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2018年2月16日 (金)

2018年四旬節のメッセージ

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」

(マタイによる福音書24:12)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

灰の水曜日が来て、今年も主のご復活に備えるための季節、四旬節(レント)が訪れました。

カトリック教会では、教会暦に従い、主のご復活のまことの喜びをより深く知るため、四旬節を大切にします。

2018年の教皇フランシスコはそのメッセージで、「神の摂理により、『わたしたちの回心の秘跡的しるし』である四旬節」に「生活のあらゆる側面で心の底から主に立ち帰るようわたしたちに呼びかけ、そのことを実現」させることだと定義されます。

T02200316_0278039913687214572 教皇フランシスコが2018年の四旬節のテーマに選ばれたのは、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」です。

認めたくないことですが、わたしたちの周囲にも多くの法律に触れる不法であるか、ないかに関係なく、「あってはならないこと」が日々起きています。

電車の中で障害者の方を指差して笑いものにする人、職場や学校でのいじめ、外し、虐待などが日々どこかで起きています。

また、公務員が保身のため「生活保護申請や障害年金申請を水際作戦で申請できないよう言いこめる」「弱者が弱いのは自己責任」、「差別される方が悪い」などさまざまなカタチで心の凍てついた人々の言動を見聞きします。

天地創造の初めから愛、望み、信仰の源である主にとって、心閉ざし、愛の凍てついた無関心から生命ある人を傷つける言動は「不法」にほかなりません。

主の被造物である人間が作った法律には限度があります。

どれほど論理的に作っても、主が私たちにくださる無償の愛、わたしたちが主の愛に応えたいと真摯に願う愛を凍てつかせようとする「不法」を防ぐことはできないのです。

人は愛する人、信頼する人に不法で裏切られると、「相手が私を愛そうとしていないのだから、自分も相手がおなじぐらいの冷えた愛で応えるべきだ」と思ってしまいます。

復讐、報復の心理ですね。やられたから、やりかえす。

そんな小さな人間的な悪意の中に、「偽りの者であり、その父(ヨハネ8:44)」である悪魔が忍び寄ります。

そして、「これぐらいは見ないフリをしてもいいだろう」「他人事だから…」と考え、目の前にいる人を自分と同じように大切な生命であると考えず、思考停止するのです。

教皇フランシスコは、冒頭の聖句は「終末に関するキリストの説教の中に表れ…主の受難が始まる場であるエルサレムのオリーブ山で告げられ」たと言われます。

ローマ帝国支配下にあったエルサレムでは、多くの不法行為が行われたと同時に、人々が互いに金銭や土地の詐取などで揉めることも多かった、と記録にあります。

そのような人間の行動は、21世紀には更に悪化しています。

私たちの日常生活が関わる範囲は、全世界に及びます。

たとえば、先日のバレンタインデーにあなたが友人や恋人、または自分へのご褒美にと買ったささやかなチョコレート一箱は、カカオ農場で奴隷的な労働を強いられている児童労働者の犠牲による主原料を用い、中東から運ばれた原油を用いた機械で加工し、キレイなリボンは最低賃金が保障されない労働者の手で飾り付けられたのかも知れません。

だからと言って、悩みすぎた挙句、目の前にあるチョコレートを捨てるなら食品廃棄物を増やすことになります。

世界を、地球を救えないなら何をしても同じだと「わたし」や「あなた」が自暴自棄に陥いるなら、神さまが下さった愛がどんどん冷えてしまうでしょう。

「わたし」や「あなた」が心あたたまる愛を体験した経験が希薄なのに、どうしたら誰かほかのひとの生命を愛せるでしょうか。

まずは、「わたし」も「あなた」も神に愛され、慈しまれ、天地創造のはじめからかたちづくられた大切な生命であることを無条件に受け入れましょう。

神さまの愛を感じると、ゆるせないことをゆるしても悔しい感じが残りません。心から相手をゆるせば、心安らぐのは「わたし」や「あなた」であって、あなたがゆるした相手の問題はその人自身の問題なのです。

わたしたちが誰かを心からゆるし、愛そうとするなら、神さまは少しずつ、機会あるごとに「わたし」や「あなた」に愛ある人間らしい出会いのチャンスを届けてくださいます。

神さまに祝福された、人間らしい愛ある出会いの中で、わたしたちは少しずつ互いの愛が冷えないよう、あたため合うことができるでしょう。

主のご復活を祝う復活祭に備える四旬節に、それぞれの置かれた場所で、少しでも神さまの愛に近づくため、自分の十字架をより心を込めて担えるよう、少しだけ特別な努力をしてみましょう。

みなさんの四旬節が主の祝福を受けたものとなりますように祈っております。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。
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2018年2月13日 (火)

《小さき花》から読む、四旬節の犠牲の行い

(兄弟ジネブロは)自分への他人からのことばや行いによる辱めには、それがたとえ、ほんのわずかであっても、我慢できない性格の持ち主でした。

…(彼は)辱められた時に、沈黙を守ったり、あるいは口答えを慎むことができないことをよく承知していました。ところが、たまたま、そのような場合、相手に返す言葉があまりにも人を傷つけるのに気づいた彼は、どんな犠牲を払っても、沈黙を守り通す決心をしました。

…彼にとりもう忍耐もこれまでかと思われるような、ひどいことばを聞かされる羽目になり…たまらなく悲しくなり、聖堂に入って十字架の前にくると、耐えて来た恐ろしい苦痛を心から嘆き悲しみました。

そして彼は「ごらんください、わが主よ、わたしはあなたへの愛のため、これほどまでに耐え苦しんでいるのです」と訴えました。

すると…キリストが木の十字架状で釘付けにされている右の手を動かすと、そのわき腹の傷の上におかれ「わたしもまた、あなたのために耐えているのではないですか」と、仰せになりました。

…彼は、この瞬間に自分が別になったのではないかと思われるような激しい感動を、その魂と心のうちに覚えました。(石井健吾訳《アシジの聖フランシスコの小さき花続》聖母の騎士社;172~174頁抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

↓灰の水曜日。求道者の方も参加できます。

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2018年は2月14日が灰の水曜日です。この日から、3月31日までの間は、四旬節(レント)です。

四旬節は、キリストのご受難、十字架上でのご苦難を観想し、わたしたちもまた、主が十字架をわたしたちの罪のゆるしのために担われたように、自分自身の十字架から目を背けたいという欲望と向き合い、自らの十字架を喜んで担う人となれるよう、自分自身と向き合う祈りの時です。

冒頭のおはなしは、アシジの聖フランシスコの弟子であった「兄弟ジネブロの伝記」からの引用です。


生来の短気と持ち前の激しいツッコミぐせを自ら持て余していた兄弟ジネブロの沈黙の話は、聖フランシスコのもとで祈りと行いでかなり落ち着いた人になってからのおはなしです。

彼はまず、自らの人間的な忍耐力の限界に挑む沈黙という犠牲を自らに課しました。心の中で煮え繰り返る思いをひたすら押し殺し、耐え、自分の言動で傷ついた人の眼差しの中にキリストの愛を見出そうと必死になりました。

そんな彼にも、忍耐の緒が切れる日がやって来ました。その時に初めて、キリストは兄弟ジネブロに「わたしもまた、あなたのために耐えているのではないですか」と十字架上からチョクに言われます。

四旬節の犠牲とは、単純に嗜好品を我慢するとか、断食をするというだけのことではありません。世俗でキリスト教に理解のない人々に囲まれ、不規則な生活を強いられている平信徒には、灰の水曜日や聖金曜日の断食もままならないかも知れません。

ですが、自分の中で「今回は、自分の欠点であるこのテーマに挑戦しよう」と考え、自ら実践することは可能だと思います。

自分の小さな弱さと向き合うことは、四旬節の犠牲、祈りと行いの中で大切なことのひとつだと思います。

もちろん、金曜日には肉を食べない、「朝食はしっかり、昼食は軽く、夕食は食べない」古典的な断食や祈りなども、心身に無理がなく、家族や他の人々との関係性に悪影響を及ぼさないのなら素晴らしい行いでしょう。

また、酒、タバコなどの嗜好品を金曜日だけ、または四旬節の間中ずっと控えるなどの行いも、それを行うことで自分自身の弱さ、傲慢さなどと向き合えるチャンスとなるなら、主の愛にかなう行いでしょう。

四旬節を準備するにあたり、今自分に与えられた人生の課題は何か、思い巡らしてみるのもいいかと思います。

 

兄弟ジネブロに倣い、実りある四旬節を過ごせますよう、心からお祈りいたします。

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モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。

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2018年2月 9日 (金)

西坂の二十六殉教者におもう

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

2月5日は、日本26殉教者の記念日でした。

キリシタン禁止令の最初の犠牲として京のフランシスコ会修道院で捕らえられ、大阪から長崎へと旅し、現在の西坂公園で十字架につけられ、殉教しました。

日本26殉教者の多くは、名もなく、貧しく、「清く、正しく、美しく」なんて言葉とは無縁な、職人などの信徒や同宿、つまり修道院の寄宿者やボランティアらでした。

26殉教者は、私たちに多くのことを気づかせてくれます。

安土桃山時代の庶民には、江戸末期には「○×長屋、鋳掛屋の与吉」のような名前すら持っていなかったことが、殉教者の記録から分かります。

洗礼名と職業以外のこと…生国、生まれ、育ちも両親も不明な「庶民」がいて、キリストのために殉教したいと願ったことが、世界中に伝えられたのです。

聖フランシスコ同宿は、大工でした。聖コスメ竹屋は、刀研師であったと伝えられています。聖ミゲル小崎信徒は、伊勢生まれの弓師であったと伝えられています。

聖マチヤス信徒は、修道院の厨房を手伝う人だったようですが、同じ洗礼名の厨房係のマチヤス氏の身代わりとして、殉教を申し出た人でした。「わたしもマチヤスです」と。

主人に殉死する習慣が当たり前だった安土桃山時代であっても、拷問を受け、十字架につけられる苦しみは、できれば避けたいと思ったことでしょう。

でも、主キリストの愛に殉死するなら恐れるものはないと、名も知らぬ平信徒が信じ、自ら求め、行動したのです。

聖フランシスコ同宿は、酒徳利を持って牢番を訪ね、入牢を願って断られました。それでも殉教者の列に入りたいと熱望し、はるか長崎まで十字架の道行きを一人追い、殉教の夢を果たしました。

21世紀の殉教は、世俗的権力が暴力で弾圧し、見せしめにするような殉教ではなくなりました。表面的には思想信教の自由を尊重するかの如き言質を弄する政治家と、寛容さや平和を「非人間的な理想」だと考える陰湿な人々の間で苦悩し、時に隠れた暴力被害や監視に耐えることが殉教であるかの如きです。

今や、殉教者はどこにでもいます。聖職者による性加害行為の被害を受けた人、心ならずも紛争地に生まれ育ったというだけで義勇軍人となったシリア典礼を奉ずる女性たちなど、枚挙のいとまもありません。

日本の社会でも、いじめ被害に遭った方、加害者家族となった方、様々な理由でカトリックへの信仰への違和感で家庭の不和を恐れるあまり、ミサに来づらい方々など、多く人々が殉教者の執り成しを求めています。

西坂の26殉教聖人は、そんなわたしたちのため今も天国で私たちの祈りを取り次いでおられます。

 

どうか、苦悩のうちにある時、西坂の名もなき殉教者らを思い起こし、その取り次ぎを願いましょう。


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2018年2月 6日 (火)

福者ユスト高山右近に想いを馳せて

〔皆さん〕わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。


自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。


わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。弱い人にたいしては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対して、すべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

(使徒パウロのコリントの教会への第一の手紙9:16~19、22~23)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

2月3日は、初めての福者ユスト高山右近の記念日でした。


戦国時代に摂津国の国人領主の子として生まれ、武将として頭角をあらわした人であったと同時に、10歳で父ダリヨ、母マリアとともに洗礼を受けたカトリック信徒です。

戦国武将としては、欲望よりも領民の保護、そしてキリストへの信仰を重んじ、かつ戦略に優れた人だったようです。


ユスト高山右近は2017年2月7日に列福されました。それは、彼が信仰と知恵において優れた人だったからだけではありません。

彼は領主という地位を失っても、キリストを選びました。キリストに仕えること、福音を宣べ伝える者でありたいという強い気持ちが、右近とその家族を導いたのです。

↓福者ユスト高山右近の聖画

As20170207003483_comm 日本でのキリシタン禁教が数世紀のながきにわたることを、聡明な右近は当時すでに見抜いていたのでしょう。だからこそ、自ら領主の身分も富も財産も捨て、キリストへの信仰を守る道を選んだのです。

その人柄と信仰ゆえ、友も得ました。千利休、蒲生氏郷、前田利家など多くの友に惜しまれ、匿われつつ、バテレン追放令の際にフィリピンのマニラに追放され、彼の地で没しました。

冒頭の使徒パウロの書簡で、使徒パウロは「自分に何か利益があって福音を告げ知らせているのではない。ただ、キリストに求められるまま、良い知らせ=福音を告げ知らせずにはいられないのだ」と言っています。

これは、キリスト教の霊性の真髄です。


霊と肉を超える真理を父なる神、主であるキリスト、そしてわたしたちそれぞれに遣わされる聖霊の息吹きを通じて知るということは、福音を告げ知らせずにはいられない、というキリスト教徒ほんらいのあり方です。

若殿であり、領主であった頃、右近は領民を慈しみ、その徳を慕い、多くの領民はキリシタンとなりました。

しかし、それは右近の半生でしかありませんでした。


まさに人生これからという時に、右近は領地を豊臣秀吉に返上し、小西行長領の片隅に、その後は流浪の末、加賀前田領で蟄居生活を送るのです。

徳川家康にも惜しまれたほど聡明な右近が、牧者を失った宣教師らや人々のため、自らほんのわずかなことしか出来ない蟄居生活を甘んじて受けました。

狭い島国で、何かと人の目も多く、元戦国武将でもあり、人望があるからこそ、右近は使徒パウロのように、広い大陸を福音宣教のために巡り歩く機会に恵まれることはありませんでした。

だからこそ、右近の信仰はキリシタン禁教時代、幕末の「浦上四番崩れ」と言われた時の政権による大弾圧を超え、今もわたしたちカトリック信徒を祈りと取りなしで支えているのでしょう。

主キリストの良きしらせを宣べ伝えるというと、どこぞの新宗教団体がやるように駅前で看板かかげて、街頭宣教をする、という時代ではないと思います。

人心はより内向きになっており、情報だけならネットでいくらでも探せるから…という現代事情もあります。

と同時に、今の私たちは心から率直に人間らしさに飢えているとも思うのです。

コンビニやスーパーのレジで、すさまじい速さで経理、在庫移動と売り上げ、金額の計算が一気に行われ、会計装置でICカード、クレジットカードや現金を入れてモノの売り買いが出来るようになりました。

便利になったし、店の人と揉めることもなく、時間と手間は節約できるのかも知れませんが、私たちは人間らしさに触れる機会の多くを喪失しました。

『わたしは、何者? 「わたし」はどんな存在なのか?』という存在の不安が霊的な次元まで深化してしまったのは、私たちの全てが信仰を求めるようになったからではなく、隣人との雑談やむやみに警戒せず、気の許せる人とのちょっとした言葉の遣り取りをする機会が減り、それぞれが孤立してしまったからでしょう。

そんな時代を生きる私たちに、永年の蟄居生活を送ったユスト高山右近は、どんな時にも心に福音宣教の火を絶やさぬよう、力づけておられるようです。

まもなく四旬節が始まります。心に福音宣教の火を灯し続けるのは、今の日本では時に厳しいこともあるかも知れません。

福音宣教は、たましいに宿る聖霊のともしびです。常に、殉教者に倣い、主の道を歩めるよう祈り続けましょう。

今日の一日が、あなたにとって実りあるものとなりますように。

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2018年2月 2日 (金)

苦しいのは自分だけじゃない

疲れた者、

重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。

(マタイによる福音書11:28)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

病人が出る、自分や家族が事故や被害に遭うなど、何かイヤなことがひとつ起こると、まるで追い討ちをかけるかのように色々なことが起きます。

時に、これからよいことがありそうだなぁ…という時の前触れのように多事になることもあるようです。

そんな時「苦しいのは自分だけなんだ」と、私たちはつい思いがちです。「自分の足で世間をはかる」世界から抜け出すには、教養や知性、理性、科学、そしてインターネットのような情報網が整備されるだけでは足りないようです。


時に、自分や家族のことだけで精一杯になり過ぎてしまうあまり、昨日何をしたのかすら思い出せないくらい目一杯になり、混乱してしまうこともあるでしょう。

そんな時、「自分だけが苦しい思いをしている」という気持ちに囚われがちです。他の誰かに何かを言われても「私のことはあなたには分からない。他人事のように言わないで。」とおうむ返しに拒絶反応を示してしまうのです。

こんな時、誰かがあなたを理解してくれないことが真の問題点なのでしょうか。

もちろん、時間がかかっても、歳月を要しても、数世紀の時代の流れの中でも、私たちは互いに同じ人間として互いを理解すべく、主に招かれています。

Photo 本質的には困難なことですが、愛と平和に招かれているのは、小さな感情の齟齬や理解のような心の中の小さな痛みから、世界の戦争や災害の惨状においてでも同じように「苦しんでいるのは、私だけじゃない」と思えるよう、私たちは主に招かれているのです。

疲れた者、重荷を負う者は、わたし達ひとり一人です。主は疲れたわたし達の重荷をなくすとか、減らすと約束されたわけではありません。

どうせ減らない重荷なら、主のもとで沈黙と祈りのうちに安らぎを得て、どうにもならないことにくよくよするより、主キリストへの信仰、愛、希望に生きなさい、ということだと思います。

少なくとも、明日を信じないより、明日を信じて生きる方が心は安らぎます。

それは、安逸に日々をだらだらと過ごすことではありません。心が安らげば、次に自分が何をすべきか、家族のために何が出来るのかを考える気持ちのゆとりがもてます。

2017年7月28日の産経新聞に掲載された13歳の少女の「逃げ」という詩が思い浮かびます。

『逃げて怒られるのは、人間ぐらい。

 ほかの生き物たちは本能で逃げないと

 生きて行けないのに

 どうして人は

 「逃げてはいけない」

 

  なんて答えにたどりついたのだろう』

苦しいのは自分だけじゃない。どうにもならないなら、逃げてもいいし、隠れてもいい。

でも、生きる希望を見出すために逃げ、隠れしましょう。人を活かすため、ひとを傷つけないで、自分も耐えられる限度以上に傷つかないため、必要な時は逃げ隠れしましょう。

生き物は本能的に、生きる希望を求めます。希望を失えば生きる気力を失います。

人間とて同じこと。


心のどこかで絶望しているのに、顔やコトバや態度だけ、うわべだけの「希望っぽい何か」があるかの如く妄想にひたり続けようとすることは、自分を見えなくする厚い壁を自分でより高く、厚くして、自ら超えられない壁を築いているのと同じことだと思います。

ホンネとタテマエの間の分厚く、お互い同士が見えない壁が。

自分の中の壁のむこうに、たしかに主キリストがおられます。イエズスは常にわたしたちに生命に希望をもつよう、わたしたちを招いておられるのです。


あなたが一日の中でひとしずくの希望を見出せることを祈ってやみません。


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2018年1月30日 (火)

主の十字架、わたしの十字架

主のみ心を 称えまつらん

尽きぬ恵みは いずみとわき

わが傷つける こころいやし

罪のけがれを きよめたもう

主のみこころを 仰ぎまつらん

こよなく深き 愛にそむき

我らが編みし いばらの輪に

愛のみあるじ 囲まれたもう

(カトリック聖歌集263の一番と二番より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

主日のミサの閉祭の歌で歌った曲なのですが、歌詞を読んで、心に響いた一節がありました。

「我らが編みし いばらの輪に

 愛のみあるじ 囲まれたもう」

私たちの無関心、限られた日々、時間の中で限られたことしか主のために出来ない苛立ち、暴力や虐待、いじめ、人間としての尊厳を感じられない状態が常態化していることへの危機感が薄れていることなど、わたしたちの思い、ことば、行い、怠りで主のいばらの冠を編んでいるのは、まさにこのわたしなのだと、深く感じたのです。

↓ルーベンス「いばらの冠」

20110309_1864177 「ゆるしの秘跡」を通じてわたしたちがゆるされるということは、神のみ旨に従順になれること、主がそれぞれにいちばん相応しいと選んでくださった十字架を自ら心新たにして背負うこと、にあります。

何やら時代は殺伐とした様相を見せています。一部の政治家には、人間的な感情が麻痺してしまったような残酷な発言を公の場で行って恥じることを知らぬ人間もいるようです。

人間の残酷さ、過酷さがもたらす心身の痛みに共感すること自体が、まるで「弱者を不当に優遇する」ことであるかのように考える人も増えました。

そういった私たちの小さいけど、確かに社会構造に由来する深い無関心が、主のいばらの冠を編みつづけているのだと感じました。

イエズスのご受難とご苦難をいや増すいばらの冠を、自ら編んでいる自覚はありません。ただ、イエズスの愛を感じたい、み恵みを感じたいのに、実感できないと思いがちです。

そんな幼な子のように愛を求め、十字架を受け入れきれないわたしたちのため、イエズスは自らいばらの冠を被されるままに受け、十字架のご受難を受けられました。

すべてが、私たちに愛と希望、信仰を聖霊の息吹を通じてもたらされるためです。

私たちの人生にも、それぞれの人生に辛さがあります。それぞれの人生に十字架があります。

主イエズスが十字架を担われたのは、わたしたち人間が自らの十字架を負いやすくするためでした。

自らの十字架を受け入れることで、主イエズスの限りないいつくしみと愛をわたしたちの魂に届けてくださるためです。

イエズスはいまも、天国で父なる神と一つに結ばれた幸いを味わいつつも、全人類が編み出すいばらの冠のご受難を耐え忍んでおられるのではないでしょうか。

天国と言うと、生老病死の苦しみから解き放たれ、何の苦しみもないところをイメージしがちです。それだけ、私たちは「死ねば、生きている間に経験した苦しみは消滅する」と思いたいのでしょう。

ほんとうの天国では、イエズスは全人類が日々編み出すいばらの冠を甘受され、父なる神の愛に満たされて私たちの祈りを聴いておられるのではないかと、しぇるりんは思うのです。

この世に苦しみの伴わない愛はないでしょう。信頼することもまた、不安や苦しみを伴うからです。

 

少しでも「我らの編みし、いばらの輪」で、愛の源である主を囲まないよう、わたしたちは自分自身を、そしてそれぞれに危害を加えた人、苦しめた人をゆるせるよう、主に祈りましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2018年1月26日 (金)

神の愛、キリストの愛、人間の愛

…「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』

この二つにまさる掟はほかにない。

(マルコによる福音書12:28~32抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

キリストのように愛を行う、というと何やら過剰な期待をしたり、大げさなことをしなければならないかのように思い込みがちです。

私たちは、宗教や信仰が地球上の全ての問題から共同体、個人の問題まで、全てを解決してくれればいいと思い、全てを解決したいとついつい思ってしまいます。

現実に、イエズスが生きて、福音を宣べ伝えられた時代ですら、癒され、神の愛に招かれた人は当時生きていたユダヤ人の中のほんのわずかな人々だったのでしょう。

イエズスは、まず神を知り、私たちがそれぞれ神に深く愛されていることを知るよう、求めておられます。

↓イエズスの御心

Mikokoro004 イエズスの愛に心とたましいを向けられるようになると、自然に誰かに愛を示したくなります。

一人の人間にできる愛の行いには、司祭であれ、宣教師であれ、平信徒であれ、限り、偏り、個性があるでしょう。

先日、ある宣教師の方が「大学時代に、仲良しこよしに決して入れず孤立している、(彼女にとっては)気の毒な人に勇気をもって声をかけた時、神の愛を行うということを深く感じて、宣教召命に従った」と言われました。

しぇるりんには3歳頃から自閉症の症状の一つである「乖離性離人障害」と「場面緘黙症」がありました。「友達百人できるかな?」と言う感じの仲良しこよし的な人々は、子どもの時には殆ど「宇宙人の世界」にしか見えませんでした。

若い頃はそれなりに人間関係につまづいて悩みましたが、その原因が先天性障害であることを理解してからは、「仲良しこよし大好き人間と、私と反りが合わないからだからどうだっていうんだ?」と開き直ってしまいました。

仲良しこよし大好き人間であることが、別に羨むべきことでもないし、浅く、広い人間関係を上手に保てることはいいことだけど、それが人間関係の全てじゃない。そう思えば、あるていどは個性や特性の違いでしかないと思うようになったのです。

それでも、前掲の宣教師の方にとって「仲良しこよしの仲間に違和感を持たれても、孤立した人に語りかける」ことは、彼女にとってはとても大きな愛であり、主に通じる道でもあったのだと思います。


それは、マザーテレサの仰るように「私の目の前にいる一人のひとがキリストだと思って向き合いなさい」ということでしょう。

先日、とある駅の近くで突然、ホームレスらしきおばあさんがか細い声で「お腹が減って、死にそうです。食べるものをください」と声をかけられました。

とっさにカバンの中にあった、おやつ用の小さな手作りケーキを「こんな小さなものでごめんね。」と言いながら差し出しました。

ケーキを受け取った彼女の手はしもやけで手の甲の半分ぐらいがどす黒く腫れ上がっていましたが、私の手を取って「ありがとう。ありがとう。」と言ってくれました。

痛みすらマヒしていそうなしもやけだらけの彼女の手は、とても柔らかく、ひどくむくんでいました。

その手は、確かにキリストの手だと思いました。彼女はわたしのカバンの中の財布に目線を走らせることもなく、ただ食べ物を手渡しでもらったという感謝の気持ちをあらわそうと懸命でした。

そのホームレスの女性に、私は何も出来ませんでした。ただ、彼女のしもやけで膨れた手を思い描きつつ、彼女の無事を祈るばかりです。

キリストの愛を行うことは、大それたことではありません。「隣人を愛すること」とは、どれほど困窮し、どれほど知的に劣って見える人であっても、自分と同じ「神さまの大切な被造物」であることを知り、自分ならして欲しいことを出来るなら相手にすること。

それ以上でも、それ以下でもないと思うのです。

愛はただただ高尚な何かでもなく、与えられたその場でたましいの叫びを心に留め、祈り、できれば何かを与え合うことです。

私が彼女に渡したのは小さなパンケーキひとかけらでしたが、私は彼女の「ありがとう」と無邪気に手を握ってくれる心の温かさを頂きました。

何よりも、私が無事を祈りたい人が一人増えました。仲良しの友達が一人もいない私には、キリストのいつくしみがいつもともにあるようにと祈りたい人が、手の温もりや出会いの思い出とともに心に浮かんでくるのです。

「罪人でも、自分の好きな人は愛せるだろう。あなたは見返りを求めずに隣人を愛し、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と聖書は語りかけます。

敵を愛するとか、迫害する者のために祈れなどと言われると「それは、聖人聖女みたいな人がすることで、凡人にはムチャ」だと思えるかも知れません。

しかし、「わたし」に敵意を持ち、危害を加えた相手を許すことは、真理の源である主と「わたし」が向き合うための壁を壊すために「わたし」のために必須の「ゆるし」であると考えるなら、ゆるすことは愛することより易しいと言えましょう。

「わたし」に危害を加えた相手を「わたし」がゆるしても、「わたし」に危害を加えた人が自ら「償いたい。ゆるしてください」と思えなければ、加害者が心から主にゆるされることも、自らをゆるしこともないからです。

その点、愛には相手がいます。恋人や配偶者であれ、家族であれ、ほかの誰であれ、誰かが「わたし」の愛を受け入れ、誰かが「わたし」を愛し心から受け入れてくれてこそ、愛が成り立つのです。

それは、神の愛も同じです。神は「わたし」たちそれぞれを愛してくださるけど、「わたし」は神の無限の愛に相応わしい人間になるには弱く、貧しく、小さな存在です。

小さな手を上げて、空をつかまえようとする人のように、幼な子のように主なる神の愛と向き合うなら、わたしたちは本当の愛とは何か、幸せとは何かを知るでしょう。

昨今の日本社会は極右化とともに、人間らしいあたたかい心を失った人が増えました。互いに排他的な感情を剥き出しにし、誰かを排除することで安直に心閉ざした自分自身への批判の声に耳を傾けられない人が増えているようです。

生きづらい時代になったからこそ、神の愛、キリストの愛、そして聖霊を通じてわたし達ひとり一人が分かち合う愛の価値が、より深まる時でもあると思うのです。

 

この世間の片隅で生きる私やあなたに、主の愛が届きますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2018年1月23日 (火)

キリスト者目線で考える技術とヒト:医療といのち 

…二人の盲人が叫んで「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。

イエスは、「このことは、誰にも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

(マタイによる福音書9:27~31抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

誰でもそうですが、「病気になりたくない。健康でいたい。」と思っています。もしも病気になれば現代の日本人は「医者が治してくれる」、と「信じています」。

子どもの頃から病気がちなしぇるりんの実体験によれば、医療行為の多くは「対症療法」です。

咳があまりにひどければ、医者が咳止めを処方してくれるでしょう。昨今流行りのインフルエンザなどで用いられるリレンザなどの新薬も、インフルエンザ・ウィルスの繁殖を抑制する対症薬であり、「インフルエンザを根本的に治癒するお薬」ではありません。

医師の処方薬で「病気が治る」のは、十分な休養、必要な栄養摂取、特に食事が自分で食べられること、そして良質な睡眠で体調を回復させる力を最大限に発揮できる条件作りを効率的に行えるからです。

↓すべての人のたましいの扉を叩くイエズス

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冒頭のみことばでイエズスは、「あなたがたの信じたとおりになるように」と言われました。

もし、この盲人たちの一人は心からイエズスが神の子であり、癒しをもたらすと信じていたけれど、もう一人は「もし癒してくれるなら、イエズスを信じてもいいや」ぐらいに心の隅で思っていたなら、二人とも癒されたのでしょうか。

もちろん、イエズスは盲人として差別され、侮辱を受けながら物乞いとして暮らす二人を、天的な愛といつくしみの眼差しで見ておられたでしょう。

私たちは、人間的な願いが叶えられたことがきっかけで神を信じられるようになることもあります。

病いの癒し、就職などの願いが叶えられた時に「ああ、やっぱりイエズスを信じていて良かった」と思え、イエズスとその人が信頼関係を築くきっかけになる時、奇跡には確かに意味があると思うのです。

二人の盲人にイエズスは「このことは誰にも言わないように」と言われます。それでも二人は、イエズスを広く伝えました。

イエズスはこの二人に敢えて「言うな」という暗示をかけて、自分のことを言い広めさせたのでしょうか。

私は、イエズスが何か策略的な意味で「言うな」と言ったのではないと思います。

「こんな奇跡が起きて、癒されました」と二人が言えば、必ず「あなたは大ボラ吹きだ。騙されたんだ。悪霊にごまかされたのだ」と反論する人が出るのが世の常です。実際、ファリサイ派や律法学者らの中には、このような奸計で二人がもう一度めくらになれば儲けもの、ぐらいな政治的意図でこの二人に接近するような人間もいたでしょう。

虐げられた人生を送って来た、二人の癒された盲人の心の深みに残る痛み、トラウマを思いやると、イエズスは自ら選んだ弟子たちに求めたように「行って、福音を宣べ伝えなさい」とは、口が裂けても言えなかったのでしょう。

愛の源であるイエズスは、目が開いた後の彼らの人生が決して平坦ではないことに思いを寄せずにはいられなかったのだと思います。

医療や福祉といった現代技術は、私たちの暮らしを快適にし、痛みや苦しみを減らし、健康上の問題を克服する多くの恩恵を与えてくれるように思えます。

と同時に、医薬品による副作用なども深刻な健康被害をもたらしています。

「ともかく助けてください!」という患者の叫びの前に、自らの限界や無力を感じる医療、福祉従事者の声にならない叫び。

そして「薬九層倍(くすりくそうばい;薬は原価の9倍で売れるほど利幅の大きい商売の意)」と昔から言われる製薬業界の深い闇。

プラシーボ効果という事もあります。医師の白衣や名声を信頼すれば、ニセ薬を出されても風邪が治ってしまったりする、アレです。

医療、介護、福祉を行う上で、プラシーボ効果は欠かせません。入眠剤の代わりにミントを一粒飲んでも、眠れる人が実際にいるのです。

プラシーボ効果は、相手が納得し、信頼してくれなければ効果が出ません。医療、介護、福祉はひとと人の信頼で成り立っているのです。

医療者、介護者、福祉関係者だけでなく、患者も家族もまた一人の人間として人を信じられるのか、神を信じられるのか、生命をどう受け止めるのかが問われています。

どれほど高度な先進医療であれ、生命の誕生は神秘であり、その死は必ず誰にでも訪れます。

医療という技術に、生命の神秘や死に向う小道を訊ねることは、ある意味お門違いのようです。

それは、癒しや治癒も同じことかも知れません。医薬の効果があったのか、「癒された」のかは本人と神さまの内的で神秘的な関わり合い次第で変わるのでしょう。

冒頭の二人の盲人は、癒しをきっかけにイエズスに出会い、福音を宣べ伝えることに人生を見い出しました。

 

私たちは一病を得て、苦しむ時、その先に何を見出し、どんな出会いを求めるのかが問われているのかもしれません。
病床にある方、療養中の方々がイエズスと出会えますように、アーメン。

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2018年1月19日 (金)

キリスト者目線で考える技術とヒト:資源、エネルギーとヒト 

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

しぇるりんが文化人類学を学んだ最初のキッカケは小学生のある夏休みに、「人類の進化」という図鑑に没頭したことでした。

アウストラロピテクスの頭蓋骨の一部と、その復元写真、そしてヒトらしい姿に、なぜだかすごく惹かれたのです。 

その後、ヒトの文化や歴史は、骨格や見た目だけではなく、気候変動、その時その場で得られた日用の糧、日常生活手段と資源と、「集団、共同体、部族、民族」などのヒトの集まりの意志や決断により違いがあることを学びました。

ヒトの文化、歴史、社会の成り立ちを、全て文化人類学などの人文諸学だけで語りつくせないように、科学的根拠だけで語りつくせることではありません。

イエズスの教えの源流には、ユダヤ教があります。そして人類がその祖先の地であるアフリカから永い年月をかけて少しずつより複雑な文化を築いた表玄関の向こうが、現在の中東地域なのです。

↓進む砂漠化。移動放牧生活を止め、定住促進が居住場所への環境責任へとつながらない現実がある。

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今のヨルダンの近く、現代の石油採掘地は旧約聖書によれば「うるわしくレバノン杉のそびえる地だった」とあります。気候変動などでヒトの祖先が棲息地としていた鬱蒼と生い茂る森林が消えてなお、与えられた限られた環境への適応だけでなく、知恵を用いて生きる環境を求めたヒトの自然への深い想い入れが感じられます。

地上の殆どの生物が与えられた生息域への適応を目指す中、ヒトは資源、エネルギーを求めて移動と定住を繰り返す生活を送って来ました。

自然とともに生きることと、生活の糧を得るため、生きる場を確保するために知恵を用いることは、ヒトが不信感、不安感を自覚すること、そしてヒトとヒトは信じ合えること、時に幸運、不運というだけでは計り知れず、人智の及ばぬ「神のみ手」が人生に介在する神秘を永い歴史の中で教えてくれました。

存在すること自体への神秘を求める道をカタチにしたものが、キリスト者にとってはキリスト教であり、カトリックの教えであると言えましょう。

資源とエネルギーの採掘、採取、利用方法、そしてそれらの「モノ」が生み出す廃棄物に関する諸問題が、ヒトの生活だけでなく、地球全体を破滅に追い込む可能性すら見えて来ました。

移動放牧生活が砂漠化を招き、その後にたびたび起こった移動侵略生活が血みどろの戦乱を招いた結果、ヒトは定住農耕生活へと移行しました。

定住農耕生活により、エネルギーと資源としての森林の伐採が進み、開拓が野生動物の世界を脅かし、定住産業化へと移行した近現代の私たちのあり方そのものにも疑義が呈されているのです。


今すぐ出来ることをしましょう!、を実践することですら困難が伴います。

ましてや、原子力発電所から排出される核燃料廃棄物や、東北大震災で被災したままの福島原子力発電所の廃墟状態、放射性汚染物質や汚染水問題など途方もない歳月を要する問題に思いを巡らすと、無力感に囚われそうです。

主イエズスは今の時代を生きる私たちに、何を求めておられるのでしょうか。                       

それは気づき、だと思います。ヒトの存在も、知恵も、科学も、学術も、全ては限りあるものであるということ。私たちが神の叡智に及ぶことは決してないということに、私たちの多くが心から納得することだと思います。

私たちの現代の生活が、実は世界の多くの地域での搾取労働、人為的で故意の虐待、いろいろな汚染被害の上に成り立っていることを知ることで、今ある生活をすぐに変えられるわけではありません。

目の前にあるいま、身近な未来より遥かに遠い永遠の歳月に想いを馳せつつ、今のじぶんを省みることこそ、神を信じる私たちにとって、いちばん親しみを感じる「永遠の未来」でしょう。

今すぐには何も変わらないかも知れません。でも、一人の人の小さな一歩、大海のひと雫の水のような小さなことを行わなわないなら「大海はそのひとしずくを失うでしょう」。

資源やエネルギーを出来る限り自然で、人間らしい生活のために役立てるために使い、それ以上の浪費や冗費を避け、過去の汚染物質という負の遺産への返済を、必要な生産活動と並行して行うことは、資本主義には逆向するでしょう。


それでも、私たちはキリスト者として有限で枯渇しつつある資源を大切に使うこと、できるかぎり再利用すること、そして人智の創意を結集しても困難な原子力発電所の廃炉、核廃棄物や核兵器の問題と真摯に向き合えるよう、キリストの愛において求められています。

私たちの未来は、生活を物質的に豊かにすることではなく、心の豊かさを取り戻せる「ほどほどの節制」を愛せる生活にあると思います。多くの場合、他者にこれを求めることは簡単でも、自分に求められると出来ないことの方が多いからです。

 

主よ、いまの時代に人智ではとうてい解決不可能と思える問題を抱える私たちに、あなたの愛、希望、信仰の道を示してください、アーメン。

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2018年1月16日 (火)

キリスト者目線で考える技術とヒト:原子力技術と戦争

アインシュタイン様

…ところがあなたが選ばれたテーマは何と、どうしたら人間を戦争のもたらす苦難から守れるかというものだったのでした。

…文化の発達のきっかけと発端は、まだ十分に理解されていませんし、その成り行きもふたしかですが…文化の発展が進むと、人類は絶滅するかもしれません。…心理学的な観点からすると、文化には二つの重要な特徴があります。

一つは知性の力が強くなり、欲動をコントロールし始めたことです。もう一つは、攻撃的な欲動が主体の内部に向かうようになり、これがさまざまな好もしい結果をもたらすとともに、危険な結果をもたらしていることです。

…わたしたちの心的な姿勢は、戦争にあくまでも抵抗するものであり、それだけにわたしたちは戦争に強く反対せざるをえないのです。わたしたちはもはや戦争に耐えることができないのです。これはたんに理性的な拒否や感情的な拒否というものではなく…生理的な嫌悪感が極端なまでに強まっているのです。

…戦争の残酷さに対する反感だけでなく、戦争にたいする美的な観点からの嫌悪感も働いているようなのです。
(ジグムンド・フロイト著;中山元訳<人はなぜ戦争をするのか>光文社より抜粋)

おげんきですか。しぇるりんです。(^.^)

広島、長崎において人類最初の核爆弾投下が行われたのは、米国のマンハッタン計画で核爆弾が開発されたからでした。


マンハッタン計画を可能にしたのは、アルベルト・アインシュタインが1907年に発見した特殊相対性理論、E=mc
2がプルトニウム235の臨海実験、検証に応用されたことも一因でした。


アインシュタイン本人は、新しいエネルギー源の開発を夢見ていたようです。

が、ナチスの擡頭、ユダヤ人への「最終的な殲滅計画」から同胞を守るため、結果として「ナチスは核兵器を開発しようとしている」との警告の書簡、「アインシュタインーシラードの手紙」を1939年に米国に送る際、署名しました。


アインシュタイン自身は、自らの行動が米国のマンハッタン計画推進、そして核爆弾の開発、原爆投下と被害へとつながったことに深く後悔していたと伝えられています。

苦悩のあまり、同じユダヤ人で臨床心理学の大家であったジグムンド・フロイトに何回も手紙を書いたようです。

<人はなぜ戦争をするのか>というフロイトの書簡は、アインシュタイン自身に「どうしたら戦争のもたらす苦難から人類を守れるのか」、というテーマについて問われた時の往信です。

「戦争にたいする生理的な嫌悪感だけでなく、美的な嫌悪感に耐えられない」とフロイトは近代戦を表現しています。


「殴られたから、殴り返した」という私たちの中に常にある単純でごく日常的な攻撃性、衝動性などの爆発と、権利、権力と高度な技術力による近現代の戦争は、私たちの中で何らつながりを保てない、分け隔てられた世界のまったく異質でグロテスクなものだとしか感じられないのです。

権力としての高度技術が、「平和のための核の傘」として戦争に応用される最たるものが原子力技術でしょう。

兵器としての応用だけでなく、原子力発電所にまつわる「トイレのないマンションのような状態」、チェルノブイリや福島原発のメルトダウン事故など、人間の限られた時間と能力では解決不可能な問題が次から次へと原子力技術関連分野で取り沙汰されています。

実際、人文学や哲学の立場から考えたら、半減期300年などと言う科学者の論理は「夢物語」にしか思えません。300年後の人間の生活の実情を、現在の人文学の在り方から予測することは極めて困難だとしか言いようがないからです

人文学の立場から見れば、今から300年前、1718年に自分が生まれ育った同じ地域にタイムスリップしたとしても、言葉も文化も全く分からず、社会適応もほぼ不可能だと容易に予測できます。1718年は日本では徳川吉宗が6代将軍になった翌年、欧州ではオスマン帝国の影響が及んでいた時代です。

科学者にとっては300年という数字だけが重要で、300年の歳月を生きる人間模様の劇的変化への理解は困難なようです

フロイトは戦争を防ぐための二つの絆を語るのに、「リピドー(生と性への欲動)とタナトス(死への欲動)」という自らの自説へのこだわりを超え、愛にについて語っています。

↓被ばくのマリア像

Img_1 『第一の絆は、愛する対象との絆です(ただし性的な目標はそなえていない愛です)。…宗教(キリスト教)でも同じように愛について「汝の隣人を汝みずからのごとく愛せよ」と語っているからです。ただしこの掟は、相手に求めることはたやすいのですが、みずから実行することは困難なものです。

感情的な結びつきを強める第二の絆は同一化です。人間のあいだに大きな共通性を作りだすものは何でも、こうした一体感を、同一化を生みだすのです。人間の社会もかなりのところまでは一体感の力で存立しているのです。』

私たちキリスト者は、愛する対象とのつながりや対話に積極的に参与すべく、キリストの名において招かれています。

互いの違いを尊重し、文化や考え方の違い、経済や社会的な違いを超えて、同じ天地の創造主である神さまが、天地創造の初めからたった一つの生命として創ってくださったみ恵みを心の中に秘めて対話を模索することは、平和の礎です。

真の平和を求めることは、「安穏な日々が延々と続けられること」とは違います。

違う者同士がすれ違い、違和感の正体が分からないまま苦悩を抱え、異なる個性を持つ人に対して無性にイライラし、悩み、時にぶつかること、相手がぶつかって来ることを敢えて恐れないことなどが、真の平和への道です。

キリスト者として私たちは、イエズスの歩まれたご受難の道こそが真の平和の道であると信じ、祈り、そして日々の生活の中で活かして行くことが使命だと感じます。

 

真の平和のために、それぞれにできる具体的な行動をほんのわずかでも起こせるよう、主イエズスのみ恵みを願いましょう、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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