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2018年11月20日 (火)

福音書を読んでみようー2018年の聖書週間に

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

<聖書>を読む、と言われると「えっ、あの分厚い本の、どこからどう読んだらいいの?」と悩んでしまいます。

<聖書>初心者にオススメなのは、「福音書を読む」です。

まず申し上げたいのは、「つまらなそうだと思ったら飛ばして読む」が、<聖書>を読むコツです。

<新約聖書>を読もうとして、はじめのダンジョンでくじけてしまうキッカケは、「マタイによる福音書第1章を読もうとしたら、読む気をなくした」です。

イエスさまが「正統なダビデという預言者の家系に生まれた」ことを説明している部分なので、じつは旧約聖書を「完読したツワモノ」にも手ごわいのがこの章なのです。

<新旧訳聖書>を「完読や精読はしてないけど、平信徒の割には拾い読みをし、有名な場面の流れはまあ覚えている方だと思う」私ですら、この章に出てくる78名の人名のうち「旧約聖書のあの辺の、あの話しで出てきた、あの人かな?」とイエスさまを除いて見当がつくのは、マリアさま、ヨセフさまなどを入れてもたったの15人です。

なので、初心者や「ちょっとは読んでみたけど、どうにも慣れてなくて…」という方が「福音書」を読む際には、面倒くさいところは、サブタイトルだけ読んで、「読まずに飛ばして」先に進んでください。

↓米国で印刷された日本語のローマ字聖書

Kanyaku_photo02 二つめのコツは、読むなら「同じ福音書を読み進めること」です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は、それぞれ「イエズスの教えをどう伝えたいのか」のアプローチが違います。

「イエズスがお生まれになった系図から書き記し、主にどのような生涯を地上で送られたのか?」を淡々と記載しているように感じられるのがマタイ福音書です。

その点、マルコによる福音書は「イエズスはその短い福音宣教の中でどのようなことを語られたのか?」に重点が置かれています。

ルカによる福音書は、イエズスの御降誕前後の事情と、マリアの賛歌など、聖母マリアに関する記述とイエズスが福音を宣べ伝えられた部分に多くのページを割かれていて、御受難と死とご復活に関する記載が少ないのが特徴です。

その点、「はじめにことばがあった。ことばは神であった」の冒頭の名句や、バッハやモーツアルトの<ヨハネ受難曲>で有名なヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネが活動していた頃から話が始まり、福音宣教~御受難から御復活の細部に関する記述に力点を置いて書かれているように感じられます。

あなたの興味が持てる福音書をまず、「テキトーに飛ばし読み」すると、何となく「この福音記者は、イエスをどう伝えたかったのか?」がおぼろげながら浮かんできます。

それぞれの福音書には、サブタイトルで区切りがあります。


サブタイトルを一行読んでから、「じゃ、読んでみるか」と思えるところだけを読んでみるのも一手です。

ただし、一章の方から初めて、飛ばし読みしながらでも、最後の章までサブタイトルだけでもいいので読み進めてください。

気に入ったところ、何となく心の琴線に触れる部分があるなら、じっくりと読み返してみてください。初めは黙読で、次に声に出して音読をし、また黙読をし…を繰り返してみてください。

あなたの魂がちょっとだけ、イエズスに出会えるかも知れません。

ロザリオの奥義(神秘)に関するブログでも書きましたが、まずは「福音書を読んでみる」のは、「イエスさまはざっくり言うとどんな方?」を知るためです。

特に成人になってから初めてキリスト教に興味を持った方が、まず<聖書>読んでみようか、はアリだと思います。

有名な○X神父さんの解説本?や、聖人聖女伝などを先に読んでしまうと、「○X信心の信心業の信者」に陥り、イエズスの教えの根幹ではなく、神父さんや聖人聖女のファンクラブ会員になることに満足しがちになってしまいます。

カトリック教会の教えは時代により、多くの信心業の流行りすたれがあっても、その礎にはおられるのは同じキリストです。

ところが、基幹文化としてのキリスト教が根付いていない日本に生まれ育ったわたしたちには、同じ「イエス・キリストの教え」が「ざっくりと、ごくテキトーに」がまずわかりません。

なぜ、一神教なのか、なぜ聖三位一体なのか、なぜイエスなのか…そういったいわば「日曜学校に通ったり、母国語の授業で習い、気づいたら自然に身についていた」ことは、日本人には少ないでしょう。

「なぜ、イエス・キリストなのか?」は、35歳以下の若い方たちだと、学ぶより慣れろ、でカトリック教会のイベントに参加し、ミサにあずかりながら、山登りやピクニック、バーベキューや分かち合いを楽しむ方が、はるかに分かりやすいと思います。

しかし、病み、苦しみ、時間もなく、障害があり、仕事ややるべきことが多すぎて、「習うより慣れろ」が出来ない大人たちにとって、<聖書>こそ、イエスに直接出会うための唯一の道かも知れません。

そんな時、まずは福音書に親しむことをオススメします。

説教を聴くにせよ、聖書を読むにせよ、「どうも、右の耳から入って、左の耳から出て行ってしまう感」が否めず、メモを取りながら…という方がおられます。

実はしぇるりんだって、「心のなかでホンモノのイエズスに出会う」、難しい言葉で言うと「イエズス・キリストの臨在を知る」体験をしてから、みことばが心に留まる「みことばの歩留まり率」が向上しました。

それまでは、何を聞いても、「心耳傾聴(心の耳を傾けて、主のみことばを聴く)」なんて出来ないまま、もどかしいほどに右の耳から左の耳へと抜けていたのです。

しぇるりん的には、メモを取る、精神一到で集中する、はオススメしません。心の耳を主に向かって開くには「無邪気に聴き流す、読み流すこと」は、とても大切な「魂を解放する」観想の祈りへの入り口であり、聖餐式への準備体操だからです。

「みことばが心に沁みる」ほど深く入って来ることは、人生にそうそう何度でもあるものではありません。

説教にせよ、みことばに触れるにせよ、まずは子どものようにイエズスを、「まあ、ざっくりとこんな感じ」で受け入れることです。

そこからどのような召し出しを受け、どのような小道をたどって生きるのか…は人それぞれです。

すべてを得ようとする人は全てを失うでしょう。でも、今日、たった一つでもイエズスを得るために、自分の中の何かを手放せるなら、全世界のひとしずくをキリストを通じて得ることでしょう。

今日の一日が、あなたにとってみ恵みに満ちた一日でありますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年11月16日 (金)

朗読「聖書」とカトリック教会の教え

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

カトリック信徒のしぇるりんがミサにあずかりに行く通りすがりに、大きなプロテスタント教会があります。

↓明治十四年の和訳版<新約聖書マタイ伝>

05080543_554bce5d084e4 信者さんは、たいていが黒革の大きな《新旧約聖書》をかかえて、通っておられます。これは、両親が信者ではない日曜学校、土曜学校の子どもも同じような感じで、《新約聖書》を自分で持って、通います。

ちなみに、プロテスタント教会では朗読者や牧師さんが聖書を読んでくれますが、「自分で聖書を開いて」読まれている箇所を探すのが、日本では一般的でしょう。

週ごとに牧師さんの説教のテーマに沿ったみことばが選ばれるようで、自由だけど、ひたすら「聖書を飛ばさずに読む」傾向があるようです。

子どもの頃通ったプロテスタント教会では「♫マタイにマルコにルカ、ヨハネ、使徒の教えは使徒行伝…」と歌って覚えさせてくれたため、カトリック教会で洗礼を受けた今でも、新約聖書の早めくりなら得意技です。

プロテスタント教会とカトリック教会では「正典」と認める聖書の範囲が違うため、日本聖書協会版新共同訳聖書の場合、プロテスタント教会ではただの《新旧約聖書》を用いますが、カトリック教会では《新旧約聖書続編付》を用いています。

カトリック教会では三年(A年、B年、C年)間で、新旧約聖書の全体通じ、イエズス・キリストの教え、霊性、みことば、祈りを説教を通じて「感じます」。

そののち、聖三位一体の教えのすべてを感じ、聖餐式でいただく主のおんからだとおん血を「みことばと祈りを主のおんからだと共に拝領」します。

カトリック教会の日々のミサ朗読、修道院などでは必須の日々の「教会の祈り」と暁課で読まれる「毎日の読書」を通じて、新旧約聖書と詩編の祈りを繰り返し読み続けます。


カトリック教会でのミサ朗読を読んでいると、時々「○章○節a~X節、△節~◇節」などと、聖書のお話の一部を割愛している場合があります。

これは、イエズスのみことばの真意が伝わりやすいよう、平信徒に分かりやすいよう、「説明の説明」「聖書学的には必要な解説だが、文脈を難解にしている部分」を省いているためです。

カトリック教会のミサでは、「第一朗読」には主に旧約聖書の中からその日の福音と関連する部分が読まれます。

「なぜ、この旧約聖書の部分が読まれているのか」は、多いの平信徒には伝わっていないかも知れません。

次に「キリストの祈り」であり、「カトリック教会の祈り」の根幹である「詩編」を祈ります。

日本の「典礼聖歌集」には「詩編の典礼聖歌」がありますが、これは日本のカトリック教会独特のものです。

海外だと主に観想修道会の中で詩編をグレゴリオ聖歌のリズムで歌うことはあっても、一般の聖堂で行われるローマ・ミサで詩編が歌われることはないと思われます。

次に、十二使徒が各地の教会に送ったメッセージである「~の信徒への手紙」が主に第二朗読で読まれます。

これは、その日の福音書にあるテーマについて、主に使徒パウロが各地の教会にどのように説明したか、をあらわす部分が選ばれています。

第一朗読が父なる神の教えとその日の福音書のテーマをつないでいるように、第二朗読は福音書と十二使徒が築いた教会の教えとのつながりをあらわしています。

朗読で読まれた部分を観想し、主をたたえて祈るのが「答唱詩編」であり、「アレルヤ唱(四旬節には詠唱)」です。

そのあとで司祭、または助祭が「福音書」を読みます。

第一朗読が「父なる神のみ教え」を表し、第二朗読が「聖霊の交わりにある教会」をあらわします。

こうして、「父と子と聖霊の御名によって」その日の福音書が読まれるわけです。

そのため、カトリック教会での説教は、「父と子と聖霊の交わり」が、その日の第一朗読、第二朗読、福音書とわたしたちの信仰の中でどのような関わりがあるのか、を信徒の心とたましいの内奥におられるキリストに語りかける内容であることが望ましいようです。

もちろん、カトリック教会の司祭がすべて聖人ではないし、修道司祭であれ、教区司祭であれ、それぞれの平信徒の信仰のあり方と「ピッタリくる人」に出会える確率は、親友や愛する人に出会うぐらい低いのかも知れません。

司祭が「どんな説教をしようか?」と思い悩む際、「本人のみことばへの思い入れ=レクチオ・ディヴィナ(霊的読書の祈り)に頼ってはならない」、と言われるようです。

司祭の説教は、司祭個人の思い入れではなく、「キリストのみことば、み心、霊性を、ともすれば難しく聴こえるみことばを解くことで伝わるのだろうか」がポイントだからです。

しかし、神父さまにも得手、不得手もありますし、所属修道会の霊性や活動が「自分に合う、合わない」という問題もあります。

しぇるりんは、なぜか「イエズス会の黙想の家」が全く肌に合わず、日がな一日眠ってばかりいました。後日、ある方に「それは、霊性が肌に合わなかったんですね。」と言われて、「なるほど…」と思いました。

しぇるりんは結果として、いろいろな改革運動が使徒伝承の教会の時代からあったにせよ、プロテスタント、正教会、カトリックという「離れた兄弟たち」のすべてが、その教えを今も伝承しようと努力している、《聖ベネディクトの戒律》に行き着きました。

カトリック教会にはどこでも、<聖書と典礼>の冊子、または月刊、年間の朗読の本があるため、みなさんが聖書を開き、読むことはあまりないかも知れません。

ただ、プロテスタント教会のやり方と違い、「マタイによる福音書第1章を読んでたら、面倒臭くなってやめた」という読み方はしなくてもいいと思います。

しぇるりんは悩みある時に、あてずっぽで聖書を開きます。

そして目についたみことばがあればそのみことばを、心の奥に沈めて祈ります。

もちろん、みなさんそれぞれが「どこで、どのようにキリストに出会うのか」、は分かりません。

ためしに、マタイによる福音書25章1節~13節の「十人のおとめ」のたとえを読んでみてください。

おとめたちの持つ「油」は日々の信仰であり、祈りであり、主への愛をあらわしています。

救い主キリストという「花婿」が決して誰も訪れるはずのない真夜中にあなたやわたしを訪れた時、「イエズスを信じます」というともしびを持っているため、わたしたちはイエズスへの信仰を日々、保ち続けるのです。

信仰というともし火を保ち続けたおとめたちが、信仰のともし火の油切れを起こしそうなおとめたちに対してケチなのではありません。

信仰は油切れを起こさないよう、常に自分自身の中で育むものだから、分かち合う方法のないものだとしぇるりんは感じました。


あなたは、どう感じられたでしょうか。あなたには、あなたなりの感じ方があったと思います。

第二バチカン公会議以降のカトリック教会では、司祭の指導の有無に関係なく、平信徒が自由に聖書を読むことを奨励しています。

このブログを読んでおられる中にも「教会やミサはちょっとなぁ…でも聖書は読んでいる」という信徒さんは大勢おられると思います。

《新旧約聖書続編付》は、読むだけではたましいに響きません。家族や隣人との関わり、世間との関わりや仕事を通じて少しずつ、わたしたちの心の奥にある「取っ手のない扉」をわたしたちがキリストに向かって開くため、いちばん大切なキッカケのひとつだと思います。

聖書週間も近づいてきました。

現在、カトリック教会では朗読聖書は日本聖書協会版《新共同訳 新旧約聖書続編付き》を用いています。また、私的に聖書に親しむなら、フランシスコ会版《新旧約聖書》とバルバロ神父さまがお一人で訳された《聖書》(講談社)もあります。

慣れない方にはどうにもわからない言葉が多いと思うので、ぜひ索引や地図など、巻末やページ内の参考部分を読みながら、親しんでみてください。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2018年11月13日 (火)

「天国行きの切符」臨終洗礼は必要ですか?

わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。世を去る時が近づきました。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」
(テモテへの第二の手紙4:6~7)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

日本ではカトリック教会だけでなく、伝統宗派のキリスト教の教会では「女性、奥さん、娘さんだけが信徒」というご家庭が多いです。

男性だけ、ご主人だけが信徒…というご家庭は逆に少ない気がします。

日本では、カトリック信徒、キリスト教徒であることが社会生活において不利に働くことが多いこともあり、社会的に「江戸時代に禁教弾圧されてた宗教に参加するなんて…」というこだわりもあって、「配偶者の一方がカトリック信徒だから、婚姻時にカトリック教会で受洗」という例は潜伏キリシタン時代からの信徒さん以外では、少ない気がします。

むしろ、一世代目の成人受洗を「家族揃って受ける」事例は微増しているように思えます。「夫婦、親子間に愛があれば、価値観を共有するのが当たり前」という「愛の在り方」が、日本社会の根底にも普及して来た所以かも知れません。

↓カトリック教会には幼児洗礼がある

856e17a59bc4671371709817e80df0b5 「配偶者がカトリック信徒だから」「学生時代に尊敬した方がたまたま神父さんだったから」などの理由で、亡くなる直前にカトリック教会の司祭から臨終洗礼を受ける方は多いようです。

私の家族に「教会が遠いのでいつか『時が来れば…』と思っていたが、気づいたら教会に通えない体調や年齢になっていた」者がホントに居ます。

そこで思うのが、日本の成人受洗までの期間の長さと、基準の厳しさは他国とは比較にならないということです。

例えば、アジア第二のキリスト教徒多数派の国である韓国などだと、都市部では遠すぎて通えないほど「遠い」こともなく、送迎ボランティア、訪問ボランティアも大勢いるため、「成人受洗まで半年」という期間、ただ通うだけなら80代になってからでもできるでしょう。

その点、日本のカトリック教会の信徒数は、総人口の0.3%以下という小規模です。その中から有志の奉仕者で、なおかつ時間的、経済的な余裕もあり、教会が近くて…となるとかなり数が限られます。

結果として、「主日のミサに通うだけで精一杯な信徒」が、小教区共同体の中でいくつもの役割をこなす、という状況が生じます。また、特定の平信徒に極端に負担が偏る現象も起こりがちです。

弱り、病み、疲れ、教会に通うすべを失った人は、洗礼の秘跡にあずかるチャンスが得られない可能性が高いのです

たとえ先は短いと知っていても、家族や配偶者らも、本人、または「いまにも亡くなりそうな方」がご臨終近くなるまで、それが最後だとは思いたくないものです。

死を思えないから、洗礼も後回し…は日本人によくあるパターンなのです。

むしろ「ご臨終間近まで待っていれば、臨終洗礼の天国行きの切符がもらえる」という、「天国行きの切符の方が気楽」という逆転の発想になってしまいます。

臨終洗礼を授ける司祭により、臨終洗礼を勧めるか、どうかの判断もまた分かれると思います。

神父さまによっては「ご臨終の間際でも、洗礼を授かりたいという意思があるならいいじゃない」と快く授けてくださる方もいるでしょう。

辛口な神父さまだと「看取るあなたが信者だからといって、ご主人やご家族に無理やり臨終洗礼を勧めなくとも、葬儀は教会で出せますよ」などと露骨におっしゃるかも知れません。

臨終洗礼の問題を考える時、ちょっと疑問に思うのが「日本では受洗の基準が、画一的かつ弱者には厳しすぎるのではないか?」ということです。

確かに、日本で日々の生活の中でカトリック信徒として生きることは、とても厳しいことかも知れません。

世間にも、家族にも理解されないにも関わらず日曜日やクリスマス、イースターに教会に足を運ぶため、世間や勤め先、学校や部活などの誤解を顧みず、有給休暇や休みを取る必要のある方もいらっしゃるでしょう。

だからと言って、日本のカトリック教会が洗礼への招きへのハードルを「洗礼のみ恵みを求める人への要求を一律に高め設定にする」ことは問題だと思うのです。

「洗礼は、受けてみればみ恵みだと分かります」と言われた神父さまもおられました。秘跡には確かに、「受けてみなければ、そのみ恵みも分からない」部分があると思うのです。

「幼児洗礼ではないから…」という理由で、成人洗礼のハードルを高くすればするほど、「弱って、老齢になり、病み、貧しくなったから洗礼を受けたくなった」人びとへの配慮がなくなって行く気がします。

現実的に、「仏教で葬式したら、どえらいローンを組む羽目になっちゃった。カトリックっていくら?」と訊ねられたことはあります。ハードルを下げたら「じゃあ、冠婚葬祭はお金のかからないカトリックで!」という安直な発想で洗礼だけ受けに来られても困る、と思われるかも知れません。

ただし、韓国では「冠婚葬祭信徒が増えたからと言う理由で、熱心な信徒がカトリック教会から離れたり、減ったりする」という現象は起こりませんでした。

ちなみに韓国で「さして信仰はないけど冠婚葬祭カトリック信徒になりたい三大理由」は、「北朝鮮出身者だけど、共産主義者だと思われたくない」、「儒教祭祀を行う負担が減り、嫁さんに来てもらいやすくなる」、「主に韓国独立後の民主化や労働運動への理解があったため、社会的な評価が高い」でした。

「冠婚葬祭カトリック信徒」でも、本人が何となく「やっぱり元気だったころに洗礼を受けておけば良かった」と後悔しているのなら、社会的評価を受けたいという人びとより、よっぽど深く「イエズスと出会っている」のだと思います。

本人が洗礼を望んだ時には、もうたとえ月に一度でもミサに通い始められるような年齢や体調ではなかった、いちばん近いカトリック教会が「往復二時間以上」などの理由があるなら、本人の洗礼への意思を尊重した扱いをできる日本のカトリック教会になってほしいと切に願います。

日本で「天国行きの切符」がいちばんお手軽な理由は、社会的なしがらみがご臨終寸前だとなくなっている場合が多いことと、もともとの洗礼講座の期間や内容などのハードルがめちゃくちゃ高いことにあります。

実際、大学生時代、持病の不眠症に悩みつつ主日のミサと受洗講座に週2回通うのは、若くて、韓国のカトリック教会が定める半年でも辛かったです。

子どもの頃から、素朴に「日曜日は教会に通うものだ」と身体に染みつくような環境で育っても、そんなものです。

「カトリック教会なんて、行ったことがない」人にとって、日本のカトリック教会の受洗のハードルの高さが、臨終洗礼の増加させている気がします。

体調を崩していても、多忙でも、車や電車に乗って、遠路はるばる往復一時間以上かけてミサに通えるほど熱心でなければカトリック信徒になることはできないのが、いまの日本のカトリック教会の現状です。

その上で、受洗講座に週一日、およそ一年間も通わなければ成人洗礼を授けたくない日本のカトリック教会の方針は、ミサに通うのも辛いほど弱り、信仰ある家族に支えられて初めてイエズスを知った家族や隣人の期待に応えるすべを持っているのでしょうか。

イエズスは、わたしたちの心の扉を叩き、たましいを内から開いておいでになる方であり、ミサ聖祭に参加するのは「イエズスがわたしたちにおいでになるよう、わたしたちが心ひらくため」です。

教会に通うから、ミサに参加するから、受洗講座に欠かさずに通うから、若くて元気のある時にイエズスを知るみ恵みを得たから…はイエズスのいつくしみを知るための条件ではないと、私はひとりの平信徒として考えます。

一人でミサに行く気にはなれないし、何やらよそよそしい雰囲気の漂う空間に座っているのもなぁ…と考える人は多いと思います。聖書を通じてイエズスの愛を知りたい人、イエズスの愛といつくしみに既に触れたひとは、教会に来るひとの数よりずっと多いと思うのです。

日本のカトリック教会が、すでにイエズスがその心の内奥で触れられた人が、イエズスを望んでいるのに「洗礼へのハードルを高くしたがる」のは、イエズスの望まれることだと私は思いません。

もちろん誰もが、「初聖体講座」ぐらいの内容を理解している必要はあると思います。

同時に相手がイエズスであっても「愛することは、理屈じゃないんだ」「理屈抜きで愛せるんだ」という、「イエズスへの愛の気づき」に対する司牧的、母なる教会としての配慮が、カトリック教会の秘跡においても求められている時代だとも思うのです。

教皇フランシスコは「いつくしみとゆるしが必要な時代」であることを強調されておられます。

内気で内向的な日本人が、カトリック教会の独特の雰囲気の中に入るだけでも「勇気がいる」という現実に、日本の司教団と神父さま方が「いつくしみと愛をもって」接するよう努力してくださることを願ってやみません。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2018年11月 9日 (金)

キリスト者として孤立しないために

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

紅葉の季節ともなり、華やかな中にも、侘しさが感じられる季節ともなりました。

近ごろは、何かあった時「ねえ、誰かに訊いてみれば?」というと、「いや、別に訊かなくていい」と答える方が増えたように思えます。

キリスト者が孤立しやすい理由の一つとして「家族がキリスト教への理解を持とうとしない」「なぜ、教会に行きたがるのか分かりたくない」「キリスト教徒なんて、今もなっちゃダメなもんじゃないのか?」と思われていることを、誰にも相談できない、事例は多いと思います。

逆に言えば、「ゲームや趣味ならOKなのに、カトリック教会に通うのは何がいけないの?」と、キリスト者の方も家族に言い返せないようです。

もちろん、明治初期に維新政府が「キリシタン禁教の高札の撤廃」という、極めて中途半端な施策でキリスト教への改宗を「事実上処罰しない」としました。

その後は、日本社会ぜんたいがキリスト教徒への「社会的圧力」「口実をつけたイジメ」をしていても、時代に応じてですがあまり表立った形にならないよう、「かげ口」「陰謀論」などでネチネチとイビる手法を取ってきたため、キリスト教徒でも平信徒で慣れてない方ほど「どうしよう…誰にも話せない」という悩みを抱えがちになる傾向が強まるわけです。

現実問題、キリスト教徒、カトリック信徒になったためイジメやらカルト・ストーカー被害に遭った人はこの日本には大勢いて、心ない「善意の押し付け」で苦しんだ人は年代が上がれば上がるほど、多いと思います。

かく言うしぇるりんも、創○学会員のストーカー被害に数十年間悩まされた経験もありますし、家族にカトリック教会を積極的に非難する福音派の影響を受けた人がいて、「なぜ、カトリックなんだ?なぜ、福音派の○Xじゃないんだ?」と十数年間、論争した経験があります。

逆に言えば、日本のカトリック教会には「実は家族に信仰が受け入れられていない信徒をサポートするためのカトリック・アクション」はなぜ存在しないのか、が不思議に思えることもあります。

昨今の日本では、道に迷ったり、何かの手続きの仕方が分からない時でも、「他人に訊ねたら、自己責任を放棄したと言われそうだから…」と何も訊かない傾向があります。

また、「良い事、ラッキーな事はある程度話してもいいけど、悪い事は話したくない」という傾向もあるようです。

「いい時、良い人でいる」なら、誰でもできることです。また、「商売でお金をもらって、自分の利益になる時」にも、国籍や宗教に関わりなく「えびす顔」でいられることでしょう。

うちの息子が中学生で堅信の秘跡を受けた時、パーティーの席で司教さまに「なんか、聖霊を受けた気がする?」と尋ねられたことがあります。

正直、私よりずっと現実的な性格の彼が「聖霊を受けた?」なんて、理解できたとは思えませんでした。

わたしも、韓国で洗礼を受ける際に「結婚しても、信徒を辞めてはいけませんよ」と司祭に念押しされて洗礼を受けました。

その後、カトリック教会の教えが、世俗の現実とあるていど齟齬(そご)があっても心から受け入れられるのようになったのは、受洗から数十年経ってからのことです。

日本社会では、カトリック教会の影響力が極めて限定的であるため、どうも霊的な深みに入り込みすぎやすいこと、俗世間の現実とカトリック教会の教えの原則や理念が必ずしも合致しないことへの配慮まで目が行き届かない点は否めないようです。

森一弘元司教さんの《心の闇を乗り越えて》という本の中で「日本人に理屈っぽい要理(カトリック教会の教え)は必要ない」という一言があります。

日本では、洗礼を受けるまで一年間、ほぼ欠かさずカトリック要理講座とミサに通わないと洗礼が受けられないことが多いようです。しかも、かなり個人的な数名単位の分かち合いっぽい講座なので、カテキスタ(要理を教える司祭や修道者など)と個人的に気が合えばいいのですが、このやり方には後日問題が起こる余地があります。

個人的に気の合う方に要理を教わると、「信じるべきは教えた人ではなく、イエズス・キリストの教えなのに、司祭や修道者、修道会の守護の聖人などへの個人崇拝に偏りすぎる可能性」が発生します。

逆に、実は気の合わない方に要理を教わると「あなたは、なぜ洗礼を受けたの?」などと言われてしまうこともあります。

ちなみにしぇるりんは韓国で、ある女子修道会の私とは全く気の合わない日本人の修道女の方に、3ヶ月カトリック要理を古い本で教わりました。

韓国語は堪能なので、初めの3ヶ月は大講義室での受講でどうにかなっていました。それが「新約聖書について」になった途端、神父さまの話される韓国語が全く自分の中に入って来なくなってしまいました。

そこで手を上げてそのことを申し上げ、日本のプロテスタント教会の日曜学校で<ヨハネによる黙示録>を除く新約聖書と、旧約聖書の「天地創造」「出エジプト」などのお話は教わったのに、どうも分からなくなった、と言いました。

そしたら「私はあなたが日本の日曜学校で教わった以上に難しい内容は話していません。しかし、渡米した時「英語はわかるのに、英語で聖書はどうもピンと来ない」経験が私にもあるので、あなたは聖書の部分は免除でいいです」と言われ、カトリック教会固有の教えだけを日本人の修道女の方に教わるよう勧めてくださったのです。

しかしその日本人の修道女の方は、なぜ韓国では半年間、大学の講義室のようなところで週一の「要理講座」を受講すれば誰でもカトリック教会の洗礼を受けられるのかに納得が行かないと、「私に対して」言われました。

この頃は、私が所属していた水原(スーウォン)教区全体で、成人受洗までの要理講座の期間は半年が目安と決まっていたので、「半年は気に食わない」と私に言われても、「何とも言い返しようがない」状況でした。

1980年代末の韓国では、プロテスタント諸宗派が3ヶ月の聖書講座で洗礼を授けるのは短すぎるが、一年間にカトリック教会での受洗を希望する人が600名を超える教会が、都市部にはそんじょそこらに、どこにでもあった時代だったからです。

その修道女の方が理想とするような「じっくりと理屈も理解し、納得が行くまで一年以上…」は、当時の現地の事情に全く合わないものでした。洗礼式も、受洗者200名近くに代父、代母、親族、家族だけで教会が一杯になる「洗礼式のための洗礼式」を2回以上行う教会の夜の部で、私は洗礼を受けたのです。

日本国内でなら、あの時ほど会うたびにシスターにネチネチと嫌味を言われたら、受洗にこぎつける前に「やっぱカトリック教会は合わないみたい」と考えてしまうかも知れません。

でも、韓国のその教会や、所属大学にはカトリック信徒の若い友人がいて、支えてくれました。

どうも「なぜ、自分はカトリック信徒になったのか?」の経緯を誰かが全て理解して、受けとめてくれなければ自分は理解されない、と思い込む方も日本では多いようです。

「いやあ、何となくカトリック教会で神さまに呼ばれたのさ!」ぐらいのノリのよい気持ちのままで、ただ素朴に「主日のミサを欠かさないことが目標」ぐらいの方がむしろ日本人には合っているんだろうなと言う点で、私は森元司教さまのご意見に賛成です。

毎週、同じ教会に欠かさず通っていれば、いくら存在感を示せない状態でもさすがに誰かが見ているし、気づきを与えてくれます。

それがわたしの成長や成熟の支えにもなり、さまざまな先天性、後天性障害を乗り越え、くぐり抜け、英語でなら何とか感情や自分らしさをあらわせるようになりました。

私には、乖離性離人障害という寛解困難な障害があったため、今でも心からの感情表現は英語でしかできない「部分寛解状態」です。たまたま、強い怒りや悲しみを最初に表現できた言葉が英語だったからです。

この障害を持つ人のたましいは、「神さまにしか分からないような」孤立した状態のまま孤独です。

私はたまたまおしゃべりで人好きな一面もあり、希死念慮に病み、根本的な孤立の中にあっても、哲学的な指向性もあったことで、何とか孤立から自立へと歩み出せるようになりました。

私の周囲にも、「苦しく、悩んでいるのはあなた一人じゃないよ」と声を掛けたいような方が大勢います。

Solitude 特に自殺者家族の方、家族に障害者がいる方など、「頑張っているけど、これ以上どうしたらいいのだろう?」とカトリック教会に救いを求めてミサにあずかってなお、「どうにもならない」と感じる傾向はあるようです。

その上に、「あの神父さまとはどうにも気が合わない」「ほんとに心を掛けてくれるあの人以外とは、話したくない」「自分の出身校、もともとあるグループのメンバー以外と付き合う気持ちのない人は表面的な付き合い以上はしたがらない」など、「カトリック教会あるある」な問題が折にふれ周囲に起こります。

それでもキリスト者として孤立しないためにも、ミサに出て、カトリック教会の共同体の集いに参加することを忘れないことは大切だと思います。

ミサを通じて、わたしたちはそれぞれキリストの愛の聖餐にあずかることの大切さとともに、人との交わりの大切さ、主のみ恵みによる「縁」のようなものとの出会いの大切さへの気づきを得ます。

日本という「お一人さま」を助長する相互不信の社会にあって、キリスト者という「ごく少数派」の人が孤立しないために出来ることは限られているでしょう。

司祭、修道者、修道女も苦悩の中にいます。司牧者である彼らもまた、世俗離れした従順、貞潔、清貧の三誓願の世界の中でキリストを生きる以外に、どんな選択肢を世俗の真っ只中に生きる平信徒に示せるのか、分からないようなのです。

イエズスの教えられた愛といつくしみの教えは変わらないのに、カトリック教会は激動する時代の要求に即応できずに苦悩しています。それが、日本のカトリック教会のようにごく規模の小さな共同体の場合、なおさら「世界が見えない」まま、小さな小教区共同体での現実的な人間的対立の中で、より苦悩が深まっていくのかも知れません。

「復活なしの四旬節を生きているような信徒もいます」という教皇フランシスコの《福音の喜び》の中のひと言が、私の心を突き刺します。

いま、「復活なしの四旬節」を生きる人に、「わたしはいまは喜びのうちにありますが、以前は四旬節だけを生きていましたよ」と言っても理解してはもらうのは難しいです。

やはり、人間には運・不運というのもあるし、どうしてこの人には孤立と孤独がつきまとうのだろう?、と不思議に思える人もこの世には実際にいるからです。

孤立、孤独な人がその境遇から脱しようともがけばもがくほど、悪循環にハマることも多いです。

わたしは若い頃、孤立に悩む自分自身を乗り越えられないと感じたとき、マザーテレサの「乗り越えられなければ、頭を下げてくぐり抜けなさい」と言う言葉に支えられ、「孤立」をくぐり抜けました。

孤立することからくる、痛み、苦しみ、やり場のない怒り、その上に「私はここに存在する」という存在感を理解してもらえない苦しみの中で、「それでも今日は生きている」という気持ちを手掛かりに生き延びました。

そんな強さは持てない…と思われる方も多いと思います。

それでも「自分から孤立を求めない」「自分の中に自分を見る第二、第三の自分がいる」ことに思いを馳せることで、少しずつでも「孤立しているから、どうにもならない」という状況は変えられるかも知れません。

いま、孤立に悩むあなたの気持ちを癒せるものなど、この世に何もないのかも知れません。しかし、この世にあなた以外にも孤立した人が大勢いて、誰かと何かを分かち合いたいと思っていることだけを、心の隅においてください。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年11月 6日 (火)

死者の月に思う「死」の重み

…五旬祭の日…わたし(トビト)は、息子トビアに言った。「わが子よ、捕らわれの身となってニネベの町にいるわたしたちの同族のうちで、本当に神を心に止めている貧しい人を見つけて連れてきなさい。その人と一緒に食事をしよう。わたしはお前が戻って来るまで待っているつもりだ。

そこでトビアは、同族のうちでだれか貧しい人がいないかと探しに出かけた。しかし彼が戻って来て、「父よ」と言ったので「わが子よ、どうしたのだ」と尋ねると彼は答えていった。「わたしたちの部族の一人が殺されて広場に投げ捨てられておりました。たった今そこで首を絞められて殺されたのです。」そこでわたしは料理には全く手をつけずに家から飛び出し、その死体を広場から運び去り、日没を待って埋葬するため、一軒の小屋に安置しておいた。家に戻り、身を洗い清めてから食事をしたが、悲しい気持ちであった。

(トビト記2:1~5抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

冒頭の聖句は、旧約聖書の<トビト記>にあるお話しです。五旬祭を祝う日を、「本当に神を心に止めている貧しい人」、すなわち殺害された同族の埋葬のために捧げます。

新約聖書で「五旬祭の祭りの前に、イエズスのお身体を葬りたい」と弟子の一人が申し出て、エルサレムの祭司長らも許したぐらいですから、当然、預言者トビトは、「杓子定規なユダヤ教の律法の教えに反して、死者を埋葬した」ことになるのでしょう。

その後、トビトは失明し、数年間苦しみます。人々はまるでトビトが「五旬祭の決まりを破った祟りを受けているんだ」と言わんばかりに、トビトを責めます。

ついに、貞淑な妻ハンナもブチ切れてしまい、うらみごとを言い始めます。

本当に貧しい死者を弔い、神の憐れみを必要とする人のために悲しんだことで、トビトは多くの苦しみを背負うことになったのです。

あるカトリック信徒の軍人の方に「司祭なんて、大嫌いだ。あんなヤツらは信じられん!君もあんなヤツらを信じるんじゃないぞ!」と断言されたことがあります。

そのひとは、人柄は真面目で聖書にもよく親しむ、穏やかな性格の人なので、私の方がかえってびっくりしました。

彼は、大勢の戦死した戦友を、部下の死を、血みどろの戦地でともに戦い、記憶し、その死を心から悲しみつつ生きてきたのです。

彼が目の前で見送った誰一人として、尊くない生命はありませんでした。彼は長年、どんな状態にあっても、部下の兵士を幸せにするため、真面目に生きて来たのです。

それが命令であり、職業軍人のオシゴトなので、どうしても避けられない場合に敵を殺すことに躊躇はなかったのかも知れません。

それでも、味方の戦友や部下の死は我が身を切られるように辛かったし、「それでもオレは生きなければ…ここで死にたくない」という生存への欲求で人間を単純な生き物にする場所が戦場だ、と彼は言っていました。

職業軍人が生き延びて戻ると、判を押したように戦没者のご遺体の収容、保全、そして本国の家族に送還するための軍葬の準備など、諸般の手続きが待っています。

そうして、つい先日まで同じ食堂で当たり前のように挨拶をし、コーヒーを飲み、話し、共に働いていた誰ががいまはもうこの世にいない、という「死」に直面するのです。

時に何らかのきっかけで誰かの葬儀や追悼に参席することも多い職業柄、どうもありきたりの司祭の葬儀や追悼の説教にウンザリしてしまった、ということのは否めないと思いました。

もちろん、彼が出会った全てのカトリック司祭や牧師さんは、その時の最善を尽くして何を説教で語れば参列者にイエズスの想いを伝えられるのか、祈りのうちに思い巡らしたと信じたいです。

しかし、司祭の生活にも現実はあります。とある若い東京大教区の司祭がもっと若手でカテドラル付きの司祭だった時、土曜日に「結婚式、葬式、葬式、結婚式」と立て続けに4件、担当したことがあると説教の中で言っていました。

結婚式は2件とも、若いカップルが初婚で…というケースでした。原則から考えれば、人生でたった一度きりの「結婚式」なので、「どうやったらこれが今日で二度目の結婚式の司式だと思われずに心こもった説教ができるのか?」で頭の中が真っ白になったと告白していました。

実際のところ、結婚式なら再婚も再々婚も場合によっては「ない」とは断言できませんが、葬式は人生でたった一度です。

それだけに、心から悲しみに沈む人の心に響く説教がいつもできる司祭がいるなら、その人こそ主の特別な召し出しを受けた人であり、特別な聖性に呼ばれた方でしょう。

ただ、一般的に「洗礼と教育は教会で受けました」の信徒にとって、全ての司祭が聖人でないことに一種の憤りや、行き場のない悲しみへの冒涜を感じることは、確かにあるのだと思います。

老いて、病み、死を迎えるなら、家族も周囲の人々もある意味、覚悟をしているでしょう。

司祭の方も、やがて老い、病み、死を迎えると言うある種の共感で見送ることができるのかも知れません。

しかし、突然の自死、災害による死、事故死や戦死など、より深く辛い悲しみやたましいの痛みを伴う「死」が、この地球上にはたくさんあります。

「誰かが死を迎える」「誰かの死を見つめ、見送る」そして「いずれ自分も死んでいく」という現実があることと、「でも、自分だけは死にたくない。生きていたい。」という気持ちを、何らかの形で日々感じながら生きていくことが、すべての宗教生活の原点だと思うのです。

死者の月は「死」の重みを心深く味わうとともに、「それでも自分は死にたくない」「もう少し生きていたい」、という自分自身の中にある「死を怖れる気持ち」と向き合う季節です。

宗教とは元来、「死への不安、恐怖」と人間が向き合う時、たましいの痛み、苦しみに通じる何かがある、という自覚を促すために存在します。

たましいの痛み、苦しみは自分自身を殻の中に閉ざすためではなく、心の奥にたましいがあり、たましいの奥にある、無限の真理に向かって開かれた小道への入り口を探すための長い旅路の道のりなのです。

私たちのたましいは、母の胎内から生まれる時に初めて孤独を知ります。そうして、少しずつ「私らしいわたし」に成長し、試行錯誤しながら徐々に「閉ざされ、孤立した自分の殻にこもったままのわたし」から、「たましいのうちに向かってひらかれ、孤独であってもたましいは愛、真理、希望、慈しみに向かってひらかれたわたし」へと成熟すべく、招かれているのです。

孤独ではない人はこの世に誰もいないけど、孤立した殻に閉じこもらずに生きることなら求められます。

だからと言って、血みどろの戦場や凄惨な災害の真っ只中で「死」を体験した人に、どんな司祭であれ、修道者や平信徒が「コトバ」でイエズスがそこにおられると伝えることはとても難しいことだとも思います。

このブログをお読みの方々の中にも、災害や自死で近親者や友人を亡くした方もいらっしゃるでしょう。どんなに言葉を尽くしても、誰にも理解されない苦しみを生涯抱えて生きることの辛さは、他の誰にも理解できないと思うのが当たり前だと思います。

厚い壁の彼方から、外からは決して届くはずのない主の御心をを届けるのが、主のみことばであり、福音宣教の真髄です。

Photo 観想修道会でよく飾られているご絵に、「外から開くすべのない扉を叩くキリスト像」があります。

わたしたちの心はみな、司祭の説教やみことばの朗読のように「外から開くすべのない厚い扉で閉ざされた」中にあります。

キリストは、その扉を叩き続けてわたしたちの心がたましいの奥に迎えるよう、ノックし続けてくださるのです。

身近な人の死を体験したことの少ないわたしには、「死」の悲しみ、苦しみ、重みをことばで表現することなどできません。

神父さま方にお願いしたいのは、どれほど心折れるまで「死」と向き合ったとしても、実際に「死」の悲しみ、重みに苦しむ人にキリストの想いを届ける難しさを自覚していただきたいということです。

以前に書いた離婚、再婚、婚前交渉などカトリック教会の教えではそれについて論じること自体タブー視されている事柄についてもそうですが、「誓願を立てた独身者には決して理解できない苦しみや悩みが、平信徒にはある」という距離感への自覚と、俗世間のありとあらゆる善悪や運、不運、陵虐や暴力、悪意や偽りに振り回されて生きている平信徒との母なる教会としての交わりが必要だと思うからです。

聖なるカトリック教会と平信徒の現実の間にある乖離、へだたりが、イエズスと全ての神の民ひとり一人との出会いの妨げになることを、イエズスは望んでおられません。

この死者の月にわたしたちは、「死」の重みと「それでも自分は死にたくない」「死にたくとも死ねない」「それでも生きていたい」自分と向き合う時を過ごせたらいいと思います。

より希望に満ちた明日のために。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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2018年11月 2日 (金)

病める時も、苦しめる時も…愛せますか

Img_1462 この道があなたとの出会うのぼり坂でありますように


あなたの背中は、いつも追い風に恵まれますように


あなたのほおには、いつも陽がさしますように


みどりの野は、穏やかに雨がふりますように


そして、わたしたちがふたたび逢うまで、主があなたの手に刻まれた詩篇をつうじて主があなたを抱きますように

(アイルランドの祝福の祈り、拙訳)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

誰しであれ、婚活し、恋愛し、結婚しよう、パートナーシップ関係を持とうと思う時、「健康で最低限必要な衣食住に不自由することなく、災害、事故、病気、戦災で傷つき、病み、苦しむことのない平穏無事な未来」を描くことでしょう。

もちろん、初めから弱さのある人が、みずからの弱さを受け入れ、弱さを受け入れられる人を求める場合もあるでしょう。

先天性、後天性の障害や、社会的に被差別待遇を受ける方は、初めからそれらの社会的な弱さを受け入れた上で愛せる人を探すことは、とても難しいでしょう。

しかし、ほとんどの方は、健康で「当たり前」の学生生活や社会人生活を平穏に送っているからこそ、婚活しよう、恋愛しよう、結婚やパートナーシップを持とう…と考えるのだと思います。

ここ数十年、晩婚化や中高年以降の結婚が増えています。

やはり、収入の激減により、若い子育て可能な世代には「結婚=お金がかかる」ことが、婚活や恋愛へのブレーキになっていることは否めません。

と同時に、「病める時、苦しめる時、老いた時…」を身近に経験したことがなく、「家庭の理想像=当たり前」が得られるか、得られないか以外の家庭生活への選択肢について考えられない人も増えていると思います。

家庭生活とは、ひとの数だけ多様なものであり、表面的には何ら問題がないように見える家族や家庭にも、それぞれの悩み、苦しみはあるものです。

若くして婚活し、恋愛をし、結婚や長期的なパートナーシップに至ったとしても、何も問題のない平穏無事な生活が送れる人など、誰一人としていません。

親、配偶者、子どもが病気、事故、障害や老化で介護が必要になる場合もあるでしょう。不意に失業したり、災害や事故で衣食住もままならない状態に陥ることもあるでしょう。

ひとと人との出会いは、人生ののぼり坂です。あまりにも急坂が続くあまりに辛くなり、愛があったのか、なかったのかを忘れてしまうこともあるでしょう。

追い風も頃合いに吹いている時には人生最高の時かも知れませんが、息もたえ絶えの時にこれでもかと追われたら、「苦しんでいるのは自分ひとりだけ」と思い込み、辛さのあまり愛する人だからこそ責め立てるようになるかも知れません。

ほおに日差しがさすにしても、うららかな春の日や、穏やかな秋の夕陽のように心地よい日ばかりではないでしょう。


無慈悲なほどの酷暑の真っ只中で、これでもかとカンカン照りの陽射しがほほにさし続けたら、イライラし、八つ当たりをした挙句、体調を崩し、最後には熱中症で倒れ、長い後遺症に苦しむ破目におちいるかも知れません。

みどりの野原にいつも穏やかに雨がしとしとと降りそそぐならいいのですが、近年の豪雨災害では数時間の間に一年分以上の豪雨が降り、穏やかな生活の場をすべて押し流してしまうこともあります。

よく、故あって離婚せざるを得なかった経験をしたのち、もう一度幸せを求めて婚活をしたいと話すと、長年連れ添った夫婦の片方に「結婚なんて、愛があるとか、ないとかってことじゃないの。」と言われます。

平穏無事な生活を維持することに必死であるあまり、お互いに愛しているのか、いないのか、あまり考えていない方が日本には多いのかも知れない、とも感じます。

これが国際結婚だと「アイラブユー」を言えない方が不自然だ、ということになりますが、「アイラブユー」を言えば心から相手を愛せるのか、はまた別問題でしょう。

「愛してるよ」なんて一生涯、一度も言ったことのない夫婦であっても、家族として互いに助け合い、認めあい、家事、介護、育児の分担をするために話し合え、思いやり合えるなら、そこにはある種の「愛」があると思います。

わたしが介護施設で働いていた時、「家族は誰も介護したくないし、出来ないから」という理由で施設に預けられた男性がいました。

要介護度の高い半身麻痺で車椅子生活になった彼、Aさんは、自分ひとりだけが痛み、苦しんでいると思っている方で、一時間に数十回もナースコールを鳴らし続けます。そのため、何カ所かの施設で「お断り」されたのち、「お金さえ払えば、入所させてくれる」ということで、以前わたしが働いていた、かなりブラックな施設に入所して来ました。

週に一度、ご家族またはご親族がお見舞いに来ないとまた「お断り」されるかも知れないという「お断り対策」なのか、奥さまや娘さんらしき方が週に一度、まるでハンコでも押すように、特定曜日の午後14:00に来るのです。

大抵のご家族は、お見舞いに来ると食堂で歓談をされたり、お庭を散歩したりします。どんなに問題行動の多い入居者さんであっても「ああ、ご家族とはああやって通じ合えるんだ」と職員が感じ入ることも多かったです。

しかし、Aさんとご家族は食堂で向き合ったまま、ひと言たりとも話しをしようとはしませんでした。

一時間、Aさんのご家族や奥さまはただじっと、Aさんと向き合ってほとんど何も言わずに対峙しておられるのです。

それは、はた目にも心の凍るような恐ろしい光景でした。

Aさんもご家族も、愛のかけらのないまま、Aさんの年金受給継続と、「Aさんは生きている」現状維持だけのためだけに苦行でも続けているように見えたからです。

ご家族はあくまでも、Aさんを介助したり、ご挨拶にあがった職員に対しては、ごく普通に話されます。が、Aさんと二人きりになると、その後はずっとほぼ無言で一時間近く、食堂の一角で向かい合っておられました。

まるで、それはAさんが施設を追い出されて、家に戻されることがないよう、ご家族もAさんも週に一度の針のむしろに耐えておられるようでした。

入居者の方の中には、姪御さんご夫妻であるにも関わらず「生きて親の介護が出来なかったから…独り身のおばさんを大切にしたい」と、50キロ以上離れた場所から来ては、ご本人と和やかに話していくだけでなく、部屋やタンスの整理整頓まで職員以上にだまって丁寧にしていくご親族もいました。

カトリック教会では婚姻の時、「病める時も、苦しめる時も…」と誓いを立てます。

誰かを愛したいと思う時、家族や親族が病み、苦しみ、金銭問題や介護などで家族全員が苦しむ日が来るかも知れないと想像してみる人はいるでしょうか?

誰かを心から愛すれば、自分の問題に相手を巻き込むことを必然的に意味します。誰かの愛を心から受け入れるなら必然的に自分の問題に相手を巻き込み、この世でいちばん愛する人を苦しめ、病いや死に追い込むこともあります。

19世紀の哲学者、セーレン・キェルケゴールは《愛について》の中で、『愛について、神が考えられることと、俗世界が考えることの間には矛盾があります』、『キリスト教の国にはあの「俗世間」というものが全然存在していない』と叫びました。

カトリック教会の勧める愛と、現実世界の人間同士の心からの愛の間に理想と現実以上の乖離があることは、21世紀の現代においても否めないと思います。

恋愛、家族、パートナーシップ、離婚、再婚などの「俗世間では当たり前の不幸や幸せ」について、カトリック教会の教えと信徒の現実にはへだたりがあります。

この問題に関し、「ここにイエズスがおられたら、どうされただろうか?」という視点に立ち、いつくしみを大切にすることが大切だと使徒的書簡を出されたのは、教皇フランシスコの時代になってからです。

私が知る限り、初婚で当たり前に幸せに愛に満ちたパートナーと出会い、何ら問題なく結婚し、当たり前に健康で祝福された子どもたちが何ら深刻な問題に直面することなくスクスクと育ち、世間一般が想像する以上の深刻な事態に直面することなく子どもたちが独立し、当たり前に祝福された夫婦でいられる確率は、激動するこの時代には1~2割以下しかないように思えます。

テレビドラマ、小説や映画などが「1~2割の確率しかいない『当たり前であってほしい理想的な現実』」を、これでもかと垂れ流し続けるいまの時代背景にも問題はあると思います。

この「当たり前」が、頻発する性犯罪被害や加害、パワーハラスメント被害や加害など多くの耐えがたい苦しみなどを超えてなお、本当に「当たり前」であり得るのか、カトリック教会でも真摯に考えるべきことだと思うのです。

人間的な愛を真摯に求めるわたしたちもまた「病める時も、苦しめる時も…」の意味合いを、互いに真剣に考える必要があると思うのです。

一緒に暮らし、子育てをしたいか…などのイメージを描く人は多いでしょう。

E6b8b2dbcef42d4aa9e8b05c908a4d4a でも、「同じお墓に入りたいですか?」と言われたら「いやちょっと…それは…」という話はあちらこちらで聴きました。

「病める時も、苦しめる時も…」と言われると抽象的なイメージを受けますが、「その相手と同じお墓に入りたいですか?」は、かなり即物的かつ描きやすいイメージだと思うのです。

いま婚活中の方、恋愛中の方、すでにプロポーズして婚約中の方も、いちど相手の方が醜く病み、苦しみ、あなたの愛や思いやりをすべて拒否するほどの孤独なパートナーをただじっと見守り続けるしかない辛い看病生活の日々を過ごし、場合によってはあなたが誰だかも分からない状態になって、いつか墓の下に入り、パートナーを見送る日のことをイメージしてみてください。

それでもその人を愛せますか。愛が消え失せないと言えますか。

生涯をともに過ごすということ、どのぐらいであれ一人のひとを心から愛するということは、そういうことなのです。


孤高の哲学的な命題に近い「愛」という問題に、地球上の多くの人が広がりすぎた世界の中で立ち向かう時、やはり「最後の日が来るまで、その人を愛せますか」に真剣に思いを馳せることが、わたしたちにも求められています。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年10月30日 (火)

カトリック教会の教えとネット婚活・恋愛を考える

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんの母は、現代でいう「リア充恋愛」が当たり前な時代に青春時代を過ごしました。

昭和時代の言葉で「アベック」と呼ばれるカップルが街中に溢れていたそうです。また、しぇるりんが青春時代を過ごした1970年代後半~バブル崩壊ぐらいまでは、「ナンパ」や「逆ナン」がきっかけで知り合った男女が結婚し、家族になることも一般的でした。

一方で浮気や不倫、フリーセックスなどが横行し、昼間からポルノまがいのドラマが何ら規制なく放送されていた時代がありました。

その時代の出会いで幸せな家族を築けた人も、もちろん大勢いたでしょう。

しかし、「愛に縁がなく、家庭という対面を守るために家に帰っても居場所のない夫、家庭に夫や父を必要としない妻」が「イエ」を守っているうちに「純粋に経済的、育児、家事分担の関係が惰性になった」家庭も多く存在しました。


「イエ」としての家庭、愛のない家庭で育った子どもたちは、家庭や夫婦という関係性そのものへの絶望感を感じ、安易に恋愛に陥ることを恐れるようになりました。

その上、いまは子どもの時から、人付き合いに慣れていない人が増えています。

それもあって、ネットで出会い、メールアドレスやLINEのID、スカイプでメアドを交換し、実際に対面で逢った回数は数回なのに、パートナーシップや恋愛、結婚に至るケースが増えています。

また、RPGやオンラインゲームのキャラクター同士で知り合い、意気投合して現実に出会い、結婚に至る事例もあります。また、ゲーム上で結婚した相手との関係を重んずるあまり、リアル世界の結婚相手と離婚してしまった、などという事例もあるようです。

バーチャルな出会いでは、「まず最初に互いに何を出会いに求めているのか?」をたずね合うのは非常に大切です。

互いの「これだけは、外せない」条件が満たしているなら、ネット、チャット、動画電話を通じて関係性を深め、愛を告白し、プロポーズをするのもアリだと思います。

0d2e9d3532be629134e1e865115d4373e15 ネット婚活、恋愛を通じての婚姻件数は、年々増加傾向にあります。地球の反対側に住んでいる相手とでも、ネットならお互いに深く知り合える可能性があります。

昭和時代までの「恋文」という恋愛形式に、ネット恋愛は似ている点があります。まず、メッセージ、言葉や画像、絵文字でお互いの気持ちを確認した上で、実際に逢うからです。

いきなりリアルに逢っていたら、話すと気まずい思いをした挙句に、「食事をおごらされた」「ケチな男ね…」など良くない印象が残ったり、セクハラやパワハラに遭ったりして、あとあとまで嫌な記憶を引きずったかも知れません。

その点、ネット恋愛だとある程度のお互いの気持ちをメッセージ、メール、チャット、動画電話などで確認しあった上でリアルに出会うので、互いの理解の行き違いが起こる確率は減る確率があります。

ネット上でいくら出会っても、経済的な損失はネット通信料と時間だけなので、「デート代で損した、トクした」という経済的な利害損得による嫌な思い出が残りにくいというメリットもあります。

ただ、お若い方や想像力の欠ける方、リアルの人間関係の中で自己認識が甘い方などは、知らないうちに自分の思い込みを前提条件として勝手に話を進めている、または互いの会話の行き違いに気づいていない…ことがあります。

以前、「YOUは何しにニッポンへ」という番組で、ネットで知り合った若い日本人男性に、若いイタリア人女性が会いに来た、という話がありました。

日本人男性はイタリア人女性が自分に恋愛感情があってはるかイタリアから自分に会いに来た、と思っていたようです。

しかしイタリア人女性は、「日本のホラースポット巡りがしたくて来た。ホラースポットが好きという共通の趣味があり、前々から行きたかった日本のホラースポットに連れて行ってくれる『日本人の友人』が案内してくれると言うから来た」とのことでした。

その時、彼女のために相当の努力をして有給休暇を取得し、空港に迎えに来たであろう男性のガッカリした表情は、カメラ目線でも分かるぐらいのものでした。

共通の趣味、仕事上の関心、社会的つながりがあり、利害関係が一致する、見た目、外貌が気に入ったなど、表面的な理由でつながりを持てた、と「自分の思い込みで」錯覚しがちなのもネット恋愛の特徴です。

たとえインターネットを通じた恋愛や友情でも、文章や動画といった「リアル以上にリアルな」相手が、ネットの向こうにいます。

その相手は、あなたがいま学校や会社でいちばん避けたいと思っているその人、関心を持つ気にもなれないその人、世界のどこかで命を失い、または命を奪っているその人と全く同じ「神の被造物であるひとりの人間」なのです。

多くの人はネット上で恋愛する時、「この見えないネットワークの向こうには、生きている人間がいる」と想像できないのかも知れません。

それは「○X国の△○地方で内紛が起き、その地域の人口の半数が虐殺され、難民化しました」とニュースで言われても、「他国のことなんてどうでもいいから、私の生活をどうにかして!」と思う気持ちと根っこは同じです。

例え話に「百五十人の村」というのがあります。一人の人間が自分の生活圏の中で相手も自分と同じ人間だと実感できるのは、せいぜい百五十人ぐらいだ、という意味です。

ネット恋愛で起こりがちなあやまちの原因は、ネットの向こうにいる誰かを「自分と全く同じ人間」と思えないことにあります。

もちろん、文章力、表現力、理解能力などの問題もあるでしょう。これが外国人同士である場合、外国語能力も問われることになります。

ちなみに、しぇるりんがネットで知り合ったある男性は、メッセージを何回かやりとりして気に入った、LINEしようといきなりIDを送って来ました。

LINEで「ハーイ!」まではいいのですが、相手はこちらから何かを言って来るのをただじっと待っているだけ。

どうも、女性は男性がじっとしていてもハリウッドのアダルト映画もどきに積極的に誘惑してくれるものだと勘違いしているようで、どうにも対処に困り、数日でその男性のIDをLINEから削除しました。

自分も相手も、男女の違いはあっても同じ人間です。何を話しかけたらいいのか分からない相手、率直に自分の一番の弱みの一部すら明らかにすることすらできないなら、深いおつきあいに発展することはありません。

いきなりリアルで自分の一番の弱みの一部をさらけ出して言えるか、と問われたら「最初からはちょっと…ねぇ」と答える人が99%だと思います。

その点、自分の弱さを明らかにして振られる確率の方が高いと自覚して、「実は…だけど付き合ってくれますか?」とお付き合いの最初から文字で訊ねられるのはネット恋愛の長所と言えましょう。

逆にリアルお見合いや婚活パーティーで、一方的に自分の条件提示をし続ける男女も大勢みました。しかし、条件提示して、相手が条件に合わなければ要らない…と考えるならどのような媒体で出会うにせよ、条件にピッタリ合う相手など現れないでしょう。

恋愛や結婚は単純に「条件が合えば…」というものではなく、心やたましいが惹かれ合う何かがなければ「苦しめる時も病める時も、死せる時まで」続けられない、二人の人生の始発点だからです。

5分以内に条件提示とイメージだけで相手とカップル成立…でお付き合いに至る確率は、5%以下でしょう。ちなみに、かなりお高めの料金を取る婚活会社を通じても、カップル成立率5%以下、成婚率は3%以下という数字はネットとあまり変わらないようです。

互いに教養水準や言葉が通じ合えるレベルなのか、気持ちや心が通じ合えるのか、互いが求める目標が互いに調整可能なのか、相手の価値観や生活様式が受け入れられるのか…など、「自分の趣味や好みに合う」以上に現実生活に即した事柄をしっかりと確認することが、ネット恋愛だからこそ大切なのです。

これがLINEなどのチャットアプリや、ゲームのチャット機能を通じてだと、画像、動画、キャラクターのイメージやチャット上のことば、絵文字による表現能力など、リアルにはない判断基準がこれらのコミュニケーションを円滑にする要素として介在することになります。

そのため、ネカマ行為、いつわりの自分をネットで演じれば演じるほど、現実生活以上に悪意に翻弄される確率も高くなるのがネット社会と言えましょう。

カトリック教会の教えから言えば、ネット恋愛することそのものに善悪はありません。

しかしネット上だからこそ、自分をいつわってもバレないかも…と見栄をはると、その報いは怖ろしい現実として跳ね返ってくる可能性もあります。

むしろネットでは現実世界の隣人以上に繊細に、相手が「自分と同じ人間」であり、「自分の思い込み通りにならないのが他人」で「親しい仲にも礼儀あり」を常に意識していなければならないのです。

インターネットは、ひとと人との出会いの場を世界に広げました。それでも、創世記にある「人が独りでいるのは良くない」から、「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」との出会いがある、という普遍的な真実は変わることがありません。

ある説教で「主なる神があばら骨を取られたのは、その近くにたましいがあると考えられており、男のたましいの宿ったあばら骨から、神は男とは違う女を作られた」と聴きました。

「違う存在といること=独りでいるのは良くない」ことを切実に知るため、人はパートナーを求めます。それは、ネット上であれ、リアルであれ、昔も今も変わらぬ普遍的な事柄です。

どうか、ネット婚活でもカトリック教会の教えの基本を忘れず、みなさまが良縁に恵まれますよう、お祈りしております。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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2018年10月26日 (金)

カトリック教会の教えと婚前交渉

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

結婚前まで女性は処女、男性は童貞であるべき、だと語られていた時代がありました。

しかし現実のところ、過去にも現代でも、性に淡白であったり、「たまたま」結婚前までセックス経験が本当にない男女もいるでしょうし、「若くして経験豊富」という方もいるでしょう。

セクシャル・ハラスメントが初体験という方もいるでしょうし、堂々と恋愛「リア充しちゃいました」もいるでしょう。

「カトリック教会の教え」に従えば、「婚前交渉はよろしくない」が正しい「教え」でしょう。

しかし、「じゃあ、どこまでが婚前交渉ではなくて、どこからが婚前交渉か?」と日本のカトリック教会で「常識の線」を問われると、答えられる司祭はいないかも知れません。

欧米の古き良き伝統によれば「キスして、ハグして、戯れる」までなら「本人にプロポーズしたら承諾してくれるかの意思確認をした段階でOK」という感じでした。

その後、妻となる女性の父親にプロポーズをしても良いか訊ね、承諾をもらった時点で、妻の家で「結婚してください」と正式のプロポーズをします。この際、できれば結婚相手の家族以外に、後日、結婚式で証人となってくれる友人が3~4人いる方が確かでしょう。

正式のプロポーズ後に、男性は自分の家族に紹介し、結婚式まで妻となる女性の家を訪ねたり、男性も女性を新居に招いたりすることができます。

その間、婚前交渉があるかどうか…は人によりけりでしょう。純粋に政治的な思惑、経済的な思惑などで結婚する場合、婚前のセックスへの意欲がさほど湧かないかも知れません。

ちなみに、明らかに同居していて「事実婚」のカトリック信徒同士の結婚式には一定の審査や条件をクリアすることが求められます。

有名なのは、米国の歌手のマドンナがカトリック教会での婚姻を望んだ時、「既にいる子どもに洗礼の秘跡を授け、結婚する二人がゆるしの秘跡を受けること」を条件提示された、という逸話です。

お互いに好きな同士であれば、婚前にも大いに盛り上がる…ということもあるでしょう。だからと言って、同居していない状態であれば、婚前交渉があるかどうか…まで踏み込んで尋ねるカトリック司祭はいないと思います。

ただし、「婚前交渉後にできちゃった婚」する場合、その旨を婚姻の秘跡を申し込む際に司祭に正直に話さなければならない、と言うことをお若い方々は考えに入れておくべきでしょう。

古き懐かしき昭和時代の日本には「婚前交渉のA、B、C」なるものがありました。Aはキスしてハグだけで、Bはペッティングして戯れることができる、そしてCは性交渉に至る、という区分です。

昭和四十年代以降の基準で見合い婚なら、「婚前交渉はAとBまで」で、Cは「万一、妊娠しても子どもの出産時期的に親にバレないぐらいの婚前か、コンドーム使用」という感じでした。

21世紀の日本では、できちゃった婚でも親が喜んでくれる時代となりました。しかし、最近になり梅毒、クラミジア、B型およびC型肝炎、HIVなどの感染率が日本では上昇傾向にあります。これらの疾患は「過去の婚前交渉」だけではなく、過去の性暴力被害などが原因で無症状感染している場合もあります。

日本では保健所で無料検査を受けられるので、二人で一緒に性病検査を受けてから…ぐらいの話し合いができるぐらい親しくなる前の婚前交渉は避けた方が良いと思います。

万一、性暴力被害や痴漢行為被害による性疾患の感染などであれ、「過去のちょっとした過ち」であれ、互いにあまり深く過去を詮索しすぎないことをオススメします。

ちなみに、欧米の婚前交渉には「セックスすることと肉体関係の度合いで、結婚するか否かを決める」という考え方が、あまり一般的ではありません。

一方では「割り切りセックス」を求める人が多いけれど、「結婚」という社会的な関係を持つなら、心から愛すること、互いに理解し尊敬し合えること、意思疎通に不自由のないぐらいの教養水準があること、日常生活の維持に必要な能力を互いに備えていること…などの条件に対してはとてもシビアで現実的です。

ビジネスや技術関係者であれば、パートナーにパーティー開催や参加に積極的になれるほどのコミュニケーション能力を、農林漁業者であれば、田舎暮らしに必要なパワフルな肉体の持ち主で、なおかつ「愛する人と心から呼べる」ことを切に求める傾向は、欧米人に根強いです。

したがって、結婚はセックスして、子どもを授かった「授かり婚」的な考え方でするものではないし、「イエを守るための子孫が欲しい」という考え方の正当性を証明するためだけに結婚するものでもありません。

ただ、一般的にセックスレスであることが日常茶飯事であったり、長年連れ添った夫婦でも手つなぎ以上のことはしないカップルの多い日本と欧米人は違います。

欧米の方は一般的に愛が深まれば深まるほど、年相応にではあっても、夫婦やカップルは性生活を楽しむものだと自然に思っています。ハグやキスなどは、日常の習慣なのです。

相手の人柄や気持ちを愛しているからこそ身体で愛情表現する文化なので、日本人のように「見た目で性的な魅力が薄れるような体型になったら、『ヤル気が失せる』」などと言うことは、長年連れ添えるほどのおしどり夫婦であればあるほど「アリエナイ!」のです。

「夫婦生活大いに楽しもう!」の傾向がある欧米人は、「夜の営みの頻度や体の相性で話し合いで解決できるパートナー」であることを、婚姻前に確認したがる傾向があります。

88abc_1495_8966ab5a72a60273ad9ca936 婚前交渉の有無は、一生の間何らかのカタチで続くであろう夫婦の営みに対して、「あなたはどのように考えていますか」、「あなたのパートナーはどうあって欲しいと考えますか」に対して、考えが定かであるか、どうかで決めるべきだと、私は思います。

一生の間の夫婦関係に対して明確なイメージが持てない、または動画やアニメのように現実的な人間生活とはかけ離れたイメージしか持っていないのであれば、それは「婚前交渉」ではなく、単に「一回、ヤラせて!ヤリたい!」以上の欲望ではないでしょう。

「婚前交渉」と「何となくセックス」の違いは、長期的なパートナーシップへの思い入れや意欲の有無だと思います。

長期的なパートナーシップを望んで婚前交渉をしたつもりだったけど、若かった、考えが浅はかだった、考えが足りなかった、相手の人柄や心ばえを愛していたのではなく、外見上の「その年代相応の美しさ」を愛していた、愛したつもりだったのは「自分の中にある愛のイメージを相手に押し付けただけだった」などの理由で破綻することはよくあるでしょう。

また、時に「イエや資産を守るために結婚したけど、好きなのパートナーが別宅にいる」などという事例もあるでしょう。

カトリック教会の教えでは、「一夫一婦制」を大原則としています。婚前交渉がたとえあったとしても、一夫一婦制の原則に叶う関係を求めての行為だったのか、一夫一婦制を明らかに否定する「欲望を満たすための行為だったのか」は当事者がしっかりと見定めて行かねばなりません。

若い時には「つい勢いで…」、「何となくそんな雰囲気になって…」、「この人なら性欲を満たすための相手にしても断れないだろうと思って誘惑してみた」などということが、多々あると思います。

そんな欲望を満たすための性行為を「婚前交渉だと錯覚していた」ため、「騙された」などということもあると思います。

婚前交渉と欲望のためのセックスを勘違いしないためには、日ごろから男女にかかわりなく、大勢の人とコミュニケーションして「人慣れ」しておくことが大切です。

ほどよい距離感を取れれば、長期的なパートナーシップを目指すための「婚前交渉」と、欲情に駆られてついつい…の違いを弁えられるようになるでしょう。

わたしは、婚前交渉の存在自体は否定しません。また、実際に婚前交渉の有無で、日本では「聖体拝領せず、祝福で…」などのカトリック教会の教えに基づく習慣の実践は、あまり勧められていないようです。

一方のパートナーがカトリックの教えを信じていても、他方のパートナーが未信者であることが殆どであるため、婚前交渉の是非に対する考え方が全く違うためです。

だからこそ、お付き合いをする男女の方々は年代に関係なく、セックスこそ、たましいとたましいが出会うお付き合いのカタチであることを認め合えるよう、よくよく話し合える関係を築けるといいでしょう。

みなさまに幸せが訪れますように、アーメン。


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2018年10月23日 (火)

カトリック信徒は再婚できるの?

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

今回は、「カトリック信徒の再婚」について考えてみたいと思います。

「カトリック教会の教え」によれば、「婚姻の秘跡によって結ばれた結婚関係は、配偶者の生存中には解消できない」という原則が示されています。

ですが、実際にカトリック信徒の再婚の結婚式に参列した経験者は大勢います。どうしてそうなるのでしょうか。

まず、日本のカトリック教会は「例外的に」未信者同士の結婚礼拝を「初婚で、同棲、事実婚関係になく、一定の条件を満たす場合」認める「場合があります」。

本来的には、カトリック教会の信徒同士、または一方の配偶者となる人がカトリック信徒である場合のみ、カトリック教会での結婚式が可能なのです。

以前、「カトリック教会での婚姻の不解消性と婚姻無効化について」の記事でも書きましたが、カトリック教会の教えでは「婚姻関係が単なる性格の不一致による『恒常的な別居、および民事法上の離婚』とみなされる事例」と「結婚無効性審理の対象となる事例」があります。

DV被害、配偶者の常習的な浮気、売買春による夫婦関係の破綻、金銭や地位身分などの詐取を目的とした結婚関係など、一方の配偶者に明らかな非があり、子がいても完全に育児放棄、養育費の故意の支払い拒否などがある場合、「結婚無効性審理」という審査を経て、「前婚の無効性が認められる」事例がカトリック教会にはあります。

「離婚(divorce)」と「婚姻無効(annulment)」は明確に違います。離婚は、「既存の配偶者との婚姻関係は確かにあったけど、互いに向きを変えて、離れていくこと」を指します。


その点、「婚姻無効(annulment)」とは「婚姻の日に遡って、その婚姻関係の存在そのものが無効であること」をさします。

そして、婚姻無効性審査が必要なのは「配偶者が生存している場合」です。

前婚の配偶者が死亡した場合、「カトリック教会の教え」では、「地上で結ばれた結婚関係」は終了しています。そのため、双方のカトリック信徒の、配偶者死亡後の再婚には全く問題がありません。

また、非常に稀ですが「使徒パウロの例外」という条件もあると聴いた記憶があります。カトリック教会の教えを捨てさせるために謀略を巡らす配偶者と離婚し、カトリック教会の教えに従順でありたいと願う別な人と「再婚」することは福音宣教のために可能だ、という内容であったと記憶しています。

どのような場合であれ、前婚の配偶者が明らかに生存していながら再婚したいと思う場合、「婚姻無効性の審査」が必要となります。

「わたしの場合、再婚のための婚姻無効性審査は認められるのか?」に関しては、所属教会の主任司祭を通じて、司教区の担当部署に問い合わせてもらってください。

なお、「前婚」は一方がカトリック信徒であり、他方が仏教、神道などの異宗教である場合、ホテルや他の宗教施設での「結婚式場」での結婚、「入籍婚」であっても、カトリック教会での祝福や秘跡によって結ばれた婚姻と本質的には同じなので、「カトリック教会で結婚しなかったから、婚姻無効性審査は免除される」ことはありません。

欧米の場合、「離婚や婚姻無効の問題が発生するのが厄介なので、事実婚関係を長年続けてから考えたい」という人が一定割合いるのも、事実婚や同棲に対するカトリック教会の見解は「グレーゾーン」だからでしょう。

また、前婚の配偶者が七年以上の長期にわたり行方不明であり、民事上の「失踪届による戸籍抹消」「婚姻関係の解消」がなされた場合、前婚の外国人の配偶者が「失踪届による戸籍抹消」に該当する長期にわたり行方不明の場合、子の扶養義務を完全放棄、遺棄した場合なども「婚姻無効審理対象」である可能性があるでしょう。

結婚無効性審理に関する書類は、教皇フランシスコの使徒的配慮により、ぐっと簡素化されました。

カトリック東京管区教会法務事務局結婚問題手続部門から、しぇるりんが実際にいただいた「結婚無効性審査・解消手続きに関する手続き説明書」は、記入する書類だけだと、だいたい11ページぐらいです。また、証人が不在の場合の配慮、宗教裁判所が全ての婚姻無効審査に前婚の配偶者をも出廷要請するなど「数年がかりの煩雑さ」は、多くの事例で1~2ヶ月に短縮された模様です。


手続きの簡素化は、カトリック信徒の再婚を奨励するためではありません。

↓婚姻の契約の場面
Pht1918_25 むしろ、イエズスの教えられた「父と母をはなれ、二人はひとつになる」という婚姻の本来の目的とは真逆の虐待、強要、詐取などの被害に遭ったことが原因で離婚したひとが、いつまでも傷心を抱えて生きていることを、イエズスが望んでおられないと判断したからです。

心傷ついたひとが、いつくしみのみなもとである主に招かれて新たに愛する人に巡り会えるなら、それは新たな婚姻生活を通じて二人が真の愛を知るため、イエズスのいつくしみによって招かれているのかも知れません。

主のいつくしみとゆるしを教会がないがしろにしたり、主に招かれて再婚を望む男女が、教会の過度な厳格さで信仰への希望を失ったり、深まるべき信仰を損なうことのないよう、婚姻無効審査の簡素化を推進しているのです。

婚姻無効審査の書類は、前婚での辛い思い出をひとつ一つ辿りつつ、なぜ、どうして、どのように前婚が破綻したのかを詳細に書き記す作業が伴うので、気持ちの上でとても辛い作業です。

記憶の奥底に追いやって忘れたいと思い続けてきたことを、新たに愛する人との婚姻のために、新たなる相手との愛に満たされた状態で書き綴らねばならないからです。

カトリック 信徒であれ、未信者であれ、「配偶者に先立たれ、心細くなったから再婚したい」が動機であるなら、婚活そのものをあまりお勧めしたくないです。

もちろん、未だ子育て真っ盛りの若い方の再婚もあるでしょう。人生をやりなおすことが主のみ旨であり、互いに心から相手を愛し、新たなる家族として出直そうというのなら、再婚もアリだと思います。

カトリック教会では流行りのスピリチャルで言うような「前世でも、次に生まれ変わった時でも…」などの「輪廻転生」の考え方がありません。

いま、与えられた生命を生きているがゆえに、神との約束も存在します。この世での約束は婚姻関係は「神の前での人とひとの約束であるがゆえに」「死に至るまで」守るべきものです。だからこそ、婚姻関係は「一方の配偶者の死により」解消されたと、カトリック教会では考えます。

再婚であり、子育ても終わっている場合には、さらに慎重であるべきでしょう。

さほど若くない年齢だからこそ「子孫や跡取りを残すため」「既婚者として家庭を持ち社会的に認められたいから」…などの社会的な動機づけが乏しい分、より深く『共に死に至るまで「同じ墓に入りたいほど愛せるのか」』という人間的、そして霊性での成長意欲が問われるからです。

また、双方、または一方の子ども(たち)、財産、相続、年金などの問題が関わってくるため、「気楽な茶のみ友達が欲しい」「亡くなった配偶者と暮らした時のように、家事や経済的な支援が欲しい」「老いらくの性の処理相手が欲しい」といった世俗的な動機づけでのパートナー探しはオススメしません。

カトリック 信徒であっても、なくても、年を重ねるほどこれらの動機づけで結婚または事実婚をすると、短時日での婚姻破綻、または各種詐欺被害に遭いやすい傾向があるからです。

50~70代の「中高年の再婚」だからこそ、若かった時よりも純粋でフレッシュな気持ちで、「本当に互いを尊敬し愛し合えるのか」を心身両面から考えるべきだと思うのです。

中高年だからこそ、それぞれがそれまで歩んできた人生への想い、言葉、行いへの誠意、思い入れなどが深く試されるからです。

また、ほんとうに墓場までも生涯を共にしたいのかを互いに明確にし、子どもたちなども含めた家族の同意が得られることも条件だと思います。

カトリック教会の教えは離婚禁止教でもないし、再婚禁止教でもありません。

キリスト教の教会でロマンチックな結婚式を挙げれば「永遠の愛の誓い」が立てられていいな…という極めてセンチメンタルなイメージが、日本のカトリック信徒の気持ちの中にもあるとしたらそれは少し違うと思います。

婚姻は、信仰において神と分かち合う愛を、極めて親密な男女が、男女にしかできない交わり方を人間的に実践しつつ、共に成長し続けられる関係を築くように招かれた男女への召命です。

もし、再婚しないことが配偶者を失ったひとがより深く神の愛を知るためにたましいの益になるのなら再婚しない方がいいでしょうし、再婚することで新たに神と人と愛を分かち合い、成長し合える方向性を示し合えるなら再婚してもいいのだと私は思います。

「一夫一婦制」はキリスト者にとって、イエや財産、家族関係の繋がりのための単位ではなく、神の愛によるつながりをたった一人の男とたった一人の女が二人で築こうと生きる今日一日の誓いであり、明日への希望なのです。

婚姻の式次第は、「信頼と感謝を忘れず、神と人に支えられて仕事に励み、困難にあっては慰めを見出し…成長すること」を生涯、日々、ともに祈れる関係が「結婚」だと語ります。

初恋で初婚で、ともに生涯しあわせで…と生きられればいちばん良いのでしょう。でも、イエズスさまはそのような「理想的な関係をたまたま保てた一握りのラッキーな人だけが、婚姻によって神の愛と人の愛を知るべき」、などと心の狭いことは仰せになりませんでした。

むしろ神の愛、人の愛を心から知り、神のいつくしみとゆるしを人々に多く伝えていけるなら、あなたの人生を新たに始める時を主がくださることもあると思います。

マグダラのマリアを心からいつくしまれたイエズスの愛に倣い、罪のゆるしを受け、いつくしみによって主に結ばれる道を賢く選ぶことができますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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2018年10月19日 (金)

離婚を考えるカトリック信徒の方へ

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とになんのつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰とになんの関係がありますか。

(コリントの信徒への第二の手紙6:14~15)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんには、離婚経験があります。もちろん、自分なりに受忍の限度を超えたと感じ、我が子に害が及ぶことを案じての決断でした。

いま、「もうこれ以上は無理。やっぱり離婚した方がお互いのためかも知れない…」と悩むカトリック信徒の方もおいででしょう。

所属するカトリック教会に毎週のように通っていても、いざ「離婚」を現実的に考えると、主任司祭にはいささか相談しづらい問題だと思います。

そこで、この問題を取り上げました。日本には、まだまだ江戸時代のキリスト教迫害を人道上の悪であると認識できない人々が大勢おり、「キリスト教徒なら、いくら虐待しても十字架が大好きなら、耐えられるだろう」などと虐待行為を正当化したがる輩も大勢いるからです。

「坊主バー」のオーナーである坊さんは、「日本人の多くは、なぜこの地球上にイスラム教があり、キリスト教があるのか、理解しようとしない。それが理解できない人に、僧侶がいくらお釈迦さんの教えを説いても響くことはない」とフェイスブックで嘆いておられました。

素朴に自然を美しいと思い、自然の営みを心から尊ぶことと、「身勝手も欲望も自然の一部だ!」とうそぶくことは違います。

以前、婚活パーティーに参加した時、「キリスト教の人って、どんな相手を求めるんですか?」と尋ねられたことがあります。

その時わたしは「互いに尊敬し合えると思える何か、素晴らしいと認められる何かがあると思える相手です」と答えました。すると、その人は「尊敬ねぇ…分かんないなぁ…」とぼやかれてしまいました。

日本人男性は、往々にして「フロ、メシ、寝る、オレ様主義を受け入れろ」など、自分を一方的に受け入れてくれる女性を探しがちです。家庭はパートナーとの共同作業の場である、という認識が希薄な男性が多いのです。

歌手のさだまさし氏の「関白宣言」にある「貞淑で家庭をよく守る専業主婦の妻像」は、男性の稼ぎが相対的に減ったこと、相対的物価指数が跳ね上がったことで、バブル崩壊してしまいました。

これは、世界経済の影響もあります。米国などで「公民権運動」が盛んになり、男女平等参画社会を目指し、人種差別の撤廃などを掲げるようになったのは、特定の一握りの男性が世の中の全てを動かすには、あまりにも複雑になった科学技術や社会構造の変化ゆえです。

長いあいだ結婚生活の中で、愛や共感のない「お父さん、お母さん」を演じ続けることすら辛い状態になった時、「離婚」の二文字が頭の中をよぎる人は大勢いるでしょう。

また、配偶者からの言葉の暴力、虐待、いじめ、経済搾取、ギャンブル依存、セックス依存による買春行為を続けることなど、結婚生活に決定的な支障をきたす行為がある場合、やはり「離婚」を考えざるを得ない場合もあるでしょう。

もし、結婚前に「言おうと思えば言えたけど、言わなかった『…実は』があった」ことが原因で、相手が離婚を考えているなら、言わなかった側が非難され、責任を負うべき問題です。

以前、割礼の習慣のある国で「割礼の手術を受けた時、医師が誤ってパイプカットしてしまい、通常の性行為では不妊の身体になった男性」が、その事実を見合い相手に知らせず結婚し、その事実を言わずに結婚したということで一年足らずで女性から離婚された、という話がありました。

やはり結婚という自分とパートナーの人生を左右する問題において、重要な真実を隠して結婚しても、後日、必然的に問題が表面化します。

この男性の場合、医師のあやまちでパイプカットされていた事実が問題なのではなく、「通常の夫婦生活では子作りの出来ない身体だ」という真実を、相手と付き合う前に知らせなかった「不誠実さ」がこの場合、問題なのです。

カトリック信徒が「離婚」の二文字を考える時、いちばん困るのは「どこまでが性格の不一致のような抽象的な理由づけによる離婚で、どこからがカトリック教会の教えで許容範囲とする離婚=婚姻無効なのか」の線引きでしょう。

前述のパイプカット男性でも、実は「その時は若すぎて、真実を自ら受け入れ、それを告げてなお自分を受け入れてくれる女性でなければ、自分も相手を受け入れられないだろう」を予測できなかった甘さがあったようでした。

この甘えを「性格の不一致と考えるか、虚偽と捉えるか」は、難しい問題かも知れません。が、この事例の場合、性格の不一致と言い切れるでしょうか。

よく「性格の不一致による離婚」と言われる中に、「似た者すぎて対立した挙句、互いに傷つけすぎてしまった」「自分たちは愛し合って夫婦になっているなどとはとうてい思えない」と「本人が思っている」事例があります。

また、最近増えている事例として、夫は妻がおとなしく家事と育児を行うことを望んでいるのに対し、妻も一人の社会人として外で自分のしたい仕事に全力投球したい、という場合もあるかも知れません。

その背後に、夫の家事への協力が不足している、または収入面で不安だ…などの「きっと誰に言っても分かってもらえない」問題があるかも知れません。

終生独身の誓いを立てた司祭と、恋愛も婚姻も可能な平信徒がいちばん話しづらい夫婦の課題が「セックスレス」「互いのセックスへの思い入れや精力的な違いを乗り越えられない」「どうにも身体が相手を受け付けない」などでしょう。

日本には、セックスレス夫婦、家庭内別居夫婦は大勢いるため、「セックスレスが問題になるの?」とキョトンとされる方もいるかも知れません。

ですが、現実のところ、どれぐらい身体と心と魂での触れ合いと思うのか、どれぐらいの頻度で夫婦の営みがどのぐらい行われるべきだと感じるのか…にギャップがあることを「単純に性格の不一致」の範疇に入れることに、しぇるりんは疑問を呈したいと思って居ます。

やはり、「毎日毎晩、キスして、イチャイチャして当たり前」の夫婦から、「ある程度子どもが授かったら、家庭内別居の方がお互いに気が休まる」という夫婦まで、夫婦生活に対する思い入れは夫婦の数だけあると思います。

夜の営みの相性、求め方の激しさ、頻度、時間帯や性癖など、一年365日二十四時間の夫婦生活について、終生独身の誓いを立てた司祭、修道者には理解不可能でしょう。

夫婦の営みには数十分~数時間の時間、相当な体力的消耗を伴います。また、気乗りする時、どうしても夫婦の営みをする気になれない時がそれぞれにあります。その上で若い女性には生理痛や生理中、妊娠後期~出産後数ヶ月間の性行には、多大なリスクやドクターストップもあり得ます。

また、男性でも「特に欲望が濃厚な方、淡白な方」がいます。欲望が濃厚な方は毎日、朝晩でも…という方もいるでしょうし、淡白な方だと「適宜、ご夫婦が子作りをしないで、いきなり不妊外来においでになっても…」と産婦人科医が勧告する事例もあると聞きます。

愛し合って夫婦の営みをするにしても、身体構造上、性器同士の相性が良いか、否か、また違いを認めて「ダンスを楽しむように」互いの性愛感情と営みをよろこびに満ちたものにするため互いに努力ができるか、は夫婦円満の重要なポイントです。

どうしても、男性の方が激しいにせよ、淡白にせよ、「他にどんなやり方があるんだ?」と自己主張しがちな現実が、夫婦の営みにはあるからです。

その上で、相手の求め方の激しさ、淡白さ、夜の営みの頻度、夫婦の営みを求め合う時間帯など、夫婦生活固有の「誰にも相談しづらい問題」があります。

夫婦生活の頻度が高い欧米系の方と相対的に性に淡白な日本人の国際結婚だと、「体力的に厳しい」と一方の配偶者が根を上げることもあります。逆に、日本人同士でも「もっと夜の営みで愛を確かめ合いたいのに、相手が淡白すぎて誘うと避けられる」ことが夫婦間の不和や離婚の原因になることもあります。

離婚の原因の中で「夫婦の営みへの感じ方の違いを互いに話し合いづらい」はやはり、セックス・カウンセラーやセックスレス・カウンセラーなど、専門家の助けを借りたり、二人が話し合うよう、努力すべきです。

「性格の不一致」を全面に掲げる前に、あなたのパートナーは本当にあなたと細く長いにせよ、深く激しいにせよ、それなりにせよ、互いに愛と尊敬のある関係を求めているのか、それとも本人の身勝手な行動に全く無頓著なまま、「家事や家の切り盛りをしてくれる」「給料を生活費に入れてくれる」『便利な人』『社会的なメンツを保てる相手』を求めているのか、しっかりと見極めるべきです。

というのも、カトリック教会の教えのガイドラインによる「婚姻無効性審理申請」の条件に当てはまる事例は、あくまでも「婚姻の相手が極端な不貞および浮気、金銭詐取、婚姻相手が特定の地位、財産、立場を利用する目的での婚姻、深刻な家庭内暴力、生計費を全く負担しない、育児や家事参画の完全放棄や遺棄、婚前から特定の愛人がいるのに事実上の重婚である」など、世俗的な常識でも、社会的に非難を受けるに十分な行動を行った場合に該当する「かもしれない」だからです。

現状の「婚姻無効」の条件に、「夫婦の営み」に関する条項はありません。

20160402113934 夫婦の営みの頻度が多いため、体力的に負担になることもあります。また、女性側には男性の前戯の少ない夫婦の営みは、局部の奥底から湧き出る堪え難い恥ずかしさ、生理的嫌悪感という心の痛みを深く伴う、局部や他の身体の苦痛や出血などが起こる可能性があります。

逆に男性が「そんなに誘われても、どうしてもその気になれないから夫婦の営みができない。しつこく誘惑されればされるほど、夫婦の営みに嫌気がさす」という生理学的な理由づけが、夫婦仲を悪くし、離婚を考えざるを得なくなる事例は多いと思うのです。

もしも、信者同士の結婚であり、「二人がひとつのからだに結ばれるということは、二人の人が完全に一つのからだ、一つのたましい、一つの霊となってなお、二人の違うひとである続けること」というキリストの教えに従うつもりであれば、夫婦の営みに関しても二人が話し合うことは可能でしょう。

しかし、多くの日本人男性とかなりの確率で外国人男性でも性欲を、「食欲や睡眠欲と同じ当たり前の欲望」以上に考えようとはしません。だからこそ、自らの欲望が淡白であっても、欲望が身勝手で横暴であっても、夫婦としての交わりの中で性行動を考えようとしない人が多いのかも知れません。

これは、とても深刻な社会問題です。

私のスマホアプリの広告に「妻が寝た後トイレで見るアプリ」なるものが表示されることがあります。どうも、奥さん相手では性欲が湧かないし、相手にしてもらえないけど、風俗嬢は金銭負担もあるし、性病に罹患するリスクもあります。

また風俗などの業界に従事する方々にとってその行為は生きていくために代価を頂くオシゴトなので、「お仕事で抜いてもらう」ことに由来する虚しさもあるでしょう。

そこで、「妻が寝入った後にトイレで若くてバーチャル、かつ巧妙に画像補正した美女やアニメキャラを想像しつつ、マスターベーションで済ませよう」という意味合いのアプリらしいです。

たとえ夫婦関係にある男女がそこにいても、互いの性欲や性生活が「夫婦の夜の営み」に結びつかない、「子作りの義務は済んだから、もうこの人とはしたくない」のに、夫婦でいることとの妥協点が「スマホやアイフォンのアプリやゲーム」であることは、既存の買春や風俗への逃避や依存以上に大きな問題だと思うのです。

もちろん、その妥協点に夫婦の双方が納得できるのであれば、わざわざ既にある結婚生活を破綻させる必要はないし、さほど熱く愛し合っている自覚がなくとも単純に「お父さん、お母さん」で生涯を過ごせるなら、それでいいとは思います。

ただ、そのような妥協をすべての婚姻関係、または事実婚関係にある夫婦に強要するのではなく、夫婦の営みがその根本的なあり方として、必然的に生理的快感や嫌悪感を伴うものであること、長期的かつ恒常化した性的な生理的嫌悪感が婚姻の破綻の直接的な原因になることもあることを、聖なるカトリック教会の司教団も認めるべきだと思うのです。

「夫婦の営みに対する感じ方の違いを乗り越えられず、離婚せざるを得なくなる」人々がいる、という事実を平信徒の現実として受け入れ、終生独身の誓願を立て、性欲を断ち切り、キリストとの霊的で密なる婚姻に身を捧げた聖職者、修道者と宣教者の方々の、「母なる教会」としの理解と「もし、イエズスがここにおられたらどうするか?」という観点からの対応を切に願う次第です。

わたしの周囲にも、魂は愛してなお夫婦の営みによる痛みが予測されるため性生活をしないことを選択したカップル、まずセックス ありきで、逢瀬のたびに性欲に溺れているようにしか思えなかったのに、その後紆余曲折を経て婚姻の秘跡によって結ばれしあわせな結婚生活に至ったカップルなど、さまざまなカップルがいました。

あなたのご事情はイエズスだけがご存知のことだとは思いますが、「もう、耐えられない。離婚したい」と考えているカトリック信徒の方、特にお子さんがいたり、まだ20~60代以下ぐらいで再婚の可能性のある方は、万一離婚しても、明日はまた違う人生に出会うこともあることを視野に入れていただければ幸いと存じます。

離婚は結婚の2~3倍のエネルギー、時間を要することですし、「聖なる婚姻の不解消性」を崩していいとは思いません。

だからと言って、親子心中や自死を考えるほど追い込まれた状況で、「キリスト者なのだから、どんなに苦しくとも耐えなくては…」と心も身体もボロボロに病むほど、みずからを追い詰めないでいただきたいと思うのです。

キリストは、心からイエズスを信じる人に耐えきれない重荷を背負わせようと、わたしやあなたを招かれたわけではありません。

配偶者の極端な不貞行為、高額の金銭搾取やDVなどに苦しみ、なおかつ配偶者が「自分にはそれだけの行いをする正当な理由がある」と強引に主張するのであれば、民事離婚を考えても、この世の誰であれ、あなたを責められるとは思えません。

むしろ、不当な苦しみの原因を断ち、新しい明日を見出す可能性を視野に入れて良いと思います。

キリストの良き配偶者であり、おとめマリアの祝福を受けたカトリック教会においても、信徒のおかれた世俗の現実に寄り添い、「この場合、ここにもしイエズスがおられたら、離婚や再婚を認めていただろうか?」という視点を優先的に考えて欲しいです。

と同時に、カトリック教会の教えの最大の弱点である「人間の性欲、性生活、夫婦やカップルの営みの現実と婚姻の秘跡、聖なる婚姻の不解消性というカトリック教会の教えとの整合性」について、まさに婚姻生活、事実婚生活を行う信徒、不幸にも婚姻関係が破綻した信徒、または母なる教会の特別な祝福を受けたさまざまな年代の再婚者など多様な平信徒の意見を大いに取り入れ、現実に即した対応ができるよう、シノドスなどで大いに議論していただきたいと、枢機卿さま、大司教さま、司教さまおよび神父さまがたに心からお願いする次第です。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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«カトリック教会での婚姻の不解消性と婚姻無効化について