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2017年12月12日 (火)

カトリック教会は多様性コミュニティーの最前線

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

カトリック教会とプロテスタント教会のいちばんの違いは、「ミサ」という儀式があるか、比較的式次第に融通が効き、聖餐式を行わない「礼拝」を行うか、という点です。

日本のカトリック教会で行われているミサは、欧州、米国をはじめ世界の殆どの宣教地で行われている「ローマ典礼」の「ミサ」です。

そのほかに、シリア典礼のミサなど十二使徒の時代に現地に定着したミサを行うローマ・カトリック教会も中東、南アジア地域にいればあるようです。

ローマ典礼のミサでは、言葉は違っても三年周期(A年、B年、C年)で全世界が同じ聖書の箇所を読み、同じ詩篇を唱え、同じ聖餐式を行います。

そのため、全く理解できない外国語のミサでも、自国語のミサのパンフレットや信徒用のミサ朗読の冊子などがあれば、ミサを共にあずかって違和感がありません。

その点、聖書のどこを、なぜ読むのかのやり方がさまざまなプロテスタント教会だと、日本語が分からないと理解できないので、外国籍の方は、よほど日本語が堪能な方以外、自国語で礼拝を行う教会以外には通わないでしょう。

ローマ・カトリック教会の年度は、待降節第一週から始まります。つまり、今の時点で既に2018年度が始まっており、今年はB年です。

どこの国でも同じミサなんだ!、という感覚があるせいか、カトリック教会には外国人が多くいます。しぇるりんの通う教会は、6割以上の信徒が外国籍であり、子どもや若者の多くは片親、または両親が外国籍の方にルーツを持つ人々です。

そのため、バザーや一品持ち寄りパーティーは国際色豊かで、主にアジアとラテンアメリカのご馳走が集まります。

多国籍、多文化であることの問題点もまた、さまざまな形で体験できる場所です。

同じミサにあずかっても、言葉が通じないだけではありません。子どもたちは、日本に生まれ、日本に育ち、または片親が日本人であるため日本国籍者になっていくのなら、彼らを日本人の信徒の子どもたちと同じように受け入れて行かねばなりません。

日本社会は外国籍の誰かと直近にルーツをもつこども達をさまざまな呼び方で時に区別し、時に差別します。「日本人と認められるためには三世代以上日本国籍であり続けること」を公文書的には要求しているようです。


DNA鑑定の結果から言えば、純粋な日本人は存在しません。


DNA的にいちばん近似するのは朝鮮半島の方々、中国、南太平洋、そして人類のルーツ、アフリカの方々のDNAであり、縄文人のDNAは20%、人種のるつぼと言われる米国全人口の白人?の比率に比べても、日本人の中の縄文人率はぐっと低いのです。

その理由としては、偏西風と海流の影響があり、東アジア地域から船が自然と日本方面に流されやすい季節や自然環境がある、ということが挙げられます。

日本より太平洋側に流されたら、浮いたままの船が太平洋を越えてハワイにたどり着くことは、造船技術がかなり進んだ江戸時代中期以降までなかったようです。もちろん、乗船員は白骨化していました。

日本より先、太平洋は広くて渡れませんでした。つまり、日本列島に漂着した先人は、太平洋の向こうに出たら二度と行きて戻ることはないと、古くから知っていたようです。


そういった自然環境が、日本を閉鎖的な国に徐々に作り上げてしまったのか、日本人がこの国に閉じ込められたような感覚に自ら捉われたかったのかは定かではありません。

鎌倉時代以降、日本から日本海やオホーツク海へと渡る航海術と造船技術は進み、「倭寇」と呼ばれた海賊が日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピンなどに次々と進出して行きました。

そう考えると、日本という環境が「引きこもりたい」欲求が強い人がより主流になる日本の社会を作り上げて来たのかもしれません。


日本のカトリック教会には日本国内に居ながらにして、日本社会特有の「引きこもりたい欲求」から日本人の心を外に向かって開かせる何かがあるようです。

未だ外国人が増えることをイヤがる年配の日本人信徒はいますが、信徒の子どもらが幼児洗礼、初聖体、堅信を受け、カトリック信徒として成人後も教会に通う率は、日本人信徒の子弟より高いように思われます。

日本人信徒は、両親がカトリック信徒であるか、未信者の配偶者が開かれた心の持ち主でなければ、家族の強硬な反対に遭い、幼児洗礼も受けられない場合が多いです。

また、日本社会は明治維新前後に広まった「国体論」を貫く「反キリスト教思想」を、あたかも「日本的なもの」と勘違いしている人が大勢います。

当時、鎖国政策、いわゆる貿易国交制限政策を廃止し、開国要求を江戸幕府に突きつけた欧米側の大義名分は、「江戸幕府によるキリシタン弾圧をやめさせ、宣教師や司祭を日本に送る」でした。

欧米圏の人々とてお金のある人は権力者でもあるので、真の目的はアジアに新たな経済圏を広げる、だったのでしょう。でも、大っぴらに「儲けたいから…」とも言えないので、大義名分は「キリシタン禁教、弾圧を中止して、開国しろ」だったのでしょう。

欧米圏の開国要求の大義名分に、そうでなくとも史書よりも神話集に近い《古事記》に心酔していた「古神道復古論」「国学論」に傾倒した明治維新の立役者らは、過敏すぎるほど繊細に反応してしまいました。

その結果、江戸時代にやっと定着した仏教を政策的に「廃仏毀釈」し、さらに「反キリスト教論」を「国体論」の骨子にすることで、「国体論」は本来あるべき信心の基本、ただ子どものように利害損得を考えずに信じること、からどんどん離れて行きました。

「信じる」ことを否定した「国体論」を骨子とする「国家神道」は、徐々に素朴な神仏習合の庶民信仰の場だった神社神道をも国体論に巻き込んでしまいます。

こうして、キリスト教的なものを排除することが、日本的なことだと認識されるようになりました。

↓カトリック教会のクリスマス飾り

2014122300011_1

そんな日本でお手軽に国際的な雰囲気、最近の流行り言葉で言うと「ダイバーシティー」、なんとなく閉塞的な日本とは違う空気が味わえる場所が、日本のカトリック教会の中にあります。

雰囲気を味わうことと内情は、かなり違って感じられるでしょう。それでも、数世紀の禁教の時を越え、戦前の非公式だけど確実な弾圧の時代を越え、世代を越えてなお受け継がれる理由が、カトリック教会の教えにあります。

もうすぐ、クリスマスです。

永らくカトリック教会から離れている方、何となく興味のある方が初めてカトリック教会を訪れるには、敷居の低い時でもあります。

みなが声を揃えて歌っているように聞こえ、何やらみんなが同じ「ミサ式次第」にある言葉を唱えている雰囲気は、初めて訪れる方には異様に感じられるかも知れません。

日本の仏教も神道も今は全員参加型の地域行事が廃れつつあるため、全員参加であることにも違和感を感じるかも知れません。

私たちカトリック信徒にも、ミサ式次第を覚えるまでの月日があったし、外国に行けばその国のミサ式次第を覚え直さねばなりません。

それでも、いちどカトリック教会のミサに訪れてください。

百聞は一見に如かず、と言います。また、ご家族にカトリック教徒の方がいる方、ブログで読んだだけの方も、ぜひ、いちど訪れてみてください。

皆さんに祝福されたクリスマスが訪れますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年12月 8日 (金)

ああ、エルサレムよ、エルサレム

エルサレムよ、おまえを忘れるよりは

私の足が萎えたほうがよい

エルサレムをおもわず

最上のよろこびとしないなら

わたしは口がきけなくなったほうが良い

バビロンの流れのほとりにすわり

柳にたて琴をかけ

シオンをおもいすすり泣いた

わたしたちを虜にしたものが歌をもとめ

しいたげる者のなぐさみに

「シオンの歌を歌え」と命じた

異国の地にあってどうして主の歌が歌えよう

(《典礼聖歌》28番)

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

私たちは、聖地巡礼の地として「地理学的なエルサレムという街」を、「神の都」そのものだと勘違いしがちです。

詩篇137篇の1+2、3+4を歌詞とする典礼聖歌28番は「信仰共同体、愛と誠実、回心、四旬節、待降節、共同回心式」に歌うよう、《典礼聖歌》は勧めています。

↓世界遺産「エルサレム旧市街とその城壁群」(abロードHPより借用)

M01016_x

典礼聖歌28番で言う「エルサレム」とは、「神のみ国」「父なる神のみ心」、主の愛といつくしみを象徴的にあらわすのだと、私は思います。

つまり、「神のみ国」、天地の創造主であられる主の被造物である私たちキリスト者が、世俗生活の中で主の教えに背く行いを強いられ、父なる神の愛といつくしみに背くことを強いられた、まさにその時、キリスト者のたましいは「異国の地にあってどうして主の歌がうたえよう」と嘆くのです。

信仰共同体から離れることも、主なる神に導かれるまま、主の教えに従う自らを裏切ることも出来ない惨めさの中で、主の愛といつくしみから遠ざけられ、人々の暴力や暴言の中で虐げられる人々を見つめ続けなければならない辛さに耐えながら、主の歌を歌わされるキリスト者の嘆きが、いま、ここにあります。

米国のトランプ大統領は、エルサレムに在イスラエル米国大使館をテルアビブから移転することに署名しました。

イスラエルの地理学的な首都として、聖なるたましいの宿る街、ユダヤ教、カトリック、プロテスタント、正教会などのキリスト教、イスラム教などの世界宗教が仲良く軒を連ね、共に平和を祈り続けて来たエルサレムを、イスラエルという一つの政権が占有しようとしているのです。

地理学的な現在のエルサレムが、ほんとうに詩篇137篇にあるエルサレムなのか、私にはよくわかりません。

分かっているのは、数千年の歴史の中でエルサレムは人類の信仰共同体の母だと言うことです。

また、進化論的な見地から見れば人類がアウト・オブ・アフリカ(霊長類ヒト科ヒトが初めてその本来の棲息地であったアフリカから出て、全地球に広かった最初のきっかけを指す)の最初の拠点となった、ヨルダン川沿岸地域の中心がエルサレムでもあります。

そう考えれば、現在の地理学的なエルサレムは、世界宗教の宝と呼ぶべき聖なる都であり、父なる神、主を記念する街でもあります。

ユダヤ教徒がシャバト(安息日)を、全ての宗派のキリスト教徒が主日を、イスラム教徒が金曜礼拝を週ごとに捧げ、平和を祈り続けることこそ、エルサレムの街のあるべき姿です。

政治的利権利得のため、エルサレムの街を占有しようとしたり、諸宗教の巡礼者が互いに平和の挨拶をかわし合うのを妨げることは、あってはならないことです。

現在のエルサレムの地は、信仰の違いを超え、異なる者同士が互いに平和の挨拶を交わし、自らの信仰に従い、人類の平和を祈るため、この地上に存在します。

私はここに、エルサレムが永世独立聖都として、諸宗教の平和への対話の隅の親石となり、政治的にイスラエル、パレスチナを含め、どのような政治的権力、王朝、王権、政権にも属さない「平和の都」として独立することを父なる神に祈り、願います。

私はイスラエルの人にも、パレスチナの人にも、何ら恨みはありません。


神の都、尊い巡礼地で、イスラエルの方とも、パレスチナの方とも共に平和のために祈りたいからこそ、エルサレムを一種の「諸宗教共同体による連合自治国」として独立させ、イスラエルもパレスチナも政治的な首都は別に定めて欲しいと願うのです。

イメージとしては、カトリックのバチカンや、イスラム教のメッカのような感じです。

神の都、諸宗教の巡礼地であり、ふるさとであるがゆえに、エルサレムの地は日々血に染まっています。

何人の血であれ、エルサレムの地を殺戮と虐待によって血に染める者がいるなら、殺戮者や虐待者は神のゆるしを求めるべき責務があります。

ただでさえ、中東情勢が政治的にも危うい状態にある今こそ、エルサレムは人類が平和の祈りを捧げるための独立国になる必要性を感じるのです。

 

聖母マリアの頼もしい執り成しを求めて祈ります。父なる神の都、うるわしい主のみ顔そのものであり、諸宗教の人々が世界からただ祈るために集うエルサレムの地を、人類平和のいしずえとしてください、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年12月 5日 (火)

待降節にゆるしの秘跡を!

お元気ですか。しぇるりんです。(^^)

全てのカトリック信徒は、信仰とゆるしに招かれています。


ゆるしの秘跡とは、自分が誰かにしたことや、どうしてもゆるせないと思っていたことをゆるせるようになった時、主イエスとローマ教会の定める叙階の秘跡を受けた司祭を通じてカトリック信徒がゆるしを頂くことです。

私たちは自分の心の中で自分が相手に行った理不尽な行いをゆるすこと、相手が自分に行った理不尽な行いをゆるすことで、自分自身もまた主イエス・キリストの名によってゆるしてもらうのです。

例えば、気の合わない人のする言動がどうにも耐えられず、相手が傷つくようなことを言い、行ったとしましょう。

でも、それが相手の弱さであったり、「相手の当たり前」でしかなかった事を知り、ゆるしの秘跡で告解したとしましょう。

Becc12a2f4607155f2815283b2cff8dd ゆるしの秘跡の秘密は、トップシークレットです。また、信徒同士の分かち合いの席で話し合われた内容が、間違っても外部に漏れることがあってはなりません。

私たちには、互いに対して主のみ前において、主に対して話したことを、主イエス以外の誰に対しても漏らしてはならない守秘義務があるのです。

主イエスは、私たちが何も語らなくとも、自覚できず、言葉にできず、行いにあらわせなくても、私たち一人ひとりのすべてを知っておられます。

私たちが主イエスに近づきたい、主の愛に応えたいと心から思うからこそ、「何が私の罪だったのか」について思い巡らし、ゆるしの秘跡をねがいます。

ゆるされれば、ゆるされるほど、私たちは自分の弱さ、他者の弱さ、自分の小ささ、他者もまた小さき者でありながらも、ともに生かされている生命の営みの神秘に気づくチャンスが与えられます。

人は皆、弱いものです。

先日、無人島にある漁船の避難場所から、北朝鮮船籍と思われる漁船に備品が全て盗まれたらしい、という話がニュースにありました。

どうもその避難所は絶対的困窮者が訪れた場合を想定していなかったようで、家具や機材の固定など、防犯に必要な対処がされていたかもはっきりせず、避難所にはテレビなど家電製品まであった模様です。

日本では当たり前にどこの家にも、テレビ、冷蔵庫、離島だと発電機などもあるでしょう。

しかし北朝鮮の漁民は、冬の荒れた日本海に屋根もなく、凍死する危険を覚悟の上で、エンジンもボロボロの漁船で出漁せねばならないほど、追い詰められているのです。泥棒が悪いことだとは知っていても、生きるためについ盗んでしまったのでしょう。

この件で日本の政府高官までやたら大騒ぎをしていますが、自分たちが絶対的困窮者であった時代のこと、今も同じ日本の空の下に大勢の相対的困窮者がいることは忘れておられるようです。

今から70年前、終戦直後の焼け野原の東京では着るものがなく、「水がしたたらない程度に乾きかけた洗濯物や靴は、かなりのボロでも、生き残った年寄りや子どもがそばで見張っていないとドロボーに盗まれる」ほど、窃盗が多かったのです。

また、今も相対的困窮や心的疾患ゆえの万引きが後を絶たない現実も、お忘れのようです。

ドロボーは悪いことです。窃盗罪は犯罪です。だからと言って、外交関係と「絶対的困窮に追い詰められた個人や小集団の窃盗」をごたまぜに論じるのはどうかと思うのです。

自他に関係なく、極度の困窮は人の心を悪にいざなうものと言えましょう。

絶対的な困窮ではなく、相対的な困窮、そしてどれほど金銭的に富裕であっても冷えた心、辛いほどに孤立した孤独、他者へのねたみ、そねみなども、私たちの心を悪へといざなうキッカケとなります。

悪へのいざないについ負けてしまった自分に気づくこと、悪を行う自分の心が冷え切ってしまったことで、主イエス・キリストの愛から遠ざかってしまったことに気づくことこそ、ゆるしの秘跡を受ける本来の意義だと私は思います。

主の愛から遠ざかったことに気づけば気づくほど、私たちは主の愛といつくしみに近づくチャンスを得ます。そして、主の愛といつくしみへの信頼が増すほど、私たちは自分のいのち、明日、希望などを、心からの信頼を持って主に委ねきることができるようになって行くのです。

待降節のゆるしの秘跡は、主の愛といつくしみに近くきっかけです。

そして、主の愛といつくしみに気づくこと、近づくことこそ本当の、そして最高のクリスマスを迎える準備なのです。

世間や十戒の定めるの基準や道徳律に反した、反しないという問題だけではありません。

その行いをすることで、主の愛といつくしみを自分自身の中でないがしろにしたことへのゆるしを受ける必要があるのです。

人は生きている間にしか、悔悛し、悔い改め、罪のゆるしを願い、回心することができません。

だから、臨終の前にゆるしの秘跡をいただき、可能であればご聖体拝領をした上で、塗油の秘跡(病者の秘跡)を受け、「天国行きの切符」を手にするのです。

長い間カトリック教会から離れていた方であっても、信徒であれば臨終前に、意識のあるうちに近隣のカトリック教会に電話して司祭を呼んでください。

また、カトリック信徒のご家族やご縁故の方で、最後はやっぱりカトリック教会で…と思われる方は意識のあるうちに臨終洗礼をお受けください。

いのちあってこその悔い改めです。生きている間に、自分が生きていると誰かに伝えられるうちに主なる神と向き合うこと、回心することができるのが、カトリック教会の教えなのです。

カトリック信徒の方々はぜひ、待降節の間にゆるしの秘跡を受けてください。

きっと、あなたの中で何かが変わり、それが実生活の中にあらわれていくことでしょう。

 

ゆるされることで、ゆるし、ゆるすことでゆるされる主イエス・キリストの愛といつくしみの神秘にこのブログを読む全てのみなさんが招かれますように、アーメン。

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2017年12月 1日 (金)

カトリック教会の待降節と聖母マリア

(洗礼者ヨハネの母エリザベトが懐妊してから)六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなづけであるおとめのところに遣わされたのである。


そのおとめの名はマリアと言った。


天使は彼女のところに来て言った。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。(ルカによる福音書1:26~30)

お元気ですか。しぇるりんです。(^o^)

カトリック教会の一年は、王であるキリストの大祝日を最後の主日として祝い、翌週から「待降節(アドヴェント)第一週」、そして新しい一年が始まります。

待降節は、神のひとり子であられる主イエスが、聖母マリアさまと聖ヨセフさまの家族のひとり子として、お生まれになるまでの日々を記念し、観想のうちに祈ります。

赤ちゃんが胎内にいることを心からよろこぶには、一定の社会的条件が必要です。

聖母マリアさまもまた、聖ヨセフさまが「主なる神のお告げならば、聖母子を引き受けよう」と決意されたことで、世俗の決まりや文化にも受け入れられ、旧約聖書の預言にもあった救い主が御胎内に宿られたことを、信仰のうちに受け入れられたのでしょう。

聖母マリアさまには、「この言葉…は何のことかと考え込んだ」という場面が聖書に何度も登場します。

考え込んでなお諦めることなく、仕方ないと思うことなく、主なる神への信頼、聖ヨセフへの従順を生き続けつつ「…何のことかと考え込んだ」のが、私たちの聖なる母なのです。

私たちは、何でも早急に結果を求めがちです。これをしたらこういう結果が出てくれないと困る、と言わんばかりに結果だけを追い求めます。

御母マリアさまは、ただ主が示された道を従順にあゆみつつ、「どういうことだろう?」と父なる神に問い続けました。


↓レオナルドダヴィンチの「受胎告知」大天使ガブリエルがちょっと強面。

Leonardo_da_vinci_052


大天使ガブリエルのお告げを受けたおとめマリアだった時から、十字架の下に立ちすくむ日、そしてイエスさまの弟子たちの怯えて逃げる姿を見守り、ご復活の主イエスに出会い、使徒たちが宣教の旅を続ける中で、ただひと筋に祈り続けられました。

「これは何のことでしょうか?」と主に問うために。

カトリック教会の年の初めである待降節第一週から、私たちは「主よ、なぜこの道に導かれたのですか。これは、何のことでしょうか?」と問い続けられた、おとめマリアの道に従うことを求められています。

私たちそれぞれが、それぞれに与えられた道を従順に歩みつつ「これは何のことでしょうか」と主に問いかけることを始める必要があります。

たとえ私たちの心が主の愛に全く無関心で無感動なほど冷え切っていても、「わたし、何で生きているんだろう。どうして?」と聖母マリアの取りなしを求めて問うなら、かならずこたえが与えられるでしょう。

聖母マリアご自身こそ、生涯「主よ、これは何のことでしょうか」と問い続けられた方だからです。

私たちは何が起ころうと「何でこうなるの?」と問い続けなければなりません。希望を持ち、結果について憂いを持たないことは、難しいです。

これが試験の結果などだったら、居ても立っても居られないですよね…ウロウロドキドキ。

でも、私たちは一生の間、「何でこうなるの?」と飽きず、懲りずにみ母マリアの頼もしい執り成しを信じて、問いかけ続けなければなりません。

そして、希望を捨ててはなりません。希望だけが、主の愛が「気づいたらここにある」ことを悟らせる、大切な手がかりだからです。

待降節は希望のともし火を想う時です。待降節のろうそくを一本つけるたび、ろうそくが自らを燃やしつつ、希望のともし火で私たちの心を照らそうとされる主イエスの訪れを願う時なのです。

主はかならず全ての人のもとに来られます。それがいつ、どんなきっかけであれ、かならず来られます。

主イエスのご降誕を待ち望む希望の季節、それが待降節だと私などは思うのです。

みなさんの心に、希望のともし火が宿りますように、アーメン。

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2017年11月28日 (火)

カトリック信徒が「死にたい」と思った時、どうする?

自殺は、自らのいのちを守り維持しようとする人間の自然の傾きとは相反するものです。それは正しい自己愛とは正反対のものです。また、隣人愛にも背くものです。わたしたちは家族・国家・人類社会に対する義務を負っていますが、自殺はこの連帯のきずなを不当に破るものだからです。自殺は生ける神への愛とは正反対のものです。(2280)

自殺した人々の永遠の救いについて絶望してはなりません。神はご自分だけが知っておられる方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることがおできになるからです。教会は自殺した人々のためにも祈ります。(2283)

《カトリック教会のカテキズム》668頁

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

都市部に住む方々は、「人身事故により列車の運行が…」というアナウンスやお知らせに慣れっ子になってしまうほど、日本では自死が増加しています。

どれほど熱心なカトリック信徒、またはキリスト者であれ「ああ、もういいや。死にたい」と思うことは「あって当たり前」だと思います。

もちろん、幼いから、面倒くさいから「絶望してもいいでしょ?」ぐらいの気持ちで「死にたい」と言うのは、真面目に「自死を決行する」という意味ではないでしょう。

↓首吊りして死んだと言われるイスカリオテのユダ

Judas_hangs_himself_gelati_fresco 私は「二十歳の原点」という自死者の手記を当時のカレシに贈られるほど、生きるのが危うい人間でした。

30年以上もの間、希死念慮を患っていたのです。

だから、「死にたい」という一言にも色々な感情的が込められていることを少し知っています。

若い方の多くは、ウツ症状などの病理的な極度の過労状態にいるにも関わらず、過労やストレスを加速させる場所から逃れる術を知らず、唐突に自死されるようです。

また、ウツ症状から回復しだし、レジャーや旅行も楽しめるようになり、復職や就活でもしようかなぁ…ぐらいの時期に突然訪れる「急性の起立性自律神経失調症(以前通りに眠剤を服用しても、早朝に起きたら眠れなくなる症状で睡眠不足に陥る症状)」による過労を訴える術を知らずに、早朝や夕方に「疲れ果てて」自死されるケースもあります。


前者はもちろんのこと、後者はウツ症状の回復期に特有の睡眠不足で疲労が蓄積し、心神耗弱に陥って起こる病的な自死です。

カトリック教会の教えで、これらの病的状態におかれた方々が自死されても、永遠の救いの希望は神のみ手に委ねられている、と考えます。

神奈川県座間市で、SNSで「死にたい」と書き込んだ若者と書き込みを通じて親しくなり、「死にたい」と書き込んだ人の「自殺を助ける」と言って、殺人を犯したという事件がありました。

ホントに「死ぬ気」なら、他人の助けなんて必要ないはずです。実際、わたしが遺言を聞いた方は、たった一人で首吊って亡くなりました。覚悟の上の自死でした。

SNSで「死にたい」と書き込む気があるなら、「生きたいけど、生きづらい。生きるのが辛い」という風に、私は読み替えています。

どれほど自死、自殺はダメだよと言われても「死にたい」と思うことはあります。

「死にたい」と思っても、簡単に自己愛が捨てられるものではありません。そして、隣人愛に目覚めるには、自分自身の中にある「自己愛への捨てがたさ」の良さと醜さに、自分が心の奥で気づく必要があるのです。

「自己愛」というとついつい、「自己撞着=自分以外の他者が見えないまま、誰かを自分の都合の良い存在に仕立てたり、自分の欲望通りに行動させようとする欲求」と勘違いしがちです。

実際に、お母さん、お父さんは国籍、文化、人種を問わず、我が子をどうやったら「自分たちの教育観にあった子どもに育てるか」に日夜頭を悩ませています。

でも、子どもだってそれぞれの人生、出会い、悩み、喜び、苦しみがあり、親の思い通りにはなりません。

「子育ては親育て」というのは、それぞれに自分なりの「自己愛」の世界があり、それぞれの「自己愛」が「自分自身のいのちを大切に思うこと」であるということ、それぞれが違う「自己愛」を生きていることを互いに認め合うということだと思います。

誰もが「自己愛」を生きていることを深く悟るなら、隣人愛に目覚めることでしょう。隣人はどこにでもいます。道ゆく人すべてが隣人なのです。

本当の自己愛とは、「ともかく今は自分は生きていて、生命がある。だから、自分から生きることを放棄したり、生きる希望を失ったりしてはいけない」と心から納得することです。

自己愛は、「わたし、どんなに死にたいと思っても、やっぱり生きていたい」と思う自分に気づくことです。

わたしは生きたい、自分の生命を守りたい、と思うことは人間として、神の被造物として自然なことです。

ひとにはどうしてか、「どんなに死にたいと思っても、生きたい、死にたくないと言う切実な思いを深く実感したい」という欲求があります。

「どんなに死にたいと思う苦境にあっても、生きているって素晴らしい」と思えるようになるには、まず「死にたい」から始めて、「でもやっぱり死ねない。死にたくない」に至るまで「何となく自分なりに悩んで、前に進もうとすること」こそ、一種の「青春の門」なのでしょう。

「死にたくない」から「生きたい」にたどり着けば、ひとまず「自己愛」基礎編は卒業です。

ただ「死なない程度に生きていたい」から、「生きているって素晴らしい」に至るには、カトリック信徒の道しるべは主キリストへの教えてくださる信仰、愛、希望です。

主日のミサを通して、日々の祈りを通して、私たちは「二度と渇くことのないいのちの水をのみなさい」と言われた主の「いのちの水」を心のどこかで探しています。

そんな私たち一人一人のため、神ご自身と全く同じ存在であられる主イエスは、幼子の姿でお生まれになり、貧しい難民の子として苦難の道を歩み、大工の子として育ち、大工の徒弟となり、一人の職人としての平凡な生活を送るため、敢えて30歳近くまで長い歳月を「凡人」として過ごされました。

聖書では、イエスが「凡人」として過ごされた日々について、殆ど言及していません。でも、神は確かに私たちと同じ「凡人」として生きるために、ご降誕になったのです。


主イエスは、ご自分を裏切り、敵の手に売り渡し、首吊り自殺したイスカリオテのユダを弟子にするほどに、今もいつもずっとあるがままの私たちを愛しておられるのです。

私たちが「死にたい」でも「死ねない」「生きたい」でも「死なない程度に生きてりゃいいじゃん」から「生きる希望を持ちたい」、そして「生きているって素晴らしい」と思えるようになるまで、父なる神と聖ヨセフ、聖マリアに従順の人生を地上で送られた方こそ主イエスだと、私は思うのです。

「死にたい」が、実は「死にたくない」への入り口であることの方が多いでしょう。

病的な苦境の中で突発的に「もう死ぬしかない」と思うずっとずっと前に、自分の中にある「絶望的だ」「死にたい」という気持ちに気づくことは大切なことだと、私などは思います。

「絶望的だ」、でも「自分の生命は守らなくちゃ」「死にたくとも死ねないんだ」という自分の気持ちに早めに気づけば、自分を守るために「逃げるはセコいが役に立つ」ことへも気持ちが向けられるようになれるのです。

場合によっては、「引きこもる」、「不登校」、「フリースクール」、「自立支援施設の利用」、「休職」、「退職」、「転職」などの道も選べるのです。

別に、社会的責任を果たさないことを勧めているのではありません。自分自身を守れる範囲内で社会的責任を果たすことは、どのような状況に置かれていても大切です。

人が生きるために学校、社会、企業、政府などが存在するのであって、学校、社会、企業、政府などを保持するためにひとが存在するのではありません。

学校、社会などに隷属するために人が労働力として酷使されるために存在している現状は間違っているのです。

「死にたい」と安易にツイッターなどのSNSで書き込むことへの規制を日本政府が行おうとしています。

しかし、「死にたい」というコトバを封じ込めれば封じ込めるほど、「やっぱり死にたくない」という気持ちにたどり着くまでの紆余曲折は、より複雑なものになると思うのです。

安易な「コトバ狩り」をするより、「死にたい」と思う気持ちを汲んで、「死にたい」と書き込む人々に寄り添う社会になってほしいと願う次第です。

 

この国から一人でも自死者が減りますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。


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2017年11月24日 (金)

カトリック信徒とクリスマスイベント

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

日本のショッピングモール、有名なホテルや六本木ヒルズ、各地方の繁華街などでは、ハロウィン商戦が終わるとすぐに、電飾クリスマスツリーやら、ライトアップイベントが始まります。

↓カレッタ汐留のイルミネーション(日本科学未来館HPよりお借りしました。)

Nishihara1

いわゆる「恋人たちのクリスマス」という商業イベントです。

そして、「商戦イベントとしてのクリスマス」時期になると、どこからともなく「クリスマス反対派=なぜ、正月ではないのか?」という人々が降って湧いたように現れ、どういうわけか周囲のクリスチャンやカトリックの人に喰ってかかってくることがあります。

私なぞ、小学生の時からいい大人に喰ってかかられた経験があります。それがトラウマになり、12歳でカトリックで洗礼を受けたいと言う望みを持ちながら、二十代前半まで世間と両親に遠慮して、受洗の決心ができませんでした。

そのため、今の私は正々堂々とどこに言ってもカトリック信徒であると表すことにしています。

商戦イベントとしてのクリスマス・デコレーションやライトアップは、あくまでも「商売の手段」でしかありません。

東京の某百貨店ではハロウィン終了日に、洋装を販売する階、およびエントランスのライトアップは「クリスマス風」、呉服売り場のあるフロアは「正月風に干支グッズを前面に出す」ディスプレイに模様替えしました。

街や山を彩る日本のライトアップ・クリスマスは、クリスチャンやカトリック信徒のために行われているわけではありません。

私の住む街には、外国籍由来の方が多い国際都市であることを踏まえ「X’mas」ではなく、英語で「Christmas」表示をするぐらいの気遣いはありますが、これも外国籍の方々からのクレームを避けるためでしかありません。

実は、ギリシャ語では、Christは「ΧΡΙΣΤΟΣ/Χριστός [kiːstós クリーストス](現代ギリシャ語の発音で[xriˈstɔs フリストス]。なので、「Xmas」とアポストロフィを取れば、「キリストのミサ」という意味の英語になります。

ただし、現在の標準英語訳聖書で「キリスト」は「Christ」で統一されているため、英語が母語でも「現在は使われておりません」
以上は知らない信徒が殆どでしょう。


もし、真摯にイベントとしてのクリスマスに反対で、年末年始と正月を全面に押し出すべきだと考えるなら、商工会議所や百貨店などに「クリスマスイベント反対」の抗議運動でもすればいいと私は考えます。

周囲のクリスチャンやカトリック信徒、特に子ども、弱者、障害者など相手にに「神社や寺に行かないくせに…」などと喰ってかかる方々は、長い物には巻かれるのが大好きでも力ある人には何も言えない意気地なし人間だと、私は判断しております。

クリスチャンやカトリック信徒は、たとえ純粋なる商業イベントだと分かっていても、「クリスマス」というキリスト教行事があることを日本人に理解して欲しい、という観点から「恋人たちのクリスマス」を否定できない苦しい立場にあります。

もちろん、教会内には「商業クリスマス反対」の真摯なキリスト者がおられるのも知っています。

わたしも、一時期は商業クリスマス反対でした。

が、実際のところ、大多数の日本人がキリスト教について何も知らないまま、ただ感情的に排除している現状を打破するためには、「商業クリスマスも認めざるを得ない」と感じるようになりました。

以前、欧州に数年住んだ経験のあるご家庭の奥さんが60代になって「子どもたちが大きくなって、夫婦二人になったらクリスマスなんて要らないと思ってたけど、やっぱりクリスマスにはケーキとチキンが食べたい」と言って、ご主人を驚かせたことがありました。

そのご主人は、24日の夜遅くに奥さんとそのお話をしたようです。25日のクリスマスケーキは、予約以外での店頭販売がない店が殆どです。仕方なく、近隣のケーキ工場まで車を飛ばしてクリスマスケーキを手に入れたのだそうです。

大多数の日本人には、「チキンとクリスマスケーキを食べる」のがクリスマス、と認識されています。

神ご自身がその御子を、この世界中の人間の中で決して豊かとはいえない私たちと同じ生活、より惨めでより貧しく、誰よりも苦しい生活を送るために遣わされたことを記念する大祝日こそが、クリスマス、降誕節です。

天地の造り主である主が、ひとの中でいちばんか弱い幼な子の姿で現れ、難民の子として聖マリアと聖ヨセフとともにエジプトに逃れ、ユダヤの地に帰還し、30近くまでナザレの町で、大工の子、職人として暮らしました。

そして、使徒とともに奇跡と福音宣教を行い、罪人として十字架を担い、十字架につけられ、死して、葬られ、三日目によみがえられるため、全人類の救いのために来られたのです。


待降節、クリスマスを迎えるたびに「私たちのために来られたキリスト」のご降誕を記念することは、チキンとケーキという口実があっても大切だと思うようになったのです。


商業クリスマスのイルミネーションを見て、「そういえば、久しぶりに教会に行こうかな」と思い出してくれる、たった一人の人でもこの日本に居るなら、「99匹の羊を差し置いて、1匹の迷った羊を探す羊飼い」にたとえられる主キリストにとっては意味あることだと、思えるようになりました。

教会で過ごすクリスマスは、未信者の方が考えるよりずっと賑やかです。

久しぶりに実家や故郷の教会に戻ってきた老若男女の笑い声や話し声が響き、クリスマスイブの夜には「クリスマス、おめでとうございます」の挨拶が行き交います。

クリスマスイブの「イブ」とは前夜祭を表す言葉で、主日(日曜日)と定められた大祝日は、前夜の18:00~の「前晩の祈り」から始まる事に由来します。

カトリック教会ではクリスマスに、一年でいちばん盛大な荘厳ミサが行われ、聖歌隊、日曜学校やソリストらがこの日のために練習してきた曲を披露します。

また、成人洗礼式はクリスマスイブに、幼児洗礼式はその前後の主日に行われます。

クリスマス・イブのミサは少しだけ早帰りできれば、平日であってもサラリーマンも参加できるため、普段の二倍~五倍ぐらいの人で教会から人が溢れるほどです。

私の通う教会では、クリスマスイブの夜には、信徒会館にパネトーネ、お菓子、スープとパンなどの軽食をマリア会(婦人会)が準備し、教会共同体としての親交を深めます。

その翌日、25日から正式に「降誕節」が1月6日頃まで始まります。

そのため、我が家の「家族で静かに過ごすクリスマス」は、必然的に12月25日となります。

街をLEDライトで埋め尽くすだけでなく、山や湖など豊かな自然や環境に打撃を与える「ライトアップイベント」そのものは、さまざまな社会問題、環境問題を引き起こしています。それらの問題を看過していいわけではありません。

いつの間にか24時間365日営業が当たり前になり、商店の全てが閉店し、インフラ、病院などを除いては全ての商業行為を停止する「静かなお正月」もなくなってしまいました。

シフト制で働く人が増え、元旦も「単に12月31日の次の日でしかない」人々が大勢います。

あんがい、「クリスマス反対派」のある人々の気持ちの中には、12月25日に急いで正月イベント用に模様替えし、多くの商品が正月価格、ご祝儀価格に高騰する「商業イベント化した年末年始と正月」の喧騒への違和感が潜んでいるのかも知れません。

「祝う」「言祝ぐ」とは、それぞれの思想信条において「心からの喜びを思い、言葉、行いに表す」ことです。

心から喜びを分かち合う場に、資本主義、政権圧力など利害損得を露骨に持ち込めば、それがどれほど伝統ある行事であれ必ず廃れます。

もしも伝統のルーツを守りたければ、それがどのような文化的伝統にせよ「売り買いしてならぬものは、売り買いしない」確固とした決意が必要です。

最近はYOU TUBEなどで情報が広まった地方のお祭りなどに、外国人観光客が多数訪れるなど、「偶然の出会い」があるため、伝統行事を大々的に商業イベント化しようという動きが、日本各地にあります。

これらの地方の祭りの関係者にぜひご理解いただきたいのが、クリスマスと正月の違いです。

クリスマスは、宗派により違いはあっても基本は「キリスト教の教え、聖書に書かれたこと」を基軸にした祭りです。


そのため、商業利用してもなお、商業利用が不可能な「キリスト教の教会、その教えと教えを守る人々の教会という信仰共同体」という揺るぎなき「隅の親石」があります。

その点、日本の正月は、江戸時代までは各地でまちまちでした。正月の日に地域差があるということは、当時の「納税時期」である「年貢の納め時」が、村、集落単位でばらつきがあることを意味しました。大晦日までに全ての会計清算を終わらせるのが、日本の税制です。

その上、当時の東アジア一帯では太陰暦が用いられていたため、現代の「太陰暦の正月」「中国の春節」「朝鮮半島のソルナル」を「標準的な正月」として祝う地域もありました。

これは、日本をほぼ独裁統一した徳川幕府にとって頭の痛い問題でした。現代で言う「予算案作成」や「予算審議」が、各藩の大雑把な事情だけでなく、当時はその数すら正確に把握しきれていたかも怪しい、村や集落単位の「伝統的な正月事情」に振り回されていたからです。

そこで、徳川幕府はイエズス会士が持ち込んだグレゴリオ暦を応用した「旧暦」を作り、いまの「節分」を「公的正月」としたのです。

これが明治維新政府の太陽暦採択に伴い、現在の太陽暦の1月1日が元旦になったのです。

他の東アジア諸国で、日本のように太陽暦の元旦を祝う国はありません。

それぞれの地域の正月の中から、いちばんその地域で受け入れられる正月を祝う、または宗教ごとに違う祝日をその宗教の人々が祝えるよう配慮することは、「ともに祝う喜びを、周囲の人々すべてと分かち合う」ことだと今も考えているからです。

また、自国や自国民の伝統的な正月や祝いをともに喜び、無条件に分かち合うことが、自国の文化や伝統の独立性、ひいては経済的、政治的な独立性を保つ最低限の必須条件だと、多文化共生の世界にあって痛切なほどに理解しているからです。

資本主義社会で、文化のイベント化は避けられない問題だと思います。それでも、どこかに利害損得に関わりなく、無条件に分かち合える気持ちのゆとりを、自分の中にまず持てるようになりたいと思います。


主よ、どうぞ今年のクリスマスにも大勢の教会から離れて久しい人々の魂を揺り動かし、教会へと導いてくださいますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年11月21日 (火)

カトリック信徒と「ゆるしの秘跡」

聖霊を受けなさい。あなたたちがゆるせば、だれの罪でもゆるされ、ゆるさないでとどめておけば、ゆるされないまま残る。(ヨハネによる福音書20:20)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

さて、2017年の王であるキリストの主日、11月26日が近づいてきました。

この時期になると、しぇるりんは少しだけ憂鬱になります。

「ああ、待降節が来る。ゆるしの秘跡を受けなくちゃ」という「憂鬱」です。

待降節と四旬節には、必ずゆるしの秘跡を受けなさい、と韓国で洗礼を受ける時に教わりました。ここ、横浜教区の韓国人宣教司祭がおられる教会では、韓国では当たり前に行われている、小教区信徒全員のゆるしの秘跡、「班功聖事(パンゴンソンサ)」が行われているようです。

しぇるりんは、最初にキリストの教えに馴染んだきっかけがプロテスタント教会の日曜学校だったこともあり、どうも「ゆるしの秘跡(告解)」が苦手です。

今年は、主任司祭の「ゆるしの秘跡を受けましょう」という呼びかけもあり、心新たにして、ゆるしの秘跡と向き合いたいと思うようになりました。

「ゆるしの秘跡」を行えるのは、司教から認可を得、叙階の秘跡を受けたカトリック司祭です。司祭は、「父と子と聖霊の名によって、あなたの罪を」ゆるすのであって、個人として、人間としてではなく、「主の代理人」として罪のゆるしを与える権限を持ちます。

よく、「私が新米司祭だった頃、ヨソの修道会のすごく偉い神父さんが来て『ゆるしの秘跡をお願いします』と言われ、思わず神父さんを探しに行ったら、誰もいなかったので、ドキドキしながらゆるしの秘跡を聴きました」などと仰しゃる神父さまがおられます。

今はベテランの神父さまにも、初めてストーリーがあるのだなぁ…と感心します。

一方、平信徒側も「ゆるしの秘跡を受けるなら、あの神父さまがいい」などと、神父さんを選んではいけないなぁ…と思う次第です。

さて、ゆるしの秘跡は、四つの段階を踏んで行います。

まず「良心を糾明する」です。自分の良心に照らし合わせて「これは、罪深いことだなぁ」と自ら思えることはなんだろう、と思い巡らすことです。

例えば、同じクラスや職場でいじめが行われているのを見ていながら、関わり合いになることを恐れて、見て見ぬ振りをしていたとしましょう。

または、恋多き男、または恋多き女だった誰かが、本当に心から愛せる人に出会い、初めて、恋することと愛することの違いを知り、それまでの恋多き人生を悔いる心が生じたとしましょう。

または、職場で自分の利益のために、他の職員が不利益を被るのを知っていながら、自らの保身を優先していたら、不利益を被った職員がストレス性疾患で休職するほどの痛手を負うのを見て、一種の罪悪感を感じたとしましょう。

家族に経済的な負担をかけていると知りつつも、ついついパチスロにハマり、家族と争ったことをある時「悪かった」と感じたとしましょう。

このように「以前は悪だとは思えなかったことを悪いと思い、悔い、罪悪感を自覚する」ことを、「良心の糾明」と呼びます。

それぞれの置かれた状況、場所、体調、環境、主が示してくださる道の違いで、糾すべき良心の内容も違います。

人生の初めから終わりまで、十戒のすべてが守れるキリスト者はほぼいないでしょう。

他人の持ち物やご馳走を食べる姿を見て、うらやましいと思った経験が全くないような人など、この世におりません。

まさに「義人はいない。一人もいない」のです。

だからこそ、私たちは七つの秘跡を通じて少しずつ、いのちの源である主なる神の元へ帰る準備をするため、自らの良心を糾明し、愛の源である神へと近づこうと努力するのです。

その次に「痛悔」します。

1990年発行の教理問答集《信仰の詩、愛の詩、希望の詩》によれば「痛悔とは罪に対する心からの悲しみと、罪を償う堅い決意です…罪を償う堅い決意とは、神のみ恵みによって、告解しただけでなく、罪を招く危険な機会を避ける決意です。」とあります。

また、「完全な痛悔とは純粋に神を愛することから生じる罪の悲しみです」とあります。

神さまは天地創造の初めから、私たち一人ひとりのいのちのすべてを創造してくださり、世の終わりまで被造物から何の見返りを求めることなく、純粋に私たちの生命を愛で満たすため、私たち一人ひとりの生命に臨在されます。

それにも関わらず、私たちは多くの罪を犯します。

それは、ある時は身を守るためであったり、成り行きで何となくであったり、自分自身が故意に行なった何かであったり、弱さ、貧しさ、意気地なさだったりします。

どのような事情にせよ、神さまの愛に背いたと思い、痛悔し、罪を犯した自分は悲しい存在であると感じたら、その罪の内容を「自分なりのコトバにまとめ」、ゆるしの秘跡を受けます。

↓大浦天主堂の告解室

Con09_3 すべてのカトリック信徒は、罪のゆるしを受ける際、必ず「ゆるしの秘跡」を受けねばなりません。

「ゆるしの秘跡」を受けることなく、罪がゆるされることはないのです。

ゆるしの秘跡を聴く司祭は、完全なる守秘義務があります。


以前、韓国のとある司祭が「ゆるしの秘跡で不倫をしていたと告解した方がいました。彼は、奥さんには不倫について詫びていないとの事。不倫や浮気は、奥さんや家族にきちんと詫びていただかないと、告解だけでは償いが十分とは言えません。」と説教で言うのを聞いたことがあります。


この事例は、ゆるしの秘跡の内容をリークしてしまったグレーゾーンのケースなのか、償いの勧めなのか、しぇるりんの中では未だに少しだけモヤモヤしています。

なにせ、当時の韓国では夫が不倫をすると、不倫相手の女性の家に妻方の親族が押しかけて行き、不倫相手の女性を全治数週間の怪我をするほど殴る、蹴るという事がざらにありました。当時の警察は、既婚男性と不倫した女性が暴行を受けても、暴行被害を受理してくれませんでした。

それが韓国の伝統的な慣習だから…という理由でした。不倫や浮気をした男性には、奥さんに冷たくされるぐらいのもので、さしたる社会的な制裁も処罰もなかったようです。


外国人留学生だった私ですら、そのぐらいには韓国社会の実情を知っていました。その不倫をした男性はきっと、不倫をしたのは自分が悪い、が不倫相手の女性をこれ以上傷つけたくないと思ったから敢えて告解して、これからの行いで償いをしたいと思ったのでしょう。

その程度のことは、たとえ貞潔の誓願を立てた司祭であっても社会常識で分かるはずなのに「何故?」、と思ったのです。

この辺り、神父さまにもご考慮いただきたいです。

ゆるしの秘跡、痛悔と償いの良き勧めは、世間的な配慮とカトリック教会の教えも踏まえて、告解室の中だけでおさめていただけるという信頼が持ててこそ、大人の信徒もオトナならではの痛悔をゆるしの秘跡で話しやすくなるからです。

良心の糾明、痛悔、ゆるしの秘跡を受けたのち、司祭は償いの業を指定します。

日本では、償いの業は主の祈りやアヴェマリアの祈りなどのやさしいものが多いです。

もちろん、本来的な意味での償いの業は短い祈りだけで終わるものではありません。

罪を償う決心とは「罪を招く危険な機会を避ける決意」と向後の行動として行われる必要があります。また、罪を招く機会を自分の内奥からなくすよう、痛悔を続ける必要もあります。

もちろん、良心の糾明、痛悔、告解、償いの決意をしてもなお、またぞろ同じ罪を犯してしまう人は私も含めて大勢いることでしょう。

それでも、定期的にゆるしの秘跡を受けたいという気持ちがあるのなら、少しずつですが神の愛に近づけるようになります。

主はいつも私たちとともにおられます。

しぇるりんも、今年は気持ちも新たにゆるしの秘跡を受け、心新たに降誕節を迎えたいと思います。

 

カトリックの洗礼を受けた平信徒の方々も、ぜひこの際、ゆるしの秘跡を待降節に受けてくだされば幸いと存じます。

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2017年11月17日 (金)

カトリック信徒と「日本教」

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お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

先日、とある教派神道のかなり有識者と思われる方と、ネットを通じてお話しする機会がありました。

その時、しぇるりんは「日本教的な…」というしぇるりん固有の表現を使いました。

宗教人類学的な学術概念としてしぇるりんが創作したコトバで、日本的な意味合いでの「無神論」に通じる、日本でのみ通じる「和」を重んずる倫理観、各種の宗教観が混濁した価値観を表します。

日本では、大正時代の初め頃までは「神仏習合」という東アジア地域で一般的な多神教概念が庶民の心に根付いていたと考えられます。

仏教のさまざまなほとけさん、阿修羅さん、「○○天満宮」さんのように、何らかの理由で特定の人間が多神教の伝統的な地域神として崇められる多神教の神さま、神話、伝承などに基づく神さまなど、地域や「お堂そのもの」のニーズ、夢のお告げなどに応じて祀るような多神教信仰です。

また、地域や共同体ごとに多様な多神教信仰を超える、ひとつの真理がある、という信仰も存在しました。

中国の天道、朝鮮半島の「ハヌニム(天のお方)、ハナニム(ただ一人のお方)」、日本の本州地域で一般的な「おてんとさん」、沖縄、奄美諸島地域の伝統的な「トウトウガナシ」など、捉え方は少しずつ違いますが、違いを超えて「文化や信仰の違いはあっても、人間として共通の何かを感じているだろう」という抽象的な信仰も存在しました。


そのような神仏習合の伝統的信仰が崩れたきっかけは、明治維新政府による神仏分離令です。例えば、同じお堂の中に、仏教の毘沙門天さんとお稲荷さんを祀ってはダメ!と言うわけで、「廃仏毀釈」が行われました。

また、神祇令により多くの神社が建てられ、「政権が徳川幕府から明治維新政府になったから」という、国民には心情的に全く納得の行かない理由で、お寺の檀家だった人々が、「氏子調令」により神社の氏子として扱われるようになりました。

これと同じことがもしも欧米で起こったのなら、大規模な宗教革命を引き起こしたかも知れません。実際に「庶民、農民、農奴など下からの宗教改革」は、カトリック教会の教えとその時のローマ教会の現実の違いに対する、平信徒側のリアクションから引き起こされたからです。

これが、日本では「自分の信じたいものを、それぞれ信じればいい。名目上は、別に掛け持ちでもいいじゃない」という中途半端な帰結に、「なんとなく」たどり着いてしまいました。

亀を助けた浦島太郎が竜宮城に行き、竜宮城で乙姫さんと楽しく遊び、ふと里心がついて帰郷し、ふるさとの浜辺で宝箱を開けたら、「なんとなく歳月が過ぎ、老いて孤立し、居場所がなくなっただけ」という、かなり成り行き任せな昔話を思い起こさせます。

結果として、「名目上は神仏、掛け持ちでいい。個人は信じたいものを信じればいい。」を実際化しようという動きが起きてきます。これが、しぇるりんの言う「日本教」の始まりです。

「日本教」の問題点は、人間なら誰もが感じる人間としての共感力を高めるには、「自分自身の信仰を生きること」を望み、自分自身の信仰を重んずるように、他者がその人の信仰をその人なりに生きることを妨げない、論理的な表現や矛盾律への配慮、そして互いの自由や失態を認め合うためにゆる~い関係性の余地を残しておく、良い意味での「いい加減さ」に欠けていることです。

別な言い方をすれば、「信仰や価値観は、掛け持ちして当たり前。掛け持ちを断っちゃダメ。」という無言の社会的圧力がいまも存在するということです。

↓長崎の26殉教聖人の碑

Unknown キリスト者やイスラム教徒のような一神教の信徒は、「他の神々を信じてはならない」という教えがあるので、「価値観の掛け持ち圧」は、圧力、弾圧と感じられます。

その点について、誠意を持って教派神道の方と話し合いましたが、話はひとまずすれ違いに終わりました。

「自分自身の信仰を生きる」ということと、「たとえ違う信仰の持ち主でも、信仰心のない人でも、それぞれの生きざまの違いであって、人間として本質的に求めるものは結局、似ているのではないか」という気持ちは、国籍、性別、宗教、文化、地域、環境などに関わりなく漠然と、誰もが感じることだと思います。


「日本教」では、宗教の掛け持ち、価値観の掛け持ち、イイトコ取りを奨励します。

現実には、価値観の掛け持ちは信仰心を深め、他者への共感力を深めるための「その人なりの道」を閉ざす可能性が高いとしぇるりんは感じます。

もし、手先の器用な人が一つの工芸に生涯を捧げて道を極めるなら、いつか天下の名工になれるかも知れません。が、手先が器用だからと、織物、編み物、洋裁、和裁、粘土工芸などいろいろな事に手を出したら、どれ一つとして大成する領域に達することはない、器用貧乏で終わってしまう可能性の方が高いでしょう。

価値観や信仰、思想も同じことです。一つの道を真摯に求め続けてこそ、他の道にも通じる何かを会得する道が開けるのだと思うのです。

カトリックの教えは、一つであり、三位一体である主なる神を信じますが、同時に聖母マリアさまや聖ヨセフさまなどが私たちの祈りをとりつぎ、日々支えてくださると信じています。

また、洗礼、堅信の秘跡に際しては「悪の業を捨てますか」「その(悪の業)の栄華を捨てますか」という、エクソシズム(悪魔払い)の祈りに「はい、捨てます」と答えます。


これは、間接的にですが「キリストの名によらない生活を捨てます。信仰宣言にある通りの生活を目指します。他の宗教や価値観を自分の生活の一部としません」という意思表現でもあります。

どんな人間であれ、いのちは一つ、人生は一回です。

一つの価値観や信仰を求めても、なお道は果てしないのに、掛け持ちまでして、あちらこちらに浮気をしていたら、本気で前に進める道理がありません。

だいたい、「日本教」で言いたいことは究極的には、世界中の心ある人間なら、口に出す必要もなく誰もが共有している「互いに違っても感じられる、人間らしさへの共感」に近い何か以上のものではないように感じられます。

日本人同士ですら、日々の生活の中では分かり合えない「日本教的な何か」を、やたら難しいコトバで説き伏せようとするより、まず、違う価値観や信条の人がこの日本の国の中に大勢いて、お互いに相容れない部分がたくさんある、ということを認め合うことが優先事項だと思うのです。

先日の対話で、相手はキリスト教の神は「ゴッド」と呼ぶのだと思っていたと言い、私は「神をどのような名で呼ぶか、キリスト教徒には数千年の論争を経てなお、論議の余地のある大問題である」と主張し、話の決着がつきませんでした。

キリスト教ではカトリック、プロテスタントに共通して「~の名によってアーメン」と祈るほど、神を「どの名で呼ぶか」にこだわります。

「名もなきゴッド扱い」は、キリスト教徒の信仰を蔑む失礼な表現だとその方に申し上げ、その方は失礼を詫びてくださいました。

価値観の違いを尊重せずに「多神教も一神教も大差ないさ。みな、最終的には何となくおなじこと」と主張するのは、まるで飛行機に乗った人と新幹線に乗った人と、自動車を運転する人と、歩いている人に、「移動という動作をしてる点で、大した違いはないさ」と言うのと同じです。

飛行機に乗る人には、飛行機に乗るなりの在り方が、新幹線に乗る人にはそれなりの感じ方が、自動車を運転する人には運転者の責任が、歩く人には足の痛みと日々の歩みの面白さが、それぞれの出会いが、それぞれに違って、互いに素晴らしい人生を歩んでいるのです。

互いの違いを認めない「和」の中では、違う人生を生きる人同士のコトバと意味のやり取りをする、というコミュニケーションが成り立ちません。

同時に「日本教的な立場の方々」も、日本という彼らの価値観の外にいる人々を、日本教的な秩序体系に無理やり押し込もうと説き伏せるのでもなく、一人一人の個人のやり方だと投げ出すのでもなく、文化社会の根本的な違いも含めてどう受け容れたら良いのか、手探りしているのだなと感じました。

こんな時代だからこそ、カトリック信徒側も明確に、キリスト者として社会にカミングアウトする時だと思います。

日本教的な立場の人々に、「個人的な信条は、公的な日本教とは別でしょ」と言われて言い込められてしまうのではなく、しっかりと日本のカトリック信徒として、教会共同体の一員として、キリスト教の信仰を伝承できるカトリック者として生きることが求められています。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年11月14日 (火)

「けんそんの祈り」と「霊的な小心」について

神はあわれみぶかいおかたであるから、あなたはすべてを神のおん手にあかせ、こどもが親にしたがうように、まったく神のみ摂理に信頼せよ。どんな苦しい場合にも、いたずらになやみ苦しみことなく、神のおんはからいにまかせきる心をもて。そうしないならば、あなたは神をうたがい、神の善意をみとめず、神に希望をおかず、神に教えようとする高慢なものとなるであろう。けんそうなものは、そんなことはしない。けんそんの徳は自分をおさえると同時に、神のおん助けにより、神のなぐさめを期待させるはずである。

(レオ十三世《けんそんのしおり》42より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

《アウシュビッツの聖者コルベ神父》の中に、コルベ神父が修練院時代に、「霊的小心」をわずらったという話が出てきます。

霊的小心そのものの症状を語った、数少ない資料です。

『修練院に入ると、まもなく、きわめて苦しい試練にあわなければならなかった。数か月の間、文字どおり、昇進の嵐にもてあそばれたのである…このおそるべき霊的病によって、唯一の薬である従順をますます深めていった。

…かわいそうなライモンド(後のコルベ神父)は、一日に何度も彼(同室の先輩)のところに来て、その「気がかり」を説明し、「盲目的に従っていた」。この英雄的な従順のおかげで、救われ、嵐はやみ、霊魂は再び、晴天を迎えることができた。しかも、それによって、経験をつんだライモンドは、後日、小心な人たちに対して、天使的な忍耐をしめすのである。』(上掲書30頁)

しぇるりんは、不安症状による不眠症で数十年間くすりを飲み続けているから言えるのですが、霊的小心と心因性疾患やストレスが原因で「気がかり、こだわりから離れられない」精神疾患は、全く違うものです。

↓天を仰ぎ祈る、神の御子

F8631e80788acbd1b47eee1d450d8a3d9b 霊魂とは、心や気持ちが昇華した「何か」ではないし、「霊魂」という臓器は存在しませんが、確かに「生命活動に存在として宿る何か」です。

心や気持ちと霊魂は確かに自分の中で違うものだ、と感じるのは、心や気持ちの乱れや落ち着きと、霊魂の「安らぎ」や「小心、乱れ、荒み」が自分の中でバラバラに、または混乱して感じられる時です。

霊的小心とは、明らかに「気がかりに思う必要のないこと」だと気持ちの上では分かっているのに、霊魂が神から見放されたかのように閉ざされたようで、小心になり、自分で何らかの判断を下すことに霊的恐怖を覚える状態のことだと、しぇるりんなりの「霊的小心」に悩んだ時に感じました。

霊的小心は、カトリックの教えに従順でありたいと心から願う人の、霊的歩みの途上によく起こる「霊的一里塚」のようなもののようです。

わたしが霊的小心を患った時に出会ったのが、レオ十三世教皇の《けんそんのしおり》でした。

神のみ摂理に全てを任せるには、どんな苦しい時でも神の善意を認め、神に希望を置きたい、という真心からの気持ちを、神ご自身が内奥から触れてくださる自らのたましいの意志と合うことを心から求められる人に変わりたい、というのぞみを持たなければなりません。

「神の善意を認め、神に希望を」置きたいと真心から思えるようになるきっかけとして、主がそれぞれに相応しい時に霊的小心という一種のトレーニングコースを与えてくださるように思えます。

「気持ち的には落ち着いているのに」「判っているのに」、「心因性の病気ではなさそうなのに」、たましいが小心になってしまう状況は、とても辛いです。

世俗生活をしている私たちが個人でできることといえば、「神のみ摂理が必ずそこに働く」ことへの信頼と希望を、自分の気持ちの中で見失わないことに尽きると思います。

霊的小心は、聖イグナチオ・ロヨラの「霊操」にある「荒み」や、聖マザーテレサの言われる「霊魂の闇」とはまた違う、一過性の霊的状況のことだと私は思います。

一過性の霊的状況である霊的小心を、信仰のつまずきだと勘違いする方もおられるでしょう。

また、信仰の上での悩みと思い違いをして、聖書の勉強会やら、霊的読書で何とかして「キリスト教という知識」を身につけたい欲望に駆られるかも知れません。

霊的小心は、心から神の愛と救いが、自分自身が侮られ、侮辱されることよりも大切だ、というけんそんを本来的な意味合いで受け入れたいと思えるようになると、徐々にですが「まるでなにごとも起こらなかったかのように」消えてしまいます。

霊的小心と心の病の違いは、霊的小心は心身症やPTSDのような「後ひき症状」を全く残さずに消えてしまう点です。

その点、心の病、精神疾患の多くは、再発の可能性のある状態を残しての治癒、または症状と共存できる「寛解」以上には治りません。


その点、霊的小心の嵐を一度、乗り越えると人は少しずつですが小さな人、弱い人や小心な人への共感が芽生え、神の愛の神秘の美しさにめざめるような新鮮な想いを抱くようになります。

けんそんとは、イヤなことがあってもストレスを感じながら我慢するのでもなく、耐え忍ぶ痛みがあっても、神の救いを求める希望がくじけないことのようです。

けんそんとは、とても奥深く、世俗生活の中で揉まれている私たちには、極めがたいもののように思えます。

それでも、少しずつ前に進もうという希望を持ち続けるなら、神の愛とみ摂理がいつも自分とともにあることを知る日が訪れるでしょう。

 

主のみ摂理がみなさんそれぞれの時、状況、場所、思い、言葉、行いにおいて、十善に働きますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。


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2017年11月10日 (金)

「けんそんの祈り」といじめ問題


お元気ですか。しぇるりんです。(T ^ T)

今日は、カトリック、および伝統的なキリスト教でよく用いられる「けんそん(謙遜)」ということばと日本では大勢の人を死に至らしめるいじめ問題について、論考したいと思います。

明鏡国語辞典によれば、「謙遜」とは「へりくだること。自慢したり、高ぶったりせず、控えめであること」とあります。

また、英語の聖書では「humiliate」という言葉の訳語が「謙遜」だと読めます。

しかし、日本語と英語では全くニュアンスが違います。

英語の「humiliate」はオックスフォード英英辞典によれば「自らの尊厳やプライドが傷つけられ、馬鹿にされ、辱められると感じること」とあります。

また、ラテン語由来の類語「humble」は、「自らの尊厳をあえて控えめに、低姿勢にあらわすこと」とあります。

どちらにせよ、「控えめで、自慢しない、高ぶったそぶりを見せないことで、教養ある人のたしなみを示す」という日本語の意味合いとは、全く違います。

「けんそん」とは、実際に傷つき、痛み、馬鹿にされ、辱められてなお、その痛み、苦しみより神の愛と救いを求める、という希望と福音宣教のこころざしに満ちた想い、ことば、行いをあらわすのです。

「いじめ、いじり、いびり」の「三つの『い』問題」が、日本のもっとも深刻な社会問題として露骨に表面化しつつあります。

社会的弱者は「存在することが迷惑」だなどと言う言動、時に暴言、暴力など、「三つの『い』」を「社会正義を行なっている」という大義名分で行う人がいます。

相手の存在を否定する人は、みずからの存在を否定意義を否定しているのと同じです。

自分が他者をはかったものさしでしか、自分自身を計れないのが人間の悲しい本性だからです。

相手が弱者ならいくらその人の尊厳を傷つけ、賤しみ、あざけっても問題ないと考える人が、キリスト者の中にもいることは、とても残念なことです。

わたしが「七の七十倍、わたしを傷つけた人を赦した」としても、わたしが赦したその人自身が「その人自身が心から回心し、罪悪感を持ち、心から謝罪したいと思うようになり、自らをも赦せる」ようになるとは限らないです。

先日、ネットのニュースで滋賀県大津市で6年前にいじめ事件を起こした加害者が「いじめをしたわけではない」と法廷で言いながらも、「6年間、忘れたことはない。本人に謝罪したい」と初めて述べたそうです。

弁護士に言われるがまま、謝罪の言葉を口にしただけかも知れません。謝罪されても、自死された生徒さんのいのちが元に戻るわけではありません。

それでも、少しずつ加害者が「一人の人間を死に追いやった。自分は何かとんでもない罪を犯した」という罪悪感が、成長するにつれ本人なりに湧いては来たのだとすれば、改心の希望が少しは生じた可能性もあります。

被害者のご遺族は、当惑されたようです。法廷で言えば民事賠償金額に影響があるという世俗的な損得勘定を理解した、とも取れるし、「いじめ加害者」としてみずからがあざけられた結果、本人に罪悪感が芽生えたのかも知れません。

どちらにせよ、加害者が真のけんそんを生きることは、被害に遭った人やそのご遺族より難しいのでしょう。

↓レオ十三世(1978-1903在位)

400pxleo_xiii さいごに、レオ十三世教皇の「けんそんのしおり」にある祈りをともに唱えましょう。

心の柔和、けんそんなイエズス、

私の祈りをききいれられよ。

とうとばれようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

愛されようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

もてはやされようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

うやまわれようとののぞみより

イエズス、わたしを救われよ。

賞賛されようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

相談をもちかけられようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

ていねいにあつかわれようとののぞみより

イエズス、私を救われよ。

はずかしめられるおそれより

イエズス、わたしを救われよ。

軽んじられるとおそれるより

イエズス、私を救われよ。

拒絶されるおそれより

イエズス、私を救われよ。

ざんげんされるおそれより

イエズス、私を救われよ。

おき忘れられるおそれより

イエズス、私を救われよ。

あざけりを受けるおそれより

イエズス、私を救われよ。

ののしりを受けるおそれより

イエズス、私を救われよ。

うたがいを受けるおそれより

イエズス、私を救われよ。

自分よりもほかの人が愛されることを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

自分よりもほかの人が尊重されるのを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

自分よりもほかのひとがよろこび迎えられるのを好むよう

イエズス、私を助けられよ。

自分はしりぞけられ、ほかの人はもちいられるのを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

自分はみすてられ、他の人は賞賛されるのを喜ぶよう

イエズス、私を助けられよ。

すべてにおいて他の人がさきにえらびだされるのを喜ぶよう

イエズス、わたしを助けられよ。

自分の徳がすすめば

ほかの人はそれ以上完徳にすすむことを喜ぶよう

イエズス、わたしを助けられよ。

完徳への道は遠く、険しく、世俗生活の中では念じて、祈っても、現実の前では全く無力だと感じ、希望を失いがちです。

どれほど無力であっても、希望だけは保ち続けられるよう、「けんそんの祈り」を唱えましょう。

 

主キリストは、わたしたちそれぞれにいちばん相応しい希望の道を、必ずお示しくださいます。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。


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