている必要があると思います。

「こっちは気に入って、せいぜい取り入っているのに、クリスチャン女性は恋愛感情を否定する」と考える男性が日本にはかなりいるようです。

実際のところ、お茶飲みして、一緒に食事をして、呑みに行っても一定の距離を置いて話すなど…相手が気楽に付き合える配慮をしているのかイマイチ疑問な男性も多いと感じます。

例えば、日曜日にクリスチャンの彼氏や彼女が朝から教会に行くというなら、呑みに誘うのは金曜の夜にするとか、土曜日なら少し早目に切り上げ、相手の生活を尊重する配慮をする思いやりを見せれば、相手にもその気持ちは通じるでしょう。

また、男女間の価値観の違いは大きな課題です。昭和時代には周囲に決められたお見合い結婚した男女が、率直にお互いの価値観の違いについて話し合える人が今より多かった印象を受けます。

むしろ21世紀になってから、「お茶飲みませんか」と言い出す前に「あの人はクリスチャンだから、自分への恋愛感情を否定しているのではないか」と相手に尋ねもせず、妙に妄想を巡らす人が増えた気がします。

その上、女性の立場から言うと、男性が自分の話に無条件に合わせてもらえないこと、女性にフラれるのを極端に恐れる「男性の幼稚化傾向」が昨今は加速化しているように見えます。

少なくとも10年以上、多くは数十年もの間、全く違う場所で、違う人生を送って来た人と親しくなろうとすれば、当然のことながら、仲良しこよしで波風立たず…は無理です。


しぇるりんが個人的にクリスチャンとして「この男、無理だし…」と思う典型例は、信仰心もなく、具体的に何も知らず、下手すると「何宗何派」かすら具体的に把握してもいない「自分のイエの宗教、男の思想信条を無条件に受け入れるのは、女として当たり前だ」を押し付けられるかどうかを試すひとです。

その場合、男性のイエの宗教の是非は問題ではありません。その男性の押し付けがましさ、相手の意見を聞き、対話をする度量のなさ、狭量さをハラスメントだと感じることが問題なのです。

その背景にはどうも、昨今の男性が孤立していて、幼い時から姉妹、親族女性、叔母、伯母、近所のオバちゃんたちとの付き合い経験が少ないことが影響しているようです。

21世紀には愛、性愛、恋愛はその全てにおいて、お互いに平等な人間であり、異性である誰かとの関係の中に私たちの日々の生活があります。

「一人じゃないって、ほんとにいいね」と自分も相手も思えるようになれる努力を二人で生涯し続けようねって思えるようになること。それは、思想信条を超えて大切なことだとしぇるりんは思うのです。

時は夏から秋へと向うこの時期。恋も愛も出会いも増える時期でしょう。


どうか、このブログをお読みになる皆さんに素晴らしい出会いがありますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年7月11日 (火)

戦後レジームとカトリック:信教の自由を得た日本の教会

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう、教えています。(テトスへの手紙1:11~13)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

戦後~1980年代ぐらいまでの日本のカトリック、プロテスタント教会は内部的にも、「迫害、弾圧、殉教の十字架の血に染まった教会」という雰囲気を払拭しきれなかったところがありました。

三浦綾子氏の《塩狩峠》の主人公、永野信夫のように一途で真面目な人が「立派なクリスチャン」と言われ、遠藤周作氏の《沈黙》の主人公、キチジローのような「弱い裏切り者」は、熱心な信徒にも、裏切り行為をさせた弾圧者にもしいたげられ、蔑まれるという構図が、教会内にもありました。

また、戦前のカトリック宣教者も信徒も、未信者の協力者の方々も、「迫害、弾圧、殉教の十字架の血に耐えた人々」への思い入れがとても深かったと感じます。

特に、未信者や他の思想信条の方々が見るに見かねてカトリック教会や修道会の協力者として熱心に支援して下さったのも、戦前、終戦直後の日本の教会の特徴でした。

「沖に見ゆるはぱーぱの舟よ。丸にやの字の帆が見える」と七世代の間、宣教師の再来を伝承してきた隠れキリシタンらが、困難な時代と『旅』の受難を越え、ミサに与る自由、聖堂を建立する自由と一応の布教の自由を得ることだけで精一杯だったのが、日本の戦前の教会の現実でした。

そんなわずかな自由ですら、第二次世界大戦前後には制限され、ローマ教会とのつながりを断つように求められたのです。

戦後のカトリック教会、プロテスタント教会は、主にGHQと連合軍の後押しで息を吹き返しました。

支援物資であるララ物資が欲しい、英語や他の外国語を習いたい、手紙などを翻訳して欲しい、外国人の上司に認められたい…などの世俗的な理由で一時は「カトリックの教え」や「聖書の勉強会」なども、1950年代半ばぐらいまで流行ったようです。

その後、日本国憲法の発布、日本政府の樹立など、徐々に米国が日本政府の樹立を支援し、間接統治に移行する過程で、モノやコト欲しさの人々は教会から去って行きました。


1970年代になり、日米安全保障条約締結前後あたりから、再度、キリスト教に対する非難中傷が始まりました。

キリスト教徒に物申す方々の言い分は「キリスト教は日本文化に根付かない。日本人はキリスト教を理解する能力に欠ける」という事実無根の主張です。

日本は欧米のように「自国文化=キリスト教」である地域のように「ポッと生まれて、当たり前にクリスチャン」であり、社会、道徳、倫理、法や政治の規範そのものがクリスチャン向けに出来ている社会ではありません。

だからこそ、日本から秀でた神学者も輩出していますし、敬虔で熱心な信徒の比率も他の国に比べて高い気がします。

一人の平信徒として思うのは、他の国では「自国なりのカトリック信仰の在り方」が日本より明確な印象を受ける点です。

受難と殉教の数世紀を経て、1947年にやっと憲法上の信教の自由を得た日本のカトリック教会が目指して来たものは「殉教者たちの肉と血と痛みを、ご聖体、おん血と十字架として子々孫々、世の終わりまで継承し続けることでした。


あれから70年。未だに周囲の人々の主に無知から来る「口撃」「差別」は止みませんが、世界各地で起きているような不当拘束、または別件逮捕、身体的、心理的かつ屈辱的な拷問、不当に処罰、または公開処刑されるような危険は、今の日本のカトリック教会にはありません。

朝ごと、日ごとに司祭はミサを立てる自由があり、電車の中で首から十字架を下げていても、目くじらを立てる人はいなくなりました。

子どもが教会の日曜学校に通っていれば、都市部でなら公立学校でも「真面目でやさしいお子さんですね」ぐらいの評価は受けられるようになりました。

1970年代に登校拒否中に教会学校に通っていた私は、「学校に来られない者が、教会なら行けるのか」と学校教師にもの凄くイビり抜かれましたが、今は「外に出られるなら、それはいいことだ」と言われる時代になりました。

信教の自由をあるていど確立した21世紀の日本のカトリック教会には、これから世の終わりまで目指すべき「日本独特のカトリック信徒らしさ」のような何かが少しだけ物足りない気がします。

みなが個人的に好きなカトリックの信心業、信心団体や小グループ活動には熱心で、教会内の仲良しグループとのおつきあいには熱心でも、日本のカトリック教会全体に通じる「信仰の共通項」みたいな何かが欠けている気がするのです。

もちろん、他の国には決して見られない日本のカトリック教会独特の在り方は、異文化理解の観点からは見えます。

典礼聖歌によるグレゴリオ風の歌ミサが、日本のカトリック教会にはよく似合います。

エキュメニカル運動の広がりとつながりは、他の国では全く類例を見ないほど深いキリストにおける愛の分かち合いの中にあります。

外国籍信徒の増加、海外にもルーツを持つ若い日本人信徒の増加とともに、カトリック教会は日本国内における異文化理解と交流の場として、「異文化理解力の高い日本人が日本文化にフィードバックする」未来図を率先して掲げています。

日々の小さなことですが、行事の主催や参加、料理、片付けやゴミ捨て、聖堂や信徒会館の利用方法、教会の掃除当番、ミサの係の連携など、小さな活動を国内外の異文化を背景にもつ人々と行い続けることで、市町村や日本から出たこともなく、外に出て生活することなど考えられない人々が、異文化理解の中から何かを学べる場所がカトリック教会でもあります。

↓長崎二十六殉教者記念像(ブログ『Les Voyage』からお借りしました。)

Kinenzou

殉教者の模範に倣うほかに何か、日本のカトリック教会らしさを継承するための積極的な目標のような「明けの星」を見出せたらいいな、としぇるりんなどは思う次第です。

世界のどこの国へ行っても、日本人のカトリック信徒に逢えば「ああ、日本人信徒と会えて良かった。日本の教会らしさを分かち合えて良かった」と思える何か、です。

しぇるりんが韓国にいた時、日本語以外の共通項が日本人のカトリック信徒にはあるのだろうか、と疑いを持ちました。

韓国にいた時、1985年に一度だけ日本語のエホバの証人の集会に誘われて行きました。出席者は私以外みな韓国人でした。「なぜ、日本語なの?」と尋ねたら答えは「第一言語が日本語なの。解放後に習った第二言語のハングルでは、聖書もエホバの教えも分からないから」でした。

ソウル市の地下鉄2号線「聖水(ソンス)」駅から「建国大学前」駅の間に、おどろくほど大きな日本語の看板を掲げた「ソウル日本人教会」(日本基督教団司牧)が見えます。出席者の多くは第一言語を日本語とする韓国人と在日韓国人プロテスタント信者さん。信者家族以外で受洗される信者さんもいると、通っている方から聞きました。

その点、ハングルで聖書を聴いても「実は、よく分からない…何となく外国語を聴いているようでピンと来ないんだ」という年代の方々も、カトリックのミサがハングルになったのは1970年代なのでミサは理解できる、という方が多かったです。

第二バチカン公会議以降のカルチャーショックと改革が急速に進んだため、第二バチカン公会議以前にそれぞれの地域で受け継がれた「その地、その人々のカトリック信徒らしさ」みたいなものが、曖昧になった点は否めないと、感じました。

信教の自由を得たなら、日本社会での奇妙な誤解を一つずつ解いて行きましょう。わたしたちカトリック信徒は、カトリック教会で冠婚葬祭のすべてを行うことを、未信者の方に伝える必要があります。

また、クリスチャンは神仏を心から信仰する人やその行いを「悪」だと思っているのではなく、「三位一体の神を信じると信仰告白した者が、神道、仏教と利益、利権などのために積極的に関わりを持つこと(他者の冠婚葬祭、会社行事の参加、他者による強要など、明らかに本人の意思によらない参加は問われない)、マヤのナンチャラや水晶占い、恋愛成就のおまじないなどを行うことで、あやまって悪霊の業に加担することが悪だと考えている」ことを理解してもらえるよう、努力せねばなりません。

逆に、神道にせよ、仏教にせよ、「ともかく一神教はダメ」という奇妙な偏見を捨てないと、昨今の政局にも見られるように、利益主導で集金力の確かなカルト宗教の波に呑まれ、日本の神道や仏教がおもんじる信仰心、地域と人々とのつながり、祭礼などの楽しさをも失うことを、キリスト者だからこそ知らせるべきだと思います。

信仰生活とは、どのような信教であれ、よろこびと希望と自由にみちた何かです。そして、何かを真心こめて信じることを、誰かに強制できる人や組織、テクノロジーはこの世に存在しません。

「パブロフの犬」のアフターストーリーをご存知ですか。

心理学者のパブロフ博士は、友人から預かった犬に餌を与えるたび、ベルを鳴らしたら、ついにはベルを鳴らすだけでヨダレを垂らすようになった」という「条件反射の学説」で有名な「パブロフの犬」のことです。

あの「パブロフの犬」の被験体は、実は「パブロフ氏の友人の愛犬」でした。パブロフ氏の友人がおよそ半年後に旅路から帰宅し、真っ先に愛犬を迎えに行ったところ、犬は歓びのあまり主人に飛びついたそうです。そして、いちど主人に会ったのちは、いくらパブロフ氏がベルを鳴らしても餌を欲しがるそぶりは二度と見せませんでした。

パブロフ氏の友人は本当に心からこの犬を愛し、また犬の方も主人を愛していたのでしょう。

愛より素晴らしいごちそうは、他にありません。わたしたちカトリック信徒も同じです。どんなに素晴らしい人間的な出来事や感動があっても、主キリストとの出会いより大きな愛や感動はありません。

キリストの愛といつくしみ、ゆるしと癒しへの心からの信頼と希望を人々に率直に伝えることは、日本のキリスト者の使命であり、日本のカトリック信徒の使命だと、私は信じます。

 

深い信仰のうちに、権力も地位も捨てて主キリストに従うものとなった福者ユスト高山右近の取り次ぎを願って祈ります。どうか、日本のカトリック教会が社会的、経済的格差、学校歴格差などで分断されることなく、一である父と子と聖霊への信仰で一つになれますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年7月 7日 (金)

戦後レジームとカトリック:キリスト教バッシングと「天の富」

そこへ律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は貫通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

…これを聞いた者は年長者から始まって、一人、また一人と立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

イエスは身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪をおかしてはならない。」(ヨハネによる福音書8:3~11)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今朝、家族と口論してしまいました。家族に「なぜ、与党政治家の○○はカトリック信徒なのに、あんなに悪いことばかりするのか。カトリック教会はそれでいいのか。」と言われたのです。

私は「カトリック信徒も、仏教徒や神道、イスラム教徒と同じく、善人も悪人もいる。あなたが一人の信徒の非道な行いについて、カトリック教会全体や、キリスト教全体に責任を問うのは、お門違いもはなはだしい。一人の悪行によって全体に責任を問うあなたの考え方の根底にあるのは、あなたの中に潜むキリスト教への差別感情である。個別に言えば、仏教徒にも神道にも悪人はいくらでもいる。なぜ、それらの宗教団体や組織、教え全体の責任は問わず、キリスト教にだけ問うのか。」と言い返したわけです。

我が家ではこの論争を数十年間、数限りなく繰り返しているため、家族間で対立するところまでは行きません。

現実問題として、家族や近隣、知人友人の間でこのようなキリスト教差別に悩まされている方は、平信徒にも多いと思います。

↓乙女峠のマリア聖堂にある聖母像。聖母と向き合うのは浦上四番崩れで捕らえられ、三尺牢に閉じ込められた安太郎。(島根県津和野町観光協会HPよりお借りしました。)

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ネット世界を見れば、未だに何ら根拠もない「イエズス会の陰謀説」を延々と書き綴る人がいます。真面目な仏教徒で未だ真面目なキリスト者に日常生活の中で出会ったことのない人が、それを「ああ、そうだったんだ。自分のキリスト教への違和感には、こんな根拠があったのだ」と勝手に思い込んで書き込みをしてあるのも見かけます。

日本のキリスト者の総数は、総人口の0.7%。150人に一人ぐらいの割合です。その中で毎週ミサに通う平信徒の割合を10%とすれば、真摯なキリスト者は、1500人に一人ぐらいです。

1500人に一人の誰かと出会い、その人柄に触れ合うのは、宝くじで10万円以上当たる確率より低いかもしれません。そのため、いつまで経っても一般的な日本人のキリスト教に対する誤解が解けない状態が、今も続いています。

一方で、キリスト者というと真面目で誠実ということで、医療、会計などの分野では評価が高いことも多いようです。都市部では医療、経理などのお仕事の方が、カトリック信徒に多い傾向が昭和時代からありました。

一方で社会的な偏見の強さから、自らカトリック信徒であること、キリスト者であることをカミングアウトできない信徒も大勢いるかと思います。

日本は同調圧の強い社会であり、同調圧を強化する政策を「粛々と」すすめる勢力も確実に存在するからです。

私が思うに、自称「無神論(実は宗教について知らない、特定の宗教への帰属意識が希薄)」な人々は、あなたや誰かに自分は無知だと思われるのがイヤなのだと思います。

「何らかの宗教の信者であること=日本式の無神論者でない人」と関わりがあると思われると、自分まで「何らかの誤解」を受けそうな気が「何となくする」のかも知れません。

また、現実に日本ではこちらの新宗教、あちらの新宗教と「宗教のはしご」、および「家の宗教との掛け持ち」を主に政治・経済的な背景から奨励しています。

一方で、日本では法的に優遇されていながらも宗教法人としての財源確保に苦慮している主に中小の神社仏閣などが「信仰としての宗教」として十分に機能しておらず、遷宮、修理に土地などの資産の切り売りを余儀なくされている現実があります。世俗の世渡り術である駐車場、貸地、マンション経営などの余剰収益から宗教法人の経営費用を捻出できるのは、限られた一部の寺社さんだけです。

そのため、キリスト教への転向であれ、他のどのような理由であれ、離檀や離宗の現実を受け入れたくない気持ちが頑なな言動に通じてしまい、「信仰心のないのは転向者だけではないと何となく知っているけど、神仏と掛け持ちNGの宗教は受け入れられない」と言う、一種の無力感に近い絶望にも似た空気感が神仏側にもあるようです。

結果として「宗教の掛け持ちは、経済的負担、祭りなどの活動参加への心身への負担がさらに大きくなるだけで、心の安らぎや癒し、対人関係の改善には役に立たない」などの理由で、バブル以降の景気停滞の中で平成時代に入り、神社仏閣の檀信徒さんが近隣の神社仏閣を煙たがったり、何らかの理由で内部批判する傾向も顕著になって来ました。

そんな中でさらに「宗教=お金がかかって、面倒臭い」という、「宗教」に対するマイナスイメージだけが社会に広まりました。

そのため、日本の多くの人は宗教が何のためにあるか自分も考えない、他人にも考えさせないよう、努めているかのようです。

そのせいでしょうか。たとえその場限りであれ、キリスト教への信仰を持つ人への敬意を示さなければ、相手がいつかキリスト教から離れたり、信仰が変わったりするだろう…という実に根拠なき思い込みにすがっているわけです。

これが、一人の人間の長所、短所の話だったとしましょう。


例えば、しぇるりんはちょっとせっかちな短所があります。これを「他人が望む時にだけ落ち着いて、できればおっとりしていて欲しいが、他人に都合のいい時だけ急げる人に治したい」と言われたら、あなたなら、何と言いますか。

私なら「そんな身勝手なことは言わないください!あなたはわたしの人生の支配者ですか?」と言い返すでしょう。

せっかちなくせに忘れ物をした時には、しぇるりんだって十分に自分のせっかちを悔いています。それでも、自分以外の他者の要求に合わせたフリは出来ても、しぇるりんの長所でもある決断力の速さ、鋭さにもつながる特性なので、一概に「せっかちだけ治して!」と言われても困ります。

どのような思い、行いであれ、主キリストへの従順に反することでないのに、誰か人間の要求に従って無理やり自分を捻じ曲げようとするなら、ストレスが溜まるだけでしょう。無理をすれば自分が苦しむだけで、相手の要求は更に増える負の連鎖に陥るでしょう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出しもする。富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイによる福音書6:19~21)


主キリストが招いてくださる信仰、希望、愛、いつくしみへの内なる信頼を、一人の人の心から盗み出すことはこの世の誰にも出来ません。

わたしたちキリスト者の心がキリストのもとにあり、自分の十字架を担ってなお天のみ国にあれば、わたしたちもほんのわずかづつでも天の富を積むことが出来るでしょう。

子どもの頃しぇるりんは、聖書にある「天の富」は死んでイエスさまのおられる天国に行かないと受け取れない定期預金のようなものだと、思っていました。当時は「子ども貯金運動」が盛んだったのです。

そのため、「小学校低学年の今からイエスさまに祈って天の富を積んでおけば、死んだ後で、もっと大人になってからイエスさまに出会った人よりずっと元金も増えるし、利子がたくさんつくだろう」などと、子どもらしい?空想をしていました。当時は、永年の低金利・マイナス金利時代の今と違い、銀行の預貯金利率も高かったのです。

いま考えると、我が事ながらプッと吹き出しそうです。

天の富とは、冒頭の聖句にあるように「人を裁かない。人を罪に定めない。自分自身もまた裁かない。主キリストのゆるしのうちに、悔い改め、回心する」生活の真っ只中で、日々いただいているこの信仰の糧だと、このトシになってやっと実感できるようになりました。ありがたいことです。


周囲の人々と葛藤があるのは、避けようのない現実です。そして、カトリック教会も一人ひとりのカトリック信徒もまた、避けようのない日々の生活の中に置かれています。

わたしたちもまた、主日のミサや礼拝に訪れた時だけのパートタイム・クリスチャンではなく、仕事や生活の中で極端な摩擦を起こさないよう周囲に配慮しつつも、24時間、365日いつもキリスト者であると自他ともにあらわせるよう、日々、努めましょう。


あやまちも、罪もない人など、誰もいません。弱さがない人もいません。それでも、カトリック信徒として、天の富を日々受け、日々回心し、天に富を積みながら過ごせるよう、すべての民の御母である聖マリアの取り次ぎを求めて祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年7月 4日 (火)

戦後レジームとカトリック:終戦と敗戦

そこでピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦っただろう。しかし、実際、わたしの国はこの世に属していない。」(ヨハネによる福音書18:33~36)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

先の大戦で、1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れ、日本は連合軍に降伏しました。

対外戦争で「日本」が確実に敗戦したのは、初めてでした。


なにせ、他民族、他地域、異文化圏との紛争の回数なんて「数えろと言われても、数え切れない」陸続きの国や地域と違い、日本では数えるほどしか起こっていないのです。

先の大戦以前はと言うと、歴史的経緯がイマイチ不明な「元寇」は、単なる台風や熱帯性低気圧ではない「神風」という記述が必要な歴史の裏側があったと伝えられています。

16世紀の文禄・慶長の役では「日朝痛み分け」で外交決着に至りました。日本側の立場だけを言及しても、局面の戦闘の勝敗はあり、陸上戦では強かった日本の武将らも、朝鮮王朝中期の伝説の武官、李純信(イスンシン)将軍率いる亀甲船艦隊の圧勝で日本の補給路が絶たれたこと、豊臣秀吉の死などがあり、「名分を立て、勝敗どっちつかずのまま外交決着」させることが最善の選択でした。

「『乱はあった』が勝敗なし」という決着は、東アジアでのみ通用する儒教的な解決法を、双方が望んだから可能だったことでした。

ですが、近代スポーツ競技、博打、ギャンブルから、おぞましい集団殺戮を伴う戦争、紛争、経済紛争に至るまで、論理的にコトバで条約、協定を結ぶことで約束や決まり事を定め、決まり事通りに物事を行う現代世界においては、勝者も敗者も「それなりに」コトバで明記され、口頭、理念においても周知され、実行、検証し、基本的人権を侵害する行為がないよう、互いに守り合い、勧告しあいます。

日清戦争、日露戦争は、日本も植民地主義の覇道を選んだがゆえの勝利でした。第一次大戦時には、連合軍側についただけで、直接、戦鬪には参加していません。

そして、中華事変後から第二次世界大戦まで続いた永い大戦で、徹底した降伏以外の道のない敗戦を喫しました。

万年常勝チームだったスポーツチームが、自らの策に溺れて最下位になった以上のカルチャーショックに、日本人の多くが深く傷ついたと感じたのは無理のないことです。

負ければ、単に戦争が終わるだけではありません。戦勝者に都合に振り回され、「戦争が終わって良かった」だけではすまない長い歳月を。葛藤続きで時に屈辱を伴う外交上の交渉を、世の終わりまで続けねばならないのです。

「わたしたちの無形の文化的なつながりを守ろう」と言う内面的な信念を貫くことと、「現実の国家間の戦争、地域間の紛争で敗者となり、個々の人々がそれぞれに生き方を変えること」は全く次元の違う問題です。

前者は、冒頭の聖句にあるように「イエスさまの国はこの世に属してい」ません。わたしたちそれぞれの心や魂の中に本当に大切なものが宿っているなら、ひとの心の中を強引に変えることなど、この世の誰にも出来ないのです。

その大切なものが何らかの文化的なつながりの中にあるなら、互いへの信頼を裏切らないこと、裏切ったら対話を通じて和解の努力し続けることは、どこの誰であり、どのような思想信条の人であれ、必須です。

信頼を失うのは一瞬ですが、信頼を得るには残る生涯を捧げる必要がある重大事なのは、一人の人間であれ、一国の文化であれ、同じことです。

一部の昭和時代の人々のように「被害者の方は何となく忘れて下さい。加害行為は思い出したくないですから」などと加害者都合の身勝手を強要することは、相手の人間としての尊厳を貶め、相互の信頼を損なうことで、加害者自身が自らのアイデンティティーを見失わせる結果をもたらすからです。アイデンティティーとは、信頼関係の中で保つものなのです。

戦後レジーム問題の始まりは、戦前の日本、江戸時代までの極端な「人を細分化し、身分や出自により差別、抑圧する」ことで成り立つ世界観から派生しています。

緻密、繊細、文学的かつ詩的な世界観にありがちな情緒的な未熟さ、孤立した個人の徳ある文才や人徳などの美徳と言える側面だけを切り取って賞賛する、日本という世界観そのものが、ある意味世界から孤絶した「ガラパゴス文化」であることの負の側面が異文化と向き合った時、内向きに深く閉ざされた心の崩壊が凄惨な残虐行為につながったのだと思います。

江戸時代の村落同士の対話とは恐ろしいもので、対話が決裂すると、本当の事を言っているのかはどちらかを決めるため、「鉄火場」が設けられました。代表者が焼けた鉄の入った煮え湯に手を入れ、鉄を握って取り出しても手が焼けない奇跡が起きた側が正しい主張を行なっていると判定する、というとんでもないやり方でした。見せしめのため、公開処刑を頻繁に行う残酷さがあったのも江戸時代でした。性風俗はおおらか過ぎるほど、おおらかでした。


問題は、日本人特有の短絡思考や怒りっぽさなどの短所を、日本人自身が認めたがらない点にあります。

日本文化の負の側面を認められない真骨頂が、「終戦」という「言の葉(ことのは、言い回し)」でしょう。

南京大虐殺のような異民族に対する虐殺行為だけでなく、自国軍将兵の多くが戦闘能力すら保持できないまま餓死した「インパール死の行軍」、青年たちを絶望に追い込むことで人間兵器とした「特攻」、兵以上の残虐行為を老弱男女の民間人や幼な子にまで強いた沖縄戦での悲劇など、「もう終わった」の一言では決して取り返しのつかない多くの無辜のいのちを死に追いやったのが、先の大戦でした。


広島、長崎の原爆投下、焼夷弾による空襲、外地(植民地)からの引き揚げ時の悲劇や、シベリア抑留などの「被害」だけをことさらに強調する史観は、脱却すべきです。

日本人が「終戦」という言葉を受け入れたまさにその瞬間から、戦後レジームによる日本文化の腐敗も始まった、としぇるりんは思います。

↓江戸の大殉教の地に献堂されたカトリック浅草教会

Kn243_31300x270 国内外的に「敗戦」したのですから、「敗戦」だと国内外に広く周知し、一部の日本軍の行なった残虐行為と、その裏にあった隠ぺい工作についても、自らの判断で史実認識として後世に周知することが、これからの希望につながるとしぇるりんは思います。

戦前は現人神扱いだった昭和天皇の弟である秩父宮殿下が、日本軍の蛮行に呆れて陸軍幹部を強烈に批判した結果、敗戦まで居所に幽閉されていたなど、戦前の史実は、必ずしも保守派の方々のお気持ちを逆なでするものだけではありません。

反省を「すみません」「ご迷惑をおかけしました」で終わらせようとするなら、確かに「自虐的で空疎なお辞儀の繰り返し」にしかなりません。

自分の中にある日本文化の負の側面を深く自覚し、同じ愚を繰り返さないための真摯な誠意ある行動の実践に結びつけてこそ、明日への希望ある「お詫び」となるのです。

従軍慰安婦問題、南京大虐殺問題などにおいてもそうですが、21世紀を生きる多くの日本人には既に深くこだわりを持てない「敗戦のみじめさ」から来る、加害者独特の被害者意識から脱却し、同じ愚を繰り返さぬ明日を求めることが、戦後レジームから立ち上がるための真の道です。

先日、スーパーで小3~4の女の子の前をカートを押して通ったら、突然「すみません」と言われました。私と彼女がぶつかったわけでなく、私は30CM以上離れて彼女の前を通っただけです。

たまたま彼女は私と目が合ったと感じて、他に言うコトバが思いつかずに「すみません」と言ったようです。とっさに「あっ、すいません」と返答しながら、「何が『すみません』だったのだろう?」と考えてしまいました。お互いに「済まないこと」なんて、何も起きていなかったのです。


これは、とても深刻な戦後レジームの日本病です。「こんにちは」とか、「いいお天気ですね」の方が少なくとも声をかけられた方も何か受け答えができます。

ですが、「すみません」では「すみません」以上の受け答えができないのです。

これは、「相手の気持ちを逆なでするのが怖い。口論になるずっと前に、相手との対話の可能性を制限しておくか、対話不可能なほど距離を置かないと危険だ」という「不穏な空気感」が日本全体に漂っている傍証ではないかと、しぇるりんは思い悩みます。彼女が不穏な空気感に左右されるには、まだ幼すぎる少女だったからです。

挨拶、ちょっとした対話や声かけすらしづらい「不穏な空気感」があります。その一方で「困った方にやさしい声かけを」というポスターを駅構内などでよく見かけます。

そんな同調圧の中で作られる「ニッポン・マニュアル」通りの礼儀正しさばかりが求められる時、ひとと人との距離感はどんどん広がって行き、互いに孤立してしまい、行き過ぎた分断統治が人々を孤立崩壊させ、ひいては日本社会を消滅させてしまう恐れがあります。

昨今の憲法改正論議もそうですが、一部の人々には戦後レジームからの脱却には、終戦から「敗退、残虐、腐敗、隠ぺい」を概念上「除去する」ことが必要だという、幼児のような高慢さを復古したいという悪意が利権、利益追及の裏側に透かし見えます。

戦前の異文化に対する理由なき敵意の負の側面は、残虐な悪意となり、戦場での蛮行に結びつきました。

21世紀には、異文化や他者に対する国内での理由なき敵意の負の連鎖が精神疾患や自殺、いじめの急増に結びついています。

カタチある圧力や暴力なのか、無形の圧力や暴力なのかに関係なく、日本人が自分たちの仲間を差別し、追い込んで、自滅しようとしていることは同じです。

このような自暴自棄な態度を「有終の美学」と結びつけて考えるのは大いなるあやまちです。

「終戦」を脱却し「敗戦」を心から認め、加害行為が被害と同じく、こころと魂に深い痛みを伴うことを深くこの国の文化に刻んだ上でなお、平和を世界に発信できるなら、「ニッポン素晴らしい」とやたら自画自賛せずとも、自ずと世界が日本の発信する平和を認めるでしょう。

何やら、歴史と政治の話ばかりになってしまいました。私たちカトリック信徒の真の使命は、主キリストが教えてくださる平和を、主イエスと共に日々の生活の中で自分の十字架を担い、精一杯生き抜くことにあるのです。

 


私たちはキリスト者として、主キリストが教えてくださった平和をいつか全人類と分かち合えるよう、祈り続けましょう。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年6月30日 (金)

戦後レジームとカトリック:神さまはおっかないの?

主よ、怒ってわたしを責めないでください。

憤って、懲らしめないでください。

あなたの矢はわたしを射抜き、

御手はわたしを押さえつけています。

わたしの肉にはまともなところもありません。

 あなたが激しく憤られたからです。

骨にも安らぎがありません。

 わたしが過ちを犯したからです。

わたしの罪悪は頭を超えるほどになり、

 耐え難い重荷になっています。

(詩篇38:2~5)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんは発達障害者なのですが、幼少時にはいわゆる「疳の虫」が強い子だったと親には思われていたようです。


両親がしぇるりんに「日本の神さまはともかくおっかないものだ」と教えるために、「おっかないぞ、おっかないぞ」と言うのを文字通りに理解して「そんな怖い神さまなんか嫌いだ。」とパニックを起こして何回も泣いたことがありました。

また、父親に「お前は本当は橋の下から拾ってきた子なんだぞ」と言われて、私の両親への愛着を拒絶されたと信じ、泣きまくったこともあります。父親にしてみれば仏教的な意味合いで、「縁あって家族になったことに感謝して生きよう」を遠回し、かつ伝統的な言い回しで伝えようとしただけだったらしいと、三十路を過ぎてから気づきました。

おかげで「ともかくおっかない、怖~い神さま」みたいな脅し口調で神さまを語る人は、未だに苦手です。

先日、テレビ番組で東京都の孤島、青ヶ島が紹介されていました。島の神社前で取材クルーに「(ご祭神は)どんな神さまなんですか」と尋ねられた島民が「ともかくおっかねえ、怖~い神さまなんだ。すごいおっかねえんだよ」と言っていたのは、日本の神社神道における祟り神信仰の民間の裾野の広さをよく表していると感じました。

その点、キリスト教の神さまは、愛、のぞみ、平和に満ちた神さまです。するとつい、「じゃあ、恐ろしい神さまより、優しそうでいいじゃない!」と誤解する人が必ず現れます。

でも、人類のために十字架を担われ、福音宣教と殉教の旅路へと弟子たちを招いたイエズスさまと共に歩む道が、ラクチン街道なわけはないのです。

冒頭のかなり重苦しい詩篇は、「讃歌、ダビデの詩、記念」と題されています。この讃歌は、「旧約聖書時代、イエス・キリストが来られる前の恐ろしい神」を淡々と言葉で描写し、ひとと自分の罪深さへの嘆きから、一転して神への信頼と賛美のうたへと昇華していくのです。

↓神のいつくしみのご絵を囲む聖ヨハネパウロ二世と聖ファウスチナ

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やはり、イエスさまが来られ、父なる神と人類との和解のいけにえとして自らを捧げられるまでは、語り方の違い、コトバによる描写が丁寧か、ジェスチャーや顔つきで伝えようとするのかの違いはあっても、「怒りの神」と「おっかない神さま」には何らかの共通点がありそうです。

違いがあるとすれば、神さまをはるか彼方におられて、「いま、ここにいるわたし」とある種の距離感を感じたままいるのか、「愛といつくしみにおいて、いつもわたしの心の扉を叩いておられる神」だと信じられるのか、でしょう。

恐怖、畏怖、敬意が敬愛の念と入り混じった未熟な感情のまま、情緒的にのみ個性が成熟し、限られた狭い環境で生きるなら「おっかない神さま」でも深刻な問題は引き起こさないかも知れません。

しかし、コトバで自らを知り、分析し、表現する理性を知り、コトバのキャッチボールを国内外的に行うようになった21世紀の日本では、「おっかないだけの神さま」をどうしたらいいか分からなくなっているようです。

かといって、ご利益信仰だけを求められても困るのは、神道、仏教だけではなく、キリスト教も同じこと。

冒頭の詩篇は、ダビデの父なる神への切なる祈りの最後に「主よ、わたしを見捨てないでください。

 わたしの神よ、遠く離れないでください。

 わたしの救い、わたしの主よ、

 すぐにわたしを助けてください。」(詩篇38:22~23)

という主への信頼に委ねる祈りへと昇華します。

ダビデ王自身も、時に主の言葉を取り次ぐ預言者であり、国家の王でもあり、人妻を得るためにその夫を殺してしまった罪人でもありました。また、主にあやまちを告白し、赦しを乞い願い、赦しを得た人でもありました。

決して聖なるだけの預言者とは言いがたいダビデに、旧約聖書で最も美しい詩篇の讃歌が捧げられたのは、ダビデが恐ろしい神、あわれみと慈しみにあふれる神、世俗と神のみ言葉、自分の罪深い弱さと神の怒りとゆるしのあいだにあったという自覚があったからこそ、主なる神への信頼と讃美の歌をたましいに刻み続けようと真摯であったからではないでしょうか。

日本の明治維新政府は、各地の名もなく、由来も不明な神社に様々な祭神の名前をつけ、地域に根付いた信仰を無理やり序列化することで、「日本」という国を作り上げようとしました。

その過程で、その地域の人々が「自分たちは本当はどんな神さまを求めてきたんだろう?」と地域文化を見直す歳月が与えられないまま、祭りなどの形式だけが画一化していきました。

結果として、「どうして、神さまはおっかないと感じていたのか?」と言う疑問に対する動機や理由づけを見失うことで、地域文化を自分たちの手で次の時代に継承する能力を失ってしまったようにも見えます。

戦後レジームの傷跡は、わたしたちの魂の奥にも潜んでいます。少なくとも戦前までは「漠然と先人」だと考えられていた「御先祖さま」が、「祖父母など面識のある亡くなった死者」のうち「愛着や憎悪など、何らかの感情的なつながりのある人間」に限定されるようになりました。

おっかない神さま、御先祖さま、山の神も海の神も何となく「ゲームキャラっぽい」イメージで見てしまいがちな人々の中から、真理であり、「おてんとさま」的なものへの畏敬心が完全に失われようとしています。

真理への素朴な畏敬心、畏怖心の喪失は、生けとし活けるもののいのちの大切さへの信頼を著しく損なうという点から鑑みると、日本の戦後レジーム最大の無形文化の喪失と言えましょう。

「おてんとさんはみんな見ている」という感覚がなくなり、まるで科学や技術が宗教に変わる「打ち出の小槌」であるかのように喧伝されている21世紀の日本において、私たちは何を求めたらいいのでしょうか。

伝説や物語の中の「打ち出の小槌」は、心清らかな人が賢く、人々の幸せと善き行ないのために使わないと、使う人にバチが当たるというストーリーも多いようです。

人間が科学や技術だけを頼りに、ある種の万能感に溺れるのではなく、原発事故などから得た現実に科学、医学や技術の限界を教訓として受け入れ、先人の教えに立ち返り、真理の知恵をそれぞれに可能な方法で求めるべき時が来たのではないでしょうか。

わたしたちカトリック者は、「カトリックの教え」という骨組みに日本的な霊性、そして第二バチカン公会議以降の改革と刷新の時代に生きています。

人間的な恐怖心から神さまを敬遠するなら、父なる神さまも乾いた砂漠の砂のように無情で、恐ろしい側面しか見えないのかも知れません。

しかし、愛する子がパンを乞い願う時、石を与えられることは決してないという強い信仰で祈り、願うなら、愛と慈しみのパンを豊かに揺り入れてくださるでしょう。


主の愛といつくしみに全てを委ねきることで、わたしたちはそれぞれに、主に向かって回心する道を見出すのです。

日曜日には、どうぞお近くのカトリック教会のミサにおいでください。イエスさまがあなたを待っておられます。

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2017年6月27日 (火)

戦後レジームとカトリック:「ゆるし」と「いやし」

あなたは、兄弟の目の前にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』とどうして言えるのだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑も取り除くことができる。(ルカによる福音書6:41~42)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

南京大虐殺、従軍慰安婦問題、沖縄上陸戦など、「歴史修正主義か、そうじゃないか」で世論は二分しているように見えます。

ドイツではナチス統治時代、日本とは比較にならない規模の残虐な行為が行われました。ナチス支配崩壊後にあやまちを認め、自他ともにゆるしを乞うことは「ドイツのプライドを傷つける」と大っぴらに主張するドイツ人は少数派です。

↓前橋の空襲で先頭が破損した前橋カトリック教会(ツトムさん家の写真日記HPより拝借)

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何十年もの歳月をかけて、被害者の名誉回復と加害者の刑事罰に務めることが、ドイツ人にとっては誇らしい行為なのです。

先の大戦でよく似た戦時の経過を辿った両国の戦後に、なぜ、こんなにも違いがあるのでしょうか。

今日は日本人にとっての「ゆるし」と「いやし」の概念を、キリスト者はどう受け止め、どう考えるか、について考えて見たいとおもいます。

江戸時代まで実際に法制度として存在した「仇討ち、かたき討ち」の習慣にも見られるように、日本人は「相手の存在を許さないこと」が、被害者が救済を受けるための条件としていました。

つまり、何らかの事情で正当な理由や罪なくして非業の死を迎えざるを得なかった被害者やその家族の名誉回復には、その死の原因となった人を殺す「報復」が条件、とされていたのです。

歌舞伎「忠臣蔵」のストーリーなどはその典型と言えましょう。

このような既存の「ゆるし」の考え方を、歴史的観点から従軍慰安婦問題や南京大虐殺、沖縄戦などの甚大な民間人被害などに厳格に当てはめると、「当時の加害者やその子孫は、存在することがゆるされない」という「象徴的な殺人」が日本社会全体で未来永劫行われ続けなければならない、という極論に行き着いてしまいます。

結果として歴史修正主義の支持者らは、「永遠に謝罪し続けるわけにはいかない」と考え、「歴史の方を自分たちに都合よく修正すればいい」と考えているようです。

一方、キリスト者にとって「ゆるし」とは、もともと罪ある人(原罪のある人)が、極端なあやまちを犯したことへのゆるしを主イエス・キリストを通じて乞い願うことです。

加害者や被害者の心身の苦しみに寄り添うべく最善を尽くし、被害者の名誉回復に務めることが、加害者の「ゆるし」です。

キリストの十字架と共にあってなお忍耐強く生き延びた人々の労苦や忍耐、勇気を心から讃えると同時に、そのような被害が二度と発生しないよう、根本的に社会や政治、文化などの活動を具体的に改めんとする努力の行為そのものが罪のゆるしに至るプロセスであり、加害者へのゆるしそのものだと考えます。

また、被害者も自らの心身の苦しみを主イエス・キリストの愛といつくしみに委ねることで、主キリストの救いを信じ、困難の日には十字架を担われた主なる神の御子を想うことで、加害者へのゆるしと共に、少しずつ癒されていきます。

加害者と被害者のそれぞれの努力が、キリストの愛といつくしみにおける対話、相互理解と和解につながることこそが、キリスト者にとっての「ゆるし」と「いやし」の真骨頂であると言えましょう。

先の敗戦直後、1945年8月16日のおそらく朝ミサでに朝鮮半島で日鮮両国の信徒に向かい「日本の植民地支配と戦争はあやまちでした。一人の日本人としておわびします」と最初におっしゃられたのは、大邱(テグ)教区の早坂教区長だったと伝えられています。

この一言は、満州、中国から朝鮮半島へ南下避難した大勢の日本人避難民の李承晩(イスンマン)大統領統治下の朝鮮半島への入国、一時滞在許可へとつなり、大勢の日本人の命を助けた力ある「謝罪」だったと、韓国でさんざ聞かされました。

日本人は、「すみません」「ごめんなさい」と何もなくともやたらお詫びの言葉を口にします。また、社会的に不祥事などを起こせば専門の「謝罪指導員」を呼んで入念に練習した「謝罪会見」などを行う、世界的には奇異な行動が日本では見られます。

日本人がやたら口にする「すみません」「ごめんなさい」は、「済まないと言ったんだから、私にこれ以上関わらないでください」という意思表示のように聴こえます。実際、誰かが「すみません」「ごめんなさい」というと、それ以上の対話も相手への理解もストップしてしまう体験には、皆さんも思い当たると思います。

加害者にせよ、被害者にせよ、それぞれの心身の痛み、苦しみ、PTSDを抱えて生きるのは辛いことです。相手を責め、苛み、とがめたくなる気持ちはよく分かります。

それでも、生きる時間を与えられた人は、加害行為を行ったにせよ、被害を受けたにせよ、その両方の立場にあったにせよ、「相手の存在を認めるゆるし」を目指せないなら、終わりなき報復の応酬で互いに疲れ果て、加害者も被害者も共に自滅してしまうでしょう。

テレビドラマのサスペンスのストーリーに「被害者が加害者に報復殺人を行った結果、加害者も被害者も警察に逮捕され、または応分の社会的報復を受ける。法の裁きを求めるのが最善だ」というのが日本では多いようです。

これは未だに日本人は「被害者は仇討ちしないと名誉回復できない。加害者が社会的居場所を失う『象徴的、または社会的な死』が必須」と考える人が日本には多いからではないでしょうか。

被害者の名誉回復、弱者や少数派の基本的人権保護は日本社会全体の課題です。衣食住が必要なのはもちろんですが、社会に居場所があることは人間らしく生きるために必須です。

同時に、加害者もまた衣食住や社会における居場所が必要です。加害者の加害PTSDは、被害者のPTSDより深刻である場合もあるでしょう。

被害者は「自分は悪くない」と神と人の前で胸張って言えるでしょう。その上で心から相手をゆるすよう努力する。そのプロセスで怒りや憤りは言葉にして、外に発散してしまう必要があるでしょう。

その点、加害者は確かに悪を行い、多くの人の人生を狂わせ、死に追いやることすら辞さなかったのです。それに気づいてしまったら、その辛さ、心の痛みは計り知れないものがあると思います。心の痛みを負い、与えられたいのちを最後まで生き抜くことが、加害者の「ゆるし」でしょう。


冒頭の歴史問題を考えるにあたり、私たちが日本人として加害の事実を認め、謝罪することが、アジア地域での対話、理解、和解につながらず、お互いに自国の利益や権益の主張につなげていることが真の痛恨事です。

領土、領海問題など、複雑な政治外交課題について、一民間人である私には何とも申せませんが、「謝罪」が「ゆるし」につながり、対話、和解への具体的な明日を見据えた行動の動機となるよう最善を尽くすことが、長期的な視野で見れば、経済政治的にも最も効率的なリスク・マネージメントになるとしぇるりんは思うのです。

キリストの愛といつくしみへの幼子のような信頼から生まれる心からのゆるしは、どれほど深い心の痛手であっても癒す力があります。ただ単に、苦しみを取り除いてくれるだけではなく、誰かにキリストの愛といつくしみを伝える原動力すら溢れるほど豊かに与えてくださるのです。

いつゆるしますか。今でしょう。

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも罪人だときめられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺り入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカによる福音書6:37~38)

七の七倍までゆるしても、心の痛み、苦しみが完全に癒されることはありません。ゆるして、ゆるして、なお十字架を担って歩くとき、心からわたし達の救いのために十字架を担って歩かれたキリストがすぐとなりにおられることに気づくのかも知れません。

 

全ての日本人のこころに、愛とゆるしの聖霊の導きが豊かにありますよう、聖ヨセフの執り成しを求めて祈ります、アーメン。

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2017年6月23日 (金)

戦前「教会秘話」:戦後レジームと21世紀のわたしたち

「主の霊がわたしの上におられる。

 貧しい人に福音を告げ知らせるために。

 主がわたしに油を注がれたからである。

 主がわたしを遣わされたのは

 捕らわれている人に解放を、

 目の見えない人に視力の回復を告げ、

 圧迫されている人を自由にし、

 主の恵みの年を告げるためである。」

(ルカによる福音書4:18~19)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

戦前の「天皇が上か、父なる神が上か?」という、いま考えると幼稚に思える論争と弾圧で、多くの人が身も心も深く傷つき、亡くなりました。

日本の敗戦は、「米国が勝てば、キリスト者への弾圧が終わり、外国人宣教師の不当な監禁は解かれるだろう」という希望を、冒頭のみ言葉そのままに抱かせました。

戦前~敗戦までの間に、キリストとともに十字架を担うことで日本に定着した修道会、福祉施設も多くありました。

盲目のフランス人修道女一人以外の全ての外国人修道女が国外退去処分となった「天使の聖母トラピスチヌ修道院」は、深い霊性の人、メール・ベルクマンスが修練長として導き、その後に終生誓願を立てた日本人シスターが院長となり、日本の観想修道院として高らかにキリストの霊性を掲げ、その後、日本中に聖ベネディクトの戒律とトラピストの霊性を広めるさきがけとなったのでした。

ゼノ修道士が守り抜いた長崎の「聖母の騎士修道院」は、聖コルベ神父が長崎市に背を向けた土地に修道院を建てたため、原爆被害をほぼ免れ、信徒の希望の礎となりました。


サレジアン・シスターズは、苦難の時代に運営する施設の戦災孤児らがぶじ戦禍を生き延びられるなら、富士山に聖母像を建てましょうと祈り続けて、戦後に「富士山の聖母像」建立へと至ったお話も有名です。

また、日本宣教への熱情にもえた多くの宣教会、司祭、神学生らが欧米各国から来日し、息絶え絶えだった日本のカトリック教会に新しい息吹きが訪れました。

一方、進駐軍の中枢組織であったGHQは、カトリック教会に多くの問題も残して行きました。

当時、米軍は日本の安定支配の基礎をきずこうと、長年の飢えに苦しんだ子供や大人らに、チョコレートやアメをばら撒きました。


同時に米国からの支援物資である「ララ物資」の配給拠点として、カトリック教会、プロテスタント教会が選ばれました。「英語や他の欧州言語と日本語が通じる場所」という進駐軍、米軍都合の理由でした。

そのため、長年の飢餓で苦しんでいた日本人が、モノ欲しさに教会の門を叩くようになりました。「キリスト教の教会はタダでモノやお金、ボランティア活動のようなサービスを惠んでくれる場所だ」という誤解が、21世紀の日本社会に残る原因となった、カトリック教会、キリスト教教会全般における「戦後レジーム」の残滓です。

21世紀のカトリック教会は、日本の総人口の0.7%を満たない平信徒の善意、毎週の献金及び教会維持費(交通費、図書代等を含め、およそ総収入の3%程度が望ましい寄付額とされている)、平信徒の自主的な善意の奉仕で運営しているため、霊的な安らぎ、心やたましいの癒しやなぐさめの場は主日のミサへの招きなどを通じ、よろこびをもって提供していますが、「モノやお金に困ったから助けてくれ」という未信者の方を支援する余力はほぼありません。

信徒数が増加しなければ、熱心な善意の平信徒も増えず、献金も増えず、奉仕する人も増えないため、カリタスジャパンや通いつけの宣教会などへの個人寄付、ふだん教会に通ってくる信徒やその家族、友人、信徒の親しい知人以外への支援には手が回らないのが、21世紀の日本のカトリック教会の現状です。

日本政府や社会が、もしキリスト教の霊性と信仰に基づく愛のボランティア活動が日本の社会福祉活動へと広がるよう願うなら、キリスト教やカトリック教会を、戦国時代、戦前、戦中の苦難の十字架を乗り越え、日本に根付いた日本の霊的文化として積極的に尊重し、優遇し、その信条を尊重する姿勢を具体的に表す必要があります。

具体的には、仏教寺院に墓地があるクリスチャンの「離檀の話し合いや手続きの円滑化」が求められます。また、キリストへの信仰を理由として近隣の神社仏閣の行事への不参加や遷宮・修繕費用などの費用負担の拒否を積極的に認める、など一神教徒への積極的な配慮がなければ、カトリック者、キリスト者がその教えの基礎を守れないことを日本政府と社会が深く理解し、実行に移す基盤造りを推進して下さるよう強く願う次第です。

一神教徒への配慮は、イスラム教への転向者、ユダヤ教徒の配偶者となった方などにも同様に行われるべきでしょう。


ネットなどで「キリスト教は、日本の文化に合わない」「どうせ信者数は増えない」等、未だ消極的ではあっても、差別的な記事を見かける現状では、キリスト者への偏見を助長するだけで、宗教的な差別解消にはつながらず、信徒も増えません。

また、「カトリック教会はGHQや対米隷属の牙城だ」という誤解も根強く残っているようです。

GHQ、米国政府のカトリック中央協議会への影響は、日本の全ての教区の司教、大司教が日本人になり、バチカンとの一致を自立して保つようになってからは、一部の「対米従属で利権や権益と関わり合いのある平信徒の気持ちの中にある何か」以外では、ほぼ消えました。

戦後のどさくさの中にあった「混血孤児の施設養育問題」などに関わったカナダ、米国系の宣教会も、東京オリンピック前後ぐらいには、欧州からの宣教会、または同系列の宣教者とバトンタッチするカタチで、多くは引き揚げました。


↓往時のファチマの聖母少年の家(大和市HPからお借りしました。)

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有名なのは、白人、黒人との混血男子孤児を引き取った、「ファチマの聖母少年の家」です。12歳までは女子修道会の養護施設で育てたものの、修道会の会則により、12歳以上の男子は女子修道会経営の施設で養育することが出来ません。


そこで、神奈川県の米軍厚木基地および座間基地の近くに学齢期の混血少年養育施設としてファチマの聖母少年の家、通称ボーイズタウンが1955年に造られました。

近隣小教区とアクセスのあった熱心な米国人信徒の協力もあり、多くの混血少年は米国人家庭の養子として渡米、1971年に少年の家に在籍していたのは日本人孤児だけになりました。「日本人孤児の養育は地元自治体に任せるべき」という判断で、少年の家は弘大な敷地もろともその殆どを所属自治体に売却し、養育施設は公立となり、当時の宣教会は日本から撤退しました。

日米安全保障条約締結後だからこそ、カナダ、米国系修道会は、そのまま日本にいれば日米両国政府に政治利用される可能性が高い、と警戒していたのでしょう。

それほどまで教会内部では警戒し、用意周到に日米同盟以降の時代に備えても、外部からの眼差しは厳しいものです。


戦前、戦中、戦後のカトリック教会外部からの眼差しの厳しさは、先ごろスコセッシ監督が映画化した遠藤周作氏の代表作である《沈黙》などにもよく現れています。

そんな中で、第二バチカン公会議による教会刷新がありました。

1970年代の平信徒が共に集うエキュメニカル運動の初めの始まり頃に、プロテスタント教会の日曜学校に通っていたしぇるりんには、衝撃的な出会いでした。何せ、「カトリック教会のシスター」をプロ・カト日曜学校合同運動会で遠目に見たのが、しぇるりんとカトリック教会との最初の出会いだったのですから!

教会の規模が小さく、人数が少な過ぎることと、カトリックの霊性が戦国時代から石もて追われつも確固たる日本文化としてたましいに深く根付いたという経緯があり、他の宣教地とはだいぶ違う教会改革となりました。

まず、最初に揚げられるのは詩篇やイザヤ書などをグレゴリオ聖歌調で歌う《典礼聖歌集》の作製です。

未だラテン語など第二バチカン公会議以前の聖歌が残っている国もあるようですが、多くの宣教国では、プロテスタント教会の賛美歌と歌詞は違うが、旋律はプロ・カトあまり違いはない国が多いようです。

多くは現代音楽としてのフォークソングにそれぞれの国や地域の伝統音楽の旋律を取り入れた「カトリック聖歌集」、または「カトリックの流行歌」の中から教えに合うものを選んで用いているようです。

その点、詩篇のみ言葉をそのまま歌詞にして歌う典礼聖歌は日本独特のやり方で、カトリック教会の教えを賛歌としたもの、と言えましょう。

主日ごとに歌ミサで答唱詩篇やアレルヤ唱を日本語で歌うのは、日本独自のミサのあり方です。

また、先の大戦の間、大政翼賛会の組織の末端として「天主公教会」が初めて日本で法人認可を受け、プロテスタント諸宗派の方々と教えや儀式の違いを乗り越え、話し合う機会に恵まれたことが、第二バチカン公会議後の聖書週間やエキュメニカル運動に大きな影響を及ぼします。

第二バチカン公会議以降にカト・プロが共有する《新共同訳 旧約・新約聖書》翻訳につながったのは、ひとえに戦前、戦中に犠牲になられた方々の祈りの賜物であり、主のみ恵みと言えましょう。

旧約聖書のカト・プロの違いを「続編つき聖書の発行」というカタチで「折衷」したものが、現在もカトリック教会、日本基督教団公認の各教会で使用されている、日本聖書協会発行の《新共同訳 旧約聖書・新約聖書》です。

戦前、戦中、戦後の苦難の中にも、教会刷新と主キリストとの霊的なつながりを重んじる教会共同体の歩みは、今も前へ前へと進んでいるのです。

先日のブログにもちょっと書きましたが、日本の戦後レジームの本質は、「神国日本という思い込み」を全ての神社神道、講仲間(富士講など)に無理やり当てはめ、廃仏毀釈、キリスト教、新宗教諸宗派の弾劾などを相次いで行ったことにあります。

また、政府公認の「御真影」、「教育勅語」などの政治色の強い意向を「臣民」に刷り込み、「アイツが悪いんだ!」と政府が仕立てた悪役を憎むよう政策的に仕向けたことが、結果として日本文化の衰退を招きました。

また、政治的に天皇を一神教的な神に祀り上げ、政治利用のため、現在のISまがいのやり方で国民に押し付けた結果、戦前には素朴に個人それぞれの信仰や慣習、人の情けに生きた人々は戦後に信仰や文化のルーツを失っただけでなく、義理も情も涙も枯れ果て、「たましいにおける愛の死」から来る根強い人間不信と無関心が支配するようになりました。

「愛の死」による、言葉にあらわしきれない「人間不信と無関心」こそ、21世紀の私たちがキリスト者として克服すべき戦後レジームの課題だとしぇるりんは思うのです。

確かに、戦前の日本人の考える「愛」は、情やその場の雰囲気に流されやすいパピーラブ(子犬を可愛がるような幼い子どものような愛情)、「性愛」、「情愛」の側面が強く、その場の雰囲気に流され易すい側面が否めなかったです。

それでも、全くの無関心や人間不信より、愛があり、子どもっぽいようにすら思える意地があるだけ21世紀よりマシだったとしぇるりんは思います。


21世紀には、性欲ですら「性愛欲求」から切り離され、「食欲を満たすのと同じように性欲という欲望を満たすだけの暴力的な行為」になりかけています。

これは、「いつかネコを飼いたい」と言い続けるだけで、ネコカフェに行って生きているネコを抱くことすら忌避する「無関心、無感動の人」より、よっぽどタチの悪い無関心と言えましょう。

お互いを人間同士として見ることが出来ない無関心、人間を利権や利益の対象にしか見られない無関心、人間らしい気持ちを自分自身に対して持てない無関心がそこにはあるからです。

主なる神さま、聖ヨセフの執りなしを求めて祈ります。私たちが自分が自分に無関心で無感動な状態にあってなお、愛といつくしみの源である御子イエス・キリストがいつも、わたしたちそれぞれの閉ざした心の扉を叩き続けておられることを、全ての民に知らしめてください。全ての人が、聖霊の交わりの中で神を愛し、人を愛する心のぬくもりを取り戻すことができますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年6月20日 (火)

戦前「教会秘話」:戦前カトリック教会の苦悩と英断

お元気ですか。しぇるりんです。♪( ´▽`)

先の大戦、というと私たちはつい第二次世界大戦が1941年12月8日に突然、真珠湾攻撃で始まったような錯覚に陥りがちです。

が、実際には日清戦争、日露戦争、朝鮮併合(朝鮮の植民地支配、1910~1945年)、関東大震災、それに伴う戒厳令の発布と解除、治安維持法制定、日華事変と満州国の植民地支配など、1894年~続く日本の植民地主義的な動きの中で、徐々に日本が国際的な孤立を深めた後、衣食住、地下資源などの確保のために始めたのが「太平洋戦争」です。

日本のわずかばかりのクリスチャンもそれらの戦争に巻き込まれました。日露戦争の時は、ハリストス日本正教のニコライ大主教が「私はロシア人でも、日本の主教である」と言い、「日本戦勝祈願ミサ」を捧げたことは有名です。

↓旧浦上天主堂(「教会のおはなし」HPよりお借りしました。)

Urakami1 カトリック教会では、1862年にプチジャン神父が来日し、1864年に浦上天主堂を建立した時から、やっと開国したばかりの日本と、キリシタン発見の時から、ずっと激動の時代をローマ教会との一致と福音宣教を第一目標として最善を尽くして来たと、しぇるりんは思います。

教皇庁では時代の動きを見据えて、邦人司祭三十数名、信徒五万名ほどの長崎教区を独立教区とし、早坂司教を日本人初の司教として昭和2年(1927年)に叙階しました。

それだけ、大島事件前後から始まったカトリック教会とその信徒らに対する弾圧は、深刻な問題に発展すると考えられていたのです。

当時は欧米から選りすぐりの「聖母の精鋭」とも言える宣教者が、数多く来日していました。パリ外国宣教会の司祭らを始めとし、サレジオ会のチマッチ尊者、コンヴェンツアル・フランシスコ会「聖母の騎士」の聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者などが来日した時代です。

まだ、経験の浅い日本人司教の任命は、欧州では画期的なことだと喧伝され、ポーランドの《聖母の騎士》にも記事が何回も掲載されるほどでした。

その後、パウロ・マレラ教皇使節(1933~1949年)が、治安維持法などを根拠とする露骨ないやがらせ、表立った平信徒への弾圧が始まった時代に来日されました。

時代の流れの中、強い弾圧を受け、せっかく先人が踏み固めた日本のカトリック教会が再び壊滅的な弾圧を受ける場合に備え、邦人教区の設立のため、マレラ司教は心をくばりました。

孤立した島国で、徒歩で難民化できない国に住んでいる日本のカトリック信徒がローマ教会から孤立したら、大陸に住む人には想像できない陰惨で内向きな魂の死と悲嘆が肉体的な虐待を伴って起きることを、何よりも憂いておられたのでしょう。

昭和12年(1936年)に東京大教区の大司教に土井辰雄師が大司教に任命されるよう奔走されたのは、マレラ使節のようです。その後、昭和16年(1941年)3月までに、当時の日本の全ての教区長が邦人となりました。

真珠湾攻撃は、昭和16年(1941年)12月8日、無原罪聖母の大祝日に始まりました。太平洋戦争開戦前に日本のカトリック教会が邦人だけで自立できるよう計らって下さったのは、聖母マリアさまの執り成しと、マレラ使節の聡明な判断のたまものだったと言えましょう。

マレラ使節、カトリック教会というと「黒いカバン」疑惑が思い浮かびます。

荒井秘書が空襲で土井大司教と避難するたび、黒いカバンを携帯していたため「あの中身は何だ?」と内外から疑惑の目で見られたのです。

中身は、神奈川県の強羅に疎開していたマレラ使節がご自身の給料と「節約」の犠牲で購入、貯えた「砂糖」だったそうです。

もし大司教が防空壕の中に閉じ込められた時、皆で少しずつ分け合っても、砂糖ならば皆が体力を維持できるだろう、という友情の証だったそうです。

戦争中には、国内外の司教、司祭、修道者、修道女、神学生までが国外退去、懲戒、拘留、治安維持法などによる逮捕、リンチ、栄養不良などによる病死、銃殺、戦死などの苦しみを受けました。

小教区でミサも司祭も奪われた平信徒、治安維持法で逮捕、拘留、リンチなどの苦しみを受けた平信徒が当時は大勢いました。

それでも教会は、愛とゆるしと慈しみを全ての人に祈ることで、キリストとともに苦しみ、キリストの愛と平安のうちにあるよう、今も私たちを招き続けています。

祈りは憎しみを乗り越え、キリストが私たちをゆるして下さるように私たちが人をゆるせるよう、一人ひとりに道を示してくれるでしょう。

しかし、それぞれが苦しみのうちにあって悩み、苦しみ、PTSDなどの重い症状を病み、孤立したその時の魂の痛手が、人をゆるすことで完全に癒されるわけではありません。

まして日本社会に特有の「喧嘩両成敗」という中世法を、未だに日本の慣習法だと信じて疑わない人が大勢います。加害者にも応分の責任はあるが、被害者にも被害を受けるだけの応分の責任がある、という考え方が「喧嘩両成敗」です。

被害者にしてみればPTSDで辛い思いから抜けきれないでいる生涯の中で、「喧嘩両成敗」を盾に被害者を責めることで被害者と距離を置きたがる「他人」の無邪気な言動にさらされ、セカンドレイプのような深い心の傷を更に負うことが増え、更に心を閉ざさざるを得なくなるのです。

結果、被害者は沈黙し、加害者の加害を訴える人がいなくなり、加害者が被害者の悲嘆をあざ笑うかのように大手を振って表通りを歩く理不尽な状態が常態化してしまうのです。

戦後レジームの正体とは、被害者に負い目を感じたくない、無関心になっていたいという「愛の死」を積み重ねの結果だと、しぇるりんは思うのです。

実際、21世紀の日本人が考える「和の心」とは、「相手の企図、意図にビクビクし」「同調圧をより積極的にリードし」、結果として「自分は集団の中の『個』になることを自らに強要する」ことのようです。全ては、一人の人の思い、言葉、行い、怠りへの集団的無関心に由来する思い、言葉、行いのように、しぇるりんには思えます。

主なる神は、すべての人を天地創造のはじめからたった一つの大切ないのちとしてお造りになりました。「集団の中の『個』」という社会組織のパーツの一つに貶めてはならない大切ないのちだ、という意味にも通じると思います。

21世紀の安保法制、共謀罪で基本的人権の弾圧が憂慮される中にあって、カトリック中央協議会、各司教区、小教区司祭や宣教者、修道者らの判断が、仮に全てキリストのみ心にかなうものであるとしても、基本的人権侵害や原発災害などの人災を最小限度に留め、主のみ旨に従ってそれぞれの平信徒が日々をキリスト者らしく送れるよう、最善の司牧活動を支援をするのが、日本のカトリック教会の規模で出来る範囲の仕事なのかも知れません。

主よ、無原罪の聖母と被昇天の聖母の頼もしい執り成しによって祈ります。ふたたび困難な時代を迎えようとしている日本のキリスト者が、それぞれの自ら歩むべき道をキリストと共に歩めるよう導いてください、アーメン。

 

参考書籍: 志村辰弥《教会秘話》聖母文庫1991
      小崎登明《ながさきのコルベ神父》聖母文庫2002

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