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2018年4月24日 (火)

牧者である主キリストの道

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

(ヨハネによる福音書10:14~18)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

復活節第3週目は、「羊飼いの主日」とも呼ばれています。

「主はわたしの牧者。わたしには恐れることがない。」という有名な詩編23編の言葉の通り、わたしたちは「主イエズスが迷える羊のようなわたしたちを愛で牧してくださるんだ」という受け身の信仰に満足しがちです。

↓「善良なる羊飼いであるキリスト」

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とあるヨーロッパの国で、羊を飼う牧場を見かけました。その時、その場から見えるかぎり羊は1匹もいませんでしたが、羊たちの足跡を辿り、牧場に危険物やプラごみなどがないかをチェックし、フェンスなどの修理をする、本物の「羊飼い」に出会いました。

どこか別な場所で牧草をのんびりと食べながら過ごす羊たちは、羊飼いが羊たちが間違ってプラごみを食べたり、フェンスの穴から迷い出ないよう常に牧場を見廻っている羊飼いの「人間的な事情」を知らないでしょう。

それでも、彼の羊たちは羊飼いに信頼を置き、彼の口笛に応えて集まろうとすることでしょう。羊飼いが心をこめて羊の世話をしている気持ちは、きっと羊にも通じていると思うのです。

その点、わたしたちはどうでしょうか。

わたしたちは、洗礼によって主イエズスに結ばれ、その霊的な牧場にいこい、命のパンと救いの盃をいただき、必要に応じて道を示していただいきます。

主イエズスは罪深いわたしたちのため、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。」と、私たちに永遠のいのちへの道を開かれました。

主イエズスがご受難、十字架、ご復活、ご昇天と聖霊をわたしたちに送られることで、わたしたちにも「誰も奪い取ることはできない永遠のいのちの道」を開いてくださいました。

永遠のいのちに至る道、それは感謝の道だと思います。

ある人が、まさに幸先よく見えたビジネスを始めた矢先に、ビジネスパートナーが病気で倒れたことがありました。ちょうどその時、ビジネスパートナーの穴埋めを、一定期間ならできる人が手伝いを申し出てくれたことがありました。

さて、この人が「ビジネスパートナーの病気は不幸だったけど、手伝いをしてくれる人が現れて助かった。ありがたい。」と心から思えたなら、自然とその人に同情する人も集まったかも知れません。

ですが、その人は「パートナーが働けず、手伝いを頼んだ分、人件費もかかり、仕入れ値も高騰した。せっかく投資したのに、手伝いの人は期間限定でしか来れないから、利益が少ない。もっと儲けるはずだったのにただ疲れ切り、投資した金額に対して見返りが少ない」と思ってしまったようです。

パートナーの分もカバーせねばならない上、疲れも溜まっているせいか、善意で手伝いを申し出た人に暴言を吐き、仕事中に酒をあおるほど、生活態度が荒んで行きました。

するとまず、それまで彼の笑顔に癒されていた「常連さん」、「友達みたいなお客さん」が数週間にしてほとんど来なくなりました。

どんなに疲れ切り、辛い状態でも心から感謝の心が持てることは、まさに「わたしたちは主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(コリントの信徒への手紙15:37)」にある、「死に打ち勝ち、主キリストのご復活をともにすること」だと気づきました。

人間的な意味合いからすれば、セクハラやパワハラなどの加害者のように、法的に許さず、人間的な裁きと賠償を訴え、より良い未来の糧とすべき事柄があります。

昨今、ある財務省官僚のセクハラ加害が論議になっていますが、いじめ、ハラスメント加害者が裁きを受け、相応の法的、社会的、道義的制裁とつぐないをさせること、被害者の心身や社会的地位の回復に必要な配慮は、明日のためにいますぐ行わねばならないことです。

と同時に、わたしたちは自身がどんなに疲れ、辛い状況に置かれても、心から主キリストの愛を通じて感謝の心、ゆるしの心が持てるよう、霊的に祈り、願い、ゆるしを求め続けねばなりません。

それは、自分が惨めな境遇に陥った時、心の片隅にいつも、きょう一日への感謝の気持ちを忘れないでいるためだと思います。

きょう一日への心からの感謝の気持ち。与えられた境遇をあるがままに受け入れ、なお主キリストの愛に応えるために感謝の心で、いまは人間的には許してはならない人々がいつか自らのあやまちを自覚し、赦しを乞える、回心のみ恵みを与えられるよう祈ることは、まことにとうといキリスト者の宣教の使命だと思います。

祈りは、祈る人の在り方を根底から変えてしまいます。いつしか、祈る人の周囲の人々の人々も、徐々に変わって行きます。

自分が周囲の望み通りの人生を歩めるかどうか、誰かに自分の望む人生を無理やり歩かせるのではなく、自分らしい人生の道へ、主キリストが導いて下さるままに歩めるようになるかがいちばん大切なことだと思うのです。


主キリストがご復活により全人類の良き羊飼いとなられたように、私たちも迷える羊として主の憐れみを乞い願うことに自己満足することなく、羊飼いと同じ気持ちで友である羊とともに、私たちの小さな生活の中の小さな牧場の羊飼いを目指せますように。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

 

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年4月20日 (金)

キリストに回心する「その時」

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂への手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天から光が彼の周りを照らした。

サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、物も言えずに立っていた。サウロは地面から起き上がって目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
(使徒言行録9:1~9)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

大祭司からダマスコの諸会堂への紹介状をもらい、イエズスの弟子たちを脅迫し、殺害するために後を追ったサウロの姿は、現代の一部の過激な極右勢力など、極端な思想の持ち主を思い起こさせます。

律法とは、ほんらい人の魂を自由にさせ、神の愛への無上の信頼に至るため神が預言者らを通じて示された、方法論の一種であったのでしょう。

人のたましいを自由にするはずのものが、いつの間にやら政治的などが介入し、堅苦しい決まりごとの寄せ集めになっていったことが、当時の大祭司や律法学者たちの真の問題点だったのでしょう。

人類史を担う聖都エルサレムであるが故に、過激な行動に走ったサウロはある意味、愚直なほどに極右派的な律法崇拝主義者だったのかもしれません。

そんなサウロの愚直さに、イエズスは目を留められました。サウロにこれ以上罪を犯させてはならないという、イエズスの愛がサウロに届いたのが、冒頭の聖句のシーンだったのでしょう。

サウロは、大祭司らのイエズスの処刑はユダヤ人社会を守るために絶対必要だったと信じていたのでしょう。

もしかしたら、本当にイエズスが政治的なクーデターを企てて、ローマ帝国にユダヤ人の自治権を奪わせる原因を作るトンデモない輩だとサウロは信じていたのかも知れません。

ご復活ののち、天のみ国に行かれ、御父である神の元に行かれてなお、イエズスは自らユダヤ人の血の責任を取ろうとしておられたのだと私は思います。

「血の責任」という言葉は日本語にはあまり馴染みがないかも知れません。

わたしが考える「血の責任」とは、「誰かが、何かが、自分のために血を流したこと、命を失ったことへの責任感を失わず、先祖の罪、他者の罪をも自らの血の責任として神に赦しを願い、神に心を向けること」を指すのだと思います。


どこぞの政治家が言うように「過ぎたことは、水に流せばいいじゃない?」と考える日本人には、少々馴染みづらい感情です。


しかしながら、「再び同じ罪を犯さないためにはどうしたらいいのか?」という対応策の積み重ねが、人類の歴史であり、文化の発展への原動力である点で、日本文化だけ「水に流せる」せば成り立つというものではありません。

だからこそ、「誰かが、何かが流した血の責任を自覚する」ことは、自らへの赦しの始まりであり、真の愛の自覚のはじまりであり、人間らしさを主イエズスとともに生きる道でもあるのです。

その後サウロは、イエズスの弟子たちに責められたわけではありませんでした。ただ、自らの罪を告白し、洗礼を受け、イエズスの弟子たちから遠く離れたところでご復活になったイエズスの教えを説き続けました。

サウロははじめから、イエズスの弟子たちが自分を受け入れてくれるとは思っていなかったようです。

イエズスはご復活ののち、はじめてサウロに聖霊によって自らをお示しになりました。サウロ以前の弟子たちは、人となられたイエズスの生前を知る弟子たちでした。

↓ミケランジェロの「サウロの回心」

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サウロは迫害者だったのですから、生前のイエズスについてあやふやな情報しか持たない人だったでしょう。迫害者の多くは、相手に敬意を持つ前に敵意と警戒心を持って相手を見がちな人々だからです。

サウロはそんな自分を、生前からイエズスを知る弟子たちらが聖霊において受け入れられ、弟子たちと和解できるとは到底思えなかったでしょう。

ざっくり言えば《使徒言行録》は、生前のイエズスを知る弟子たちの宣教活動の記録であるとともに、聖霊において使徒座の「しもべの中のしもべ」である教会の基礎が築かれるまでの動きを描いています。

その中でいちばんのキーマンが、使徒サウロなのです。

イエズスのご復活後に聖霊が教会の礎となり、「集会、共同体」である教会が世の終わりまで人類を支え続けられるよう、天のみ国におられるイエズスはサウロをお選びになりました。

サウロは、イスカリオテのユダがイエズスを裏切り、負った罪を主イエズスへの回心によって償う存在ともなりました。

私は、イエズスはイスカリオテのユダを救われたと信じます。イエズスは、おそらく金勘定がちょっとばかりいい加減で、僅かな金銭のためにイエズスを裏切って、自ら命を絶ったイスカリオテのユダを心からいまも愛しておられるでしょう。

イスカリオテのユダの罪のつぐないと「血の責任」は、聖霊によって選ばれたサウロに託されました。

わたしたちはみな、誰かの血の責任を負い、神の愛に応えるために生きる旅人に過ぎません。

一見、定住し、安定した生活を送っているように見えても、日々の生活は自転車操業のようなものです。いのちははかなく、奪おうと思えば瞬間で誰でも奪えるものだけど、いのちを奪った血の責任は子々孫々と受け継がれねばならないのです。

わたしたちは誰であれ、誰かの血の責任を負い、この世を生きています。一人の人間にできることは、ごく限られたことだと思います。

それでも、それぞれの中にある血の責任を負いつつ、キリストとともに一日を大切にして生きようではありませんか。

もう二度と来ない、今日という日のために。

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2018年4月17日 (火)

キリストの道を一筋に

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われた。

彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

そこで、イエスは言われた。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触って見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見える通り、わたしにはそれがある。」

こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたといっしょにいたころ、言っておいたことである。(ルカによる福音書24:36~44)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

欧米や南米では当たり前の「紙の上で洗礼を受ける」ことだけでも、日本では一大事です。

幼児洗礼でも、両親がカトリックとは限らないので「ご主人にバレる前にこっそり幼児洗礼を受けさせて、事後報告」などの「半ば隠れキリシタン」状態にある人はとても多いのです。

↓ピエロ・ラ・フランチェスカの「正面から見据えるご復活のキリスト」

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ましてや、成人がカトリックに転向しようと考える場合、家族の誤解や反感で葛藤が起きることもあります。

それでも、おぼろげながらでもキリストのみ姿を追い続けたい。日本でカトリック信徒となるには、それだけの覚悟を必要とします。

イエズスがご復活され、弟子たちの前にあらわれた時、わたしはてっきりご復活で手足が釘で打ち抜かれた痛みも、おん脇腹から血を流された傷跡も、ご復活とともに痛みが「治っちゃったのかな?」ぐらいに思い込んでいました。

でも、聖書のどこにもご復活後のイエズスの十字架の苦しみと痛みが、ご復活後に癒されたとは書いてありません。

ということは、イエズスは十字架上での苦しみと痛みを担われたままご復活になったと観想してみましょう。

死の痛みとなったおん釘痕は痛むまま、医学的に言えば死亡後に受けた脇腹の刺し傷もご復活ののちに痛みを得たまま、イエズスがご復活になられたとしましょう。

死の恐怖に打ち勝ち、黄泉に下られ、死後の苦しみに打ち勝ち、おん父の愛そのものになられたイエズスにとって、愛は痛みに打ち勝つものだったのではないでしょうか。

私たちの人間的な想いからすれば、死どころか頭痛や腹痛だって痛いものは痛いとしか言いようがありません。別にキリストに心から祈れば頭痛が治るわけではなく、どこぞの司祭が言ったように「叔母さん、頭痛ならいつもの鎮痛剤の方が利くよ」、と誰もが言うでしょう。

それでも、私たちには「この痛みを迷惑で嫌なもの、不運なことだと嘆くのか、これも神からいただいたものと受け取るのか」という選択肢は残されています。

私は子どもの頃からの偏頭痛もちです。ホルモンバランスの変化で年経れば軽減するとも言いますが、最近は偏頭痛も主が私の手に刻んでくださった詩篇の一部だと思えるようになりました。

もしも偏頭痛もちでなかったら、痛みを感じている誰かの気持ちを深く思いやれるようになりたいと、思わなかったかも知れません。自分がちょっと痛みを感じただけで大騒ぎをして、周囲を困らせる人間になっていたかも知れません。

また、痛いという感覚を知らずに生きていたかもしれません。世の中には、触ってみるとものすごく肩こりがひどいのに本人には全く自覚がない、という方がいます。生理学的に言えば、痛みとは自分自身の心身から「用心しなさい。休みなさい」という警告です。

21世紀をご覧になるイエズスにとってご復活の痛みは、私たち人類と世の終わりまで戦禍、自殺、経済戦争、奴隷的な酷使、病いや整体環境の変化による苦しみをともにする証しの苦しみです。


英米仏がシリア爆撃が開始し、収まりかけた戦禍がまた広がろうとしています。信教思想に関係なく、幼い子らが痛みと戦争の不当を訴えて泣き叫ぶ声が、イエズスのご復活の痛みをいや増しているでしょう。我が子を守りたくとも守りきれない父母の叫びに、イエズスの魂は張り裂けていることでしょう。

それでも、私たちには祈る以外、何もできない事がこの世にはたくさんあるのです。それでも、私たちはイエズスのご復活の痛みの慰めとなるよう、平和を祈り続けなければならないのです。


キリストの道を一筋に歩むということは、イエズスのご復活の痛みを天的な愛とともに前に進むということでもあります。

キリスト者にとって、道はキリスト以外にはありません。キリストに呼ばれ、キリストを選んだなら、キリストの道をただ一筋にともに歩みましょう。

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2018年4月13日 (金)

「バチカン」への誤解あるあるトップ5

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

古今東西、知らない人に猜疑心を持ち、差別する人は世界中にいましたが、今の日本では、何かに「世界の陰謀集団」のレッテルを貼りたがる人が増えています。

いわゆる「ユダヤ系アメリカ人のお金持ち集団」「イルミナティ」、ちょっと古いところだと「フリーメーソン(正確な団体名はフリーメソンリー)」など、富裕層や男性限定の秘密集団めいた諸団体、および秘密結社などが何らかの「陰謀集団」とみなされているようです。

日本の安倍総理の周辺人士が所属するといわれる「日本会議」も十分に「草の根秘密結社」ですが、実態はイマイチ不明です。

さて、日本ではなぜか「バチカン」も「陰謀集団」だと思い込む一部の右派人士がいるようです。

「バチカン」を「陰謀集団」だと思い込んでいる方々の誤解あるあるトップ5を分析してみました。

1.「バチカン」は宗教政治の陰謀集団?

「バチカン」いわゆる「ローマ教皇庁所在地」は、1929年2月11日に教皇ピウス11世と当時の首相であったムッソリーニが「ラテラノ条約」を結んだ時から「バチカン市国」となり、イタリア政府とは別個の外交権を持つ宗教国家となりました。

本来は、ローマ時代までさかのぼる使徒伝承の教会群のあるイタリアのローマ市の一部です。現在も、水道、電気等のインフラ供給はローマ市より提供されています。

国民は800-900名ぐらい。バチカン市国国籍を持つ人のほとんどがバチカン市国内に居住する必要のある修道士、修道女、および常駐のスイス衛兵などです。

小さな国ですが、一応「国家」なので内政は「国務長官」が行い、首長はコンクラーベで選出されたローマ教皇です。


ローマ教皇が亡くなると、コンクラーベを主催する選挙管理委員長役である「カメルレンゴ」が、世界中の80歳以下の「大司教」「枢機卿」と言う各地域、国の「教区、大教区の長」で、教皇被選挙権を持つ人々をローマに招集します。

今回の教皇フランシスコの時には、「ファイルのようなものを授与し、コンクラーベ会場に入場する」シーンが世界中に放送されました。

世界中の枢機卿、大司教は数百人いるため、お互いのことを深く知りません。ファイルの中書かれているのは、厚さ的にみて、被選挙権者である枢機卿、大司教の名前(世俗名、修道名など)のリストなのかも知れません。

↓2005年のコンクラーベ。規則書のようなもの、聖書、教会の祈りとともにファイルのようなものを持っているように見える。

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「コンクラーベ」を「根比べ」と揶揄するカトリック信徒がいるぐらい、ここから何回も選出作業が行われるのです

膨大な名前のリストとおぼしきものの中から、「教会の祈り」と呼ばれる1日のお勤めと観想の祈りのうちに、次期教皇としてキリストが望まれる人の名前を選ぶようです。


枢機卿ら被選挙権者の2/3が「数百名いる中の誰か一人」に投票した時、「その誰か」が新教皇に選出されます。そして本人が「私は教皇になります」と受諾すれば決定、という手順です。

黒い煙が上がると「選出不成立」、白い煙が上がるとサン・ピエトロ広場に「ビバ・パパ!(教皇万歳!)」の叫びが一斉に上がります。

そして、白い煙の1時間ほど後、新教皇が挨拶と「教皇として自らが定めた称号」を発表する、という次第です。


今の教皇フランシスコを個人的に知っている枢機卿は、南アメリカ大陸の近隣諸国以外では殆どいなかったようです。


もしも、バチカンが宗教政治の陰謀集団なら、イタリア、フランスなど、もう少しメジャーに知られた国の人が選出されるだろうし、新聞記者らが予測できるはずではありませんか?

コンクラーベの際、欧州各紙の予測は当たったためしがありません。なぜなら、新聞各紙の予測は「自国民が望む人」か「政治的に手腕のある人」を予測候補にする傾向があるからです。

以前、横浜教区の司教だった濱尾司教がバチカンで外国人移民担当枢機卿になった時、日本でも「日本人初のローマ教皇誕生か?」とささやかれたことがありました。

その時のコンクラーベで選出されたのは、ベネディクト16世でした。

バチカンはその首長じたい、政治的な思惑に何ら関係なくカトリックの教えと祈りによって選出されます。

間接的に「紙の上でカトリック教会の倫理を重んずる国」では、あたかも政治力があるように言われることが多いのですが、バチカン市国そのものは、陰謀を自ら行う経済力や政治力と無縁の、ローマ教会の本拠地です。

2. バチカンとアメリカは陰謀で結びついている

このような内容は、海外小説にもあるぐらいなので、つい「ホントじゃないか?」と思いたくなるかも知れません。

ちなみに、小説では「CIA要員がカトリック司祭になる」という設定のものを読んだことがあります。これなら可能かも知れませんが、表立って司祭以上の活動が出来るかは疑問です。

宗教家は、相手のウソだけでなくその内面を見通せるだけの深さが必要なオシゴトです。その上、カトリックには告解を定期的に行う義務、告解を聴いた内容への守秘義務があるため、CIA要員の方を続けられない可能性もあるでしょう。諜報活動のためなら、CIA要員などが身分を隠して、情報提供が受けられそうな司祭の元に、熱心な信徒のフリをして通った方がよっぽど効率的でしょう。

現実のところ、米国の歴代大統領でカトリック信徒は、暗殺されたJ. F. ケネディーただ一人。

一般的に米国で弁護士資格を得て、政界のトップを目指す際、宗教の転向を望むなら、米国で勢力のあるメソジスト派、長老会派、米国発の穏健プロテスタント諸会派の教会を選ぶのが妥当です。大統領とその側近の殆どが、少なくとも紙の上ではプロテスタント(新教)信徒だからです。

カトリック信徒でいると、出世コースから外されやすいアメリカ政府の要人の誰かがバチカンと陰謀を企てるというのは、日本人特有の妄想なのかも知れません。

3.「バチカン」ではヒットラーの「我が闘争」を読む?

これは、フェイスブックのとある人物が言い出したことなのですが、ヒットラーとて20世紀のドイツ人だし、修道会学校を卒業しているので「紙の上ではカトリックの洗礼」を受けていたはずです。

その後、カトリック教会から公式に破門されてもいないので、「紙の上ではカトリック信徒」なのでしょう。

カトリック、プロテスタント、ともに教会で冠婚葬祭を行えるのは「信徒限定」です。カトリック教会内に先祖代々の墓地がある人も欧米には大勢いるため、当然「葬式カトリック信徒」の数も膨大です。

日本の葬式仏教徒がお釈迦さんの教えを信じているわけではないように、葬式カトリック信徒もキリストさんの教えを信じておらず、国語や文学の時間に習った以上のことはなにも知りません。

日本の葬式仏教徒との唯一の違いは、葬式カトリック信徒も、日本のお宮参りに当たる幼児洗礼を受けるためには、一定期間親が教会に通う必要があることです。また、教会で人並みに葬式をして欲しければ、少なくとも年に2~3回は所属教会に家族の誰かが顔を出し、一定額以上の献金をすることが求められているため、必然的に年に数回はお説教を聞くハメになるということだけです。

バチカンの関係者が読むのは「聖書」と「キリスト教の伝承や諸聖人聖女の記した書物」などの中でも、専門性の高いものばかりでしょう。

日本の葬式仏教徒にも殺人者、陵虐者がいるように、「紙の上ではキリスト教徒」にも悪人は大勢います。だからと言って「バチカンは悪の巣窟」は誤解です。

相手が誰であれ、時の政権と信徒の間に立って苦渋の決断を強いられた時、キリストの教えに従って最善の選択をせねばならない時はローマ教会全体にも、各教区や大教区(カトリック教会の行政区分)にも、いつ、どの時代にもあります。しかし、それが「陰謀」だと言ったら、この世に陰謀でないことなど何もないでしょう。

4. 「バチカン」は今も「十字軍遠征」を企てている?

この辺りになると、もはやRPGゲームの妄想か、世界史の教科書への誤解としか思えませんが、日本人で「バチカンは十字軍遠征を今も企てている」とか言い出すネット住民の発言やHPを時々見かけます。

十字軍は、エルサレムの聖地をイスラム教徒から取り戻すという大義名分もありましたが、主に聖地の教会補修やエルサレムやカルメル山にある修道会の保護をローマ教会が望んだことが原因でした。

エルサレムにはキリスト教の「聖墳墓教会」やキリスト教関連の巡礼地とともに、ユダヤ教の聖地でもあり、イスラム教の聖地の一つである「アル・アクサ・モスク」もあります。

今は、世界のどこからでも飛行機で一っ飛びでエルサレム巡礼に行ける時代です。そんな21世紀に、徒歩で欧州からエルサレムを目指す物好きが隊商を組めるほど大勢いるとは思えません。

中世の頃、大航海時代以前には、大規模な隊商を組まないと治安上の問題があり、地中海を越えて中東には渡れなかったから十字軍遠征を望んだ貿易商人らがいた、ということです。

実際、イエズス会の創始者、ロヨラのイグナチオの初志はエルサレム巡礼でしたが、治安上の問題で叶わず、新しい宣教会の設立を目指す方に方向転換したため、イエズス会がいまもあるのです。

5.「バチカン」と日本のクリスチャンは違う?

最近は、信教思想の自由という憲法の定めをオギャーと生まれた時から教わった世代が日本社会を牽引しているせいか、「バチカン」は陰謀集団だけど、日本のクリスチャンは「稀にいるが、陰謀集団とは関わりない」と真面目に主張する右派の方々がいるようです。

日本のカトリック信徒は総人口の0.3%ぐらいです。現在、増えているのは主に日本に永住するフィリピン系、ベトナム系カトリック信徒らとその子孫です。

ほとんどの日本人は「マジでカトリック信徒に遭遇」した経験がほぼないため、「バチカンは陰謀集団で…」などと言っても誰にも実害はないと思い込んでいるようです。

「旅の恥はかき捨て」と似たような無責任な感覚なのかも知れません。

そんなある日、ネット、またはリアルの知り合いの誰かがカトリック信徒やクリスチャンだと言うことを知ってしまったとしましょう。

するとバツが悪いので、「バチカンは悪いけど、日本のクリスチャンは悪くない」などと言い出すのです。

よく知らないのに、内輪で悪しざまにののしるような言動をネット上でしてしまい、あとで後悔…ということはよくあります。

実際はなにも知らないのに、やたら陰謀だ、悪の巣窟だとキリスト教へのヘイト発言するのは、つつしむべきだとしぇるりんは思います。

あなたの陰謀説をマジメに受け取った誰かが、当たり前に子どもの頃からキリスト教の教会に通う誰か、当たり前にクリスチャンでいる誰かを傷つけているかも知れません。

あなたが葬式仏教徒なら、「ミャンマーのロヒャンギャ虐殺をする人々と同じ仏教徒なのか?」と誰かに訊ねられたらどう感じるか、いちど考えてみてください。

知らない人には、日本の葬式仏教徒も、ミャンマーで虐殺行為を行う上座仏教徒も同じアジア地域の仏教徒にしか思えないかも知れません。

その時、あなたがどれだけ傷ついた気持ちになるかを思いやれるなら、バチカン陰謀説のようなトンデモ論に惑わされずに済むでしょう。

よい一日をお過ごしください。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年4月10日 (火)

主のご復活と聖母マリア

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

聖書にはあんがい、聖母マリアに関する記述が少ないです。

受胎告知~イエズスが12歳になるまでの記述から、急に「カナの婚礼」の場面で大人になったイエズスに水をぶどう酒に変えてくださるよう、願う場面が描写されます。

その後、十字架の下でたたずみアリマタヤのヨセフに母として遇するようイエズスが頼むシーンまで、殆ど出てきません。

聖母マリアさまは、その間何をしておられたのでしょう?

私は以前、調理用品関係の仕事をしたことがあります。その頃に男性の方でよく、「女性の料理の仕方は大ざっぱだ。道具の扱いが雑だ」などと言う方に会いました。特に、時にご自身でお料理をされる殿方に多いようです。

ご本人によく聞くと、ご自身は気が向いた時と自分の必要な時に料理されるだけなので、一年365日、家族の三食を日々作り続けることの大変さについては、考えたことがないらしいことが判明します。

↓聖霊降臨の際には聖母もおられた。

Pentecoste2


「今日は何にしよう?」、「給料日前でお金がない」「足を怪我してスーパーに行けない」「疲れてやる気が起きない」「どうしても食べたいものがあるけど、家族の好みと違う」など、日々の生活の中にある小さな十字架のトゲを日々担うのが、主婦の務めです。それはそれは、大変なつとめなのです。

聖母マリアさまも、わたしたちと同じように、小さな小さな日々の十字架のトゲを担う日々を送られたことでしょう。

み弟子たちの母親がわりとなって話を聴き、イエズスを慕う女性たちの仲裁役ともなられたことでしょう。

女三人あつまれば「かしましい(姦しい)」と言いますが、女性同士の人間関係のもつれは、男性以上にややこしく、仲裁しがたく、面倒くさいものなのです。

聖書に書かれていないキリスト教伝承によれば、最初にご復活になったキリストは、日が昇る前、こっそり墓参にこられた聖母マリアとお会いになったとあります。

三日目にご復活になる…というイエズスの話が本当のか、聖母ご自身がお確かめになりたかったのかも知れません。

我が子でありながら、主そのものであるイエズスにもう一度会いたい…そんな母の素朴な想いを胸に抱いておられたのかも知れません。

イエズスは、ご復活ののちに多くの奇跡をおこなわれました。

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなすったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネによる福音書29:30~31)」

福音記者は、ご復活の時に「弟子たちの中でいのちがよみがえる」奇跡をどのように表現したらいいのか、戸惑った様子がうかがえます。

それは、聖母マリアについても同じことでした。み弟子らは、聖母マリアが主に選ばれた特別な、母の中の母、人類の母であり、第二のイブであることを心から感じていたことでしょう。

イブは蛇にそそのかされ、エデンの園を追放され、生涯を主の定められた産みの苦しみと労苦に捧げました。

一方、聖母マリアは主の天使から受胎告知を受け、自ら産みの苦しみと育てる苦しみ、ともに生きる喜び、十字架の下に立つ悲しみ、そしてご復活と聖霊降臨の時まで、生涯の労苦をおん自らの意思で主に奉献されました。

イブは蛇にそそのかされることで知恵を得ましたが、聖母マリアは主への信仰によって知恵を信仰と叡智へと高められました。

それゆえ、父なる神は聖母マリアを天に高く上げられ、聖母は世の終わりまで、聖三位一体への私たちの日々の小さなトゲのような祈りを取り次ぎ続けておられるのです。

私たちの日々の苦悩は、小さな労苦の連続です。

小さなコップの中の嵐のような揉め事、争い、体調不良、家族や友人知人との不協和音、家族に洗礼のみ恵みを願うことなど、小さな祈りの連続です。

そして、わたしたちが捧げる日々の犠牲もまた、主への信仰と祈りなしには無益な労苦としか思えない事柄ばかりなのです。

聖母マリアは、そんなわたし達の小さな祈りにいつも耳を傾けておられます。

小さな日々の中での、小さな祈りを残らず聖三位一体に取りついでおられる方こそ、聖母マリアさまなのです。

カトリック教会において、聖母は信仰の対象ではなく、崇敬の対象です。

母というとつい「甘えられる人」というイメージを持ちがちな日本人にとって、叡智と慈愛に満ちた母であり、おとめであると同時に、心からの祈りに時に厳しい戒めを与えられる母は「強すぎる」と感じられるかも知れません。

そんな時、三日目にご復活になると言われたイエズスにどうしても会いたくて、深夜の墓地にたたずんだんだ聖母マリアを思い描いてみましょう。

きっと、あなたにとっていちばん懐かしい母が思い描けることでしょう。

 

ご復活の佳き季節に、聖母マリアを通じて祈ることを忘れないようにいたしましょう。

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2018年4月 6日 (金)

神のいつくしみについて

1211 赦すことがまさにその本性である方よ

いつ慈しみ深いイエス、わたしたちを憐れみ、わたしたちを赦すことがまさにその本性である方よ、わたしたちの罪にではなく、あなたの限りない優しさに対して抱いているわたしたちの信頼を目に留めてくださ。わたしたちを皆、あなたのいと憐れみ深い御心の住まいに受け入れ、そこからわたしたちを永遠に抜け出させないでください。あなたを御父と聖霊に一致させるあなたの愛によって、これをこいねがいます。

ああ、神の慈しみの全能よ

罪深い人々の救いよ、

あなたは慈しみと憐れみの大海です。

あなたは謙遜に懇願する人を助けられます。

永遠の父よ、全人類、特に、哀れな罪人たち、イエスのいと憐れみ深い御心に抱かれている万人に、あなたの慈しみ深い眼差しを向けてください。主のいたましい御受難のゆえに、あなたの慈しみをわたしたちにお示しください。それはわたしたちが、あなたの慈しみの全能を世々とこしえにたたえられるようになるためです、アーメン。
(《【聖ファウスチナの日記】わたしの霊魂における神のいつくしみ》聖母の騎士社P470より)

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

ご復活第二主日は、聖ヨハネ・パウロ二世により「神のいつくしみの主日」と呼ばれるようになりました。

↓聖ヨハネパウロ二世と聖ファウスチナ列聖の聖画

20160919_tobe

「聖ファウスチナの日記」には、神のいつくしみに信頼すること、赦しこそ主イエズスの本性であることが繰り返ししるされています。

そこに疑いがある時、わたしたちは心の中で「コイツに気を許してはならない」と感じてしまいます。心理学的に言うところの「防衛本能」です。

特に、未知の事柄、人類の初めの頃からの恐怖の対象である、苦痛、死、蛇や猛禽類、異なる外貌の人々や天変地異、裏切りや加害行為に遭うおそれがあると感じると、この「防衛本能」がわたしたちの心の中で影なき闇の絵模様を描き出してしまいます。

イエズスのいたましいご受難はわたしたちに、まさに苦痛、死そのものを連想させます。

「先日、元俳優の○○さんが…でお亡くなりになりました。享年、X5歳でした…」とテレビなどで往年の名場面とともに放送されると、「えっ…まさかあの人が…?」と、ギクッとすることがあります。あなたがその方のアイドルやスター時代をよく知る人であればなおさら、ショックは大きいでしょう。

「もしかしたら自分にも、死が訪れるのだろうか」と、何となくふと思い、死を受け入れられない恐怖に怯えるからでしょうか。

多分、それほど意識していなくとも死の恐怖は常にあります。イエズスのいたましいご受難を受け入れる「小さな死」は、わたしたちに本質的な赦しをもたらすのだと、神のいつくしみの信心はわたしたちに教えてくれます。

「明日はどうなるのだろうか」とやみくもに怯えること、「明日はどうにかなるさ」となげやりでいい加減な態度になることは、今日いちにちへの無関心の現れであり、ただ単に成り行き任せであることの現れにすぎません。

主のいたましいご受難を受け入れ、「小さな死」を自分のこととして受け入れた人は、自分の弱さ、自分のいのちのはかなさ、無力さをも受け入れられるようになるのです。

自分の弱さと正面からじっくりと向き合うことこそ、「謙遜」の本質です。英語で謙遜をあらわす「humiliate」が実は「侮辱を甘んじて受け入れる、自らを凹ます」という意味であることとも関係があるのです。

「オレが、わたしが…」と自我を主張して凸っぱることの多いわたしやあなたが、自らを主イエズスのいたましいご受難の道をともに生きることを願い、自らを敢えて凹ますことこそが「謙遜」なのです。

自らを敢えて凹ますと損しそうな気がしてしまうのが人の常ですが、主イエズスの赦しといつくしみに心から信頼すれば、人間わざでは叶わない奇跡がおきるでしょう。

それこそが「赦し」です。赦しとは、神の愛そのものを聖霊を通じて直接体験するということです。

同時に神のいつくしみの信心では、御父と聖霊をひとつに結ばれる主イエズスの限りない愛に信頼して、どんな罪人でも心からゆるされるから「祈りなさい」と説きます。

紛争、性犯罪、殺傷、人身売買、米国などでは銃の乱射事件、日本で多発する自死など、いたましい事件が日々数えきれないほど起き、日々、多くの人が傷つけ、傷つけられています。

赦したくともゆるせないことも多々ある現実を知りつつも、聖ファウスチナは、神のいつくしみの信心が現代のわたしたちの心に宿るよう、日記を書きしるし、犠牲と祈りを生涯ささげ続けました。

聖ファウスチナが生きた時代のポーランドは、まさに激動の時代でした。1905年に生まれた聖ファウスチナは、第二共和国の悪夢のような時代から第二次世界大戦直前の時代を生きました。

その時代の様相は、第三次世界大戦の悪夢が現実になるやも知れないように見える、21世紀のいまの世界をも思い起こさせる状況でした。

当時は素朴な信仰に裏づけられた人々が欧米には多かった反面、「わたしという個人」について複雑な認識を持つ必要はいまよりも少なかったでしょう。ローマ教会もより権威的でした。

21世紀のいま、わたしたちは霊性から分厚い壁に隔てられた「個の意識」の中で孤立しており、素朴な信仰から遠ざかっている人も多くなりました。

だからこそ、わたしたちは今日から、神のいつくしみに信頼して祈ることを始めねばなりません。

男女平等による男女の社会参画の在り方、時代の急激な変化についていけない理想と現実認識のギャップを起因とするさまざまな社会問題など、聖ファウスチナが生きた時代と現代の課題は大きく異なります。

それでも、主イエズスの本質が赦しであり、聖三位一体への限りない信頼へと向かうことで、わたしたちが人間わざでは決して成し遂げられない「新しい人に生まれかわる」ことを目指す道にかわりはありません。

どうか、神のいつくしみのチャプレットをお祈りください。

http://shelline-oblate.cocolog-nifty.com/blog/files/Mercy_chaplet.pdf


必ずあなたに神のいつくしみとみ恵みがあります。

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2018年4月 3日 (火)

2018年のハッピーイースター!

(その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、)主はモーセに言われた。「なぜ、私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。

しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしはファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人はわたしが主であることを知るようになる。」

(出エジプト記14:15~18)

ハッピーイースター!

ご復活、おめでとうございます。

お元気ですか。しぇるりんです。(^。^)

復活徹夜祭、または復活の主日のミサ、いかがでしたか?

冒頭の聖句は、復活徹夜祭の第三朗読で読まれる出エジプト記の、映画「十戒」の迫真せまるシーンで有名な部分です。

預言者モーセというと、神に選ばれた人であり、神に従順で、信仰深く、勇猛果敢な指導者、というイメージを抱きがちです。

しかし、実際のモーセは臆病で、正義感は強いけど、でしゃばりで、人目を気にする…わたしたちと同じ弱さを持つ人でもありました。

若き日のモーセは、自らがエジプトの王女の養子なのにエジプト人ではないことを悩み、自らが虐げられているユダヤ人であることを知り、更に悩みます。

その上、ある日とくに虐げられていた一人のユダヤ人を救おうと、激情に駆られたモーセは、ユダヤ人をいたぶるエジプト人を殺してしまいます。

そんなモーセを見た別のユダヤ人は、モーセが神の教えに背く罪を犯した短気をなじります。モーセはてっきり人助をして、褒められると思っていたのにです。

こうして、モーセは殺人という罪の十字架をみずから担い、神を求め、荒れ野に赴くのです。

ファラオと交渉していたあいだ、モーセはどちらかというとエジプト王女の養子という立場とユダヤ人の指導者という立場の間にいた部分がやはりあったのでしょう。

ファラオという敵がもしいなくなったら…それでもユダヤ人をモーセが荒れ野を彷徨ったように、ともにさまよう時に果たして神と人々が望むような指導者になれるのか…?

モーセには迷いがあったのでしょう。

わたしたちはだれでも、何らかの過去への執着、懐かしさ、想い出に誘われがちです。時の流れとともに、その場、その時のイヤな感情は消えやすく、未練は断ちがたいです。

人生とは、決して後戻りができず、後悔が先に立っても過去に犯した罪も、行った善いわざも、二度とおなじにはならないし、すべてが自分の思いどおりになることもありません。

預言者モーセですら、ファラオの地を離れ、見知らぬ荒れ野へと民を導く立場になってなお、主なる神にすべてを委ねてなお、熱烈に祈らざるを得ないほど「明日」への怯えがあったのでしょうか。

「なぜ、私に向かって叫ぶのか」と主はモーセをたしなめます。前に進むにはうしろ髪を引かれてはならない、という意味ではないか、とわたしは感じます。

わたしたちは、四旬節に自らの罪やあやまち、至らなさなどを痛悔し、イエズスのご復活を記念するイースターに備えてきました。

4b396a9e7537c0b0bc3a6c8d2502e3fc 主のいたましい十字架のご受難に怯え、隠れ潜んでいた弟子たちが、主のご復活の栄光に新たにめぐり逢い、新しい明日に向かって前に歩みだした日を、モーセは既にエジプトから脱出する際に実感していたのです。

今年も、復活節はやってきました。四旬節を通してあらたたにされた何かを、これから実際に生き始める時がきたのです。

時はいま、まさに新入学、新入社、転勤、退職など、人生でもっとも大きな転機を迎えた方も大勢いらっしゃるでしょう。

どうか、主イエズスのご復活をあおぎ見た弟子たちが、新しい人生を遠い先のことを思い煩うことなく歩みだしたように、まずは歩みだして見ましょう。

もちろん、無理は禁物です。先ほど「文春オンライン」の記事に「入社した会社がどうにもならないブラック企業だと気づいたら、早めに辞めて、転職しましょう。転職して給与や待遇が改善した人も大勢います。ブラック企業のどうにもならない企業体質に、早めに気づいたからです」と書いてありました。

どうあがいても、人生の道のりは後戻りもできず、前に進むしかないなら、自分が納得できる方向へと進んだ方が自分のためにもなり、周囲の人々のためでもあります。

特に、弱者であればあるほど、より厳格に「正しさ、社会正義」を求められるいまの日本社会の理不尽さの中で生きている方も多いと思います。

「自分から率先して逃げたらいけないのではないか?」と思いつつも「逃げるは卑怯だが、役に立つ」を行動に移さざるを得ない社会的状況もあります。

自分自身から逃げるのは確かに卑怯でしょう。が、時に自分の苦しみの源となるストレス源から逃げなければ心身に深刻な被害が及ぶなら、周囲の人々を傷つけない配慮をおよぶ限りした上で逃げる、もアリでしょう。

「自分」という限られた器の中でできる最善の方法を、心の内に深く思い巡らし、自分にも周囲の人々にも最善の道を模索することが真に「前に進む」ことだと思います。

主はモーセに「前に進むすべ」を授けられました。それは、出エジプト記によれば、イスラエルの民を助け、エジプト人らが主なる神を知るためです。

主の旧約聖書のあかしがいまでも確かなのは、エジプトにはエジプト固有の「コプト・キリスト正教」がいまも熱心に信じられていることにも現れています。

一方、ファラオの信じたエジプトの多神教はピラミッドや宮殿の遺跡やミイラなどの物理的なカタチでのみ残り、当時の多神教は廃絶しました。これは、エジプト人が「死と再生」をとても物理的な意味合いで「ミイラが生きた人間に再生する」と信じたことに関係があるのでしょう。

人の生き方は、その人が思い、信じ、行い、怠った通りの帰結を招くようです。だからこそ、わたしたちキリスト者は、キリストによって死に、キリストによって復活するよろこびを知るよう、毎年、招かれているのです。

いま、あなたの前にはどんな光景がひらけているのでしょうか。新生活でしょうか。それとも、表面的には昨日と何ら変わりない、昨日と同じ風景なのでしょうか。

どちらにせよ、主の十字架を主とともに担うと決めたなら、あなたの前には少しだけ違う輝きがほのかに輝き始めているかもしれません。

人生、おかしいと思うほど変化が少ないように思える時もあれば、波乱万丈の時、激動の時もあります。それぞれのライフステージで、主の十字架と死をともにし、ご復活になられた主に出会えたなら、ほんの少しだけ何かが変わることでしょう。

ご復活の主との出会いは、たとえ目に見えなくとも、自分の中に、自分の行動に、そして周囲の行動の変化に必ず現れます。

エマオの坂を歩く弟子たちは、イエズスに出会ってもそれが誰だかわかりませんでした。ただ、パンを裂き、祝福を唱えた時、それが主であると分かっただけです。そして、弟子たちがイエズスのご復活に出会ったと悟った瞬間に、主は弟子たちの前から姿を消されます。

この弟子たちがご復活になったイエズスに出会ったという証拠は何もありません。ただ、「あの時、わたしたちの心は熱く燃えていたではないか」と言う心証以外に何も残されなかったのです。

わたしたちがご復活の主に出会ったとしても、決してその姿はキリストご自身ではないでしょう。周囲の誰かや、見知らぬ誰か、または友人のひとりかも知れません。

その時、わたし自身の心の中にご復活の主と出会いたいという切なる願いがあるかどうか、がキリスト者として大切なことだと、しぇるりんは思うのです。

どうか、あなたのご復活のキリストとの出会いが、実りある明日へのともし火となり、道しるべとなりますように。

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2018年3月30日 (金)

2018年の四旬節の終わりに

さて、祭りのときに礼拝するためエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベドサイダ出身のフィリポのもとに来て「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。そしてイエスはこうお答えになった。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者はそれを失うが、自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
(ヨハネによる福音書12:20~26)

お元気ですか。しぇるりんです。(^ ^)

↓四旬節に紫の布でご像を覆い隠して主の死を想う

Img_1431

聖週間の中で、もっとも大切なのがこの聖金曜日の礼拝です。

2018年の四旬節を通じて、わたしの心の中にあったのは「一粒の麦…」でした。

すべてのいのちが一粒の麦のように、天地の創造主である神に創られ、農夫が麦のタネをまき、育てるように大切に育てられても、一粒の麦が粉にひかれてしまえば、吹けば飛ぶような、ほんのわずかな小麦粉になってしまいます。

そんな一粒の麦でしかない生命でも、とても大切ないのちだからこそ、「自分の命を愛する者はそれを失う」とイエズスは異邦人であるギリシア人に言われました。

彼らが異邦人だったからでしょうか?

イエズスは、自分の命のはかなさ、空しさをわたしたちが深く知るためには、自分の命への執着から離れなければならない、という意味だとしぇるりんは思います。

自分の命を憎みなさい、とイエズスが言われたのは「自分は…自分は…」という小さな殻に閉じこもった状態の自分自身から脱却するためには、「生きたまま死ぬ」「小さな死」の体験を求めるよう、弟子たちや人々にお勧めになったのです。

四旬節を通して、私たちは小さな死を体験することで、はかないいのちを生きる今日を精一杯生きたい、自分の生命とおなじぐらい他の生命を大切にして生きたいと祈れるよう、主がわたしたちを招いておられるのです。

子どもの頃、一粒の麦はマジで死んでしまわないと多くの実を結ぶ種にはならないのだ、と勘違いしていたことがありました。

いまは、一粒の麦ほど小さなわたしの生命であっても、種麦として主の大地に死に、芽を出して多くの実を結びたいのか、それとも石臼にひかれて僅かな小麦粉として消費されて行くのか、途中で毒麦になってしまうのかは、わたし自身が信仰において選べる道がある、という意味であると改めて知りました。

お若い方々には若い方なりの、働き盛りの方々にはその方々なりの、そして中高年以降の方々にはその方々なりのライフステージ、与えられた環境の中で、死のまぎわまで、主に死に、芽を出し、何らかの実を結ぶ道は残されています。


信仰の実りが世間の脚光を浴びるものなのか、それとも人間には誰にも知られることなく、ただひっそりと神さまだけがご存知の実りになるのか、が神さまにとって違いがあるとは思えません。

世間が理解しようとも、理解しなかろうとも、ご復活の主イエズスが新たな生命を体現する方としてわたしたちにおん自らを現されるご復活の記念を待ちわびつつ、聖週間を過ごしたいと思います。

2018年のイースター前夜祭は3月31日、土曜日の18時~、イースターのミサは4月1日となります。

ご復活の佳き日に、ぜひみなさんカトリック教会のミサを訪れてください。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊協会(統一教)、新天地イエスの証の幕屋聖殿、Apostolic Catholic Church(カトリック使徒教会)は正統派のキリスト教ではありません。「カルト宗教」です。ご注意下さい。

「しぇるりん」になりすまし、他の方のブログにコメントを書き込む事例があるとのご指摘を受けました。私は他のブログに書き込みをしません。また「しぇるりん」を騙るニセブログもあるようですが、このブログの書き手とは別人です。ご注意下さい。


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2018年3月27日 (火)

2018年の聖週間ーイエズスの従順

お元気ですか。しぇるりんです。(^.^)

今年はB年。受難の主日には、マルコによる福音書15:1~39が読まれました。

どうしてか、ヨハネ受難曲、マタイ受難曲を作曲したクラシック作曲家は多いのに、マルコ受難曲というのは「伝承によれば…」という演奏記録などで残っている曲が多いようで、正確な楽譜のある曲はあまりないようです。

J. S. バッハが20代の頃に触れた、同じドイツのオペラ作曲家ラインハルト・カイザー(1674~1739)が作曲したと伝えられるマルコ受難曲と、カイザーの原曲にバッハが手を加えたと言われるものの、バッハ自身の手による楽譜が残っていないマルコ受難曲(復元版)があるようです。


https://www.youtube.com/watch?v=kp5Toc7Arfk

↑貴重なバッハのマルコ受難曲動画

ヨハネによる受難の朗読、マタイによる受難の朗読は、イエズスとポンティオ・ピラトのキレの良い対話の中でご受難の神秘が簡潔に歌い上げられます。

また、聖母マリアとイエズスの眼差しが交わるマリア賛歌が挿入されるのも、ヨハネ、マタイ両受難曲の特徴となります。

YOU TUBEで復刻版バッハのマルコ受難曲を聴いて見ましたが、どうもマタイ受難曲とヨハネ受難曲の有名なフレーズにそっくりの曲想を、バッハ特有の天才的フレーズでつないだような曲に聴こえます。

マルコによる受難の朗読では、ポンティオ・ピラト、ユダヤの民衆、バラバへの恩赦要求、ローマ兵の執拗なまでの拷問、律法学者や祭司長などがイエズスを罵倒する場面を、これでもかと言わんばかりに描写します。

また、受難の朗読の中で唯一、シモンというキレネ人の青年が十字架を担って三度倒れて、鞭打たれても起き上がれなくなったイエズスの代わりに十字架を担った、という場面が出て来ます。

その分、マルコによる受難の朗読でイエズスご自身は多くのことを語られません。

48570e0f19ab9046a16a59557d944748 ただ、「屠り場にひかれて行く子羊のように」淡々とご受難と十字架上での死に至られるイエズスが描かれるのです。


それは、アブラハムが息子イサクを燃え尽くす燔祭として淡々と捧げようとした、あの旧約聖書の場面とも重なります。

作曲家や映画監督がマルコによる福音書を取り上げたがらないのは、おそらくイエズスが直接に十字架のメッセージを伝えるという感じを受けづらいせいかも知れません。

また、執拗に尋問するポンティオ・ピラト、政治的な陰謀を画策する神殿司祭ら、イエズスへのねたみの炎に身を焼かれる律法学者ら…など人類全体の罪の重さを現す人々の言動に過度に目が行ってしまうことを憂慮してのことかも知れません。

現実問題、私たちこそポンティオ・ピラトのように人を裁こうとし、妬みと争いの油にいちどでも火がつくと怒りが全身を嵐のように走るのを止められない弱い存在なのです。


わたしは、マルコによる受難の朗読のメッセージは、自らは怒るに易く、他人を許せないわたしたち自身を見つめ直すよう、呼びかけているように聴こえます。

また、シモンというキレネ人がイエズスの代わりに十字架を背負った…という部分を描写しているのは、イエズスもわたしたちと同じ肉体的な弱さをお持ちだったのだ、ということを敢えて書き記したかったのかな、と感じます。

マルコによる受難の朗読で描かれる主イエズスは、ヨハネやマタイの受難の朗読で描かれた、自らすすんで受難と十字架を受けられる強い神の子ではなく、屠られる子羊のように御父の定められた道を歩む従順な神の子です。

受難と十字架への従順は、人間的に考えたら意味のない苦痛の連続と死の恐怖以外の何ものでもない底なしの不安感の中での従順であり、従順の中の従順と言えましょう。

しかも、受難と死の時にこそ人びとはここぞとばかりに言いたい放題を言い立てます。

マルコによる受難の朗読では、「神の子なら自分を救ってみろ。それもできないなら、神の子なんてうそっぱちさ」などのあざけりの叫びの中で、主イエズスはただ、与えられた末期の酸いぶどう酒に口をつけることなく、息を引きとられます。

そこには、幕屋の幕が真っ二つに裂ける音もなく、天地が鳴動する描写もありません。従順な神の子としてのイエズスのご受難と十字架を描くのに、そういった賑々しい事柄は記さないことを福音記者マルコは選んだでしょう。

マルコによる受難の朗読の内容は地味で、飾り気がまったくと言ってよいほどありませんが、ご降誕の最初からご復活に至るまで、御父である神に従順な主イエズスを描いていると思うのです。

その分、周囲の人々の行いはわたしたちの罪深い日常そのものです。罵倒、妬み、怒り、争い、裁き、弱さにつけこみ、権力者にへつらい、不正を見ても何かを言って自分がとばっちりを喰らうのが怖い臆病者のわたしたちの日常そのものです。

主イエズスのような従順の中の従順を生きることは、人間には困難かも知れません。

そこで福音記者マルコは、敢えて主イエズスの代わりに十字架を担った青年シモンを十字架の道行に加えました。主イエズスも肉体の弱さに勝てずに倒れて起き上がれなくなった時、御子のご受難を完成させるため、御父はみ恵みを与えて下さったとも読めましょう。

わたしたちもいつかは苦しみのうちに、死を迎えるでしょう。苦しみに従順な者として耐え抜いてなお、苦しみの耐えがたさが自分の忍耐力を超えそうになった時、従順に信じる者には、必ずいつくしみとみ恵みを下さるとマルコによる受難の朗読を通して約束してくださいました。

大切なのは、わたしたちが「主よ、これ以上は耐えられません」と感じた時、主イエズスがくださる恵みのパンにわたしたちが喜びを感じられるだけの信仰を生きているか、にかかっています。

死への恐怖は、底なしの不安を募らせます。私とて、それほどの恐怖に人間的な思いだけで耐えられるとはとても思えません。

だからこそ、死のその日に「ああ、あんなに空が美しく、山がうるわしい」と仰ぎ見られる信仰を持てるようになりたいと、日々願っています。

どうか、あなたの聖週間が主イエズスとの密なる出会いの時となりますように。


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2018年3月23日 (金)

イエス・キリストがもたらす新しい関係

87 人間のコミュニケーションのネットワークと手段がかつてない発展を遂げた今日、わたしたちは「神秘的なもの」を見付け、それを伝える必要を感じています。それは、ともに生きる神秘、混ざり合う神秘、出会う神秘、腕に抱える神秘、支え合う神秘、いくらか混沌とした潮流に加わる神秘です。

この潮流は、兄弟愛の真の体験や、連帯の一団、聖なる巡礼になりうるものです。このようにコミュニケーションの可能性が増えたということは、すべての人の間で出会いと連帯の可能性が増えたということです。

この道を歩むことができるなら、それはわたしたちにとってとてもよいこと、深くいやされること、完全に解放されること、大いなる希望を生むことになるでしょう。

他の人と結ばれるため、自分自身を出て行くことはとてもよいことです。自己に閉じこもることは内在性の苦い毒を口にすることであり、自己中心的な選択が行われるたびに人類は悪くなっていくのです。

(教皇フランシスコの使徒的勧告《福音の喜び》89)

お元気ですか。しぇりるんです。(^ ^)

↓世界の児童合唱団員と握手する教皇フランシスコ

Afp4835464_articolo いま、このブログを読んでいるあなたは、もしかしたら以前の私のように、引きこもった状態で、外に出られないでいる方なのかも知れないと思うことがあります。

フランスの飛行士であり作家が書いた、サン・テグジュベリの作品に「星の王子さま」という有名な小作品があります。飛行士が小さな少年と出会い、小さな少年は奇妙な人びとと出会い、彼の愛したたった一つだと思っていたバラの花が地球にはありふれたものだと知っては落胆し、最後に「自分の身体を置いて」小さな星に帰ってしまう、というストーリだったと記憶しています。

星の王子さまはバラの花とけんかをするまで、小さな星から一歩も出ようとしないことが、あの本を読んだ中学生だった私にはとても印象的でした。

星の王子さまはきっと、小さな星から宇宙を見上げ、この星の外に何があるのか知りたいと思っていたでしょう。でも、外の世界からやって来た美しいバラの花とけんかするまで、外に世界に出て、出会った誰かと葛藤を経験することが死ぬよりも恐ろしいと感じていたのだと感じました。

わたしたちはいま、インターネットで世界中の人びとといつでも、どこでも手軽に知り合えるツールを用いて生きています。

と、同時に図書館に行って資料を探し、友人を訪ね歩くなどの「リア充」な行動を起こさなくとも、他の人々と話し合える時代になりました。

もし、インターネットが「ともに生きる神秘、混ざり合う神秘、出会う神秘、腕に抱える神秘、支え合う神秘」など、リアルな行動への気持ちの準備、心やたましいの成長に役立つなら、気持ちが外に出られるようになるでしょう。


リアルに家から出られないまま数年を過ごした引きこもり経験者は、「靴を足を入れただけで痛みを感じた」ほどのショックを乗り越えつつ、少しずつ社会復帰したと言われたました。自分の殻の外に出るには必ず痛みを伴うのです。


スマホやSNSが当たり前になった今の時代、わたしたちはひとと会い、互いに顔と顔を合わせて向き合うこと、リアルに対話をすることに不慣れになって行く自分を感じている人が増えています。

何となく空気は読めるけど、コミュニケーションの経験に乏しい人びとが増えているのです。

コミュニケーション障害で苦しんで来たしぇるりんに言えるのは、コミュニケーションはある程度は習得可能なスキルだということです。

挨拶をする、相手の話に心から耳を傾けて聴く、自分が納得できないこと、分からないことは相手に言葉で尋ねる、相手が何をしたいのかを知り、自分に出来ることと出来ないことを判別する…など、コミュニケーションの基本をしっかり出来るように自分をトレーニングすることは、だれにでも出来るのです。

自分から積極的に求めて行くなら、コミュニケーションのトレーニングを積むことは、ある程度はスキルで可能なのです。

教会で出会う誰かと話しをする、無難そうな誰かと世間話をするなど、コミュニケーションのトレーニングをするチャンスは探せば見つかると思うのです。

問題は、人との出会いがあまりなかったり、出会った誰かとあまりにも深く共依存関係に陥って、別の誰かを排除しないと落ち着かないこともあるでしょう。

また、職場や学校のように、明らかに疎遠な仲なのに距離的に近くに居て、長時間を共に過ごさなければならない関係の中で人と居ることが疲れると感じる経験を積み重ねすぎたことで、人間嫌いになってしまったのかも知れません。


21世紀の特徴として、「孤立する貧しさ」があげられます。


20世紀までの社会では、経済的な困窮が必ず人的出会いの困窮、すなわち孤立化につながらないことも多々ありました。困窮者こそ、肩を寄せ合い、互いに助け合いながら暮らし、それが人的資源の豊かさともなった時代が実際にあったのです。

21世紀になり、孤立という貧しさが、経済力の有無に関係なく人びとを覆いつつあります。

人と会う時間がない、何の目的もなくただ人と触れ合う機会がない、用事がないと話さないなど…理由づけはいろいろですが、他の人とリアルに話し合う機会が激減しました。


結果として、自分と仕事や用事で接点のある人と、接点のある時以外は「自分とは縁のない人として接する」ことに慣れてしまうのです。

こうなると、自分の殻の外に一歩たりとも踏み出すまい、と硬く決意した人をまっしぐらに目指してしまう傾向があります。

「誰かが自分の殻を破ってくれるまで、自分からは出てやらないぞ!」と奇妙な意地っ張り状態を守ろうとします。

星の王子さまのように、空からバラの花の種が降ってくることはあるかも知れません。その相手が、自分の思い描いたような人間でないと知ると、落胆する人も多いようです。

思い出してください。星の王子さまは、バラの花とけんかすることで、彼の小さな星から地上に旅に出たのです。

つまり、人と出会うことで落胆し、葛藤するほどに自分自身を覆うぶ厚い殻に傷がつかなければ、内側から自分の殻を打ち破れないことも多いということです。

教皇フランシスコは「他の人と結ばれるため、自分自身を出て行くことはとてもよいことです」と言われ、自己の内在性にこもり過ぎることの毒について指摘しておられます。

既に孤立という殻の中に籠ってしまった状態にある時、自分自身の内向きの傾向をより外交的に、外面良くする方に向かうことだけが正解とは限りません。

もともと内向きな傾向の強い人は、内側に向かって殻を破ろうと突き進むと、「内気」という病巣が徐々に明白になります。

「内気」は、自身の内側にあるものを外に表現することを恐れ、不安に感じる、一種の霊的なやまいでもあります。

「内気」を治すには、根気よく、謙虚に自身の内気と付き合うことです。内気が治ると、内向的な性格であっても、自分なりにコミュニケーションに必要な言葉はサッと出てくるようになります。

誰とでも、どこでも仲良くなる必要などないし、友だち100人と上手に付き合えるようになる必要などありません。

むしろ、ほんの数人でもいいけど心から自分の殻を破って出ても安心な人と出会うことが大切だと思うのです。

孤立化は、今や社会的現象であり、社会問題であって、20世紀初頭に考えたような哲学的な命題ではありません。

自分の殻を、自分で破るにも時があります。だからこそ、英国のように孤立担当大臣を作り、社会支援をするにしても、本人が心にまとう鎧を誰かが無理やり引き剥がすことはできないでしょう。

類は友を呼ぶ、とも言います。自分の心が主キリストに向かってまっすぐであり、心からの愛に満ちていれば、心からの愛を分かち合える人といつか出会えるでしょう。

その時がいつ、どのように、と思いわずらい不安に思うことより、明日は主がよき計らいを下さると信じて、今日をせいいっぱい生きることが大切だとしぇるりんは思うのです。

霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)とは、聖書(主に福音書)などを音読し、その中の「ちょっと気になる一句」に心を留めて、祈りのうちに神さまを思い、その一句を通して神さまと語り合うことを指します。ブログ中の聖書の解釈に関する内容は、しぇるりん個人の感想です。聖句そのものと、地理、人間関係などの事実関係は、特別な記載がないものは、日本聖書協会2008年版≪新共同訳 新旧約聖書続編つき≫の解説部分に依拠しています。詳しくは、日本聖書協会発行の≪新共同訳 新約聖書≫≪新共同訳 聖書≫をご参照ください。なお、ミサの朗読福音は、カトリック中央協議会発行の《毎日のミサ》によります。

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