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2018年8月17日 (金)

喜びの奥義第五:神殿でイエズスを見出す

イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。

イエスが道連れの中にいると思い、1日分の道のりを行ってしまい、それから、親族や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、探しながらエルサレムに引き返した。


三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問をしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

するとイエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」…イエスの母はこれらのことをすべて心に納めていた。

(ルカによる福音書2:41~51抜粋)

お元気ですか?しぇるりんです。(^.^)

ロザリオの祈り、喜びの第五の奥義はユダヤ教の「バルミツバー」という成人式と「イエズスはまことに神の独り子である」という理解がその前提条件として知っておく必要があります。

現代のユダヤ人家庭では13歳の男女がカトリック教会で言う堅信の教理のようなものを受け、初めてユダヤ教寺院でトーラ(旧約五書)を朗読する資格を得る儀式です。イエズスの時代は男女平等ではなかったので、当然、バルミツバーを行うのは男子だけでした。

イエズスが成人となるための教育が「エルサレムの神殿で三日におよぶ学者らとの対話」という、本格的な「聖霊の導きによる教育」であったことは、驚くべきことです。

私たちには、心の奥に感じる時、感じたことをそっと心に納めておくべきだと思う時、言葉に現して自覚する気づきの時、現した言葉を噛み締め、反芻して思いを深めるべき時、そして、それらの思いが外に向かって現れて何らかの行動を取るべき時があります。

イエズスは、十二歳でエルサレムに登られた時、そっと心に納めておられたことを、言葉に現して自覚する気づきの時を迎えられたと悟られたのでしょう。

Giotto 少年イエスは初めて両親から離れ、一人、エルサレムの神殿に残ります。

聖母マリアを聖ヨセフが少年イエズスを捜し当てるまで、イエズスが何をしておられたのか、聖書は何も語りません。

ただ、イエズスはおよそ四日近い間、ご両親から離れ、一人「父の家」である神殿で過ごされます。

それはまるで、少年イエズスの成人式のようです。どこをどう歩き、何をされたのか、主なる神と少年イエズスご自身以外、誰も知りません。

ただ、「わたしが父の家にいるのは当たり前である」とイエズスはご両親に言われます。これは後年、荒れ野で過ごし、洗礼者聖ヨハネから水の洗礼を受け、福音宣教の旅路で自らの母を「婦人よ」と呼ぶ日が来ることを示唆しているようにも思えます。

聖母マリアは、イエズスが迷子になったこの時の一連の出来事を「すべて心に納めていた」のでした。

そう、まるでこれらの出来事を、『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』という母親らしい一言以上に感じた事柄を、すべて心の奥底にしまいこんでおくべき時だと感じたかのように、ただ心に秘めておかれました。

聖母マリアが心に秘めたことは、後日、「カナの婚礼」の時、言葉と行動として現されます。

それぞれの人生の中で、ただ感じることを感じているべき時、思いを心に納めておくべき時があります。

聖母マリアは神殿でイエズスを見出した時、初めて「この人は、神の独り子として聖霊によって宿ったのだ」と感じられたのかも知れません。

なぜなら、イエズスはこの時初めて「神殿はわたしの父の家」だと聖母マリアと聖ヨセフに言い表し、真の父である聖霊との交わりを公言されたからです。

もちろん、広義で言えば全ての人類の父なる神は主、でもあるので、この時にはお二人とも何のことやら判らなかったのかも知れません。

聖ヨセフがいくら《マタイによる福音書》第1章にある通りの「ダビデ王の子孫」であっても、当時は「大工」と言う職人であり、神殿祭祀になれる家柄でもなく、十分な教育を授けるにはほど遠い状態だったのでしょう。

イエズスはご両親と再会した後、聖母マリアと聖ヨセフへの従順のうちに過ごし、大工の修行をし、平凡な大工として30代近くまで労働と祈りと世俗生活をナザレの里で送られます。

それは、イエズスがわたしたちと全く同じ平凡な生活人として過ごされることで、父なる神の独り子が人間と全く同じものになられるためです。

私たちとまったく同じ生活人として人生の大半を過ごされたイエズスだからこそ、一人の人性を生き抜いた神の独り子として、全人類の罪のあがないの子羊として自ら御受難と十字架の道を歩むことができたのでしょう。

わたしたちはつい、何か主の聖霊が導いて下さると、すぐに答えが与えられると思い込み、気持ちばかりがあせってしまい、同じ場所をグルグルと回る愚を犯しがちです。

しかし、福音記者ルカはあえてこの出来事を「失ったと思っていた神の独り子を見出した喜び」に焦点を絞って書き記しました。

私たちもまた日々の忙しさや世俗的な思い、罪や悪への誘いに遭い、父なる神、神の独り子であられるイエズス・キリスト、聖霊の交わりとの直接的で親密なかかわり合いを見失いがちです。

しかしまた、ある日突然、まるで主イエズスと疎遠にしていたことなどケロッと忘れたかのように、イエズスに切に祈りたくなる日もあります。

私たちが「やっぱりイエズスが一番」と思えるようになった時、そこには守護の天使や天の全てのみ使いらの大いなる「偶有の喜び」があります。

私たちがつい罪や悪のいざないに負けそうになった時、愛や希望を見失いそうになった時、神殿でイエズスを見出された聖家族を思い起こし、ロザリオを祈りましょう。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年8月14日 (火)

喜びの奥義第四:イエズスの奉献

さて、モーセの律法で定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に捧げるため、エルサレムにつてれ行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主に聖別される」と書いてあるからである。

…そのとき、エルサレムにシメオンという人がいて…主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とお告げを聖霊から受けていた。シメオンが「霊」に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は幼子のために律法の規定どおりに生贄を捧げようとして、イエスを連れて来た。

シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉のとおり

 この僕を安らかに去らせてくださいます。

 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

 これは万民のために整えてくださった救いで、

 異邦人を照らす啓示の光、 

 あなたの民、イスラエルの誉れです。」

(ルカによる福音書2:22~32抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^^)

今日は2018年8月14日で、アウシュビッツの聖人、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ殉教司祭の祝日で、明日、8月15日は被昇天の聖母の大祝日です。

「わたしのことは忘れてください。ただ、けがれなき聖母のことだけを思ってください」と言われたコルベ神父さまのお言葉が身にしみます。

また、日本が先の大戦で敗戦を迎えたのも、奇しくも聖ザビエルが鹿児島に上陸したのと同じ8月15日でした。

当時の横浜教区長であった戸田帯刀神父さまは「無原罪の聖母の祝日に始まった戦争は、被昇天の聖母の祝日に終わるだろう」と仰ったと伝えれています。

ホントなら8月14日に迎えるはずだった「日米停戦の日」は8月15日に諸般の事情で繰り延べになったようです。

聖母の執り成しを願ってロザリオを祈り続けることの大切さを深く感じます。

さて、イエズスがお生まれになったのはベツレヘム、神殿で奉献されたのはエルサレムです。直線距離だと20キロぐらいです。生まれたばかりの幼な子を連れた旅は、イエズスの奉献から始まります。

ベツレヘムで清めの期間を過ごした聖家族は、エルサレムでイエズスを初子として神殿で奉献します。

その時、神殿で聖マリアと聖ヨセフはシメオンという司祭に出会い、《教会の祈り》の寝る前の祈りにある「シメオンの歌」をうたいました。冒頭のみ言葉にある「主よ、今こそあなたは、お言葉のとおり…」の部分です。

また、シメオンは聖母マリアに「ーあなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と語ります。

ここから、ルカによる福音書では「聖家族は人々の祝福を受け、ナザレに帰った」とあり、マタイによる福音書では「ヘロデ王の虐殺を避けるため、聖家族はエジプトに避難して難民として暮らし、前王の死去ののち、ナザレに戻った」と2パターンのお話があります。

聖家族は穏やかにナザレの地で大工ヨセフの一家として過ごしたのか、それともエジプトに難民として逃げ延び、日雇い大工の家族として流転の日々を生きたのか。

↓フェデリコ・バルバッチの「エジプトへの逃避途中の休息」

Fedelicovalotti

聖画的には、だいぶイメージが変わるあたりです。わたしは、世界中で大勢の難民が出ている現状を考えると、やはり絵的には「喜び」のイメージから遠くとも、後者のイメージの方がぴったり来ます。

「ーあなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」というシメオンの言葉が、聖母マリアと聖ヨセフの中で、じっくりと幼な子イエズスを育てつつ、親として主なる神に育てられていった。そんなイメージには「難民となった聖家族」の方が、私の中ではしっくり来るのです。

また、幼いイエズスとって、おん自ら一人の避難民の子となり、当時の同年代の子どもらの中でも決してラクではない難民生活の日々を、慣れぬエジプトの地で送られたことで、人類と世のあがないのいけにえとして、神殿で奉献された人生を歩み始められた、とも言えましょう。

幼な子であられたイエズスは、学びの機会も与えられず、ただ聖母マリアと聖ヨセフがそうであったように、父なる神、聖霊との親しい語らい、祈りと教えだけを頼りに異邦人の中で幼少時を送られました。

生まれた時から、異邦人と当時のユダヤ人が呼んでいた人々の中に、父なる神のみ恵みを感じ、育って行かれた主イエズスと、苦難の道を信仰の光だけを頼りに歩まれた聖家族に倣いましょう。

私たちもまた、水の洗礼を受けた時、または洗礼を受けるずっと前に主の聖霊のみ恵みと導きをいただいた時から、主イエズスが共に歩いてくださった道を振り返り、明日からの道を希望の中で歩めるよう、聖母マリアと聖ヨセフの執り成しを求めてロザリオを祈りましょう。

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2018年8月10日 (金)

喜びの奥義第三:イエズスのご降誕

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。…ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなづけのマリアと一緒に登録するためである。

ところが彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。

宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

(ルカによる福音書2:1~7抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^^)

さて、ロザリオの祈りの第三の奥義は「イエズスのご降誕」です。

いわゆる「クリスマス物語」で有名なあの「イエス・キリストの誕生」ですね。

選ぶべきみ言葉は一ヵ所しかないとも思える第三の奥義は、あまりにも多くの私的な想い出と思いに満ちていて、何をどうあらわしたらいいのか、ものすごく悩みました。

逆に未信者さんやミッションスクール出身者の方には「へぇ~クリスマスの話なんだ。そうなんだ。聴いたことある。」「(幼稚園や学校で)聖劇、やったよ。」で何となくスルーされそうな部分でもあります。

20171227122309 イエズスが御降誕の夜、羊飼いたちは、天のみ使いが主を賛美する歌を聴いて、主を礼拝しに、馬小屋に集いました。

三人の博士は「ユダヤの王となる人」を礼拝し、彼らの贈り物を届けるため、おそらく聖マリアや聖ヨセフよりもずっと前に遠くから旅に出てきたのでしょう。

イエズスが、一年のどんな時期にお生まれになったのかは、誰も知らないようです。でも「夜に生まれた」は聖書の記述にもあります。

クリスマスを祝うようになったのは、欧州各地にあった、キリスト教以前の冬至の祭りを起源をしているという説もあります。また、暦的に見て「年度の初め」に「主の降誕」を記念して祝うようになった可能性も排除できません。

夜のいちばん長い冬至の日と主のご降誕が、何となくぴったりと結びついたのかも知れません。

クリスマスのたびに私が個人的に不思議に思うのは、「聖マリアと聖ヨセフに馬小屋を貸した人は、なぜ、イエズスを礼拝できなかったのか?」です。

「聖マリアと聖ヨセフが主のご両親であることを受け止められる信仰があったら、馬小屋ではなく、その家の主人は自分の家にお二人をお泊めしていたでしょ?」と言い返されそうです。

が、逆にもしもイエズスのお生まれになった場所が、馬小屋ではなく、立派な信仰をもつ誰かの家の奥まった部屋の寝台や、宿屋の一室だったらどうなっていたでしょうか。

既にローマ帝国の商業都市が華やかに栄え、石や土で塗り固められた家で、定住生活を送る人も多かった時代のことです。もし、イエズスが立派な建物の中にいたら、昔ながらの生業をする羊飼いのように「卑しい流浪の民」は、街中の家に入り込み、主の独り子を礼拝する栄光にあずかることが出来なかったでしょう。

野中にポツンとあった作業場もどきの「馬小屋」だったからこそ、羊飼いらは主を仰ぎ見ることが出来たのです。

三人の博士たちは、もしユダヤ人の王に逢ったら、必ず帰りにヘロデ王に報告するよう依頼を受けていました。馬小屋に向かう道で夜の闇に紛れていなければ、イエズスさまは、ヘロデ王の命を受け、3人の博士たちを追跡していたかも知れないヘロデ王の密偵などに、聖マリアと聖ヨセフともども、その場で殺されていたかも知れません。

ヘロデ王は、自分ではない誰かの子が「ユダヤの王として生まれた」という預言に対して憤り、もともと殺す気満々でいたからです。疑心暗鬼の人であれば、三人の博士を密かに密偵に追尾させるくらいのことはしたでしょう。

が、三人の博士はその追っ手から「隠れたまま」、無事「ユダヤの王なる方」を伏し拝み、夢のお告げに従い、来た道とは別コースを辿って帰国してしまいました。

冒頭の聖句で「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た…」とあります。

ローマ帝国の時代、住民登録は現代の日本風に言うと「全員が先祖代々の本籍地に家族全員引き連れて行って登録」という形式だったようです。

もしもあなたが現在、大阪市の阿倍野近くに住んでいて、先祖代々の本籍地は「北海道札幌市…番地」だと仮定しましょう。子どもは二人、妻のお腹に一人いて、体の不自由な母親を介護する30代夫婦だとしましょう。ローマ帝国方式でいうと、子ども二人に、体の不自由な母も妊娠した妻も連れ、北海道まで「徒歩、ロバ、または船で行く」という感じです。

これを、ローマ帝国に住む住民が地方ごとに「順次」数年をかけて行なったわけです。とんでもない数の人口移動が、人口調査そのもので引き起こされていたと推察されます。

主なる神はこの時、まるで「確信犯」のように、イエズスの住民登録を、ダビデの町であるベツレヘムで生まれた途端に済ませられるよう、ピタリと時期を合わせられました。

福音記者ルカは、これが西暦何年のいつのことだった、とは書きませんでした。彼が伝えたかったのは主イエズスは、生まれた途端に当時、いちばん貧しく、虐げられていた羊飼いたちの祝福と異邦人である三人の博士の訪問を、誰もが宿にしたいと思わない貧しい場所で受けられた、ということです。

ちなみに西暦(Anno Domini、ラテン語で主の年に、の意味)は、ローマ帝国のディオクレティアヌス紀元の暦を「イエズス・キリストの生誕の翌年」に改定することを教皇ヨハネス一世が学者に委託して作られました。

委託されたのは、6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスです。その天文学的な見解も大いに活用した上で「ユリウス暦」を制定しました。16世紀後半に、現在用いられている太陽暦で、秒単位までの精度が数世紀後に検証された「グレゴリオ暦」に改定され、現在に至ります。

従って、聖書の記述などから「これが正しくイエス・キリストの生まれ年の翌年=数え年の生年=西暦元年!」という信仰の上での決定的な証拠は、残念ながらありません。

「キリニウスがシリア州の総督であった時に行われた最初の住民登録(同福音書2:2)」の歴史的背景に関する史料がない上に、どのヘロデ王が当時の「ヘロデ王」だったか特定できないからです。

その当時のユダヤ王は「ナンチャラ・ナンチャラ・ヘロデ王」と言う正式名称があったようですが、一般庶民には「何があった時のヘロデ王」「前のより残酷なヘロデ王」など、「その時生きた人なら誰でもわかる呼び方」以上は知られていなかったと推測できます。

結果論的に言えば、「それでも地球は丸い!」と主張したガリレオ・ガリレイの処刑に後年、公式謝罪するほど、ローマ教会は天文学と暦学の事実関係への思い入れは特に強いキリスト教会派であると言えましょう。

なので、イエズスさまが何年何月に生まれたかはわかりません。ただ、時節柄、大勢の人がどこにどう移動しても誰も不思議に思わない時期のお生まれだったことは、確かなようです。

それゆえに、幼いイエズスを連れた聖家族は闇に守られ、静けさと祈りのうちに過ごせたと言えましょう。

そのヘロデ王が「三人の博士を追っていた密偵が巻かれた」「三人の博士は戻ってこない」ことに気づいたらしい時点で、ベツレヘム近郊の全ての3歳未満の幼な子を虐殺させた「幼な子殉教」という事件がありました。

幼な子殉教事件の直前に、聖ヨセフが夢のお告げで飛び起きて、夜中に子連れでエジプトに逃げる際にも、あまりにも大勢の人が同時に移動していたため、聖家族は「人々にまぎれて」しまったのでしょう。

人々の大移動、混乱、虐殺、権力に潜む悪意、その中にあった貧しさ、静けさ、祈り、多くの人々の善意、隊商らの行き交う日常や市場、神殿と司祭たち、そしてあふれるほどに豊かな主のみ恵み…福音記者マタイとルカが伝えたかったのは、神の独り子であられるイエズスはまさに当時の貧しいユダヤ人の当たり前の庶民の子、しかも難民の子としての痛みと苦しみを担ってお生まれになったということだと思います。

大天使と天の万軍は、野宿する羊飼いたちに神の独り子の訪れを告げ、たとえようもなく美しい賛美の歌を聴かせてくださいました。

それは、いちばん貧しい人々の代表者として、貧しい馬小屋の飼い葉桶に寝かされた主の独り子イエズスを讃えるに、いちばんふさわしい素朴な信仰の持ち主たちだったからでしょう。

羊飼いたちは、行く先々で自分たちの不思議な体験を語り伝えました。幼く、無力な難民の子として生まれた救い主の、いちばん最初の良い知らせ、福音はいちばん貧しい野宿する羊飼いたちが伝えるよう、父なる神と聖霊がお招きになったのです。

名もなく、貧しい、流浪の羊飼いに倣い、私たちも行く先々で主の名を宣べ伝えることができるよう、聖母マリアの執り成しを願って祈りましょう。


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2018年8月 7日 (火)

喜びの奥義第二:エリザベトを訪問

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶をした。

マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

(ルカによる福音書1:39~45)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

大天使ガブリエルから「…あなたの親戚のエリザベトは不妊の女と言われていたのに身ごもっている…」と聞き、マリアさまは迷わずユダの町に住むエリザベトおばさん?を訪ねました。

画家が描く「聖母マリア」は物静かで、しとやかで、物腰が穏やかそうで、やさしそうで、美しく、聖なるイメージ…なのですが、聖書の描くイメージはもう少し人間的です。

ちなみに「なんで、聖母マリアさまのご絵は、どれも美人ばかりなのですか?」と以前のイタリア人の主任司祭にお尋ねしたことがあります。

神父さま曰く「オオ、マリアさまは美しい方がいいでしょう。違いますか?」というあまりにも月並みな男性的発想で答えが返ってきたので、ちょっとギャフン!としたことがあります。

というのも、マリアというお名前そのものも当時のユダヤ人的にはちょっとだけキラキラネーム風である上、確かに信仰深く、「言葉に出さずに思いを巡らす」思慮深い方ではありますが、同時に好奇心旺盛で行動力ある女性だとも感じるのです。

まさに好奇心旺盛と行動力が最大限に発揮されたのが、「洗礼者聖ヨハネを身ごもったエリザベトをご訪問」という「喜びの奥義第二」のくだりです。

聖霊のみ恵みをいただき、神の子の受胎が知らされたマリアは、同じ時期に「夫ザカリアが神殿に入った時、聖霊によってその懐胎を約束された」エリザベトのもとを尋ねます。


ちなみに、この時点でザカリアは「主のお告げを心から信じなかったため、口がきけなくなって」いました。

ザカリアは神殿司祭の一人でしたが、神殿に入る当番が決まったかなり前からユダヤ教の律法通りに身をきよめているので、「自分には夫婦の交わりの覚え?がない!」、「だいたいウチの家内はトシだから、子どもは生まれない」などの俗な考えを、父なる神のお告げより「自分の常識」をついつい優先してしまったのです。

すると、彼の妻エリザベトに夫とは別便?で主のみ使いから「荒れ野で呼ばわる声がする、というまさにそのいのちを身ごもった」と知らされていたことになるのでしょうが、その部分は《新約聖書》にはありません。

不妊の女と呼ばれ、当時の基準では「妊娠可能な年齢はとっくの昔に過ぎていた」エリザベトは、奇跡の懐胎をただただ信じる喜びをもって受け入れました。

ここらが聖書の登場人物像の皮肉なあたりで、洗礼者聖ヨハネは、自らの誕生を初めは信じようとしなかったため、主の聖霊に「口をきけなくされた」父と、信心深く無条件に自らを受け入れてくれた母の間に生まれることになるのです。


 

Imageエリザベトは孤独だったでしょう。神殿から戻った夫ザカリアは口が利けなくなっており、何やらふさぎ込んでしまったようです。その上、自らの妊娠は誰の口からともなく親族や周囲に伝わり、「奇跡は奇跡みたいだけど…何の奇跡かしら?」と、とかく世間はうるさかったかも知れません。

おとめマリアは、そんなエリザベトのもとに「急いで」向かいました。

自らのこれからの人生を歩みだすために、また老いたエリザベトと共に主の栄光を讃え、エリザベトの孤独を慰めるためでもあったでしょう。

マリアは聖霊に満たされ、「マグニフィカト」を歌い上げます。

「わたしの魂は主をあがめ

 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

 身分の低い、この主のはしためにも

 目を留めてくださったからです。

 今から後、いつの世の人も

 わたしを幸いな者と言うでしょう。

 力ある方が、

 わたしに偉大なことをなさいましたから。

 その御名は尊く、

 その憐れみは代々に限りなく、

 主を畏れる者に及びます。

 主はその腕で力を振るい、

 思い上がる者を打ち散らし、

 権力ある者をその座から引き降ろし、

 身分の低い者を高く上げ、

 飢えた人をよい物で満たし、

 富める者を空腹のまま追い返されます。

 その僕イスラエルを受け入れて

 憐れみをお忘れになりません。

 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

(ルカによる福音書1:46~55)

聖マリアは、三ヶ月間、エリザベトのもとに滞在した、とあります。

なにせ、洗礼者聖ヨハネの誕生は先に夫のザカリアに告げられたのですが、イエズスの誕生は先に聖マリアに告げられました。

聖マリアの婚約者であった聖ヨセフには、「この婚約をどうしたらいいのか」について思い巡らすだけの時間を、主はくださったようです。

それは、聖ヨセフこそ聖母子を支える家長となるのだから、神がお決めになったことに対して、聖ヨセフが聖母子を受け入れるか、受け入れないかを、聖ヨセフ自身が「これが自分に示された主の道」だと納得するか、否かの自由があったとも言えるでしょう。

以前、どこかである司祭が「受胎告知」について説教した日に、小さな子に「ねえ神父さま、もしもマリアさまが大天使ガブリエルにOh, NO!って言ってたら、どうなってたの?」と訊ねられた、という話を見かけました。お説教でも、よく引用されますお話です。

わたしの中には、もし聖ヨセフが『いや、いくら神さまの子どもとその母であり、自分のいまのいいなづけであっても、一生なんてさすがに責任持てないから、やっぱり婚約解消したい!』」と神さまに言い返したらどうなったのだろう?、という素朴な疑問が湧きます。

聖マリアのエリザベト訪問のかげには、神殿でのお告げに逆らって口が利けなくなり苦悩する老いたザカリアと、ナザレの里で大工仕事に励みつつ、誰にも言えない苦悩に煩悶する若い聖ヨセフという、二人の男性の姿もうっすらとかいまみえます。

聖マリアとエリザベトはユダの里で、互いに慰め、励まし、共に働き、主の祝福を頂いた喜びを分かち合いました。

その点、ザカリアも聖ヨセフもそれぞれの孤独の中で、主なる神との内なる語らいを深めることを余儀なくされました。

喜びの奥義第二を観想する際、聖マリアとエリザベトの子を持つ母の喜びだけでなく、ザカリアと聖ヨセフの主との語らいにも想いを馳せてみたいですね。

アヴェ・マリア、恵みに満ちた方

主はあなたとともにおられます。

あなたは女のうちで祝福され、

ご胎内のおん子イエズスも祝福されています。

神の母、聖マリア、

わたしたち罪人のために、

今も、死を迎えるときも、お祈りください、アーメン。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

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2018年8月 3日 (金)

喜びの奥義第一:受胎告知

(洗礼者ヨハネの誕生が予告されてから)六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなづけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。…」

マリアは天使に言った。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる方、神の子と呼ばれる。…」

(ルカによる福音書1:26~35抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

8月は15日は被昇天の聖母の大祝日です。聖フランシスコ・ザビエルは1549年の被昇天の聖母の大祝日に鹿児島に上陸したため、日本は「栄光の聖マリア(被昇天の聖母マリア)」に捧げられました。

なので今月は、ロザリオの「喜びの奥義」の五つの奥義をひとつずつみなさんと一緒に観想したいと思います。

↓フラ・フィリッポ・リッピの「受胎告知」

Rippi_jutaikokuchi

「受胎告知」と言えば、大天使ガブリエル。カトリック教会公認の三大天使、「ミカエル、ラファエル、ガブリエル」のお一方です。

聖ミカエルといえば、悪霊を踏みつけ、悪と闘う姿が有名な一方、旧約続編の《トビト記》に登場する大天使ラファエルは「…恐れるな。神の使いが息子のよい同伴者となってくれるから、旅は順調にいき、息子は元気で戻って来るに違いない。」(トビト記5:21~22抜粋)にある「旅姿のユダヤ人の若者」として描かれています。

ところが、新約聖書でいちばん有名な大天使ガブリエルの姿を描写した部分は、聖書にはないようです。

聖画ではクリスマスの「天の万軍が主を讃え…」というシーンからイメージしたのか、天使というと羽をつけた姿で描写されていることが多いようです。

しかし、「神のみ使い」である天使は、旧約聖書では殆どが「若者」「旅人」といった「どこにでも居そうな青年A」という感じで書かれています。

なので、おとめマリアに現れた大天使ガブリエルも、どこにでもいそうな旅人の姿だったのかも知れませんね。

大天使ガブリエルは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と、唐突にマリアに言います。

マリアは、その言葉を聞き、じっと考え込みます。

神の母となられたおとめマリアは、そのけがれなきみ心で主のみ言葉をじっくりと噛みしめる方だったようです。この時も「なぜ?改めて主が共におられる、と言われるのか?」について想いを巡らしておられたのでしょう。

そして、聖霊によって男の子を産むこと、イエスと名付けよと言われて、困惑されたことでしょう。天使のお告げを受けた時点ですでに、マリアにはヨセフという婚約者がいました。

俗な考えで言えば「ヨセフのヤツ、見た目よりむっつりスケベだったのか?」といったうがったウワサも、小さな村では立つかも知れない…などの心配もあったでしょう。

神のみ使いは「恐れることはない」、と言われました。

私たちは、実にいろいろなものを恐れます。おとめマリアのみ心にだって、人並みに世間の評判、職場の人たちの反応、親族の思惑…などを恐れる気持ちはふと浮かんだかも知れません。

それでも、マリアは大天使ガブリエルの「あなたは神から恵みをいただいた。」という言葉を、自分の恐れる気持ちを超えて信じました。

わたしは、聖母マリアのいちばん賛美すべき徳は「神のみ恵みを心から信じた」ことだと思います。

信じたからこそ、洗礼者聖ヨハネの母であるエリザベトを訪ね、そのもとに留まりました。老いて、不妊の女と呼ばれたエリザベトに宿った子もまた、聖霊のみ恵みで宿ったとおとめマリアは信じ、神をたたえて「マグニフィカト」を歌ったのです。

「主の聖霊の導きを信じる」ことは、心からの喜びの始まりです。

今日の憂いで心が溢れてしまうと、明日もまた主の聖霊の導きだけで生きて行ける、という心の中の希望の芽がしおれてしまいがちになります。「自分の思い通りにならない。自分の予測通りにならない。」にこだわり、主のみ旨とみ恵みを見失いそうになるのです。

でも、聖母マリアさまは私たちに「どんな時にも主のみ恵みを信じ、希望を持ち続けること。小さな事柄にもみ恵みを見出すこと」を「受胎告知」の奥義で教えてくださいます。

喜びの奥義の一連を祈る時、まだ人生を歩み始めたばかりのおとめマリアが、主のみ恵みを信じた大胆さを讃えて祈りましょう。

「お言葉通りになりますように。」と。

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2018年7月31日 (火)

生まれて初めて「クリスチャン」に出くわしたあなたのために

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

さて、わたしは「生まれて初めて、クリスチャン(カトリック)の日本人に出会いました!」という人との遭遇率が高いです。

21世紀の今になっても、日本では憲法20条の定める「信教思想の自由」が十全に機能していません。

そのため、「生まれたら神社にお宮参りと七五三、初詣は神社仏閣何でもOK、結婚式は教会がロマンチックで、葬式は婚家か実家の親の宗派だけど…どれを信じるわけでもない。自治会や商工会議所などの経由で神社やお祭りへのご寄進を求められたら、周囲の動向に合わせて決める」以外の生き方を「異端的」だと頭から決めつけている人はとても多いです。

そんな「普通の日本人」がクリスチャンやカトリックの人に出会うと、「どうしよう?この人、おかしい。」と思い、どうしたらいいかわからず、相手かまわずいきなり「キリスト教はダメだ!」とまくし立てはじめることが多々あります。

また、「クリスチャン?神さまなんて、どうせ信じちゃいないんだろう?」と信仰があることを頭から否定する人も多いです。

しかし、いったん海外赴任などで宗教を尋ねられ「わたしは無神論者です。(I’m an atheist.)」と言うと「まるで悪魔を見るような目つきで、変な人扱いを受ける」ことを知ると「一応、仏教徒ですが教えはよく知りません」などと体裁を調える羽目に陥るようです。

↓長崎、天草地方の潜伏キリシタン教会群遺産で国宝の「大浦天主堂」

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さて、生まれて初めて学校や職場で、カトリックやプロテスタントの信徒に出くわしてしまった方のため、真面目なキリスト教徒の生活についてご紹介したいと思います。

まず、生まれながらのカトリック教徒だと幼児洗礼と言うお宮参りに該当する儀式ののち、親に連れられて「ミサ」という儀式と、日曜学校という「カトリック教会の教え」を習う教室に通います。

そして、小学校低学年で「初聖体講座」を1年間通ったのちに初めて「半人前の信徒」になります。その後中学~高校生で「堅信式」の講座を半年ほど受講し、一人前の信徒になります。

成人は、日本では1年間の「キリスト教講座」に通って洗礼を受けます。

そして、生涯、可能な限りカトリック教会では土曜日の18:00~の「前晩のミサ」または日曜日の「主日のミサ」、プロテスタントでは通常日曜日の礼拝に、毎週参加することが望ましい、とされています。

教会では、ミサ、礼拝、勉強会のほか、信徒会で協議して行う自主的な各種ボランティア活動、聖歌隊、ガーデニングなどさまざまな「趣味的活動、つながりを持つための活動」のオプションもあります。

活動を希望する場合には、自分から申し出た人が参加する場合がほとんどですが、稀に司祭や牧師に頼まれて…という事もあります。

日本では、「月定献金」と呼ばれる「毎月の献金」、ミサや礼拝の時の献金、そして信徒参加の教会維持活動で教会共同体を支えています。

カトリック教会では全収入の3%ぐらいで「教会往復の交通費、車両の場合には駐車場代、献金や活動費」を賄うことが望ましい、とされています。

教会は、「月定献金と日曜日(主日)の献金」で、教会維持に必要な全ての経費と、修繕補修に必要な費用の積立金を賄うことになります。

結婚式、葬式は「信徒会の定める定額」が教会ごとにあり、教会所在地の物価、地価、信徒の平均的な収入の多寡などに連動するようです。

冠婚葬祭は、プロテスタントにせよ、カトリックにせよ自分の所属教会で行います。ただし、所属教会は小さく、参列者が多い結婚式などの場合、より収容人員の多い聖堂または礼拝堂を借り、カトリックなら司祭、プロテスタントなら牧師が出張して行う場合もあります。

一般的に、ご葬儀はご自宅や病院、施設との距離の問題もあり、参列者が教会の庭まであふれるほどでも、所属教会、または自宅に近い教会で行う場合が多いでしょう。まれに、葬祭場を借りて行う場合もありますが、その場合にもキリスト教の十字架などは、それぞれの宗派のものを用います。


また仏教でいう焼香の代わり、「献花」と言ってお花を捧げる儀式があります。


ちなみに、教会での通夜、葬儀、追悼祭に参列される際にお香典をお持ちになる場合、一番無難でどこでも買えて、無難なのは「御霊前」です。キリスト教では通常「お花料」という香典袋を使いますが、どこの文具店でも売っているわけではありません。それに、キリスト教徒ではない親族の一回忌以降の仏事、神事にキリスト者が参加する際も「御霊前」で包んで無難に済ませる傾向があります。

本来なら、堂々と自分の信じる宗派の香典袋で持って行くのがマナー的には正しいのかも知れませんが、そこまで主張しない方が無用のトラブル回避につながると思います。


プロテスタントの方より、カトリック信徒の方が聖堂で冠婚葬祭を行いたがる傾向があります。それは、カトリック教会には「聖櫃」という「キリストのからだ」を表す祝別されたパンを安置してあるため、聖堂じたいに「キリストがおられる」と感じているからです。

クリスマスとイースター(復活節)は、一年の中でいちばん大きなキリスト教一般のお祭りです。よく、キリスト教=クリスマスと勘違いされている方が多いのですが、キリスト教徒はクリスマスにだけ突然どこかから降って湧いて来るわけではありません。

ふだんは教会から足が遠のいている信徒さんや、カトリック系の学校の卒業生らも、クリスマスになると何となく「クリスマス詣で」に来る方が増える傾向は、キリスト教徒のいる国なら世界的にある、というだけのことです。

キリスト教の本来的な意味合いからいえば、キリストのご復活を祝うイースターの方がより大切なお祭りです。

しかし、イースターは移動祝日といって、毎年3月20日~4月末頃の間のどこかの日曜日なので、日本ではキリスト教徒とコアなTDLファン以外は知らない、というだけのことです。

キリスト教徒は冠婚葬祭が全て教会で用が足りてしまうので、神社仏閣に行ったり、参拝するのはかなり違和感を感じます。

また、日本国憲法20条が「信教思想の自由」を保障しているため、神社仏閣に行かない、お金を出さない、参拝しない権利がある、ということもご理解いただきたいです。

会社や病院など、勤務先の地鎮祭やお祓いなどについては、担当者や責任者であれば、ノン・クリスチャンの方の通夜葬儀参列に準じて「礼拝可」となっていますが、率先してやりたいものではありません。

未だ、「檀家を止められると、お寺の維持ができない」とキリスト教徒の離壇を断る事例、キリスト教徒なのに「神社の遷宮費寄付を求められて、断ると村八分扱いや揉め事」に巻き込まれる事例が多々あります。

「大日本帝国臣民は、神社仏閣の維持に金と労力を惜しむな」は戦前の修身の基本理念でしたが、戦後憲法はこれを否定しました。それにもかかわらず、21世紀になってまで戦前と同じ主張を繰り返すのは筋が通らないと言えましょう。

また、戦前の国体思想の影響を受けた新宗教や政治的色彩の強い仏教系の新宗教の信者さんらによる、執拗なストーカー被害やいじめも散見されます。

日本のキリスト教徒の多くは、マイノリティーだから黙れ扱いを受けて来た現実もあります。また、家族全員がキリスト教に帰依する事例も、以前は家族の反対で少なかったのも現実です。

また海外で、「あなたの信仰(宗教)は何ですか?」と「紙の上での宗教は何ですか?」は、意味が違います。

クリスマスの意味合いなんてほぼ知らない欧米の方々でも、今でも「幼児洗礼、児童洗礼は受け、紙の上ではキリスト教徒」の「葬式クリスチャン」が多数派です。

教会共同体のメンバーでない方の冠婚葬祭は教会ではしない、が日本以外のプロテスタントやカトリック教会の基本的な指針だからです。


ちなみに、日本のカトリック教会で未信者(信徒でない人)の結婚礼拝(初婚に限る。所定の面接と結婚講座の参加必須。)や葬儀を行うのは、結婚礼拝(ミサではない)は宣教のため、葬儀は「その人以外の直系親族が全員信徒で、本人が別の宗教で葬儀を出してくれと指定せずに亡くなった場合」の「特例措置」です。

まれに「ガンで亡くなった我が子の葬儀に祈って欲しいけど、お金がなくてお寺は全部断られたから…」と個人的に頼まれたとか、教会の近所に住んでいるだけの方が「葬式は自宅から一番距離的に近い宗派でやってもらうのが自分の田舎の習慣なので、カトリック教会でお願いします」なんて事例を「特例」の例外として受け入れるぐらいです。

日本以外の教会で、そのような「特例」を受け入れることは、ほぼありません。

欧米の方に「あなたの宗教は何ですか?」と聞くと、「私は特に何を信じているわけではありません」と答える方は大勢います。

それは、「紙の上ではどこかの所属教会のメンバーだけど、キリスト教の教えを信仰してます…というほどの知識も気持ちもがありません。でも、現状あるがままのキリスト教社会の常識から敢えてはずれる気もありません。」の意味合いである場合がほとんどです。

「紙の上では一応クリスチャンやカトリック」の欧米の方々が、イマドキ流行りのヒーリングだ、ヨガだ、仏教的な神秘主義だのに憧れ、何らかのきっかけでヒーリングツアーなどに参加したからと言って、彼らが主に漢字で書かれた東アジア文化への理解を示しているんだ!、と短絡的に思い込まない方がいいと思います。


日本人が西洋占星術や「チャペルでの結婚式」などの流行に憧れるように、欧米人も「流行りのスピリチャルだから」憧れているだけの場合が殆どです。


日本のキリスト教徒の立場から、「初めてキリスト教徒と遭遇しちゃった!」日本人にキリスト者が内心「げぇ~!」と感じる代表的な事柄は、例えばこんな感じです。


初めてキリスト教徒にあった日本人に「未知との遭遇」扱いされるとキリスト者がめっちゃ迷惑だと感じるのは、「キリスト教徒=殉教するほど真面目な人」扱いされたり、キリスト教徒と見るや「キリスト教徒だなんて、それはダメです!」といきなり説教されて、完全に辟易したりする場合です。

あと、新宗教への転向や、何の根拠もなくキリスト教の棄教を勧める奇妙な極右的な人々にも出会いますが、正直「迷惑」です。

初めて「未知との遭遇」を果たしたあなたには初めて体験なのでしょうけど、日本のキリスト教徒は日本在留の
外国人も含めて総人口の1%未満です。

キリスト教徒の多くは、どこで仕入れてきたのか意味不明のキリスト教への偏見に凝り固まった「初めてさん」に遭遇する確率が、めちゃくちゃ高いのです。


つまり、キリスト教徒の方はもはや耳にタコができるほどあなたがしたい説教に似たような話を、ヨソでさんざん聴かされた経験がある人の方が多く、キリスト教徒に理解のある日本人に遭遇した経験の方がとても少ないです。

なので、ご自身のカルチャーショックをキリスト者である相手にむやみにぶつけることなく、キリスト教徒と人間として、社会人として対等に付き合いたい方々にオススメの方法論は次の5項目です。

  1. クリスマス、イースターなどの行事の際には、本人が行きたければ教会に行けるよう配慮する。日曜午前やカトリック教徒の場合は土曜の晩にミサや礼拝に出ていそうな熱心な人に対しては、その時間帯の電話連絡やアポを避けましょう。
  1. あなたが判断する品行方正の基準に合っている、外れているに関係なく、相手が主観的に「信じている」ことを否定しない方が人間関係は円満になる傾向があります。
  1. 唯一の神を信じることと、汎神論(すべてのものに真理が宿る)は、似たようで別の考え方なので、「違うものは違いらしい」を認める努力をしましょう。
  2. キリスト教徒は「教会共同体の中で育つ」ので、成人受洗以外のキリスト教徒は神社仏閣での作法や、祖先崇拝感情について、あなたがキリスト教徒の日常生活について知らないぐらい、知らないものだと認める努力をお願いします。
  3. 多くのキリスト教徒が、あなたの偏見を恐れて「現代の隠れキリシタン」として、自らがキリスト者であることを周囲に伝えず、おびえて暮らしている人が多いのが現実です。自覚のないあなたが「キリスト者にとっては怖い人」と認識されている可能性があることを心に留めてください。

生まれて初めて「自称クリスチャンって人に出くわしちゃったよ。何なんだよ!ショック!」というあなたの気持ちも分からないわけではありません。

ただ、あなたのカルチャーショックをむやみやたらとキリスト教徒にぶつけることもまた、相手の基本的人権への著しい侵害行為です。

あなたと会ったキリスト者は、あなたが特別に暴言などでハラスメントを行わない限り、あなたに偏見を持とうと思っているわけではないと思います。

互いの違いを尊重し、違いを豊かさと感じられるようになれば、ギスギスとしがちな日本社会でも、違うからこそ素晴らしいと感じられるようになるでしょう。

あなたの今日が、素晴らしい一日になりますように。

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2018年7月27日 (金)

ロザリオの祈りを唱えよう

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

カトリック教会というとロザリオが有名です。ロザリオはアクセサリーではないので、カトリック教会内の売店などで購入し、司祭に祝福を受けてから使います。

Rosary ロザリオとは、カトリックの念珠という数珠の一種です。栄光唱、ファティマの聖母の祈り、五つの奥義(玄義)と主の祈りのために一つの珠があり、そこから10個の珠がアヴェ・マリアの祈りを10回唱えるためにあります。

このアヴェ・マリアの祈りの珠は、ひとつ一つがけがれなき聖母のみ心を通じてイエズスに祈りを捧げるバラの花束です。

時に、アクセサリー用にわざと四連しかないもの、またはアヴェ・マリアの祈りの珠が10個でないものが市販されていることがあります。ロザリオの祈りのためには、正規品?であることを、ご確認ください。

現実には、エルサレムに行くと、イスラム教徒の方が「カトリック教会の正規品仕様のロザリオ」を巡礼コースの道端で売っていることもあると聞きます。イスラム教徒の方が創って売るロザリオでも、「自分たちが日々アラーに祈るように、このキリスト教の巡礼者も祈るのだな」と思って商売しているなら、それはそれでアリだと思います。

私はロザリオを創る人や売っている人を問題視しているのではなく、それが純粋にファッション目的で作られたもので、祈りをないがしろにする気持ちがそこに込められているのか、否かが問題だと言いたいのです。

ロザリオの奥義(玄義)は、福音書の教えをさらにダイジェスト版にした内容を、絵を見ながら、または奥義を唱えながら、観想しつつ祈るものです。

ロザリオの奥義は、現在は四つあります。

  1. クリスマスに関わる教えである聖母のご受胎~キリストが12歳でエルサレムの神殿で学者たちと論議される時をあらわす「喜びの奥義」。
  2. キリストの洗礼~最後の晩餐までのイエズスさまの公生活をあらわす「光の奥義」。
  3. ゲッセマネの園で血の汗を流して祈る時~十字架による死をあらわす「苦しみの奥義」。
  4. 主のご復活~聖母マリアの被昇天と天のみ母となられるまでを描いた「栄光の奥義」。

個人的に、最近まで私はあまりロザリオの祈りが理解できないでいました。なぜ、観想だけではなく、祈りを唱えるのか、が何となく心に引っかかっていたのです。

ロザリオを一連唱える基本的な方法は、次の通りです。

祈りの導入部分:

  1. 十字架の印
  2. 使徒信条を一回唱える。
  3. 主の祈りを一回唱える。
  4. アヴェ・マリアの祈りを三回唱える。
  5. 栄光唱を一回唱える。

ここまでが、ロザリオの祈りを唱える準備運動のようなものです。

次に各奥義を観想し、または唱え、今日、自分が主に願いたいことを思い描きつつ、ロザリオを一連唱えます。

  1. 奥義を唱える。または絵を思い浮かべながら観想と自分の願い、祈りを主に伝える。
  2. 主の祈りを一回唱える。
  3. アヴェ・マリアの祈りを十回唱える。
  4. 栄光唱を一回唱える。
  5. 「ファティマの聖母の祈り」を一回唱える。

この①~⑤までが一セットで「ロザリオの祈りを一連唱えた」ことになります。

何曜日にどの奥義で祈りなさいとか、一環(五連)を唱えるにはどうこう…はあちらこちらのサイトで紹介されています。また、カトリック関係書籍や祈祷書などに「ロザリオの祈り」が出ているので、詳しくは別途お調べください。

私がどうもロザリオの祈りに馴染めなかったのは、儀礼的な意味合いで同じ祈りを唱え続ける「念唱の勤行」をするのが、個人的にはあまり得意ではないからでした。

以前、その話をしたら「別に奥義だ、曜日だにこだわることはないんですよ。ロザリオの祈りは、決まりきった勤行を毎日ただ繰り返すってことじゃないんです」とある司祭に言われたことがありました。

そこが、よくわからなかったのです。一応の祈りの唱え方のルールはあるけど、本質的には福音書の教えを通じて、念誦しながら行う自由なロザリオの祈り。これが、自由な観想の祈りや、イエズスや聖母への内的な語らいとどうつながるのか、が私には大きな疑問だったのです。

最近になって、その疑問が急に私の中で解けて来ました。

実際、祈祷書や紹介本により、ロザリオの奥義、玄義として紹介されている文章は、書籍ごとに違うことが多く、教会内でも共同体ごとに違うものを用いている場合も多いです。

そのどれを覚えたらいいのか…でつまずいた格好でした。

個人的に「ロザリオを祈る」には、奥義だ玄義だ、というのは文章の体裁ではなく、「福音書」の教えそのものだから、ただご絵を思い浮かべてもいいし、覚えている福音書の場面を描くだけでもよかったみたいです。

もちろん、十字架の印、使徒信条、主の祈り、アヴェ・マリアの祈り、そしてファティマの聖母の祈りは暗記しておく必要はあります。

でも、それ以外については自分のその時の気持ちが赴きやすい場面だけを何回も「一連だけ」祈り続けてもいいし、特に「今日の気持ちにピッタリ来る奥義を一環唱える」でもよかったようなのです。

大切なのは、共同体の規範として定められていない限りにおいて、念祷とロザリオの祈りは心とたましいに常に宿すものであり、ロザリオの祈りという形式の「決まりごと」だと決めつけないことにあります。

某有名女子校を経営する修道女会には、昼前にロザリオを一環づつ唱える、という修道会の規範があると聞きました。学校経営者を兼任している院長シスターは、ロザリオを祈るにも時間を節約しなくては…というわけで普通に日本語で唱えるとおよそ25分近くかかるロザリオの祈りを「私は早口を鍛え上げて、11分で終わらせます」というお話を伝え聞いたことがあります。

もちろん、超多忙な地位の方は致し方ないのかもしれませんが、ゆる~くけがれなき聖母のみ心を通じてイエズスさまと繋がる平信徒の私たちは、もっと気軽に、通勤通学列車の中で、歩きながら、心に一連だけ、ロザリオの祈りがあってもいいな…と思います。

ミサ前後や、ロザリオの祈りを共同体と共に唱える習慣のある教会もあるでしょう。共同体の集いに参加して祈る時間があり、心の余裕が持てるなら、それは素晴らしいことでしょう。

でも、ただ電車を待ってぼんやりと空を見つめている時に心の中にロザリオの祈りがあれば、わたしたちのたましいもまた、豊かにキリストの愛といつくしみに満たされるでしょう。

「けがれなくお宿になられた聖母マリアによりたのんで祈る人は、決してないがしろにされることはありません」。

ルルドで、ファティマで聖母がされた約束は、いまもいつまでも、世の終わりまで確かに守られ続けていくと私は信じます。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年7月24日 (火)

「信じる者は救われる」のか?

主の手が短くて救えないのではない。

主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。

むしろお前たちの悪が

神とお前たちの間を隔て

お前たちの罪が神の御顔を隠させ、

お前たちに耳を傾けてくるのを妨げているのだ。

(イザヤ書59:1~2)

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

緩和医療医の大津秀一氏の著書に《死ぬときに後悔すること25》というのがあります。

健康を大事にしなかった、タバコをやめなかった、自分なりの意思表示をしなかった、夢をかなえられなかった、自分の感情に振り回され、他人に優しくしなかったことなどが先ず、挙げられています。

次に、美味しいものを食べなかった、仕事一途でしたいことをしなかった、結婚しなかった(または出来なかった)、子どもを育てなかった、子どもを結婚させなかった、遺産について考えなかったなど、自分が元気だったとき「いつかやればいい」と先延ばしにしていたことを死に臨んで初めて後悔した、という話も紹介されています。

上掲書の五章に「宗教・哲学編」というのがあります。

その24で死に望む際に起こる「スピリチュアルケアの村田理論」というのが紹介されています。

スピリチュアルペイン、いわゆる「たましいの痛み」は「生きている意味を見出し得ないこと」、「「信頼できる家族、友人、医療者などとの関係性が不在であること」そして、自己決定できる自由を保ち、死に至るまで自律存在で居続けること、の一つが欠けると起こる、と言う説です。

日本人は「基本的に無宗教」と答える人が多い分、現代では「世界で一番死を恐れる」と著者は言われます。

ちなみに、著者自身は地方出身者でもあり何となく「宗教も信仰もないけど、ご先祖さんのいる来世みたいなものを感じる。それは、父がご先祖さんを大切にしていたからだ。」と語ります。

マイ哲学を持つ、ご先祖さんや来世みたいなものを何となく感じられればいいのですが、こればかりは個人の資質や生育歴などによります。

マイ哲学を持てるほど「ロックな人生」を送れるとか、「来世、あるじゃん」と死の間際になって思えればいいのですが、死の間際まで宗教を持つか、持たないか、を先延ばしにしてしまうと「既にある答えにともかくすがりつく」という比較的誰にでもやさしい選択肢を、宗教を持たないことでバッサリ切り捨ててしまうことになりかねません。

だから、「健康なうちに宗教について考えておきましょう」と著者は勧めています。

これには、いくつかの経済的、社会的な理由づけがあります。

私の周囲でもよく見かけるのが「ご家族の大病がきっかけで怪しい新宗教に帰依した結果、医療費以外に、ご祈祷やらお祓いに多額のお金を使った挙句、持ち家を売り払う」という事例です。

新宗教の全てが怪しい金儲け主義とは言いませんが、ルイス・フロイスの《日本史》にもあるように、瀕死の人が居る家に祈祷師、陰陽師、道士や修験者を自称する人々が寄ってたかってご祈祷代やらお志を巻き上げ、ご臨終まぎわと見定めるや、尻に帆かけて逃げ出す、は歴史に残るほど「あるある」なのです。

家族が新宗教に入れ揚げた結果、経済的に破綻し、家庭崩壊…という事例も見られるようです。

やはり、新宗教の多くは「教祖」という「生きている人間」を崇めることが多いので、トラブルが発生しやすいだろう、という理由を大津医師は示しています。

戦前からの新宗教ですと「教祖」さんは既に亡くなっているのでトラブルが少なくなるか、と言えばそうでもないのが現実です。

逆に初代の「教祖」である方が亡くなったあとで、その方の「聖なる教典」などへの解釈が異なる中堅幹部以上の連中が揉め、新宗教は初代教祖の死後数年で分裂する傾向があります。

これは、一部の福音派を自称するプロテスタント会派にも起こりがちな問題です。

上掲書に最後まで宗教について知ろうとしていた八十代の方は「自分の目で考えることが一番大事である」と大津医師に遺言を残されたそうです。

宗教を通し、真実を見通す目を養え、と言われても余命数ヶ月となってから始めるにはいささか荷が重いから健康なうちに考えた方がいいと、この章は結論づけます。

カトリック教会の心ない一部の方々は、臨終洗礼を望む家族や知人を「天国どろぼう」などと呼びもし、本人も「天国どろぼうだね」と自嘲気味に言う方もいらっしゃるようです。

私は、たとえ「天国どろぼう」であっても、主イエズスに信頼をおき、天国にいけると本人が信じることで、心が安らぎ、それまでの罪を償いたいと心から回心するなら良いことだと思います。

「ご臨終のまぎわでも洗礼を受ければ、天国に行けるでしょう(天国行きの確約ではないかも知れませんが、永遠の地獄の火に焼かれる確率がぐっと減ります!)」とその方のたましいが主イエズス・キリストに向かうなら、キリストの十字架の苦しみの慰めになる何かであることに変わりはないからです。

幼児洗礼、若い時からカトリック教会で洗礼を受け、真面目に教会生活をして来た多くの方々には、「タラントのたとえ話」のように、朝から晩まで働いてももらえるのは1日の食い扶持に当たる一タラントでしかない、を考えてみましょう。

しかもイエズスは「一日の最後に来た者から(給料の支払いを)始めて、最初に来た者に最後に支払いなさい」という謎のようなことを言われます。

そのたとえ話通りに世の終わりに天国に入るとすると、最後に天国に入るのは、十二使徒やイエズス生前のみ弟子ら…ということになります。

しぇるりんは、こんな風にイメージしています。イエズスの生前に天国を約束された弟子たちは、彼らの福音宣教により、2000年以上まで綿々と生き続けた人々がキリストの愛に結ばれ、何十兆人もの人々の天国への大行列になることなど想像もできなかったでしょう。

イエズスの生前にはよく分からないままつき従い、イエズスのご受難、十字架上の死とご復活、ご昇天ののち聖霊のみ恵みをいただいた弟子たちは、逃避行の旅を続けつつそれでもイエズスの愛といつくしみを伝えずにはいられなかったのです。

そんな最初の方々ほど、天国への大行列を最初から最後まで父なる神、御子であるイエズス・キリスト、聖霊、聖母マリアと聖ヨセフ、天の万軍である天使とともに、尽きせぬ天国への大行列を観る栄光を頂けるのだと、描いています。

私はきっと行列の最初の方でまごまごと数知れぬ人々の中で歩く一人になれれば幸い、ぐらいの人間でしょう。

それでも、使徒ペトロや使徒パウロなどは心から喜んでご覧になると思います。

「信じる者は救われる」とよく言いますが、この言葉をあたかも「何も考えず、何をされても、何をさせられても人間を疑おうとしない人間は、真実を知らない分、幸せだ」という意味に矮小させようとする傾向が日本にはあります。

↓神のしもべ、福者ユスト高山右近

As20170207003483_comm ほんとうに「信じる」とは、「宗教を通じて、真実を見通す目を養い、自分の目で考えること」です。

「自分の目線で考える」ことは、誰かと比べてより賢明な判断を下すことではなく、「賢明でも、おろかでも、自分の目線で考え」「自分以外の人の目線は、その目線なりに重んじる」ことです。

とかく、森羅万象に神が宿るとする汎神論なのか、唯一神なのか、多神教なのか、一神教なのか…など私たちは政治や社会の判断基準にまみれた「他人事もどきの」価値観の比べっこに走りがちです。

そんな弱い私たちですが、幼児洗礼の方にせよ、一世代目の受洗者にせよ「自分の目線でイエズスと向き合う」よう、日々、心がけたいものです。

今日の一日が、たとえこの世で最後の一日であっても悔いのない日となりますように。

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2018年7月20日 (金)

キリスト者にとっての巡礼の旅、人生の旅

旅には袋も、二枚の下着も、履き物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこでふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

その家に入ったら「平和があるように」と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるのにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

(マタイによる福音書10:10~13)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

イエズスさまは有名な山上での説教ののち、使徒たちに悪霊をはらい、人々を救う聖霊を下さり、福音宣教のための小旅行に行かせました。

まるで、イエズスさまが亡くなった後、使徒やみ弟子らが、聖霊のみ恵みだけを信じ、主イエズスを告げ知らせる生涯の巡礼の旅を送る日々のため、現代風に言えばオリエンテーションをされたようです。

その時、旅路に当時の考えで当たり前の最低限のモノすら持つな、とイエズスさまは言われました。

モノを信じることなく、父なる神への信頼だけで旅をするよう勧められたのです。

長崎、天草地方の潜伏キリシタン教会群遺産など、有名どころの巡礼地に旅行で訪ねて、キリスト教に出会った方も多いかと思います。

また、津和野の乙女峠にも、「乙女峠のマリア聖堂」があり、浦上四番崩れで拷問を受け、地下牢に監禁された安太郎という潜伏キリシタンに聖母マリアのご出現があった、と伝えられ、毎年「乙女峠祭」が行われています。

ヨーロッパ旅行に行って、たまたま聖地の教会にツアーの途中で訪れた方も多いでしょう。

↓西坂の26聖人像(舟越保武氏製作)

015_002 巡礼とは、信仰と出会う小さな旅のようなものであり、神といのち、いのちといのちが出会い、時にたもとを分かつ人生の縮図なのかも知れません。

どんな巡礼がきっかけであれ、小さな旅に主イエズスとけがれなき聖母マリアとのまことの出会いがあれば、わたしたちの人生の旅に小さな祝福と平和が訪れるでしょう。

明日のいのちが知れないほど、不安な時代になりました。災害も頻発し、人災、自死が増えています。「世に身近な人間ほど恐ろしいものはない」としか言いようのない時代になってしまったのです。

だからこそ、イエズスは「そこでふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と言われたのでしょう。

私たちは、それぞれに一番ふさわしい人生という名の巡礼の旅を歩くよう主イエズスに招かれています。そしていちばんふさわしい人をよく見極め、その人のもとにとどまりなさいと言われたのでしょう。

なぜ、どうしてその時、その道を往き、その場に出会い、その人に出会ったのか、私たちは後から考えれば「ああ、なるほどな」と自ら来た道を回想することは出来るかも知れません。

しかし、いま、この場で「どうしてここに、こうしているのか?」を明確には説明もできないし、理由もわからないでしょう。

だからこそ、けがれなき聖母のみ心、神のみ国にあっていまも私たちとともに十字架の苦しみを担われる主イエズスに全てをお任せして、自分が信じる今日の道のりをあゆむため、最善を尽くすため、一日一日を大切に、愛をもって過ごすことが大切です。

千日を一日のごとく同じように働く方、病いを抱えて療養される方、学校に通う方、不登校や引きこもりの方、転々と旅をしたり、転職や転勤をされる方など…それぞれの人生の中で、「今日一日の旅路」があると思います。

今日一日の旅路が安らかなものであれ、苦しみや困難の中にある日であれ、一歩も前に進んでいる気になれない日であれ、後戻りしているようにしか思えない日であれ、けがれなき聖母に祈り、巡礼を旅する主イエズスとともに、聖霊とともに生きるなら、後日、何かしらイエズスの愛にとって価値ある一日であったことに気づくでしょう。

夏休みも近づいて来ました。長崎、天草地方などの聖地巡礼の旅に行ってみるのいいでしょう。

どうかその時、江戸時代の有名、無名の殉教者らと潜伏キリシタンの信仰に想いを馳せてください。

私たちのたましいをキリストに導いてくださり、世に光をもたらそうと祈り続けた方々です。

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2018年7月17日 (火)

信心業としての九日間の祈り「ノベナ」

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

被災や敗戦などの記念日などに「黙祷!」と1分ほどじっと目をつぶる行事に、時々出くわします。

あの「黙祷!」は、被災や敗戦などが自分自身の体験であれば、思わず想い浮ぶ何か、があるでしょう。でも、不思議なぐらいあの「黙祷!」の号令がかかると、頭の中が真っ白になり、何も想い浮かばなくなります。

おそらく「黙祷!」は、私たちが主と向き合って語り合う「祈り」とは本質的に違う何かだからなのでしょう。「黙祷!」には、心の内面の自由を阻む何かが潜んでいるのかも知れません。

↓「潜伏キリシタン教会群遺産」の一つ、カトリック黒島教会の聖堂内。祈りの場に相応しい静けさ。

Kuroshima003

その点、私たちが主イエズスに、けがれなき聖母のみ心を通じて、守護の天使のとりなしを通じて、聖ヨセフの執り成しを通じて「祈る」ことは、霊的で活き活きとした家族的で親しい対話です。

カトリック教会には「九日間の祈り=ノベナ」という祈りを行う習慣があります。

大祝日の前に、また、受験や人生の決断を下す前に「九日間、自分が選んだ信心業を続けて見る」ことを指します。

一般的に信徒の多くは、受験合格、就職、恋愛成就、結婚、帰省、お金が必要など、ごく現実的、かつ平凡な「お願いマリアさま!」的なノベナを行うことが多いです。

しぇるりんは実際、二十年近く前に「マリアさま、正社員の定職に就かせてください」と九日間の聖体訪問と朝ミサのノベナを行ったことがあります。

しぇるりんの通うカトリック教会は自転車で20分近くかかるので、早朝のミサに毎日、は辛かったです。

因みに、マリアさまはしぇるりんに特別に慈しみを下さるよう執り成してくださったせいか、私の生まれて初めてのノベナの7日目には小さな貿易会社に就職が決まってました。まるで、奇跡のように「何となく」決まったのです。

もちろん、ノベナは9日間、続けました。就職が決まってからの2日間はお礼のため、そして、それまで信心業をしてこなかった事への償いのためでした。

九日間の祈り、としては色々な祈りが紹介されています。前回のブログでご紹介した「不思議なメダイ」の「けがれなき聖母マリアへの九日間の祈り」も素晴らしいです。

また、聖ヨセフへの九日間の祈り、九日間のご聖体礼拝など、種類もさまざまです。

修道会や宣教会などでは、大祝日や灰の水曜日、個人の召命について悩んでいる時などに、ノベナを行います。

霊性の進歩のために修道会や信心会全体でノベナを行う場合などには、「九日間の祈り」という期間が重視される傾向があるようです。

その点、司祭や修道者であれ、信徒個人であれ、何かの切実な願いがあってノベナを行う場合には、「九日間」という期間より、聖母マリアや聖ヨセフ、イエズスのみ心や聖母のみ心にその願いを「ノベナの祈り」を続けることで、「九日間」という日数にとらわれることなく主なる神に伝え続けていくことの方が大切なように思われます。

もし、「生まれて初めてノベナをしたい!」と思うのでしたら、自分に出来そうな長さのものを選んだ方がいいでしょう。また、体力的に無理は禁物です。

以前、神社神道を崇敬される方が、息子さんの受験合格を祈願するため、お百度参りを試みたことがありました。

鳥居から拝殿まで100メートルあるかないかの神社で行ったのですが、(100mx2回(往復)x100回=およそ20kmを歩くことになる、を考えてみなかったらしく、足腰が痛くなって30回ぐらいで挫折した、というお話を拝聴したことがあります。

彼女の母としての志は尊いと思いましたが、フルマラソンですら43.195kmです。ほぼハーフマラソンに近い距離をふだんから歩き慣れていない主婦が半日足らずの間に徒歩で踏破するには無理がある、と私は思いました。

ノベナも同じことで、体力的にも、時間的にも無理のない範囲で行うことで、主イエズスの愛といつくしみにじっくりと触れ合うことができるのだと思います。

もちろん、聖母のみ心がとりなして最善と思われれば、まるで奇跡であるかのように個人的な願いを叶えていただけることもあります。

ですが、聖母が私たちに本当に望まれているのは、主イエズスの愛と慈しみ、ゆるしと功徳への望みと信仰に、わたしたちが目覚め、信仰を深めたい、誰かに福音の善いしらせを想いで、言葉で、そしてできれば行いで伝えたいという気持ちになることです。

先日の大阪北部地震の時、ツイッターで「子どもを抱いたまま捻挫した時、子どもを抱いて避難所まで歩いて下さったXX駅方面に勤務の女性の方、ありがとうございます。どうか感謝の気持ちが伝わりますように」という心温まる投稿がありました。

デマが流されるなど何かと非難されがちなSNSも、私たちが意識していても、していなくても主の愛と慈しみを行うなら、善意ある媒体となれるものだと感心しました。

聖カタリナ・ラブレが小さな主の伝達者としての使命を、まだ若く、短い年数の間に終え、その後はご自身が不思議のメダイの聖母のけがれなきみ心に祈りつつ、「祈り、働く」人生を終えたように、私たち信徒もまた、主の小さな道具として誰かに主イエズスを伝え、明日の世代に主の愛といつくしみを継承するため、召されているのです。

どのような災害や悲嘆の中でも、わたしやあなたの心から祈りを取り上げることなど、誰にもできません。

「けがれなき聖母のみ心、わたしたちのためにお祈りください」。

まず、この短い祈りを一日一回、主の愛といつくしみに信頼して心の中でとなえることからはじめて見ましょう。

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«「不思議のメダイ」と聖カタリナ・ラブレ