フォト
無料ブログはココログ

日本ブログ村

  • ブログランキング


    人気ブログランキングへ
  • 日本ブログ村

2017年10月17日 (火)

《聖人たちの養い手》聖ベネディクトの生涯と修道院

『紀元480年頃…神の恵みによって祝福されていたベネディクトは、幼少の時から老熟した心をもち、ただ神のみを喜ばせることしか望まず…少年時代にありがちな魂の動揺にも打ち勝って、《厳しくけわしい道》をすすみました。

…数か所で孤独な生活を送り、誘惑の試練によって心が清められるうちに、その心は神に向かって完全に開かれるようになりました。そして、神の愛に迫られて、他の人びととともに住み、その人たちの父となり、彼らとともに《主に奉仕する学校》を開きました。

…わたしの先任者パウロ六世教皇が言っている通り《愛・従順・清さ・事物に対する精神の離脱・物を正しく使うための技術・精神の優位性・平和・一言で言えば福音が支配している場所》です。』


《聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡「聖人たちの養い手」聖ベネディクト;トラピスト修道院訳;2007;教友社12~13頁》

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

《聖ベネディクトの戒律》は、西方教会(ローマ教会)の修道制度と隠修修道会(東方教会)をつなぐかけ橋とも言える「修道会則」の主な原典のひとつです。

活動修道会や教育修道会のシスター方に、「きっとすごく難しい本なのでしょ?」と言われることがあり、わたしの方が驚くことがあります。

確かに、外に出るのが大好きな多数派の欧米人には「一人ぼっちで山の中におこもりして修行なんて、ナイだろう!」という厳しさが感じられるかも知れません。

しかし、もともと内向的で内心の自由を重んじる日本人には、とても親しみの湧きやすい教父だと思います。

↓人々の心の扉をたたくキリスト

209b3744 大聖グレゴリオの《対話》によると、聖ベネディクトは都会に出てすぐに学業に失望します。そして、実家から付き添って来た彼を敬愛する女中を連れ、荒れ野に行こうとします。途中、ローマ近郊のエンフィデという町の聖堂で引き留められ、そこの教会の近くで主の道を求道します。

ある日その女中は、近所の人に借りたふるいを誤って壊してしまいました。他所者である手前、どうしたらいいか分からず困っている女中のため、聖ベネディクトは奇跡でそのふるいを元どおりにしたのだそうです。

が、この事件は街中の賞賛を集めました。その時、人々の賞賛が、聖性と求道の妨げになると聖人は気づきました。そして、女中を実家に帰し、ローマから更に離れたスコピアという山奥で「ただ一人、キリストとともにいる」生活を続けたそうです。

何かと内心に引きこもりがちな人の多い日本人には、とっても内向的な聖ベネディクトの生き方は、かえって共感を覚えやすいとしぇるりんは思います。

若い日にありがちな誘惑である、内気、放蕩、性欲など多くの試練を主キリストの助けによって乗り越え、聖ベネディクトはただひたすら、奥深い信仰の道、孤独な道へと邁進して行ったのです。

が、何せ求道を始めた途端に奇跡を起こせるほどの隠修士です。奥深すぎる、スゴすぎるで、誰もが聖ベネディクトを生ける聖人のようにしか思えないほどの深みに達してしまいました。

こうなると、人並みに「キリストに生涯を捧げます」という決意の人であっても「ちょっと厳しすぎて、付き合いきれないよ」となってしまいます。

そのため、聖ベネディクトが最初に熱心に乞われて、仕方なく修道院長となった最初の修道院では、聖ベネディクトの厳しすぎた指導が反感を呼び、ついには聖ベネディクトの食事に毒を盛る者が現れました。

毒を盛ったワイングラスは、聖人の十字架の祝福の瞬間に破れ、聖人は毒を盛られた事を知りました。

それまでの聖ベネディクトは、いわば主キリストの聖霊に純粋培養された、無敵の天才ホームランバッターのようでした。

並外れた天才バッターが、選手として誰かにバッティングを教えるとしましょう。「ピッチャーの足元を見る。で、ココでバット振って」という、「人並みに一軍スタメンのプロ野球選手にはとうてい理解しがたい」深すぎる教えになり、「何がなんやら、さっぱり分からない」になりがちなのです。

聖ベネディクトも修道士たちとの軋轢の中で、キリスト者として天才バッターにも共通する、同じような問題に気づいたのでしょう。

野球選手なら、天才バッターがバッティングを教えるコーチ、チームの采配を振る監督になれなくても引退後に転職できます。

しかし一人のキリスト者として、聖ベネディクトにはキリストの道を生涯歩む以外の道はありません。

その上、神の子でありながらキリストは弟子たちや貧しい人、罪人に寄り添う愛を示されました。

キリストに倣う一人のひととして、「ひとり、キリストとともにある」聖ベネディクトは、自ら修道士たちの父となり、修道士たちの父となる人々を養成し、その助けとなる「初心者のための手引書」として、《聖ベネディクトの戒律》を実践し、執筆しました。

その基本は主の受肉の神秘を受け入れた上で、超自然的な神の助けを受けて「祈り、働く」ことにあります。

「神を信じる者には人間的なことを忘れることは許されませんし、また人間に対しても忠実を尽くさなければなりません。」(上掲書23頁)

祈りがキリスト者の生涯を貫く神との語らいの縦糸であるなら、働き、奉仕のわざ、人々とのつながりやコミュニケーション、福音宣教活動は、生きる主と愛を分かち合う横糸に例えられるでしょう。

私たちキリスト者は、主との内面の語らいと言う縦糸と、生きる主の愛を人々と分かち合う横糸で、「わたしのいのち」という一枚の布を織り続ける織り子のようなものです。

縦糸をしっかりと張ろうとせず、横糸を織り込もうと日々努力しないなら、主が与えて下さった「いのち」という糸、「わたし」というはた織りは、糸の束を抱えたまま途方に暮れるだけで生涯が終わってしまうでしょう。

聖ベネディクトは、教会が「世の終わりまで、主の教えを伝え」られるよう、修道制度の基礎となる戒律(生活法典)を確立しました。

彼の時代には、修道者が信徒に敬愛される行いを実践することが宣教活動のかなめだと考えられていました。だからこそ、聖ベネディクトは修道者が模範的な修道生活を送るのに必要な「初心者(Novice)」がキリストとともに生きる人となり、聖性への道をならす使命を果たしたのです。

21世紀を生きる私たちは、壊れたふるいが元どおりになっても奇跡を信じないでしょう。CG画像か、特殊修復技術を用いたのだとしか思えないのです。

そんな私たちでも、ひとりの人の生きざまが変わること、ひとりの人の気持ちが「何となく動いた」ことで、歴史が変わる時、確かに奇跡を実感します。

21世紀の奇跡は、何がどう神秘的なのか、じっくり腰を据えて考えないと分からないことも多いかも知れません。

だからこそ、聖ベネディクトが「ひとり、主とともにいた」時のように孤独の日々を、主の愛に包まれて生き、主の愛を誰かに伝えることを求めるために捧げたいものです。

 

みなさんの祈りと働きが、それぞれの与えられた生活、環境、状況の中で素晴らしい主のぶどうのみのりとなりますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月13日 (金)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:イグナチオ・ロヨラとマルチン・ルターへの考察から

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんの見解として、ブログの末尾に『モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。』の警告文を出しています。

これは、公安当局も含めて日本人の殆どが「伝統的なキリスト教とカルト化するキリスト教の基準」を全く理解できていないためです。

カルト団体を伝統的なキリスト教と同じようなものだと思い込み、洗脳や搾取被害などに遭う方々が今も大勢いることに私の心が痛むからです。

キリスト教の根本的な教えの全ては、「二ケア・コンスタンチノープル信条」「使徒信条」及び「主の祈り」の三つにしるされています。

この二つの信条と主の祈りの根底に貫く理論が「三位一体論」です。

神学的に解くと、三位一体論ほど難しい教えは他にないようで、学問的に考えると神学生の苦手科目ベスト10に入れそうです。

↓シャムロック

Irish_clover アイルランドの守護の聖人、聖パトリックはシャムロック(三つ葉のシロツメクサなどの総称。アイルランド政府の商標登録のあるカタチに近いものの総称)の葉になぞらえ、「父なる神、父の子である主イエス・キリスト、人となられた主のご降誕、福音宣教、ご受難、十字架上での死とご復活により使わされた主の聖霊は、シャムロックの葉が一つの茎につらなるように、一つの神のペルソナである」と解きました。

日本の政治家がよく言う「三位一体改革」は、別々の三項目の行為(「国庫補助負担金の廃止・縮減」「税財源の移譲」「地方交付税の一体的な見直し」)という別々の役所や役人による業務行為が、結果として「一つの地方再生、一つの国庫財源の立て直し」という目的のために結果として機能する、という根拠も方法論も曖昧な「目的論」を一本化して見せるコトバ遊びに過ぎません。

その点、キリスト教の「三位一体論」とは、天地創造から世の終わりまで、すべての被造物の根源を支えるみなもとが「父と子と聖霊」だという意味です。

三位一体のそれぞれのペルソナ(主が人間にみことばを通じてお伝えになったご自身の属性)である「父と子と聖霊」は、旧約聖書、新約聖書のみ言葉、祈り、主からの語りかけ、導きなどと違う様相を示しているように、時と状況に応じて感じられます。

しかし、天地創造から世の終わりまで、すべての被造物をつかさどる根底にあるのはひとつの愛(Caritas)、真理(Veritas)、キリスト(Christos)の源である「主なる神」なのです。

このような「三位一体神学」を否定する「キリスト教系団体」は、不思議なぐらい急速にカルト化する傾向があります。

また、カトリック教会の教皇座、正教会の主教などの「一つの教会」としてのまとまりを否定するプロテスタント諸会派は、地域文化との融合、宣教地での変化に対応してその宗派の数が増加する傾向が見られます。

宗教改革五百周年を迎える2017年、プロテスタント教会の成立を主導したと言われるマルチン・ルターについて多くが語られています。

1483年生まれのマルチン・ルターはアウグスチノ修道会の修道司祭であり、優秀、かつ不器用なほどに真面目で理想主義的な聖書学者だったと言われています。

日本の「世界史」の本には「免罪符(免償符:罪の償いを軽減する護符の一種)の乱発で新旧教会が揉め、宗教改革が16世紀に起こった」と書かれているようです。

が、実際には既に12世紀ごろから、教会改革運動への動きが水面下で何回も起きていました。ドミニコ会、アッシジの聖フランシスコが極貧生活から始めた「フランシスコ会」などを通じ、カトリック教会が使徒ペテロの時代から継承する、あるべき教会」を取り戻そうと動いていたのです。

長い数百年来の葛藤の土壌があってのち、16世紀初頭に免償符事件がドイツで起こりました。

ドイツのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルグ大司教、アウスブルグで大銀行を経営するフッガー家などが手を組み「ゆるしの秘跡の際に、信徒に申し渡される償いを軽減するための『善行』としての寄付」に対し『免償符(免罪符は誤訳)』を発行し、高額の御寄進を集めたのです。

14世紀ごろまでのゆるしの秘跡の償いとは、例えば故意に殺人を犯したら、場合によっては「四年間、パンと水だけで過ごし、祈りに明け暮れなさい」など、考えるだけでも震えが来るほど厳しいものでした。

カトリック信徒でいることには違和感がなくとも、ここまで深い回心と「償いの実行」を全ての信徒に求められると、相当なストレスになったでしょう。また、「あの人は罪人なんだ。パンと水だけで過ごしているよ」などと後ろ指を指す人もいたかも知れません。

そのため寄付が多少高額でも、免償符は当時飛ぶように売れたようです。日本の江戸時代の税制にあった過酷な「賦役」という労働税を逃れるため、高い日当を払ってでも貧しい労務者に「賦役」の代行を依頼したのに似ています。

どのような理由があったにせよ、11世紀ぐらいから、ゆるしの秘跡と償いの関係性をキリストの愛、信仰、希望の教えから根本的に見直す必要性を訴える人々がいたことは確かなようです。


主の名によってゆるしを得て、主に償い、たましいを解き放たれるのはキリスト者の内面における権利であり、義務であるとルターは考えました。そして、「ゆるしの秘跡」の「償い」を、あたかもお金で売り買いできるかのごとく喧伝したのはあやまちだと主張したのです。

聖書学者だったルターの主張は、主に次の4点にまとめられます。

① ラテン語だった聖書の国語訳により、一般信徒が誰でも聖書を読めるようにすること。

② 聖書にしるされた聖三位一体への信仰に基づいた漸次的かつ内心における回心を、人間生活の現実に基づいて実践できる司牧と善き勧めに従いつつ行うこと。

③ 聖書の教えは、人間生活の中で実践されなければならないと主張し、当時は、農民の賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止などを主張。

④ ①~③を実践するためには、免償符発行などによる不透明な金銭の流れを断ち切る、根本的な教会改革が必要である。

趣旨だけを見る限り、③以外は反動的宗教改革のうねりを起こし、トリエント公会議の立役者となったイエズス会の創始者、イグナチオ・ロヨラの主張と大きく異なるようには見えません。

問題が起きたのは、③の「人間生活の中で、それぞれの内心において聖書の教えが実践される場こそ教会である」というルターの考えは、「地域文化に根付いた教会の創設」へと誘導する政治的勢力が、ルターという融通のきかない聖書学者を、教皇座との宗教対立のお神輿として担ぎ上げる口実になったことです。

また、「普遍の教会」である「カトリック教会」との分裂が地域問題で引き起こされる危険ありと考えた当時の教皇レオ十世は、「地域の問題は、大司教が解決しなさい」とし、カトリック教会全体の問題として取り上げようとしなかったことが、さらに政治的波紋を広げてしまったのです。


これらの要因が、政治的にかなり不器用だったルターが、生涯、理想と現実に挟まれたまま、苦悩と不安に翻弄される原因を作り出したようです。

宗教改革の立役者、マルチン・ルターとイグナチオ・ロヨラの決定的な違いは、それぞれの生い立ちと性格に由来するのかも知れません。

愚直なまでに理想主義者であり、どこまでも優秀、真面目な聖書学者であり、模範的すぎるほど模範的なアウグスチノ会士だったマルチン・ルター。

その真面目さゆえに、政治的な思惑などで近づいてくる貴族や商人らのさまざまな思惑に翻弄され、悩み、不安に怯え、苦しみ、徐々に孤立を深めたルター。

一方、宮廷文化の中で生い立ち、一途なまでに中世の騎士であり、武人であり、戦術と政治の深い薫陶を受け、ロヨラ城に育ち、生粋の武闘派だったイグナチオ。

一軍の将として戦場で重傷を受け、敗退、撤退を余儀なくされたのを機にキリストに回心し、「霊操」というビジュアル時代を先駆ける観想手法と、新しい祈りの世界でキリストに出会ったイグナチオ・ロヨラは、ルターとその社会性において全く対照的な人物と言えましょう。

反面、武人だったロヨラはキリストを深く悟り、観想に耽ける日々の中で信仰は深まったものの、回心当初は当時の元騎士らしく、さほど学のない人でした。

回心後に司祭を志したロヨラは、子どもたちと机を並べてラテン語を基礎から習いました。そして、当時の中年と言える年齢で、やっとこさ司祭叙階までこぎつけた上に、イエズス会の創始者となった点でもルターとは対照的です。

16世紀半ばのトリエント公会議で④の「免償符」は完全廃止になり、ゆるしの秘跡の償いが「一般の信徒の実情に寄り添う内容とする」ことまでは解消しました。また、②の「内心の信仰生活の充実」に関しては、初めて信徒向けの「カトリック教会の教え(カテキズム)」を信徒自ら読めるよう定められました。

しかし、①の信徒が自らの判断で聖書を読んでいいのか、③の「社会福祉活動や政治活動など世俗活動に聖書の教えを信徒が実践していいのか」という点などへの改革はほぼ先送りされました。

特に①の「聖書はたとえ自国語訳となっていても、信徒は聖書を個人で解釈してはならない。」という部分は、1962年~1965年に開催された第二バチカン公会議まで、根本的に見直されず、そのため、③も「教会が主導し、信徒は補助する」状態に留まりました。

この温度差が、カトリック教会と「離れた兄弟姉妹たち」であるプロテスタント教会諸宗派との距離感に、4世紀にわたり「傷口に塩を塗る」こととなったのです。

第二バチカン公会議により、エキュメニカル運動(キリスト教一致運動)が起こりました。「離れた兄弟姉妹たち」との直接交流は、宣教地である日本ではキリスト教が育った欧米より今はずっと盛んです。

日本では現在、カトリック、プロテスタントの伝統的なキリスト教宗派では、日本聖書協会版の《新共同訳 旧約聖書・新約聖書(カトリック教会では続編付)》をミサ、礼拝の朗読に用いています。

また、現在も文語体の《日本正教会訳 文語聖書》を用いるハリストス正教会でも、文語体が口語に慣れ親しんだ今の日本人には馴染みが薄いことを鑑み、聖書の勉強会などには《新共同訳 聖書》などの口語体聖書を用いるよう勧めているようです。

カトリック教会で公けの勉強会で用いられる聖書は、日本聖書協会版の他、フェデリコ・バルバロ神父訳《聖書》、フランシスコ会員らが長年、不断の研鑽で結実した《フランシスコ会版 聖書》(どちらも旧約・新約聖書)の二種類があります。

現在、日本聖書協会では新たに「日本聖書協会共同訳版 聖書」の翻訳事業が進行中であり、カトリック教会を含む主なプロテスタント宗派がこの事業に合流していますが、事業は未だ道半ばにあります。

そのため、日本聖書協会版聖書、及びカトリック教会、ハリストス正教会が認めた聖書以外の聖書を主に用いるキリスト教団体は、基本的にカルト集団であると言えましょう。


マスコミ、警察、公安、学校教育では、キリスト教についてきわめて「あいまい、感情的かつ否定的な情報」が錯綜しているのが日本の現状です。

一例として、マスコミが過熱報道した挙句「一種の独立教会系っぽい」実態が判明したのが、1978年ごろに事件扱いされた「イエスの方舟」でしょう。

イエスの方舟事件は、独立教会系の信仰に傾きつつあった故千石剛賢氏が、当時、DVや親らのハラスメントなどで行き場を失い困窮する女性らが共同生活するシェルターを運営するのを、マスコミが面白おかしく書き立てて「事件化」させた典型事例です。

その実態は、聖書の勉強会、共同生活、昨今はやりの「坊主バー」のキリスト教版ナイトクラブへの参加、運営、および共同体の自立採算でした。お客さんの悩みを聞き、人生相談にのる独立教会系のキリスト者としての社会活動のつもりで運営したのがナイトクラブで、当時はオウム真理教並みの危険度があるかのごとく書き立てられました。

日本では、キリスト教関連の伝統宗派とカルト宗教の区別については、マスコミ、警察、公安や教育関係者からの情報が全くアテにならないのが実情です。

マスコミが騒ぎ立てても、「三位一体への是認」「聖書の教えへの従順」があるかなど、キリスト教本来のあり方から見ると危険度の低い団体である可能性もあります。

一方、マスコミが全く取り上げなくても極めて危険性の高い「自称キリスト教系のカルト宗教団体」があり得るということを、「イエスの方舟事件」は私たちに教えてくれました。

キリスト教系の「伝統宗派」と「カルト宗教」の区別の基準は、次の七項目です。

① 伝統宗派が認める聖書を用いているか。


② 三位一体である「父と子と聖霊」を認めているか。


③ 「二ケア・コンスタンチノープル信条」「使徒信条」

  及び「主の祈り」の内容の主旨を認めるか。


④ 徹夜祈祷会、聖霊刷新など手をかざして牧師や司祭が

  「癒し」を与えるような集会を頻繁に行い、見返り

  として著しく多額の献金を要求していないか。


⑤ 「カトリック教会」を自称するのに、司祭は妻帯者。

  聖堂にご聖櫃がなく、赤いランプがなければ

  それは「カトリック使徒教会」。


⑥ 配りきれないほど多くの聖書、冊子の購入、訪問や

  街頭での宣教活動、高額な費用のかかる勉強会への

  参加を強要するなら「カルト宗教」。


⑦ 「世の終わりが近づいた」「再臨のキリストが

  まもなくおいでになる」などと唱えて、貯金の全てを

  出すように求めるなら「カルト宗教」。

①~③に関しては、素人判断の難しい内容も含まれていますが、④~⑦に関しては誰にでも分かりやすいと思います。


やたら宗教関連の冊子を配ったり、売り歩く人は伝統宗派のキリスト教徒にはほぼ皆無です。また、洗礼、祈り、秘跡、祝福などへの対価は頂かないのが、伝統的なキリスト教のあり方です。

献金とは、聖堂や礼拝堂、教会共同体の維持、管理、運営経費及び司祭や牧師の人件費を賄うための「実費」を教会共同体のメンバーや訪問者が出し合う行為であり、「ご利益を買うため」の行為ではありません。

福音宣教活動もまた、それぞれの司祭、修道者、宣教者や信者が、聖霊のみ働きを通していただいた賜物を用いて、日常生活やその延長線上で行うものです。

「少数派なんだから、黙れ」扱いを受け、何かと肩身の狭い思いをしがちなのが日本のキリスト教徒ですが、やはり、理解されるべきは理解を求めたいと思う次第です。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月10日 (火)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:会社、社団法人、NPOを名乗る新宗教とカルト宗教

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

モリカケ隠し解散で衆議院選挙が公示されてから、急に我が家に新宗教、カルト宗教のご訪問が増えました。

たいていは、何やら冊子やパンフレットのようなものを手に持ち、「こんにちは。○◯会です。」などと名乗る方が多いようです。

しぇるりんは面倒ごとには関わりたくないと思い「宗教はいりません」と答えます。すると相手は「宗教じゃありません」と応酬します。

じっさい、先週来た中年女性の属する団体は「社団法人○◯○会」であり、教義が特にあるというより「早起きして、社会に貢献しよう」みたいな道徳倫理を宗旨にしています。

ですが、その社団法人のルーツを辿ると、戦前の教派神道で有名な「ひとのみち」教団、戦後、ごく最近まで高校野球で名声を馳せたPL教団(パーフェクト・リバティー教団、宗教法人)からの分派でした。

日本では、社団法人、草の根運動の○◯会、NPO法人などを名乗り、実際には宗教礼拝活動を兼ねていても、江戸時代から東アジアに広く流布する「講仲間(現代の冠婚葬祭の互助会制度と同好会や信心団体機能を併せ持つ相互扶助団体)」と同じような会計制度と扱われる傾向があります。


現行法で、社団法人と宗教法人のいちばん大きな差は固定資産税率です。

また、宗教法人ではその公益性を鑑み、役員、職員報酬の適切性、寄付金の用途が問われる可能性があります。そのため、頂いた寄付額に対する役員報酬比率を、官僚の天下り社団法人並みの高額に釣り上げたくば、社団法人の方が宗教法人より「役員報酬が高くても税務署に目をつけられにくい」かも知れません。

別の言葉で言えば、あるきわめて危険なカルト集団が広大な敷地と壮大な建物を持つ気がなく、貸事務所か会社の一室で宗教活動を行う気であるとしましょう。その場合、申請手続きそのものが大仕事で、専門の行政書士にかなりの報酬を払う必要のある宗教法人を「必ず」新規取得する必要性は財政上ないと結論づけられるのです。

集会場、教会に恒久的で特別な礼拝所を設ける必然性がないなら、敢えて「宗教法人」にならないという選択肢も日本にはあるのです。

Dad65ca43a4080af3b1cb4602db5117f_t 日本には、「倫理道徳を宗教的な意味合いで求道する人々」が大勢います。

そのため、倫理道徳を語る書籍が飛ぶように売れます。


倫理道徳関係の専門出版社だと、故松下幸之助氏が創設した「PHP研究所」などが有名でしょう。極右派から聖マザーテレサまで、実にさまざまな分野の書籍を「Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)」の理念に沿って出版しています。

聖マキシミリアノ・マリア・コルベと創設者が親しかった「一燈園」も、特定の宗派の教えではない倫理道徳を掃除や善行の実践を通して身につけることを旨とする団体です。


特定の宗教の教えに偏向しない倫理道徳というと、とても耳ざわりも爽やかで、「イエの宗教か、個人の信仰か」という難しい問題に立ち入る必要がない気軽さがあります。あたかも個人的、内面的な宗教性だけで関われるイメージがあり、入信の敷居も低いとつい感じてしまいがちです。


また、日本人は会社や企業内で職員の多くが業務時間内に、義務として宗教礼拝活動に参加を求められることにも寛容です。

海外の企業や官庁と比較してみると、違いは明らかです。

例えば、英国に古くからある警察署の中には、キリスト教の礼拝やミサを行う警官専用チャペルや、署内のフリーメイソン・ロッジなど複数の宗教施設があるでしょう。

警察署の全ての職員は「それぞれの思想信条に従い」、警察業務に配慮した礼拝、ミサ、ロッジの集会などに参加できます。これらの宗教施設は、日本の警察署で言えば「署内の道場や食堂」と同じ福利厚生施設の一つでしかなく、誰一人として強制参加させられることはありません。

それに比べ、教派神道系の「アイスター商事」、プロテスタント教系の「近江兄弟社(メンソレータムの製造元)」などのように、「始業前に個人の思想信条を問わず全員参加の宗教朝礼を必ず行う」会社が日本にはあります。

前者の「アイスター商事」は始業前に「会社の神さま?」みたいな掛け軸にお辞儀をさせるところから業務を始めます。プロテスタント倫理を創立時から社是に掲げる「近江兄弟社」は、クリスチャン、ノン・クリスチャンに関係なく社員全員が業務朝礼時に賛美歌を歌い、聖書の一節を読むなどの宗教朝礼があるようです。

倫理道徳団体を自称する各種団体の「カルト度」、その危険性の判断は、関わる当事者にも困難でしょう。

というのも、まったく危険性のない「伝統宗教の延長線上の倫理道徳団体」も多くあるからです。

企業が宗教礼拝活動を業務の一環として行う多くの場合、職員は「在職中の職務」として関わっているに過ぎません。会社を辞めたのちは、「会社の宗教」との関わりも自然消滅する場合がほとんどでしょう。


また、例えば百貨店や病院、介護施設などが神社神道で定期的に「お祓い」などを行う場合、本人の思想信条に関わりなく「お祓い担当者」に指名されたら、何教徒であれ与えられた業務として行うと日本では理解されています。

本来なら「宗教行事はその宗教の信徒」が行うのが国際的には原則です。

ですが、「宗教は何やら否定的、消極的なもの。イエの宗教の転向は人の和を乱すもの」だと思い込まされている人が日本の多数派なので、「特定宗教に所属しない=テキトーに無神論」を自称する人が多数派になってしまったのです。

現状では、特定宗教に明らかに帰属を表明し、他の宗教に帰属しないことを表明する「日本的な意味合いで無神論者ではない日本の住民」は、専業の宗教家を含めても総住民の数%に過ぎないでしょう。

それでも大手、中堅の建設会社が「地鎮祭」などの要員として、神社神道の宮司らを何らかの部署に常時雇用しておくことは可能でしょう。地鎮祭会場などの設営もまた、ゼネコンがお金を頂いて行う「業務」だからです。

しかし、全ての百貨店、病院、介護施設などに「お祓い担当ができる神社神道の知識豊かな氏子で、なおかつその職場で必要なスキルのある方」などという、リアルで滅多にお目にかかれない御仁を全店、全施設に常に配置することは無理でしょう。

カトリック信徒が「宗教家との話し合いがうまそうだから」という理由でお祓い担当になった場合、お祓いで神社神道式の礼拝を「業務」として行うとか、長崎の「おくんち」など自治体を上げての観光シーズンの時、商店街の一員として神社神道の神社に寄付するなどは「業務上の必要」として日本のカトリック教会は認めています。

長崎市の非カトリック信徒の商店主も、大浦天主堂前の商店街を練り歩く「聖母被昇天祭の聖母行列」の時、「被昇天祭の観光商戦」に商店街の一員として参加するからには、大浦天主堂に相応の献金をしている事例もあるからのようです。

しかし、社団法人、会社、NPO法人、「草の根グループ」などの形態でありながら、政治活動、経済搾取活動で何らかの目的を遂行するための隠れ蓑として、大規模なカルト宗教活動を繰り広げる団体も存在します。

昨今の政界でいちばん有名な「草の根カルト集団」と言えば、仏ル・モンド紙などで何度も取り上げられた「日本会議」でしょう。

また家出、DV、ハラスメント被害などの被害者が警察などで保護を受けられず、たまたま受け入れられた先が「搾取行為を是とするカルト集団のアシュラム」だったと言う事例はよく聞きます。

後日、騙されたのだと分かっても逃げ出すアテも意欲もなくなるよう、取り込んだ弱者を積極的に勧誘の先頭に立たせ、新たなカルト被害者を取り込ませ「逃げるに逃げられない負の連鎖」へと追い込みます。

新宗教集団は、取り込んだ弱者により弱者を搾取させる負の連鎖に追い込むことで、自らが貧困ビジネスのビジネスモデルから抜け出せないまま「カルト宗教化」していく側面もあると言えましょう。

その教えが宗教的なものであるにせよ、倫理道徳的なものであるにせよ、「節操か、世俗か」の選択をたびたび迫られる点では、本質的な違いがありません。

教えや倫理、道徳への節操を守ろうとすれば、世俗との対立は避けられません。

中国の秦王朝時代に起きた「焚書坑儒(経書である儒書百書を全て燃やし、儒者を穴埋めにした思想弾圧事件)」のように、「家族制度を重んずる、宗教色が比較的希薄で倫理的な教え」であっても、世俗との深刻な対立は発生し得るのです。

どのような弾圧にあっても教えへの節を守ろうとすれば、世俗の圧力で窮し、世俗と妥協することを趣旨とするなら、世俗の目まぐるしい変化に教えが振り回され続けることを意味します。

どこまで節度を通し、どこまで世俗と妥協するかの基準を見失わないため、「教えの原点」はコトバで明確に語れる方があいまいであるよりは有利だと言えましょう。

ヒトは時に、とてつもない狂気に自ら身を投げ入れてしまう人々が多数派となる時代を生きるハメに陥ることがあります。

だからこそ、まず一人の人間として自分自身に率直になり、「自分の頭で考える能力を自ら養い、自分らしい判断力を持つこと」が大切なのです。


自らの頭で考える「自分力」こそ、日進月歩で進歩する洗脳技術に抵抗する最初で最後の砦と言えましょう。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ




Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月 6日 (金)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:カルト宗教の定義

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

今まで4回にわたり、「宗教」と「カルト宗教」の違いに関して、論考してまいりました。

Unknown 実際問題、カルト宗教により何らかの被害に遭った方は、交通事故の被害者ぐらい多いというのが、しぇるりんの印象です。

しかし、カルト宗教に洗脳されお金を取られましたと言っても、「それはお気の毒に」以上の補償は何もありません。


以前は、イエスの方舟問題、「家出の統一教、我が子を返せ訴訟」など、さまざまな個別の民事集団訴訟などが行われましたが、被害者への賠償が十分になされたとは言えません。

もちろん、オウム真理教事件のように他者に危害を与え、社会に大きな損失を与えた刑事事件であれば、捜査の対象ともなり、公安警察も動きました。

しかし、オウム真理教がいくら大勢の無辜の信徒被害者を出していても、1995年3月30日に起きた「警視庁長官狙撃事件(未解決事件)」さえなければ、あれほど根こそぎ徹底捜査されることもなかったかも知れません。

つまり、洗脳被害に遭った人はその被害の甚大さを悟ることもなく、救済を受けることもできず、日本ではカルト宗教を政治的な意図で故意に野放しにしている危険な状態です。

日本以外の国では、カルト宗教活動は「社会的な破壊行為」として、伝統宗教諸宗教諸会派の宗教家の協力のもと、政権、警察と公安関係部署で監視、取り締まりを行なっています。

国際的なカルト宗教の取締り基準は、下記の4項目です。

① その集団は、社会の安寧秩序を乱す行為を行なっていますか。

どの国や地域にも「社会の安寧秩序」の基準があります。カルト宗教に関しては、その基準を時代に沿って見直し、比較的穏健な宗派の複数の宗教家の慎重な判断を経て、「明らかに安寧秩序を乱す」事態が発生した場合、その宗派への適切な勧告を公安部署を通じて行います。

例えば、私が調査した韓国の場合、仏教であれば本山からの勧告、場合によっては僧侶の破門、キリスト教であれば「教会そのものの破門、信徒への帰正の呼びかけ」などが実際に報道機関などを通じて行われたことがあります。

② その集団は、不当な金銭搾取行為を行なっていますか。


カルト宗教で金銭搾取行為と言えるほどになると、全財産を失くして自殺者が続出、社会問題が起きるほどの規模で、やっと「不当な金銭搾取」と認められるようなものだと思ってください。

実際のところ、英国のヘンリー八世は国を挙げてキリスト教に熱中しすぎた挙句、「英国国教会(現聖公会)」を創ってしまいました。また、アイルランドのクライストチャーチ大聖堂を18世紀に再建しようとしたウィスキー醸造会社のオーナー、ヘンリー・ローは、七年間も聖堂再建に入れ上げた挙句、会社は破産。結果として、ライバルだったギネスビールに会社を売却する憂き目に遭いました。

歴史上このような事例があるため、金銭被害だけでカルト宗教被害が認められる事例は多くない印象を受けます。

③ それは「秘密結社」ですか。

「秘密結社(Secret Society)」とは、「その存在すら知られていない組織」の意味ではありません。

実際、秘密結社として有名な「フリーメーソン(Free Masonery)」や「イルミナティ(Illuminati)」にも公式ホームページが存在します。また、内部組織について真摯に考証した著書も存在します。

あの、ケンタッキーフライドチキンの前にいる「カーネルおじさん」が、生前みずからフリーメーソンであると公に名乗ったのをご記憶の方も、いらっしゃるかと思います。

秘密結社にはいくつかの定義があります。

⑴ 一定の条件を満たす人が招待制で入会を許可、

  不許可を結社側が決められること=誰もが自由に加入

  できない宗教団体。

⑵ 活動場所、定期的な集会の日時、集会の活動内容が

  一般に公開されておらず、個人情報以外の問題である

  儀式の作法、式次第なども非公開であること。

⑶ 金銭のやり取り、秘密結社の中で秘密裏に話される

  内容が社会、経済、政治、外交などに及ぼす影響が

  甚大だと考えられること。

⑷ 秘密結社の教義やその成員が共有する価値観が

  「秘密」であり、その時代、その場、その時の社会に

  通用する価値観や人類普遍と考えられている

  「平等、友愛、基本的人権」などの原則を敵視する

  内容なのかどうかが明らかでないこと。

④ その宗教団体は、その国、地域で社会通念として明らかに危険視されている教義を信奉していますか。

④に該当する日本国内の事件では「集団自殺を教団の核心教義とした」戦前の「死なう団事件」などが挙げられます。


また社会通念に照らし合わせて考える場合、日本では合法な創価学会は、フランスでは「危険な秘密結社であり、カルト宗教」として監視対象となっており、布教活動を禁じられています。

また、100ヶ国以上の西欧諸国や日本ではあまり危険視されていないセブンスデーアドベンチスト教会が、ロシアでは「世紀末論を定期的に流布する危険なカルト」認定されています。

深刻な集団虐殺、集団強姦などを行なったことで④に該当するのは、シリアなどのISや、ミャンマーの「仏教のビン・ラディン」と呼ばれるアシン・ウィトラ僧正の影響を受けた民族浄化運動によるロヒャンギャ虐殺とイスラム教徒迫害運動などでしょう。

日本では、「穏健な宗教」と「カルト宗教」の区分が時の政権のご都合主義に左右される傾向があります。

つまり、国際的に一般化された基準に準拠しているわけではなく、日本的なタテ社会意識の中で宗教団体を階層化しようという権力者の圧力の方が、「穏健な宗教か、カルト宗教か」という区分よりも重要視されていることが、日本という国の問題点なのです。

現実にカルト宗教の洗脳被害に遭ったことで苦しみの日々を送り、金銭搾取により甚大な被害を被り、一家離散の憂き目にあい、人生が狂ってしまった方々のお気持ちを考えると、何ともやるせない気持ちになります。

カルト宗教に「騙された自分が悪いんだ」と自分を責める以外に方法がない方、脱会したくとも脱会できないで苦しんでいる方々が日本には大勢います。

同じ洗脳搾取被害でも、ネズミ講の詐欺被害であれば、場合によっては警察に訴えることが出来るのに、カルト宗教相手では訴えすら聴いてもらえません。


だからこそ、このブログを読む皆さんにカルト宗教と宗教の違いをご理解いただきたいと切に願うわけです。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年10月 3日 (火)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:「教え」、「個人崇拝」と「世紀末」

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

前回は、洗脳術の手法について、お話しました。

さすがに「薬物洗脳とかは、どこか違う世界のお話でしょ?」と思われた方が多いと思います。

以前、インド哲学を学びに留学した女性に「インドでは、見知らぬ他人に出された飲食物は口にしないのが原則」と諭されました。飲食物に脱法ハーブや違法な麻薬性薬物を入れ込んで、ヨガなどに中途半端に興味をもった外国人を洗脳して教団の広告塔にする、強姦して売り飛ばすなどは日常茶飯事だからだそうです。

日本でも、誰もが入れるバーなどで、脱法ハーブが当たり前に流通するヤミ市場が存在すると聞き及びます。やはり、付き合う相手、出入りする場所には注意が必要でしょう。

日本人は、手先も考え方も繊細で細かい部分へのこだわりが強いわりに、大ざっぱな考えを生きることが苦手な人が多いようです。

別な言葉で言うと、細部をすべて埋め尽くさないと、大枠の体系的な哲学や宗教の教えを理解した気になれない人がとても多いのです。

どこの国や地域の人でもそうですが、宗教的なセンス、霊感、直感があり、宗教や信仰心への理解を一定以上深められる人は総人口の5%~10%以下だと思います。

もともと、宗教の教えやその原典を翻訳であってもすらすらと読み解き、宗教的な感性を、論理的、哲学的に自分の中で深められる素質のある人は、それほど多くないのです。


日本以外の国で多数派の「さほど宗教的でない人」は、宗教や信仰への理解の深い人に「なぜ、どうしてコレをするのか、しないのか」をざっくり教えてもらうこと、教えや価値観をひとと人との関わり合いに応用し、社会生活で必要な人間関係を円満にすることにより力点を置いています。


だから、海外だと、より宗教的に理解の深い一人の家族の勧めで一家揃って改宗ということも多いのです。

ざっくりと教えの体系を身につけて日常生活で活かすことと、教えの細部までじっくり探求することは、ハイキングや山歩きをすることと、専門的な冬山登山やロッククライミングをすることぐらい違います。

前者は「習うより慣れろ」という日常生活レベルの問題ですが、後者は専門的な指導や鍛錬、素質や本人の意志の強さに好き、嫌いだけでなく、罷り間違うと命を落としかねない問題だからです。

ざっくりと教えの体系を生活に活かせるようになるだけでも、日本人にとってキリスト教は難攻不落に感じます。

これは無意識のうちに持っている「気高いキリスト教徒」というイメージのせいだけではないでしょう。

日本人は「ざっくりと教えを日常生活で何となく自分なりに、矛盾があっても実践」でき、日曜日に自主的にミサ、礼拝に個人や家族単位で行きたいなぁ、と思えるようになれればまあ平均点以上かな、で満足感を得られないと感じるように思えます。

Moon_autumn01 日本の庶民信仰の歴史を、紐解いてみましょう。

安土桃山時代までの日本では琵琶法師、修験者、歩き巫女、法師など、遊芸の民、無名の霊感ある語り部らが一定地域を練り歩き、各地のニュースを伝えるとともに、神社仏閣の信仰、由来などを解き聞かせては日銭を稼ぎ、また神社仏閣への寄付集めを行なっていました。

そのため、富士山の見えない地域にも富士講が根付いた地域などがあったし、戦国時代には全国各地に一向宗が広まったりもしたのです。

そこには教えを広めた人との人間的な信頼関係、教えを受け取った人と村人らの強い気持ちのつながりがありました。

そのような「ひとと人とのつながりを重視する小規模な宗教活動グループ」に自分の居場所を求める傾向は、いまの日本人の心の中にも何となく残っています。

そのため、洗礼などの入信儀式を受け、大規模な礼拝やミサなどにいくら通っても、何となく「自分の居場所があるように感じられない」日本人がいまもいるようです。

司祭や修道者が小規模な宣教活動グループを発足させると、必ず「○○神父さんファンクラブ」「△△修道会の集いファンクラブ」みたいな小グループに居場所を求める人が引きも切らずに集まります。

日本ではカルト宗教でも、30人規模以下の小グループに信徒をまとめ、小グループをまとめる中間カリスマを置き「タテ社会」の階層社会を築こうとする傾向が見られます。

海外でキリスト教から派生した「???な集団」や、一部のイスラム教や仏教の過激右派なら、はじめからサクラを使ってでも大集会を開き、大勢の人を一ヶ所に集めて人々の信頼と名声を高める、という手法を用いるでしょう。

しかし、日本では「対面で互いに顔見知りになれるぐらいの小グループでの居場所」の方が、大規模集会に参加するより信頼をおけると感じます。

これはもともと、日本人の庶民信仰が個人から個人への口伝であったことと関係があるようです。

また、日本人は哲学やら神学と、霊感的なもの、直感的なものとのつながりや理解があいまいです。

六道輪廻(前世から転生するという仏教的な考え方)を、本人の思い、行い、怠りと全く関連づけずに運命論的な「転生がある」という、どちらかというとラノベ的な発想を本来のお釈迦さんの教えに関係なく、「何となく」思い込んでいる日本人は高齢者にも大勢います。

本来の六道輪廻説は、現世での行いが善ければ、よりよいものに生まれ変わり、悪行を尽くすなら畜生道に堕ちる、という意味です。だから「生きている間にお釈迦さんが説いた善い行いをしなさい。功徳を積みなさい。」という意味合いで解かれたものです。

このような直感的、かつ霊感的なもの、パワースポットなど、現代の遊芸の徒である芸能人がまことしやかにこれでもかと、テレビで語ります。あれこそ、「芸は身を助ける」の芸のうちなのです。

しかし、彼らが自らの芸に真摯であるがゆえに、語られていると、何となくその気になる方もいらっしゃるでしょう。


そうなると、哲学的かつ神学的なものへの理解と、直感的に自分が感じる何かの間に隔たりがあっても、全く自覚していない自分に気づかない、という奇妙な現象が起こります。

世の中にはいろいろな考えがあり、いろいろな見方があります。

それを否定はしませんが、論理的な思考を直感的なものや、遊びとしての占いやまじないにごちゃ混ぜにして、自らの人生やいのちを決定づけるのは、如何なものでしょうか。

生まれることに関しては仏教倫理に関係なく輪廻転生を信じ、生きるためには「いいとこ取りの日本式」を受け入れ、死んだら「安らかに天国に行ける(天国はキリスト教用語)」から、お坊さんにお経を読んでもらいましょう(アレ?)、で何ら疑念を持たない人が日本には大勢います。

これでは、日本人はみな、自分らしい確たる考えを持てない、根なし草人間ばかりになってしまいます。

一種類の教え、哲学、神学を理解し、実践するのは堅苦しく見えるかも知れません。

ですが、一神教は他の多神教の神さまを認めないから、排他的だと考えるのは大きな間違いです。

信じる神は一つでも、実際には「崇敬の対象」である聖母マリア、聖人、聖女、聖人ではなくとも事実上の崇敬の対象でもあり、反ナチス運動の旗印となったマルティン・ニーメラー牧師など、一つの神の教えを生き抜いた方々の模範などが、一つの神の世界に人間性の息吹きを常に新たにもたらしているのです。

教えそのものを直感的にごたまぜにしてしまうと、一見、人間性に柔軟に対応できるような「いいとこ取り、融通がきく」という肯定的な側面だけを評価しがちです。

実際のところ、教祖さんや利権利得のあるカルト教団の幹部にとって「いいとこ取りで融通がきく教え」は、幹部のふところ具合で搾取の都合にも合わせられるのです。

例えば、カルト宗教集団がよく使う手法に「世紀末論」があります。

《聖書》の<ヨハネによる黙示録>の内容は、ある特定の民族や地域の世紀末を描いた内容ではないと言われています。

「イエス・キリストへの信仰を失わずにいれば、神の時、ゆるしの時は必ず訪れるから、世の終わりまで希望を持ち続けなさい」という意味合いで「世の終わり」を描いたのだとしぇるりんは理解しています。

その点、カルト宗教集団は直裁的に「さあ、世の終わりが来るから、あなたの財産を全て教団に寄付して献身しなさい」とやるわけです。

具体的に何年何月何日、とキャンペーンを繰り広げる集団もあるし、数年前まで流行った「マヤ暦による世紀末」のように始めから落としどころを作っておいて展開する「世紀末」もあります。

オカルト雑誌<ムー>などでワイワイ騒いでいるぶんには、さほど危害のなさそうな「世紀末」も、カネ、コネ、権力、暴力などが絡むと途端に凶暴度がアップします。

時に民族紛争や大虐殺すら引き起こすこともある「世紀末論」の悪用は、21世紀には世界戦争の引き金になりかねない脅威と言えましょう。

この手の物騒な「世紀末論」をこっそり共有できる、心安らぐ30人ぐらいの小グループの中で、確かにあなたには居場所があると実感できるとしましょう。

今の苦しみ、悩みも生活不安も「世紀末が来れば全て終わる」、「このグループのメンバーでいれば、世紀末に安らぎが得られるんだ」と信じ込めば、ついつい有り金をカルト教団に自主的に寄付して「楽になろう」、という誘惑に乗ってしまいがちなのが人間の弱さというものです。

世紀末に楽チンして世の終わり、自らの終わりを迎えられるほど、生命と死はお気楽ではありません。

世紀末論で騙される多くの事例が「特定のカリスマ個人への極端な傾倒」です。

宗教的な意味合いで逸脱した個人は、どの宗教グループにも現れるでしょう。個人的な宗教観による逸脱行為を未然に防止するためにも、教義、哲学、神学など体系的で柔軟な基幹は必要不可欠だと多くの世界宗教で考えられています。


いいとこ取りで、都合がいいだけの価値観はありません。

 

どれほど不器用でも、みなさんがそれぞれご自分なりの考えや価値観を見出せますよう、お祈りいたします。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月28日 (木)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:「信仰」「洗脳」とおカネのはなし

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

日本では「信仰がある」ということを、なぜか「特定の宗教に所属していると公に表明すること」だと勘違いされているようです。

だから、大っぴらに表明しなければ「信仰がある=宗教がある」ことにはならないと大真面目に思い込んでいる方も多いようです。

その常識、日本国内以外では全く通用しません。

ある宗教に属していることと、心からの信仰心があることは全く異質なことなのです。

「信仰」を英語では「faith 」と言います。「理屈を超えた心情的な信頼心や信用」を意味するラテン語語源の言葉です。

なので「ある宗教への帰依を明確に信仰宣言したことがある=宗教性があり、信仰心がある」ではありません。

キリスト教徒が多数派の欧米諸国の方々の多くが、「キリスト教文化圏の常識を当たり前のこととして身につけた」「冠婚葬祭信徒」である場合は多いです。


キリスト教圏と呼ばれる国々で「何らかの信仰心がある」「所属する教会を信頼する」と答えるキリスト教徒の割合は、総人口の10%以下の国の方が多いでしょう。

だからと言って、それまであったキリスト教文化を捨ててまで他の宗教に帰依する気になるほど、宗教そのものに関心があるわけでもありません。

そのため、よく尋ねれば「実はカトリックで洗礼などを当たり前に受けて、所属教区がある」外国人の方も、「ボクは信仰心はない。Non-religious(宗教的ではない)」と仰る方が大勢います。

ある宗教に完全に帰依し、信仰宣言をし、入信儀礼を受けた上で、信仰心があり、キリストやアラーなどの信仰対象やその教えに従順な生き方を、自らすすんで求め続ける人が「信仰心ある人」なのです。

日本の仏教寺院は現在も「檀家制度」というイエ(家族、血縁親族)単位の括りでお寺の信徒を数えています。そのため、「檀家」のそれぞれの個人がどのような宗教生活を送り、その人の信仰は何なのかを全く確認していない状況にあります。

これは、日本以外の仏教寺院ではあまり聞きません。

日本以外の仏教寺院では「お寺に通い、祈り、お経や説法を聴き、お坊さんと関わりを持つ個人」が仏教徒です。

国によって伝統的な慣例上、お坊さんが個人の葬儀や権力層とのつながりがある国、家族全員が仏教徒になるよう育て個々人に仏教への帰依を要求する国や地域はありますが、基本は信仰ある人々のお布施と喜捨だけで修験道場を運営するのが仏教寺院の原則的なあり方です。

また、神社神道のように「特定の神社の所在地域の住民を人間的なつながりの有無に関わりなく氏子と考える」ような多神教も日本以外にはほぼありません。

バリ島の「バリ・ヒンドゥー」に代表される多神教のように、地域の人々が極めて主体的かつ全員参加で行う「参加型多神教」が世界の多数派です。

キリスト教やイスラム教の場合、たとえ家族全員が一つの宗教に入信するのが所属する社会や文化の原則であったとしても、それぞれの個人が信仰を宣言し、ある種の入会儀式を経て、自ら入信します。

でも、自ら入信儀式を受けるだけで信仰を持つ人になれるわけではなく、自ら望んで信仰を求めるよう成長し続けることで徐々に「信仰ある人」になっていくのです。

その点、新宗教で行う「洗脳術」は、ごく短時間で「あたかも自らの意思で進んで信仰している」気にさせる巧妙な心理操作技術の一種です。

伝統宗教であれば、どんなに熱心に求道しても3年以上、生まれてから死ぬまで日々追い続けてもなお道遠く険しい信仰への道を、30分~数時間以内で「信仰心を持った気にさせる」心理操作技術が「洗脳術」です。

洗脳術が効果を上げやすい人は、中途半端に宗教的なカンが鋭く、言語能力が相対的に文科系より低い理系頭脳の方、左手がほぼ全く使えない右利きの方、「主流」の世論についつい流されやすい人、不安定な心理状態で「わらをもすがる」気分に陥りやすい人、障害者、病者、孤独に悩む人とその家族などです。

言語能力が高く、語彙力の多い文科系の方は、文理双方の体系的で哲学的な推論、論理解析能力に優れている傾向があります。

そのため、矛盾したコトバの論理がどこで破綻しているのか、矛盾律に気づくのが理系頭脳の人よりずっと早いため、洗脳ロジックの矛盾に早い時点で気づく傾向があるのです。


逆に理系頭脳の人は、機械的、または物理的な論理思考において文系よりずっと優れていると考える傾向があり、現実の人間生活、空想科学とその実現の結果に大きな矛盾があっても、まったくと言っていいほど気づかない傾向があります

直感の強い宗教家らは、この違いをカンで見極めてきます。


麻原彰晃氏が率いた「オウム真理教」事件の関係者に理系高学歴者で秀でた方が多かったことは、まだ記憶に新しいと思います。

洗脳術とは、いくつかの心理的な技術の複合体です。

1940年代頃から一般的に流行りだした「催眠術」、1970年代ぐらいに徐々に解明されだした深層心理学、および麻薬などの薬物を用いた精神医学やその軍事利用の試行錯誤などの集大成により、洗脳術は1970年代初頭から本格的に新宗教の勧誘にも組織的に用いられるようになりました。

洗脳術を用いるには、個人的な信頼関係をまず築く必要があります。そのため、最初は宗教色のない誘い方をしたり、伝統宗教の教えをパクったようなパンフレットで誘います。


ご理解いただきたいのは、日本の政治的に特別なコネのない(または敢えて政治に関わらない)神社神道の神社、仏教寺院、正統派のキリスト教では、洗脳術のように組織的な勧誘を行うほどの財力も、実質的な信仰ある信徒数も確保できない宗教法人が殆どだということです。

相対的に財力があると言われる大御所的な宗教法人でも、年末年始限定で「初詣は○○XX大師、△△神社へどうぞ」などのテレビCMを流すのが精一杯です。

CM料を払ってまでテレビCMを流せるほどの神社やお寺は、ほぼ一年365日、常に参拝者が一定数以上おり、毎日のようにお焚き上げやお祓いの参拝者が予約制で参加するような有名寺社です。

中小規模以下の日本の神社仏閣などの宗教法人は、管理者である宮司、僧侶が、別な仕事と二足のわらじ、三足のわらじで働いても維持が困難な状況にあります。

カトリック教会と殆どのプロテスタント教会も、海外から潤沢な宣教資金が送られていない限り、今ある教会の運営、キリスト者の根幹である福音宣教と「牧者のつとめ」、地域社会との関連行事への参加と学校法人のような付帯施設の運営で手一杯です。

プロテスタント教会の牧師さんの多くは、私立学校の教職員や講師、雑誌の編集者などの「二足のわらじ」であったり、「牧師夫人は会社員」ということもあるようです。

カトリック教会では、司祭と修道者は貞潔の誓願を立てるため終生独身であり、扶養家族はいません。

一人暮らしが大前提なので、日本の司祭俸給は最低賃金にほど遠い月10万円前後(諸税天引き前)ぐらいです。それぞれの小教区(カトリック教会)が献金などの収入から一定割合を「司祭俸給負担金」として教区長に納め、それぞれの教区が教区司祭に俸給を支払う制度です。

伝統宗教では、新宗教のように華やかさを求めるおカネもありません。

無理なカネ集めはトラブルの根源であり、宗教的共同体ほんらいのあり方を見失わせる原因だと、永い歴史の中で理解しているのです。

そのため、個人的に友情を求めるフリして誘われて行った新宗教団体の「お試し体験」で、洒落た建物の「教団」に連れて行かれ、大型音響施設を用いた「癒しの集い」、「芸能人の講演」が大サービスされるようであれば、「カルト宗教の洗脳が始まった」と判断してください。

冷静になって、考えて見てください。

それまで「自称、無神論者」のあなたは、初詣に行って、せいぜい年に数百円~数千円のお賽銭しか入れていません。


仏教寺院の葬儀や法事で高額の「お布施」を支払った方は大勢いらっしゃるかと思います。

仮に片親が80歳で亡くなり、60万円の戒名料やお経料を葬儀で払ったとしても、60万円÷80年=年間7,500円を後払い一括のお布施でいただいた、と日本の仏教寺院では考えています。それにプラスで、毎年のお布施を寺院や墓地の維持費として納めている方もいらっしゃるでしょう。


年間の檀那寺へのお布施を3万円(大都市部の中間帯金額の概算)とすれば、年間37,500円。生涯の平均年収500万円の世帯でも、年収比の割合は7.5%です。初詣のお賽銭や七五三、お札やお守り代などを入れても、生涯換算では生涯収入の8%ぐらいでしょう。


日本のカトリック教会では、ミサや礼拝ごとの献金(数百円~数千円)の他に、「教会月定維持費(十分の一税に相当)」と週ごとにミサに使う交通費なども含め、年収の3%~を目安に毎週毎月納めています。

献金と教会維持費は、光熱水道代、備品購入、修理保全、人件費、建設積立金、特別献金(寄付金)などに充てられています。冠婚葬祭、地鎮祭、建て前などの個人や家庭の行事に関しては、地域物価スライド、信徒の負担能力に応じて柔軟な定額制を採用している教会が殆どでしょう。

831870194d3de15b4419ba6e65db8ceb38b 世界的に見て、冠婚葬祭および祭りなどの宗教活動へ適切な負担相当額は、生涯総収入の3~10%ぐらいだと経済学的に考えられています。

一括か、週ごと、月ごとの分割かなど、支払い方法の違いはあれ、伝統宗教の宗教法人の多くは「やっと維持できるくらい」から「全くの赤字経営」、またはそれ以下の経済状況です。

自ら破産するほどの高額の費用を伝統宗教につぎ込むほど信仰にのめり込む富裕層が、ほぼいなくなったからです。

その点、アブナイ新宗教団体ほど豪奢な教団本部、最新設備の音響設備などを整え、大規模な○X大会を行います。

欧州のカトリック教会のように、その土地の文化として確かに根付き、1000年以上の間に少しずつ建造し修復しても追いつかないような豪奢な雰囲気を、せかせかと短時日の間に醸し出すためです。

そのおカネ、どこから出てきたのでしょうか。

それは、ある程度「洗脳されて」「まるで自らその気になったつもり」の信徒が「○○特別ヒーリング講座」の参加料として数日の講座に数十万~数百万円、占い、お祓い、お札料に法外にふっかけられた「お布施」などに、数十年かけて貯めた貯金などの有り金のすべてを貢がせた「収益」から作られた、文字通り「血といのちの代価」なのです。

しぇるりんの近所の方で、ご家族の病気を新宗教のとある拝み屋さんで治そうとして借金をした挙句、家を借金の抵当に取られ、かなり立地条件のいい持ち家を「売れるうちに」手放さざるを得なかった老女がいます。

彼女は「他の誰かをここで教える手法で何人か誘えば、拝あなたの払ったお布施は10倍返しで返してもらえるから」と言われ、つい、すがってしまったのです。

ちょっと考えれば分かりそうなことを冷静に考えさせないため、まず入念に「洗脳術」を施すための投資をします。

手法としては、ある人を「友人」として取り込み、以前からいた友人知人と距離を置かせます。結果として、同じ新宗教やカルト団体の仲間とだけ付き合うよう誘導します。

この際「あなたを誹謗する人は仏敵だ」「科学や教えの敵だ」など、率直にあなたに忠告する人を敵視するよう誘導します。

こうなると、あなたはカルト成員以外の友人知人とどのように付き合ったらいいのかが分からなくなって行きます。

あなたの友人関係がほぼカルト成員で固められたところで、外界から隔てられ、閉ざされた密室で「アメとムチ」の対話集会などに参加させます。

内容的には、まずアメ役の人が「あなたはこの教えさえあれば、素晴らしい人生が送れる選ばれた人だ」というようなことを言って、天にも登るようないい気分にさせます。

その後、ムチ役の人が小グループや個人単位で閉ざされた密室に閉じ込め、あなたの欠点をやたら暴きたて、場合によっては罵詈雑言で徹底的にあなたの心を痛めつけます。

この「アメ」と「ムチ」が繰り返されることで、あなたはカルト集団に刷り込まれる教え以外のものすべて、自らの意志、意思や自由な考えもまったく無意味だと思い込むようになります。

外界からの刺激もなく、インターネットもスマホもテレビもカルト成員以外との出会いもないため、「自分はダメな人間だから、この考えを受け入れる以外に選択肢がないのだ。」という思いが「固着」します。そうして、誰もの心のなかに潜む「執着の念」と同一化して行くのです。

その後、カルト宗教の人は頻繁にあなたを訪問し、話をしてくれ、時に暇つぶしの相手になり、SNSで即レスしてくれます。

また、「布教活動」と称して色々と誘ってくれます。

その時あなたは、それまでの孤独な生活の中ではとうてい考えられなかった「あたたかい居場所がここにある」と、つい思ってしまうのです。

そこまで行けば、あとはあなたが「元手を回収するために、教団に献身する」よう仕向けるだけです。

実際には、そこから個人がとうてい配りきれない数百冊単位の書籍や冊子の購入、布教や教団関連の政治活動への無料奉仕など、あなたのいのちそのものが搾取される日々が待ち構えているのです。

すべての新宗教が危険だ、とは全く言っていません。

今まで多くの新宗教団体の調査、新宗教団体の信徒さんや教祖さんのお話をお聞きましたが、今までお話した「危険な軍事利用に準ずるほど破壊的な洗脳術」をすべての新宗教団体が相手かまわず行うわけではありません。

まして脱法ハーブや麻薬まがいの薬物を用いた、主に軍事技術から派生した洗脳技術のように、より違法性、非倫理性の高い手法を用いる「ホントに危険なカルト集団の洗脳行為」がやたら横行しているわけではないと、わたしは信じたいです。

ただ、一部の急成長する新宗教団体では、公然と破壊的な洗脳術を用いています。そのウラには、洗脳術のプロ営業マンとも言える人々が暗躍しているのです。

わたしに言えることは、孫子の兵法にある名言です。

「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」。


あなたが次の被害者にならないよう、お祈りします。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月26日 (火)

「宗教」と「カルト宗教」の違い:会派の分裂、新設

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

しぇるりんは、実は海外で宗教人類学を学びました。

なので、カトリックの教えをある程度わかるようになる前に、「伝統的な宗教的情緒」、「宗教」、「新宗教」と「カルト(セクト)宗教」の違いについてちょっとばかり専門的にかじりました。

今日は「宗教」と「カルト宗教」の違いを、会派の分裂や新設を繰り返すカルト宗教独特のあり方がなぜ起こるのか、について宗教人類学的な観点からご説明したいと思います

日本では「宗教」というと全て「怪しい」と思いながらも、家に仏壇があることには無自覚で、正月には神社に行き、10円のお賽銭で家内安全を願うことは「宗教ではない」と信じられているようです。

実際には、仏教はお釈迦さんの教えですし、神社神道にもいちおう、それなりに神さまのあり方だの、由緒だのがあるので、お寺も神社もりっぱな「宗教」です。

日本人にとっての「ご先祖さん」が「自分の知っている範囲の親族の霊」への敬意や愛情を示すというより、「祟りがないようにする」という消極的、縮小型のマイナス方向へ向かっているにせよ、ご先祖さんを敬う「祖先崇拝」も、やはり「宗教」の一種です。

「宗教」とは世代を越えて信仰を継承するものなので、ある程度「軸のブレない範囲に教えの本質が普遍性をもち」、「宗教家が変わっても、軸がブレない」ことが必須です。

「宗教」の中でも「伝統宗教」と「新宗教」があります。

伝統宗教は、例えばキリスト教でもカトリック、正教会などは互いに2000年の歴史があります。また、カトリック教会から「離れ離れになった」プロテスタントの兄弟たちの教会で大御所的な存在感があるのは、歴史の教科書で「イギリス国教会」と呼ばれる「聖公会」、長老会派、メソジスト派、近年盛んな「福音派」などがあります。

いろいろと揉めた歴史はあるにせよ、全員参加で論議し、祈り、公会議で決議し、教父文書や公文書で記録を残し、論点を明確にしつつ、その中心となる教えにブレはないからこそ、伝統宗教として各地の文化に根付いて来たのです。

日本で判断が難しいのが、内村鑑三らが提唱した「独立教会運動」があります。

「イエスの方舟」などもそうですが、聖書にある「全世界に行って福音を宣べ伝えよ」という使徒ペトロの宣教精神を敢えて内面化させ、個人の信条としてのキリスト教への帰依にこだわる特性があります。これは、特別に他者に被害は与えないかも知れませんが、福音宣教というキリスト教の本質をどう捉えるのか、という点で問題がないとはいえません。

逆に、米国のキリスト再臨待望運動の一環として1843年~1844年にキリストが再臨すると予告して起こった「セブンスデー・アドベンチスト・チャーチ(以下、SDA)」のように、歴史的変遷はあったにせよ、原始キリスト教生活を特定地域で守る米国のアミー教徒がまるで国際組織を持ったような組織など、判断の分かれる宗派もあります。

日本のカトリック、プロテスタント諸宗派などではSDAを「プロテスタントの一派」として寛容に受け入れている一方、ロシアでは「危険なカルト一派」として監視対象となっているようです。日本国内の元SDAの牧師ら数人も危険視しており、両論併記状態です。

日本でSDAが多くの場合危険視されない理由として、会派の分裂が少ない、今のSDAはキリストの再臨を空手形に信徒からカネを巻き上げる大規模なキャンペーンを行わないように見える…ことがあげられるでしょう。内部的には、違うのかも知れません。

その点、同じプロテスタント宗派でもホーリネス派は教えじたいは他のプロテスタント会派と似ていても、分裂とおカネの問題については色々と噂のある宗派で、素人がキリスト教を理解しようとすると難解と感じる部分です。

新宗教は時代の先行きが不安定な、災害、戦前戦後、動乱の時代に世に現れやすいです。

人心が新宗教に流れやすい理由が、新会派、新しいカリスマという「目先の新しさ」に浮かれやすくなる傾向が私たちの中にあることが挙げられます。

気持ちが不安定になると、「即効性のある占いやおまじない」に頼りたい気持ちが、日本人は特に強い方だと思います。

お金さえ出せば、占いで安心感を買える。おまじないをすれば幸運を呼び寄せられる。お祓いをすれば、不幸を追い払える。これらの幸運や不幸を避ける手段はすべて「おカネで買えるもの」です。

新宗教では、おカネで買える一時的な安らぎや癒しを「お祓い」「おまじない」「お守り」「占い」などのサービスや商品として提供しています。「ひとときの安らぎや癒し」という商品の価値を保証するものが、「教祖」であり「カリスマ」です。

「教祖」や「カリスマ」本人は霊感の強い人である傾向があるため、心理的には常人よりよほど不安定な方が多いようです。


私が韓国で出会った、とある有名な神話的な教えのカリスマである教祖は個人的なインタビューで、「私は教祖として霊と向き合うことに疲れを覚えるたび、あのハンガン(漢江)大橋から飛び降りて死ねればいいと思うの」と私に言いました。彼女は、霊感の強い人独特のものすごい疲労感と情緒不安定に常に悩まされているようでした。

でも、彼女には芸能タレントに芸能事務所があり、有力なマネージャーがいるように、教祖のカリスマ性を最大限に売り込む「新宗教のマネージャー」がピッタリとついています。そして彼女には、豪奢な教団本部での恵まれた暮らしを簡単に捨てれらない個人的な理由があったのです。

「カリスマとプロモーター」の関係は、たいていが純粋に商売上のつながりなので芸能人と芸能事務所のように利害の対立で不仲が起こりがちです。

そのため、より利害関係に基づく新宗教団体であればあるほど、会派の分裂、新しい新宗教の新設は頻繁になります。


今はインターネット時代なので、誰か個人的に接近して来た人が「実は○○教への勧誘目的だった」と知れば、すぐにグーグル先生に尋ねられます。

それが新宗教やカルト宗教であれば、グーグル先生はきっと、あなたにはとうて理解しがたいと思える、とてつもなく複雑な分裂を10~20年足らずのスパンで繰り返して来た歴史を描いてくれるでしょう。

カリスマ、プロモーター、中間幹部と信徒が揉める頻度が多いということは、それだけ宗教性よりも利害関係によるカネとコネの結びつきが強い、ということを意味します。

ネット時代以前は、新宗教の中でもより不安定要素の多いものの中でも、社会的に危険な事柄に巻き込まれやすい宗教、新宗教とカルト宗教の区別は分かりづらい傾向がありました。

分からないからこそ「もう、宗教そのものに関わっちゃダメ」という奇妙な極論に自ら到達する人が増えたのです。

そこに「神道と仏教は宗教ではない。これは日本人にとっては科学的な法則のように、自然の摂理なのだ」という明治維新~戦前にかけて国家神道を正当化して押し付けた、あの「国家神道論」を被せる輩がマスメディアとともに現れます。

すると、「神道、仏教系で科学的な理論を持っており、ありとあらゆる教えの根源だ」という論理的にアリエナイ理屈をこじつければどんな新宗教でも捏造できる、というトンデモ論が派生するわけです。

実際、政治的、経済的利便性のためのカルト宗教が日本には多いです。

日本で最も有名なのは、創価学会と公明党のつながりでしょう。多くの創価学会婦人会のおしゃべりな女性らは、自分たちが公明党の票田として扱われているという自覚なく、「何となく」抜けられなくなっていくのです。

また、本社社屋の上に神社を置く大企業、会社そのものがある種の宗教団体そのものである企業も大中小規模で存在します。

それらの団体の共通点は「あなたの家の宗教、配偶者や子孫、親族への改宗を求めることは決してない」を保証しつつ、今あるカネ、コネを確実に搾取することに熱心だという点です。

宗教とは、本来的に思い、言葉、行い、そして今まで怠って来たことなど、自分のいのちや人生、生老病死と向き合うための価値体系すべてです。

Japanese_bamboo_forestwide 一人のひとが高速道路を走りながら、同時に国道を走り、同じ時間に新幹線に乗車し続けることはできません。同じように、いのちは一人にひとつなのですから、同じ時に一つ以上の価値観を生きることはできません。

ヒトは迷います。国道を車で行った方が良いと思ったけど、やっぱり電車の方がいいかな、でも高速道路の方が早いかも、いやここは高くても新幹線で、はたまた飛行機で…などなど。

迷っている間は、まっすぐ前には進めません。きっと森の中で迷った人のようにグルグルまわり続けていることでしょう。それも人生には必要なことかも知れません。

が、迷い以外に何もない人生が全てだ、と断言するのはあやまちだと思います。

確か森一弘司教の著書のどこかに、若い頃、カトリックの洗礼を受けたのちも、仏教のお寺で座禅を修行していたら、ある若い修行仲間のお坊さんに「ひとの生きられる道は一つです。あなたは、キリストに生きるならキリストに、仏に生きるなら、仏に生きなさい」と言われて、迷いがふっきれてお寺通いをやめた、という話を読んだ記憶があります。

どの宗教にせよ、心から定めて生きられる道は「一人にひとつ」です。

会派の分裂、新設をやたら行う人々は、自らの迷いを表明しているとともに、迷う人々の迷える心を喰い物にしているとも言えるのです。

「宗教」そのものが、「火の文明」や「水利文明」より特別に危険なものではありません。が、「火の文明」が料理で私たちの舌を楽しませると同時に、戦禍や放火に用いることもできるように、人間の心の持ちようによっては危険な側面があるということです。

 

みなさんが、それぞれ今のあなたにとって最善の選択ができる一助になることを願ってやみません。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


人気ブログランキングへ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ




Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月22日 (金)

ケセン語訳聖書を読む:活き活きと生きる力を与える主

一人息子ォ け(与)やったほどに

神さまァ この世ォ いど(愛)しんだ。

これァ 全で このわゴ(和子)に

その身も こゴろ(心)も 委ねる者さ

誰も き(滅)しゃまんねァように、

何時でも あガ(明)りぐ 活ぎ活ぎど

生ぎる力ァ け(与)べってだ。

(ケセン語訳/ヨハネ3:16)

神はその独り子をお与えになったほどに

世を愛された。

独り子を信じる者がひとりも滅びないで、

永遠の命を得るためである。(新共同訳)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

なぜ、人は信仰を求めるのでしょうか。

ガン緩和医療医の大津秀一氏が書いた《死ぬときに後悔すること25》の5章に「生と死を超えられなかったこと」「神仏の教えを知らなかったこと」を、死を間際にして後悔した項目にあげています。

死が間近に迫ったと知れば、「自動販売機にお金を入れれば、ジュースが出てくる」ように、自然と死を受け入れられることはないのです。

逆に言えば、あなたやわたしがたとえ死なんて絶対に受け入れないぞと頑なに、または何となく思っていても、生まれた命には限りがあるので「いのちが消滅する」「誰かが命を殺す、殺される」「突然の災害で死ぬ」ことは大いにアリなのです。

宗教的な教えも、日ごろ馴染み、親しんで、少しでも自分のものにしてあればこそ、苦痛や死の時に「自分のいのちの終わりを受け入れるみなもと」となるのです。

「信じる者は永遠の命を得ている(ヨハネによる福音書6:47)」を、日本のキリスト者はつい「この世で報われることなどなくても、死後に永遠の命を得て、天国に入る資格を得られるんだ」と誤解しがちです。

↓主はわたしたちを子羊を愛おしむ羊飼いのように愛してくださる

70726f647563742f32303134303330355f3


確かに洗礼の秘跡は「天国行きの切符」ではありますが、「死後限定で天国に入れる」内向きなものではないと、ケセン語聖書はときます。

自分の弱さを知り、いのちある日々は永遠に続かないこと、自分と自分以外のひとのいのちの限りはそれぞれ違うことを悟れば、ひとは死を不吉なものだと感じなくなります。

いのちには限りがあると思えば、赤の他人への思いやりも自ず深くなり、やさしくなれます。

自分のいのちに限りがあるように、相手のいのちにも限りがあり、自分のいのちにできることが限られているように、相手のいのちにも出来ることと出来ないことがあります。

いのちの今日が限りあるものであることを心から納得すれば、いのちある今日こそ「いつでも明るく元気に活き活きと暮らすことができる(何時でも あガ(明)りぐ 活ぎ活ぎど生ぎる力ァ け(与)べってだ)」なのです。

ひとの命は生まれ、生き続け、そしていつか死を迎えます。その「一生の間いつでも(ギリシャ語で『ゾーエー・アイオーニオス』)楽しく幸せにピチピチ元気に暮らすこと」は、信仰に生きるひとの心からの望みです。

死ぬ直前でもいいから、「いのちを活きられて、ありがとう」と心から思えるようになれば、「一生の間いつでも」しあわせな人、信仰のありがたみを知ったひととなるでしょう。

実際のところ、天国に行けるかどうかなんてわたしには分かりません。たった今、生きている今日の日ですら、明日はどうなるやら分からないものなのです。

毎日おなじ通勤通学列車やバスに揺られ、毎日おなじ学校や会社に通い、ただ、おなじ風景を眺めているだけの毎日に追われていると感じている時には、明日は今日と同じ日が来ると思い込みがちです。

でも、実際には「今日は今日、明日は明日」なのです。

「明日は明日の風が吹く」とは多くの日本人が誤解するように、未来のこと、明日のことを考える必要がない、という意味ではありません。

だいたい、日本語には未来形という時制が存在しないので、日本人は未来について考えるのは苦手なように思えます。

今日は今日なりに、せいいっぱい活き活きと生きるために最善の行いをしましょう。明日は、明日の最善の行いがあるはずです。スケジュール管理はしても、思い悩みすぎずに明日のことは明日に任せましょう。

わたしはケセン語訳の「何時でも あガ(明)りぐ 活ぎ活ぎど」という言葉が大好きです。明るく、活き活きと今日のいちにちを過ごせるよう、主イエス・キリストのみ名によって祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/


定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ




Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月19日 (火)

ケセン語訳聖書を読む:求めなさい、そうすれば与えられる

願って、願って、願ァ続げろ。そうすれば、貰うに良い。

探(た)ねで、探ねで、探ね続げろ。そうしろば、見付かる。

戸ォばだ(叩)ァで、叩ァで、叩き続けろ。そうすれば、開けでもらィる。

誰でまァり、ねげ(願)ァ続ける者ァ貰うべし。探ね続げる者ァ見付けんべし、戸ォ叩ぎ続げる者ァ開げてもらィる。(ケセン訳マタイ7:7~8)

求めなさい。そうすれば与えられる。

探しなさい。そうすれば見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば開かれる。

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、

門を叩く者には開かれる。(新共同訳)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

求めて、与えられないものはこの世に数限りなくあります。

求めて、求め続けて、なお与えられず、悩む方は私も含めて大勢いることでしょう。

それでも人は、自分の欲求に合う何かを求めずにはいられません。

平穏で穏やかな日々が乱されないこと、衣食住に困らないこと、家内安全、無病息災など、「ほんのささいな願いなのだから、求めたら当然のこととして叶えて欲しい」と多くの人が願っています。

「求めよう。さすれば与えられん」を当然ことであるかのようにイエスさまに要求することは、キリスト者として妥当なことなのでしょうか。

「願って、たねで(探して)」とケセン語の祈りに想いを馳せてみたいと思います。

富裕層の人はフルコースのディナーを「最低限の衣食住」の食だと考えているのかも知れませんし、貧しい人は「せめてパンと水に野菜だけでも欲しい」と考えているのかもしれません。

ことわざに「人は自分の足の大きさで世間をはかる」と言います。

自分の行動範囲、周囲に与えられた価値観への影響、置かれた環境や状況における肯定的な見方、否定的な見方など「自分の足の及ぶ範囲内でものを判断しやすい」という意味でしょう。

フルコースのディナーを日々食べている人には、日々パスタやチャーハンなど「炭水化物オンリー」を食べる会社員や労働者が「なぜ、そうなのか」を考えられないでしょう。

同じように、日々パスタやラーメンを食べている人には「富裕層はなぜフルコースのディナーを必要とするのか」がわからないでしょう。

それぞれ、置かれた状況で、今いる場所で必要なモノを求めた結果なのかも知れません。

自分の置かれた環境や状況、自分の個性や生き方により、求めるモノは日々違います。

イエスさまは、それぞれが時と場合により欲しいモノを「求めれば、与えられる」とホントに言われたでしょうか。

「欲しいモノを願いなさい」は宗教ではなく、欲求の充足への願望の表明に過ぎないと私は思います。

願望を表明するだけでは、人は自分の真の願いを悟ることもなく、明日への願いに想いを馳せることも出来ないでしょう。

今日の願いは、今日のものです。

あなたがサッカー選手で、今日の試合でシュートを決めたい、イレブンの誰かがシュートを決められるようディフェンスしたいと願っているとしましょう。

練習の時に夢のようなナイスシュートが決まったら本人や周囲の喜びにはなるでしょう。しかし公式戦の日なら、まさに一戦の最中にシュートを決めて得点し、ファンの喜びとなる試合をし勝つことこそ、その日の願いでしょう。


明日の願いは、きっと違うでしょう。オフなら休養や身体作りかも知れませんし、心の安らぎを得て次の試合に備えることかも知れません。

その日、その時、その場、その状況でわたしの願いとはどんどん変わって行くものだと、私たちはつねに心しておかねばなりません。


イエスさまは「わたしの水をのむ者は、もはや渇くことがない」と言われました。

イエスさまが下さるのは単なる「熱中症防止のための水分」ではなく、「いのちの水」です。しかも、「いのちの水」をくださるからと言って、「脱水症を予防するための水分」が必要な人の願いを拒むわけではありません。

人間的な不可抗力、相手を思いやる心の足りなさや、他者への無関心など、さまざまな理由で結果として犠牲者はどの時代にも生じるでしょう。

それでも、イエスの名において求めたことが全く無駄になることはないと信じる人はさいわいです。

山浦氏がギリシャ語の原語の意味を「継続命令形」と名付けたように、信仰において、あきらめず、絶望せず、イエスの愛といつくしみを信じて求め続けること、願い続けることそのものを生涯続けることが大切だからです。

↓イエスさまは、いつもわたしやあなたの心のとびらを叩いておられます。

209b3744

ミヒャエル・エンデの《ネバーエンディングストーリー》の原作本の中に、扉のたくさんある通路でどの扉が開くのかがわからない、というシーンがあったのを思い出します。

どの扉を自分が開けたいのか、自分と関かわりのある扉がどれかを見極めなければ、自分なりに正しい道を選べない。そんな、シーンだったと記憶しています。

自分の開けたい扉が必ず開くわけではなく、間違った扉を開けたら、自分自身が迷路を抜けられなくなるかも知れなません。でも、後戻りはゆるされません。

ひとの一生は生から死へと、後戻りすることなく前に向かい続けるしかないのです。

自分なりにとっていちばん相応しい扉を選ぶため、まずは自分の欠点や短所など「見たくない自分」、「見たくない他者のウラの顔」とも向き合わねばなりません。

うんざりするほど嫌な思いをし続けながら「求めなさい、そうすれば与えられる」と信じ続けることこそ、「信じる」という単純な行いのまことのあり方だと思うのです。

正直に言えば、うんざりするほど周囲の人のウラオモテある態度を知り、日本社会独特の「タテマエとホンネの使い分け」が両極化した冷笑的な無関心の蔓延した場所にいて、馬鹿正直に「信じ続ける、求め続ける」ことにはわたしも十分に疲れ切ったし、うんざりしています。

主はわたしに多くの報いを下さいますが、やはり人との関わりの中で分かち合ってこそ、み恵みはより大きく深く感じられるものなのに、主のいつくしみを分かち合える相手があまりにも少ないのです。

21世紀の日本では、信仰とか宗教とは「個人が内面的に求める、内面の自由」であって、社会的に表現し、行う行動とははなはだしく乖離していてもおかしいと感じられなくなっています。

私がまだ幼かったころ出会った明治や大正生まれの方々は、思想信条は違えど、内面の想いと言葉、行動が「タテマエとホンネ」に完全乖離したような人々ではなかったことを、ここに言い添えておきたいと思います。

それだけに、この社会、この時代に生きる無聊さ、寂しさはひとしおです。

「教会の中だけでも、キリスト者としてイエスの愛といつくしみを分かち合える共同体として生き、行いましょう」と説教のたびに主任司祭は言われます。

祭壇のただ中にはキリストがおられ、ご聖体とおん血の中には確かに聖三位一体の神秘が宿っておられますが、わたしたちの心は罪と世間へのおもんぱかりに気を取られすぎています。

そんな時代に生まれあわせたからこそ、「願って、願って、願ァ続げろ。そうすれば、貰うに良い」のでしょう。

私が貰って「良い(bene=ラテン語で無条件に良い)」と思える障害が、他の誰かにとっては苦痛や試練以外の何物でもないかも知れません。

お金さえあれば…と思っていても、お金だけで幸せになれることもきっとないのでしょう。

私の想いと心の底からの願い、魂の叫びはまた、それぞれ違うのかも知れません。そして、イエスさまがわたしたちそれぞれに与えたいと思っているものは、私の願いと違うのでしょう。

アウシュヴィッツの司祭殉教者、聖マリア・コルベは聖性へのいちばんの近道は聖三位一体とひとつになることだと解きました。

「(大文字の)Α(アルファ)が聖三位一体であり、キリストの愛であるとしましょう。(小文字の)αがあなたの願いであるとしましょう。その場合、「Α(聖三位一体)=α(ひとの信仰)」になるなら、自ずと聖性への道を歩めるのです」といったことを仰ったそうです。

いかにも数学が得意科目だった哲学教師らしい物言いだと感心します。

私たちの気持ちは、なかなか「Α=α」にはなりません。やはり「Α≠α」「Α≦α」になりがちです。

それでも、一抹の淡い希望を心のどこかで保てるよう、ともに祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





2017年9月15日 (金)

ケセン語訳聖書を読む:心の清い人は幸い

こづらね(心根)のうづグ(美)しい人ぁ幸せだ

その人達ァ神さまさのお目通りァ叶う。

(ケセン語訳マタイ5:8)

心の清い人々は幸いである。その人は神を見る。(新共同訳)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

心の清い人、と言われると「品行方正、清廉潔白、悟りを開いた人」のようなイメージをもってしまいがちです。

まず「品行方正」とは、それぞれの時代の社会的な基準から外れない行動をしている、という意味です。品行方正な人が、必ず心根が美しいとは私にはとうてい思えません。会社員として、公務員として業務規範にかなう行動をしている人の心根なんて、中身は人それぞれでしょう。

「清廉潔白」は、「私欲がない。後ろ暗いことがない。けじめがついている。やましいことがない」の意味です。これも、日本的な曖昧語としては、「心が清い」と解釈されますが、特別に強欲ではなく、ウラオモテがなく、社会的、倫理的、法的に無分別だと判断される行動をしていない、と定義されるべき言葉です。

「品行方正」「清廉潔白」は、ユダヤ教的な意味合いでの「心が清い」にある意味似た基準での「心の清い」と言えましょう。

新約聖書には、手足も洗わずに食卓について食事するイエスさまが登場します。当時は今のユダヤ教より戒律がずっと厳しく、家に入る時にはほぼ全身を洗うか、せめて足を洗わないと家の中に入れないなど、清潔に関する厳しい決まりごとがありました。

現代のユダヤ教にも「コーシェル、カシュート、コーシャ(清浄)」などと呼ばれる厳しい食事の決まりがあります。旧約聖書の<レビ記>の記載に基づき、屠殺方法、種類、加工方法を詳細に調べた後、コーシェルに該当するものだけで調理した食事習慣を、今もユダヤ人は守っているのです。

その中に、「魚は食べてもいいけど、タコ、イカ、ホタテ、ナマコなどの軟体動物はNG」という規律があります。

もしも現代のイスラエルにあるレストランに、日本人観光客がお手持ちのイカの塩辛を持ち込んだとすると、そのレストランはその厨房の全ての調理器具と全ての食器を全て洗浄しなければならない、と言った具合です。

実際のところ、<レビ記>が定める全ての戒律を文字通り全て守るには、かなりの経済力が必要でしょう。


コーシェルの規範に合わないものは、食べられるものでも食べず、神殿税をきっちりと収入の十分の1納め、きちんとした家に住み、水を水売りから買うか、遠方の井戸まで何度も汲みに行かねばならなかった時代でも、1日に何回でも市場と家を往復するたびに手足だけでなく、身体を洗わねばならない生活です。

イエスさまは「私は、わたしの民のために遣わされた」と言われ、正しくダビデの子孫として、ユダヤ教徒としてお生まれになったと、マタイによる福音書にあります。

ですが、イエスさまの時代には、既にユダヤ教の教えは貧しい生活に喘ぐ人々にはかなり負担になっていました。

貧しさ、病い、孤独、職業、不運などを理由に「穢れた人、罪人」と呼ばれた人々は、素朴な疑問を感じるようになっていました。

天地の創造主であり、全ての生命の源である主は、その時代、その状況の中での貧しさ、病い、孤独、職業や身分などで「罪人、穢れた人」を決めたのでしょうか、という疑問です。

「宗教的なけがれ、罪のある、なし」と、「心根の美しいことと醜いこと。心が清らかなことと濁って汚れたこと」は別の問題ではないのか、と漠然と感じるようになっていたのです。

そんな中で、イエスさまを食事に招いておきながら、まるで意地悪でもするかのように足を洗う水すら出そうとしない律法学者を批判し、自分の足を洗って香油を塗る「穢れた女」に「あなたの罪はゆるされた」と罪のゆるしを与えます。

また、イエスは一切の労働をしてはならないとされる安息日に麦の穂を摘み、病める人を癒されました。

山浦氏は《イエスの言葉》の中で、こう言います。

↓山上の説教(バチカン、システィーナ聖堂)

Sanjyou 「イエスがもっとも大事だと考えている、神さまをお喜ばせする道は、人に対して親切を尽くすということにつきます。雑念などあってもいいのです。本当はこんなことやりたくないと腹の中では思いながら、他人に親切にするのは不純な心でしょう。それでもいいのです。どうせ人間というものは不純で、よからぬ雑念のかたまりです。そんなことはどうでもいいのです。大切なことは人に親切にすること、これだけです。」

医師として生命と誠実に向き合って来た人だからこそ、言えるキリスト者としての率直な言葉だと思います。

キリスト者が心の内側だけの清さを求め続けるなら、祈りと修練にのみ心をとらわれ過ぎて、誰かにやさしさを表すことを忘れがちになります。

やさしさを示そうと必死になりすぎると、自分を大切にする、自分にやさしくすることが難しくなります。

そうでなくとも、世の中チャリティーだ、寄付募集だ、ボランティア募集など「無償労働の提供、寄付の提供」を、「タダ働きしてくれるご奉公、お務め」と勘違いしやすい人ばかりが多いのが日本人です。

やさしさを示す人に対し、社会的な尊敬を具体的な行動で示し、やさしさを示す人の強さと弱さを積極的に社会や個人が「今、そこで出来る何かを具体的にする」ことで支えなければ、やさしい人でいることが辛くなります。

結果として、日本ではやさしさも相手と場所を選び、信用できる人間か、本当にやさしさだけを必ず必要としている相手なのかを選んでこっそり分かち合わないと、やさしさのある人はどんどん社会的弱者として追い詰められ、追い込まれていく可能性があります。

感謝の気持ちも、具体的にやさしさに報いる行動、金銭的な補償、やさしさのある人自身を守るための社会的配慮など、目に見える形で感謝を表そうとせず、やさしさだけを期待するならそれは大きなあやまちと言えましょう。

そんな日本社会の状況は、何に対しても「済みません。(仕方のないことをした)」「ご免なさい。(これ以上、感謝の心を行動で表せない非礼を免じて下さい)」を連発する風潮にも表れています。

心やさしい人が、どんどん追い詰められ、病み、疲れ、自死に追い込まれている今の日本社会ほど荒れた時代は、今までになかったでしょう。

山浦氏の「やさしさ、感謝」への讃歌と、私の読むケセン語訳聖書の霊的読書のあり方は全く逆方向かも知れません。


もちろん、私の中でも日々の生活の中で感謝に満ち溢れる出会いはたくさんあります。

ある夏の暑い日、駅の改札口の前で知的障害があると思われる青年が、何やら一生懸命にリュックとぬいぐるみと交通系ICカード入のケースと携帯電話が絡まったヒモと格闘していました。何か、彼がいつもしているようなことが出来ないため、改札口を通れなくなったのです。

自閉症者によくある「こだわり行動」のひとつだと、私はすぐに気づきました。そして、しばらく、彼の行動をじっと見ていました。

3分ほど過ぎて、彼が問題を解決できそうにない「何らかの問題」があるらしいことが分かり、声をかけて見ました。


「どうしたの?」。

彼は、携帯とぬいぐるみをリュックの右のポケットに収めた状態で、交通系ICカードを右手に持ちいつものようにタッチしたいのだが、いつものように上手く行かない、と状況を説明してくれました。

そこで、絡まったヒモをほどくのを手伝わせてもらい、携帯とぬいぐるみを後ろからしまうのを手伝いました。そうしたら、彼は無事に彼にできるやり方で交通系ICカードをタッチし、「ありがとう」と言いながら、自閉症者らしく私に振り向くことなくホームに向かって行きました。

彼の「ありがとう」のひと言が、私の中で主への感謝として湧き上がって来ました。

私が彼を助けたんじゃなく、彼が私に助けられたのでもなく、「ありがとう」とお互いに思える出会いがそこにあったのが大切なのだと、心から感じました。

「神に感謝」の心、やさしさを分かち合えること自体のありがたさを肌身に感じるとは、そういうことだと思います。


やさしさには時間も必要だし、経済的にも、人間的にもゆとりが必要です。何よりも、やさしさを行動する自由、やさしさを強制されてはならないのです。

やさしさは、私たちの自由な心から湧き出る想い、言葉、行いです。

1970年代に「小さな親切運動」なるものがあり、親切な行動をするようポスターや作文を学校で書かされたり、小さな親切行為の一覧を覚えさせられた記憶があります。

「小さな親切運動」は、上っ面だけの「親切っぽい行動の強要」であって、心からのやさしさではない欺瞞だと、子供心にも感じました。

自由なやさしさは、心根の美しさを共に分かち合う「主との出会い」だと私は思います。

「心の清い人は幸い」ということは、自由なやさしさを分かち合うほんの数分の出来事の積み重ねなのかも知れません。

自由なやさしさを心から分かち合えるようになるには、自分の心の中の痛みを経験すること、自分の抱える痛みを主の十字架に奉献することが求められます。

そうして、自らの十字架を探し、自らの十字架を担って、主に従うことがキリスト者が生きるべき真の道だと思うのです。

主よ、若い人、低賃金や長時間労働に悩む人々が、人々の出会いの中でキリストを見出し、自らの中に光を見いだせるよう導いてください、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!

English blog is also available http://shelillelinnecatholictipoff.blogspot.jp/

定番の聖書なら→日本聖書協会《新共同訳 新約聖書詩編付》



わかりやすいと大好評のカトリック入門書



カトリック書籍と聖具は定価で買えるドンボスコ社HPからどうぞ!

ドンボスコ社ネットショップ





Helps meditation and lectio divina according to the Benedictine monastic spirituality.



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ<br/><a href=にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへにほんブログ村 カトリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
<
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←ポチッとしてください。励みになります。 ポチッとよろしく!





«ケセン語訳聖書を読む:心の貧しい人