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2017年11月17日 (金)

カトリック信徒と「日本教」

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お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

先日、とある教派神道のかなり有識者と思われる方と、ネットを通じてお話しする機会がありました。

その時、しぇるりんは「日本教的な…」というしぇるりん固有の表現を使いました。

宗教人類学的な学術概念としてしぇるりんが創作したコトバで、日本的な意味合いでの「無神論」に通じる、日本でのみ通じる「和」を重んずる倫理観、各種の宗教観が混濁した価値観を表します。

日本では、大正時代の初め頃までは「神仏習合」という東アジア地域で一般的な多神教概念が庶民の心に根付いていたと考えられます。

仏教のさまざまなほとけさん、阿修羅さん、「○○天満宮」さんのように、何らかの理由で特定の人間が多神教の伝統的な地域神として崇められる多神教の神さま、神話、伝承などに基づく神さまなど、地域や「お堂そのもの」のニーズ、夢のお告げなどに応じて祀るような多神教信仰です。

また、地域や共同体ごとに多様な多神教信仰を超える、ひとつの真理がある、という信仰も存在しました。

中国の天道、朝鮮半島の「ハヌニム(天のお方)、ハナニム(ただ一人のお方)」、日本の本州地域で一般的な「おてんとさん」、沖縄、奄美諸島地域の伝統的な「トウトウガナシ」など、捉え方は少しずつ違いますが、違いを超えて「文化や信仰の違いはあっても、人間として共通の何かを感じているだろう」という抽象的な信仰も存在しました。


そのような神仏習合の伝統的信仰が崩れたきっかけは、明治維新政府による神仏分離令です。例えば、同じお堂の中に、仏教の毘沙門天さんとお稲荷さんを祀ってはダメ!と言うわけで、「廃仏毀釈」が行われました。

また、神祇令により多くの神社が建てられ、「政権が徳川幕府から明治維新政府になったから」という、国民には心情的に全く納得の行かない理由で、お寺の檀家だった人々が、「氏子調令」により神社の氏子として扱われるようになりました。

これと同じことがもしも欧米で起こったのなら、大規模な宗教革命を引き起こしたかも知れません。実際に「庶民、農民、農奴など下からの宗教改革」は、カトリック教会の教えとその時のローマ教会の現実の違いに対する、平信徒側のリアクションから引き起こされたからです。

これが、日本では「自分の信じたいものを、それぞれ信じればいい。名目上は、別に掛け持ちでもいいじゃない」という中途半端な帰結に、「なんとなく」たどり着いてしまいました。

亀を助けた浦島太郎が竜宮城に行き、竜宮城で乙姫さんと楽しく遊び、ふと里心がついて帰郷し、ふるさとの浜辺で宝箱を開けたら、「なんとなく歳月が過ぎ、老いて孤立し、居場所がなくなっただけ」という、かなり成り行き任せな昔話を思い起こさせます。

結果として、「名目上は神仏、掛け持ちでいい。個人は信じたいものを信じればいい。」を実際化しようという動きが起きてきます。これが、しぇるりんの言う「日本教」の始まりです。

「日本教」の問題点は、人間なら誰もが感じる人間としての共感力を高めるには、「自分自身の信仰を生きること」を望み、自分自身の信仰を重んずるように、他者がその人の信仰をその人なりに生きることを妨げない、論理的な表現や矛盾律への配慮、そして互いの自由や失態を認め合うためにゆる~い関係性の余地を残しておく、良い意味での「いい加減さ」に欠けていることです。

別な言い方をすれば、「信仰や価値観は、掛け持ちして当たり前。掛け持ちを断っちゃダメ。」という無言の社会的圧力がいまも存在するということです。

↓長崎の26殉教聖人の碑

Unknown キリスト者やイスラム教徒のような一神教の信徒は、「他の神々を信じてはならない」という教えがあるので、「価値観の掛け持ち圧」は、圧力、弾圧と感じられます。

その点について、誠意を持って教派神道の方と話し合いましたが、話はひとまずすれ違いに終わりました。

「自分自身の信仰を生きる」ということと、「たとえ違う信仰の持ち主でも、信仰心のない人でも、それぞれの生きざまの違いであって、人間として本質的に求めるものは結局、似ているのではないか」という気持ちは、国籍、性別、宗教、文化、地域、環境などに関わりなく漠然と、誰もが感じることだと思います。


「日本教」では、宗教の掛け持ち、価値観の掛け持ち、イイトコ取りを奨励します。

現実には、価値観の掛け持ちは信仰心を深め、他者への共感力を深めるための「その人なりの道」を閉ざす可能性が高いとしぇるりんは感じます。

もし、手先の器用な人が一つの工芸に生涯を捧げて道を極めるなら、いつか天下の名工になれるかも知れません。が、手先が器用だからと、織物、編み物、洋裁、和裁、粘土工芸などいろいろな事に手を出したら、どれ一つとして大成する領域に達することはない、器用貧乏で終わってしまう可能性の方が高いでしょう。

価値観や信仰、思想も同じことです。一つの道を真摯に求め続けてこそ、他の道にも通じる何かを会得する道が開けるのだと思うのです。

カトリックの教えは、一つであり、三位一体である主なる神を信じますが、同時に聖母マリアさまや聖ヨセフさまなどが私たちの祈りをとりつぎ、日々支えてくださると信じています。

また、洗礼、堅信の秘跡に際しては「悪の業を捨てますか」「その(悪の業)の栄華を捨てますか」という、エクソシズム(悪魔払い)の祈りに「はい、捨てます」と答えます。


これは、間接的にですが「キリストの名によらない生活を捨てます。信仰宣言にある通りの生活を目指します。他の宗教や価値観を自分の生活の一部としません」という意思表現でもあります。

どんな人間であれ、いのちは一つ、人生は一回です。

一つの価値観や信仰を求めても、なお道は果てしないのに、掛け持ちまでして、あちらこちらに浮気をしていたら、本気で前に進める道理がありません。

だいたい、「日本教」で言いたいことは究極的には、世界中の心ある人間なら、口に出す必要もなく誰もが共有している「互いに違っても感じられる、人間らしさへの共感」に近い何か以上のものではないように感じられます。

日本人同士ですら、日々の生活の中では分かり合えない「日本教的な何か」を、やたら難しいコトバで説き伏せようとするより、まず、違う価値観や信条の人がこの日本の国の中に大勢いて、お互いに相容れない部分がたくさんある、ということを認め合うことが優先事項だと思うのです。

先日の対話で、相手はキリスト教の神は「ゴッド」と呼ぶのだと思っていたと言い、私は「神をどのような名で呼ぶか、キリスト教徒には数千年の論争を経てなお、論議の余地のある大問題である」と主張し、話の決着がつきませんでした。

キリスト教ではカトリック、プロテスタントに共通して「~の名によってアーメン」と祈るほど、神を「どの名で呼ぶか」にこだわります。

「名もなきゴッド扱い」は、キリスト教徒の信仰を蔑む失礼な表現だとその方に申し上げ、その方は失礼を詫びてくださいました。

価値観の違いを尊重せずに「多神教も一神教も大差ないさ。みな、最終的には何となくおなじこと」と主張するのは、まるで飛行機に乗った人と新幹線に乗った人と、自動車を運転する人と、歩いている人に、「移動という動作をしてる点で、大した違いはないさ」と言うのと同じです。

飛行機に乗る人には、飛行機に乗るなりの在り方が、新幹線に乗る人にはそれなりの感じ方が、自動車を運転する人には運転者の責任が、歩く人には足の痛みと日々の歩みの面白さが、それぞれの出会いが、それぞれに違って、互いに素晴らしい人生を歩んでいるのです。

互いの違いを認めない「和」の中では、違う人生を生きる人同士のコトバと意味のやり取りをする、というコミュニケーションが成り立ちません。

同時に「日本教的な立場の方々」も、日本という彼らの価値観の外にいる人々を、日本教的な秩序体系に無理やり押し込もうと説き伏せるのでもなく、一人一人の個人のやり方だと投げ出すのでもなく、文化社会の根本的な違いも含めてどう受け容れたら良いのか、手探りしているのだなと感じました。

こんな時代だからこそ、カトリック信徒側も明確に、キリスト者として社会にカミングアウトする時だと思います。

日本教的な立場の人々に、「個人的な信条は、公的な日本教とは別でしょ」と言われて言い込められてしまうのではなく、しっかりと日本のカトリック信徒として、教会共同体の一員として、キリスト教の信仰を伝承できるカトリック者として生きることが求められています。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年11月14日 (火)

「けんそんの祈り」と「霊的な小心」について

神はあわれみぶかいおかたであるから、あなたはすべてを神のおん手にあかせ、こどもが親にしたがうように、まったく神のみ摂理に信頼せよ。どんな苦しい場合にも、いたずらになやみ苦しみことなく、神のおんはからいにまかせきる心をもて。そうしないならば、あなたは神をうたがい、神の善意をみとめず、神に希望をおかず、神に教えようとする高慢なものとなるであろう。けんそうなものは、そんなことはしない。けんそんの徳は自分をおさえると同時に、神のおん助けにより、神のなぐさめを期待させるはずである。

(レオ十三世《けんそんのしおり》42より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

《アウシュビッツの聖者コルベ神父》の中に、コルベ神父が修練院時代に、「霊的小心」をわずらったという話が出てきます。

霊的小心そのものの症状を語った、数少ない資料です。

『修練院に入ると、まもなく、きわめて苦しい試練にあわなければならなかった。数か月の間、文字どおり、昇進の嵐にもてあそばれたのである…このおそるべき霊的病によって、唯一の薬である従順をますます深めていった。

…かわいそうなライモンド(後のコルベ神父)は、一日に何度も彼(同室の先輩)のところに来て、その「気がかり」を説明し、「盲目的に従っていた」。この英雄的な従順のおかげで、救われ、嵐はやみ、霊魂は再び、晴天を迎えることができた。しかも、それによって、経験をつんだライモンドは、後日、小心な人たちに対して、天使的な忍耐をしめすのである。』(上掲書30頁)

しぇるりんは、不安症状による不眠症で数十年間くすりを飲み続けているから言えるのですが、霊的小心と心因性疾患やストレスが原因で「気がかり、こだわりから離れられない」精神疾患は、全く違うものです。

↓天を仰ぎ祈る、神の御子

F8631e80788acbd1b47eee1d450d8a3d9b 霊魂とは、心や気持ちが昇華した「何か」ではないし、「霊魂」という臓器は存在しませんが、確かに「生命活動に存在として宿る何か」です。

心や気持ちと霊魂は確かに自分の中で違うものだ、と感じるのは、心や気持ちの乱れや落ち着きと、霊魂の「安らぎ」や「小心、乱れ、荒み」が自分の中でバラバラに、または混乱して感じられる時です。

霊的小心とは、明らかに「気がかりに思う必要のないこと」だと気持ちの上では分かっているのに、霊魂が神から見放されたかのように閉ざされたようで、小心になり、自分で何らかの判断を下すことに霊的恐怖を覚える状態のことだと、しぇるりんなりの「霊的小心」に悩んだ時に感じました。

霊的小心は、カトリックの教えに従順でありたいと心から願う人の、霊的歩みの途上によく起こる「霊的一里塚」のようなもののようです。

わたしが霊的小心を患った時に出会ったのが、レオ十三世教皇の《けんそんのしおり》でした。

神のみ摂理に全てを任せるには、どんな苦しい時でも神の善意を認め、神に希望を置きたい、という真心からの気持ちを、神ご自身が内奥から触れてくださる自らのたましいの意志と合うことを心から求められる人に変わりたい、というのぞみを持たなければなりません。

「神の善意を認め、神に希望を」置きたいと真心から思えるようになるきっかけとして、主がそれぞれに相応しい時に霊的小心という一種のトレーニングコースを与えてくださるように思えます。

「気持ち的には落ち着いているのに」「判っているのに」、「心因性の病気ではなさそうなのに」、たましいが小心になってしまう状況は、とても辛いです。

世俗生活をしている私たちが個人でできることといえば、「神のみ摂理が必ずそこに働く」ことへの信頼と希望を、自分の気持ちの中で見失わないことに尽きると思います。

霊的小心は、聖イグナチオ・ロヨラの「霊操」にある「荒み」や、聖マザーテレサの言われる「霊魂の闇」とはまた違う、一過性の霊的状況のことだと私は思います。

一過性の霊的状況である霊的小心を、信仰のつまずきだと勘違いする方もおられるでしょう。

また、信仰の上での悩みと思い違いをして、聖書の勉強会やら、霊的読書で何とかして「キリスト教という知識」を身につけたい欲望に駆られるかも知れません。

霊的小心は、心から神の愛と救いが、自分自身が侮られ、侮辱されることよりも大切だ、というけんそんを本来的な意味合いで受け入れたいと思えるようになると、徐々にですが「まるでなにごとも起こらなかったかのように」消えてしまいます。

霊的小心と心の病の違いは、霊的小心は心身症やPTSDのような「後ひき症状」を全く残さずに消えてしまう点です。

その点、心の病、精神疾患の多くは、再発の可能性のある状態を残しての治癒、または症状と共存できる「寛解」以上には治りません。


その点、霊的小心の嵐を一度、乗り越えると人は少しずつですが小さな人、弱い人や小心な人への共感が芽生え、神の愛の神秘の美しさにめざめるような新鮮な想いを抱くようになります。

けんそんとは、イヤなことがあってもストレスを感じながら我慢するのでもなく、耐え忍ぶ痛みがあっても、神の救いを求める希望がくじけないことのようです。

けんそんとは、とても奥深く、世俗生活の中で揉まれている私たちには、極めがたいもののように思えます。

それでも、少しずつ前に進もうという希望を持ち続けるなら、神の愛とみ摂理がいつも自分とともにあることを知る日が訪れるでしょう。

 

主のみ摂理がみなさんそれぞれの時、状況、場所、思い、言葉、行いにおいて、十善に働きますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。


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2017年11月10日 (金)

「けんそんの祈り」といじめ問題


お元気ですか。しぇるりんです。(T ^ T)

今日は、カトリック、および伝統的なキリスト教でよく用いられる「けんそん(謙遜)」ということばと日本では大勢の人を死に至らしめるいじめ問題について、論考したいと思います。

明鏡国語辞典によれば、「謙遜」とは「へりくだること。自慢したり、高ぶったりせず、控えめであること」とあります。

また、英語の聖書では「humiliate」という言葉の訳語が「謙遜」だと読めます。

しかし、日本語と英語では全くニュアンスが違います。

英語の「humiliate」はオックスフォード英英辞典によれば「自らの尊厳やプライドが傷つけられ、馬鹿にされ、辱められると感じること」とあります。

また、ラテン語由来の類語「humble」は、「自らの尊厳をあえて控えめに、低姿勢にあらわすこと」とあります。

どちらにせよ、「控えめで、自慢しない、高ぶったそぶりを見せないことで、教養ある人のたしなみを示す」という日本語の意味合いとは、全く違います。

「けんそん」とは、実際に傷つき、痛み、馬鹿にされ、辱められてなお、その痛み、苦しみより神の愛と救いを求める、という希望と福音宣教のこころざしに満ちた想い、ことば、行いをあらわすのです。

「いじめ、いじり、いびり」の「三つの『い』問題」が、日本のもっとも深刻な社会問題として露骨に表面化しつつあります。

社会的弱者は「存在することが迷惑」だなどと言う言動、時に暴言、暴力など、「三つの『い』」を「社会正義を行なっている」という大義名分で行う人がいます。

相手の存在を否定する人は、みずからの存在を否定意義を否定しているのと同じです。

自分が他者をはかったものさしでしか、自分自身を計れないのが人間の悲しい本性だからです。

相手が弱者ならいくらその人の尊厳を傷つけ、賤しみ、あざけっても問題ないと考える人が、キリスト者の中にもいることは、とても残念なことです。

わたしが「七の七十倍、わたしを傷つけた人を赦した」としても、わたしが赦したその人自身が「その人自身が心から回心し、罪悪感を持ち、心から謝罪したいと思うようになり、自らをも赦せる」ようになるとは限らないです。

先日、ネットのニュースで滋賀県大津市で6年前にいじめ事件を起こした加害者が「いじめをしたわけではない」と法廷で言いながらも、「6年間、忘れたことはない。本人に謝罪したい」と初めて述べたそうです。

弁護士に言われるがまま、謝罪の言葉を口にしただけかも知れません。謝罪されても、自死された生徒さんのいのちが元に戻るわけではありません。

それでも、少しずつ加害者が「一人の人間を死に追いやった。自分は何かとんでもない罪を犯した」という罪悪感が、成長するにつれ本人なりに湧いては来たのだとすれば、改心の希望が少しは生じた可能性もあります。

被害者のご遺族は、当惑されたようです。法廷で言えば民事賠償金額に影響があるという世俗的な損得勘定を理解した、とも取れるし、「いじめ加害者」としてみずからがあざけられた結果、本人に罪悪感が芽生えたのかも知れません。

どちらにせよ、加害者が真のけんそんを生きることは、被害に遭った人やそのご遺族より難しいのでしょう。

↓レオ十三世(1978-1903在位)

400pxleo_xiii さいごに、レオ十三世教皇の「けんそんのしおり」にある祈りをともに唱えましょう。

心の柔和、けんそんなイエズス、

私の祈りをききいれられよ。

とうとばれようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

愛されようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

もてはやされようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

うやまわれようとののぞみより

イエズス、わたしを救われよ。

賞賛されようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

相談をもちかけられようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

ていねいにあつかわれようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

はずかしめられるおそれより

イエズス、わたしを救われよ。

軽んじられるとおそれるより

イエズス、私を救われよ。

拒絶されるおそれより

イエズス、私を救われよ。

ざんげんされるおそれより

イエズス、私を救われよ。

おき忘れられるおそれより

イエズス、私を救われよ。

あざけりを受けるおそれより

イエズス、私を救われよ。

ののしりを受けるおそれより

イエズス、私を救われよ。

うたがいを受けるおそれより

イエズス、私を救われよ。

自分よりもほかの人が愛されることを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

自分よりもほかの人が尊重されるのを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

自分よりもほかのひとがよろこび迎えられるのを好むよう

イエズス、私を助けられよ。

自分はしりぞけられ、ほかの人はもちいられるのを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

自分はみすてられ、他の人は賞賛されるのを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

すべてにおいて他の人がさきにえらびだされるのを喜ぶよう

イエズス、わたしを助けられよ。

自分の徳がすすめば

ほかの人はそれ以上完徳にすすむことを喜ぶよう

イエズス、わたしを助けられよ。

完徳への道は遠く、険しく、世俗生活の中では念じて、祈っても、現実の前では全く無力だと感じ、希望を失いがちです。

どれほど無力であっても、希望だけは保ち続けられるよう、「けんそんの祈り」を唱えましょう。

 

主キリストは、わたしたちそれぞれにいちばん相応しい希望の道を、必ずお示しくださいます。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。


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モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年11月 7日 (火)

《聖人たちの養い手》ローマ教会の父、ヨーロッパの父

…聖ベネディクトがわたしの前任者パウロ六世によって、ヨーロッパの父と宣言されたことを思い出したいものです。そのヨーロッパとは、ローマ帝国滅亡後、聖ベネディクトとその「戒律」を守っていた修道士たちの献身的な努力によって生まれたのでした。

これらの修道士たちが黙々とまた賢明に堅忍不抜の精神をもって果たしていったこの業が、古代の文化的遺産を管理し、ヨーロッパ諸民族と人類にさえもそれ(キリストの教え、ローマ教会の教え)を譲渡することを可能にしたのです。

《あらゆる破壊的な計画に真っ向から反対する》のがベネディクト精神であると、わたし(聖ヨハネパウロ二世)が今年の一月一日に指摘いたしましたのは、このようなわけでした。
(《聖人たちの養い手、聖ベネディクト》41頁抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今年は、宗教改革500年を記念する行事が各地で行われています。

カトとプロ、すごく違うように感じられやすいのですが、基本的に、プロテスタント教会の教えとカトリック教会の教えが「すごく違う」わけではありません。

聖ベネディクトの戒律に馴染んだ未信者の女性が、プロテスタント教会に日曜日に通い、カトリック教会のミサに平日に通った結果、「一番の違いは、聖餐式に使うのがご聖体用のパンか、店屋の食パンをカットしたってことなのかなぁ?」と主婦らしい感想を述べられたことがあります。

しぇるりんも「言われてみりゃ、そうかもね」と思わず納得しかけました。

しぇるりんは、洗礼をゆるされる直前までプロテスタントの日曜学校に5歳から13歳までほぼ休まず通い、20代はじめに韓国のカトリック教会で洗礼を受けました。

聖霊のみ働きか、まだ中学生だったしぇるりんに突然「結婚なら、離婚して再婚も場合によってはアリだけど、洗礼は一生に一回しか受けられないんだ」という考えがどこからともなく浮かんだため、7年続けた教会通いを、その翌週からやめたのです。

そんなしぇるりんの経験から言うと違いは、プロテスタント教会はともかく賛美歌と聖書が大好きで、聖餐式は「牧師さんのお考えにより時々やるらしい」のに対し、カトリック教会は、「ミサ、み言葉の祭儀と聖餐式」こそがカトリック教会の教えのかなめである、ということです。

にもかかわらず、聖ベネディクトの戒律を読んで「えっ?」と思うのは、いつ、どのような時にミサやゆるしの秘跡にあずかるとよい、などの七つの秘跡の勧めについては何も書いていないことです。

七つの秘跡に関しては、司祭は秘跡を行うあいだ司祭としての権限を持つが、それ以外では修道士たちと「同じ兄弟として祈り、働きなさい」という感じの言及がある随所にあるだけです。

それは、ヨーロッパという「堅牢な石やレンガ造りの教会」を築くべき地域に、中東地域生まれのキリスト教が「ローマ教会」として根付いたことと大いに関わりがあります。

実際、世界にはエジプトのコプト正教会、シリア正教会、東方教会など、宗教改革以前からさまざまなキリスト教がそれぞれの地域に根付き、今も継承され続けています。

それらの教会は、それぞれの地域の特性に応じて発展し、今も多くの困難に直面しながら、使徒伝承の教会を地域の伝統として継承しようと最善を尽くしています。

その点、ローマ教会は違います。

ローマ帝国という世俗帝国の崩壊後に、「ヨーロッパ」という多様な文化的価値観、ローマ帝国が政治力で成し遂げられなかった、「ヨーロッパという文化世界の要」になったことが、他の「キリストの建てられた使徒伝承の教会」とは違うのです。

そのヨーロッパ文化の価値観を支えるかなめとなったのが聖ベネディクトの戒律です。


「修道士たちが黙々とまた賢明に堅忍不抜の精神をもって果たして」いなければ、キリストの教えは古代遺産になっていたかも知れません。

父と子と聖霊の働きを常に新たにし、世の終わりまでキリストの教えを継承するためのカタチある「教会法」、カトリックの教えの中軸である七つの秘跡に敢えてこだわるのが「ローマ教会」なのです。

それは、主キリストが「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われた使徒的使命を果たす「キリストの共同体」としてのローマ教会が、七つの秘跡を「隅の親石」として、ヨーロッパという価値体系の中に布石したからです。

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での有名な講演の中に「人生は日々、君たちの努力、積み重ね、学び、行いで点を打つようなものだ。点があちらこちらに打たれても、最初はどのような絵になるのか分からない。日々、点を打ち続けて、ある日、後ろを振り返るとそこにあなただけの絵が描かれているのを見るだろう」という言葉があります。

宗教改革の時代、カトリック教会の聖職者、修道者や平信徒らが歴史上に打った「点」が描いた絵を、その時代に生きた人々が「振り返って見る」ことはかないませんでした。

大航海時代の到来で、「地球」という大きな世界を生きて駆け巡るだけで、ただただ精一杯だったのです。

福音宣教活動がヨーロッパから、他の世界に広がったきっかけが宗教改革でした。

↓ヨーロッパでよく知られている聖フランシスコ・ザビエル像(実はかなりイケメン!)

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日本にローマ教会の教えを最初に伝えたのは、聖フランシスコ・ザビエルです。

聖ザビエルは、聖イグナチオ・ロヨラにイエズス会士になるよう口説かれる前は、出世欲に燃えるエリート神学生だったようです。もちろん、イエズス会司祭として東洋の果てに行くことなど、若き日の聖ザビエルは想うことすらなかったでしょう。

そんな聖ザビエルは聖霊に導かれるまま、インド、マカオ、日本、そして中国に小さな福音宣教という点を打ち、いくつかの書簡を書き記したのち、過労と病いに倒れ、中国の上川島で亡くなりました。

「東洋宣教の父」と呼ばれる聖ザビエルは、聖ベネディクトが打ったいくつかの点が修道士、司祭、平信徒らの打った無数の点で描かれたヨーロッパ世界、ローマ教会というフレスコ画の申し子でした。

聖ザビエルもまた、彼が「全世界に福音を宣べ伝える」という使命に燃えて刻んだいくつかの点が、どれだけ壮大な絵を描くのか、生きて省みることは出来ませんでした。

私たちはいま、主キリストの選ばれた使徒と宣教者、教父と全ての司祭、修道士、数知れぬ平信徒らが残した無数の点が2000年のあいだに描いた「ローマ教会」という絵の真っ只中にいます。

ローマ教会という今の絵の中で、少しずつですが宗教改革で離れてしまったプロテスタントの兄弟姉妹たちとの対話、そしてそれよりずっと以前に離れた正教会派の方々との対話も進んでいます。

いまの対話のいしずえに、いつも聖ベネディクトの戒律が伝えようとした「神の愛に生きる生命の業、祈り、労働」があるのです。そして、私たちの明日の和解、対話と平和への道もまた、私たちにとってはローマ教会の教えへの従順のうちに自ずと開ける道なのです。

 

みなさんがいつも、日々の生活の中にキリストのみ顔を見い出しますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年11月 3日 (金)

《聖人たちの養い手》労働と人間の価値

人間とは、聖ベネディクトに言わせれば、無名の機械ではありません。効率よく使って最大限の収益を引き出しさえすれば、その人の道義的価値など省みられないばかりか、正当な給与さえ支払われなくともかまわないとされる、そんな機械ではありません。

注目すべきは、彼の時代には、人間以下とみなされていた奴隷たちによって労働が行われていたということです。

聖ベネディクトは、それに反して、どんな労働であろうと、労働が生活の本質的部分であり、また、あらゆる修道士が義務感をもって互いに労働に従事しなければならないと考えています。

…なぜなら本当の実りをもたらす労働は、苦しみと汗なしには行われないからです。この労苦は人間を罪から清めるあがないの力をもっており、また労働が行われる環境と対象となる事物を気高いものにしています。

(《聖人たちの養い手、聖ベネディクト》31~32頁抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

11月、死者の月が始まる頃になると、日本では企業の期末決算情報が少しずつで始めるとともに、来年の春闘のはなしが出てきます。


世界的に見ても労働賃金が低く抑えられており、最低限の生活に必要な給与を得られる人の方が少数派の日本では「春闘なんてどうせ自分とは関係ない」という方も増えたことでしょう。

人間が人間らしく生きるために日々を送るためには、最低限必要な衣食住を賄えるお金や手段、食事、睡眠、入浴、趣味など最低限の自分だけの時間が絶対に必要です。

この最低限の基準が満たされている生活を送れる人は、今の日本では少数派でしょう。

「わたしの労働環境は、この全てを満たすほどに理想的です!」と言える方が何人いるでしょうか。

毎日のように都会のどこかで人身事故があり、自死が頻発し、いじめや「いじり」を自らの保身のためなら罪悪感を感じる必要がないと当たり前に思い込んでいる人が、同じ空の下に大勢います。

今の日本の状態は、エジプト、中東や欧州の古代奴隷制度よりずっとタチが悪いのかも知れません。

聖ベネディクトの時代、奴隷たちによって労働が行われていました。現代の「使い捨ての奴隷制度」と違うのは、奴隷の主人には奴隷の衣食住のすべてを整え、死まで看取る義務が主人にあったことです。

しかし、聖ベネディクトの時代、荒廃したローマ帝国の都市では奴隷も悲惨でみじめな状態に置かれていました。だからこそ「労働するもの=みじめな奴隷」を脱却し、すべての人が同じ人間として扱われる時代を、使徒と教父たちの時代から心から願い、祈り続けて来ました。

《聖ベネディクトの戒律》の中で、修友は互いを「兄弟」と呼び合うこと、世俗での身分、親親族の経済力、出自に関係なく一日でも先に修道院に志願者として入った者を「先輩」として敬うこと、先輩は後輩をキリストの愛において肉親の兄弟のように慈しみ、互いのために働くよう、勧めています。

現代の時給制、日給制、月給制で縛られ、明日をも知れぬ身でありながら最低限の衣食住が保証されない、「流れ者の奴隷」になっている日本の労働者のを、天国の聖ベネディクトはどうご覧になっているのでしょうか。

労働そのものが時に過酷で辛いと思えるのは、どの時代、どこでも同じかも知れません。

「労働は精神を鈍らせる怠慢をふせぐばかりでなく、とりわけ人間の深みにまだ埋もれているかもしれない賜物を見出させ、鋭い義務感のうちに生きる人の人格を向上させます。その時にこそ、《あらゆる事柄において神に栄光が着せられるように》(一ペトロ4:11)共通善のために役立つものとなることができます。」(上掲書32~33頁)

↓聖家族も神の愛に満たされた労働の日々を生きた。

330pxmillais__christus_im_hause_sei 労働とは、それぞれの個性の中に主の賜物を見出させ、人格の向上に益するものであってこそ、人類の共通善に役立つ、と聖ベネディクトは言われます。

それゆえ、誰に対しても画一化した対応は「キリストの愛に反する」と考えていました。

幼い者には幼い者に必要な対応を、病み、老いた人には労働の軽減や一部免除などを「それぞれの状況に沿って行い」「必要なものは人によって違うから、必要なものが少ない人はその状態に満足し、弱い人への配慮を怠らないこと」を修道院長と修友全員に求めています。

また、それぞれの状態と働きに応じて、断食をする、しないを調節し、重労働に従事する者の食事量は多めにした方がいいなどとも《聖ベネディクトの戒律》に書かれています。

また、労働時間が長くなりがちな季節には祈りの時間を少し短めにするなど、労働する者の個々の状態が「その労苦が堪えがたいものにならないほどに、怠惰に陥らないよう」、修道院長が兄弟たちの父として「神が兄弟たちを愛するように、配慮する」ことを求めています。

わたしたちは、何のために働くのでしょうか。

答えはそれぞれでしょう。家族を養うために働く、奨学金や家のローンを返済するために働く、老後の蓄えをためたいから働く、学校を卒業した後の進路選択が就職だったから働くなど…。

人間の数だけ、「なぜ、働くのか」「なぜ、この仕事なのか」の答えはあるでしょう。

一人の人の生涯の中で「自分の好きを仕事にできる時期がほんの少しでもある人」は、少数派かも知れません。

その上、今の日本社会は学生だった人を、企業や社会が充分に社会人として育てる余裕がなくなってしまいました。

数十年前なら、新卒が就職すれば一年ぐらいは「新米」としてしっかりと研修を受け、社内外で必要な資格を取得させ、先輩についてみっちり教えられた上で、二年目ぐらいから徐々に正規業務に入ったものです。

今では「即戦力」という耳ざわりのよい言葉で「数週間~数ヶ月の研修で何でも出来るようになれ」「就職前に自己責任、交通費なども自己負担で研修」など、ブラック就活、就労が当たり前になりかけています。

また、以前と違い転職機会も多いのに、会社は終身雇用制度の時代と体質が変わっていません。

結果として、経営者、管理職、正社員、契約社員、派遣社員、バイト・パート及び、外注業者の日雇い派遣労働者が一種の身分制社会を形成しているのです。

あなたがどの「階級」にいるにせよ、「わたしは、なぜ労働するのか」を自分に問いかけてみる必要があります。

主キリストは、あなたの会社が給与評価や人事評定しない「何か」を、あなたの魂の内奥で見ておられます。

人格的な成長、些細な言動への内省、自らの欠点を直そうと努力したのか、他者の弱さを受け入れようと努力したか…などキリストの名においてどんな愛を行おうと努力したかを、主は確かに見ておられます。

いつだったか、家の近くの交差点で人身事故を起こしたのを目撃しました。交差点に信号が変わるギリギリで突っ込んだつもりが、実は信号は赤に変わった直後に横断歩道に突っ込むカタチとなり、ちょうど横断歩道を渡り始めた人を轢いてしまったのです。

その車はかなり古い型でしたが、2500ccぐらいの大きなワゴン型乗用車でした。すぐさま四方の車が全く動けなくなり、誰かが警察に通報しました。

運転者の男性は車の外に飛び出し、いきなり轢かれた人の近くで「なんでこんな所を歩いているんだ。なんで、よりにもよってオレなんだ。」と横断歩道に倒れたままの轢かれた人を見下ろして、罵倒し始めました。

横断歩道の近くにいた人々は、驚いた表情で唖然として凍りついてしまいました。加害者が、自らの罪をさらに暴露する現場を見てしまったからです。

その人はきっと、大型ワゴン車の自家用車を買えるほど、稼ぎのいい仕事をして来た男性なのでしょう。わたしなどよりよっぽど高い地位につき、多くの時間を労働に費やしたでしょう。

しかし、それまでの人生で、常に自分が嫌なことは、誰かや何かのせいにして生きてきたのでしょう。

交番は、歩いて数分の場所にある交差点です。警官がすぐに到着し、加害者はすぐに現行犯逮捕されました。

その人の人格は、何らかの「偉い」労働を生涯行って来てなお、「何でも都合の悪いことは他人のせいにする」人であったことを、その場にいたすべての人が目撃しました。

キリスト者にとって労働が人を育てるとは、それがどんな仕事であれ、ライフワークバランスが整った上で、祈りのうちに「労働そのものを豊かなものにする尊厳さを獲得すること」です。

見えない成長や人格的な成熟度、深まりが、たとえ社会的評価を受けない今のような時代であっても、努力と忍耐のうちに精いっぱい自分自身の弱さと正面から向き合った人の人格的な努力の価値は、主キリストの前では明らかなのです。

労働のうちに全く違う者同士が、互いへの学び、理解、尊敬を深めることは、ひとと人の出会いの経験としてだけでも価値あることです。

その上で、労働のうちに祈りを見出し、労働の場で出会う人々のうちに主キリストのみ姿を見出すなら、私たちは現実の日々の生活のなかでキリストの面影を常に感じ続けられるでしょう。

聖ベネディクトは、奴隷的な隷属だけを求める労働は、働く人、働かせる人の双方をキリストの愛から遠ざけ、社会全体をも荒んだ道へと導く要因だと考えました。

ルネサンスや宗教改革の時に唱えられた「平等、博愛、基本的人権」のさきがけとなるヒューマニズムの考え方をまず修道院の中で実践し、世俗社会の手本になり、福音宣教の模範になろうという説を唱えた初期の教父の一人が、聖ベネディクトだとも言えるのです。

あなたは、何のために働いていますか。

誰のためですか。

あなた自身の欲のためですか。

それとも、自己実現のためですか。

労働の中に、何を探していますか。

一度、自分自身に問いかけてみてください。

漠然と「お金がないと生きていけないと思うから働いている」だけで馬車馬のように働き続けられるほど、人間は強くもなく、愚かでもありません。

もちろん、自分がいったい何のために働くのかを省みるだけで、すぐに何かが変わるわけではないでしょう。

でも、自分の中に「働き甲斐、生きがい」のような何かがあり、そこに深まりがあるのとないのでは、確かに今日の一日への思い入れが違うと思うのです。

「お金を稼ぐこと」だけが労働ではなく、家事、育児、介護、学び、日常生活や病者の療養もまた「いのちのはたらき」です。

資本主義社会では、お金にならない労働はあたかも「働きではない」と見做され、お金に換算できない労働は全く価値のないものであるかのごとく錯覚しがちです。

でも、主なる神の前では、お金になる、ならないが「働いている・働いていない」の基準にならないことを、キリスト者であるわたし達は常に心に留めておかねばなりません。

みなさんの日々の働きに神の祝福がありますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年10月31日 (火)

《聖人たちの養い手》祈りと神秘

さて主の人ベネディクトゥスは…窓際に立って、全能の主に祈り、深い夜を見渡すと、突然上方から光が注ぎ、夜の暗黒を追い払った。真昼の光をしのぐこの光は、夜陰を貫いて輝き渡った。この光景の中で、まったく驚くべきことが起こった。

…全世界が、一筋の太陽の光線の下に集約されたかのごとく、その眼前に現れたのである。

(《聖人たちの養い手 聖ベネディクト》51ページ、聖グレゴリオ一世の《対話》よりの引用部分)

お元気ですか。しぇるりんです。(^_^)

冒頭の引用部分は、聖ベネディクトが修道院長、および修道院長らの父として活躍していた晩年の体験だと伝えられています。

これを、聖ベネディクトの生涯を《対話》につづった聖グレゴリオ一世は、次のように解説しています。

「創造主を見る魂にとって、全被造界は狭いものである。わずかでも創造主の光をかいま見ると、造られたものがすべて小さくなる。

というのも、内観の光によって精神の内奥が開放され、神の内に広げられた精神は世界を超え出ていくからである。

のみならず、観想者の魂はその人自身をも超える。神の光によって自己を超えて奪いさられた魂は、その内奥を広げられ、自己の下を見渡すとき、低い状態で捉えられることのできなかったものが、高い状態ではいかにも小さく捉えられるのである。

…精神の光によって世界の外に高挙された人が、眼前に集約された世界を見たとしても、驚くことがあろうか。

…肉眼に輝いたかの光によって精神の内に内的光が生じ、その光が観想者の霊魂を上方に奪い去り、下位の万物がどれほど狭隘かを示したのである」(《対話》より引用部分)


日本人は貧すれば鈍ずるで合理性や理性に窮し、やたら精神論や根性論に逃げ込む傾向があります。

日本式の精神論や根性論は、ひとに極度の緊張を強いてた挙句、日本式の位階秩序の中での隷属のために自らを無にしろ、虚しくしろという中身のない考え方の一つです。

その点、キリスト教では旧約聖書の時代から、常に「創り主である神と被造物との信頼関係を存在の中で深め、想い、言葉にし、行いにすること」を解いて来ました。

主キリストも、「あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい(マタイによる福音書22:39」が律法の根底であり、万物の真理だと語りかけます。

主がいつもともにおられるなら、孤立無援の精神論や根性論の中で追い詰められるずっと前に、まず隣人への愛の実践、対話努力、隣人との信頼関係の構築など、自分なりに出来ることをやろうという気持ちになれます。

場合によっては、自らを守るため、極端な根性論者の集団から距離を置くことも選択肢です。日本特有のガラパゴスな精神論、根性論は人間を孤立させ、ヨコのつながりに心を開かせない「タテ割り分断統治」という政治手法とともに成り立っているからです。

自分らしさを受け入れた上で、ひとり、主とより深くともにありたいと切望することが「観想の祈り」だと言えましょう。

創造主を深い暗黒の奥から仰ぎ見る、聖なる魂が見た「全被造界は狭い」と聖グレゴリオ一世が言われるのは、「私は神を信じていると思い上がって良い」ということとは正反対です。

信仰を内奥に求めれば、求めるほど、真の信仰とは真逆な極端な自虐心、内気、孤独との闘いや誘惑に悩まされることが多くなることもあります。

特に内気はレオ十三世の《けんそんのしおり》にあるように、「一種の病的な内面へのこだわりから、自分が自分であることへの自信を喪失し、日々の生活をどうしたらいいか分からない状態」です。

そのような状態にある時、世俗社会で生きる平信徒には信頼できる長上がいません。また、うつ症状、引きこもりなどの精神疾患などと間違えやすい状態でもあります。

「内気」は霊的かつ一時的な状態です。同じように「霊的な暗黒状態」もまた、精神疾患などと間違えられやすいです。

実はこの弱さこと、主キリストの真の支えの必要を私たちに教えてくれる聖母マリアさまのいつくしみの証しなのです。

それぞれの生まれついた弱さと主への信頼に支えられた生き方のように、他人には決して理解しがたい「ただひとりでしか生きられない聖性への道」もあります。

↓エル・グレコの聖ベネディクト

Lgp01a201308221800 聖ベネディクトも、晩年には自らの体力の衰え、激動する時代の波の中で、「精神の光によって世界の外に高挙された人が、眼前に集約された世界を見て、素直に、平常心で驚きと神秘を受け入れる」神秘へと導かれたのでしょう。

被造界の全てを「小さな世界」であり、自らを「なんと小さな存在なのか」と感じてなお、心の安らぎを保ち、主キリストだけを幼な子のように求め続けた聖ベネディクト。

自らは信仰の高みを極めてなお、信仰のか弱い初心者(Novice)のための戒律」作成に心血を注ぎ続けられた聖ベネディクトへの、主からの小さな贈り物が「被造界を主の眼差しで主とともに体験する」ことだったのかも知れません。

A年年間第30週の第一朗読は、出エジプト記22:20~26でした。その中に「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない…もし彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」というお話があります。

もし、一人の孤児が憐れみない人に虐げられた怒りを原動力に出世し、孤児や寡婦に何らかの支援の手を差し伸べられるほどの金持ちになったとしましょう。

金持ちになったからと言って、幼かった頃の心の痛みやトラウマ、心の隅に深く根付いた怒りが解消されるわけではないでしょう。

むしろ、自分が弱い人だったからこそ呵責なき残酷さを発揮する人になりがちなのが、私たち世俗社会を生きる人間の哀しい生きざまです。

それは、サスペンスや発展途上国で起こっている「他人事」ではありません。


少しでも暮らしが楽になり、自分の立場を守るためなら、誰かを弱者に仕立て上げ、誰かをいじめても罪悪感を感じることを拒否するなら、それは魂の殺人に手を染める人間になったのと同じことです。

また、裕福な家、地位の高い家に生まれ、初めから「他人より優れている」と成長過程で思い込んでいる人が、「実は貧しい人、地位の低い人より自分は弱さのある人間だ」ということに気づくことは困難です。

この世に、弱さのないひとなど誰もいないのです。

聖グレゴリオ一世の「内観の光によって精神の内奥が開放され、神の内に広げられた精神は世界を超え出ていく」という観想の祈りへの本格的な第一歩は、とても奥深いものです。

主日のミサにあずかり、聖堂で祈ることも大切ですが、聖堂でせっせと祈っていれば、必ず開けるというものでもないようです。

私にとってそれは、日常生活の真っ只中で、家事の最中に「突然、自分の心のなかの『地球の裏側のフタ』みたいなものが外れて、私の心と魂の間に主の風穴があいた」ような感じが突然訪れた時に始まりました。

まるで、心と魂のあいだにあるマンホールの蓋のようなものがポコンと外れた瞬間、消えてしまったような感じでした。

一度、フタが外れると私の心と魂の間を隔てていた、決して破れないはずの分厚い壁の存在を徐々に忘れて行きます。


私がその分厚い壁の存在があったことを忘れれば忘れるほど、主の愛への道がひろびろと広がっていくのを感じます。


私のような小さな人間に、魂の内奥に開かれた主への白い道は、国道や高速道路のように幅の広い道に見えます。しかし、主のおん眼差しから見れば野の小道より細い道なのでしょう。

それでも、とぼとぼと主キリストの示される道を歩き続けていれば、いつか視界が開ける日が来るのかも知れません。


神の人、聖ベネディクトがご覧になったのは、自らが歩いた信仰の道を、まるでグーグルマップの全地球を完全に一目で瞬間にすべてを見通すように、主のおん眼差しから被造界のすべてを光のうちにご覧になったのでしょう。

平凡な日々を送る私たち平信徒には、天から被造界へと射し込む、ささやかな白い光をチラッと垣間見るだけでも大きな栄光と言えます。

いつか、主の光に照らされる日が必ず来ると信じられる人は幸いです。主キリストは「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださるでしょう。


暗黒の中での祈りであれ、薄闇の中の祈りであれ、夕暮れの祈りであれ、まさに光に照らされた祈りであれ、主キリストの臨在を深められますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年10月27日 (金)

《聖人たちの養い手》キリスト者と情報化社会

人間も事物もキリストへの一致の度合いに応じて、力と価値をもつようになります。この真理の光に照らして、それら事物を考え評価しなければなりません。

隠棲修道院にいるすべての人、すなわちその指導者から見知らぬ貧しい客まで、また病人から小さい兄弟にいたるまで、すべてがキリストの生きた現存を指し示しています。

↓聖ベネディクト

Imagesca7v9c2r 物品そのものも被造物に対する神の愛のしるしであり、また人を神に昇らせていく愛のしるしでもあります。そればかりか《器具や仕事の道具さえも、あたかも祭壇の聖具であるかのように取り扱わなければなりません。(聖ベネディクトの戒律31:10)》

(聖ヨハネパウロ二世の使徒的書簡「聖人たちの養い手、聖ベネディクト」22頁)




お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

私たち平信徒が生きる日々の生活は息をつく暇もないほど、忙しい毎日です。

分刻み、秒刻みで道を渡り、踏切を越え、電車やバスに乗り、または信号待ちにイライラしながら自家用車を走らせ、渋滞への憤りを抑えつつ、分刻みのスケジュールで仕事場や学校に向かいます。分刻みで時給が支払われるパートやバイトで働く方も多いでしょう。

秒刻み、分刻みの社会は大勢の人々の心身に痛みを与え、ストレスを引き起こし、多くの人を自死に追いやっています。

ある日のことです。私の駅近くの踏切が、開いてから数十秒でまた、キンコンカンと鳴り始めたことがありました。コンピューターの自動制御システムで管理されているため、踏切棒が上がってからまた下がり始めるまでの間隔がたった三十秒でも、開いて、また閉じるのです。

わたしたちが重い荷物を台車で運んでいる最中、ちょうど踏切の真ん中辺りで鳴り出しました。私たちは鳴り出したタイミングから時間を逆算し、どうにか抜け出せました。

その時、お年寄りの男女の方が踏切内で立ち往生する寸前になっていました。

私たち若いモノより、ちょっとだけ鳴り出しのタイミングが認知されるまで時間がかかるぐらいのご年配の方でした。男性の方はどうにか小走りで抜けましたが、女性の方は走れず、二車線道路の真ん中まで逃げた挙句、踏切の遮断棒に頭をぶつけてしまいました。

幸い、お怪我はされなかったようですが、とても痛い思いをされたこととお察します。でも、私たちも自分たちの生命、荷物、そして荷物が線路上に転倒した場合に起こり得る脱線など最悪の鉄道事故の惨事が起こる可能性を鑑みると、おばあさんを助けに行くことは物理的にできなかったのです。

鉄道自動制御システムには、必死で走ったおじいさんの焦り、遮断棒に頭をぶつけたおばあさんの痛み、私たちがご年配の方々の慌てた様子を見て感じた心の痛みと焦りを理解する能力がありません。

鉄道自動制御室で働く人々もまた、いまこの瞬間に遮断棒に頭をぶつける人、踏切の警鐘が急に鳴り出して慌てた挙句、ランドセルを背負ったまま線路につまづいて転んだ児童がどこかにいるかも知れない、ことなどを深く考える時間もないまま、秒刻みの仕事にただ追われているのです。

システム制御能力を向上させ、業務効率を向上させればさせるほど、「モノ」は人の想い、神とひととのつながりを断ち切り、ひとの生命の営みから神を見いだす糸口をもつれさせて行くように見えます。

近代以降の技術の多くは、人の生命を活かしたいという一念で開発されたものが多いです。

ダイナマイトは、石切場での命がけの重労働を楽にするため、「発破作業」を行う目的で発明されました。が、ダイナマイトは「敵を自分と同じヒトと思わないで済む遠距離から攻撃する」武器に転用され、今日に至っています。

どんなに感情的な怒り、憤りやストレスの中にあっても、相手を同じ神の愛を受ける人間だと思えれば、対話への糸口が開けます。私たちは、人種、髪、肌、目の色、話す言葉や信じることや生き方が違っていても、私もあなたも同じ人間であり、主の大切な被造物であることに変わりはありません。

そう言うと「でも、差別があるでしょ!」とお叱りを受けそうです。

いのちとは、どれほど多くの自然や集団の営みに囲まれ、支えられていても、それぞれが独立した孤独な営みです。

自分の思い通りにほぼ近く、自ら動かせるのは自分自身だけであり、他の人を「自分の思うままに将棋のコマのように動かす」ことなど誰にも出来ません。

だから、「わたし」と他者を区別せざるを得ないのです。

たとえ棋聖のような稀代の名人が将棋のコマという「モノ」を動かすとしても、対戦相手がいる(ある)以上、すべてを思い通りに動かせるものではないのです。

だからと言って「差別して当たり前。自分の感じ方、考え、生き方はすべて正しい」と、他者のいのちの痛みや苦しみを「あたかも相手がそこに存在しないかのごとく振舞って当たり前」の言い訳にはなりません。

わたしたちは被造物の一員として、シャベルやコンピューターなども「祭壇のご聖杯などの聖具のように大切にしなさい」と聖ベネディクトは言われます。

すべてのモノを神の被造物として聖具のように大切にすることは、結果として、「わたし」や「あなた」という人間のいのちを重んずることに通じます。

21世紀のとてつもなく非人間的な社会において、聖ベネディクトが言われる「すべての被造物を、神がわたしたちを愛するように愛する」ことを、隠棲修道院以外の場で実践することはたいへんな困難を伴うでしょう。

だからと言って、人工知能がもたらした恩恵をすぐに手放せるものではありません。炊飯器、洗濯機など生活必需品から、電車、バス、自動車などの交通機関まで、人工知能なしで運営できるものは少ないからです。

人工知能、IT化技術、AI知能の集積やIoT化技術をどれだけ高度に発達させても、「知識の集積による技術的学習」には必ず限界点がやって来ます。

人工知能は、過去30年ほどで驚くべき進歩を遂げました。

一つの箱をロボットが自らの判断能力で部屋の片隅から、別の角に動かす作業をするだけで、30年前には24時間以上かかりました。

この30年ほどの進歩で単に「箱を動かす」作業をするだけでなく、簡単な会話や感情表現の理解と人間のニーズに応える動作を、限られた範囲内では行えるようになりました。

それでも、知識の集積回路と機械が自らの意志で「モノ」以上の怪物に進歩することはないでしょう。ヒトは電力供給を停止することで、機械の動きを停められます。

もし、「ロボットの反乱」が起こるとしたら、それは神の被造物である人間が怪物を作り出すこと、悪魔に魂を売り渡すことに同意した結果だと言わざるを得ません。

技術の進歩により、全地球の人類が同じ情報を共有をできるようになりました。私たちは、サハラ砂漠の真ん中にいても、東京の高層ビル街でも、言葉がわかり、互いへの信頼へ心を開こうとするなら「お互いを理解する」恩恵とチャンスが与えられました。

大富豪から戦禍から逃げ惑う避難民まで、スマートフォンやiphone、PCなどのスマートデバイスを通じて情報共有することで、情報難民化し、デマや噂話、誤解や誤認かどうかの確認が全く出来ないまま惨劇に遭う確率は減りました。

今や、白虎隊が白煙と炎に巻かれた会津若松城を見て落城したと誤解し、若い生命が無残に自決するような惨劇が起きる確率は多いに減ったのです。

だからこそ、私たち自身が「神の被造物」であること、また私たちが用いる道具もまたわたしたちの生命の営みが作り出した神の被造物であることを、「わたし」という「存在の中で、神の愛、キリストの名と聖霊の交わりにおいてより深める」必要があります。

インターネット社会は、噂、デマ、フェイクニュースが真実とないまぜになって伝えられる点、テレビやラジオより「真実を判別し、自分なりの判断をする能力」、「自分なりの判断に従い行動する意欲、能力」が求められます。

テレビやラジオの時代なら、放送された内容を鵜呑みにしたため「実は誤解だった」「現実とはかけ離れた内容だった」と人とひととの出会いの中で気づく可能性がありました。

一方、これからも「放送された通りに思い込んでいる」だけで終わっても「仕方がない」と諦める選択肢しかない人もいます。

スマートデバイスは、使い方が複雑で、誰でもスイッチを入れれば使えるわけではないからです。

「わたしなりの判断」を下すに際し、神の愛を受けるわたしたちキリスト者は、「わたしにとって神のみ旨はどこにあるのか」を常に追い求め続けなければなりません。

神はいつも、私たちを愛しておられます。愛する我が子に行く道を示してくださる神に信頼して、今日の一日を自分なりに大切に過ごせるよう、ともに祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年10月24日 (火)

《聖人たちの養い手》観想と祈り

キリスト者は、はかり知れない救いの神秘を含む神のみことばを毎日愛をこめて観想し、心を尽くしてその中にいっそう深く分入ります。それは生活全体にわたる努力はもちろんのこと、人間的知識ではなく、そのうちに神的な何物かを含む知恵によって行われます。

すなわち、それ以上知ろうと努めるのではなく、こう表現することが許されるとするなら「存在の密度を濃くすること」に努めることによって行われるのです。

つまり神とともに語ること、神のことばを使いながら神に語りかけること、神ご自身がお考えになることを考えること、一言で言うなら神の命そのものを生きることによってです。


(聖ヨハネパウロ二世の使徒的書簡《聖人たちの養い手 聖ベネディクト》26頁;2007;教友社)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

日本では五世紀以上にわたり、布教効果の上がらない宣教地、キリストのために自らを捧げた殉教者の血で築かれた小さな教会のともし火を灯し続けるだけで精一杯の地域であり続けました。

社会的な圧力、キリスト教への反感も根強く、カトリックの教えを子々孫々に秘跡を通じて継承することも困難なことも多いかと思います。

それだけに、一世代目の受洗者、他の宗教からの転向者の比率が高く、「カトリックの教え、キリストの教え、聖書の教えの知識を頭に入れたい」という方も多いようです。

もちろん、聖三位一体の真理をご受難の十字架を見つめ、静けさの中でみことばに耳を傾け、心を開こうとする努力は大切です。主日のミサにも、出来るだけ毎週参加したいものです。

ただ、「頭に聖書の知識、お説教の内容が入ってこない」ことにこだわってしまうと、祈りの本質である「人間的知識ではなく…神的な何物かを含む知恵によって行われる」何かを見失いがちになってしまうのです。

受験や試験の勉強をした時のことを、思い出してみてください。

試験の時には「どうにかこうにか解けた」難問でも、翌日には「きれいさっぱり、頭から抜けてしまった」ことはありませんでしたか。卒業から5年以上経ったのち、苦手科目の中学や高校の問題が解けますか、と問われて「大丈夫。あの時と同じ点数が取れます」という方は、現役の塾講師か受験勉強の達人以外ではごく少数派でしょう。

「知識を得る」ということは、「知識を応用できる=知恵を得る」こととは違うのです。

特に、日々の生活を生きる上で必要な判断力の源となる知恵を得ることは、知識を得ることは全く異質です。

突然ですが、ユーミン(松任谷由美、旧姓荒井由実)の「やさしさに包まれたなら」という歌をご存知ですか。

こんな歌詞のうたです。

https://www.youtube.com/watch?v=N-uCT3jGEMs

「小さい頃は神さまがいて

 不思議に夢をかなえてくれた。 

 やさしい気持ちで目覚めた朝は

 おとなになっても奇蹟は起こるよ

 カーテンを開いて

 静かな木漏れ陽のやさしさに包まれたならきっと

 目にうつる全てのものはメッセージ」

カトリック者、キリスト者が神さまに心を開くとは、知識を得ようとすることだけではなく、ユーミンの歌にあるように、幼な子のような気持ちで愛の源である神さまと向き合うこと、「幼な子のようにやさしい気持ちを取り戻し、主と愛の語らいをただ望むこと」にあるのかも知れません。


祈りと観想。それは、受験競争のような「競争原理に基づいた知識獲得」とは正反対の何かです。争わず、排除せず、やさしさに溢れた気持ちで「いのちの源からわたしは来た」という人間の原点に立ち帰ることです。

わたしたちキリスト者がいのちの源に立ち帰ろうとするなら、神さまは全ての心から祈る人に聖霊を通じて何かメッセージを下さいます。

でも、そのメッセージとは、木漏れ日のやさしさに包まれるようなやさしさに包まれた時、突然やってくる直感のような何か、魂を根底から揺り動かし、主に心を向けさせる何か「ことばにならない、うめきのようなもの」だと思うのです。

メッセージのひとつ一つは、本人と神さま以外には意味不明な何かかも知れません。それを、客観的に誰かに説明しろと言われても、言葉に尽くし得ない何かなのかも知れません。

そのメッセージがどれほど荒唐無稽で、ある意味子どもっぽいものだと思われても、「真摯に受け取る」ことが、わたしたちの祈りと観想を前に進ませ、『「存在の密度を濃くすること」に努めること』への道を切り開く原動力になるのだと私は思います。

聖人聖女もまた、幼いころにはとんでもない荒唐無稽な夢を描きました。

カルメル観想修道会のアヴィラの聖テレジアは、イスラム教徒の国で宣教活動を行い、殉教者になりたいと願い、子どもの頃に家出してした挙句、親に連れ戻されました。

また、アッシジの聖フランシスコは「すでにいいオトナ」と言えるトシになってから「教会を立て直せ」と主のメッセージを受けて、郊外の廃墟となった教会を一人で建て直すという「???」な行動をとりました。

欧州には、廃墟になった教会があちらこちらにあります。廃墟化した教会(いわゆる「死んだ教会」)は立地条件により、墓地、劇場、店舗などに転用されることもあり、わざわざ「廃墟になった教会を敢えて『生きている』教会に建て直す」ことはむしろ珍しいのです。

主は聖フランシスコに「ローマ教会を使徒伝承の教会、清貧、貞潔、従順の教会として立て直す」ことを望み、フランシスコ修道会の成立と活躍を望まれたと結果的には考えられます。が、最初に聖霊に突き動かされた聖フランシスコには、主のメッセージの全ては理解できませんでした。

アッシジの聖人は、主のメッセージに応える人間側に多少の理解のずれがあっても、『神とともに語る、神のことばを使いながら神に語りかける、神ご自身がお考えになることを考える…神の命そのものを生き』ようと努力することの大切さを語りかけます。

平信徒のわたしたちに語りかけて下さる主のメッセージも、最初は「???」なものでしょう。主のメッセージのひとつ一つは、完成図を見たことのないジグゾーパズルのピースを、日々の生活の中で少しずつ下さるようなものだからです。

ある程度ピースが貯まれば、少しずつ「わたし」という生命の中でパズルが埋まっていくでしょう。少しだけ絵が出来れば「ああ、こんな風な絵かな?」というイメージが湧くようになるかも知れません。

でも、ある日見直してみたら、間違ったピースを強引に押し込んだ自分に気づき、大幅に修正するハメになるかも知れません。人生の大きな転機のようなものです。

「わたし」といういのちのジグゾーパズルの全体図がほぼ埋まってくる頃には、私たちは主の元に立ち還る「死」を見つめる時が来るのかも知れません。

だからこそ、祈りと観想の中で、やさしい気持ちで木漏れ日に包まれた窓辺で感じた主のメッセージを、「わたし」という存在の中で深めていくことが大切でしょう。

「わたし」という未完成のジグゾーパズルの絵から主を感じ、「あなた」「誰か」という未完成のジグゾーパズルの絵からおぼろげに御みずからを現される主を見出すために。


1610_kansai_1_028670x443 紅葉の葉は、寒暖の差が大きくなり、秋が深まるにつれ色濃い朱に染まります。

紅葉のように、主のメッセージも、主が「わたし」という生命の中で「主のみことば」を通じて深めて下さるのを感じます。

そのいのちの営みとプロセスを、魂のうちで短い祈りや念祷のうちにじっと見守ることこそ、観想の祈りの真髄だと私などは思うのです。

時はいま、秋の紅葉が朱に染まる晩秋です。このブログを読むみなさんは、人生のどの季節を迎えられたのでしょうか。

 

紅葉も早春の淡い緑の芽生えの時があり、5月に緑深まり、厳しい夏の日差しの中で他の木々の間で目立たぬ日々を送ります。そして寒暖の差が激しくなり、何度も台風や大風に揉まれたのち、秋の紅葉を迎え、やがて散り去ります。

あなたの人生の季節がどの季節であるにせよ、主とともに日々の密なる語らいの中で、前に進めますように、アーメン。

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2017年10月20日 (金)

《聖人たちの養い手》聖ベネディクトと平信徒

「どのようなこともキリストの愛には優先させないこと」

《聖ベネディクトの戒律4:21》

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

20世紀以降の多くの平信徒宣教活動が、聖ベネディクトの戒律を基礎とする修道会と何らかのかかわりがあるのは、とても興味深いことです。

↓ヌルシアの聖ベネディクト

Benedictus_de_nursia おそらく《聖ベネディクトの戒律》には、カトリック教会の教え、祈り、信徒共同体を形成するのに必要な規範の根本が書かれているというだけではなく、常に教会を刷新する力を秘めた戒律だからでしょう。

使徒ペテロの時代から、キリスト者の教会共同体は日々、与えられた環境、場所、時代、状況の中で常に自らを新たにすることで、福音宣教の使命を果たして来ました。

福音宣教の使命のかなめは、「何ものもキリストの愛に優先させてはならない」と聖ベネディクトは強調します。

キリストの教えの中で、いちばん簡単に分かち合えるのは愛です。

希望を誰とでも、いつでも分かち合えれば素晴らしいことです。しかし現実問題、たとえば今いじめ被害に遭っている人、いじめやハラスメント、そのトラウマに悩む人に、希望を持つことの価値を説いても意味はないでしょう。

絶望のどん底にある人に、言葉で希望を説くのはキリストの愛の教えに背くことが多々あります。絶望のどん底にいる人の深い孤独に寄り添えきれない自分を見つめる時、「ついつい」希望を抱く人は、全くの無力感に襲われます。

真理もまた、何らかの話が通じた上で、分かち合える人がいればたぐい稀な恵み深い出会いとなるでしょう。

しかし、真理を分かち合うためにはそれ以前に何らかの深い信頼関係を築ける土台が必要です。真理を分かち合うための土台は、キリストの愛です。

であれば、キリストの愛を何らかのカタチにして分かち合うことが、人間にできる最善のわざと言えましょう。

どんな愛を、誰と、どのように分かち合えるのか、私たちにはすべてを計画することができません。キリストの愛のたまもの、聖霊の導きが示す道が「なぜ、その道なのか」を、道を歩みだした時、歩いている最中に明確に知ることは出来ないかも知れません。

ある善業に励む母の一人息子が、「アフリカで宣教師になりたい」と修道院に入った話を聴きました。なぜ、彼は司祭が絶対的に不足している日本ではなく、アフリカを目指し、その道が開けたのか、主キリスト以外は誰もわかりません。

2013年に聖座につかれた教皇フランシスコがイエズス会に入会した動機は、日本の殉教者に関する霊的読書に心酔し、「日本に宣教師として行きたい。日本の殉教者の後に続きたい」でした。

が、映画「ローマ法王になる日まで」で紹介されたように、青年ベルゴリオは幼少時に手術を受けたため「日本の高温多湿の気候には合わない」と判定され、故国アルゼンチンに留まりました。

入会志願面接を行なった長上たちのキリストの霊に導かれ、ベルゴリオ志願者は故国でイエズス会士、イエズス会司祭となりました。そして、解放の神学、独裁政権下のアルゼンチンで過酷な試練と激動の司祭生活を送り、補佐司教から枢機卿への道を歩みました。

南北アメリカ大陸初の教皇は、「素晴らしい青年だが、日本は多湿な気候で結核の発症率が高く厳しい」と、長上らが「キリストの愛を優先して」判断したことが発端で生まれたとも言えましょう。

わたしたち平信徒もまた心から主に信頼し、祈り続けるなら、それぞれ与えられた場で、今いる環境と状況、自分自身の想い、願い、祈り、行動の中で確かに主の導きの中に生きているのです。

聖ベネディクト戒律などを基礎とする観想修道院は、教会共同体や主の愛という「目に見えない何か」を、「目に見える修道院生活」として現しているのだと言えましょう。

ベネディクト会の修道院の多くでは、一部の施設を宿泊施設として人々に開放し、修道者と同じ聖堂で「教会の祈り」やミサにあずかることができるようになっています。

いわば、平信徒が誰でもローマカトリック教会の根幹を気軽に体験できるのが、聖ベネディクトの修道院なのです。(長野県にあった聖三位一体ベネディクト修道院は閉院になりました。)

カトリック教会の本質を体験しつつ、平信徒である私たちが主の導きに自らを委ねきるなら、私たちはそれぞれの小道へと導かれます。

どのような小道に、どう導かれるにせよ、主キリストだけが「なぜ、その道なのか」をご存知であり、人間的な思いでは誰にせよ、理解できないものだと思います。

どのような場にあってでも「何ものであってもキリストの愛に優先させてはならない」という戒律を守ろうと最善を尽くすなら、私たちは主の愛の食卓により多くの人を招くことができるでしょう。

日本人はやたら「人に迷惑をかけない」「みんな同じ」を重んじたがり、国の定める道徳を「普遍的なモラル」と思い込む傾向があります。が、特定の国家や人間が定めた「道徳」であれば、一見すると普遍的に見える価値観でも、キリストの愛に優先させてはならないと思います。

また、キリストの愛に何らかの不純物、愛社精神や愛国精神をエセ宗教化した何か、と取り違えてはならないとも思います。

《聖ベネディクトの戒律》は、これからも新しいカトリック・アクションを世の終わりまで産み出す母なる戒律として、世に愛読され続けるでしょう。

時代考証をしないと理解しづらい部分も多々ありますが、《聖ベネディクトの戒律》は単なる安らぎや癒しの教えではありません。霊的生活と労働をいかにバランスよく、主の祝福に満ちた生活を送れるか、が解かれていると思うのです。

数々の新しく生まれたカトリック・アクションもまた、《聖ベネディクトの戒律》に、平信徒の労働生活をいかにバランス良く霊的生活と両立できるのか、という課題の最初の手がかりを求めたと言えましょう。

結果が出ていないと、何をどう努力しても誰もその努力を評価してくれないかも知れません。

誰も評価してくれなくても、それが主の聖霊が導かれる道だと信じるなら、何を言われても前に進みましょう。

今日、何も上手くいかなくて、失うものばかりだったとしても、今日の苦労はきょう一日で十分です。

今日の最善を尽くしたら、明日の日は主の愛の導きに委ねましょう。

後戻りができないのが、人生です。前に進むしかないのに、気持ちが立ち止まったままでは、前に進めないままぐるぐると同じ場所を堂々巡りすることでしょう。

「何ものもキリストの愛に優先させることなく」きょう一日を精一杯生きましょう。

みなさんの上に主のみ恵みが豊かにありますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年10月17日 (火)

《聖人たちの養い手》聖ベネディクトの生涯と修道院

『紀元480年頃…神の恵みによって祝福されていたベネディクトは、幼少の時から老熟した心をもち、ただ神のみを喜ばせることしか望まず…少年時代にありがちな魂の動揺にも打ち勝って、《厳しくけわしい道》をすすみました。

…数か所で孤独な生活を送り、誘惑の試練によって心が清められるうちに、その心は神に向かって完全に開かれるようになりました。そして、神の愛に迫られて、他の人びととともに住み、その人たちの父となり、彼らとともに《主に奉仕する学校》を開きました。

…わたしの先任者パウロ六世教皇が言っている通り《愛・従順・清さ・事物に対する精神の離脱・物を正しく使うための技術・精神の優位性・平和・一言で言えば福音が支配している場所》です。』


《聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡「聖人たちの養い手」聖ベネディクト;トラピスト修道院訳;2007;教友社12~13頁》

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

《聖ベネディクトの戒律》は、西方教会(ローマ教会)の修道制度と隠修修道会(東方教会)をつなぐかけ橋とも言える「修道会則」の主な原典のひとつです。

活動修道会や教育修道会のシスター方に、「きっとすごく難しい本なのでしょ?」と言われることがあり、わたしの方が驚くことがあります。

確かに、外に出るのが大好きな多数派の欧米人には「一人ぼっちで山の中におこもりして修行なんて、ナイだろう!」という厳しさが感じられるかも知れません。

しかし、もともと内向的で内心の自由を重んじる日本人には、とても親しみの湧きやすい教父だと思います。

↓人々の心の扉をたたくキリスト

209b3744 大聖グレゴリオの《対話》によると、聖ベネディクトは都会に出てすぐに学業に失望します。そして、実家から付き添って来た彼を敬愛する女中を連れ、荒れ野に行こうとします。途中、ローマ近郊のエンフィデという町の聖堂で引き留められ、そこの教会の近くで主の道を求道します。

ある日その女中は、近所の人に借りたふるいを誤って壊してしまいました。他所者である手前、どうしたらいいか分からず困っている女中のため、聖ベネディクトは奇跡でそのふるいを元どおりにしたのだそうです。

が、この事件は街中の賞賛を集めました。その時、人々の賞賛が、聖性と求道の妨げになると聖人は気づきました。そして、女中を実家に帰し、ローマから更に離れたスコピアという山奥で「ただ一人、キリストとともにいる」生活を続けたそうです。

何かと内心に引きこもりがちな人の多い日本人には、とっても内向的な聖ベネディクトの生き方は、かえって共感を覚えやすいとしぇるりんは思います。

若い日にありがちな誘惑である、内気、放蕩、性欲など多くの試練を主キリストの助けによって乗り越え、聖ベネディクトはただひたすら、奥深い信仰の道、孤独な道へと邁進して行ったのです。

が、何せ求道を始めた途端に奇跡を起こせるほどの隠修士です。奥深すぎる、スゴすぎるで、誰もが聖ベネディクトを生ける聖人のようにしか思えないほどの深みに達してしまいました。

こうなると、人並みに「キリストに生涯を捧げます」という決意の人であっても「ちょっと厳しすぎて、付き合いきれないよ」となってしまいます。

そのため、聖ベネディクトが最初に熱心に乞われて、仕方なく修道院長となった最初の修道院では、聖ベネディクトの厳しすぎた指導が反感を呼び、ついには聖ベネディクトの食事に毒を盛る者が現れました。

毒を盛ったワイングラスは、聖人の十字架の祝福の瞬間に破れ、聖人は毒を盛られた事を知りました。

それまでの聖ベネディクトは、いわば主キリストの聖霊に純粋培養された、無敵の天才ホームランバッターのようでした。

並外れた天才バッターが、選手として誰かにバッティングを教えるとしましょう。「ピッチャーの足元を見る。で、ココでバット振って」という、「人並みに一軍スタメンのプロ野球選手にはとうてい理解しがたい」深すぎる教えになり、「何がなんやら、さっぱり分からない」になりがちなのです。

聖ベネディクトも修道士たちとの軋轢の中で、キリスト者として天才バッターにも共通する、同じような問題に気づいたのでしょう。

野球選手なら、天才バッターがバッティングを教えるコーチ、チームの采配を振る監督になれなくても引退後に転職できます。

しかし一人のキリスト者として、聖ベネディクトにはキリストの道を生涯歩む以外の道はありません。

その上、神の子でありながらキリストは弟子たちや貧しい人、罪人に寄り添う愛を示されました。

キリストに倣う一人のひととして、「ひとり、キリストとともにある」聖ベネディクトは、自ら修道士たちの父となり、修道士たちの父となる人々を養成し、その助けとなる「初心者のための手引書」として、《聖ベネディクトの戒律》を実践し、執筆しました。

その基本は主の受肉の神秘を受け入れた上で、超自然的な神の助けを受けて「祈り、働く」ことにあります。

「神を信じる者には人間的なことを忘れることは許されませんし、また人間に対しても忠実を尽くさなければなりません。」(上掲書23頁)

祈りがキリスト者の生涯を貫く神との語らいの縦糸であるなら、働き、奉仕のわざ、人々とのつながりやコミュニケーション、福音宣教活動は、生きる主と愛を分かち合う横糸に例えられるでしょう。

私たちキリスト者は、主との内面の語らいと言う縦糸と、生きる主の愛を人々と分かち合う横糸で、「わたしのいのち」という一枚の布を織り続ける織り子のようなものです。

縦糸をしっかりと張ろうとせず、横糸を織り込もうと日々努力しないなら、主が与えて下さった「いのち」という糸、「わたし」というはた織りは、糸の束を抱えたまま途方に暮れるだけで生涯が終わってしまうでしょう。

聖ベネディクトは、教会が「世の終わりまで、主の教えを伝え」られるよう、修道制度の基礎となる戒律(生活法典)を確立しました。

彼の時代には、修道者が信徒に敬愛される行いを実践することが宣教活動のかなめだと考えられていました。だからこそ、聖ベネディクトは修道者が模範的な修道生活を送るのに必要な「初心者(Novice)」がキリストとともに生きる人となり、聖性への道をならす使命を果たしたのです。

21世紀を生きる私たちは、壊れたふるいが元どおりになっても奇跡を信じないでしょう。CG画像か、特殊修復技術を用いたのだとしか思えないのです。

そんな私たちでも、ひとりの人の生きざまが変わること、ひとりの人の気持ちが「何となく動いた」ことで、歴史が変わる時、確かに奇跡を実感します。

21世紀の奇跡は、何がどう神秘的なのか、じっくり腰を据えて考えないと分からないことも多いかも知れません。

だからこそ、聖ベネディクトが「ひとり、主とともにいた」時のように孤独の日々を、主の愛に包まれて生き、主の愛を誰かに伝えることを求めるために捧げたいものです。

 

みなさんの祈りと働きが、それぞれの与えられた生活、環境、状況の中で素晴らしい主のぶどうのみのりとなりますように、アーメン。

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«「宗教」と「カルト宗教」の違い:イグナチオ・ロヨラとマルチン・ルターへの考察から