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2018年6月22日 (金)

聖ピオの世の終わりに関する12カ条を読み解く

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

さて、「世の終わり」に関して啓示を受けた聖人聖女は、新約聖書の終わりにある「ヨハネの黙示録」以降にも大勢います。


比較的近年で公的崇敬を許された例だと、ファティマの聖母、司祭のマリア運動、秋田の聖母のほか、20世紀前後に多くの聖人聖女やしるしを受けた人々が「世の終わりにもイエズスの愛とともにあるよう祈りなさい」といった趣旨のお告げを受けています。

↓可視の聖痕を受けていた頃のピエトレルチナの聖ピオ

Img_26

その中で、日本語でカトリック教会の教えを全く知らない方が「世紀末論」の一つとして、ピエトレルチナの聖ピオ(カプチン会司祭、1887~1968年、2002年列聖)の「世の終わりの12のしるし」を誤訳しているのを偶然見かけたので、英語訳を探して見ました。

すると、ヨハネの黙示録と同じく、「主が被造物を創造されたように、いずれ被造物の終わりの日が来る。だから、世の終わり、あなた自身の死に備えて主に向かい回心しなさい」という意味合いの内容である可能性が高いということがわかりました。

聖ピオは、しぇるりんがもっとも慕う聖人の一人です。聖痕のしるしを得たという奇跡もさりながら、教父時代からのカトリックの教えと伝統的な守護の天使の執り成しを勧めた方であり、古き教えと21世紀の現代をつなぐ聖人でもあります。

そこで、しぇるりんの信仰から捉えた聖ピオの世紀末への12のメッセージの訳文をご紹介したいと思います。

*・゜゚・*:.。..。.:*・’(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

  1. 世界は破滅に向かって歩き続けています。ひとは正しい道に向かうことを断念し、暴力の砂漠という危険な道に向かおうとしています。もし、彼らが人間性、いつくしみと愛の源から(決して渇くことがないと言われた主の水を)飲もうとしないなら、大いなる災いに至ることでしょう。

  1. ひどいことが起こるでしょう。私は人々のためにこれ以上の執り成しはできなくなります。聖なるいつくしみは、終わりを告げようとしています。ひとは愛ある生活を築き、いのちの破壊を止めなければなりません。

  1. 世界が人々に委ねられていた時、まるでそこは庭のようでしたが、人間は、委ねられた地を有毒なものにしてしまいました。もはや、人の子のいえをきよめるのに役立つものは、何もありません。天のみ国から来るものだけが、深く働く必要があります。

  1. 全くの闇の中で三日間を過ごすよう、準備しなさい。(キリストが陰府に降られ、三日間を過ごされた死の状態を耐える信仰を持てるよう祈りなさい、と解釈できます。)この三日間は、死の中にあって、食べることも、飲むこともかなわないでしょう。(本当に衣食住への不自由を表す。または主の肉と血の祭儀にあずかれないような、信仰の闇を体験するとも解釈できます。)そして、(キリストの)光が戻ります。しかし、もう光を見ることが出来ない人が大勢いるでしょう。(イエズスへの信仰の光に戻れない人が大勢いる、とも解釈できます。)

  1. 多くの人は、目標を見失ったまま、恐怖のあまり逃げ惑うでしょう。彼らは救いは東から来ると言って東に逃げては、断崖から落ちるでしょう。(東洋思想に救いがあると言って、安易に東洋やオリエントの思想に逃げると断崖に追い詰められるような心理状態になる、と解釈できます。)彼らは救いは西から来ると言って西に逃げ惑いますが、彼らはかまどで焼き尽くされるでしょう。(現代の西洋思想に安易な救いを求めると、自らが自らを焼き滅ぼすだろう、と解釈できます。)

  1. 全地はおののき、ひどいパニックに陥るでしょう。地球は病みます。地震は蛇のように起き、彼ら(蛇=悪の象徴)はどこにいても這いずり回ることでしょう。そして、多くの石(落石、爆撃、または落盤、罪を咎める何か)が落ちて来るでしょう。そして、多くの人々が非業の死を遂げるでしょう。

7.  あなたがたはアリのようである。なぜなら、その時は、あなたがたが 日々の糧に気を取られている時、不意に訪れるからです。ビジネスは略奪され、倉庫は破壊されるでしょう。貧しい人々は三ヶ月間(90日、または四旬節ぐらいの期間の喩えという解釈も可能)、ともし火(信仰の灯火、またはみ恵みの光)もなく、一杯の水(主のみずが途絶えた闇の状態の比喩、またはインフラの麻痺による渇水か。)もなくその闇の日々を過ごすことでしょう。

8.偉大なる地が消え失せ、国は地理的な地図から永遠に消されます。そして、その歴史、富と人は泥まみれになるでしょう。

9.ひとの愛は(無関心の蔓延により)虚しい言葉になるでしょう。もし、あなたが同じ食卓を囲む人々を愛せないなら、どのようにしてあなたはイエズスがあなたを愛することを期待できるでしょうか。神の科学者への怒りは赦されることはありませんが、(赦しは)人の心がけ次第です。

10.私は絶望しています。私は何をすれば人間性が悔い改めを得られるのか、わかりません。もしあなたがたがこの道を突き進むなら、神の大いなる怒りが凄まじい雷鳴のごとく引き起こされるでしょう。

11.地球に隕石が落ち、全てが光に包まれるでしょう。(原爆投下などの場面を思い起こさせます。)それは戦争よりもより悪しきもので、惨状を引き起こすでしょう。多くのものが役立たずになります。そして、これはしるしの一つになるでしょう。

12.人々は、悲惨な体験を生きることでしょう。多くの人々が川に溺れ、大勢の人が火に焼かれ、多数の人が毒物の中に葬られるでしょう。しかし、私はきよらかな心と常に共にいます。これらの悲惨な時に、神は人間性を救うために介入はされませんが、イエズスは御身の近くにとどまり、きよらかな心を持つ、心ある人々の声にいつも耳を傾け、お応えになります。


*・゜゚・*:.。..。.:*・’(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*


シリアの内戦、パレスチナの惨劇、ロヒンギャへの虐殺、クリミア半島での悲惨な状況、原発事故の悲惨や、地球をいくつも壊せるほど多くある核兵器の問題、環境汚染、世界中で起こっている経済格差と資源争奪戦による悲惨などでドロドロになってしまった地球と人類の21世紀の現実を思う時、聖ピオが言われた「世の終わり」を私たちはいま生きているのではないか、と思わざるを得ません。

特に9.にある「神の科学者への憤り、怒りは赦されるものではない」という部分は、私たちにとって心痛む現実です

原子力の利用を、人間の今までの来し方に想いを馳せることなく、計算上の「半減期2000年」などというとんでもない汚染物質を物理的に大量に作り出してしまったことが、取り返しのつかない事態だということを指しているようで、何とも暗澹たる思いを抱かざるを得ません。

私たちの数代前の祖先である、たった100年前の人々の現実にあった生活ですら、博物館の展示室の出来事としてしか感じられないほどの時の流れと、日常生活での現実の時間感覚と全く乖離した「机上の計算」を、「科学的な根拠」があるとして、唯一かつ合理的な考え方であると信じ込んでしまいました。科学的、物理学的な計算公式さえ成り立てば、何をしても「計算通りに人間は何でもできる」と思い込むあやまちを生きているのです。

人間が作ってしまったものであるにも関わらず、人間がどうすることも出来ない状況にあってなお、イエズスのそばにとどまり、信仰を通じて助けを求めるなら、イエズスは最善を尽くしてくださる、という聖ピオの力強いメッセージは、イエズスが私たちに最後の日まで勇気を下さる、というお約束を伝えられたものだと思います。

聖母マリア、聖ヨセフ、私をいつも守っておられる守護の天使と聖ピオの執り成しを求めて祈ります。

わたしたちがどのような状態にあっても、イエズスへのきよらかな信仰と愛への信頼にとどまることができますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年6月19日 (火)

「スピリチャル」と「キリストの霊性」の違い

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

しぇるりんはごく個人的な好奇心と出会いがあって、宗教人類学という学問をかじったことがあります。

なので、出来れば個人対個人でなければ話したくない話題が、いま流行りの「スピリチュアル」と「キリスト教における霊性」についてです。

今回は、「スピリチャル」とキリスト教における霊性、神秘主義の問題を掘り下げてみたいと思います。

私は「スピリチュアル」で生計を立てておられる方、趣味と実益を兼ねて副業としてなさっている方の業務妨害をする気はありません。ただ、グレーゾーンの問題で悩む方が多々おられるので、取り上げてみたわけです。

「スピリチュアル」は、国と地域により流行に偏りが見られるようです。日本国内では、主に西洋占星術、主に易経を起源とする東洋占術、霊感占い、ユダヤ教のカバラ秘数、日本の風水、「日本古来」を自称する様々な神道、仏教、道教などの修行や修練など、流行とは言えじつに多種多様なのが特徴です。

面白いことに、欧州では「スピリチュアル」でほぼ不動の座を占める主流が、インドのタントラヨガなどの神秘主義ヨガと西洋占星術、おなじみの水晶玉占いです。そして、主流とは言えないまでにも欧州では何かと社会問題になっているのが、日本人には殆ど馴染みのない「反キリストの悪魔術」、そしてアフリカ由来の「スピリチュアル魔術」の類いです。

東洋占術は、漢文で書かれた原典の欧州言語への翻訳本が少ないこと、特に中国を中心とする思想は漢字がしっくり来る文化でないと理論的に分かりづらいという問題が、欧州では文化的な距離感と感じられているようです。

これらの「スピリチュアル」や「ヒーリング」などは、日本でも欧州でも同じように一定の愛好者がおり、欧州でもパリの有名な占星術師は一ヶ月先まで予約一杯、などという話は女性雑誌にも書かれている通りのようです。

学生時代、複数の「スピリチュアル」を生業とする人々にインタビューをしたことがあります。彼ら、彼女らは、15分~の占いから、1週間ほどの「ご祈祷」や「ヒーリングツアー」の企画で、主に一時的な慰めを得たい人々や自分の欲求を叶えたいと願う人々を相手に商売しています。

方法論はさまざまですが、彼ら、彼女らは自分の慰めが通じる相手を選んで顧客とする傾向があり、とくに病気でないけど不安や悩みある方々のお手軽カウンセラー、また、人生相談の聴き手的な面もある一方で、スピリチュアルの分野により得手、不得手があります。

「スピリチュアル」に従事する多くは「未経験可、独学可」ぐらいの緩い募集要項で集まる人であることも多く無害な相談の聴き手である場合もありますが、スピリチュアルに関わることで「ある種の霊的な災害」に巻き込まれる可能性は否定できません。

また、「スピリチュアル」の方々はあくまでも商売でやっていることなので、あなたの魂の安全や、人生の選択に対する責任を負ってくれるわけではありません。

日本ですと、「スピリチュアル」と「キリスト教の霊性」のグレーゾーン問題として、「特定の地の気はどうなのか?」「霊的な家筋には、祖霊が憑いているのか?」などがキリスト者同士でも話題になったりします。

実際、地の気があるかどうかと言われると、しぇるりんも完全に否定は出来ません。霊感占い的なものと、いわゆる中国朝鮮で古来から、山川草木の地理の「地の気」を総合判断する「風水地理学」は、異なる分野だと思われるからです。

また、それぞれの地域の地層や位置的影響、伝統、歴史などの要素を、東洋的には「地の気」と感じ取っているだけかも知れないので、グレーゾーン問題だと感じています。

また、実際にとても信心深いカトリック信徒の中には、しぇるりん自身のように「過去に存在した地域の神社や習合宗教の宗教者の末裔」である人があんがい多いです。

何となく「神霊的なものが、時代の変化でより所を喪失して霊感の強い自分に憑いている」のが煩わしく、「えいっ!」と洗礼の秘跡と信仰の実践を通じて「悪霊の拒否」で追い払ってしまったのは、どうもしぇるりん一人だけではなかったようです。

聖コルベは「日本はとても悪霊の多い国だ」と言われたそうですが、欧州で言うところの「悪魔」のような強い悪霊はほぼ見られないようです。

ちなみに、日本のカトリック教会で映画「エキソシスト」に出て来るような「悪魔祓いミサ(エキソシズム)」が行われたのは、誤解により一回だけ、が公式記録のようです。


カトリックで言う悪魔祓いは、「トイレの向こうから変な音がする」などの「霊異現象」では行いません。

いわゆる「オカルト現象」に対して行われる祈りは、カトリック信徒なら誰でもが知っている日常的な祈りです。十字架の印、主の祈り、アヴェ・マリアの祈りなどと、建物や場所の祝福の祈りであり、悪魔祓いではありません。

ただし、「オカルト現象に悩むと主張する信徒がいるので、祝福の祈りをしに司祭が訪問する」時には、そのたびに教区長の許認可が必要です。

悪魔憑きが疑われるのは、次のような事例です。

ご聖体を安置する教会に入ろうとするとうら若い女性が男の野太い声を出して叫びをあげたり、ミサの間に暴れたり妨害行為やイエズスやマリアへの暴言を吐き続ける、教会の十字架や聖母マリアなどのご像やご聖体に対して異常な恐怖感を覚えて暴力を働く、心身に何ら病気が見つからず、向精神剤も効き目がないのに深刻な病状がある…などの症状が見られる場合などです。

その場合、前述の祝福の祈りでの反応を悪魔祓いミサの有資格者である司祭が司教に報告し、司教以上の職位にある司祭が悪魔祓いミサの必要性の有無を判断します。

なので、日本人と関わる悪霊の多くはグレーゾーン以下の「デーモン」であり、心から本人が望むなら、洗礼やミサ聖祭、そして真摯な信仰心を通じて悪霊をほぼ完全に退けることができるようです。

さて、ここまではスピリチャルとキリスト教の霊性とのグレーゾーンとブラックゾーンの区分に関するお話でしたね。


↓キリストのみ心の聖画

Unknown では、キリスト教における霊性への渇望とは何でしょうか。


私たちは、夜、まるで現実以上に鮮明な鮮明夢を見たり、ふとした瞬間に、生涯、いつまでも忘れがたい心の声を聴いたりすることがあります。

それが、単なる個人的な体験に終わり、キリストの招きについて心を巡らせないなら、「ただなんとなくこうなったみたい」、「これは運命だったのよ」などの「感想」として、断片的な出来事で完結してしまい、自らの心に響くことなく忘れ去られていくのかもしれません。

しかし、もしわたしやあなたが、イエズス・キリストの招きに精いっぱい答えたいと思うのなら、ちょっとした幸運や不幸、人生の転機や停滞期にも、キリストの招きを感じ、自分なりに行動し始められるかも知れません。

キリストの愛を行えば、私の中で、そしてあなたの中で働かれるキリストの愛はより豊かになり、より多くを分かち合えるようになります。

一人のひとにいのちがたった一つである以上、いくつもの道を浮ついた気持ちで、つまみ食いしていたらば、浅く、広いけど、人間的な葛藤に揉まれたまま生涯を終えることになるでしょう。

もし、キリスト者がキリストの名において一つの道を歩もうとするなら、ある程度生きて、ふと、うしろを振り返った時、「ああ、この道を歩んできたのだなぁ」という安らぎを得られると思うのです。

キリストの道を歩もうと、自らの小さな人生の中で精いっぱいを尽くすことこそ、キリスト者の霊性への小道だと私は思います。

小さな今日を、聖母マリア、聖ヨセフと守護の天使と大天使の執り成しでイエズス・キリストに献げることが、誰にでも今日から出来るキリスト者の霊性への道だと思います。


あなたの今日が、キリストのみ心で安らぎますように。

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2018年6月15日 (金)

ご聖体の秘跡ーキリストの肉と血の奉献

(その日、モーセは山から)戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」というと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

(出エジプト記24:3~8、聖書と典礼より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

冒頭の聖句は、キリストの聖体の祝日の時の第一朗読でした。

内容的に見ると、現代人には誰にせよ馴染みづらい内容だと思います。

雄牛はモーセの時代、最も貴重な家畜であり、現代で言うところのベンツぐらいの価値のある財産であると同時に、貴重なタンパク源でもあったと思われます。

でも、乳を出して仔牛と人々を養い、仔牛を産む雌牛じゃないわけです。雄牛は雌牛と同じ数必要なわけではないので、古代社会では一種の余剰財産でもあったわけです。

古代の人々は、文字通り「自分たちにとっていちばん大切な財産であり、いのちある所有物」という「カタチある何か」を見えない神に献げることで、見えない神と契約を結び、また何らかの約束を取り付けようとしました。

エジプトの王墓や中国などの王陵には、殉死者の遺体や殉死者をかたどった何かが埋葬されています。それらは、王朝の来世での再生を願って行われたものでしょう。

また、災難や災害から集団を守るため、生きた人間や馬を生贄にする習慣が古代日本にもあったことが、地方の伝説、日本書紀、神社の「絵馬」などの習慣からうかがえます。「絵馬」は文字通り、生きた馬を罪のつぐないのために屠った習慣に由来するもので、農耕社会になってから馬サイズの絵になり、それがミニサイズ化したのが現代の「絵馬」なのです。

そう考えると、地球上のどこの文化が特別に残酷だとか、穏当だと言うより、古代人は、目に見えない神聖な何かとつながりを保ち、目に見えない何かへの恐怖に打ち勝つため、目に見えるいのちを文字通り「献げる」必要があったわけです。

しかし、時代が変わるにつれて、目に見えない主なる神と「わたし」とのつながりは、恐怖や不安をともないつつも愛や信頼といった、もっと個人的、かつ「目に見えないつながり」である方が自然だ、という考えが人々の間に定着していきます。

同時に集団=自我というほど強い結束ではなく、自我と自我の間に一定の距離を置いたつきあいを持つ「社会性」が芽生えて来たように感じます。

モーセの時代には、大集団が一頭の雄牛を献げるだけですべての民に神の契約のことばが知れ渡ったのが、人々が分散し、さまざまな場所で社会を築くことで、これらの祭儀も家族、親族、地域単位で分散して行きます。

古代の壮大な儀式は、後代のより複雑化した社会を生きる人々には、経済的に大きな負担を伴いました。

イエズス・キリストがお生まれになった頃には、聖マリアと聖ヨセフに象徴される一種の核家族状態が、都市部では既に一般化していたのでしょう。

主なる神との契約を、膨張し複雑化する社会の変化の中にあって幼な子のように守り通すことの不可能さ、赦しの祭儀に必要とする多大なる代償の支払いの困難さは、必然的に「内なる信仰としての主なる神との契約」という考え方に結びついて行きます。

↓教皇フランシスコの聖餐式

Popefrancisraisesthehost

イエズス・キリストはただ一度、この世に主の御子として遣わされ、自らのいのちをすべての人類のあがないと赦しへのささげものとして、十字架上で奉献されました。

イエズスは、私たちの信仰において日々の心身の痛み、苦しみ、悩み、あえぎ、血と汗を共にされることで、永遠のいのちのあがないと赦しを成し遂げられました。


イエズスのご受難と死とご復活は、私たちに永遠のいのちへの希望を持たせ、平凡な今日一日が全く意味のないものではなく、永遠のいのちへと私たちそれぞれを導くための何かであるという信仰へと導いてくださるのです。

わたしたちは、キリストの肉と血をいただく聖餐式を通して、他者を赦せるように、自分をゆるし、他者を愛するように自分を心から慈しめるようになります。

ご聖体のまことの神秘は、キリスト者として水で洗礼を受け、聖餐式を共同体とともにすることにより、キリストの愛の秘跡を実感することにあります。

聖餐式は慣れないうちは単なる儀式的な何かにしか感じられないかも知れませんが、それは家族や人とのかかわり合いにも言えることだと思います。

はじめは、どうして、なぜ、どのようにこの人とかかわり合うのかなんて分からないまま、まず、関わりが生じます。


その関わりを育てる関係性のあり方が、家族、親子、夫婦、親しい友人や知人や共同体との関わる日々のなにげない言葉のやり取りや生活だと思います。

聖餐式を通じてわたしたち一人ひとりがそれぞれのあり方でキリストとの関わり合いを保つことで、わたしたちはキリストの愛のうちに育まれ、永遠のいのちの契約を新たにし、自分のいのちが生まれた意味、生きた日々の意味について、いつか父なる神が教えてくださるよう、願えるようになるのです。

キリストの愛を知ることは、主のゆるしを知ることであり、あがないへの祈りへと誘われることです。

日々の生活に追われる私たちは、思うように祈りに時間を取れず、ともすると目新しい何かを追いかけることに必死になってしまいます。

いちばん新しいものは、いちばん古いものの中に隠されています。

ご聖体の秘跡は、モーセの契約を全人類が新たに愛の契約として主なる神と結ぶ、いちばん古くて、新しく、そして誰もが触れ得る神の右の手だと思うのです。

主の右の手に、聖母マリアと聖ヨセフの執り成しをもって触れようと手を伸ばす時、主はきっとあなたの右の手をとって正しい道へと導いてくださるでしょう。

どうか、良い1日でありますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2018年6月12日 (火)

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ殉教司祭

(現在の聖母の騎士修道院の土地購入の際)

「支払いのお金はあるんですか。」

「いいえ、今はありません。」

「神父さま、お金は確実にポーランドから送ってくるんでしょうね。もし、送ってこなければ、千五百円は戻って来ないんですよ。」

するとコルベ神父は行った。

「送って来るか、来ないか私は知りません。この土地を買うことが、けがれなき聖母マリアさまのお気に召すならば、必要なお金は必ず送って来るでしょう。お気に召さないならば送って来ません。それは私の心配することではありません。すべては、けがれなき聖母マリアさまのお望みにあるのですから、すべてお任せしています。」

(小崎登明著《ながさきのコルベ神父》聖母の騎士社より抜粋)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

日本にゆかりのある聖人で、近代で最も有名な方といえばアウシュビッツ収容所で餓死刑を自ら進んで受けた聖マキシミリアノ・マリア・コルベ殉教司祭でしょう。

1930年(昭和5年)、日本は既に日華事変のただ中にあり、外国人=スパイとみなされていた時代、内外の宣教会、または司教団が招いたわけでもないのに、「けがれなき聖母のみ心です」という信仰ただ一つを抱いて、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士の二人を引き連れて、長崎に降り立ったのがコルベ神父の日本宣教の始まりでした。

たまたま、長崎の神学校では哲学教師を必要としており、コルベ神父は哲学教師の有資格者でした。そのため、当時の長崎大教区の早坂司教は渡りに船と三人の聖母の騎士の滞在を「色々と揉めた末に」許可したのです。

その後、日本語もカタコトしか分からないまま、渡日三ヶ月後には<聖母の騎士>第一号を発行しました。

↓写真中央の方が聖コルベ、左隣がゼノ修道士

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コンヴェンツァル聖フランシスコ会の中でも清貧とけがれなき聖母への信心に熱心な聖母の騎士たちは、さまざまな難関を乗り越えて、現在の長崎県本河内2丁目にある修道院を、当時の国粋主義化の時代に逆行するような勢いで建設します。

そこには、多くの犠牲と聖コルベの秀でた霊的指導がありました。

けがれなき聖母のみ心の執り成しを願って、全てを祈り、すべてを任せきることが、聖コルベの教えの真髄だったと思います。

誤解されやすいのが、聖コルベが聖三位一体であるキリストへの信心よりも、けがれなき聖母へのみ心にお任せすることを優先したのではないか、という点でしょう。

確かに情緒的な面で、聖コルベはアシジの聖フランシスコの「イエズスの赤い十字架の血の階段ではなく、聖母の白い階段をのぼりなさい」という教えを積極的に実践した方のようです。

実際、聖コルベが幼い時に夢で聖母が「殉教の赤い冠と聖性の白い冠のどちらが欲しいですか』と問われて「両方ともください」と答えたことが、司祭召命へのきっかけだったと伝えられています。

日本でも肺結核を病んだまま1936年5月23日にポーランドのニエポカラノフ修道院の院長に任命されて去るまでの6年間、聖コルベはまるでご自身の人生の縮図であったかのように、修道院と小神学校(元聖母の騎士高等学校)建設に携わりました。

その間、修道院長としての苦難、そしてコルネリオ院長の就任とともに長上への従順を生き、念願だった日本での殉教を果たせないまま、ポーランドに帰国されました。

聖コルベはその後、5年しか生きられませんでした。

第二次世界大戦が始まり、長崎の聖母の騎士らには本国からの送金も連絡も途絶えてしまいました。

聖コルベが選んだ精鋭の一人、ゼノ・ゼブロンスキー修道士は全国を回り、多くの人と親交を結びました。ゼノさんのたどたどしい日本語と人好きのする態度は、当時、外国人スパイを担当する外事課の担当者にすら認められるほどでした。

聖コルベは、ニエポカラノフ修道院の院長としてナチスドイツと対峙する困難な役目を果たすべく最善を尽くしてなお、二度も強制収容所送りになりました。

一度目のアムティツ強制収容所送りではどうにか釈放されたものの、二度目に送られたのはアウシュヴィッツ強制収容所でした。

過酷な労働、「司祭のブタ」となぶられつつ虐待を受け、困難な中にもロザリオの祈りとけがれなき聖母マリアさまへの信心、兄弟たちへの愛がゆらぐことはありませんでした。

1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれた10人が餓死刑に処せられることになりました。番号で呼ばれた中の、フランツェク・ガイオニチェックというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き出しました。

その時、聖コルベはナチス親衛隊員の前に進み出て「私がその人の身代わりになって、餓死刑を受けます」と言ったと伝えられています。親衛隊員に「貴様は誰だ?」と言われて「司祭です」と答えたと言われています。

その後、水一滴与えられないまま10日間、聖コルベの餓死刑の房の中からはとぎれとぎれの聖歌と祈りが聞こえていたそうです。

そして、10日目、最後に生き残っていた聖コルベは自ら腕を差し出し、殺害のためのフェノール注射を受けて亡くなりました。

聖コルベは最後までけがれなき聖母マリアさまに全てを任せ、弱い上に結核を患っていた身体で、司祭の務めを果たされました。

「ほんとうのニエポカラノフは天国です」と言われた聖コルベに倣い、まことの神の国、イエズスのみ心と、けがれない聖母マリアさまの執り成しに自らの全てを任せられるよう、みなさんとともに祈りたいと思います。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年6月 8日 (金)

尊者ヴィンセンチオ・チマッチ司祭

「私たちが目の前に置くべき理想は、イエスです 。 基本は、自分をイエスと同じようにささげることで す... 完徳を目指す人は 、十字架を見るべきです。 そして 、実生活の中の毎日の小さな十字架をささげるのです。毎日の自分の務めこそ、神のみ心であることを考えましょう」
(テレジオ・ボスコ著;コンプリ神父訳《チマッチ神父、日本を愛した宣教師》より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

日本で列尊された尊者で有名な方といえば、神のしもべ、ヴィンセンシオ・チマッチ神父の右に出る方はいないでしょう。

1923年にフランス宣教会から、宮崎県、大分県などの宣教活動及び青少年教育活動のため、イタリアのサレジオ会本部に日本への宣教師派遣の要請がありました。

その時「偉い役職につきたくない。貧しい人々と共に生きたい」と願い出た司祭が、チマッチ尊者です。当時、音楽では王立パルマ音楽院のコーラスのマエストロ、自然農学および哲学博士の称号を持つ方であるにも関わらず、日本宣教団の長という困難の多い役割を引き受けました。

音楽家としてのチマッチ尊者は、カトリック聖歌627番のアヴェ・マリアの作曲者など多くの楽曲の作曲、演奏を手がけられ、上掲のアヴェ・マリアはふるさとイタリアでも歌われています。

↓子どもたちに囲まれたチマッチ尊者

Images

日本に来た当時、小学校一年生の国語の本で日本語を学習していたチマッチ尊者は、国語の教科書にあった詩を歌にしたと伝えられており、「サルとかに」「でんでん むしむし」「うちの子ねこ」「ふじの山」「ねんねんころりよ」「春が来た」などの原曲を作曲したとも伝えられています。


その後、現在のカトリック調布教会、カトリック下井草協会、サレジアンシスターズの招聘、現在のイエスのカリタス修道女会(旧宮崎カリタス修道女会)の設立、ドンボスコ社の創立、サレジオ中学高等学校、サレジオ工業高等専門学校の設立など、いろいろな宣教事業を展開しつつも、常に貧しい子どもらや青少年を忘れたことはなかった方です。

チマッチ尊者は戦前、戦中、終戦後に各地で音楽公演を行いましたが、音楽公演は好意を得ることに役立っただけで、寄付金などは殆ど集まらなかったようです。

宣教師らは長い間、苦しい自給自足の生活の中にあり、本部からの送金を願う手紙をたくさん書いていました。

また、主任司祭から修道会の責任者まで、実にさまざまな役割をこなしつつ、清貧を生きることを大切にした方でもありました。

チマッチ尊者は、長上職につくことを好まず、「モンシニョール(教区長)」に就任した際、ふるさとイタリアの教え子らが送ろうとした教区長の祭服を「それを売って、貧しい人々に施してください」と断るほど、「一人の宣教師」であることにこだわりました。

尊敬されるよりも長上への従順を、重んぜられるよりも一人の宣教師としての活動を好まれたようです。

冒頭にある神学生らに送った言葉の中で「完徳を目指す人は 、十字架を見るべきです。 そして 、実生活の中の毎日の小さな十字架をささげるのです。毎日の自分の務めこそ、 神のみ心であることを考えましょう」というひと言がチマッチ尊者の全てを表しているでしょう。

毎日の小さな十字架を捧げること、毎日の自分の務めこそ、神のみ心であると考えるなら、辛い時にも、悲しい時にも十字架上で苦しみに遭われてなお、愛に満ちておられたキリストの道に従うことができるでしょう。

自分の十字架とて、背負うのはラクではありません。投げ捨てたくなることも多々あるのが、日々の十字架でもあります。

主にいただいた今日一日をすべて任せきりたいと願うなら、日々の小さな十字架を担って一日を過ごす勇気もひねり出せることでしょう。

実際のところ、今日のたった一日とて思い通りにならなければ、私たち凡人はイライラしてしまいます。

そんな私たちを尊者チマッチは、やさしく慰めてくださいます。

このブログを読まれる方々にも、サレジオ会系学校の卒業者や、関係者は大勢おられるでしょう。

どうか、尊者チマッチの列福のため、常に日本と日本人を心から愛し、慈しんでくださったそのお気持ちへの敬意をもって、尊者チマッチ司祭の執り成しを願ってお祈りいただければと思います。

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2018年6月 5日 (火)

福者パウロ六世教皇の「初めて」と「最後」づくし

「絶対正しい真理の保持者という確信のもとに世界の営みから超越し、社会との対話と協調の必要性を認めない教会、それが、第二バチカン公会議が開催されるまでの教会の姿でした。私は、そのような雰囲気の中で(カルメル会での)修道生活を行い、神学を学び、司祭になる準備をしていたのです。」


(森一弘2004《心の闇を乗り越えて》オリエンス宗教研究所p.81より抜粋。森司教は1968年、第二バチカン公会議の真っ只中にローマで神学院を卒業し、帰国。)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

2018年10月14日に、第二バチカン公会議の立役者であった福者パウロ六世教皇の列聖式が執り行われることになりました。

17世紀に行われたトリエント公会議以来の時代の転換点となった第二バチカン公会議の召集準備委員会を立ち上げ、1963年に同公会議を招集したのが、聖ヨハネ二十三世でした。

その時、既に胃ガンに侵されて余命いくばもなかった聖ヨハネ二十三世の遺志を継ぎ、第二バチカン公会議を行い、カトリック教会の刷新へと舵をきったのが福者パウロ六世です。

パウロ六世は、いままでのところ最後に戴冠式を挙行した教皇であり、教皇冠という王冠を頂いた教皇です。

また、初めて飛行機に乗り、初めて聖地エルサレムを訪問した教皇でもあります。世界の五大陸を訪れ、諸教会の対話、エキュメニズムの先駆者として英国国教会のカンタベリー大主教や正教会とも対話されました。

このブログをお読みになる方々のほとんどが、第二バチカン公会議以前のカトリック教会について、あまりご存知ないかも知れません。

第二バチカン公会議以前のカトリック教会では、司祭は会衆にお尻を向け、祭壇の方を向き、聖餐式の多くの部分をラテン語で行なっていました。

実際、ラテン語+日本語のミサに与った経験からすると、どうにも日本のお葬式のお経のように「世間離れした、なんとなく意味不明な印象」が否めませんでした。

また、カトリック信徒は司祭との勉強会など以外で聖書を読まないよう、勧められていたとも聞きました。信徒が聖書を勝手に解釈しないように…という配慮?、からだったそうです。

ローマ司教が外遊し、平和への祈りをしただけで世界中のマスコミがてんやわんやの大騒ぎをした時代が、二十世紀には実際にあったのです。

これらの多くのことがらが、第二バチカン公会議を通じて変わりました。

↓第二バチカン公会議に臨席されるパウロ六世教皇

1280pxsecond_vatican_council_by_lot

福者パウロ六世が始め改革的な動きの中で注目すべきなのは、シノドスと呼ばれる「司教会議」の開催、コンクラーヴェ改革で80歳以上の枢機卿のコンクラーヴェでの選挙権をなくしたこと、および「ローマ教皇」の職務を「バチカン市国の王座という権威と共にカトリック教会の教えを伝える者」から、その署名通り、「カトリック教会の教えを宣べ伝える、神のしもべの中のしもべ」へと方向転換を求めたことにあります。

福者パウロ六世は教皇冠を米ワシントンD.C.にある無原罪の御宿りの聖母教会に寄贈し、今もパウロ六世の教皇冠の拝観料はパウロ六世の意向に従い、貧しい人々のために使われているようです。

当時の欧米世界では、第二バチカン公会議によりローマ教会の権威が失墜が始まった、と感じる保守派も多かったようです。

しかし、この時代的な変化はトリエント公会議以来の教会の歪みへの揺り返しであり、教父時代からの素朴な使徒伝承の教会へと、ローマ教会が生まれ変わるための序曲です。

聖ヨハネパウロ二世教皇以降、教皇戴冠式は制度上廃止されてはいないものの、就任式だけが行われるようになりました。

カトリック教会の教えが、第二バチカン公会議を通じて「相対的な真理に格下げされた」と考える一部の復古主義者らの考えはあやまちだと思います。

信仰は、どの宗教であれ一つの道です。どの道を歩もうか悩むだけで生涯を終えるなら、どれほど優れた教えでも役に立たないでしょう。信教思想の違いを人間的な思い込みだけで裁いてはならない、人の内奥を全て知る神の裁きに最終的にはすべてお委ねする、という意味で諸宗教の対話、エキュメニカル運動もまた可能なのです。

いのちが一つなら、道もまたひと筋以外は歩めない、という意味合いでいうなら、カトリック教会の教えを信じる人にとって、昔も今も変わることなくカトリック教会の教えは真理であり、道であり、いのちに至る道なのです。

新約聖書の使徒言行録には、聖霊のみ恵みによって新たにされた使徒と弟子たちが、人間的な弱さや迫害の嵐のなかにあってなお、キリストの教えはひろく、深く人々の心に沁み入った、とあります。

ローマ教会が自らの権威を守ることより、素朴にイエズス・キリストの教えを宣べ伝える教会共同体であることに徹することを現代社会とこれからの時代のニーズに合わせてより明確にしたのが、第二バチカン公会議のいちばんの成果だと思います。

私は個人的に、第二バチカン公会議なしにはカトリック教会と出会ってはいなかったかも知れない人間です。

小学生のころ通っていた長老会系の教会の日曜学校で、第二バチカン公会議による「エキュメニカルな対話」の実践として、「日曜学校の礼拝で、近くのカトリック教会の神父さまがお試しで説教をする」というイベントがありました。

結果は、最悪でした。子ども心にも「コッチコチで何を言いたいのかよく分からなかった」という印象が残ってしまったのです。

後で、当時のカトリック教会の方の信者さんにこの話をしたら「あら、そんなことないわ!その神父さまは、とても分かりやすいお説教をしてくださったわよ!」とのこと。

どうも、プロテスタントの牧師さんとカトリックの神父さんの話術の技法や技量が当時はだいぶ違った上に、子ども相手だからこそ相当、緊張しておられたのでしょう。

そこで、互いにしこりを残さないよう長老会の方の日曜学校から「合同運動会をしましょう」という提案がなされました。その運動会の時、いささか疲れた表情をしたシスターのベール姿を見かけた時「洗礼を受けるなら、あっちかな?」とチラッと思ったのが、私とカトリック教会との最初の出会いでした。

1965年の第二バチカン公会議の閉会から、半世紀以上の歳月が経ちました。

カトリック教会は、まさに「隅の親石の上に建てられた」教会共同体です。神のみ心がなければ公会議は頓挫するようで、第一バチカン公会議は普仏戦争を期に頓挫しました。

その点、第二バチカン公会議は1959年1月25日、17人のローマ枢機卿の集う聖パウロ修道院の門外をふらりと訪れた教皇ヨハネ二十三世が「公会議を招集します」と告げたことから始まった、と言われています。

この決断は長い熟考の結果ではなく「予期しないところにふと訪れた春の木々の芽生えのように生まれた」ものだと伝えられています。

その春の木々の芽生えを慈しみ、《第二バチカン公会議文書》という祝福された若木へと育つよう見守り続けたのが、福者パウロ六世教皇です。

いま、私たちは当たり前に自国語でミサにあずかり、海外の旅行先、駐在、在住、移住先などでその国や地域の言語のミサにあずかることにさほど不安を覚えなくなりました。

世界のほとんどの国や地域のカトリック教会のミサはローマ典礼規則にもとづくミサであると、心から納得できるからです。そして、言葉が違うからと言って、ミサが違ったり、信仰が違ってしまうことはないと、第二バチカン公会議以前より深く確信が持てるようになりました。

なぜなら、地域ごとの霊性の違い、文化の違いを知ることで、わたし達は以前より文化が違う兄弟姉妹たちへの愛が深まることもある、と知ったからです。

福者パウロ六世教皇の列聖は、胎児の脳腫瘍が消えるよう祈り、その願いが叶えられたからだそうです。

その祈りの結果が医学的に証明できる、できないに関わりなく、祈りの執り成しを求めることは、カトリック信徒にとって大切なことです。

その祈りが聴き届けられた事じたいも大切かも知れませんが、その祈りを通じて少しだけイエズスさまを親しく知るチャンスになるからです。

聖ヨハネパウロ二世教皇、ベネディクト十六世名誉教皇、そして教皇フランシスコと、徐々にですが、権威あるローマ教会という黄金の冠をかなぐり捨て、イエズスのいばらの冠を自らかぶろうと先人の開いた道を、更に前へと歩んで来ておられるようで、頼もしい限りです。

私たち信徒の信仰も、さらに刷新されるよう、福者パウロ六世教皇の執り成しで祈りたいと思います。

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2018年6月 1日 (金)

サンサルバドルの英雄、福者オスカル・ロメロ大司教

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

2018年10月にサンサルバドルの英雄とたたえられた福者、オスカル・ロメロ大司教の列聖が決まりました。

日本ではあまり知られていませんが、チェ・ゲバラ氏などが南米大陸に大きな影響力を持っていた1970年代、他の南米の国々以上に、エルサルバドルは混乱の真っ只中にありました。

その当時、主に南米での独裁政権時代、右派と左派の対立が暴力の嵐を呼んだエルサルバドルで、解放の神学という「民主主義政治を求める市民に対し、教会共同体は支援をすべきだ」という考え方を実践したオスカル・ロメロ大司教については、その政治的だとみなされた活動が足かせとなり、列福、列聖に時間がかかったようです。

ある意味、重なり合う時代を生きながら、ロメロ大司教が教皇フランシスコと違う道を歩まざるを得なかった要因は、福者オスカル・ロメロ大司教が保守的な修徳神学の学者でありながら、貧しい家庭での辛い労働に病弱な身体で耐え抜いた方であり、教区司祭出身であったこと、そして南米でもっとも過酷な独裁政権の真っ只中に置かれたからだと、私は思います。

教皇フランスシスコ、往時のベルゴリオ神父はイエズス会士であり、イエズス会の修練長も歴任されたため、解放の神学の最先端を突っ走る若い司祭や修練者と常に共に行動してなお、自然な立場でした。

その点、ロメロ大司教は教区司祭出身でありながら、イエズス会士で、彼の個人的な友人であり、貧しいカンペシノ(農民)の自助グループの結成を支えてきた、ルティリオ・グラン師が暗殺されたことへの調査を当時の政権そのものに訴えかける、という形で解放の神学との関わり合いが始まったことが、世界的に理解と誤解を生んだ原因になったことは否めません。


↓神のしもべ、福者オスカル・ロメロ大司教(2018年10月に列聖)

1440pxscar_arnulfo_romero 989年の映画「ロメロ」の中で描かれた福者オスカル・ロメロ大司教には、保守的であるがゆえに、真面目かつ真摯に第二バチカン公会議の指針に忠実でありたいからこそ時の政権への抗議と信徒の平等という理想を行おうとした意向が垣間見えるシーンが出てきます。

農政改革に非常に熱心な官僚の夫人が、ロメロ大司教に我が子のために「貧乏人の子ども達とは別に個人で堅信式(または初聖体)を行って欲しい」と願うシーンがあったと記憶しています。が、ロメロ大司教は「秘蹟にあずかる者に、貴賎はない。富裕層の子女のために、別途の式を行う気はない」と突き放してしまったのです。

この点、教皇フランシスコ、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ神父の対応は、全く対照的なものでした。映画「ローマ法王になる日まで」のシーンにあったように、富裕層の望みを断ることがキリストの愛の教えに逆らうと思えば、富裕層の個人チャペルでのミサ司式もあえて断らない柔軟な対応を取ったようです。

もちろん、アルゼンチンに比べ、エルサルバドルは今も往時の内紛の傷跡が癒えぬ地域であり、治安状況もよくないです。

その違いを肌身に染みて理解する教皇フランシスコだからこそ、当時のロメロ大司教の対応がサンサルバドルでは必要だったと認められ、今回の列聖につながった可能性はあります。

「当時は、政権と大司教の対立も致し方なかった。ロメロ大司教が政教分離の原則を崩そうとしたり、カトリック教会の教えに反する行動を取ろうとしたのではない」と言う見解は、1960~1990年代の民主化闘争、民衆闘争の時代を振り返ることができるだけ十分な時間が経ったから、だとも言えましょう。

実際、ロメロ大司教は、司祭としては、アルコール依存症患者の自助グループの支援、平和の聖母信心会の創設など、聖なる司祭に相応しい穏健な活動をして来た方です。

それが、往時のエルサルバドル独裁政権のあまりの過酷さに耐えかね、政権そのものと対峙して弾圧を受ける人々の立場で訴え、当時の教皇ヨハネパウロ二世にエルサルバドル政府とバチカンとの関係や距離感を考慮してくれるよう上訴した点などが、「あまりに過激に解放の神学的」だと評価される原因となったわけです。

また、1979年にノーベル平和賞候補に上がったことも、ロメロ大司教が「世俗的すぎる」と言われた点かも知れません。結果として、同年のノーベル平和賞受賞者が聖マザーテレサだったことは、カトリック教会にとってある意味、皮相な結果でした。

ロメロ大司教は、その後カトリック教会以外の教会でもエキュメニカル運動の中で、「民主化と民衆のために尽くした殉教者」として世界的に認められて行きます。

病院のチャペルで聖餐式の真っ只中に銃で撃たれたと言われ、その葬儀はサンサルバドルの「暴動」と看做され、更に40人以上の死者が出たこと…など諸々の事柄がロメロ大司教を「民主化の聖人」に仕立て上げていったようです。

1960年代~1990年代まで、民主化運動が日本赤軍などの「サヨクの悪行」に矮小化された日本以外の多くの国では、基本的人権の実践、男女差別、障害者差別の撤廃、優生思想の全面廃止、国民主権の実践、必要な国では公民権の獲得など、民主化とヒューマニティーへの多くの課題に、民衆の一人ひとりが社会をあげて立ち向かっていました。

暴動、事件、非常事態宣言がなされ、戒厳令という言葉が世界の随所で聴かれたあの時代にあって、ロメロ大司教は真面目すぎるくらい真面目に、貧しい人、弾圧される人々と向き合い、いのちを捧げました。

いま、天国で自らの列聖式を見るであろうロメロ大司教は、21世紀の世界をどうご覧になっているのか、気になります。


おそらく、世界中に再び戦禍が広まりかけている現状を憂慮し、平和のため、聖母マリアさまの執り成しを求めて祈っておられるでしょう。

サンサルバドルの英雄は、平和と祈りにいのちを捧げた英雄でもあったと思います。教皇フランシスコの意向に従い、シリアの平和のため、またわたしたちそれぞれが自らの十字架を担いつつ歩む日々を平和の祈りに捧げられるよう、願ってやみません。

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2018年5月29日 (火)

「教会の母聖マリア」の祝日制定と福者パウロ六世

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時からイエスの母を自分の家に引き取った。

(ヨハネによる福音書19:25~27)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

聖霊降臨祭の翌月曜日が、教会の母聖マリアの大祝日に制定されました。聖霊降臨祭に主日のミサに出た方は、お聴きおよびかと思います。

日本にはキリスト教の祝日がないため、分かりにくいのですが、欧州や南米には、聖霊降臨祭の土曜日~月曜日までが「Bank Holiday=金融取引をしない日」に定めている国々があります。日本でいうところの、国の祝日ですね。

そのため、聖霊降臨の大祝日の翌月曜日に、教会の母聖マリアの祝日を定めたようです。

↓福者パウロ六世

Paolovi

これは、第二バチカン公会議という新しい時代への幕を文字通り開いた福者パウロ六世が2018年10月14日に列聖される決定と共に、福者パウロ六世が「教会の母聖マリアへの信心」を勧められたことにあります。

典礼秘蹟省の教令は、次のように語ります。

『 教皇フランシスコは、この信心を奨励することが、司牧者と修道者と信者における教会の母性の感覚の成長とともに真正なマリアへの信心の成長もいかに大きく促進するかを熟慮して、教会の母聖マリアの記念日を、ローマ暦の聖霊降臨後の月曜日に記載し、毎年祝わなければならないと命じた。』

教会とは神父さまが信徒にイエズスさまの教えを信徒に教える場ではなく、ことばの祭儀、説教とミサを行う神父さまも、奉仕者、ミサに集う信徒が共に聖霊のみ働きを分かち合う共同体です。

教会の母性は、単純に「困っています。助けて、マリアさま!」的な信心業に満足することなく、母である教会が常にいきいきと互いを同じ神の被造物として敬い、愛し合い、分かち合うことを求めているのだと、私は感じます。

もちろん、ロザリオの祈りなど、聖母マリアの執り成しを求める祈りや信心業は大切です。ただ、聖母マリアの執り成しを求めるのは、父と子と聖霊の三位一体であり、主なる神の愛に少しでも近くためであることを忘れてはなりません。

聖母マリアさまもまた、私たちにイエズスさまを通じて愛とゆるし、希望と信仰に生きることの大切さを心に刻むよう、時に大きなみ恵みをくださるのだと、私は信じます。

聖ヨセフと多くの聖人聖女がいらっしゃいますが、天国にあっても聖母マリアさまの執り成しを求めない聖人聖女はいないでしょう。

聖母マリアさまは、ご受胎のずっと前に無原罪のみ母としてお生まれになり、イエズスさまを生み、育て、十字架の時も、聖霊が下された時も、ずっと主なる神、御子キリストと使徒や弟子たちと共に過ごされました。

常に教会共同体と三位一体であられる主との間にあって、教会の真の母として生涯を捧げられました。

聖母マリアさまは、イエズス・キリストの教会共同体と共に地上の旅を最後まで共にされました。どんな時であれ、聖母マリアさまだけは、聖三位一体への祈りの執り成し手として、世の終わりまで天のみ国で働き続けられる方です。


日本のカトリック教会にいると、信心深い信徒さんがとても多く、欧州や南米の小教区しか知らない司祭には驚かれることもあるようです。

もちろん、欧州や南米の司祭や修道士、修道女に信心深い方は大勢おられます。が、それらの地域で洗礼を受けたカトリック信徒の多くは、葬式カトリックか、少しマシだと冠婚葬祭カトリックだったりすることが多いようで、少なくとも月に3回以上、ミサに出席する信徒の割合は総信徒数のおよそ一割ぐらいの国々も多いのが現実です。

その分、教会の母聖マリアの働きは、欧州や南米では切に求められています。

アジア地域の教会暦では、西暦の元旦に「神の母聖マリアの大祝日」が定められているため、教会の母聖マリアへの信心と、信仰の実践の上では区分が難しいかも知れません。


神の母である方が、教会の母でもあり、おとめマリアであり、聖なるキリストの母であり、無原罪の聖母でもあり、被昇天の聖母であることを、すべて教会共同体として実践していくカギは、隣人愛だと思います。

聖母マリアさまの母性とは、男女の区別なく霊的に実践されるべき母性です。罪を悔い改め、主に向かい回心を求める人を支え、心からのゆるしを実感させ、罪ある身でありながら、ゆるしの信仰を生きるための天的み母の支えである母性です。

福者パウロ六世の列聖の喜びとともに、私たちが教会の母である聖マリアの執り成しで、教会共同体の中でいつも主のくださる無限の愛を分かち合うみ恵みが与えられますよう、祈りたいと思います。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2018年5月25日 (金)

なぜ、イエズスは死と復活を予告されたのか?

一行はそこ(フィリポ・カイサリア地方)を去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まなかった。それは弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちは、この言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
(マルコによる福音書9:30~32)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

五月といえば、就職、転職、転勤などで不適応症状に悩む「五月病」の季節でもあります。爽やかな気候でゴールデンウィークもあり…といいことづくめに思えますが、これがあんがい曲者なのかも知れません。

ゴールデンウィークが終わると、海の日連休までまとまった休みがありません。「さあ、これからはしばらく休めないぞ!」と考えてしまうのでしょう。このような人生の変化の直前や直後に不適応症状は、誰にでも起こりやすいのですが、今の日本社会では適切な配慮に欠けているように思えます。

冒頭の福音で、イエズスさまは弟子たちに自らの十字架、死とご復活について語られ始めます。弟子たちに事前にこれからの御父のご計画について知らせることで、弟子たちの人間的かつ心理的なショックを和らげようとされたようにも読み取れます。

私たち個人の人生にも、そんな時があります。これから訪れる人生について、自分はどんな心構えを持つべきか、自分や周囲と向き合うべき時があると思うのです。

そんな時、聖書のみことば、祈りが自らの支えになるなら、それがいちばんの信仰の功徳であり、慰めであり、励ましになると思います。

それまで順調だっただけの人生がくねくねした曲がり角に変わるとしても、逆に逆境続きだった人生に幸運が訪れるにせよ、変化に慣れるには、時間がかかるものなのです。

イエズスさまは、弟子たちが状況の激変に耐えかねて、御父である主への信仰を見失うことのないよう、あらかじめ弟子たちに主のお約束、聖霊の導きがあることを示されました。

イエズスさまのそのような人間的な配慮は、イエズスさまが聖なる神の御子であったと同時に、本当に人の子として来られたことの意義をあらわしていると、しぇるりんは思うのです。

人の子としてみ神が地上で生まれ、暮らし、御受難を伴う死を迎えたことで、私たちも神の愛が人間的な愛の延長線上にあり得るのだ、という信仰と天的な希望を得ました。

「弟子たちは、この言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。

不適応とは「自分では未だ分からないことを示された時、怖くて向き合えないこと」だと思います。

イエズスさまは、弟子たちの気持ちを尊重して、わざと静かな道をゆっくりと歩めるよう、自ら身を潜められたのだと思います。

昨今の日本社会では、どうも昭和時代以上にギスギスとした状況で、人づきあいに慣れておらず、時代の変化に伴ったコトバでのやり取りができないままに、実態と乖離した根性論、精神論などが浮ついた差別主義と共に横行しているようです。

これまでの状況をじっくりと噛みしめるように味わうこと、そして明日への適応に備えるだけの気持ちの余裕は、不必要な心の病いを抱え込まないために必要です。

よく、カウンセリングだ、話し合いだ、問題点を書き出せ…などのアドバイスを散見しますが、それらは全て自分が向き合える範囲内で行ってこそ、効果の上がるものです。

当事者が望まない方向性へと無理やりゴリ押しするために「問題点を書き出させる」のは洗脳行為によく似た手法にも通じることになり、より不適応反応を悪化させる原因にもなります。

世の中、本人の望み通りにならないことなどいくらでもあるし、忍耐を覚えるべきこともあります。だからと言って、当事者の良心や本心にないことを無理強いしたり、やたら忙しく追い立てることで本人の不適応反応を見て見ぬ振りをすることが、長期的に見ると本人の状況を悪化させる遠因となることもあります。

↓福音記者マルコ

0425marek

冒頭の聖句を読むと「しかし、イエスは人に気づかれるのを好まなかった」とあります。

それは、イエズスさまの癒しを、奇跡を必要とする大勢の人々と同じぐらい、弟子たちと使徒らの心が来るべきご受難と十字架、死とご復活に適応できるよう、天の御国をあらわされる(マルコによる福音書9:2~12)前に六日間の準備期間をくださり、天の御国をあらわされた後に弟子たちが心の準備ができるよう、静けさの中で時間をくださったようかのように見えます。

21世紀の日本に生きるわたしたちはつい、「ハイ、覚えてください。いいですね。分かりましたね?じゃあ、やってみてください!」といったセカセカした生活リズムを当たり前のように感じています。

しかし、現実のわたしたちの心やたましいが、IT化やIoT化でせわしさの常態化を受容できるわけではありません。

時の流れの速さを追いかけるのではなく、時に時の流れの遅さに身を任せ、ゆったりとした時間を過ごすことの意義が問われている気もします。

ここ数日、不適応症状でちょっと辛い状態にいる私から、いま不適応に悩む方に贈れる言葉は「せわしさに巻き込まれすぎないことを大切に!」ということです。

ゲームやSNSを休んでみる、何となく寝転んでみる…などでもいいです。自分が「頑張らなくちゃ。時間がないからどうにかしなくちゃ…」という気持ちから離れるチャンスを掴むが、祈れる心情にもつながるのだと思います。

このブログを読んでいるあなたの明日が、実り豊かでありますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2018年5月22日 (火)

アシジの聖フランシスコ「平和への祈り」

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

今日はともに、エルサレムの平和、東アジア地域の平和、そして世界の平和のためにアシジの聖フランシスコがわたしたちに残してくださった「平和への祈り」と祈りたいと思います。

Unknown アシジの聖フランシスコの平和への祈り

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみのあるところに愛を、

争いがあるところに赦しを

分裂があるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、

誤りがあるところに真理を、

絶望があるところに希望を、

闇があるところに光を、

悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰れられるよりも慰める者としてください。

理解されるよりも理解する者に、

愛されるよりも愛する者に。

それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

ゆるすことによって赦され、

自分のからだをささげて死ぬことによって、

とこしえの命をえることができるからです。

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