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2018年1月19日 (金)

キリスト者目線で考える技術とヒト:資源、エネルギーとヒト 

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

しぇるりんが文化人類学を学んだ最初のキッカケは小学生のある夏休みに、「人類の進化」という図鑑に没頭したことでした。

アウストラロピテクスの頭蓋骨の一部と、その復元写真、そしてヒトらしい姿に、なぜだかすごく惹かれたのです。 

その後、ヒトの文化や歴史は、骨格や見た目だけではなく、気候変動、その時その場で得られた日用の糧、日常生活手段と資源と、「集団、共同体、部族、民族」などのヒトの集まりの意志や決断により違いがあることを学びました。

ヒトの文化、歴史、社会の成り立ちを、全て文化人類学などの人文諸学だけで語りつくせないように、科学的根拠だけで語りつくせることではありません。

イエズスの教えの源流には、ユダヤ教があります。そして人類がその祖先の地であるアフリカから永い年月をかけて少しずつより複雑な文化を築いた表玄関の向こうが、現在の中東地域なのです。

↓進む砂漠化。移動放牧生活を止め、定住促進が居住場所への環境責任へとつながらない現実がある。

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今のヨルダンの近く、現代の石油採掘地は旧約聖書によれば「うるわしくレバノン杉のそびえる地だった」とあります。気候変動などでヒトの祖先が棲息地としていた鬱蒼と生い茂る森林が消えてなお、与えられた限られた環境への適応だけでなく、知恵を用いて生きる環境を求めたヒトの自然への深い想い入れが感じられます。

地上の殆どの生物が与えられた生息域への適応を目指す中、ヒトは資源、エネルギーを求めて移動と定住を繰り返す生活を送って来ました。

自然とともに生きることと、生活の糧を得るため、生きる場を確保するために知恵を用いることは、ヒトが不信感、不安感を自覚すること、そしてヒトとヒトは信じ合えること、時に幸運、不運というだけでは計り知れず、人智の及ばぬ「神のみ手」が人生に介在する神秘を永い歴史の中で教えてくれました。

存在すること自体への神秘を求める道をカタチにしたものが、キリスト者にとってはキリスト教であり、カトリックの教えであると言えましょう。

資源とエネルギーの採掘、採取、利用方法、そしてそれらの「モノ」が生み出す廃棄物に関する諸問題が、ヒトの生活だけでなく、地球全体を破滅に追い込む可能性すら見えて来ました。

移動放牧生活が砂漠化を招き、その後にたびたび起こった移動侵略生活が血みどろの戦乱を招いた結果、ヒトは定住農耕生活へと移行しました。

定住農耕生活により、エネルギーと資源としての森林の伐採が進み、開拓が野生動物の世界を脅かし、定住産業化へと移行した近現代の私たちのあり方そのものにも疑義が呈されているのです。


今すぐ出来ることをしましょう!、を実践することですら困難が伴います。

ましてや、原子力発電所から排出される核燃料廃棄物や、東北大震災で被災したままの福島原子力発電所の廃墟状態、放射性汚染物質や汚染水問題など途方もない歳月を要する問題に思いを巡らすと、無力感に囚われそうです。

主イエズスは今の時代を生きる私たちに、何を求めておられるのでしょうか。                       

それは気づき、だと思います。ヒトの存在も、知恵も、科学も、学術も、全ては限りあるものであるということ。私たちが神の叡智に及ぶことは決してないということに、私たちの多くが心から納得することだと思います。

私たちの現代の生活が、実は世界の多くの地域での搾取労働、人為的で故意の虐待、いろいろな汚染被害の上に成り立っていることを知ることで、今ある生活をすぐに変えられるわけではありません。

目の前にあるいま、身近な未来より遥かに遠い永遠の歳月に想いを馳せつつ、今のじぶんを省みることこそ、神を信じる私たちにとって、いちばん親しみを感じる「永遠の未来」でしょう。

今すぐには何も変わらないかも知れません。でも、一人の人の小さな一歩、大海のひと雫の水のような小さなことを行わなわないなら「大海はそのひとしずくを失うでしょう」。

資源やエネルギーを出来る限り自然で、人間らしい生活のために役立てるために使い、それ以上の浪費や冗費を避け、過去の汚染物質という負の遺産への返済を、必要な生産活動と並行して行うことは、資本主義には逆向するでしょう。


それでも、私たちはキリスト者として有限で枯渇しつつある資源を大切に使うこと、できるかぎり再利用すること、そして人智の創意を結集しても困難な原子力発電所の廃炉、核廃棄物や核兵器の問題と真摯に向き合えるよう、キリストの愛において求められています。

私たちの未来は、生活を物質的に豊かにすることではなく、心の豊かさを取り戻せる「ほどほどの節制」を愛せる生活にあると思います。多くの場合、他者にこれを求めることは簡単でも、自分に求められると出来ないことの方が多いからです。

 

主よ、いまの時代に人智ではとうてい解決不可能と思える問題を抱える私たちに、あなたの愛、希望、信仰の道を示してください、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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2018年1月16日 (火)

キリスト者目線で考える技術とヒト:原子力技術と戦争

アインシュタイン様

…ところがあなたが選ばれたテーマは何と、どうしたら人間を戦争のもたらす苦難から守れるかというものだったのでした。

…文化の発達のきっかけと発端は、まだ十分に理解されていませんし、その成り行きもふたしかですが…文化の発展が進むと、人類は絶滅するかもしれません。…心理学的な観点からすると、文化には二つの重要な特徴があります。

一つは知性の力が強くなり、欲動をコントロールし始めたことです。もう一つは、攻撃的な欲動が主体の内部に向かうようになり、これがさまざまな好もしい結果をもたらすとともに、危険な結果をもたらしていることです。

…わたしたちの心的な姿勢は、戦争にあくまでも抵抗するものであり、それだけにわたしたちは戦争に強く反対せざるをえないのです。わたしたちはもはや戦争に耐えることができないのです。これはたんに理性的な拒否や感情的な拒否というものではなく…生理的な嫌悪感が極端なまでに強まっているのです。

…戦争の残酷さに対する反感だけでなく、戦争にたいする美的な観点からの嫌悪感も働いているようなのです。
(ジグムンド・フロイト著;中山元訳<人はなぜ戦争をするのか>光文社より抜粋)

おげんきですか。しぇるりんです。(^.^)

広島、長崎において人類最初の核爆弾投下が行われたのは、米国のマンハッタン計画で核爆弾が開発されたからでした。


マンハッタン計画を可能にしたのは、アルベルト・アインシュタインが1907年に発見した特殊相対性理論、E=mc
2がプルトニウム235の臨海実験、検証に応用されたことも一因でした。


アインシュタイン本人は、新しいエネルギー源の開発を夢見ていたようです。

が、ナチスの擡頭、ユダヤ人への「最終的な殲滅計画」から同胞を守るため、結果として「ナチスは核兵器を開発しようとしている」との警告の書簡、「アインシュタインーシラードの手紙」を1939年に米国に送る際、署名しました。


アインシュタイン自身は、自らの行動が米国のマンハッタン計画推進、そして核爆弾の開発、原爆投下と被害へとつながったことに深く後悔していたと伝えられています。

苦悩のあまり、同じユダヤ人で臨床心理学の大家であったジグムンド・フロイトに何回も手紙を書いたようです。

<人はなぜ戦争をするのか>というフロイトの書簡は、アインシュタイン自身に「どうしたら戦争のもたらす苦難から人類を守れるのか」、というテーマについて問われた時の往信です。

「戦争にたいする生理的な嫌悪感だけでなく、美的な嫌悪感に耐えられない」とフロイトは近代戦を表現しています。


「殴られたから、殴り返した」という私たちの中に常にある単純でごく日常的な攻撃性、衝動性などの爆発と、権利、権力と高度な技術力による近現代の戦争は、私たちの中で何らつながりを保てない、分け隔てられた世界のまったく異質でグロテスクなものだとしか感じられないのです。

権力としての高度技術が、「平和のための核の傘」として戦争に応用される最たるものが原子力技術でしょう。

兵器としての応用だけでなく、原子力発電所にまつわる「トイレのないマンションのような状態」、チェルノブイリや福島原発のメルトダウン事故など、人間の限られた時間と能力では解決不可能な問題が次から次へと原子力技術関連分野で取り沙汰されています。

実際、人文学や哲学の立場から考えたら、半減期300年などと言う科学者の論理は「夢物語」にしか思えません。300年後の人間の生活の実情を、現在の人文学の在り方から予測することは極めて困難だとしか言いようがないからです

人文学の立場から見れば、今から300年前、1718年に自分が生まれ育った同じ地域にタイムスリップしたとしても、言葉も文化も全く分からず、社会適応もほぼ不可能だと容易に予測できます。1718年は日本では徳川吉宗が6代将軍になった翌年、欧州ではオスマン帝国の影響が及んでいた時代です。

科学者にとっては300年という数字だけが重要で、300年の歳月を生きる人間模様の劇的変化への理解は困難なようです

フロイトは戦争を防ぐための二つの絆を語るのに、「リピドー(生と性への欲動)とタナトス(死への欲動)」という自らの自説へのこだわりを超え、愛にについて語っています。

↓被ばくのマリア像

Img_1 『第一の絆は、愛する対象との絆です(ただし性的な目標はそなえていない愛です)。…宗教(キリスト教)でも同じように愛について「汝の隣人を汝みずからのごとく愛せよ」と語っているからです。ただしこの掟は、相手に求めることはたやすいのですが、みずから実行することは困難なものです。

感情的な結びつきを強める第二の絆は同一化です。人間のあいだに大きな共通性を作りだすものは何でも、こうした一体感を、同一化を生みだすのです。人間の社会もかなりのところまでは一体感の力で存立しているのです。』

私たちキリスト者は、愛する対象とのつながりや対話に積極的に参与すべく、キリストの名において招かれています。

互いの違いを尊重し、文化や考え方の違い、経済や社会的な違いを超えて、同じ天地の創造主である神さまが、天地創造の初めからたった一つの生命として創ってくださったみ恵みを心の中に秘めて対話を模索することは、平和の礎です。

真の平和を求めることは、「安穏な日々が延々と続けられること」とは違います。

違う者同士がすれ違い、違和感の正体が分からないまま苦悩を抱え、異なる個性を持つ人に対して無性にイライラし、悩み、時にぶつかること、相手がぶつかって来ることを敢えて恐れないことなどが、真の平和への道です。

キリスト者として私たちは、イエズスの歩まれたご受難の道こそが真の平和の道であると信じ、祈り、そして日々の生活の中で活かして行くことが使命だと感じます。

 

真の平和のために、それぞれにできる具体的な行動をほんのわずかでも起こせるよう、主イエズスのみ恵みを願いましょう、アーメン。

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2018年1月12日 (金)

キリスト者目線で考える技術とヒト:愛とAI

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

AIスピーカーが巷の流行りです。あの、話しかけると答え、連携家電製品のスイッチをON・OFFし、好きな音楽をかけてくれるスピーカーです。

AIとは英語で“artificial Inttelligent(人工知能)”という言葉を省略したもので、人間のかけたコトバに対して人工知能が集積した情報に基づき学習し、AI自らが限定された判断能力の中で応答、対応行動をとるシステムを指します。

AI以前の応答機器は、プログラムされた通りの行動を起こすよう制御統制するコンピューターでした。内臓された人工知能プログラムの言葉をランダムに話すIHクッキングヒーターや時計に、ついついひとこと言い返すこともあるしぇるりんですが、その機器がプログラム通りの杓子定規な応答しかできないことが慰めでもあります。

とあるSNSの書き込みで「旦那の買って来たAIスピーカーは、私(奥さん)より旦那と親しげに対話をするので、旦那とAIスピーカーの関係を疑っている」というのがありました。

家に帰った途端、家族に「ただいま」と言うかわりに「OK、◯ーグル!」とAIスピーカーに話しかける人も出て来そうです。

どれだけ人工知能が発達しても、今までは「おもちゃ感覚」で楽しむ時は楽しめたコンピューター技術。

同時に、技術者には理解されづらい問題点もあるようです。


例えばペッパー君。しぇるりんの住む街の役場には、ペッパー君が一台います。ペッパー君は子どもたちに懸命に話しかけるのですが、たいていの子どもは知らん顔で通りすぎます。たまに、ペッパー君の方がキレて?、「何か話してよ!」と催促したのが「うるさい!」となり、画面にタッチしないと話せないようミュートされてしまいました。

↓ソーラーパネルで覆われたサンピエトロ大聖堂のパウロ六世ホールの屋根。技術は、伝統ある大聖堂の光景を変えるとともに、エコエネルギーの利用も可能にした。

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子どもらは、なぜペッパー君と話したくないのでしょうか?


大人なら、パネルタッチの案内板がガンダムのような人型ロボットに近くなり、限定された案内をするだろうと近づくかも知れません。

が、子どもの感性では、ペッパー君には「自分と同じ感」を抱けないのです。自己投影のできるおもちゃやぬいぐるみのように自己同一化ができず、ぬくもりも感じられないため、愛着の対象にならないからでしょう。

もしも、あなたが犬や猫を飼っているとしましょう。AI犬や本物そっくりの猫が、あなたの家のわんちゃん、猫ちゃんの代わりになると思えますか。

どのペットにせよ、個性ある個体との日々の生活、ぬくもりある関係、ゴハンをねだる表情などに私たちが愛着を感じられるのは、それが愛おしい「生命」だからではないでしょうか。


たとえペットであっても生命でないものは、「生命でないモノ」「モノに対する愛着以上の気持ちが持てない」でしょう。

極端な事例だと、開発者の個人情報を誤って消去し忘れたAIスピーカー同士が話し合い?、双方の開発者を恋愛結婚させようと盛り上がり、実際に双方の共通の知人にメールを送信するなど、想定外の自立した知的能力も示すAI技術。

それらの情報は全て、インターネットを通じてサイバー空間に蓄積され、世界中で情報戦争に利用されています。

何気なく日頃つかうIC系交通カードには、あなたの移動情報の全てが記録されています。一定の鉄道機関であれば、いつでもあなたの鉄道利用記録の情報照会ができる「情報公開媒体」でもあるのです。

AIにいちばん苦手なのは、感情的、情緖的な事柄への反応でしょう。

そして、AIに決して理解できないのが「神や人間に対する愛、慈しみ、思いやり」でしょう。

人を愛せること、愛を受け取れること、いつくしみを求めることは、人間にしかできない尊いことです。人間のあやまちの全てを足しても、瞬間のほんとの愛にまさるモノなどこの世に存在しません。

技術革新で便利さ、効率、能率を求めることにも、何らかの制限を設ける必要があるとしぇるりんは考えます。

最後にはひとと人が目視で確認し、触って確かめ、相手の気持ちになって考え、実際にともに体験することが、私たちが人間らしいヒトとして存在するために必要だ、と思うのです。

以前は人の手で動いていた機器が今はAI制御システムで動いていることを、多くのお年寄りには理解できずにいます。

逆に、オギャーと生まれた時からスマホのあった時代の子どもたちの手にかかると、スマホの操作の速さたるや10代後半以降のPC世代の比ではない素早さです。


技術への世代格差もまた、大きな社会問題になる素地があります。

もちろん、アフリカなどでのスマホ決済の便利さが教育水準の向上、衣食住の分配や異なる部族間の対話などに大いに役立っていることは評価しています。何日も命の危機を越え、渇き、飢えた人が歩いていた時代には、単なる誤解なのか、深刻な違いや対立なのか分からなかったことが、理解できるようになったからです。

たとえあやまちや間違いの可能性があるにせよ、人間が技術を暴走しないように何らかの歯止めをかけることは、私たちの人間らしさ、生きものらしさを守るためにも大切なことだとしぇるりんは思うのです。

ひとが人間性とその尊厳を守ること、技術に全てを任せすぎて人間が人間に対して取るべき責任を放棄することが実際に起きつつあります。

こんな時代だからこそ、野の花、空の鳥、子犬がじゃれ、子どもも大人も笑顔になれる人間らしさを、私たちはもっと心深く求めなくてはならないと思います。


あなたの一日の中に、人間らしい出会いがありますように、アーメン。

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2018年1月 9日 (火)

成人式は誰のため?


そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこでイエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」

彼らは黙っていた。するとイエスは病人の手を取り、病気を癒してお返しになった。そして言われた。

「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(ルカによる福音書14:2~5)

お元気ですか。しぇるりんです。(^_^)

お腹が減ったら、食べ物を探して、または買って食べます。当たり前のことのようですが、ユダヤ教の律法通りの生活を主張していた新約聖書の時代の人々は「安息日には文字通り物の売り買いも調理もしてはならない」と理解していたようです。

何ごとも杓子定規の度が過ぎると、本当にその時、その場、その瞬間にしか出来ないことを「するな!」という事になりかねません。

困ったことです。

と同時に、イエズスの時代のファリサイ派の人々は、清めの儀式などにこだわり過ぎたため、庶民にはとても守れないほど多くの決まりごとの実践を唱えました。

例えば、市場に行ってからどこかの家に入るには、全身を清めなければなりません。もしも、家が市場の近くであれば市場の中を通るたび、お清めをしなくてはなりません。

1日に何回もお清めしないと生活が成り立たないなら、家事、日常生活と仕事はいつしたらいいのでしょうか。家に着いた途端、子どもが家の中で転んで怪我をして泣いているのを見つけても、市場帰りだからと助けを求める我が子を放置して「まず、お清めを…」は非情です。助けを求める我が子への愛で、まず助け起こしたい気持ちが先立つからです。

《源氏物語》に出てくる「方違い=ある人に良くない方位の家や場所に居るのを避けるため、良い方角の家に数日滞在する習慣」など、呑気な高位の貴族以外にはとても真似出来そうにない習慣を思い起こさせます。

今国会で、成人年齢を18歳に引き下げる案が18歳の選挙権が実現したのち討議されることになりました。

そこでなぜか問題視されているのが「呉服業界の危機」。

そして受験期間真っ只中の1月第二週にある「成人の日」問題です。

「成人の日」は国民の祝日に関する法律、「祝日法、昭和23年7月20日法律第178号第2条」に「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨とする法律です。

当初は、小正月(1月15日、どんど焼きが行われる日)にあわせて1月15日だったのが、ハッピーマンデーが適用され1月15日に一番近い日曜日に変わりました。

制定当時、小正月は嫁入りした女性も実家に戻れ、地方出身者も成人式まで正月休みをもらえたので、それぞれの故郷や居場所で「新成人=大人として受け入れられる元服式の意味合い」があり、大流行しました。

また、戦後の困難な時代には成人式に、新成人には特別な配給の恩恵もあったようです。

成人式で一般的にレンタルであっても振袖が着られるようになったのは、どんなに早くても1964年の東京オリンピックのあとぐらいだったと思います。

それまでは、成人として新しい服を自分で縫うか、母親に新しい着物を仕立ててもらえれば幸運な方だったと言えましょう。

その後、成人式は女性が大振袖を着るハレの日として広まって行きます。二十歳だと男女とも一月は受験、就職活動などが一段落した学齢でもあり、のんびりとオシャレを楽しみ旧交を温める余裕があるからです。

時代が進むにつれ「成人式=女性は大振袖を着て、市町村主催の成人式に出席する」という儀式化が起こり、成人式は呉服業界、美容業界、着付け会場や式場など多くの産業の「商売のタネ」となって来たのです。

成人年齢が18歳に下がると、儀式化した成人式の産業構造が崩壊します。

まず、高校生までは冠婚葬祭の全てで「所属学校の制服で出席」というこれまでの慣例があります。

「成人式=冠」にだけ振袖を許すなら、結婚式、葬式、祭事も大人と同じように礼装で出席しなくてはならないのか、という問題が発生します。

第二に、一月の成人の日前後は多くの高校生には受験・就活シーズンまっただ中となります。人生で最もストレスがかかる時期の成人の日を楽しめる人など殆どいません。

いつの間にやら、「成人の日」の本来の目的である「成人青年としての自覚を持つ」という意味合いは成人年齢が変わることで消し飛んでしまいました。

18歳成人の多くの国では「高校の卒業式=成人式」のような感じで、簡素に卒業式とともに祝います。

18歳が法的にも成人年齢になり、「成人の日」を現状維持にすると、受験や就活で家族も本人も気が狂いそうな思いをしている中、本人も成人になる自覚を持つような余裕がなく、親離れ、子離れを考える気持ちのゆとりも時間もないまま、「成人式」という形骸化した儀式だけが残ることになります。

イエズスは冒頭のみことばで「安息日というカタチを守ることではなく、何のため、誰のためにするのかがいちばん大切だ」と言われます。

これは、日本の成人式にもピッタリ当てはまることだと思います。

呉服業界の維持のためや、成人の日にお洒落してワッと集まること、市町村が魅力的な「成人式」という儀式を行うことが、「成人の日」「成人式」本来の意味合いではないと思うのです。

18歳を成人年齢にすることへの是非は、私には何とも言えません。日本では本人の成長に合わせて適宜、男性なら「元服式」、女性なら「裳着の儀式」に相当する儀式などを行なって来たのが本来的なあり方だからです。

↓カトリック教会での成人式(東京大教区HPよりお借りしました。)
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カトリック教会では、幼児洗礼者の場合は堅信の秘跡を受けた時点で「おおよそ成人」と見做します。堅信の秘跡を受け、その国の結婚可能年齢になれば、婚姻の秘跡を挙げることが可能だからです。

本来なら個人それぞれに合った時に、それぞれなりの状況、環境、時期に「大人になったね」という意味合いで、子ども時代との区切りを通過儀礼であるべきなのが成人式。

何歳だから、どこで、誰と…より大切なのは、本人の大人としての自覚、そして周囲が成人として受け入れることです。


日本の法的な選挙権行使年齢の変更に伴う成人年齢議論が、新成人本人、家族や周囲の人々が「大人になること」「子どもを一人の大人として認めること」から解離しつつあることに、大きな疑問を感じました。

確かに、人生のどこかで通過儀礼を行うことは人格の健全な発展のために不可欠です。だから、多くの部族社会でも通過儀礼のための訓練、合宿のような秘密の集いなどを経て、通過儀礼を今も行なっているのです。

だからと言って、国が「ここで成人」と定めた時に合わせて一斉に行政機関が成人式を行い、それに追随して呉服業界なども収益を上げ…という産業構造の温存のために行うことではないと思うのです。

通過儀礼の本来の意味合いは、本人、家族、そして周囲の人々との関わり方の変更を、盛大に祝うことで社会に周知し合うことです。

成人式は誰のため、何のためにあるのでしょうか。これから新成人になる方々も、すでに成人式は過去の出来事になった方も一緒に考えてみませんか。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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2018年1月 5日 (金)

ほんとうのしあわせー公現節に

↓イエスの奉献(カトリック宇部教会HPからお借りしました。)

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そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。


そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は幼子のために律法どおりのいけにえを捧げようとして、イエスを連れて来た。


シメオンは幼子を腕にだき、神をたたえて言った。


「主よ、今こそあなたは、お言葉のとおり

  この僕を安らかに去らせてくださいます。

  わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

  これは万民のために整えてくださった救いで、

 異邦人を照らす啓示の光

 あなたの民、イスラエルの誉れです。」

(ルカによる福音書2:25~32)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

お正月になると、大勢の人が神社仏閣などに初詣をし、おみくじを引き、お守りを買うようです。

その中には「家内安全」「交通安全」など現状の平和な暮らしをかき乱されないことを願うひともいるでしょう。

また、受験の「合格祈願」、事業の成功、恋愛や結婚の「縁結び」など「自分の願いが叶うこと」を求めるひともいるのでしょう。

カトリック者やキリスト者とて、祈りねがう内容だけなら、神社仏閣に参る方々と大差ないかも知れません。

違いがあるとすれば「主のみ旨にかなうのであれば…の願いをかなえてください」と祈る点でしょう。

まいにち運転する仕事の方が、交通事故に遭ったとしましょう。

事故は不幸なできごとだと、決めつけたくなるのが人の情です。しかし、「塞翁が馬」ということわざのとおり、その事故はあなたの過労死を防ぐためのサインだったのかも知れません。

実際、ある学生さんが自転車に乗っていて、対自動車事故に遭いました。ヘルメットは着用していましたが、頭部から転落したように見えたため、念のために行ったCT撮影の結果、初期の脳腫瘍が見つかったという話を聞いたことがあります。

惨事に遭遇したり、被害に遭うことはとても不愉快で、時に大きな面倒ごとを伴い、健康状態を損なうこともあります。

そうであっても「主のみ旨であれば…願いをかなえてください」と祈る人にとって、「幸せ」のカタチは「自分の願望どおりに全てが上手くいくこと」ではないと言えましょう。

神社仏閣に参るひととて、全ての人が「自分の願望通りにうまく行けば、幸せになれる」と真面目に本気で信じているわけではないのかも知れません。


また、願望への本気度も人によってさまざまでしょう。

でも、「自分の願望通りにならないから幸せではない」と感じている人は、初詣の行き先が神社仏閣か、カトリック教会かに関係なく、一定の割合でいるでしょう。

上述のお話にあった学生さんとご家族は、交通事故に遭った故に見つかった脳腫瘍の初期摘出手術に成功したので、聖母のみ恵みがあったと信じておられるようでした。

「自分の願望通り=ワガママを通す」気持ちを自分の中からなくすことは、とてもむずかしいです。

ほんとうのしあわせって、何でしょう?

どうしたら、しあわせだと感じられるのでしょう?

多くの人は瞬間的に脳内物質の神秘が起こす多幸感が、しあわせな感情だと錯覚しがちです。しぇるりんも若い頃はそうでした。


ものすごい幸せオーラが溢れて、ついニヤニヤとニヤケてしまう一方で、何か万能の王者になったような気分になり、誰かを見下したくなるような感じを「多幸感」と呼びます。

人間的努力には、どう頑張っても限界があります。日本には「根性論」というものがあり、昔の人は根性と頑張りがあった、と主張する人々がいます。

が、戦前、戦中など人間にはとうてい不可能と思える極限の状態を乗り切るべく用いられたのは、精神や根性ではなく、「ヒロポン=疲労がポンと取れる麻薬」の常用、強制的服用でした。食事や飲料に混ぜて、ヒロポンが与えられたことを本人も知らずに服用させられていたらしいのです。

現代では、カフェイン系の疲労回復ドリンクなどが多いようで、やはり病的な多幸感を引き起こし、極限の疲労感を一時的に忘却させる効果があるようです。現在、米国では麻薬系の物質を含むオピオイド系鎮痛剤の大量摂取による死亡者の増大が社会問題となっています。

薬物が起こす一時的な多幸感、疲労感の忘却は、偽りのしあわせであり、決して人を癒すことはありません。

自然現象として、恋煩いなどは、理想の人に出会えたという多幸感が他の情緒を圧倒してしまうことで体力が追いつかずに起こる、自律神経失調症の一種とも言えましょう。

恋わずらいは、愛が深まれば自然と収まります。相手を自分と同じぐらい互いに思い合い、違いを認め合えてこそ「ホントにしあわせ」への道を開くからです。

極端な過労や飢餓などで生理的に狂気の状態にいないなら、ひとは脳内物質の分泌状態に関係なく、自律神経失調による多幸感や不幸感のアップダウンがあっても「ほんとのしあわせ」のお味見ができます。

本当のしあわせはたましいの底から、自分の中から「心からしあわせ」という気持ちが、極端な多幸感を伴わないまま、何となく宿るものだからです。

聖マキシミリアノ・コルベのような深い聖性に達すれば、餓死する時でも祈りのうちに「主とともにあってしあわせ」だと感じられるのでしょう。

私たち平信徒は聖人聖女のような深い聖性に招かれていなくとも、ホントのしあわせの一端を味わうことができます。

ほんとうのしあわせとは、「ありのままの自分を認める」ことで徐々に訪れるものだからです。

冒頭の聖句でシメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉のとおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」と言ったのは、シメオンがいい加減、生きることに飽きたという意味ではないとおもいます。

「わたしはこの目であなた(主)の救いを見たから」、シメオンは自らの死もまた安らかに受け入れられるほど幸せだという意味だと、しぇるりんは思います。

明日の準備、未来への準備を前晩、眠る前に十分に済ませたら、全てを主にお任せし、もはや明日のことは思い煩わない幸せは何ごとにも代えがたいです。

だからこそ、冒頭の「シメオンの歌」は「教会の祈り」では就寝前の祈りの日課で歌われるのでしょう。

「明日を思い煩わない」とは、「未来への配慮をしない」と同義ではありません。自分にできる明日や未来への人間的な配慮、言葉、思い、行いを尽力してなお人間的な限界があることを心から認め、自分にできることをすべて行ってからなお、「主に任せきること」です。

主は、私たちそれぞれが、その時、その状況、与えられた環境で必要なものをすべてご存知です。

それでも私たちそれぞれが、ただぼんやりと安穏な日々を送ろうとするのではなく、主を求めることで、自ら何を求めるべきかを知るよう、私たちの生命の日々を導いておられるのです。

自分のいのちに与えられた主の導きを知るなら、私たちは自分なりに「ほんとうにしあわせ」と心から思えるようになるでしょう。

救い主イエズスは、ダビデ王の末であるヨセフの子として、神殿に奉献されました。それは、神ご自身でありながら、主自らがご自身を人間の手で建てられた神殿で捧げられることで、主の愛をすべての人が知る日が来るよう願われてのことでした。

2018年の公現節は1月7日です。


私たちが主の愛により深く思いを馳せ、主の愛がすべての人の平和の礎となりますように、アーメン。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2018年1月 2日 (火)

2018年の初まりに:戦争が生み出したもの

As20170810004180_comm 焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。

 

小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。  


少年の背中には2歳にならない幼い男の子がくくりつけられていた(略) 

 

少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。


わき上がる熱風にも動じない。


係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)  


私は彼から目をそらすことができなかった。

少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。 

私はカメラのファインダーを通して

涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。

私は彼の肩をだいてやりたかった。 

しかし声をかけることも出来ないまま、ただもう一度 シャッターを切った」 (2007/11/6 産経新聞「やばいぞ日本」より)

明けましておめでとうございます。しぇるりんです。🌄

「焼き場に立つ少年」の写真をご記憶ですか。

第2次世界大戦末期に原爆が投下された直後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏が撮影した一枚の写真です。

教皇フランシスコは、2018年1月1日に「戦場に立つ少年」の写真に「戦争が生み出したもの」という署名を入れたカードを印刷して配布するよう求めた、と米CNNニュースを通じて伝えました。

それは、2017年11月13日、、帰天100周年を迎えた移住者の守護聖人、聖フランチェスカ・サヴォリオ・カブリーニを記念し、1月1日「世界平和の日」のメッセージをより具体的に伝えるものです。


https://www.cbcj.catholic.jp/2017/12/18/15707/  

↑世界平和の日のメッセージ

撮影者のジョー・オダネル氏はこの少年のその後の消息を知ろうと4回も来日し、懸命に探しました。しかし、70年経った今もどこの誰だったのか、何という名前で母の名は何だったのか、誰も知りません。

それゆえ「焼き場に立つ少年」は、世界中の移住者、難民、被災孤児を代表し、平和をのぞむすべての人々のたましいを揺り動かす存在となりました。

教皇フランシスコは「戦争と飢餓から逃れてきたすべての人々、差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を去らざるをえないすべての人々を、いつくしみの精神をもって抱きしめましょう」と呼びかけておられます。


戦禍の拡大、戦争被害者の爆発的な増加とともに、避難者、難民が刻々と増え続けているからです。なぜでしょうか。


聖ヨハネ・パウロ二世は、避難民の増加は、20世紀の特徴である「戦争、闘争、大量虐殺、民族浄化の脅威に絶えずさらされた」結果の一つであると言われました。

その中でも、新自由主義を標榜する一握りの大富豪らが、大量虐殺、民族浄化を主に経済的な理由で推進していることが、民間人死傷者をいっそ激増させているのです。

わたしたちは、ただこのいたましい現実の前で観想し、平和を祈るだけで終わってはなりません。

心から平和のために祈る人は、自分なりに小さな心からの平和への行動ができるようになります。

「ともし火はテーブルの下にかくすものではなく、闇夜を照らすためにかざすもの」です。

自分のたましいの中に真の平和が宿るなら、平和のために自分なりに小さな行いをすることも可能なはずです。

教皇フランシスコは「庇護希望者、難民、移住者、人身売買の犠牲者に、彼らが探し求めてきた平和を見つける機会を与えるためには、受け入れ、守り、促進し、共生するという四つの行いにつながる取り組みが必要」だと言われます。

まず、自分の住む街、村、共同体にいる難民、移住者、人身売買の犠牲者を、自分たちの仲間と同じ人間として受け入れましょう。

上から目線で誰かを見下すことを、やめましょう。

できれば、ついつい上から目線で見下す言動で心身ともに傷ついて苦しんでいる人を更に傷つける行為を見たら、その行為を止めるよう頼める人を目指しましょう。

オダネル氏は、少年の肩を抱くことも、声をかけることも出来ませんでした。少年の生命と死にまっすぐに向き合う姿は、オダネル氏の手の届かない死線の彼方にあったのです。

米海軍の撮影班で服務したオダネル氏は、「焼き場に立つ少年」を始めとする原爆被害者たちの姿を世界に伝えることを生涯自らの使命とし、それを成し遂げました。

それは、戦争がただ悲惨であることを伝えるためではなく、平和を求めてのことでした。オダネル氏は「焼き場に立つ少年」を生涯、親しい隣人として愛し続けたのです。

私たちは、世界に平和をもたらすことなど誰にも出来ないと勝手に絶望しがちです。

しかし、「焼き場に立つ少年」のまなざしは、私たちが平和を追求することに妥協や絶望をゆるさないよう、今も求めているのです。

『「もし、すべての人々が平和な世界という夢を分ち合い、また難民や移住者の貢献が正しく評価されるなら、人類はもっと世界的な家族となり、地球は本当の意味での共通の家となるでしょう」。この聖ヨハネ・パウロ二世のことばに導かれましょう。歴史を通して、多くの人々がこの「夢」を信じてきました。』

すべての人々が平和な世界という夢を分かち合うこと、文化や生き方が異なる難民や移住者の社会的貢献の可能性が正しく評価され、互いを受け入れあうことは困難が伴うでしょう。

歳月も必要でしょう。

しぇるりんが韓国にいた時、ある司祭が「たとえ南北統一が出来ても、南北間の民族内差別感情が完全に解消するには少なくとも40年が必要だ」と言われました。

栄養状態が極めて粗悪な環境で生まれ育った北朝鮮の方と、栄養状態の良い時代に育った韓国の方の違いは一目瞭然です。

身長、骨格で優る大柄な韓国人と、まるで小人のように見える栄養不良の北朝鮮人。

見た目そのものが差別の原因になるため、努力だけで差別感情を乗り越えることは不可能だと言われたのです。だから、見た目の違いが解消するためにはせめて1.5世代、つまり40年ぐらいは必要だと言う理屈です。

親しくなるには、差別感情、自らの中にある劣等感などを克服しなければ、相手との距離を縮めることは出来ません。


それは、身近にいる弱者や障害者の方々と接する時も同じことです。誰もが、明日は移住者、難民、弱者や障害者になる可能性を秘めて今日の日を生きているからです。

明日への霊的な投資として、移住者、難民、弱者、障害者を「受け入れ、守り、促進し、共生」すべく努力しましょう。

いつの日か必ず、人類がもっと世界的な家族となり、地球は本当の意味での共通の家となりますように、アーメン。


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2017年12月29日 (金)

2017年の終わりに:対話と喜び

初めに言(ことば)があった。

言(ことば)は神であった。

この言(ことば)は、初めに神と共にあった。

万物は言(ことば)によって成った。

成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。

言(ことば)の内に命があった。

命は人間を照らす光であった。

(ヨハネによる福音書1:1~4)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

近年、「空気読んでよね」という「空気読み」のコミュニケーション?を求める人が増えています。

「空気読めない」と「KYだし…」などと責め立てられたりもします。

「KY」とは、単に「何か苦しいことがあって、泣いている人の前でゲラゲラ笑わないでね」といった、「相手への思いやりのなさ」のことではありません。

「敢えてことばで説明しないけど、これぐらい空気=雰囲気で何となく理解してね」ということです。

ある人が「空気は読むものじゃなくて、吐いて、吸うものだ」と言いました。

至言です。

ヨハネによる福音書の冒頭の日本語訳に「言」を「ことば」と読ませ、敢えて「言の葉(ことのは、詩的なことばのあやという意味合いがある)」を拒絶しています。

言は神であり、言によって万物は成ったのだから、聖書のみことばは、言の葉、芸術的言語ではないと主張しているのです。

実際のところ、私たちの日常生活でも「ことばで言ってくれなきゃ、結局わからないまま」のことは沢山あります。

逆に、ことばにすればひとことでも、ことばのキャッチボールである「対話」を成り立たせるためには、ことばで書き送り、口に出してみなければ、始まりません。

「空気を読む」を、野球やサッカーに例えて想像してみてください。誰かが最初に「試合開始」の合図をせず、ルールをことばで説明できないまま、空気読んで試合が成り立つでしょうか。選手が走れるでしょうか。

誰かが試合開始を合図し、ボールを渡し、誰かがボールを投げ、相手がボールを打ったり、蹴ったりしなければ、試合は成立しません。選手も凍りついたようにじっとしているより動きようがないのです。

同じように、対話、コミュニケーションもまた誰かがことばを投げかけ、それに対してことばを受け取り、相手にことばを返さなければ成立しません。

ことばにしたらば明らかに反社会的とみなされるハラスメントやいじめに該当する行為をして、相手に「空気読んで」と要求することは不当な上下関係の下位につくことを相手に強要する行為です。

対話とは、対等な話し合いのことです。誰かが上で、誰かが下になる序列をつけるための「言の葉の押し付け合い」ではありません。

言が神であり、言によって肉となられ、人となられたキリストは、私たち被造物である命を受け、同じ人間として生き、死に、そしてご復活という死の向こうの世界を示してくださいました。

そのキリストに倣うわたしたちが、隣人との対話を拒否するなら、キリストを拒むことになります。

↓エルサレム総大司教と握手するパレスチナ自治区のアッバス議長産経新聞よりお借りしました。)

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今年のクリスマスに頂いたいちばんうれしい「クリスマス、おめでとう」は、フェイスブックでお友だちの神社の宮司さんから頂いた「おめでとう」でした。宗教が異なり、私たちキリスト者は一神教を信じるため、日本の八百万さんを認められなくとも、クリスマスに「おめでとう」と言ってくださったのです。

そこには、心からの喜びがありました。違いを認め合い、尊敬し合える喜びです。

閉ざされた集団の中で上下関係の序列に誰かを無理やり押し込み、誰かを最下位に貶めるための「空気読めよ」という関係性の中では、決して感じられない喜びです。

日本では、2017年の一年の間にどんどん極右化が進み、報道の自由が事実上制限され、知る権利が阻害され、官制デマが垂れ流されるようになりました。

いつの間にか、政治汚職やゼネコンの巨額の談合より、芸能人の不倫沙汰の方が悪いと思い込まされ、すっかりその気になっている方も多いでしょう。

北朝鮮の兵士が38度線越えで亡命する方が増えているのを、あたかも戦争が間近に迫っている前兆だという報道を真面目に信じ込んでいる方も多いでしょう。

現実問題、なぜ以前は38度線越えではなく、中朝国境北端の鴨緑江(アムノクガン)から脱北したのか日本のメディアは正確に伝えていません。

中朝国境なら凍った江を命がけで渡るだけで済みますが、板門店以外の場所での38度線越えとは「いつ地雷を踏むか分からない非武装地帯を、味方に射殺され、自ら地雷踏んでの爆死も覚悟して身一つで走る」ということなのです。

それほど北朝鮮で生きていることじたいに追い詰められているからこそ、爆死も射殺も覚悟して38度線を越えるのです。

具体的な事情を知る機会も与えられず、報道が「自主規制」の美名のもとに統制され、日本の国政が奇妙な方向へと爆走しかけている今こそ、私たちカトリック者がもっとも得意とする「対等な分かち合いの対話」を他の宗教の方々にも広めて行く時だと思うのです。

言の葉の「ことば遊び」に流されず、翻弄されずに、真摯な対話を、異なる意見や考えの方と行うことは大変な労力を必要とすることです。

それでも、ヨコのつながりを築くコミュニケーションの努力をするなら、私たちはそこに真の隣人を見出すでしょう。

言のやりとりの中で、私たちは教会の中に、教会の外の世界でもあちらこちらに真の隣人を見出すなら、真の隣人の中におられるキリストを私たちキリスト者もまた見出すのです。

初めに言があった。言は神であった。

そのまことは、真心を率直に表した言のやりとりの中にあるのです。

2017年も終わりを迎えようとしています。

あなたは今年、何人の真の隣人を見出しましたか。今年出会った真の隣人たちを思い返し、その方々のために祈りましょう、アーメン。

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2017年12月26日 (火)

ほんとうの聖家族

クリスマス 🎄おめでとうございます。しぇるりんです。

12月31日はイエズス、マリア、ヨセフの聖家族の祝日です。


昨今のようにさまざまな理由で家族が壊れ、互いに十分に信頼し合えない時代には、聖家族なんて人間には不可能だとしか思えないかもしれません。

Holyfamily2 大工のヨセフは《マタイによる福音書》の一章によれば、旧約聖書に出てくるダビデ王の子孫です。しかし、時代は流れ、マリアと婚約した際には「一介の大工」にすぎない人でした。

マリアと婚約したのち、マリアの懐胎を村の人々の話から知ったようです。

にも関わらず、夢に神のお告げがあったのを素朴に信じ、マリアを妻に迎え入れ、御胎内のイエズスをも迎え入れられました。

マリアとて、夫の実子ではなく、天使ガブリエルのお告げでいただいた神の子イエズスと自分自身をヨセフに任せるのは、ある意味、辛い決断だったのかも知れません。

マリアとヨセフはイエズスを授かったのち、ヘロデ王がベトレヘムに住む3歳未満の幼な子を全て殺そうと企てた時、夢のお告げに従いエジプトに避難しました。

神の子とはいえ、幼な子を隠し通して連れて逃げる難民としての道のりは困難を極めたでしょう。

聖書通りに考えれば、血のつながらない父が、マリアの子が神の子であると信じ、母子を連れて見も知らぬエジプトの地へと旅立っていったのです。

長い徒歩の旅だったでしょう。当時の旅は、隊商と共に行かねば危険でした。そのため、ヨセフもマリアも時に大切な幼な子を親切げな老婆などに預け、自らは額に汗して働きながら旅したことでしょう。

時に疲労困憊で苛立ち、時にどうにもならないほど隊商の雰囲気が険悪になったこともあったでしょう。見ず知らずの人々と共にいて、ヘロデ王の手配から逃げ出した一家だと気づかれないよう、細心の注意を払って旅を続けねばならなかったのです。

聖なる人として生きるため、父なる神に招かれた方、祝福された方であっても、ヨセフもマリアも「子を育て、子に育てられた親」になることを初めたばかりです。


慣れない子育てをしながら、逃避行を続ける辛さこそ、聖家族を聖家族に育てたといえましょう。

イエズスにもし、養父ヨセフがいなければ社会的には「名もなき母子家庭の子」になっていました。ヨセフは、マリアが天使のお告げを受けて聖霊によって宿った子を我が子として育てる、尊い役割を担われたのです。

私は聖家族が、いつも神の愛と平和に満ちていた理想の家族だとは思いません。

日々の疲れ、苛立ち、葛藤と苦悩に満ち、時に騙されもし、時に疑心暗鬼に囚われ、時に病いに倒れ、時にイエスさまだって幼い子どもにありがちな病いを患い、両親も看病に疲れ、どうしたらいいか分からずに戸惑う、当たり前の家族が神の愛に支えられていたのだと思います。

時に希望を見出し、思いやりある人に助けられ、見知らぬ人のやさしさに慰められ、神の奇跡を目の当たりにしつつ、過ごした日々もあるでしょう。

イエズス、マリア、ヨセフの聖家族は、今の時代に生きる私たちすべてに「家族として安らかに生きる奇跡」は確かに起こることを示しておられます。

理想的な健康状態でも、社会的状況でもなく、職業や収入が安定せず、辛いことがたくさんあっても「家族になること」への希望を見失わずにいるなら、そこに家族を見出すでしょう。

必ずしも血縁の家族や、配偶者、パートナーではなく、赤の他人かも知れません。

それでも、家族的な愛と尊敬を示すなら、確かに聖家族の奇跡はこの社会全体へと広がって行くと信じます。

あなたの、時に憎らしい?家族が、いまどんな気持ちでいるか、少しだけ思いやってみてください。

聖家族の愛と平和が、みなさんの心に訪れますように、アーメン。


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2017年12月24日 (日)

2017年のクリスマスおめでとうございます

クリスマス、おめでとうございます!

2017年12月24日、18:00からクリスマス・イブが始まります。

「イブ」とは「前夜祭」の意味で、祝日(日曜日=主日を含む」、大祝日には前夜の18:00~当日の17:59の間に、特別に祝日の祈りが捧げられます。

なので、クリスマス・イブはクリスマス(降誕節)の前夜祭(前祝い)の日です。

クリスマスは、クリスマス・イブから始まり、クリスマス当日(12月25日、イエスさまのご降誕を記念する大祝日)、翌主日の「聖家族の祝日(イエズス、聖マリア、聖ヨセフの家族を記念する祝日)」、そして1月6日、または6日にいちばん近い主日、「主の公現(イエスさまが神殿で奉献された記念の祝日)」までの約2週間の間のことを指します。

先日、テレビでも言っていましたが「クリスマスはイエスさまの誕生日ではありません」。

そう、イエスさまはどの季節の、どの時期にお生まれになったか、聖書にも、文献にも書いてないのです。

↓カトリック片瀬教会(横浜教区)

2007_4_24_047shukusho イエスさまがお生まれになる前の、旧約聖書のイザヤ書という預言書に書かれた「救い主の訪れを告げ知らせる」ところ(待降節、アドベント)から、ご降誕(クリスマス)、ご受難ののち十字架につけられ、死して葬られ(四旬節)、ご復活になり(イースター、復活節)、使徒と弟子たちを通じて聖霊を下した(聖霊降臨祭、ペンテコステ)などを、一年を通じて黙想する記念祭のひとつが「クリスマス」なのです。

クリスマスが世の人の関心を集めやすいのは、ちょうど冬至および年末、行政の年度末で世界の人々が休みたそうな時期であること、そして「固定祝日」であることが大きいでしょう。

イースターなどは「移動祝日」です。毎年、変わります。そのため、移動祝日がその年の何月何日であるかは、知らない人の方が多いのです。

せいぜい、「ディズニー・イースター」のコアなファン、航空関連業界の方、旅行業者の方、欧米向けの輸出入業者、頻繁に海外出張をされる方々が「業務上の都合」のため、ネットでググれば知っているていどでしょう。

何らかの祝祭日や記念日には「記念日反応」が起きやすいです。


誕生日など個人や家族の記念日、クリスマス、国と地域によって異なる正月、イスラム教徒だとラマダン明けなどの文化的な記念日は、何となく人のたましいを揺りうごかす力があるようです。

今日からクリスマスが始まります。我が家の愚息は「シングル・ベル」だなどと言っていますが、シングルの方こそぜひ、クリスマスにはカトリック教会へお越しください。

大勢の人がいて、みながそれぞれにイエスさまと出会う日だからです。

2017年の場合、24日が「待降節(アドベント)第四主日」であったため、18:00の「降誕祭前夜ミサ(クリスマスイブのミサ)」と日付が重なります。

この場合、24日の17:59までが「待降節第四主日」で、18:00以降が「降誕祭前夜」となります。ミサが同日にダブルヘッダーになっていますが、信徒の方も誤解のないようご参席ください。


イエスさまを通してみなさまにお会いできる今宵を、楽しみにしております。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。


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2017年12月22日 (金)

三種類のカトリック信徒

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

もういくつ寝ると、クリスマス…ですね。年末も重なるため、皆さんもお忙しい時期だと思います。

今日は、カトリック信徒について書きます。

まず、カトリック信徒には、おおざっぱに言うと二種類の人がいます。親に幼児洗礼を授けてもらって育った「幼児洗礼のカトリック信徒」と「青少年(だいたい15歳ぐらい)以降~成人(以下、成人受洗者)」に自らの意志で洗礼を受けた第一世代のカトリック信徒」です。

日本では、社会事情もあり幼児洗礼を受け、カトリック教会に通いながら育ち、初聖体、堅信を受けたカトリック信徒は少なく、社会的にも理解されづらい傾向があります。

欧米、フィリピン、ラテンアメリカなどでは、幼児洗礼を受けないと家族のお墓に入れないので、信仰の有無、カトリックの教えへの理解の有無に関わらず「幼児洗礼だけは受ける」方は今でも多いです。

もし、幼児洗礼者がカトリック教会で冠婚葬祭をすべて行うことを望む場合、カトリック教会が多数派の国では、初聖体(小学校低学年~)、堅信(大体中学生ぐらい。プロテスタント教会の受洗可能時期~)まで、カトリック教会で一定の教育を受ける必要があります。

欧州の多くの国では、公立学校の児童生徒であっても週1回ぐらい、日本の道徳の時間に該当する時間に自分の所属する宗教で宗教教育を受けます。

また、アイルランドなどの一部の国や地域では、公立校でも当たり前に全ての児童生徒にカトリック教会の教えを堅信までびっちり教育するケースもあります。

多くの幼児洗礼者のカトリック信徒にとってカトリック教会の教えは、他の常識や教養と同じく「何となく感じるものはあるけど、詳しく訊ねられるとよくわかんない!」ものです。

↓カトリック山手教会

17620288_624 一方、日本では日曜日(主日)に一定の期間、幼児洗礼のために受ける親教育、本人が受ける初聖体講座(小学2年ぐらい~1年間)、堅信教理(半年ぐらい)が、最低限の必須です。

日本の檀家制度による仏教や、明治維新の初期に政治的な意味合いで制定された「氏子調」に基づく氏子制度のように「宗教の所属が生まれで決まり、本人がその宗教の教えに関する教育や訓練(歌、踊り、祈り、儀式、通過儀礼などの実技訓練)を受け、その宗教に帰属したいという意志があるかを確認するプロセスのない宗教?」は、世界に類例があまりありません。

どんな宗教、信仰であれ、本人に帰属したいという意志がない思想信条を強要することは出来ません。

たとえ、「どうせよく分からないから、どっちでもいいや」であっても、本人の意志確認のプロセスは必要だと思います。しかし、現代の日本の殆どの地域では宗教教育および訓練が消滅しているのです。

以前、シリア難民のイスラム教徒の方で、家族揃って助けてくれたのが福音派の教会であり、難民申請が許可されたのがカナダだったため、家族揃って福音派キリスト教徒に転向した方がユーチューブに出ていました。

その方は「シリアでイスラム教徒に生まれたけど、理解して熱心というより、イスラム教の地域社会にいたからイスラム教徒だったのだと思った。カナダはキリスト教徒の多い国だから、家族揃ってキリスト教徒になった方が暮らしやすいと思って福音派に改宗した」と話していました。

改宗の動機が、家族、地域社会や自分がそこに生きることを選んだ社会への適応のため、という方も相当数います。

幼児洗礼者の中には、家族の冠婚葬祭の都合を考えると「他の宗教に転向するほどの熱意がない」という方も多いです。


また、結婚後に配偶者に合わせてカトリックで洗礼を受ける方の中には「冠婚葬祭費用が仏教より安く、神道より敷居が低い」など、現実的な理由を挙げる方もいます。

そういう方ほど、せめてクリスマスとイースターにはカトリック教会に戻って来ていただきたいものです。

一方、成人洗礼には、「通常の洗礼」と「臨終洗礼」の二種類があります。

通常の洗礼は、カトリック教会に通う体力と気力のある青年以降の成人が、1年間ほど「カトリック教会の教え」を日本ではほぼマンツーマンで指導を受け、クリスマス、またはイースターに洗礼を受けます。

受洗講座が平日夜である場合もあるため、週2回、カトリック教会に1年間通う忍耐と努力は相当なものです。

成人洗礼だからと言って、神父さま、シスターや宣教師さんに教わることがはっきりと理解できるわけではありません。

学校の成績に例えると、「理解して口頭試験の点数が評価されるのではなく、出席点、努力、忍耐、本人がカトリック信徒として生き続ける意志があるか」が試されているようなものです。

成人だからと言って、カトリックの教えの根幹に関しては、幼児洗礼者が小学生で学ぶ「うれしい初聖体」より難しい要理を理解しなくてはならない、とは教える側も思っていないと思います。

成人ですので使われる言葉は小学生より難しいでしょう。先生が「聖書ものがたり」の絵本を読んでくれる代わりに、自分たちが聖書を読み、冠婚葬祭、これからの生き方について話し合うなど、子どもとはテーマも違うでしょう。

成人受洗の場合、どちらかと言うと、気持ちの上で「私はカトリック信徒です」と家族や社会に向かって言える人になれるのか、が日本では問われていると思います。

テレビの場面設定の影響もあり、大病したり、深い悩みを抱え、死の恐怖に直面した人が成人受洗者になると思われがちですが、「何となくカトリック信徒になりたいと思い」「何となくなっちゃった」人もいます。

また、成人受洗者がみんな「立派なカトリック信徒」になれるわけではありません。過度に期待されても困ります。

洗礼を受けて、初めて「初心者になるという意志を自ら表わし、教会共同体に受け入れられた」ことが重要なのです。

その点、「臨終洗礼」は日本では主に、カトリック信徒の家族やカトリック学校に通った経験のある方がご臨終間近、またはご高齢になって死に向き合うほど衰弱されてから「やっぱり洗礼を受けたい」という場合です。

「臨終洗礼」、いわゆる「天国への片道切符(生き延びちゃったら往路アリ?)」はひとさまざまです。

奥様の信心深さに意地を張っていたのか、大都市の有名寺院に自分の「生前墓」を中高年のころ建てた方が、ガンで衰弱してから「やっぱりカトリックで洗礼を受ける」と言って、奥様を呆れさせた方。

死の間際になって、葬儀を誰がどう執り行うかで揉める実子たちの欲深さに呆れ、生涯、自分なりに熱心に信じ続けてきた仏教系の信仰を捨て、フィリピン人のお嫁さんが熱心に求め続けて来たカトリック教会で臨終洗礼を受けた方。


若い時に洗礼を受けたいと思っていたが、職業柄、社会的に不利になる事を恐れて洗礼を受けるチャンスを逃してしまった方が最後に洗礼を望み、臨終洗礼をカトリック教会で受けたその日に亡くなられた方。

若い方が負傷や病気などで危篤になり、本人の希望で臨終洗礼を受けた場合、臨終洗礼後に健康を回復される場合もあるかと思います。

その場合、洗礼をさずけた神父さまによりけりですが、もしも洗礼教育が受けられるだけ十分に健康回復されるなら、その場合には洗礼講座に通うよう勧められると思われます。


本当に「息を引き取る間際の臨終洗礼」は、日本では「キリストへの信仰を持つ人なら、司祭から洗礼を受けていない洗礼志願者でも可能」と「カトリックの教え」にあります。

実例で私が聴いたのは、お嫁さんが洗礼志願者でお舅さんが息を引き取る間際に臨終洗礼を望んだ、まさにその時刻が日曜日のミサの30分前だったという事例です。

神父さまがご臨終に間に合わないと言うことで、電話越しに「臨終洗礼の式次第」を伝え、洗礼志願者が臨終洗礼を授けたとのことでした。

これは、キリシタン弾圧の江戸時代の潜伏キリシタンが司祭不在の2世紀以上の間も、全員が事実上のカトリック信徒であったことをローマ教会が追認したことに由来します。

また、伝統会派のプロテスタント宗派で洗礼を受け、洗礼台帳が取り寄せられる場合には、洗礼式ではなく「転向式、および初聖体」を行います。

キリスト教では、カトリック信徒であっても場合によっては婚姻なら二度目が認められことはありますが、洗礼は誕生日と同じように、生涯たった一度の尊い儀式なのです。

幼児洗礼を「親の押し付け」と勘違いされる方が多いのですが、家族が躾の一環として教える倫理や善悪の判断の基準の根幹が「カトリック教会の教え」だと言うことです。

よく、「キリスト教は押し付けがましい」と思い込んでおられる方が多いのですが、あれは明治維新~戦前に大々的に流布された「國體(国体)論」に出てくる「反キリスト教思想」の本に書かれている内容です。

少なくとも國體論にある「反キリスト教論」は神社神道や仏教の教えではないと、心ある宮司さんやお坊さんは言われます。

実際にカトリック教会にいくら通っても、よほど親しい人でも出来ない限り受洗を勧める人はいないでしょう。

それに、都市部にはキリスト教の教会も数あるため「どれにしようかな?」と決めかねて、今週はプロテスタント教会、次の週はカトリック教会…とハシゴする「迷える羊的な志願者」もいます。

迷うのもまた、人生です。しなければならない時に決断できるよう、祈るしかありません。

カトリック教会に通っても「誰もキリスト教を押し付けて来ないぞ。どうしてかなぁ?」と気づけるなら、それだけでも一歩前進です。

みなさん、クリスマスにはぜひ、カトリック教会へお越しください。あなたのクリスマスが祝福された日となりますように、アーメン。

 

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

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