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2017年8月22日 (火)

カトリック教会での聖書の読み方:みことばの「場」にいる

主は(預言者エリヤに)「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。

見よ、そのとき主が通り過ぎていかれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。

風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。

火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。(列王記上19:11~13a)

お元気ですか。しぇるりんです。(^-^)

冒頭の聖句は、映画「サン・オブ・ゴッド」の中で何度か唱えられた箇所で、年間第19主日の第一朗読です。

預言者エリヤに主のみことばが臨み、干ばつを預言したため、たびに各地を彷徨い、疲れ果て「わたしの命をとってください」と懇願するほどの苦難の旅の末、ホレブの山でみことばを通じて主と「顔と顔を合わせて向き合う」、感動のシーンです。

主のみことばは、知識として覚えようとすると、却って「右の耳から入って、左の耳に抜けていく」傾向があるように思われます。

↓映画「サン・オブ・ゴッド」(公式ツイッターよりお借りしました)

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映画「サン・オブ・ゴッド」では、ヘブライ語の歌とユダヤ教のものと思われる、古典的な旋律が多く歌われました。

みことばを歌い、詩として唱えることで、主の愛、いつくしみ、真理、希望が心に染み入るのは昔も今も変わらないのでしょう。

もしかしたら、ヒトの最初の言語はことばにならない呻きから、詩と歌がどこかから湧き上がって来たのが起源ではないかと、しぇるりんは何となく思っているのです。

神父さま方は、ミサの説教で「聖書で読まれた場にそれぞれ自分がいると感じられる」よう、祈りのうちに工夫を凝らしておられます。

そのため、説教を考える際には「司祭個人の霊的読書の祈りそのものを、説教にしない方が望ましい」という考え方もあるようです。

それは、司祭がひとりのカトリック者として霊的読書の祈りと向き合うことと、「その日、その時のミサに与るすべての人々が、それぞれの想いを抱いたまま『みことばで読まれた、まさにその場にいると感じられる』ための説教」は本質的に違う、という意味合いらしいです。

例えば、福音書の「二匹の魚と五つのパンの奇跡を男だけで5000人の群衆に分け与えられた奇跡」が読まれたとしましょう。「自分がこの『場』の誰の立場いたら、どうしただろう?何を感じただろう」と思い描いてみるのです。

まず、イエスさまの周りには増えていく群衆の期待を誇らしく思うみ弟子もいれば、「こんなに大勢の群衆が集まってしまった。厄介ごとが起きたらどうしよう?」と心配するみ弟子もいたでしょう。

増え行く群衆に追い回されて、イエスさまが父なる神との祈りと静けさを切望する、多少疲れたような眼差しに気づいて、「どうしたら、イエスさまのお気持ちを和らげられるだろうか」気遣いしたみ弟子もいたでしょう。

群衆の中にも「メシア=世俗的な苦しみから救済する預言者」を期待する人、洗礼者ヨハネの後継者ではないかと思う「洗礼者ヨハネの追っかけ」、「何だか分からないけど、預言者とも律法学者とも違う何かが魅力的で…」取るものも取り敢えずついて来た人、病気の癒し、悪霊払いを求める人、障害者、病者など、さまざまな人がいたでしょう。

中には、ファリサイ派や神殿祭司らのスパイもいたでしょうし、当然のことながらローマ帝国側の諜報関係者、非ユダヤ教徒の「イエス派」の人々もいたでしょう。

いろいろな立場や思惑のある人々がいる中で、自分の「今日の眼差し」を、ある一点に置いて、主との出会いを観想して見ます。

例えば今回は、二匹の魚と五つのパンを持った少年の眼差しから、このみことばの場面に身を置きましょう。

しぇるりんの描く少年は、「まるでサーカス団の後をついて行く好奇心いっぱいの子どものように」、熱に浮かされたように両親に何も言わず、台所のパンの入った袋を引っ掴んで勝手に家出し、イエスさま一行について遠くまで来てしまった、やんちゃ君です。

「主の人なんだ。すごい方なんだ」と叫びつつも、映画のスーパーマンと救い主の区別もつかない大きな子どもです。

群衆について高い山の見えるはるか彼方まで来てから、彼はきっと、ふと正気に返ったのです。「困ったな」と。育ち盛りなので、お腹が減って現実に立ち戻ったのかも知れません。

「どうしよう。今、自分がどこにいるのか分からない。どうしたらいいのだろう?」。

大人の助けが必要ですが、世間知らずの子どもを助けてくれるほど甘い時代でないことは、少年自身が身に沁みてよく分かっています。

その時、少年の目にイエスさまの慈しみ深い眼差しとふと目と目が合ったのです。

この人ならきっと、自分を助けてくれる。でも、どうやって近づいて、助けを求めたらいいのだろう。

やんちゃ坊主は手土産を持って行けばきっとイエスさまは喜んでくれると、素朴に考えました。彼が魚を漁り、家に帰れば、家族一同とても喜んでくれるからです。

そこで、イエスさまのみことばに耳を傾ける大人を尻目に、せっせと魚捕りをしました。

やっと取れた魚は二匹。そして、持っていた袋に入った全てのパンと魚二匹をイエスさまに渡そうと、近づいたのです。

み弟子らは、少年の好意に深く感謝とねぎらいのことばをかけたでしょう。でも、少年の好意が「男だけで5000人」の群衆とイエスさまと弟子たち一行の空腹を満たせるとは誰も思わなかったのです。イエスさま以外は。

イエスさまは、少年のすべてを観ておられました。


そんな少年の行いに対して、難しいことばで語るのではなく「二匹の魚と五つのパンを父なる神に捧げ、感謝の祈りをした後、5000人に分け与えてなお、七つの籠に残りのパンがある」奇跡を通じて、少年に直接「主なる神」を示されたのです。

少年は、自分の捧げた食べ物が「奇跡のように増えた」のを観ただけではありません。彼の子どもらしい真心は、とてつもない奇跡を通じて主の愛の分かち合いの中で報われたのです。

イエスはおそらく、この少年が帰宅するために大人の助けが必要なのもよくご存知で、後刻、信頼できる人に少年を託したことでしょう。

家からパンを袋ごと盗み出し、勝手に飛び出したことを両親から責められるのではないかとビクビク怯えていた少年は、イエスの行われた主の慈しみと奇跡の中にいた経験を通じて、新しい人に生まれ変わるきっかけを得て、少年から男への第一歩を踏み出したのではないでしょうか。

聖書には「少年は二匹の魚と五つのパンを差し出した」とだけあります。

しぇるりんは、自分自身の想いを少年の場に自分を置いて、しぇるりんなりの「みことばの『場』」を自由に思い描いて見ました。

《聖書》はあまり多くを語りません。

淡々と事実を語るドキュメンタリータッチではありませんが、主との出会い、神の子であるイエス・キリストと人とが出会ったまさにその時の「眼差し」を、世の終わりまで簡潔なみことばで語り継ぎます。

このブログをお読みになる皆さんも、それぞれの日々の生活のなかで、その時々の想いの中で、親近感の湧く登場人物を探して見てください。

必ずしも《聖書》の記述にある誰かでなくてもいいとしぇるりんは思います。大勢の群衆の中に「こんな人、いるいる!」と思える誰でもいいのです。

イメージが思い浮かばなければ、映画「サン・オブ・ゴッド」、「復活」、「パッション」、「十戒」、「ベンハー」などを参考にしてもいいでしょう。

今は古いキリスト教関連の映画もデジタル・リマスター版になり、画質のいいDVDがレンタルで安く借りられます。

多分レンタルなら見られそうで、しぇるりんの心に残る映画は、イタリア映画の「マルセリーノ・パネヴィーノ」という作品です。托鉢に出た修道士二人が、捨て子の男の子の赤ん坊を拾うところから、ストーリーが始まります。とても、魅力的で純粋な信仰が描かれていて、大好きです。

どうぞ、お時間のある折には、書物としての《聖書》や<聖人伝>だけでなく、キリスト教関連の映画もご参照ください。

みなさんの心がイエス・キリストと出会えますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年8月18日 (金)

カトリック教会での聖書の読み方:イエスが生きた場の感覚で聖書を読む

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書1:1~5)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

しぇるりんが7歳ぐらいの時に、イエスさまの時代、聖書の時代は日本では想像もつかないほど、厳しく、果てしなく広がる砂漠と岩山で、飲みたい時にお水も自由に飲めない、ものすごく違和感を感じる場所だ、と何となく感じた時期があります。

森林があり、海あり、山あり…の景色に比べ、おそろしく殺風景なかわりに、ものすごく遠くまでよく見える光景を思い描きました。

日本では、北海道のような広々とした場所以外で、地平線のかなたまで見渡せる場所はほぼありません。水辺で水平線の彼方が見渡せる場所ならたくさんあります。

こういった景色の違いは、口碑伝承や昔話にも表れています。

日本では、オニがいる「鬼ヶ島」も、乙姫が住む竜宮城も「水平線の彼方」としてイメージされています。これは、沖縄の「ニライカナイ」、奄美諸島の「トウトウガナシ」という島の神は「ある種の水平線の彼方にいる」と概念されていることを思い出させます。

砂漠では、私たち人間が立つ大地と陸続きの地平線が、主なる神がいるかもしれないはるかかなたの海や湖の水平線へと直接つながっているのです。砂漠に生きる人に見える原風景は、《聖書》の発祥地を理解する上で重要です。

《聖書》の舞台は、人類発祥の地からの「アウト・オブ・アフリカ(アフリカ大陸から、人類が他の亜種に進化せずアフリカ大陸の外に移動、遊牧したことを指す)」を遂げた人類が、最初に到着した地域の記憶をたどっています。

「雄牛が群がってわたしを囲み

 バシャンの猛牛がわたしに迫る。

 餌食を前にした獅子のようにうなり

 牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。」

(詩篇22:13~14)

人類発祥の地で発見された、アウストラロピテクス・アフリカヌスの発見地は「最初の人類の住処」ではなく、「猛獣のお食事処」だったという学説があります。

最初の人類が猛禽類やヘビ、虫などに対して弱く、まったく無力に近い存在であったことは、《聖書》で語られる「人間観」の根底にあります。

日本を含むアジア諸国は、家族や家族集団などの文化を形成した後の人類が、幾度かの氷河期を経て大移動を繰り返す間に初期人類の記憶との接点を失ったあと、ある時点で「その地の文化を始めた」ためでしょうか。

遺伝子情報としてはアフリカ起源の情報を持っていても、初期人類の徹底した弱さの記憶に違和感をおぼえやすいのかも知れません。

日本人が家族集団への共依存性を脱却しづらいのは、「人間は孤独な存在だ=絶望的に孤立している」気持ちを超えることが家族集団を否定する、と感じる傾向があるかもかも知れません。

そのため、初期の人類の記憶を直接たどる《聖書》の人間観はとても不人情に感じるかも知れません。また、「自分や他者の死」と向き合うことばが直截的すぎる点に、ショックを受けやすいのでしょう。

日本人が陥りやすい「孤独=何でも一人で勝手にしろ」は、敵意に満ちた考えだと《聖書》は解きます。

アフリカ大陸でまだひ弱だったヒトの小さな家族集団で、病み、老いたヒトの祖先の一人が再び歩くことも叶わなくなった光景を思い浮かべてください。地平線の彼方のあちらこちらで「ヒトというご馳走の死」を、舌舐めずりして見守る猛禽類に囲まれたとしましょう。集団の全滅を避けようと、致し方なく家族集団が彼から離れざるを得なくなった時、何の苦しみも悲しみもなく彼から離れたでしょうか。


当時の家族集団とて、死にゆく家族との別れははらわたが散り散りに引き裂かれるほど辛かったでしょう。

《聖書》は離れた所にいる家族や集団が、死を迎えようとするヒトの祖先を最後まで見守ったと伝えています。

彼を最後まで間近に看取るためには、猛禽類を追い払える投槍のような武器の発明や洞窟のような隠れ家を探す技術的な知恵、知識が必要でした。

その時まで「死にゆくヒトを見つめる」ことに、生きているヒトも、死にゆくヒトも耐え続けました。

しかし、ヒトを死の恐怖から救うはずだった投槍などの武具や戦術の発見は、ヒトとヒトの争いを引き起こしました。

ヒトの祖先がアフリカ大陸にいた痕跡は、猛禽類らの「食後のお残り」だと考えられています。一方、中東、欧州、ロシアなどで発見された古代人類の遺骨の多くにはヒトとヒトの戦闘による負傷の痕跡が見受けられます。

知恵が戦いではなく、平和をもたらすには真理と愛の源である神の介入が必要だと考えたヒトのある者は、神に祈り、断食しました。

自分が死にゆく時、神と共にいることこそが真の幸いだと《聖書》は語ります。

冒頭の聖句は、神は言(ことば)で神ご自身とその真理を、わたしたち人間に示されたことを示しています。


ヒトは、未開の民族であっても複雑なコトバを駆使し、うたい、詩を詠むことで、何らかの真理やいのちとのつながりをコトバであらわします。

↓戦前戦後に読まれた《大正改訳新約聖書》明治学院大学図書館データベースより引用

Taishokaiyaku_photo02 キリスト者にとって、神の言は揺るぎない真理をあらわすもので、ヒトの言葉(ことのは、巧妙な言い回し)とは決定的に違うとヨハネ福音書の冒頭の聖句は語ります。

なぜなら、どんなに孤独な時であっても「言は神と共にあり」「主なる神はわたしと共におられる」から、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。(詩篇23:4)」のが、キリスト者の信仰だからです。

どんな孤独な苦しみのうちにあっても、大勢の生者と死者と共にいるという実感を教会共同体の中で感じ希望は、いつもわたし達のたましいのどこかにあります。

人の肌の温もり、共同体の温かさみたいなものへの恋しさはすべてのヒトにあります。

私は恋しいほど温かい共同体のぬくもりを感じた経験が今までの人生で全くありませんが、福島県の帰還困難区域の方が「以前の共同体のぬくもりを喪失した」喪失感に耐えかねて自殺されたりしたのを見聞すると、家族の温もり以上に恋しく思えるほどのあたたかさが、その方の日々の生活の中にあったのだろう、と想像してみます。

同様に「神の言がもたらす愛といつくしみ」への慕わしさも、人のたましいにとっては切なる想いです。主なる神は、歴史的、地理的、文化的な思い入れの違いをすべてを超えて、わたしたちのたましいに愛を直接注いで下さるからです。

とても哀しいことに、人間的な全ての関わり合いは人間自身が破壊してしまうこともできます。人間は、自らを破滅に追い込む知恵の負の連鎖、憎しみ、ねたみ、自らの死への恐怖や好奇心を抑えられない「原罪」を、知恵のパンドラの箱を開けた時に得たのです。

ヒトは生まれる時、母の胎から生まれ、良くも悪くも多くのヒトに出会うことで、生命をいただき、成長します。

死の時、「自分はたった一人で苦しみ、死んでいく」と「自分と他者のいのちの重さ」について感じ入りながら死を迎えるのもヒトです。

ヒト以外の個体も死ぬ時には苦しんでいると思われますが、彼らはおもに「生命ある間、生きていること」が大切なようです。

キリスト教における普遍性(Catolica)とは、特定の文化、地理、慣習や民族、部族集団、見た目上の違いを超えて「主なる神と『いま、生きている人、自分』をつなぐ聖三位一体の臨在」にあるとしぇるりんは思います。

そう考えると、イエスさまが生きた時代の特殊性、当時の混乱した社会情勢と現代との違いが浮き出るとともに、いつの時代にも「こんな人、いるいる!」と思える人が《聖書》には大勢出てきます。

わたしたちキリスト者は、たんに神の知恵を盗めればいいという思いで《聖書》、「主のみ言」と向き合ってはならないと思います。

主なる神から得た知恵は、神の民である教会共同体への奉仕や主が愛する貧しい人々への愛や祈りを通じて、主に近づくことこそ、真のキリスト者のなすべきことだからです。

どんなに絶望的な孤独の中にいても、キリスト者はキリストの愛と慈しみの共同体と共にいます。今は、リア充な教会共同体と距離のある方でも、真にキリスト者であれば「たった一人の信仰者」になることは決してありません。

日本ではキリスト者とその信仰を「それは個人的な問題だ」と見たがる傾向があります。

しかし、キリスト教徒は教会共同体に結ばれていてこそ「キリストとつながりのある人=クリスチャン」となのです。

教会共同体と神の愛の交わりに関わることを拒む人が、仮に好奇心や学術目的で《聖書》を読むだけなら、単に《聖書》の知恵を自分に都合よくひょう窃しているだけです。

《聖書》に知恵や、サスペンスを紐解くヒントを求めること自体が悪いとは申しません。

しかし《聖書》のみ言を通じて、イエス・キリストと出会えないなら、読んだ人のいのちにとって意味ある思い、ことば、行いへとつながらないのではないか、と憂慮します。

 

どうか、みなさんが主イエス・キリストと日々の生活の中で出会えますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年8月15日 (火)

カトリック教会での聖書の読み方:聖母マリアの執り成しを通じて読む

お元気ですか。しぇるりんです。(^_^)

今日は、2017年8月15日。被昇天の大祝日です。

聖フランシスコ・ザビエルは1549年の被昇天の大祝日に鹿児島に上陸したと伝えられ、日本を被昇天の聖母マリアに捧げられました。

カトリック教会というと、聖母マリア像がある方の教会だと思われるほど、殆どの教会に聖母マリア像が掲げられています。

これは、日本人は母性愛的なものへの親和感が、父性愛的なものへの親和感より強いから…などとも言う人がいますが、日本での困難な宣教活動は全て聖母マリアのみ恵みに支えられて来た、日本のカトリック宣教師や信徒らの実体験に基づいたものです。

《聖書》、特に福音書を言葉通りに「イエスさま=ヒーロー的な神の子、福音書の唯一の主人公」として読んでしまうと「イエスさまは苦しみのうちに生まれ、難民の子としてエジプトに逃れ、大工の子として育ち、荒野でただひとり悪魔の試練に打ち勝ち、み弟子らを率いて困難な宣教の旅を数年続けたのち、イスカリオテのユダの裏切りで無罪の罪で弾劾され、鞭打たれ、十字架を担うご受難とご苦難の中で死に、栄光のうちにご復活になった」というイメージをもってしまいがちです。

このイメージだと、まさに「過酷な砂漠で繰り広げられた、十字架の赤い血のしたたる階段」を決死の覚悟で登りつめねばならないという過度に厳格主義的な何かが、イエス・キリストへの信仰への糸口であると思い込みがちです。

主イエスも神の子でありながら、人間の赤ん坊として聖母マリアさまからお生まれになりました。決して、天からイエスさまお一人で天使のように降って来たわけではありません。

神の子の養父となられた聖ヨセフを、人間の赤ん坊としてこの世の父と仰ぎ、天使のお告げによって受胎された乙女マリアさまの胎からお生まれになりました。

主なる神への従順を生きる両親のもとで、イエスさまは人の子としてご両親への従順、関わり合い、多くの人々と触れ合いの中で、主なる神と人々とをひとつに結ぶ存在として、マリアさまの胎から生まれ、成長されたのです。

聖母マリアさまを通じて福音書を理解することは、イエスさまも人の子として、人々とのつながりの中で神性と人性を生き抜かれた生涯を人間の側から「観想する」ことを意味します。

聖母マリアさまは、原罪を免れたけがれなきお方ですが、私たちと同じ人間であられます。

聖母マリアさまを通じて福音書を読むなら、神の子というマリアさまご自身も手の届かない存在を我が子として産み、育てた、み母のまなざしの向こうにおられる主なる神がぼんやりと見えて来ます。

アッシジの聖フランシスコは「聖母マリアの白い階段を登りなさい」と言われました。

主へのへりくだりと信頼のうちに、主イエスが担われたのと同じように自分の十字架を背負って生涯歩み続けるには、私たちはあまりにも幼く、ひ弱で、罪深いです。

そんなひ弱で、意志も信仰も口先だけに終わりがちな私たちが、ちょっとばかり「信仰告白をしました」でいきなり赤い血みどろの十字架を担ぐには、この世はむごく、おそろしいことが多すぎます。

その上、誰もが「他人の十字架は自分の十字架より軽いに違いない」と思いがちです。つい他人と比べて「自分はもっと辛く苦しい」と思いがちなのが人の常なのです。

聖母マリアさまは、神の子としてイエスさまが父なる神さまの十字架を担うに相応しい大人に育つまで、天的母の愛といつくしみで注意深く見守って来られました。

イエスさまが幼子であった時にはふところに抱き、ヨチヨチ歩きだった頃には手を取り、少年だった頃には必要な衣食住を与え、必要な教育を施された聖母マリアさまだからこそ、私たちが自分の十字架を担うには常にみ恵みに満ちた支えが必要であることを、天のみ国のどなたよりもご存知なのです。

↓被昇天の聖母

Asv だからこそ、マリアさまは私たち一人ひとりが自分の十字架の重荷に耐えかねていると感じる時には、み恵みや恩寵の「甘いお菓子」を下さり、私たちが主イエスさまへの信仰の道を従順に歩み続けられるよう、支えてくださいます。

私たちが「○○をください」と言って、それが必ず与えられるわけでもなく、時に肩透かしを食うこともあります。また、病いの改善を祈ったら、怪我した挙句に他の病気になってしまうこともあります。

でも、振り返って考えてみると、そこには必ず聖母の慈しみ深いみ手が働いていたことに気付かされます。

主イエスが十字架の道行きで示された限りない謙遜、愛といつくしみへと私たちを導くため、日々の生活の小さな事柄の隅々にまでみ恵みが行き届くよう、常に聖母に祈るすべての人を見守っておられるのです。

神の計画は、私たちの小さな人生の中では計り知れません。

何が、どのように神のみ旨にかなうことなのか、わたしたちには分からないのです。

だからこそ、聖母マリアの執り成しを求めつつ、霊的読書の祈り(レクチオ・ディヴィナ)を通じ、福音書に接することは大切です。

カトリック信徒の中には、「マリアさまご利益教」状態に陥っている人を多々見かけます。

これは、聖母マリアさまがわたしたち神の子どもを、主イエスのもとに導くためにみ恵みやたまものを願ってくださることをまるで、「マリアさまは誰にでもみ恵みをタダで、ご利益のように下さるのだ」と勘違いしているからでしょう。

使徒やみ弟子ら、洗礼者ヨハネがイエスさまに出会った時、既にイエスさまはひとりの大人の人間でありながら、神の子として主の道を歩む全ての準備が整った方でした。

その点、マリアさまはイエスさまがお生まれになる前から確かに神の子であると実感しつつ、オムツをしている幼子の時代からイエスさまを人間としてお育てになったのです。

だからこそ、マリアさまは私たちの弱さ、至らなさ、つまずき、苦しみ、悩み、物質的な不足、求職活動が上手くいかないなど、さまざまな私たちの小さいけど切実な悩みが解決できるよう、心を配ってくださるのです。

私たちがイエス・キリストと共に自らの十字架を担い、キリストの御受難と死とご復活の神秘へと招いておられる主なる神の御心にかなう者となれるよう、聖霊は何の代償も求めずに導いておられるからです。

マリアさまの白い階段とて、スイスイと昇れる時もあり、ズルズルと落ちてしまうこともあるでしょう。上り階段を見上げると気持ちがしんどいと思うことも、多々あります。踊り場に座り込んで、休みたい、動きたくないと思うこともあります。

そんな私たちの日々の弱さを支えてくださるのが、聖母マリアさまへの祈りと、御母の執り成しです。

被昇天の聖母の大祝日に、聖母マリアさまのみ恵みを求めて祈ります。私たちがいつも、御母マリアさまを通じて主イエス・キリストの愛といつくしみに信頼して日々を過ごすことができますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年8月11日 (金)

カトリック教会での聖書の読み方:福音書の文脈の中で

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が、わたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するティオフィロさま、わたしもすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。(ルカによる福音書1:1~4)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

「《聖書》は、単なる一冊の本、または○×全集のようなものではなく、キリスト教の教えについて書かれた多くの書を集めたものです。《聖書》の中の一つの書が、ひとつの『図書館』のようなものです。つまり、一冊の聖書は、何十もの図書館にある、主なる神のみ教えのエッセンスなのです」と長野にあった三位一体聖ベネディクト修道会におられた聖書学者、トマス神父は言われました。

《聖書》中で、霊的読書の祈り(レクチオ・ディヴィナ)を行う時に読まれるのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音四書です。

これらの福音書は、冒頭の聖句にあるように、イエス・キリストの教えを霊的たまものとともに受け、キリストへの信仰を告白し、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた全ての人に「受けた教えが確実なものであることを、よく分かってもらいたい」と使徒らが切望し、書いたものです。

当然のことながら、福音書の内容も「イエスさまが十二使徒や弟子らと生きておられた」時代精神を色濃く反映しています。

史実の地理学的側面を問うなら、帝政ローマの植民地であったユダヤの地が、今の場所と厳密に同じかどうかも史学者の意見の分かれるところです。

エルサレム攻囲戦(70年)の37年前ぐらいに、イエスさまは十字架上でご受難と死を受けられました。そのため、当時のユダヤにあったキリスト教関係の史跡もまた、エルサレム攻囲戦でほぼ全焼したエルサレムの神殿や街とともに焼失したと見るべきでしょう。

そのため歴史学的な面から見ると、帝政ローマやギリシャ、使徒たちが伝道旅行でたどった各地に残った記録、使徒やみ弟子らが「神の子との出会い」について書き残した文書や記録、そして使徒伝承の初代教会にごく近い世代の教父らが書き残した口碑伝承を文書にしたもの、および最近になって発見されたイエスさまの前後の時代の発掘遺跡などの史料から紐解かねばならないでしょう。

イエスさまが生きた時代はさまざまに描かれていますが、史実のすべてを明らかにするには、まだ道のりが遠いようです。

使徒らは福音書に「私はこのようにイエス・キリストを体験した」について書いたわけではありません。

み弟子らがイエスの生、死と復活をイエスとともに体験し、互いにイエスとの出会いを分かち合い、聖霊の導きの中で体験した生涯の多くの事柄の中から「主なる神が世の終わりまで全人類に伝えようとしたこと」、をいちばんよくあらわしている出来事を厳選したように見えます。

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだまだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう(ヨハネによる福音書21:25)」

イエスの当時という、ごく限られた数十年~100年ぐらいの間のことですら「世界もその書かれた書物を収めきれない」からこそ、使徒らは聖霊のみ恵みによってあかされた主キリストに誰もが御言葉を通して世の終わりまで出会えるよう、福音書を私たちのために残したのでしょう。

従って、聖書のどの部分であれ「聖書原理主義的」に理解してはなりません。

例えば<創世記>にある天地創造の神秘は、進化論という学説を学ぶことを妨げないと言えましょう。

それは福音書も同じです。

平信徒が聖書、特に福音書を読むべきと第二バチカン公会議以降にカトリック教会で言われるようになったのは、「平信徒もそれぞれの人生の中で、自分に与えられた時のしるしの文脈の中で福音書を読み直しなさい」という、「霊的読書の祈り」の考え方に由来すると思われます。

ほんの一世紀前まで、イエスさまが十字架につけられる前に鞭打たれた故事に倣い、お互いに「鞭打ち業」や「鎖帷子を肌につけてイエス・キリストの受難と苦痛を観想する修行」を行なっていた修道院が、カトリック教会にも多くありました。

聖書原理主義的な脈絡の中で行われたわけではないにせよ、「文字通り」に福音書を読み、言葉通りに模倣しすることで、イエスさまに近づこうとしていました。

キリスト教が世界に広まり、宣教地から欧州、米国、中東地域へとフィードバックされるにつれ私たちは、キリストのみ顔をアジア諸国の伝統の中に、神話やヨガなどのアジアの伝統文化、貧しい人々への奉仕や社会活動の中にも見出せることを知ったのです。

20世紀以降の高度な識字教育と論理的思考能力の一般的普及は、比較的多くの人が、抽象的で象徴的な概念をより的確な言葉で捉えられるチャンスを与えてくれました。

また、心理学や哲学の発達と普及、そして多様な世界に開かれた世界を体験することで、私たちがそれぞれの多様性の中で、自分なりに福音書の教えを理解できる知的土壌をとなりました。

時代の変化に伴い、平信徒も単純な信心業の繰り返しで何となく生まれ育った伝統に従って信仰へと向かうのではなく、自分の複雑な気持ちを大切にし、自分で納得できる信仰を持てる方がいい、と考えるようになったのです。

《聖書》は抽象的な哲学の書ではないことを、いちばん如実に示しているのもまた「福音書」です。

福音書は、「私が今生きるこの日々の中でイエス・キリストに出会ったら、イエスはどうなさるのだろう?」と常に私たちに問い続けているからです。

《聖書》の中で<福音書>は、旧約聖書の時代に預言されて来た、政教一致が当たり前だった古代社会には考えられなかった、政治活動や人間集団の栄枯盛衰とは全く次元の異なる「主との出会い」を表しています。

原罪によって主なる神からぶ厚い壁のようなものに隔てられた人間が、主と直接に出会える道を示す「インマヌエル」、「救い主」の訪れと、人として生まれた神の子の「御言葉」をイエス自身の言葉で語る点が、他の書簡や預言書とは異なります。

旧約聖書の預言書は主に、主なる神と預言者はどんな風に対話しました、するとどんな歴史的事件がありました…という書き方です。また、歴代のユダヤ王と預言者、ユダヤの民の関わりについて書き記しています。

その他に、知恵のみ恵みを受けた預言者の格言やことわざ、文字文化以前の口碑伝承(口から口へと伝わった神話、伝説などのこと)などをある時点で文書化したもの、ダビデ王が監修したと言われる詩編の歌などが《旧約聖書》に収録されています。

《新約聖書》を見ると、使徒言行録には、使徒たちが使徒伝承の教会共同体の基礎をつくるまでの活躍が描かれています。


その後に続く使徒書簡は、聖霊の導きを受けた使徒誰それは、どこの教会共同体にどんな良い勧めをしました、という内容です。

そして、キリスト教の「世の終わり」の教えを「啓示」というカタチで描いた<ヨハネの黙示録>が巻末にあります。


それらすべての聖書の御言葉は、キリスト教の信仰においては、福音書に書かれたイエス・キリストの脈絡の中で理解されねばなりません。

↓「死海文書」が発見されたクムラン遺跡
O0543042713807641074 イエスさまの誕生、成長、人として送られた日々、宣教の旅、御受難、十字架上での苦しみと死により、神の子でありながら人間の中でもっとも苦しく惨めな生涯を送られました。

その後、黄泉に下って死者の国を人間と同じように経て、三日目にご復活になり、み弟子らを教会共同体へと導き、天に昇り、地上に聖霊を遣わし、天のみ国を私たちに示し、聖三位一体の主なる神を全人類に示されました。

「信仰宣言」「使徒信条」「二ケア・コンスタンチノープル信条」に簡潔にあらわされ、「主の祈り」に込められたイエス・キリストとの親しい霊的な交わりを通じて、私たちは《聖書》を、「わたしと共に歩いてくださる主」の御言葉として少しずつ受け容れられるようになるのです。

福音書は、高度な哲学、神学的な教えや深い信仰を求める高邁な学者や聖なる方々から、平信徒で何となく「よく分からないけど、キリスト教的な何かを求める気持ちがないわけじゃない」「何となく救われたい」私たちにも、同じイエス・キリストを通じ、ひとつのキリストの教え、ひとつの真理、ひとつの愛、ひとつの慈しみ、ひとつの希望を示す書なのです。

賢い読書家や哲学に精通した方々には「えっ、たったそれだけなの?」と反論されるかも知れません。

福音書を読むだけなら、その気になれば小学校高学年の語彙力で「読むだけならどうにか読める」ように書かれているので、肩透かしを食らった気になりがちです。

細かく言えば、福音書の歴史的考察も必要でしょうし、当時の時代精神やユダヤ文化、ローマ文化や既に流入していたギリシャ文化ですら知る必要があるのかも知れません。

また、それぞれの時代にあった誤解から来る人間的な誤謬の修正や解釈、キリストの教えの解釈や理解の無謬性の有無の再検証、現代の視点での福音書の読み直しも世の終わりまで、続けられねばならないのでしょう。

ある部分は史学者、神学者、哲学者、言語学者などの様々な分野の専門家の研究領域でしょうし、いまの時代に即した福音書へのアプローチは教皇書簡などであらわされています。

難しいことは私にはよく分かりませんが、私たち平信徒はそれぞれの生から死へと向かう日々の友として、福音書の御言葉を大切にしたいと思うのです。

福音書を全て読むのが大変なら、使徒信条を祈りましょう。


使徒信条の短い文章の中に、福音書のエッセンスが全て示されています。


ルルドの聖母さまの執り成しを求めて祈ります。被昇天の聖母祭を迎えようとしている私たちが、日々の生活の中で福音書に示された御子イエス・キリストがいつも共におられることを感じられますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年8月 8日 (火)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:それぞれの「家族」のイメージと現実


お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

皆さんは「家族」にどんなイメージがありますか。

理想としては「ホームドラマ」のような家族、と答える方が多いかも知れません。テレビ、映画、ドラマなどでこれでもかと言わんばかりに「理想の家族」が物語られます。

また、育った環境により「自分も両親が築いたような家庭がいい」という方、「自分が育ったような家庭で、嫌な思いをさせるのはこりごりだ」という方など、現実的に考えれば少なくとも二通りの選択肢がありそうです。

そこに、個人として「家庭人としての適性」が問われます。

男性は稼ぎがいいとか、女性は家事、掃除、育児に仕事までこなせる万能女性が望ましい…なんて理想論のことではありません。

相手のちょっとした「小さな欲求や想い」に気づけること、家事、育児、掃除、仕事などを互いに妨害しないていどに、二人で一緒に楽しめること、「家庭」という共同体に「自分の理想」を押しつけるのではなく、あるがままの相手を受け入れるよう不断の努力を重ねることが、家庭生活には必要です。

また、主の召命がある人もいます。

主の召し出しがある方は、男女で築く家庭生活より、修道や宣教共同体における家族生活に召されているだけの理由があると思います。個人の性格、適性もあるかと思いますが、主に召されている人は、自分の中に「主に呼ばれているから」という実感があり、困難と孤独の中でも主の臨在に心の底からよろこびを感じられるのでしょう。

家族生活にせよ、修道会や宣教共同体での家族生活にせよ、共同体での生活を心からの交わりと感謝の気持ちで築こうという気持ちを、生涯にわたり保ちつづけようという覚悟が求められます。

現実には、互いの気持ちがすれ違うこと、お互いに違いが認められずに、揉めることの方が多いと感じられるでしょう。

信仰のあるなしに関わらず、男性の多くは、「言うべきことを言ってくれない。余計な口出しをする」と女性に言われることで、ストレスを感じてしまう傾向があるようです。

女性は「男性のパートナーが自分の話を聴いてくれない。家事、育児などの負担が大きい」ことに不満を感じ、ストレスを溜め込んでしまうようです。

やはり、男女の間には感じ方、考え方、知り得た情報への受け止め方、対処法が違うので、特別な思い入れの持てる相手、「惚れた弱み」のような「互いの弱さを分かち合える同士」でないと、乗り越えられない違いはあるかと思います。

世界の中心で愛を叫べるほど、深い愛ではなくとも、互いへの思いやりを忘れずにいられることは大切だとしぇるりんは思うのです。

家族には、何らかのシンクロニシティー現象(意味ある偶然)があります。好物が同じだったり、別々に出かけても同じ電車で帰って来ていたりします。

逆もあります。家族だからこそ、ボタンの掛け違いが起こることもあります。お互いへの想いの深さ、想えないいら立ち、焦り、憎しみ、苦悩の応酬もまた、家族だからこそ起こるシンクロにティーの悲劇なのでしょう。

キリスト者にとって原罪とは「相手を自分と同じ人間と思えず、相手を裁いてしまうこと」にあると思います。

交際中の男女にせよ、家族にせよ、修道共同体の家族にせよ、互いを疑い、裁き始めたらドロ沼に陥ります。

その裁きの原因が「家族」や「家族の誰か」に抱くイメージ、理想像と、相手の実感とのギャップであることは多々あります。

男女にせよ、親子にせよ、兄弟姉妹にせよ、修道共同体の家族にせよ、「いい時、いい人でいること」は比較的誰にでもできることです。

病み、苦しみ、疲れ果て、悩み、死に瀕し、障害などで介護の必要がある時、この人と一緒に居て後悔しないのか、を恋愛する時にも考えておいた方がいいでしょう。

家庭に対して望むもの、抱く思いは人それぞれです。

ある人は「私の高校生の時の夢は、早く孫の祖母になること」だと言っていました。そのため、夫となる男性本人より、義父母との相性がいい人を選んだのだそうです。

↓再婚者を含む家族への福音司牧へと改革を進める教皇フランシスコ

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誰でも何となく「家族に求めるもの」はあるでしょう。自分の求める通りのものが与えられるか、与えられないかではなく、「自分は相手に損得勘定なしで何を与えられるのか」を常に思い描けるなら、少しずつでも「カップル」や「夫婦」「家族」になり続けて行けるものだと思うのです。

日本社会では、キリスト者に「理想的なキリスト者らしい振る舞い」を過激なまでに求める傾向がある一方で、「八百万の神を排除するなんて、狭量だ」と誤解されがちです。


実際には、八百万の神を何でも是とする考えが日本にあるというより、明治維新まで神仏習合だったのを廃仏毀釈で分離したため、便宜上「神道と仏教に分けたけど、両方とも受け容れて」という政治家都合の思想があります。

あくまでも政治主導で広められた思想であり、信仰の中身はないため、「キリスト教と共産主義は排他的だ」と言うデマが盛んに流されています。

このような政治的で意図的なデマを真面目に当たり前だと思い込んでいる人が大勢いることが、キリスト者の生き辛さにつながっているのです。

家族はいい人なのだけど、キリスト者として生きるにはあまりにも生き辛いと感じている大勢のクリスチャンが今もいます。

だからと言って、自分の価値観や信仰を家族のためにねじ曲げることは出来ません。たとえ家族であっても、相手の内心の自由に踏み込もうとしたら、家族が歪んでしまいます。

主なる神との関わりもまた、私と主キリストとの愛の交わりの中にあって、誰か他の人間が変えようとしても踏み込めるものではないのです。

ちょうどいい距離感を保てる親しさ、割れ鍋にとじ蓋の関係でいられる、そんな何かを互いに相手の中に見いだそうとすることが、「親しき仲にも礼儀あり」の家族的関係を保つコツだと思います。

「自分のしたい事と、相手のしたい事が合わない」カップルや家族は世に多いです。割れ鍋にとじ蓋では、一流シェフが作るような料理は出来ません。簡単な家庭料理ですら失敗しかねないのです。

家族も同じです。きっちり合わない破れ鍋にとじ蓋のような関わり合いを、どのように日々の生活の中で二人が、家族が一体になれるまで関わり続けていくか、にかかっているのです。

だからこそ「違うことから来る苦痛を、この人が相手ならどれだけ受けいれられるのか。どれだけ耐えられるのか。」だけではなく、「耐えられないこと、受け入れられないこと」を、どれだけ率直に相手に伝えられるかも互いに試されるのです。

人間関係の破綻は、ストレスが溜まりすぎ、ある日飽和状態になり、忍耐の限度を超えることから始まります。

だからこそ「孤独なのはイヤ」、「経済的に苦しいから」「家事や介護をしてくれる人が欲しい」などの「自己都合」で安易にパートナーを求めることは、クリスチャンであれ、ノン・クリスチャンであれ、好ましくありません。

「自分の都合」で「便利な人を求める」ことは、相手に対して忍耐の限度を超えるストレスの受忍を、相手の立場や想い、考えなどを全く考えずに求める行為だからです。

もちろん、家族の事情で、社会の事情でパートナーや家族を求めることは多々あるでしょう。そうであっても、「この人となら、どうにかやっていけそう」だと言える「共通項」がいくつかある相手を選ぶ目を持ちたいものです。

また、すべてのキリスト者には主イエス・キリストが導いて下さる「主の小道」を求め続ける信徒としての責務が、それぞれのあり方に応じてあります。

「主の小道」を求め続けつつ、家族と共に日々の生活を生きることは、それだけで偉業です。

いつ、どこで家族や共同体と出会い、どのような日々を送り、どんな「主の小道」へと導かれるのかは、自分自身にもよく分からないものかも知れません。

だからこそ、「家族」にドラマや映画に描かれるイメージや先入観を持たず、かと言って「過去はこうだった」という記憶や遺物に囚われない「自分なりの家族的な関わり方」を考えられることを目標にしたいものです。

今までシリーズで、恋愛、結婚、離婚、そして再婚後に新たな愛のきずなを求め、または既に持っているカトリック信徒と教会の教えの関わりについて、考えてみました。

離婚、同棲、民法上の再婚をしたカトリック信徒の方は、どうぞお近くの小教区司祭にご相談ください。

未だ、民法上の再婚者の聖体拝領を認めないカトリック教国ですら、「婚姻の秘跡に与れない事例だが、婚姻の祝福は可能であり、子どもの幼児洗礼は可能な事例」への聖体拝領を認めるべきだという大胆な改革論が進行中なのです。

まして、日本のように七つの秘跡の全てが「個別対応」の宣教地では、ともかく一度話してみるべきだと思います。

 

聖母マリアと聖アントニオの取り次ぎを求めて祈ります。すべてのカトリック者がその人生が波乱万丈であれ、平凡であれ、教会共同体と一つに結ばれた日々を送れますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2017年8月 4日 (金)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:多様な生き方と異宗婚

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

現代では、カトリック倫理や道徳に基づく法が制定されている国でも、さまざまな事情で多様な生き方をしています。


欧州、南米や北米大陸などのカトリック共同体には「洗礼を受けた異教徒?」が多いことに驚く日本人も未だ多いです。

実際、「幼児洗礼式の写真を取りにこない」と嘆くボランティアカメラマンさんに「幼児洗礼は日本のお宮参りみたいなもの。篤信な一部の人以外は、次に来るのは早くて次のクリスマスかイースター」という現実を語ったら、ただ唖然!とされてしまいました。

日本以外の国で、月1~2回以上ミサに通う信者は全体の1割前後です。逆に言うと、それだけ熱心な人でない限り日本ではクリスチャンでいられないほど、今も見えない社会的不利益や迫害はあることの傍証です。

日本では、殆どのクリスチャンが未信者さん、または別の宗派のクリスチャンと恋愛、結婚、離婚、再婚する確率が高いと思われます。キリスト教徒数が極端に少ないこと、多くの日本人は死に瀕した時にならなければ「宗教、信仰」について考えたがらない傾向が強いからでしょう。

それは、日本の仏教が一般の日本人にとっては葬式・法事仏教以上でなくなったことからも論証できます。

なので、仮に日本人のパートナーとの交際が成立しても異なる価値観を持つ「異宗間交際」になるクリスチャンが多いです。

↓聖家族像の後ろ姿

1482defcf8 ここで生じやすい問題は、日本では「みんな同じ」を勝手に信じ込んでいる人が多いこと、「みんな同じ教」の同調圧に逆らうのは怖い、と感じる人が多いことです。

現実に「八百万の神なんでもOK」の人と、神道の人が結婚して、「どうにも理解できない神道の夫」に「訳も分からず合わせているだけの妻」が「平穏な夫婦」だと思われているようです。

日本にありがちなこのようなケースでは、妻の方が夫の冠婚葬祭のやり方に合わせるという暗黙の合意に盲従しているからであり、妻の信教思想の自由を犠牲にした「同調圧」を是認しているからです。

現実には、キリスト教徒と未信者であれ、「同調圧是認カップル」であれ、一人の人間としての価値観、価値判断の基準は異なることに変わりありません。

違いは、関係性や家庭が危機に瀕した時に、「言葉でお互いを理解し、受け入れるための苦しい話し合い」をどのようにするか、に大きく関わります。

しぇるりんも若い頃誤解していましたが、ある人が他の人の人生の根幹を支える価値観を完全に覆したり、「誰かの思い通りにしたり」することなど、人間には出来ません。

どんな人生であれ、その人なりに懸命に生きて来たのです。


神さまと本人以外の誰にもわからない「その人の生と死」の断片のほんのわずかな瞬間だけを見て、「あなたはここを変えればいい」などと、やたら無責任に決めつけてはならないと思うのです。

しぇるりんには発達障害があります。おかげで、子どもの頃は「あれを直せ」「これを直せ」と教師や家族にやたら言われ続けました。真面目人間のしぇるりんは、ごく真面目に取り組みました。

大人になって分かったのは、多くの健常者はしぇるりんのように「文字通り命がけで」努力をするだけの気力も気概も日々の生活の中で毎日となると欠けているようだ、ということでした。

先天性障害が治癒することはないという事を彼らは全く考えず、しぇるりんの人生の断片のわずかな瞬間だけを捉えて「ああだ、こうだ」、自分の色眼鏡と欲目で言って見ただけに過ぎなかったのです。

ある日、ある時、彼らの要求を聴こうとすればするほど、却って自分を見失うのだという事にしぇるりんは気づきました。そこで「○○な理由で、これは出来ないからそれ以上要求するな」とひとまず言い返すことにしました。

結果、去って行った人もいましたが、少しずつ信頼を得ることも可能になりました。

彼らは「しぇるりんが変われば、自分が変わるための努力をせずに済む」と勘違いしたかったように見えます。

一方、しぇるりんは他の人も自分のように「日々、変わろう、努力しよう」と24時間365日頑張る人だと思い、自分が要求されたように、相手に要求した時期がありました。

お互いに知らなかったのは「しぇるりんは発達障害という先天性障害があるから、出来るようになることと、出来るようにならないことがある」だけでした。

多様性を生きるということは、お互いの違いを受け入れることから始まります。

異宗間交際、結婚も同じで、お互いの今の価値観、違いを受け入れるだけでなく、「これからずっと続く日々の生活の中にある違い」を受け入れ続けたい、という気持ちを持ち続ける必要があります。

健常者同士で結婚して、平凡な家庭を築いたつもりでも、パートナーが早世したり、難病になったり、障害児が生まれたり、パートナーの浮気、浪費、依存症、病い、お金が足りなくて悩んだり…人生に苦楽はつきものです。

苦労がある=幸せが少ないと考えたら、その関係は不幸でしょう。幸せは、ひとりひとりの心の中にあるのです。

逆に、クリスチャン同士だからと言って「価値観が同じ」だと勝手に思い込んで結婚に失敗した事例もあります。

例えば、一方のパートナーがプロテスタントの宣教師、もう一方が先天性障害者の夫婦で、宣教師のパートナーが障害者のパートナーを宣教の道具として見せびらかすのに嫌気がさし、障害者のパートナーが家出して再婚した事例。

障害者のパートナーは民法上の離婚も成立し難い状態でしたが、カトリック信徒と恋愛し、同棲。二人はカトリック司祭に「婚姻の祝福」を求めました。

障害者のパートナーはプロテスタント信者でしたが、カトリックのパートナーが聖体拝領できないことを二人の苦しみとして受け止めていたからです。

司祭は「祝福しましょう。婚姻は二人が神の愛において共に生きる日々の生活の中で二人が一体になることにあるんだから」という画期的な判断を下しました。

同じカトリックの洗礼を受けていても、価値観や感じ方、あらわし方の違いは、神さまが天地創造の時から一人ひとりをオンリーワンの存在として造られた時から「違う」ものなのです。

お互いの違いを認めると、全てではありませんが徐々に真実が見えて来ます。

自分にはほんの些細な事だと思い、何気なく放ったある一言が、相手の気持ちを大転換させる「大事」だったのかも知れません。逆に、どちらかの些細な一言で、パートナーが去る大決心をするかも知れません。

これほど同調圧の強い日本でだからこそ、パートナーとの「違い」を認め、受け入れようとすることなく異性同士が親密になることは不可能です。

一方で、社会全体の極右化傾向もあり、「相手が違うことを受け入れられない」と感じる人も増えています。変化が急激すぎるのに、変化する状況を受け止めるための気持ちの余裕もない。静かに自分と向き合う時間、のんびりと遊ぶ体験なんて望むべくもない多忙な生活に追われています。


あまりにも急速に人口流動が起こり、自然環境、経済基盤などが激変し、多様化が進みすぎ、変化について行けないと感じている人も大勢いるようです。

日本のように幼児の時から何万回「同じだ、同じだ」と呪文のように唱えさせ、洗脳しても、ひとが異なる変化に対応できる「異文化受容能力」には、お互いに限界値があるのです。

それでも、「私たちの違いは富です。」と思えるよう、「自分をほんのわずかだけ、努力できる範囲で変えようとすること」が激動の時代を生き抜く知恵とも言えましょう。

最後にマザーテレサの名言より。

遊ぶ時間を持ちなさい。

愛し、愛される時間を持ちなさい。

与える時間を持ちなさい。

それは永遠につづく若さの秘密。

それは神が与えてくれた特権。

自分勝手になるには、一日は短か過ぎます。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年8月 1日 (火)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:男女の責任の在り方

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

老若男女に関わりなく、誰かと、何かとの関係性があるなら、その関係性には応分の責任が伴います。

例えば、皆さんの台所にガスレンジがあるとしましょう。ガスレンジがあれば、火元に注意する責任があります。それは「火を使う人」と「火の元となる器具」、そしてガスを供給するインフラ設備や資源確保など、普段は思いつかないほど多くの事柄との間に「関係性」があります。

もし、私が「火元に注意する責任を可能な限り取りたくない」と思うなら、IH式電化製品を用いてガスを使わないなど「調理熱源と私の関係」を根本的に変えねばなりません。


今回は、男女の異性交際を「関係性への責任」という観点から論じてみたいと思います。

恋愛関係において、男女はお互いの「恋愛関係の関係性への責任」を負います。

これは一方的な思い込みで「ストーカー恋」する男女には、「ストーカー規制法による規制対象となる責任を負う」という意味にもなります。

また、婚姻中の不倫関係や浮気などで一方が独身者の場合、独身者が家庭を築く自由を妨げる関係性にあるなら、不倫や浮気をしている婚姻中の人は、「配偶者と不倫や浮気の相手の双方との関係性において不誠実である」という道義的責任を問われます。

Img_216 先日、この問題について息子と話しました。すると彼は「でも、DV配偶者から逃げるのを手伝い、真摯に愛のある関係を築こうとする相手となら、関係的には不倫かも知れないけど、悪くない気がする」と手厳しい反論がありました。

確かに、DV被害を被った人が、自分を省みてなぜDV加害者との関係性の陥穽に陥ったのかに気づき、そこから抜け出そうとすると、不思議と「新しいパートナー」がまるで物語の王子さまのように本当に現れる事例が時にあります。


まるで、主のみ手が働いたかのように、社会制度上のすき間からこぼれ落ちて、救済の得られない人を助ける誰かがあらわれることが実際にあるのです。

カトリック教会は、今まで教会法に照らし合わせ、一律に「婚姻の秘跡に該当する、しない。再婚後の聖体拝領を認める、認めない」などの「裁き」を行なって来た経緯があります。


そこに男女平等の原則と、時代の変化への対応が求められるようになりました。

そのため、「『人が人を裁く』ことは、『全ての人に福音を宣べ伝える」司牧宣教の使命と相反するのではないか』」、教皇フランシスコの「ゆるしは御父の愛のもっとも目に見えるしるし」という観点から、「裁きより、いつくしみを」が男女の関係性においても公に論じられるようになったのです。


まず、どのような男女の関係性にせよ、互いに対して双方が率直でうそ偽りのないことが求められます。

一方的に相手は自分に嘘をつかず、「自分の欲望に都合のいい相手」を求めることは、ただ単にちょっと惚れっぽかったり、恋多き男女であったりすることとは次元の違う「未必の故意、作為の悪」があるとしぇるりんは思います。

その点で、昨今はやりの「婚活」にも疑問を感じます。

「自分の親の介護と家事ができる人で、相手は介護すべき両親のいない女性を希望」、「専業主婦で家でのんびりさせてくれる男性で、安定した仕事で稼ぎのいい人」など、どちらかと言うと幼稚なぐらい「わがまま」な条件ありきで相手探しをする人が増えているからです。

逆に「家庭さえ持てれば誰でもいい」と思って探すと、数十年前に流行った「ナンパ」より、カップル成立率は低いようにも感じます。

「自分を知る」ことは大切ですが、「自分」も変わる時にはどんどん進歩、または退化していきます。

その上、男女ともに「その時期、その時にだけに感じられる一種の雰囲気」みたいなものがあります。

それだけに自助努力、前に進もうとする努力も大切ですが、「時のおとずれを知る」ことも大切なのです。

そんな一歩先が手探りの中で、男女の責任の在り方が「その関係性が生きている限り」日々の生活の中で問われ続けるのがカトリック教会のおける「婚姻の不解消性」だと、元上智大学神学部教授でもあったホアン・マシア師は語ります。

マシア師は「ある関係性が死に至れば、その関係性の死を教会は認め、喪に服します。また再度、新しい関係性が生まれるなら、新しい関係性への司牧的配慮がなされるべきではないか」と主張します。

それは、「婚姻の不解消性」「二人は一体となる」という教会の教えの理想を歪めたり、変えたりするものではないとマシア師は解きます。

カトリック教会は婚姻の秘跡を、ある日、ある聖堂で行なったからと言って、そこで「婚姻の不解消性」の全てを担保した、または「婚姻の不解消性」を秘跡を行うことで完結したわけではない、というのがマシア師の主張の独特な点です。

婚姻の秘跡を司式する司祭もまた、「婚姻」という責任ある関係を結ぼうとする男女に対し、秘跡を通じて証人の一人となるのだと、マシア師は《夫婦の一致における約束、合意、シンボル》でしるしています。

恋愛関係で終わるにせよ、婚姻の秘跡に至るにせよ、全ての異性交際をする男女はお互いに対し、日々の生活の中で互いへの関係性に対する責任を負い続けます。

日々の生活の中で、互いへの関係性に対する責任を果たす行為の中には、「何気ないおしゃべりを楽しむこと」から「愚痴を聴き、相手の悩みに寄り添うこと」「お互いの心や魂とのふれ合いを大切にすること」などを、日常生活の中で行うことが含まれています。

もちろん、経済的責任、道義的責任、社会的責任、文化的責任など、さまざまな世俗的な責任を互いに負うのは言うまでもありません。

カトリック信徒はその上で「信仰上の責任」を負います。また、未信者の配偶者はカトリック信徒であるパートナーの「信仰上の責任」が果たせるよう配慮する責任があります。

昨今では、「自分のことだけで精一杯で、ヒトのことまで考えられない」という人が増えました。

「自分のことだけで精一杯」の中に、「他人のことなどどうでもいい」「自分を守るためなら他人の生命を犠牲にしても仕方ない」という気持ちを自己正当化する傾向がきわめて強くなっています。

確かに誰が誰に対してであれ、「限定的責任」しか取れないという現実はあります。

また、いくら長年連れ添った夫婦でもお互いについて、完全に知り尽くすことなど出来ません。

ある時、知人の軽自動車のバッテリーが深夜にあがってしまったことがありました。スモールライトを消し忘れたのです。

その時、通りがかりの中年らしきご夫婦のご主人の方が、駐車場中を探して、バッテリー容量の大きいハイエースの運転手さんにかなり強引に頼み込み、通りすがりの人でしかない知人を助けてくれるよう、交渉してくれたのです。

奥さんはご主人に「私はあなたと20年以上連れ添ったのに、あなたがそんな人だなんて、今日まで全く知らなかった」と少し怒ったような表情で言われました。そのご主人は「オレの田舎じゃ、こうやって助け合うのが当たり前なんだ。ずっと村の人と助け合って育って来たんだ」とひとこと。

もう子育てが一段落したらしく見えたご夫婦ですら、お互いがどう育ち、どのような人となりであるかを知らないことも多々あるのです。

一生かけても、パートナーを完全に理解する日は来ないのかも知れません。

だからこそ「二人は一体となる」理想のために、単なる性的な結合ではない、心と魂の関係性へと手探りを続けることこそ、男女の関係性への責任の真髄ではないでしょうか。


男女交際において応分の責任が取れる人となれるよう、自らの見ばえだけでなく、心ばえ、人格を磨き続けることは、生涯にわたり一日たりとも休まずに続ける必要があります。


日本では「責任」という言葉を、「社会的な義務、強制」と言うニュアンスで受け取りがちです。しかし、「責任」は一方が他方に一方的に押し付けるものでもなく、一方が他方に無条件に「責任を取れ」と要求できるものでもありません。

相手には相手なりに責任能力の限界があり、自分には自分なりの限界ある責任能力の範囲で、互いに「限界的な責任」をどれだけ誠意をもって果たそうと願っているか、が問われているのです。

これは、カトリック信徒男女だけの問題ではなく、全ての男女に問われている永遠の問いです。

カトリック教会では、その上に「日々を生きる全ての平信徒への司牧的配慮」を目指しています。それはまだ、論議の途上かも知れませんが、論議や知識、知恵が徐々に司祭、修道者や平信徒が共有することで、第二バチカン公会議の目指した改革の一助になることを願ってやみません。


みなさんに佳き出逢いがありますように。そして今パートナーがいる方は、日々の生活の中で互いに出逢い続けていけますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年7月28日 (金)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:友だち、恋人、それとも特別な人?

心の状態で、人の顔つきは変わる。

うれしい顔にもなれば、悲しい顔にもなる。

晴れやかな顔は、良い心の表れである。

それにしても、格言づくりは、骨が折れる。(シラ書13:25~26)

お元気ですか。しぇるりんです。( T_T)\(^-^ )

冒頭の聖句は、新共同訳聖書では続編(カトリック教会では正典扱い)に収録された、ユダヤ人最後の預言者、ベン・シラの、しぇるりんがその率直さが身に沁みるほど大好きな言葉です。

人の心の状態は、普通の人なら顔つきに出ます。

有名な俳優、女優のように「役になりきって顔、態度を『本人』と『役』で巧みに使い分ける」達人であっても、実生活で本当に悲しい時、辛い時には、目元に不自然な力が入った「作り顔」になりすぎていたり、シーンや役にはない妙な無表情さが眼の奥に沈んでいたりします。

「友だち以上だと思うけど、恋人未満」の男女の友人関係は、若い人には何人かいてもおかしくないはずです。多くの人が男女共学の学校に通い、男女別なく同じ職場にいる時代なのですから!

ところが、人とひとの出会いはさまざまなもので、「同性の友人と同じ扱いの異性の友だち」、「友だち以上」だけど「恋人未満というほどでもない」友だち、「友だち以上、恋人未満な親しい友人関係」、「友だちか微妙だけど、恋を意識する関係」、「恋を意識する親しさはあっても、結婚を意識する関係じゃない男女」、「目と目があった途端にどちらかが結婚を意識して、友だち関係から関わり合い始める」、「恋を意識して、何らかの理由で結婚を意識するようになった」など、男女の出会いとつながりは人の数だけ多様です。

そんな多様な男女の出会いを、「神の受肉の神秘の実現」というシンプルかつ奥深い教義から受け止めて行くには、その人なりにその時々の信仰、直感、知恵、判断力、場合によっては人脈、地縁、情報などが必要でしょう。

ローマ教会法、民法について前回のブログで一通り解説しましたが、それぞれの人生が法律、時代、地域の慣習、風俗にピッタリと「絵に描いたように」当てはまる人など、そんじょそこらにはいません。

むしろ、当てはまらなくて当然だと思います。

初恋で、熱心な信者同士で特別な人に出会い、カトリック教会で結婚して、良い子を授かり…という絵に描いたようなカトリック信徒家庭が私の知人にもいます。

でも、さまざまな事情で主キリストとともに生きる信仰に深く傾倒していても、絵に描いたような人生コースを歩めない人の方がこの世界、この時代には多いのです。

使徒伝承の教会には、キリストの愛といつくしみを世の終わりまで伝える使命があります。だからこそ、異なる環境で生まれ育った男女関係の萌芽から生まれる家庭生活全般において、絵に描いたような人生コースを歩んでいない多くのクリスチャンへの司牧的配慮を真剣に数十年かけて論議しているのだと思います。

日本では、夫婦、家庭生活は「社会的対面を保てる状況にいる」ことが重要視され、パートナーについてあまり良く知らないまま「破綻ない日常生活を送ること」に重点が置かれているようです。

また、若い夫婦の場合、子どもが生まれると夫と妻は「お父さんとお母さん」になり、一定年齢で寝室も別にし、夫婦間でいちゃついたり、夫婦の交わりを避ける傾向も見られるようです。

これは、どちらかというと日本独特の現象です。そう、日本では「結婚した夫婦=子どもの『お父さん、お母さん』、パートナーの親族」、「生計を一にする人」、せいぜい「仲の良い友だち」に落ち着きたがる傾向を示しています。

そのせいでしょうか。友だち、恋人、特別な愛を分かち合える人の区別や判断をどのようにしたらいいのか分からない男女が、日本にはとても多いようです。

恋心を抱いた時、私たちそれぞれは自分の中で「その恋心は、自分のどんな想いを表しているのか」、を「恋は盲目」の状態の中で、客観的に冷めた目で見つめなおす必要があります。

そこに性欲の問題が絡みます。どうしても冷めた気持ちになれない恋と愛の問題に、熱い欲望の問題と「その場の雰囲気で…」に男性側の「一回ぐらい楽しませてくれても減るもんじゃなし…」という男性特有の「性欲=食欲と同等かも」論が絡みます。

ただでも理性を保ちがたい状態に、「恋わずらい」という時に生命の危険すら引き起こしかねないメンタルショックが加わる場合もあります。

恋に落ちた男女が、カトリック教会で貞潔や定住の終生誓願を立てた司祭や修道者に相談するには、かなりハードルが高いとしぇるりんも思います。実際、平信徒が使徒伝承の教会共同体に人生の全てを捧げられないように、「修道者は独身者なので性にまつわる悩みには寄り添えない」と言われたこともあります。

↓あなたはこの光景を見てどんな男女を連想しますか?

131219katase 現状では、平信徒は異性との交際という、人生でいちばん助言や助力を必要とする場面を、それぞれの理解と判断で、自らの信仰をもって主のみ旨を祈りのうちに求める以外にさして手段がありません。

カトリック教会から若い人々が離れて行く動機のひとつが、人生の中でどんな時よりも周囲の助けを必要とする恋愛や異性交際、性暴力被害に遭った時、性暴力加害者となってしまった時、時にセックス産業とかかわってしまったまさにその時、カトリック教会は若い男女の悩みに無力に見えているのではないでしょうか。

テゼ共同体などにみられるように、集会を年代別に分ける集いなら、性や異性交際の問題なども話しやすいのかも知れません。

しかし、カトリック教会の中で若い人々が恋や性の問題で悩み、苦しむ時にこそ、教会の理念や理想を若い人に押し売りするのではなく、あるがままの状況に耳を傾け、それぞれの中に働く主の御心に心に留め、共に主のみ旨を手探りするための新しい平信徒共同体を主が求めておられるような気もします。

時代や状況の変化がめまぐるしすぎて、私たちはオギャーと生まれた時にならい覚えた価値観、言語や文化、社会的状況や幼い頃に描いた人生設計が、社会に出る頃には既に全く合わない時代になっており、青年期から中高年期になって体力や気力の起伏の中でなお激変する21世紀を生きています。

まして、15歳、20歳、25歳、30歳になるまでの「一年の長さ」の感覚と、30歳以降の「一年の短さ」の感覚の差もあるため、その年代に合わせた「分かち合い」の在り方が求められるでしょう。

年齢が若くなればなるほど、分かち合いのリーダーには「特定年齢層の成長段階に相応しい専門性」が求められる傾向があります。しかも、年齢に関係なく教育、家族、医療、社会、労働、社会福祉、地域や所属母集団に固有の問題、ハラスメントやDV、跋扈するカルト宗教に関する諸問題など、特定分野に専門知識や経験のある人々との連携が場合によっては同時併行して必要となります。

逆に中高年以降の異性関係には、若い人とは違い、更に深い心理学などの専門知識を必要とするケースもあるでしょう。

小教区のメンバーだけで、このような多岐にわたる連携を行うのは不可能でしょう。また、ただでさえ多忙な小教区司祭に、このような宣教事業を兼業することは不可能です。


現状はそれ以上でも、それ以下でもないかも知れません。

だからと言って、主キリストが天地創造の初めから世の終わりまで、私たち一人ひとりの全てを慈しみ深く見守っておられることに変わりありません。

聖マザーテレサは「私たちの行いは大海の一滴の水でしかないのかも知れません。でも、私たちが何もしようとしなければ、大海は一滴の水を失うのです」と言われました。

日々、大きなことが出来るわけでもなく、祈る以外に術のないことがたくさんあり、自分自身も思うにまかせないほど不自由だけど、自分の中に希望を保つことは今日、今すぐにできます。

最後にしぇるりんからひとこと。

いわゆる「友だち」は、あるていど距離を置いたところから、あなたと関わる人。羽振り良く、人気もあり、良い時、良くしてくれるけど、あなたや友だち自身が逆境にあれば自然に遠ざかる人。あなたを深く傷つけるほどのものか、ただ今を楽しみたいだけかは別として、「下心はある」のが前提の関係です。

「友だち100人できるかな」という歌詞のもつ、不気味さと社会的同調圧に気付きなさい。


下心や周囲の状況に左右されない真の友は世の宝すべてより尊いが、生涯で一人逢えれば幸せだと思いなさい。

恋人は、恋しくて恋しくてたまらないけど、恋の熱はいつか冷めてしまうか、ぬるま温かくなることを覚えなさい。愛は、恋情がほどほどに冷め、互いの受け入れがたさに気づいた頃にやっと芽生えはじめるものです。

愛は二人が神のみ手の働きに希望を置き、互いの努力と忍耐で育てるものだと思いなさい。

特別な人に対して、人は初めから心を開ける分だけ、相手への敬意を最初から忘れず、自分より相手への配慮をします。特別な誰かに出会い、心から結ばれたら、それが人生の最後の瞬間であっても、あなたの人生を変えるでしょう。

ひとは生まれる時には、天地創造の源である主から来て、母の胎に宿ることで、多くの愛を受けてこの世に来ます。神とひとから受けた愛を、わたしたちは日々の生の営みの中で自分自身以外の何かを、誰かを、そして神を愛せる人となるために過ごします。生涯の中で生きた愛と犯した罪の全てをもって、私たちはいつか主のみもとにただ一人で孤独に旅立ちます。これが死です。

だから、自分を大切にするように神と人を大切にすることが、よき出会いの要だとしぇるりんは思うのです。

最近は「お金がないから異性とお茶飲みする経済的余裕がない」、男女が「単純なおしゃべり、お散歩など、以前は下心なく楽しめていたことに何らかの見返りを求めるようになった」「時間をかけずに、効率的な出会いが欲しい」など、以前よりずっと新自由主義の人格への影響が、見えない悪の影が人格や行動に入り込んで行くように急速に強まっています。

性別が違うからと言ってやたら「下心があって当たり前」では、性別に関係なく「おひとりさま状態」が分断統治の中で更に加速していくだけです。

聖母マリアの執り成しを願って祈ります。どうか、私たちが新自由主義的な欲望や下心に振り回されるのではなく、お互いを人間として向き合えるようになりますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2017年7月25日 (火)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:結婚に関する民法とカトリック教会法について

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今回は、結婚に関する民法とカトリック教会法(ius canonicum, Cannon Law)の関係や違いについての法的諸問題を、カトリック平信徒の視点から考えたいと思います。

大雑把に言って、カトリック=離婚できない方、プロテスタント=離婚も可能な方のキリスト教だとお考えの方はクリスチャンにも多いと思います。

これは、決して間違いではありませんが、「オイコノミア」の部分で説明した通り、カト・プロの両者で「結婚とは神の受肉の神秘を男女関係、家庭生活の中で実践すること」という原則は全ての正統派キリスト教に共通します。

問題は、「婚姻は神の受肉の神秘をあらわし、婚姻には決定的な不解消性がある」というカトリック教会法に「人間的な誤謬の入る余地があるか、ないか」なのです。

日本は明治末期の壬申戸籍制定の時点で一応、一夫一婦制でした。

が、現実には大正から昭和になってから、何となく日本社会は「一夫一婦制」の国になった実感が一般人にも普及したのだと思います。

原因として考えられるのは、昭和天皇が香淳皇后お一方を正妃とし、女御、更衣などの「第二夫人以下」を置かなかったことが一夫一婦制の模範となり、戦後になって正式に一夫一婦制が確立したことにありそうです。

歴史的背景から見ると、明治維新政府が儒教倫理を道徳化して学校教育を通じ普及させようとしたこと、および西欧諸国から「日本は技術や制度は進んでいても、セックスに関しては未開民族並みにおおらかな国で、肌の露出に抵抗感のない妙な国」扱いされたことに「忖度」したのが「一夫一婦制の普及」につながったようです。

戦前の一夫多妻的な家庭に何らかの道徳や宗教的な根拠があったわけではありませんでしたが、一夫多妻は夫にかなりの経済力が要求されるので、「お妾さんがいる=金持ち、モテ男のシンボル」ぐらいの軽い感覚だったようです。

ちなみに以前、第四夫人まで妻帯が許されるイスラム教徒の男性に「第二夫人が欲しいのか?」と尋ねたら、殆どは「妻は一人でも面倒だ。父親や親族が利害関係から姻族関係を結びたがったり、確実に跡取り息子を欲しがるから」だと答えた方がかなりいました。

どうも、男性も性欲や権力欲などを満たすだけのためではなく、人間としての男女のつながりを考えるなら「一夫一婦制がラク」だと考える傾向があるように思えます。

女性は、周囲から結婚しろと圧力があったり、親が婚資や姻族関係になることによる利権を望んで「結婚させられた」ことが多々あり、結婚の際に本人の意志が尊重されるようになったのは、現在の先進国ですら20世紀に入ってからです。

現代は、女性の意思が婚姻関係の維持向上に大切だと徐々に認識が改まって来ています。経済的理由、社会的理由で「家事、出産、育児をする」存在から、「神の被造物として大切な存在としての女性」として生きる道が開かれつつあるのです。

Img_2226fef96c001629177c4738aa8dea7 それは、経済的繁栄だけが理由ではなく、神がアダムとイブを男と女として造られ、神の受肉の神秘として記念されたみ旨が働いている結果だとしぇるりんは思います。

日本には民法上、婚姻届による婚姻、および内縁関係による「事実婚」の2種類の一夫一婦制の婚姻方法があります。婚姻関係解消には、当事者同士の合意、または行方不明確定後などの離婚届による離婚、配偶者の死後の「姻族関係終了届」、および事実婚の解消という三つの選択肢があります。

ところが、世界中が日本と同じ「一夫一婦制」ではありません。

例えば、アジア最大のカトリック教国であるフィリピンには「婚姻関係を生存中に途中で終了する」ための「離婚」関連の民法がないようです。

だから、日本人男性がフィリピン人女性と離婚する場合、双方が合意に至れば男性の戸籍上では離婚が成立しますが、フィリピン人女性のフィリピンの書類上では婚姻関係が解消出来ないことが多々あるようです。

これは、フィリピンには「婚姻無効(annulment, invalid marriage)」以外の婚姻関係解消に関する民法がないからだと言われています。

「婚姻無効」は、カトリック教会法に記された一定のガイドラインに沿って、婚姻関係の継続がむしろ当事者の「平和な生活」が生涯に渡って著しく損ない、当事者やその子が生命や生存の危機におちいると思われる個別の事情がある場合にだけ認められる、特別な婚姻解消の方法です。


民法(海外には民法に『婚姻無効法』が存在する国があるが、民法上の規定は国によって異なる。)およびカトリック教会法上「離婚」と「婚姻無効」の一番大きな違いは、婚姻関係が解消された年月日と扱いです。

例えば、2010年1月1日に婚姻届を出したA夫妻が、2011年12月31日に離婚届を受理された場合、婚姻関係が解消された年月日は、離婚届が受理された年月日であり、その間には「A夫妻の婚姻関係は婚姻届受理日から存在し、離婚した時に存在した婚姻関係を解消した」となります。

「婚姻無効」の場合、2010年1月1日に婚姻届を出したA夫妻が、何らかの事情で2011年12月末日に「婚姻無効の成立が受理」されたと仮定しましょう。すると、「婚姻届を提出した日にさかのぼって、婚姻関係の存在そのものが無効になった」と考えるわけです。

つまり、「婚姻無効」の場合には、婚姻関係が解消された年月日は婚姻届の提出された「2010年1月1日」になり、婚姻無効となった男女の婚姻関係は「確かに婚姻関係は存在したけど、婚姻関係という契約の存在じたいが婚姻日にさかのぼって法的に無効」となるわけです。

もし、「婚姻無効」となっても、A夫妻の間に生まれた子はA夫妻の子どもとして養育義務があることはもちろんのこと、子どもには洗礼などのカトリックの七つの秘跡の全てを受ける権利があります。

カトリック教会法で「婚姻無効」を認めるのは、例えば下記のような場合です。

① 配偶者が保険金殺人目的で婚姻した場合、その他の金銭詐取目的、偽装結婚目的、婚姻時に他のパートナーと婚姻関係または内縁関係にあることを隠していたなど、配偶者による犯罪的な背信行為により生命の危険がある場合。

② 「パウロの特権」にある、未信者の配偶者が信徒の配偶者の平和を著しく損なう行為を故意に行う場合。

③ 本人の意志に反した婚姻関係を親や親族に強いられた場合。

④ その他、当事者の意志では変えられない社会的状況で婚姻関係の終了を認めざるを得ない場合…などが考えられます。

①は世俗の法律や倫理道徳に照らし合わせても「犯罪行為」、またはそれに近い行為であることは疑問の余地がないです。

②は立証困難な場合もあるようですが、「私は無神論者(atheist)だから…」を、当たり前にカトリック信徒に生まれ育ち、「無神論者=道徳倫理概念を完全に否定する者」だと当たり前に考える配偶者に対し、繰り返し事あるごとに主張し続け、相手に「事実上の棄教=相手の価値観を否定し、放棄することを強要」する場合などが該当するでしょう。


日本的な意味で言う「八百万の神はどれでも何でもいいの」は、日本の中でもごく限られた人々の間でしか通じない「もどき多神教の何だか分からないあいまいなもの」だと海外では受け止められる考え方で、戦前の「八紘一宇」思想の残滓なのですが、これを客観的に理解できない日本人はとても多いのです。

日本人同士でも民法上の婚姻後に、カトリック信徒の配偶者に棄教を迫り暴力や暴言を繰り返すなどのハラスメント行為があれば、②に該当する可能性があります。

③はインドなどの国では未だに存在する人身売買による「売買婚」で「婚姻に同意する意思のない女性」の結婚や、「父親同士が酒の勢いで結婚を決め」、本人同士は「自分たちは結婚しても上手くいかない。既に他のパートナーと交際しているのを、互いに知っている(当事者同士が婚姻の意志が不存在であることを互いに確認済みである)」にも関わらず、周囲の圧力で「カトリック教会で結婚すれば離婚できないはずだから…」と結婚させられた、といった事例が当てはまると思われます。

④に該当するのは、例えば南北朝鮮の38度線の設定と休戦時に離散した、「離散家族」などの事例が思いつきます。朝鮮動乱休戦の日、38度線上の村、地域の方々が仕事、親族訪問などで北に夫が、南に妻子がいたなどの理由で別れ別れになった家族が南北朝鮮の「離散家族」です。

南北の往来が外交上全く不可能になり、婚姻関係を今後も続けるか、解消するのかについて、パートナーの意志確認をする術が全く存在しなかった状態の長期遷延化が決定的になり、「配偶者行方不明」のまま婚姻関係を解消し、「再婚」した人がいます。この場合、再婚を望んだ韓国にいた方がカトリック信徒であれば「婚姻無効」を「宗教裁判所」に申請できる可能性は、今ならあると思います。

民法に「婚姻無効法」があれば、カトリック教会の宗教裁判所の意見や判断を受けて、民法上も、カトリック教会法上も晴れて?「婚姻無効」が公文書に記載されます。

一度、「婚姻無効」になった場合、「神の受肉の神秘をあらわす」愛を分かち合える誰かとふたたび結婚しても、「完全に初婚」ではないけれど「再婚」にはなりません。

カトリック教会法上の観点からすると、配偶者と死別した後の再婚は可能です。配偶者の失踪、行方不明に関してはグレーゾーンのようですが、長期に渡り全く音信不通で行方も分からず、カトリック教会で結婚したのでなければ主任司祭の権限で「婚姻無効を宣言」することは可能なようです。

その点、日本にも韓国にも、民法上の「婚姻無効法」がありません。そのため、民法上の離婚をするとカトリック信徒は「聖体拝領ができない」状態になることも考えられます。

カトリック信徒が人口の2割近い韓国の場合、条件を満たす場合には主任司祭に相談の上、韓国内の「宗教裁判所」に離婚相手に出頭してもらい、「婚姻無効」の判決を勝ち取れる可能性もあるでしょう。現実には、主任司祭で宗教裁判所に提訴を申し出てくれる方を探すのが難しいでしょう。


日本ではカトリック信徒数が極端に少ないため、宗教裁判所は「ローマ直轄区」となっているようです。つまり、日本人同士でカトリック教会法上の婚姻無効判決を受けるには、イタリア語の堪能な主任司祭をお連れして、数年かけて何回もローマの宗教裁判所をすでに離婚した相手と行き来しなければなりません。

日本人男性が宗教裁判所のあるフィリピン国籍の女性と離婚するのにあたって本当に「婚姻無効」に該当する場合でも、日本人男性がフィリピンの宗教裁判所に出頭するよう求められるため、国際的かつ複雑な法廷闘争になり、日本人男性が尻尾巻いて逃げてしまう事例が多いようです。

それだけ、結婚という関係、生まれも育ちも全く違う二人がひとつの家庭を築くということは大変なことだとも言えましょう。結婚と結婚生活の維持の労力を100とすれば、離婚にはその2~3倍の労力を必要とすることも覚えておきましょう。

どの国のカトリック信徒の結婚でもいちばん問題になるのは、「できちゃった婚だけど、相手との生活維持は極めて困難」、「性格の不一致」、「相手に求めていたのは、男女間の愛ではない何かだった」「配偶者・当事者の浮気や不倫」など、男女間でもっとも深刻、かつ他人に話しても理解されづらいけど、いちばん多い離婚理由です。

この場合、双方がカトリック信徒であり、カトリック教会で婚姻の秘跡を受けた場合には、民法上の離婚をして婚姻関係を解消し、カトリック教会法上どちらかが死亡するまでの「半永続的な別居生活をする」と解釈されて来ました。


配偶者の一方だけがカトリック信徒である場合、未信者の方は「晴れて離婚したのちに再婚」できても、カトリック信徒の配偶者は「半永続的な別居生活中」と教会で受け取られる不利益が生じるわけです。

これでは不公平だというので、「選択的婚姻無効の記載」を民法上認めるよう、諸外国は日本政府に働きかけていますが、実現からはほど遠いようです。

最近は日本国内でも、性格の不一致などの理由で離婚したカトリック信徒が、別のカトリック信徒と再婚する事例も見られるようになりました。

社会や時代の変化が急激すぎて、人間関係、男女関係に亀裂が入る確率が、相対的に変化の少なかった時代より多くなったことも理由に挙げられるでしょう。

経済格差だけでなく、価値観格差も硬直化しつつあります。


20世紀半ばまでは「全く別な場所で生まれ、別な環境、家庭で育った男女の生き方が違うのは当然のことだ」とお互いに認め合うおおらかさが、ひとと人との間にありました。


21世紀近くなった頃から個人のアイデンティティーが確立する一方で、「相手の価値観を理解したり、受け入れる余地は全くないが、自分の価値観を押し付けるのは『教育』だからありがたいと思え」といった身勝手な人が世界中に増えました。今や、政治的極右化傾向として、世界中を紛争に巻き込もうとしています。

心理学などの発達とともに、人間性への理解がとても深くなった一方、まだ人格的にも未熟な若者が「異性」という名のエイリアン?との向き合い方が分からなくなりつつあります。

祖母、母、姉妹でもない異性で、「性的な関係になっても問題がない人」「性的な関係をもってはならない相手」の明確な社会的区別は、時代が自由奔放になり、生活圏が広まるにつれ曖昧になりました。

そうでなくとも異性の友人と対等に付き合うチャンスの少ない昨今の若者に、いきなり「神の受肉の神秘の実現」できるようなパートナーを失敗なく選べというのは、幅10センチほどの溝を越えられなくて怯えるひな鳥に大空を飛べ、というぐらい無茶なことのようにも思えます。

もちろん、学業、生活、仕事や家庭の生活は努力、忍耐と理解という犠牲の連続ではあります。とは言っても、相手が悪意の人であっても「恋は盲目」である場合もあります。


また、男女どちらにも悪意がなかったとしても、人生からあやまちを取り除くようカトリック教会が勧めるなら、「麦と毒麦のたとえ(マタイによる福音書13:24~30)」にある「毒麦」のない人生を求められたような「潔癖至上主義」的な印象を受けてしまうのではないか、と憂慮します。

男性は「あやまちは女性にある」という女性差別的な感覚を抜け出さねばなりませんが、そこに至るには相応しい人格修養が必要です。女性もまた「私さえ泣き寝入りすれば、これ以上貶められずに済む」と言う理由なき自責の念を振り払うには、あるていど以上の度胸と人生経験が必要です。


そのため、離婚または再婚した平信徒への司牧的配慮として、聖体拝領を一定の条件を満たせば「ゆるしの秘跡(告解)」ゆるすのか、「神の国を待ち望む」教会がなすべきいちばん適切な司牧的配慮とはどのようなものか、をカトリック教会は「家庭のためのシノドス(司教協議会)」で論じ続けているのです。

ローマ教会は、カトリック教会法で司祭や平信徒に厳格すぎて神ご自身がそれぞれの人の仲で愛の業を行われる妨げの石になることのないよう司牧的配慮をすること、司牧者の不正を見逃すことないよう不断の努力を続けています。

先日ネットで「セクハラにならないセックスへの合意」について書いた本があると知り、驚きました。セクハラ認定されなければ、恋愛や結婚をする気があっても、なくても自由にセックスをしてもいい、強姦、準強姦や痴漢などの犯罪認定されないことが重要だ、という前提がそこには見られるからです。

自由恋愛=セックス自由、ではないとしぇるりんは思います。一定の条件を満たす男女が、周囲や家族とのつながりの中で関わりあう方法の一つに「自由恋愛」もあり得るということが、この社会から忘れられつつあるのは恐ろしいことです。

一般的に男性は「何を言っても相手は自分を理解してくれる」と思える相手にアプローチし、女性は「この人なら、信じられる」という相手を選びたがるようです。しかし、理解も信頼も、ひと時の熱い恋愛感情が徐々に薄れゆく中で、互いに努力する日々の中で気づき、築いて行くものです。

恋愛や結婚を考えるにあたり、平信徒の立場で考えるなら、男女ともに性欲や精力の有無、性生活への思い入れなど、本人と相手の個性や体質も考え合せ、急かずにお互いを知ろうとする「ムダな時間」をどのように楽しめかどうかを見極めることが大切だとしぇるりんは思います。


どうか、このブログを読む独身のみなさんに佳き出会いとお付き合いがありますよう、聖母マリアの執り成しを求めて祈ります、アーメン。


霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)はキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年7月21日 (金)

カトリックと恋愛・結婚・離婚・再婚:「オイコノミア」について

ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。

…しかし、信者でない相手が離れて行くなら、去るにまかせなさい。夫であろうと、妻であろうと、結婚に縛られてはいけません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。(コリントの信徒への第一の手紙7:12b~13、15)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今回は、前回のブログで予告した「オイコノミア」についてです。

よくギリシャ語の「家政、家庭経済」の意味で論じられるせいか、ネットで探すと金融学だのミクロ経済学だののジャンルがヒットするようですが、ここで問題になるのは神学用語としての「オイコノミア」です。

冒頭の聖句にある使徒パウロのコリントの信徒への手紙に書かれたみ言葉は、「使徒パウロの特権」と呼ばれる「カトリック教会の教え」で離婚に関して語った数少ない《新約聖書》の記述です。

これは、「オイコノミア」というギリシャ語の神学用語と関連する聖書の記述とされている部分でもあります。

《神学ダイジェストNo.122》の<結婚の不解消性の教えー真理と憐れみー>の著者、ヘスス・マルティネス・ゴルド師の論文注釈⑷によれば、「教父が三位一体を表現するために用いた言葉で、広くは御子(イエス・キリスト)の受肉と死と復活を通して実現された救いの営みを意味する。しかし古代教会ではそれ以外に『目的に合わせた巧妙な手段の利用』『特別な状況に応じた譲歩』という意味でも用いられた。東方教会では、『特例を考慮して教会法の規則を緩和して適用する措置』を指す言葉として、現在も使われている」とあります。

カトリック信徒にとって「カトリック教会の教え」や「ローマ教会法」に基づく信仰や価値観は、特定の文化や人間的状況、歴史的に移り変わる社会規範、社会道徳や世俗的な善悪などに拘束されるものではありません。

結婚に関してはゴルド師の論文にある通り、「結婚の不解消性の究極的な基盤は、神の受肉(三位一体の神秘の実現)である」です。

これを《聖書》のみことば通りに頑なに捉えてしまうと、独身者同士の自由恋愛は全て「姦淫」であり、離婚者や死別者と離婚者、死別者、独身者間の恋愛は「姦通」だと思い込みがちです。

しかし、《旧約聖書・新約聖書》のみ言葉とて書かれた時代の申し子ですから、時代的考証を忘れてはなりません。

新約聖書の時代に、男女平等なんてものは存在しませんでした。

男尊女卑も身分差別も奴隷制度も大いに「当たり前だった」時代に書かれた《聖書》を杓子定規に解釈してはいけませんよ、「三位一体の神の受肉の神秘がそれぞれの日々の生活の中で実現する」という「神のみ旨」を「現代の平和」の中で世の終わりまで求めつづけなさい、というのが「オイコノミア」という言葉の真意だとしぇるりんは思います。


司祭や修道者は「神さまと結婚」し、人間としては独身の誓願を立てた方々で、多くはその生涯で友達以上恋人未満の異性との交際体験もない方も多いのかも知れません。

そのせいか、理論的には男女の関わり合いについても色々と学んでおられるとは思いますが、実際のところ「離婚、死別したら、再婚しなけりゃいい」的な言い方をする方も未だいらっしゃいます。

すると、カトリック平信徒はずっと独身でいるか、一回以上はともかく結婚しちゃダメ、と思い込みで言い出す人がきっと現れるわけです。

冒頭の聖句にある「パウロの特権」に関しても、私に「カトリック教理」を教えてくださったシスターは「信徒でない男性が離婚を望んだ場合、離婚できる。しかし、再婚は信徒でない男性が洗礼と信仰を受け入れる場合のみ可能だ」と教えて下さったと記憶しています。

Matome_20141030011013_545111656e02 しかし、日本だけではなく、世界中で男女の実情はさまざまです。最初の配偶者と死別後に再婚する方がいるのはもちろんのこと、信徒同士で離婚後に再婚する事例もあります。

その全てにおいて大切なのは、その男女の結びつきが《創世記》にあるように、アダムとイブが神のみ旨と本人の意思により、神の愛、慈しみと憐れみによって結ばれたか、否か、だとしぇるりんは理解しています。

カトリック教会で昨今揉めているのは、「結婚の不解消性に関する教え」は、不可謬性がある(誤ちのない教えであり、誤謬があるとは考えられない要件を満たす)のか、「神の憐れみと慈しみにおいて個別の事例の中で個々に対応できる司牧指針を新たにもうけるべきなのか」です。

前者の立場だと、司祭の学識、信仰や教会法の知識の多い少ないで、異なる判定が出る恐れが減るような気がします。その分、それぞれの個人の置かれた状況はないがしろにされ、神の憐れみと慈しみの源である聖体拝領を再婚者に許すかどうかなどの、司牧的配慮の問題が置き去りになるでしょう。

後者の立場だと、司祭により判断のブレがより拡大する可能性が否めませんが、信徒のそれぞれの立場と状況に寄り添った対応は前者よりも期待できそうです。

「結婚の不解消性に関する教えに誤謬があるとは考えられない」と杓子定規に判断する保守的な一部の司祭と、「結婚の不解消性というコトバにこだわりすぎて、『神の愛に結ばれたつながり』とは到底呼べない冷えた関係となった末に離婚し、神と人への愛を新たに見出した再婚者らへの司牧的配慮に欠けているのは宜しくない」という教皇フランシスコの間には、ある種の違和感が存在するようです。

日本で問題になるのは、「何かあったら離縁すればいい」という日本の伝統的な結婚観と、キリスト教本来の結婚観との根本的で感覚的な違いです。

江戸時代の日本では、旅に出て商売をする人や遠隔地に出稼ぎに行く可能性のある職人、何らかの事情で生涯、添い遂げるには不安な相手に結婚を申し込まれたら、「祝言を挙げる前に、三行半(離縁状)を書いてくれ」と要求する女性が武家以下の身分では大勢いました。

江戸時代には、女性側から離縁を申し出るには原則として「指定の縁切り寺で離縁の条件を満たすと認められ、一年半~を縁切り寺で女性側の費用負担で過ごすこと」、というご法度(=現在の民法)があったのです。

つまり女性側から離縁を申し出るには、現代の貨幣価値に換算すると数年の海外留学費用ぐらいのお金が必要でした。


「縁切り寺の原則」は、現代のDVや家庭遺棄だけではなく、男性が事故や災害に遭い死亡したと思われるが遺体や死亡した証拠や証人が見つからない場合、何らかの事情で行方不明の場合、不倫逃亡、浮気先で別の所帯を持った場合でも適用されました。

つまり、実家がそこそこのお金持ちじゃないと、女性は浮気はバレなきゃいくらでもOKなルーズな時代であっても、法的に夫と離縁はできなかったわけです。

DV被害で女性やその子どもが半殺しの目に遭おうが、夫が津波などの災害で突然、旅先で若くして亡くなろうが、女性は三行半なしには離縁が認められず、「婚姻中」と見做されました。

そのため、良い再縁のチャンスがあっても、三行半なしに夫を失った女性には正式の再婚が原則ゆるされませんでした。

その点、結婚前に「三下り半」を夫となる人に書いてさえもらえば、女性が三下り半を役人に提示して、離縁してもらうことができました。つまり、「結婚=離縁する前提」が江戸時代には庶民の常識でした。

そんな江戸時代の法的不条理が、日本人の結婚とセックスの感覚をものすごくゆる~いものにしてしまいました。

そのため、日本人の結婚観は根底には今でも「付き合って、セックス楽しんで、上手くいかなきゃ別れりゃいい」という江戸時代の艶っぽい恋愛観を、明治時代以降に庶民に浸透した儒教的な「夫婦相和し」の原則に「キリスト教っぽい」デザインを施した包み紙につつんでいる感が否めません。

そんな自由恋愛への偏向した気分を更に自由奔放に解き放ってしまったのが、戦後の地域共同体の崩壊です。

戦前まではどんな恋愛のあやまちであれ、男女両方の親族共同体が、女性やその子に対してある種の責任を取るのが望ましいとされていました。

法的拘束と単婚小家族として家庭内での人間関係以外で、誰も他者からの干渉を受けない傾向が徐々に地方都市でも広まり、「社会的な体面を傷つけるか、傷つけないか」が当事者間の愛情、性愛への情熱、恋愛感情や相互理解より優先事項となってしまったのです。

今のところ、「カトリック教会での婚姻の不解消性の教え」が「宗教法上の離婚を認める」方へと方向転換することはないと思われます。その点は、カトリック信者でない方とカトリック信徒がお付き合いするに際して、心に留めていただきたいことです。

日本の皆さんにしぇるりんが言えることは、カトリック教会は独身の誓願を立てた司祭や修道者以外のカトリック平信徒や未信者の恋愛を認めていないということはない、ということです。

ただし、「カネがすべての世の中か」と疑いたくなるような時代だからこそ、パートナーとなる人の外貌や雰囲気ではなく、相手の人柄とじっくり付き合いたい、という気持ちが「ただ何となく」でも必要だと思います。

あとは、恋心です。カトリック信徒の立場でのキリスト教精神に基づく恋愛とは思想信条を問わず「結婚という苦労を負う行為をすることをいとわわないほどあなたの中で恋愛の情熱が強いなら、恋心を表現してもいいよね」って感じだとしぇるりんは思います。

「妻は夫が生きている間は夫と結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚して構いません」(コリントの信徒の第一の手紙7:39から抜粋)を現代風に読み直すと「何らかの事情で最初の結婚で努力の愛のたまものを見出すのに失敗した人でも、生きている間、日々の生活の中で誰かともに愛と尊敬の念を互いにいだいて苦楽を過ごす覚悟があるなら、恋を始めたいと願ってもいい」と読み換えられると思うのです。

ファーストラブであれ、セカンドラブであれ、恋愛から始めて結婚に至れば、経済的な責任、家族としての責任、子があれば両親としての責任、実父母、義父母や親族との関係や責任も伴います。一人から二人へと、二人から大勢へと生のフィールドが広がることが、孤立化、無縁化、お一人さま生活を脱却する糸ぐちになるでしょう。


次回は、カトリック教会法、民事の婚姻関連法の日本とキリスト教圏の違いと関わり合いについて書き下ろしたいと思います。

ルルドの聖母の執り成しを求めて祈ります。幸せな出会いを求める人々に、知恵と勇気と分別のたまものをお与えください、アーメン。


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